旧約と新約の神 2002/07/24
先日、掲示板において、ある方が、未信者の人から、次のような質問を受けたことを書き込んでくださいました。
「旧約聖書に描かれている神は、新約聖書に描かれている神とは違い、厳しく、復讐をする神のようである。新約聖書の神は、旧約聖書の神と違うのか。」
これはとても良い質問です。というか、頻繁に未信者の人から挙げられる質問です。けれども、聖書をもっと注意深く読むと、そうではないことに気づきます。
旧約のあわれみと、新約の厳しさ
第一に、旧約聖書には、あわれみ深い神が、たくさん描かれています。ダニエル書9章9節には、こうあります。「あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。」哀歌3章22節です。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」本当にそうですね。私たちがまだここにいるのは、主のあわれみによります。そのため、私たちが滅びうせることはなく、主のあわれみは尽きません。詩篇116篇5節です。「主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。」うれしくありませんか。民数記14章18節です。「主は、忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方。<新共同訳>」申命記4章31節です。「あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。」ネヘミヤ記9章31節です。「しかし、あなたは大いなるあわれみをかけて、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らを捨てられませんでした。あなたは、情け深く、あわれみ深い神であられますから。」
また、主は、ご自分の御名を紹介されるときに、こう言われました。「主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともに立って、ヤハウェの名によって宣言された。ヤハウェは彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。『ヤハウェ、ヤハウェ、エロヒム』」つまり、主なる神は、「あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富む。(以上、出エジプト34:5−6参照)」御名は、その本質を表します。主の本質は、あわれみ深く、情け深く、怒るにおそく、恵みとまことに富みます。
このように、旧約聖書には神のあわれみといつくしみがたくさん書かれており、実は、あわれみや恵みについて書かれている個所は、新約聖書よりも旧約聖書のほうが多いのです。
そして第二に、新約聖書において、神のさばきや怒りについて書かれている個所は、非常に多いことが挙げられます。イエスさまは、天国の至福よりも、永遠の火の池の恐ろしさについて、より多く語られました。私たちがこの地上で経験するどんな痛みや苦しみとも比較にならないほど恐ろしい、最も悲惨な経験であることを教えられました。「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイ5:29−30)」パウロも、神のさばきについてこう語っています。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神のさばきを啓示しています。(ローマ1:18参照)」そして、黙示録では、6章から18章までには、地に下る神のさばきがあります。この将来のさばきは、過去に人が経験した中でのものと全く同じ、いや、さらにひどいものです。そして、ヘブル人への手紙10章には、旧約におけるさばきよりも、新約におけるさばきのほうがひどいことが、はっきりと述べられています。「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。私たちは、『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。』、また、『主がその民をさばかれる。』と言われる方を知っています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(ヘブル10:28−31)」
したがって、旧約の神のほうが新約の神より厳しいというのは、誤解であることが分かります。
古い契約から新しい契約へ
けれども、それでも旧約時代における神さまの働きと、新約時代のそれとは異なるように見えますね。それはその通りであり、モーセを通してシナイ山にて神が与えられた契約と、エレミヤによって預言された、神の新しい契約には、大きな差があります。
旧約における神の働きを知るのに、いくつかの鍵となる聖書個所があります。
「私はパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なう。・・・わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。(出エジプト7:3,5)」
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネ5:39)」
「食べ物や飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。(コロサイ2:16)」
などです。
神さまは、私たちに永遠の救いの計画を持っておられました。それは、御子によって、私たちを神の子どもにするという計画です。その計画のために、神は前もって、キリストによるご自分の救いのみわざがどのようなものかを、予め示してくださいました。それが、イスラエルを通しての、神の不思議としるしをもとなうわざでありました。エジプトが災いを受けて、過越の子羊の血によってイスラエルが救い出されたのは、主が流される血潮によって、神の怒りを免れることができることを、前もって知らせるためでした。
