キリスト者の倫理 2011/8/28
1.倫理規範の定め方
2.性についての教え
3.偶像礼拝についての教え
4.酒についての教え
5.言葉による汚れ
6.倫理規範ではない事柄
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。(士師記21:25)」
先週、教会の聖書通読の学びは士師記を負え、今週ルツ記に入りました。士師記は、「めいめいが自分の目に正しいと思われること」を行ったために、混乱と混沌の社会に陥りましたが、ルツ記は神の律法の中に自らを投じるルツと、律法の中に生きるベツレヘム人がいたので、そこには麗しい贖いの物語と平和があります。
今、私が強く感じているのは、文化や社会の中で許容されていることが、聖書の中ではそうではないと言われているのに、教会までが容認しているためにクリスチャンの中で本来ならば一致していなければおかしい意見が分かれて混乱しているのではないか、ということです。それによって、本来、ルツ記にあるように、平和で麗しい愛の交わりがあってしかるべきなのに、士師記のように互いが表面的につながっているだけで、心からの交わりがない、孤立した状態になっていることがあると見ています。
キリスト者は、いったい何を基準にして生きていけばよいのでしょうか?
愛の律法
一つ目は、キリスト者は「これをしなければいけない」「これをしてはいけない」という規則によって生きていない、ということが言えます。神との関係は、律法の行ないによるのではなく、キリストが自分の罪の代わりに死なれたという愛に基づくものです。神がまず愛されたから、神を愛します。そして神を愛しているから、神に命じられたことを行いたいと願います。そして聖霊がその命令を行なうことができるように助けてくださいます。
このことを、新約聖書では「愛の律法」と呼びます。「「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(ローマ13:9-10)」愛しているならば、自ずと隣人に危害を加えません。「殺すな」という規則があるから殺さないのではなく、神に愛され、その愛に満たされていれば、相手が、キリストが死なれたほど大切な人であることを知っています。ゆえに危害を加えないのです。他の人たちも危害を加えない人は多いと思いますが、キリスト者はその動機が変わります。神の証人になること、神の愛に満たされていることが特徴です。
パウロは福音宣教の働きにおいて、すべての人を獲得するために全ての人になった、と入っていますが、律法を持たぬ人に対してこう注意書きを挿入しています。「律法を持たない人々に対しては、・・私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、・・律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。(1コリント9:21)」「これこれをしてはいけない」という律法から解放されていますが、愛の律法の中には束縛されている者なのです。
そしてパウロは、大胆にもこれらの規則からキリスト者は全く自由にされていることを話しています。「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。(1コリント6:12)」「何をしてよいか、悪いか」の基準ではなくなりました。その代わりに、「何をしたら益になるのか」「何をしたらキリスト者の自由を保つことができるのか」という基準に代わりました。
前者は、ちょうど競走選手に似ています。長靴を履いて出場しても規則違反ではないかもしれませんが、だれも履く人はいません。賞を得たいからです。キリスト者も、主から与えられる賞を目指しているので、規則違反ではなくても、キリストを愛する愛のゆえに自らを節制するのです。そして後者の自由を保つためには、一度行なえばその奴隷になってしまうのが分かっていれば、それを避けます。
したがって、キリスト者は規則によって決められたこと以上を、愛の動機によって成し遂げることができます。例えば什一献金があります。旧約では十分の一の捧げ物が命じられていましたが、キリスト者の間に、それを新約時代の自分たちに当てはめればよいかどうか議論があります。けれども「喜んで捧げる人を神が愛される」とありますが、それは十分の一以下の話をしているのではなく、むしろ十分の一以上の捧げ物を、誰にも強いられることなく喜んで捧げる、という意味合いを持っているのです。実にマケドニヤの兄弟たちは、極貧だったのに能力以上を捧げたと使徒パウロは言いました。このように「愛」には、自分を捧げ抜くだけの力があります。
二つ目は、御霊によって新しく生まれ神の国の市民になっているのであれば、決して行なってはならない(行なっても、その罪を悔い改め、離れようとする)事柄があることを教えています。
「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6:9-10)」
「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。(ガラテヤ5:19-21)」
その他、エペソ5章3-6節、コロサイ3章5-9節、1テサロニケ4章3-6節、1テモテ1章9-11節にも書かれています。共通して、同じような行ないを列挙しています。異邦人への宣教が進んでいった中で、異邦人社会の中では当たり前に行われていた、文化的にさえなっていた事柄は、御国に入る者たちの生き方とは全く相容れないものであることを、使徒たちは何度も強調しました。したがって、「すべてのことが許されている」という言葉を乱用して、上の行ないを罪責感なしに行なっているのでは、その人は御国に入るための御霊の新生を受けていない、と疑って十分であります。
初めに見るべき使徒書簡
しばしば私たちプロテスタントの人たちは「聖書信仰」という言葉を使い、言い伝え(伝統)を嫌います。しかし実は、聖書を信じるという行為そのものが言い伝えを守ることです(1コリント9:2参照)。教会は、直接的に、具体的に、使徒たちの言い伝えを守っています。キリストを土台とし、そして使徒たちの上に建て上げられた神の家に住んでいます。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。(エペソ2:20)」「そして彼らは、使徒の教えを堅く守り・・・(使徒2:42)」
