世間では、際限無く終末預言について騒がれています。1999年には、ノストラダムスの預言で、7月に恐怖の大王が来るという予言は、見事にはずれました。これだけはずれると、「世の終わりなんてない。」と考える方もいらっしゃるでしょう。
けれども、世の終わりは来ます。いつ、何時という形ではなく、実際、その前兆を目の当たりにしているのです。今から約二千年前、イエス・キリストは、世の終わりについて次の要点で語られました。新約聖書のマルコによる福音書13章から引用します。
1.政治・経済がグローバル化されて、崩壊する。
「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。(8節)」
この「国」とは、複数の諸国からなる連合国であり世界戦争を指しています。今世紀初めに、二つの世界大戦がありました。また、ききんは経済的不均衡によって世界中で起こっています。そして、日本は戦後最長の不況を経験しています。
2.家族が崩壊する。
「また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。(12節)」
最近、子供の親への反抗の性質が変わりました。親をまるで垢の他人のように見る子供が増えています。家族の間に当然あるべき、自然の結びつきが失われつつあるのです。
3.イスラエルの建国
「『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。(14節)」
この「ユダヤ」とは、イスラエル国南部の地域のことです。ユダヤ人は、紀元70年にローマ帝国によって、土地を奪われ世界中に離散しました。文化人類学者はみな、祖国を失った民族は、数世代後に、民族としてのアイデンティティーを失うことを認めています。しかし、聖書には、終わりの時に、ユダヤ人は世界に散らばっても再び集められる、と預言していています。そして、1948年5月、イスラエルが建国されたのです。新聞にイスラエルの記事がほとんど毎日のように掲載されていますが、これは、まぎれもなく聖書預言の成就なのです。
4.偽りの宗教がはびこる。
「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。(22節)」
さまざなな超自然的なことを行ない、人々を惑わす教祖たちが現われることを、イエスは預言されました。これは、まさに今起こっていることです。超能力、占い、チャネリング、自己啓発など、私たちの周りに、超自然的現象を売り物にした宗教があふれかえっています。
5.天変地異とイエス・キリストの再臨
「その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人々は、人の子(イエス・キリスト)が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。(24−26節)」
みなさんは恐竜がなぜ絶滅したかをご存知でしょうか。また、一部のマンモスはお腹に食べ物がある状態で化石になっているのはどうお考えになりますか。これらを説明するのに、過去に大規模な地殻変動、洪水などが起こったと考えられます。地球は、このような天変地異を何回か経験しており、世の終わりにそれが再び起こること、そして、最後にイエス・キリストが天から地上に来られて、神の国を立てられることが預言されています。
救われる方法はあるのでしょうか?
ちまたではやっている予言は、私たちを恐怖に駆り立てますが、聖書が語る預言は、まったく逆です。希望と慰めに満ちています。イエスは、「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(マルコの福音書13章31節)」と言われました。イエス・キリストに信頼する人は、決して滅びることなく、永遠のいのちを持つと約束されているのです。世の中はどんどん悪くなっています。そこで、私たちは、生命保険に入ったり、家族にすがってみたり、占いや宗教をやってみることで気休めを求めますが、それすら、揺れ動いて頼りにならないのです。けれども、イエスは、何によっても揺るがされることのない堅固な岩です。
イエスは言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネの福音書11章25節)」イエスは、そのことばどおり、よみがえられました。また、イエスを信じる者もよみがえることができる希望を与えられました。それゆえ、どんどん暗くなる世の中で生きていても、光として輝くことができるのです。
イエスさまを信じ、受け入れたい方は、次のように祈りをしてみてください。
主イエスさま、私は罪人です。あなたが私のために死んでくださったことを信じます。今、自分の罪を悔い改めて、あなたに近づきます。あなたを、私の生涯の主、救い主として受け入れます。私を救ってくださり、ありがとうございます。