エジプト・イスラエル旅行記 − 8月8‐9日


カイロ: 午後11時で32度

 8月8日、韓国の仁川空港を午後4時半に出発しました。カイロまで12時間半かかります。けれども、以前のイスラエル旅行でフランスを経由した時もそうですが、それほど苦痛に感じませんでした。理由はおそらくは、地球の自転と同じ方向である西廻りだからだと思います。(私にとって東京からアメリカのロスに行くのが一番辛いです。日本時間でほぼ真夜中の時、朝7時過ぎのロスに到着します。かつ日付変更線を通過するので、同じ日が丸二日続くことになります。)

 そして何よりも、エジプトまたイスラエルに行くということで、忙しくてできなかった前調べを飛行機の中ですることができたので、時間があっという間に過ぎました。エジプトは初めてでしかも個人で歩き回らなければいけないので、「地球の歩き方」で行程をじっくりと研究しました。またピラミッドを始めとするエジプトの古代の歴史をざっと眺めました。本当は日本語で古代エジプトのサイトがあって詳しい説明があったので、それをきちんと読んでいればよかったのですが・・・仕方がありません。今回はノートパソコンを携帯しているので、パソコンの中にある聖書研究ソフトで、エジプトの歴史について書いてある部分を読んでいきました。

 また、妻はアラビア語の本を買っていました。私は覚える時間は全くなかったのですが、アラビア語は数字までも違うようです。これだけは札の金額も数えられないと思って、覚えました。ところで、アラビア語のアルファベットを聞くと、実にヘブル語に似ています。その地域の言語ですから、ちょうど日本語と韓国語と中国語が同じ漢字圏で似ているのと同じなのでしょう。そういえば、映画「パッション」はアラム語で役者が話していましたが、それをイスラエル人やアラブ人が聞くと似ているので親近感が湧くはずだと聞いたことがあります。

 ところで、飛行機の中は以外に観光客でいっぱいでした。エジプト人らしき姿はなく、80パーセントぐらいは韓国人でしょうか。残りの20パーセントは同じ日本人の観光客です。夏のエジプトはシーズン・オフだと思っていたのに、大盛況のようです。そして韓国語、日本語、英語のアナウンスはあるのに、肝心のアラビア語がなくて良いの?と思いました。

 現地時間午後11時近くにカイロに到着しました。上空から見る夜のカイロの街は、ネオンに輝いていました。さすがエジプトの首都だけあります。適当に経済発展した所であることが推測できました。

 そして到着直前の機内アナウンスが私をびびらせました。外は摂氏32度とのことです。たしか天気予報ではその日の最低気温が26度ぐらいだったはずなので、大丈夫かな・・・とちょっと不安になりました。

 到着後、入国審査を受けますがその前にすでに銀行があります。そこで普通ビザも発行してもらい、発行料も支払います。15米ドルです。けれども私たちは帰国時にイスラエルから再びエジプトに入国するので複数回入国ビザが必要でした。それで前もって東京のエジプト大使館に行き、一人7000円で発行してもらっていました。

 ところで、エジプトはその大使館のある国によってこの発行料が違います。日本の7000円は高い設定です。韓国はたしか3000円程度だったような。とにかく観光客や外国人からお金を巻き上げようとする姿勢を、私たちはこの旅行で感じました。

 そしてガイドブックにも書いてありましたが、入国審査の前に既に現地ガイドの人たちが中に入ってきています。これも観光業が発達しているゆえの慣習なのでしょう。そしてガイドの人がビザ購入などの手続きを手伝ってくれるのですが、15米ドルよりももっと高い値段を請求するはずです。

 ということで、私たちは銀行で両替だけを済ませ入国しました。そこのロビーに、日本語で私たちの名前が書かれている紙を持っているおじさんがいました。そうです、これから泊まる宿にタクシーの出迎えをお願いしていたのです。

 そして外に出たら、もわっとした空気に包まれました。カイロは半砂漠気候とのことですが、ナイル川に沿って緑があります。エジプトの文明はこのナイル川によると言って過言ではないそうです。それから少し東西に離れると、すぐに砂漠が広がっているそうです。だからナイルが中心に流れているカイロは、湿気も多少あるのでしょう。でも、日本に比べたらずっと乾燥していて汗があまり出ません。汗がほとばしり出る真夏を経験する日本人にはありがたいことのように思われるかもしれませんが、これが逆に恐かったです。自分が知らないうちに、水分が体からどんどん蒸発しています。だから喉が渇きます。いや、渇いていることすらあまり意識することができず、自分が水の大型ペットボトルを簡単に飲み干した時に気づきました。

 そしてタクシーに乗りました。タクシーの運転手さんは図体が大きいのに、そして平均的エジプト人も決して体が小さいわけではないのに、車はとても小さいです。そしてエアコンがありませんでした。私は嫌な予感がしました。その予感が次の日的中していることが分かりましたが、どこもかしこもエアコンがないのです。

   「熱中症にかかっているかのような暑さ」+「エアコンがない」=これぞ、ザ・エジプト!