したがって、信仰生活と教会生活の規範として最も具体的に、直接的に適用できるのは、使徒たちの教会への手紙です。とくに異邦人社会の中で生きていたキリスト教会に対して使徒が語った上の言葉は、私たちに直接関わってくるものです。
教会宛てに書き記された福音書
その使徒たちの教えは、もちろん信仰の対象であるイエス・キリストご自身の教えから来ています。主が使徒たちに、「わたしの命じることをすべて守り行なうように命じなさい。」と命じられました。この方の生涯を描いているのが福音書ですが、福音書を正しく読むためには、イエスが直接教え、その復活を目撃し、その使徒に権威を与え、また御霊の啓示を与えられた使徒たちの手紙をふまえて解き明かしていく必要があります。
例えば、「イエス・キリストを信じて、愛の行いをしていくからこそ、天国に入ることができるのではないか。」と言った人がいました。私は、「愛の行いはあくまでも結果です。救いに必要なのは信仰だけです。」と答えました。その方は、「けれども、『主よ、主よ。』という者すべてが、天に入るわけではない、と言っていますよね。」と聞かれました。私は、「その「主よ」という呼びかけを、心から行なって、受け入れた人であれば、神の御霊がその人に与えられて、愛が与えられて、行ないとして現れる。良い行いでさえも、神が予め備えておられる。」と答えました。
主ご自身が語られているのは、真剣にその耳をすまして聞かなければなりませんが、そこで聞いているのは旧約に記されているメシヤを待ち望んでいたユダヤ人であり、すでにメシヤが来られて、死んでよみがえられたことを知っている教会は、使徒たちが教えている中で、主ご自身の言葉がどのような意味合いを持つのかを意識しながら聞いていくのです。
そして同じように、黙示録も教会宛てに書かれています。七つの教会に対して書かれたのであり、ここはイエス・キリストが完全に啓示されるところの書物になっています。
旧約聖書の教え
では、旧約聖書をどのように受け取ればよいのでしょうか?第一に、旧約聖書はイエス・キリストによって成就したことを知るべきです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)」成就した、というのは、第一に、律法の要求するところの、違反した場合の死刑をこの方が受けられた、ということがあります。第二に、この方ご自身が律法の実体である、ということです。
第一の成就は、もちろんキリストの十字架によって実現しました。律法の呪いをそこで受け取ってくださいました。第二の成就は、例えば主は、らい病人に対して「祭司にきよめられた体を見せなさい。」と言われました。律法は、らい病が清められた場合についての儀式は教えていますが、らい病の清めそのものを教えていませんでした。この律法を実体化するには癒しが必要ですが、主がそれを行なわれました。
その他、キリストを指し示す型や陰が律法には数多くあります。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。(コロサイ2:16-17)」(ヘブル8:5も参照、幕屋もすべて天とキリストを表す。)また、イエス様はこうも言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネ5:39)」旧約聖書全体が、イエス・キリストを証言する書物なのです。
第二に、律法はキリストの十字架に人を導くためのものであります。「信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。(ガラテヤ3:23-24)」律法を守り行なうことによって義とされるのではなく、むしろ律法によって死ぬべき罪人であることを示されるのです。「すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。 (1テモテ1:10)」
第三に、律法は神の聖と義の現れであり、私たちが自分の信じておられる方を律法にある聖さや正しさによって知ることができます。「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。(ローマ7:12)」したがって、私たちがキリストの十字架を信じて、罪赦された者であっても、聖なる神との交わりを保つために、この方を知るために律法を読むことは有益であります。
以上、キリスト者の倫理規範を定める順番は、まず使徒の手紙があり、そして使徒たちが手紙の中で説明している元になっている福音書があり、それから福音書の背景となっている旧約聖書、となります。
(参考情報:FIRESTORM UPDATE: RESPONDING TO READERS' QUESTIONS ON GAY MARRIAGE VS.
BIBLICAL MARRIAGE)
使徒パウロが、いくつかの手紙において、神の国を受け継ぐことのできない行為として筆頭に挙げているのが「性的な汚れ」です。「不品行」「姦淫」「好色」「男色」「男娼」という言葉で使われています。
聖書が律法から一貫して語っているのが、性についての教えです。初めに、神が男を造られ、男から女を造られました。そして後に、旧約時代には一夫多妻制も許容され、それに関する掟も出て来ますが、それは福音書によって、イエス様が創世記のアダムとエバの結婚制度を前面に出した時点で、廃止されています。そして使徒の働きにおいて、「男と女の結びつき」つまり結婚が、性について神の与えておられる唯一の制度であることを明らかにしています。それから外れる行為はすべて御心に反す
ですから、文化的に許容されているとしても、その他の行いはみな、「不品行」などの性的罪の中に入ります。
女性の服装
「不品行」として、今日の社会にある問題ではもちろん「ポルノ」があります。この社会的問題については、ここで説明するまでもないでしょう。問題にしたいのは、それが教会の中にどこまで浸透しているか、であります。統計では、かなりの割合でインターネットを通してポルノ画像や映像を恒常的に見ている教会の人々(牧師たちも含めて)がいます。これは深刻です。何とかして、この罪に対抗できる福音が教会に中に根づくことを願ってやみません。