罪が赦されるとか、救われるということは、目には見えない霊的な真理ですが、けれども、神は、視聴覚室であるかのように、イスラエルをとおして、その霊的真理を目で見ることができるように、その模型をお与えになったのです。
ですから、旧約に起こった出来事は、人々がどんどん打たれて死んでいくとか、実にリアルであり、とても恐ろしいように感じるでしょうが、それは、神の正しさが目で見えるようなかたちで、現われていたに過ぎません。神の義を受け入れない人は、この新約の時代に、旧約時代にさばかれた人以上に厳しいさばきが、死後、あるいは大患難時代のときに与えられます。
その証拠に、旧約時代において、人が死んだ後に地獄に投げ込まれることは、明らかにされていません。すべての人が、「黄泉(よみ)」と呼ばれる、神のさばきを待つための中間的な場所に入れられました。また反対に、「天」という言葉はたくさん出てきますが、神の御座があるところの天に、聖徒たちが入っているという記述はありません。それは今から説明する「神の贖い」が、旧約時代には完全にされていなかったことによります。
キリストに導くための律法
旧約時代における神の働きが、後に来られるキリストを現わすものであれば、その働きは、あくまでも模型であって、実体ではないことが分かります。例えば、イスラエルの人が、動物のいけにえの頭に手を置いて、自分の罪の告白をしても、それで自分のうちにある罪が取り除かれることはありませんでした。彼らは信仰をもって、後に来られるキリストと、その罪の贖いを待ち望まなければならなかったのです。
イスラエルは、モーセによって契約が与えられたそのすぐ後から、契約を守り行なうことができず、そのため呪いがもたらされることが予告されていました。モーセによって預言されたイスラエルの歴史は、祝福ではなく、神のさばきであり、イスラエルが律法の行ないによって生きることができないことが描かれています。
イスラエルがもう取り返しがつかないほど堕落して、間もなくバビロンに捕え移されることが定められていたとき、主はエレミヤをとおして、新しい契約を約束されました。「見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。・・主の御告げ。・・彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。(エレミヤ31:31−34)」
イスラエルが、自分たちで神の律法を守り行なうことができないことが、あかしされました。彼らは、動物のいけにえや祈りなど、儀式的なことはいよいよ盛んに、神に対して行ないましたが、しかし彼らの行ないは、ますます邪悪になるばかりだったのです。そこで神は、全焼のいけにえは見たくもない、祈りは飽きた、あなたがたが行なうべきことは、へりくだって、義を行なうことではないか、と何回も何回も預言者をとおしてお語りになったのです。
そこで神は、新しい契約をイスラエルに与えられることを約束なさいました。それは、イスラエルが神に従順であることによって祝福がもたらされるのではなく、神がご自分のうちで、罪の問題を処理されることによって、神が一方的に祝福を与えるようにされたのです。キリストが十字架の上で血を流されたことによって、神はキリストによって、私たちを見て、キリストの義を私たちに身につけさせ、それで私たちを見てくださるので、私たちは、自分の行ないに関係なく、祝福が与えられるようになりました。
旧約においては、罪は覆われることはあったものの、取り除かれることはありませんでしたが、新約において、キリストの血によって罪は取り除かれて、完全なきよめが与えられたのです。また、キリストがご自分の血を神の御座にたずさえなさったので、天の中に、聖徒たちが入ることができるようになりました。そのため、新約時代において、天の御座に聖徒たちが大胆に近づくことができるようになり、また死んだら、黄泉ではなく天国に入ることができるようになりました。
永遠の罪の赦しと、永遠のさばき
そこで与えられる罪の赦しは、完全なものであり、永遠のものであります。神は、人には善がなく、悪いことしか行なわず、救いようのない存在であることを、イスラエルをとおして明らかにされ、そこで究極の救いを与えられたのですから、キリストによる救いは、途中で無効になったり力を失ったりするものではなく、永遠に続くものです。
と同時に、神が究極の救いを与えられたのですから、この最後のチャンスを自ら逃すのであれば、罪の赦しは残されていません。そこには、先ほど引用したヘブル書10章のことばのように、神の恐ろしいさばきしか残されていません。新しい契約によって、永遠の罪の赦しが与えられたのですが、同じように、永遠の滅びも、罪の刈り取りとして被るのです。
したがって、新約聖書で宣べ伝えられている「福音」は、ものすごく恵みに富んだ、都合の良い、調子良い、神の申し出であると同時に、神が与えておられる最後のチャンスなのです。「恵み」と「切迫性」が共存するのが福音であり、パウロはこれを、「今は恵みの時、今は救いの日です。(2コリント6:2)」と言いました。
悪魔が植えつけるイメージ
多くの人が、神がひどい方であり、不公平であり、理不尽で、ひどく厳しい存在であると見ています。しかし、それは、人間が勝手に描いているイメージを神に押し付けているにしか過ぎません。むしろ、そうした姿は、創世記において、悪魔がエバに植え付けたイメージであり、それは偽りであったことが分かります。そうすることによって、悪魔は躍起になって、人が神に近づくのを妨げようとしているのです。
神は正しい方であり、不義や不正を罰しなければいけない方ですが、同時に、その罪ある者たちを赦し、あわれむのに早い方であります。ですから、神のあわれみにすがってください。自分の罪を悔い改めて、キリストの十字架のところに走りよってください。自分の行ないを改めるのではなく、そのありのままの姿で来てください。神はあなたの罪を赦し、新しく造り変えてくださいます。
(参照エッセイ:「ヘブル人への手紙」「あなたは、どこにいるのか」「モーセと聖霊」
チャック・スミスの聖霊シリーズ「あわれみの賜物」)
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