 という公式が私たちの頭の中ですぐ出来上がりました。


夜のカイロ

 タクシーに乗りながら、夜のカイロの景色を眺めました。そして次の日もカイロ市内を歩き回ることになりますが、ガイドブックを読んで予想していたことが的中しました。それは「中途半端に経済発展している国」ということです。先進国の人はこのような国に来ると、いわゆる生活に必要なものはみな手に入るようなことなので少し安心します。そしてインターネット、携帯電話など、先進的なものもすべてあるので感心します。けれども、先進国ではそれら先進的なものが導入される前に、長い期間をかけてインフラを整えて、その上に生活を築いています。ところがこの類の国々にはそれが存在しないのです。

 例えば夜、車がライトを点灯するのは選択であっても、事実上義務ではありません。二車線、三車線を分ける白線は塗られていますが、運転している人は完全に無視です。何度となく、接触事故に遭うのではないかとひやっとしました。逆に歩行者も、道を横断するとき信号があるのに完全に無視です。車の流れに合わせて、車が来なかった時を見計らって横断します。宿に到着したとき、宿は5階にありエレベーターもあるのですが、そこに「これは安全ではありません」との注意書きがあって、確かに荷物を載せても壊れてしまうのではないかと思われるほどの、おぞましくおんぼろの昇降機がお飾りのように置いてあるだけです。

 また次の日の朝、階の途中のアパートの部屋の前にゴミ袋が破れていて中の生ごみが散乱していましたが、犬か何かが食い漁ったのでしょう。ごみ捨て場まで捨てに行けばよさそうなものを、玄関前に放置しているからいけないのです。そしてカイロには、至るところに白服の警官がいるので治安は安全なようですが、あまりにも居過ぎです。一人ひとりの警官の様子を見ても、どう考えても時間を持て余しているような表情をしています。

 要は、ベドウィン(遊牧民)が砂漠にいて、そこにいる当人たちでなければ分からないような道ではないような道を歩いて、物の購買もほとんど物々交換に近い状態で、まさに「我が道」を行っていた人々のところに近現代の制度が“放り込まれた”と考えれば良いのです。発想を転換しないと、トンデモなことばかり起こるので神経をすり減らします。

 そしてカイロ市の中心部に入ったとき、もう真夜中に近いのに若者でごった返していました。でも日本の繁華街にあるような、酔っ払って騒いでいる様子はなく、もちろん女の子はイスラム教徒ですから、頭にスカーフを巻いて肌を見せないよう長袖長ズボン(あるいは長スカート)の格好をして、保守的です。実はエルサレムでも、真夜中なのに若者が、しかも正統派ユダヤ教徒の若者がたむろしていたのを見ました。おそらく単純に「昼間は暑いから」かなあ、と思いました。夜にならないと暑くて戸外での活動はできないからでしょう。

 宿に到着してから、宿主が熱い砂糖入りの紅茶を用意してくれました。(これがエジプト人のお好みの飲み物です。どこへ行っても、砂糖入り紅茶を飲んでいました。)そして、私が机にあったファイルを見ながら、ギザのピラミッドツアーに参加したい旨を伝えました。明日一日しかカイロを見学できないし、ピラミッドの辺りは非常に暑くなると聞いていたので、出発時刻もなるべく早朝にしてほしいと頼みました。そうしたら朝の三時間で一人当たり25米ドルとのこと、了解しました。


ピラミッドの荘厳さ

 昨日迎えに来てくれたタクシーのおじさんの運転で、ギザに向かいました。たばこを吸い始めましたが、この国では当たり前でしょうからそのままにしていたほうが無難だと判断しました。ナイル川を途中で通過しました。なぜか橋の歩道がごみだらけです。そこで「写真を撮りたいか」と聞いてきたのですが、「後でまた撮ることができるからいいです。」と答えました。