次に、文化的側面について考えてみたいと思います。これは主に、女性が配慮しなければいけない問題です。パウロは、コリントにある教会に対して、女性は頭に被り物を身につけるべきであると教えました。なぜなら、当時コリントの町では、被り物をしていなければ娼婦と間違えられても仕方がなかったのです。そして女性に対する使徒の教えは、「飾り物のようなものではなく、内の美しさを求めなさい」というものでした。
これは、女性が着飾ってはいけない、という話ではありません。教会が教会として美しく輝くその秘訣は、女性に与えられた神の美を輝かすことであり、それは内なる美であるということです。そして、配慮しなければいけないのは、世間で流行になっている服装が娼婦とまで行かなくとも、確実に性的魅力を引き出すものになっている、ということです。流行にも波がありますから、ある時は肌を隠すものが流行りますが、他の時は肌を見せる、また魅惑的なものにしていきます。これは、女性解放の考えをもって被り物をしなかった女性に対してパウロがそれを戒めたのと同じです。「これを着たら可愛らしい」という基準だけではなく、神の教会に与えられた女性の役割をわきまえ、また男性のつまずきとならない配慮が必要になります。
そして、また別の面の配慮が必要になります。今度はイエス様の福音書に移ります。主は、遊女がご自分の足に口づけをして、香油を塗るのを拒まれませんでした。罪人と食事をしているというそしりも受けられました。教会に、信仰を持っていない女性、また信仰を持ってもまだ間もない女性がそのような格好をしていても、主がおられるところでは受け入れられているという確信が与えられるはずです。
これらは「服装の規則」ではなく、むしろ「愛の律法」に基づくものです。例えば、ミニスカートをはいているから罪なのではないのです。ミニスカートをはいていて、兄弟が礼拝に集中するのを妨げていたら、それが罪になりえます。世に出たら、膨大な量の誘惑にさらされている兄弟たちの戦いと弱さを、愛のゆえにわきまえて、穏やかな服装にするというのが教会の秩序になります。
婚前交渉
婚前交渉について、どうでしょうか?これも原則は同じで、「男と女が一心同体となる」結婚より前に結びつきを持つのですから、神の御心に反することです。そして、その教えの背景をより深く知るために、モーセの律法を読みますと、そこには婚前交渉した場合においての掟があります。「即、その女を娶らなければいけない」というものです(申命記22:16)。律法を読んでいくなかで明らかになってくるのは、「肉体的な結びつき=結婚」ということです。
今日は、肉体関係と社会的結びつきを伴う結婚関係を離して考えていますが、聖書にはそのような考えは存在しないのです。以前、「試してみないと、分からないではないか」という話を聞きました。いいえ、真実は、「試したら、もう分からなくなる」のです。肉体で起こっていることは、魂と霊に密接に影響します。そして実は、肉体的にも大きな損失を被ります。主は、その男女関係を完成段階として婚姻直後の初夜に置いておられ、これまで純潔を保っていたからこそ性の悦びを最高潮に楽しめるように造ってくださいました。
なぜなら、男と女を造られたのは、エペソ5章によりますと、キリストと教会を表しているからです。教会が花嫁として主が戻ってこられるのを待っています。そして主と対面するのですが、その時の喜びが、結婚式の中に反映されているのです。この麗しい型を婚前交渉はぶち壊してしまいます。
同棲
同棲はどうでしょうか?これの根本的問題は、「責任を伴わない」ということであります。たとえ同じ屋根の下で暮らしていても、どこかで逃げ道を作っていることになります。離婚をせずに別れることができるという余地によって、真の男女の結びつきを実現できないというジレンマが生じています。
次のブログ記事が参考になります。「同棲が良くない理由」
今、流行りの哲学は「心で思ってさえいれば、形式は拘らなくて良いではないか。」というものです。そしてイエス様の言葉を引用して、「形に拘るから、形式主義、律法主義に陥るのだ。」と言います。そしてイエス様の、「外側ではなく心で」に関する御言葉を引用するのです。これは履き違えであり、真実は「行いが伴っていないのは、心が離れているからだ」であります。イエス様は、「内にあることが、外に出てきて汚す」のだと言っています。
イエス様は、信仰告白について、「わたしを人の前で認めないものは、父の前でもその人のことを知らない、と言う。」と言われました。ローマ10章でも、「心で信じて義と認められ、口で告白して救われる」とあります。心で信じたことを、口で言い表すことによって、初めて心が主だけのものに固まります。そしてそれを公にする儀式として水のバプテスマがあります。
キリストと教会を表している男女関係もこれと同じであり、人々の前で結ばれたことを示すことによって初めて、二人が実質的に結ばれたことを固定することができるのです。そしてその誓いは、どんな試練が来ようとも破棄されることがないという堅い結びつきがあるからこそ、平素においても、試練においても、その内実が保たれるのです。
クリスチャンは、世間体があるから結婚するのではないのです。神が定められたから、社会的責任が伴う結婚の手続き(結婚式と婚姻届)を行ないます。たしかに国の定めた法律は完全ではありません。けれども、神は国に権威を与えられました(ローマ13章1節)。完璧ではなくとも、神が世界に悪がはびこるのを抑制するために国という単位とその権威を与えられました。そしてもちろん、教会で結婚式を挙げることにより、神の前で誓約を交わすことができます。
もちろん結婚しても、それが「家庭内離婚」のような形骸化に対抗しなければいけないのは、また別問題として取り組まなければいけないことです。
離婚
「離婚」も教会における垣根が崩されていっている大きな問題の一つでしょう。離婚は罪であるとしている福音的な教会でさえ、不信者の離婚率とあまり変わらないというのはいったいどういうことでしょうか?
使徒パウロは、主からの命令として離婚してはいけないことを明確に述べています。「次に、すでに結婚した人々に命じます。命じるのは、私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。・・もし別れたのだったら、結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい。・・また夫は妻を離別してはいけません。(1コリント7:10-11)」そして主は、当時のユダヤ人たちが、宗教的な者たちでさえも、簡単に離婚状を出して他の女に移る傾向があったので、次のように語られました。「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」・・・そこで、イエスは彼らに言われた。「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。(マルコ10:9,11)」そして旧約聖書にも最後のマラキ書で、「わたしは離婚を憎む」と主は言われています。
離婚してしまった人には、それぞれいろいろな事情があったことは十分に理解しなければいけません。けれども、そのことを踏まえてお話しますと、「離婚について、神の前で罪を告白しましたか?」ということであります。夫と不和になったことについて、(あるいは妻と不和になったことについて)、夫ばかりを見つめて、神を見ることはなかったら、御心を大きく損なっています。結婚したときの誓いを破棄したことに対する、痛切な悲しみと悔いを主の前に告白すべきです。それがあってこそ、「わたしもあなたを罪に定めない」と姦淫の現場で捕えられた女に対する主の言葉を受け取ることができるのです。
同性愛
同性愛については既に、「同性愛と教会」また「三つのPro」いうエッセイを書いています、興味のある方はぜひお読みください。ここでは、さらに突っ込んでお話したいと思います。同性愛者の中で、自分たちは新生したクリスチャンであって、同性愛行為は神に祝福されると教えている人たちがいます。それを、「同性愛神学(Pro-Gay Theology)」と呼びます。
彼らはまず、「イエスは同性愛を罪と言っていない。」と言います。確かに、「同性愛は罪だ」と言っておられはいません。けれども、上に説明したように男と女の一対一の結婚関係のみを神が定められたことを明言しておられます。言っていないから罪ではないというなら、例えば強姦はどうでしょうか?家庭内暴力はいかがでしょうか?中絶は?こうした具体的事項も含めて、主は命令を下されています。ましてや、主はソドムについて多く言及されました。ソドムといえば、「同性愛行為」がその代表的な悪なのです。ユダの手紙でソドムが滅びた理由を「不自然な肉欲」と言っています。
そして使徒たちは、主の命令を確かに知っていました。「男色」という言葉を使って、それが異邦人社会では許容されていたけれども、それを正しいとして行なっている者たちは、神の国に入ることはできないと断じました。けれども同性愛神学において「男色は、当時の男娼制度のことを話しているのであり、一対一の同性愛を意味していない。」と言います。いいえ、ここのギリシヤ語は律法の中にある、「男が男と寝てはいけない。」という言葉を由来としていることは、旧約聖書をギリシヤ語に訳した七十人訳が明らかにしています。同性愛行為そのものがパウロが使っている「男色」なのです。
さらに、「男が男と寝てはならない」と言っているところばかりを強調して、他の掟を守っていないではないか、とも言います。ここで、前置きで詳しく話した、新約時代の教会における律法の捉え方が重要になってくるのです。律法の中で、例えば汚れた、動物ときよい動物の区別があります。けれども福音書の中で、主はすべてをきよいとされた、と書いてあります。そこには神の聖さと区別が反映されていましたが、キリストにあって成就したのです。そしてもちろん、食物規定に関する教えは使徒たちの教えの中にも多くあります。
けれども、男と男が寝てはいけない、という教えは、まず主ご自身が「男と女が結びつく」と創世記2章を補強されたところで、その他はすべて罪とされているのです。そしてパウロが使徒の教えの中で何度となくこの行為について言及しています。同性愛は神の立てられた制度と異なる、不自然な状態なのです。
このことは、決して同性愛者を特別視したり、また同性愛者をことさらに嫌悪したり、軽蔑したりする根拠となっては決していけません。むしろ、同性愛の傾向のある人が福音によって自由にされるために、これらのことを話しました。彼らのことを私たちは愛していかなければいけません。離婚した人を教会が温かく迎えると同じように、同性愛者も受け入れるべきです。けれども、同性愛行為は罪であるという教会の規範は決して揺るがしてはならず、それをもって不寛容であるとか、差別であるとかいうそしりを受けても、その非難を甘んじて受けたいと思います。
中絶
中絶の問題は「殺してはならない」ということですが、性にも関わることなのでここで書きとめてみたいと思います。(これも「三つのPro」の記事の中で触れました。)使徒の教えの中でも、「殺してはならない」の戒めについてはもちろん言及されています。そしてイエス様ももちろん、「殺してはならない」をさらに補強され、心のうちで人を殺したいと思えば、殺人の罪にあたるとされました。
さらに律法を見ますと、実は中絶(母の子宮から胎児を取り出す)ことはしなくても、「幼児犠牲」については何度も登場します。「火の中を通す」という言葉がそれです。異教の儀式の中で、淫らな関係を持つのであり、そしてそこで望まぬ妊娠をしますが、生まれた赤子を、金属で作られた像の両腕に載せて、その像を火で燃やして熱くし、その赤子をその神に捧げます。この忌まわしい慣わしのゆえに、カナン人を滅ぼせと主は命じられました。そしてこの忌まわしい慣わしを神の民であるはずのユダヤ人が行い始めたために、神はユダの国を裁くことを決められて、バビロンによって捕え移されるようにされたのです(2列王21章)。
このような時は決まって、「強姦された女性もその子を産めというのか?」と言われます。「妊娠して男に捨てられた女の気持ちを分かっていない。」と言われます。ああ、そうですか!と私は言いたい。強姦された女性から生まれて、今成人している人が世界に何人もいます。男に捨てられた女の人によって育てられて今成人している人が何人もいます。彼らに同じことばをぶつけてください。胎児はまさしく生命なのです。