 ギザに近づきました。車道にらくだも歩いているところから、もう近づいていると感じました。そしてピラミッドの入り口まで来ました。けれども、らくだや馬がたくさんいるところに連れて行かれます。そして男の人が窓越しに英語で、「タクシーでは場内では入れない。歩くのは大変だから、ここから乗っていきなさい」と言うのです。私たちはびっくりしましたが、とりあえず断りました。ピラミッド・ツアーと名売っているのですから、中に入っていろいろ案内してくれるものだと当然思っていました。だから一人25米ドルで了解したのです。してやられた、です。

 仕方がなく午前8時ごろ入口を出発しました。そしたら、見えてきた見えてきた!スフィンクスが手前、そして三つの大・中・小のピラミッドが並んでいます。見る限り徒歩でも何とか行ける距離です。がんばって坂を上っていきました。

 一番右側、クフ王のピラミッドの間近まで来たとき、本当に圧倒されました。石が一つ一つ非常に大きいのに、それが遥か高いところにまで積み上げられています。これが人間が作る業だとは到底思えませんでした。確かに世界の七不思議に入っておかしくありません。

 そして、私たちは周囲をぐるり歩きました。観光客でごった返しています。そこからピラミッドの内部に入れるからのようです。入場するだけでもたくさんお金を取られたのに、内部に入るにはさらに請求します。だから私たちは入りませんでした。

 それから次に真ん中のカウラー王のピラミッドへ。日陰に入ると少し涼しくなります。その間、観光バスが敷地内にどんどん入って、私たちを通り過ぎてゆきます。

 また、らくだが至るところを歩いています。二種類いて、観光客を乗せようと待っている人たちと、巡回している警官たちです。ピラミッドの周りは、そのらくだの糞で臭いです。また、ピラミッドそのものから落ちたであろう石でごろごろしています。

 この時には9時過ぎになっていました。けれども本当に暑くなってきて、疲れてしまいました。早朝に来て正解でした。予定時間より早く帰りました。


明日のバス旅行の予約

 そしてタクシーの運ちゃんに、カイロ市内のシェラトン・ホテルに連れて行くよう頼みました。そこで明日出発する、カイロからエルサレムまでの直行バス(といっても、エジプト・イスラエル間の国境でバスを乗り換えます。)の乗車券を購入するためです。旅行社は、唯一、テルアビブ/エルサレム⇔カイロをバス運行しているイスラエルの会社、マザダ・ツアーです。もしこのバスを利用しないと、エジプトの「イースト・デルタ会社」でカイロからエジプトのターバまで、そして国境を渡って、エイラット市内のバスセンターまで行き、イスラエルのエゲッドバスに乗らなければいけません。イスラエルのエゲッドは問題ないと思いましたが、カイロ・ターバ間の旅行者の情報を聞くと、乗客はほとんどが男、途中でバスが故障して途中停止(つまりエアコンも停止)多しとあり、なるべく避けたかったのです。

 シェラトン・ホテル内のマサダ・ツアー代行の事務所に行ったら、一人70ドルとのことでした。最低12時間かかる旅程を考えると、無難な値段です。でも、エジプト側の出国税が15ドル、イスラエル側の入国税が15ドルかかるようなことを言われました。(後で分かりましたが、実際はエジプト出国の際に2ドル程度、イスラエルからエジプトに入国する際にイスラエル側で15ドル程度でした。)ちなみに五つ星のシェラトン・ホテル内は、エアコンが効いていました!

 それから徒歩で中心街へ向かいました。ちょっと遠いですが、既にぼられた経験をした私たちは、タクシーには乗りたくありませんでした。地下鉄もあるのですが、一駅だけで中途半端です。それに途中でナイル川を見ることができます。

 シェラトン・ホテルを出た後に、「私はシェラトン・ホテルで働いている。」と独り言のように話す男の人がいました。適当に無視したのですが、しつこく付いてきます。他にも似たような経験をしました。相手が「ハロー」と行ってくる時、少し笑みを浮かべてお返ししたら、「お前、ハローと言っただろ?」としつこく聞いてくるのです。エジプト人は人懐っこいというか、それ以上です。何か売ろうとするのか、危害を与えようとするのか、それともただ暇なのか分かりませんがとても変です。救いは、性格が明るいというところでしょうか。