使徒の働きの中に胎児の生命について触れられているところは分かりませんが、福音書ではルカによる福音書で、エリサベツがマリヤを会ったときに、自分の胎の子が喜んだとあります。そこにいるのはバプテスマのヨハネであり、まさしく生命が宿っている証拠です。そして、旧約聖書にいきますと、詩篇には母の胎にいるときから主が知られている、という言葉が何度か出てきます。
そのような女性に対する養子縁組の選択など、今は支援体制が整えられています。
失敗してしまった人に
今、ここで話している事柄はあくまでも、キリスト者としての行き方の指針を話しているのであり、その規範から外れたことを行なった人々を断罪しているものでは決してありません!むしろ、そのような規範があるからこそ、自分の生活が神に喜ばれているものになっているかどうかを判断することができ、失敗してしまってもまた立ち上がり、やり直すことのできる神の憐れみがあることをお伝えしたいと思います。イエス様のそばにはたくさんの罪人がいました。イエス様に触れられることによって、多くの罪人が悔い改めました。教会はまさに、この働きのために地上に存在します。
使徒パウロが、継続して、罪の悔恨なくして行なっていれば神の国に入ることができないと断言したものの中で、不品行と並んで多く登場したのは「偶像崇拝」です。これが意外に、「日本の文化や慣習」「寛容」「宣教」「常識」などの言葉の中で、キリスト者の間でさえ許容できるものとして語られていきます。しっかりと取り組みたいと思います。
まず、なぜ偶像がいけないのかをお話します。
1)神は霊であるため
「あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。(申命記4:15-19)」
イスラエルの民やシナイ山のところに現れた神を見たとき、そこには”姿”がありませんでした。それは、「神は霊」であられ(ヨハネ4:24)形を持たないからです。したがって、主は周囲が形ある神々と呼ばれるものに取り囲まれていたイスラエルに対して、「どんな形に似せても造ってはならない」と強く命じられました。
目に見えない神を信じるのは難しい、と言うことがたくさんいます。形あるものを通して信じてもよいではないか?という人たちもいます。(カトリック教会には、十字架につけられたイエス像、マリヤ像、祭壇などいろいろあります。)しかし、よく考えてみてください。人が他の人とその関わりを持ち始めたときに、もっと深く知り合いになるためには、その人の「見た目」を見るのではなくなります。外見ではなく、外見の背後にある「目に見えない人格」を見ていくのであり、それを、言葉を交わすことによって知る努力を初めます。そして実はそれが、「神は霊」と言われているところの真意であり、神はほとんどの場合、言葉をもってご自身の霊(あるいは人格)を現されるのです。
一度、形が与えられ神が固定化されますと、祈り、拝んでいる者にとってはその時は拠り所が見つかり楽になりますが、同時に「命」がなくなるのです。次の聖書箇所をご覧ください。
なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。
私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。
彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。
口があっても語れず、目があっても見えない。
耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。
これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。 (詩篇115:2-8)
人形に語りかけるほど、空しい事はないと思います。同じように形あるものになったとたんに、命が失われ、生きている関係を神と結ぶことができなくなります。
2)神が、ねたむ方であるため
「あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。(出エジプト記34:14)」
主なる神がイスラエルをご自分の民とした時に、その誓約はちょうど夫と妻の間に交わされるのと同じものでした。神はイスラエルを憐れみ、そしてこれを選んで、エジプトの地から救い出されました。この民をただご自分のものにしたいというのは、すなわち男が一人の女を自分のものにしたいという真実な愛に基づいています。したがって他の神々のところに行くということは、姦淫行為そのものになります。実際に聖書では、イスラエルが偶像礼拝をしている時を姦淫と呼ぶことが何度もありました。
しばしば、キリスト教について、それが唯一神信仰であるから排他的であると言われます。唯一の神のみ、キリストのみという言葉を聞いて、「非寛容だ」「受容性がない」という非難を受けます。けれども、真実というものはもともと排他的なのではないでしょうか?都合に合わせてころころ変えるところに真実を見いだすことができるでしょうか?キリストを信じる信仰は、夫婦が一生かけて愛を育むのと同じで、契約に基づき、一対一の愛の関係を保つことに他なりません。したがって、キリスト者が偶像崇拝をするということは、複数の異性に恋している浮気者となんら変わらないのです。
3)神は聖なる方、義なる方であるため
「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。(コロサイ3:5)」
聖書時代の偶像崇拝は、人の欲望の表象でした。バアルと呼ばれるカナン人の主神は、権力や知性の神であり、その相手の女神アシュタロテは性と愛の神でした。後者は、発掘された像を見ますと体中に乳房が付いており、今で言う「ポルノ」です。そしてモアブ人とアモン人はケモシュという神を拝んでいましたが、快楽の神です。「望まぬ妊娠」をするわけですが、そのため生まれてきた赤子を、火で熱くした像の両腕に載せて、ケモシュに捧げます。「マモン」という神もいましたが、富の神です。
そして、日本においても習俗として受け継がれているものの多くが、そのような肉欲の表れを神々として拝み、盆踊りも今でいう「乱交パーティー」の歴史を持っています。確かに、受け継がれ習慣として行っている中で、そのようなあからさまな乱れた行ないは、今はしていませんが、それでも「自分の都合に合わせて拝んでいる」という、自分中心の信心になっていることには変わりません。
それに反して、イスラエルの神は聖なる方でした。義なる神でした。人のために神が存在するのではなく、神が人をご自分に似せて造られて、神のために人が存在します。この方は、天地万象にある全てのものを超越し、隔絶された存在であられ、そして何ひとつ欠点のない方であられます。この方の前において他の神々があってはならない、ということは、自分自身が聖められ、恵みによって正しい者とされていなければいけません。
日本人の神観
異邦人の町テサロニケで、数多くの人がイエス様を信じました。それをパウロは、「偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり・・・(1テサロニケ1:10)」と言いました。日本においてイエスを信じる、ということにも、偶像と呼ばれているものから立ち返り、生けるまことの神をあがめるという、明確な回心が必要となります。
日本人は「神」をどのように信じているのでしょうか?ここは、すでに書いたエッセイ「神道を摂取する宣教?」から抜粋したいと思います。
神道は、「造られたものに神々が宿る」宗教
第一に、神道とは神が物の中に宿ると考える宗教です。「森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊をまつり、祭祀を重視する(Wikipedia「神道」)」「太古からある神道の始まりである古神道においては、必ずしも神奈備(かんなび・神々が鎮座する森や山)に代表される神籬(ひもろぎ・鎮守の森や御神木の巨木や森林信仰)や磐座(いわくら・夫婦岩などの巨石や山岳信仰)は依り代としての対象だけではなく、常世(とこよ・神の国や神域)と現世(うつしよ・俗世いわゆる現実世界)の端境(はざかい)や各々を隔てるための結界の意味もある。あくまでも自然崇拝・精霊崇拝(アニミズム)を内包し、その延長線としての祖先崇拝も観念や、祈祷師・占いなどのシャーマニズムとも渾然一体となっている。(Wikipedia「アニミズム」)」 それに対して、聖書の語る「神」は、あらゆる天地万象を超越し、これらのものを創造した存在であります。聖書を日本語に翻訳するときに、神道にも適用された中国語「神」を用いたことによって、同じ名称が使われますが、その違いは歴然としています。 聖書のストーリーは、「初めに、神は天地を創造した。(創世1:1)」から始まります。天地を造られた神が、やがて現れる人々が拝み仕える偶像に対峙、あるいは対比して、「わたしこそが主であり、まことの神である」と宣言されます。出エジプト記にある、エジプトに下った十の災いがそれです。「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。(12:12)」そして、主は自分こそが神であり、他に神々があってはならない、自分のために、偶像を造ってはならない、と命じられました(出エジプト20:3-4)。 聖書の神は他の神々と単に異なっているのみならず、対比や対峙してご自分を現しています。北イスラエル王国がアラム(シリヤの古代名)と戦っている時に、アラムは王にこう告げました。「彼らの神々は山の神です。だから、彼らは私たちより強いのです。しかしながら、私たちが平地で彼らと戦うなら、私たちのほうがきっと彼らより強いでしょう。(1列王記20:23)」そこで神の人はイスラエルの王にこう預言しました。「主はこう仰せられる。『アラムが、主は山の神であって、低地の神でない、と言っているので、わたしはこのおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す。それによって、あなたがたは、わたしこそ主であることを知るであろう。』(28節)」そして、大損害をイスラエルはアラムに与えました。 ダニエルという人物は、バビロンという多神教宗教の色濃い文化と社会の中にいて、信仰を保ちました。ちょうど先進国であるにもかかわらず古来の神々を拝んでいる日本と状況は似ているでしょう。そこでも、神は、バビロンの神々に対するご自分の圧倒的な優位性を表すことによって、ご自分を現されました。 ネブカデネザル王が夢を見て、それを解き明かしてもらいたくて、バビロンの知者を集めましたが、彼はその夢も言い当てろと命じました。けれども彼らはできません、こう言いました。「王のお尋ねになることは、むずかしいことです。肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません。」(ダニエル2:11)」けれども、ダニエルのみが解き明かすことができましたが、彼は、「王が求められる秘密は、知者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。(27-28節)」と言って、対比することによって自分の神を紹介しました。 これは旧約聖書に限りません。パウロは、主に会堂でユダヤ人やユダヤ教改宗者に伝道することによって、異邦人にも福音を届けようとしていましたが、まったく知識の持ち合わせていない異教徒にも伝道した記録があります。ルステラにおいて、その住民がパウロとバルナバを神々として祭ろうとしたときに、衣を裂いてこういいました。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。(使徒14:15-17)」パウロは、偶像とまことの創造主を対比しているだけでなく、生ける神に立ち返るよう、悔い改めを説きました。 アテネにおいても、物に宿る神とまことの神を対比させています。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。(使徒17:24-25)」ここにも、神道的な限定された物理的空間に存在する神と、超越したまことの神とを比較、対比させながら宣教している姿をうかがうことができます。 そしてもちろん、信者に対して宛てた手紙には、先祖伝来からの教えに自分たちキリスト教のルーツがあったという話は一切しておらず、むしろ、それらの空しさを語り、そこから立ち返ったことを確認させています。使徒ヨハネは第一の手紙をこうしめくくっています。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。(5:21)」 |