エジプトの国民的ファーストフード「コシャリ」

 ナイル川の橋を渡って、地下鉄の地下道で道を横断して中心街に到着しました。ところで、ナイル川は聖書にもちろん登場します。
モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。 出エジプト記7:20
 次の目的は昼食です。旅行好きな私たちは、必ず現地の食べ物を食べたいと思います。ガイドブックを読むと、パスタと米、他のいろいろな穀物が混ざっている食事で「コシャリ」というのがあるそうです。いろいろなお店の紹介も載っていました。その一つに入りましたが、店内も比較的きれいで、エアコンも少し効いています。そしてコシャリも気に入りました。一皿5エジプトポンドですから100円程度です。
 そこで水も買いました。1.5リットルの大きいのを買いましたが、そこで二人がどんなに喉が渇いていたかに気づきました。一気に飲み干してしまったのです。


大昔の栄光

 それからエジプト博物館へ向かいました。道を誤って道路の反対側を歩いてしまい、横断歩道もないのでどうすれば良いか迷いましたが、白服の警官のお兄さんが「博物館に行きたいんでしょう。」と言うので、その信号のないところをいっしょに横断しました。彼は博物館のところを警備している人で、ちょうどお昼を買いに行っていたようです。

 博物館は観光客でごった返していました。大型バスもひしめいています。私は頭の中で、「ピラミッド敷地内は相当熱いだろうから午前中にして、午後に博物館に行って“少し涼もう”。」と考えていました。そして入場しましたが、なっ、なんとこの一番エジプトで、いや世界的にも有名なエジプト考古学博物館には、エアコンがないのです。もどきはあります。でも実際は送風機です。

 私の背中にはノートパソコンが入っているかばんがあるので、すっかり疲れて階段で休みました。でも見なければ何も始まりません。重い腰を上げました。

 この博物館は、あの有名なツタンカーメンの棺桶があるところです。またミイラも、入場料の他にもっとお金を払えば見ることができます。よほどきちんとした博物館だと思っていましたが、実際は、骨董品店を巨大化したかのような、発掘した遺物を、その多くは何のガラスケースもなくそのまま置いているだけのものです。説明はほとんどありません。

 それでも何かを得ようとじいっとその骨董品の陳列を観察しつづけました。見えてきたのは、一言でいうと「発展性のない文明だったのだ」ということです。エジプトの歴史は、紀元前2500年の古代王朝から始まります。ギザのピラミッドは古王朝のものです。そして私たちがよく知るヨセフの時のパロは、中期王朝(紀元前2000−1,800年頃)のものです。そして出エジプト記(紀元前1500年前後)は、新王朝です。この時の栄光で、実際は終わったのです。その後はその栄光をずっと引きずっています。そしてアッシリヤが攻め、バビロンが攻め、最後にギリシヤの時代にプトレマイオス朝としてギリシヤの一部になります。この時は一応エジプトと考えられますが、最後ローマによって完全に消滅します。

 このギリシヤ・ローマ時代の遺品が強烈でした。これまでのエジプト時代の彫像は矮小化し、かつ、その上にギリシヤ・ローマ風の人の像があったりします。紀元前2500年からのものをずっと引きずり、弱体化し、征服され、消滅したと言うことができます。何か少しでも改良して発展できなかったのか・・・と思いましたが、いつまでも、いつまでも過去の栄光にしがみついていたようです。
見よ。主は速い雲に乗ってエジプトに来る。エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底からしなえる。わたしは、エジプト人を駆り立ててエジプト人にはむかわせる。兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、王国は王国と、相逆らって争う。エジプトの霊はその中で衰える。わたしがその計画をかき乱す。彼らは偽りの神々や死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てる。わたしは、エジプト人をきびしい主人の手に引き渡す。力ある王が彼らを治める。・・万軍の主、主の御告げ。・・(イザヤ書19:1-4)
 そしてその古代王朝の中身はもちろん、上の聖書箇所にも書かれているとおり、偶像礼拝です。ラーという太陽神をはじめいろいろな神がいて、さまざまな儀式がオカルト的です。覚えていますでしょうか、十の災いがエジプトに下った時にその一つ一つが神としてあがめられていました。ナイル川、かえる、牛、太陽、そしてパロ本人とその王子、すべてが崇拝の対象だったのです。そして、モーセが行なう奇跡の一部を真似した呪法師たちのことを思い出してください。オカルトも発展していたのです。

 そしてその中に、ナイルによる発展した文明があった。肉的には多分にして魅惑的な町だったのでしょう。アブラハムが下っていったために一緒に行ったロトが影響を受け、ヤコブが下っていくのをためらい、そして、イスラエル人が奴隷の苦しみを味わったのに帰りたいと願ったその力があったことを理解できました。
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。(創世記13:10)