いかがでしょうか?私たちが「神」と読んでいても、聖書が「生けるまことの神」と呼んでいる方とは歴然とした差異があり、前者から後者へと立ち返るように言っているのが、聖書全体の神の人類に対する呼びかけなのです。
「排他的」と言いながら反対に「強制」する人たち
けれども、日本人の人たちがこのことに気づかず、自分たちの神の世界ではない異なるものがあることを知りません。自分たちの神観の世界以外の世界を知らないので、キリスト教の神も再解釈してしまうのです。例えば、日本人の多くのクリスチャンが信仰を持った時に、親の反応は「神に自分の息子(娘)を取られてしまった。」であったことが多かったのではないでしょうか?私は、自分のバプテスマ(洗礼)式に両親を招きましたが、「キリストが清正を私たちから奪い取ってしまった。」と感じたそうです。私が食前の祈りを「父なる神様」から始めたら、父が「私以外に父がいるということか?」と怪訝そうに言いました(幸い信仰をもった今は、自分自身、「天のお父様」と言って食前に祈っています。)
つまり八百万の神しか知らないので、自分とキリストを同列に置いてしまっているのです。そして「唯一神」と聞けば、数多くある神々の中の一つだけを選び取る、他を排斥する、と考えるのです。
そしてキリスト教を排他的と言いながら、実際にそう感じながら、自分たちの神観を押し付けていることさえ気づいていないことがあります。どのようにしてキリスト教をも自分の神観に包摂してしまうのか、典型的な例をご紹介します。拙ブログ記事「靖国神社参拝について その2」から抜粋します。
日本人の宗教観では、死んだ人は「霊」となり「神」となり、それを「祭る」というのが全てだと思っています。けれども「日本の常識は世界の非常識」という言葉のように、それは日本にしか通用しない考えなのです。
アーリントン国立墓地の説明では、(「追悼(memorial)」という言葉が使われており)"Consoling of spirits"という単語は出てきませんが、日本語のウィキペディアでは「慰霊」と出てくるのです。そして「敬意を示す(honor)」という言葉は出てきますが、「参拝(going to worship)」という言葉は出てきません。「英雄(heroes)」と言う言葉は出てきますが、「英霊(heroic spirits)」という言葉は出てきません。 日本語の死者を追悼し敬意を示すことは、日本ではすべて神道的宗教観から出てくる単語なのです。 |
したがって、アーリントン墓地などと異なり、靖国神社はすべての宗教の人たちを神道の神観の中に押し込めて祭っているのです。もしここでもし私たちが”形だけでも”ということで、そのような、神式・仏式の儀式に関わるようなことがあったら、周りの人々は当然、自分たちの神に仕えていると誤解します。これは全く「愛や寛容の行為」ではありません。相手を思いやってもいません。その人をさらに真理から遠ざける、つまずきの行為に他ならないのです!(1コリント10:27-29)
日本人の死生観
そして次に、日本人の死生観について説明してみましょう。こちらは、「神とか霊とか占いとか」というエッセイ集からいくつかを引用していきたいと思います。まずは、「死」」について・・・
「日本人の死生観・死者は生きている」から キリスト教信仰は「死と復活」なくして成り立ちません。 死があってこそのよみがえりなのです。 しかしこの「死」という概念こそ日本人にとって最も理解しがたいことなのです。 古来から日本には「死」という概念はありませんでした。人間の肉体は朽ち果てても霊魂は生き続けると考えられています。そして霊魂は、さまようものと考えられていました。 |
この死生観が、いかに福音の根幹を受け入れる妨げになっているか、お分かりになると思います。人が死んでも、それが死であることを受け入れがたいということは、キリストが自分の罪のために"死なれた"」と言われても、「死」といわれるところの非連続性に耐えられなことを意味します。
しばしば福音を語るときに、「人は必ず死にますよね。死んだ後のことを考えますか?」と尋ねると、「あまりにも重いテーマなので考えたくない。」という反応が返ってきます。「分かってはいるが、今は考えたくない」のです。天国のことを話しますと、「今の生活だけで十分だ!永遠の命のことは重荷になる。」という内容のことを言われます。理由はすべて、「死」に直面できていないことにあります。そこで、肉体の「死」のみならず、霊魂を含めた包括的な「死」に直面したくないために、霊魂はさまようというところに慰めを見いだしているのです。
これが人生観に関わってきます。キリストの死を受け入れることは、自分の命に対しても死ぬことを認めることですが、それがなかなかできません。いつまでも自分の可能性にしがみつきます。中高年の男性はかたくなに「仕事が全て」の中で行きます。自分に可能性がないのに、いつまでもしがみつくので多くの人が心身症にかかります。女性の中に、スピリチャルにはまる人が多いのも、「自分の可能性」を追い求めているからに他なりません。
次に、大切な人をなくした時の日本人の対応に注目したいと思います。
「大切な人をなくして」から
大切な人を亡くした人の心をいやすメロディー「千の風にのって」・・。 家族や親しい人や愛していた人、大切な人を亡くした人の心をいやし、 日本の古来から、日本人の心には「死」という概念はありませんでした。 |
日本人の多くの人が自然に、遺体に語りかけ、また遺影に語りかけます。本来なら、死体を前にする時に我々は、「命を与え、また取られる神」を想わねばならぬのです。「ちりはもとにあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。(伝道者の書12:7)」
他人の死は、まことの神に会うことのできる貴重な瞬間です。人の命ははかないことを噛みしめることができます。与えられた命を神の栄光のために用いていかなければいけないことを想います。もし生前にイエスを自分の救い主として受け入れている人の死体を見ているならば、天への凱旋、また復活の希望を鮮明に感じ取ることができます。心に甘い悲しみと悼みがあるのですが、霊は天の前味によって高揚するのです。信仰が定かでない状態で死んだ人の前に立つときは、神に定められた峻厳な時を感じ取ることができます。今を生き、機会を十分に用いて、賢く生きること(エペソ5:16参照)を想わざるを得ないのです。「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。(伝道者の書7:2)」ところが多くの人が、神ではなく、その死んだ人たちに未だ会いたいという執着の中に生きてしまうのです。それを可能にするのが、「霊魂が今も自由に生きている」という死生観です。
そして復活についてですが、日本人の死生観に「よみがえり」という信仰はあるけれども、キリストの福音にある「復活」とは大きく意味が異なっています。
「よみがえり」について日本人はどのような感想を持っているのでしょうか。 キリスト教が言う復活とは、もとの状態に戻ることではなく、 |
私の場合、信仰を持った時に見ていた世界がまるで変わりました。いつもと変わらない風景が斬新に、新鮮に見え、まるで全身全霊が洗われた気分でした。もう一つ、「もう今死んでも悔いがない」と思いました。ちょうど癌末期患者が残る人生を意義深く生きるように、信仰をもった19歳の時から「終わりから人生を始める」ことができました。これはすべて、キリストの死によって自分も死んだことによって古いものが過ぎ去り、キリストのよみがえりによって自分も新しい命にあずかり、すべてが新しいという福音にあずかったからです。
「死者」に対する奉仕
このような神観や死生観は、日本人独特のものではなく、実に聖書において異邦人が持っていたものでした。同じ葬儀を行うにしても、その中心は「死者の霊」に仕える行為となります。日本人は故人を偲ぶための写真が「遺影」として拝まれ、棺おけを飾るための花が「献花」と呼ばれます。そして「焼香」まさに、死者の霊を慰める行為です。そして仏壇には「お供え物」がありますが、これもまた死者の霊に仕える行為です。これを聖書では次のように行なっていました。
「彼らはまた、バアル・ペオルにつき従い、死者へのいけにえを食べた。(詩篇106:28)」
モアブの王バラクが、まじない師バラムを雇い、イスラエルを呪わせようとしましたが失敗しました。それでバラムがそそのかして、モアブの娘たちをイスラエルの宿営に連れて行き、その時の神々も持っていかせました。そこで行なわれたのが「死者へのいけにえ」です。死者に対して
「それは、彼らが悪を行なってわたしの怒りを引き起こし、彼ら自身も、あなたがたも先祖も知らなかったほかの神々のところに行き、香をたいて仕えたためだ。(エレミヤ44:3)」
具体的に偶像礼拝行為としての「焼香」が書かれています。
先日、クリスチャン家庭で育った姉妹から、非常に興味深い話を聞きました。幼い時、仏壇に人々が供え物をしたり、線香をたいたりするのを見て、「その中に本当に神がいるのかな?」と思って後ろに回って、中を覗いてみたそうです!けれども、生まれながら神社仏閣の中で育ってきた人は、そのような発想はしません。神社のカミでも寺の仏でも、その像自体を物理的に神だと思っているのではなく、そこにある気配、もっとはっきり言うならば「霊」を知って拝んでいるわけです。だから物理的な存在であるかのように、後ろに回って見ることはないのです!ですから「日本人とて、像を神だと思って拝んでいるわけではない。だから偶像崇拝とは違う。」と言う人がいますが、欺瞞に他なりません。創●学会の熱心な信者だった人と話したことがありますが、私に対して「仏像を神としているわけではないのです。」と言っていました!
心が神に向いていれば、形は問題ない?
この反論は、人々の間で最も頻繁に行なわれるものです。「形に拘りすぎる!それらは旧約時代の話だ。新しい契約は心の刷新であって、実際の異教の儀式のことではなく、愛と希望、そして信仰が大事なのだ。」と言います。
そうなのでしょうか?そこで、もう一度、キリスト者倫理の規範を持つための方法を思い出してください。直接的、具体的にキリスト者の生活規範として仰げるのは使徒たちの手紙でした。旧約聖書における神の民のあるべき姿勢を、使徒パウロやその他の使徒たちは、そのまま異邦人教会に教えていたのです。
ギリシヤにコリントという町があります。そこで彼らは、偶像の宮に捧げられた肉を食べていました。彼らの中に、偶像といってもそれは神ではなく、単なる木や石に過ぎないから無意味なものであり、自由に食べてよいと考えていました。けれども、コリント第一9章でパウロは、このことによって良心の弱い人の良心を傷つけることになり、「兄弟に対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。(12節)」と使徒パウロは言いました。
そして、そうした行為によって何が起こっているのかを、パウロははっきりと述べました。「私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(10:19-20)」偶像は木や石にしか過ぎないものです。それに何か力があるとか、そういうことではありません。けれども、その行為を行っているところを悪霊が利用して、人々を真理から引き離し、騙していることがあるのです。私たちが「亡くなった人」に対して、語りかけてみたり、香をたいてみたり、供え物をしていて、そこに感じている気配というもの、霊というものは、その本人の霊ではなく悪霊そのものなのです。
異教の儀式については、「形」が内実と密接に関わっているということを私たちはしっかりと認識しなければいけません。同棲生活の話をしたときに言及しましたが、「心さえ通じていれば、形に拘らなくてよい」というところには心の欺きがあります。「外に出てくるものは、内にあるから出てくる。」のです。もし他の女と寝た男が、「私の心は妻にあったのだ。」と言ったら、いかがですか?いいかげんにしろ!といいたくなりますね。他人の女に心が引かれたから外側の行為に及んだのです。異教の儀式に関わりながら、「心は創造主に向いていた」と言っているのはそれを全く同じなのです。
次回は「酒」について取り扱ってみましょう。
4.酒についての教え
5.言葉による汚れ
6.倫理規範ではない事柄