地下鉄の中で見たイスラム女性

 暑い暑い博物館を出た後は、地下鉄に乗って、古代キリスト教であるコプト教会の博物館に向かいました。ところがその地下鉄が強烈でした。博物館より暑いです。地下なのでさらに熱気がこもるからでしょう。車内には扇風機が回っているだけです。

 そしてこの暑いカイロで、女性は完全に体を隠していますが、目以外はすべて黒い服でまとっている女性もかなりいます。私たちの真向かい座っている女性二人がそうでした。手まで黒い手袋で覆っています。下に青いジーンズを履いているのが見えました。信じられません!小さな子が一緒に座っていたので一人は若いお母さんなのでしょう、そしてもう一人はそのお母さんの姉妹かな?そして、その真っ黒の服で唯一見える目が、非常にはっきりとした二重まぶたであり、目の輪郭がくっきりとしており、妖しささえ感じる美しさを持っていました。(例えば、右のような感じ)

 帰りのカイロ国際空港でも、そのような女性がたくさんいました。一人は小さい子供をほったらかしにして、化粧品のお店でずっと品比べをしています。果たして目だけの化粧なのか、それとも旦那さんに見せるために顔全体を化粧するのか疑問でした。

 妻は「ラケルはこのような目ではなかったのか。」と言っていましたが、私もそう思いました。反対にレアの目が「弱々しかった(創世29:17)」、というのは、そのような二重まぶたをしていなかった、ということなのかもしれません。基本的に中東人はそうだと思いますが、イスラエルのユダヤ人女性も同じく、くっきりとした目をしています。


コプト教会博物館

 カイロ市内観光でイスラム寺院に行くことも少し考えたのですが、やはりエジプト発祥の古代キリスト教だから見る価値あるだろうと思って行きました。ところで、プロテスタントでしかも福音派と言われている人々にとっては、昔からの教派と言うとローマ・カトリックだけを考えると思いますが、その他にビザンチン王朝のギリシヤ正教(東方正教)があり、アルメニア派があり、そしてこのコプト派もあります。そしてイスラエルや中東では、キリスト教発祥の地だけあってローマ・カトリックよりもこれらの教派のほうが主流です。詳しくは、追ってイスラエル旅行の中で説明します。

 私は一度、長崎旅行でキリシタンの歴史を探訪しましたが、そこでカトリック教会を体験することができました。同じように何か得るものがあるに違いないと期待して行きました。

 コプト教会博物館は新しい施設だけあって、展示物の多くはガラスケース中にあり、詳しい説明もあります。建物自体が芸術的で、おしゃれでした。それは気に入ったのですが、やはり冷房がなく、私たちはもう体力限界でした。それで内容も記憶がおぼろげなのですが説明しますと、始めは、性愛の女神アフロディテが出てきたりと偶像ばっかりでびっくりしましたが、次第に洗練されてきます。そしてこの教派が修道院を先んじて導入し、推進させたようです。そしてカトリックと同じく聖画マリヤの存在は大きいですが、その上にキリストの姿もあったりして、そういった意味でキリスト中心なのでしょうか。でもカトリックと同じく、異教の中にキリスト教が存在しているような感じで、純正なものを見ることができませんでした。

 そして、コプト教会の特徴は古代エジプト語の次に使用されたコプト語で聖書を持っていたことです。その土地の人々が話すアラビア語にあわせて、礼典で使用したであろうコプト語の隣に、それを音読できるようにアラビア文字で並列して書いてありました。


帰宿!

 でも、もう限界です。この地域はオールド・カイロと呼ばれており、昔のカイロの名残を楽しむことができる地域なのだそうですが、既にその体力は残っておらず、そのまま午後3時頃宿に到着しました。宿にも冷房はありませんが、少なくとも天井からぶら下がった扇風機はあります。私たちはそのままぐったりして寝てしまい、起きたのが午後8時でした。ご飯をどうするか迷いましたが、二人で長いこと話し合って、私が夜の街に出て行って、再びコシャリと水のペットボトルを買ってくることになりました。

 そして夜に、日本語のできるその宿主と25ドルのピラミッドツアーについて、砂漠ツアーを検討している二人の日本人客の前で、私は疑問を投げかけました。「最初に決めたとおりだから。」ということで、この宿は一泊12ドル程度なのですが、結局ずっと高い値段が付いてしまいました。