エジプト・イスラエル旅行記 − 8月10日


イスラエルへ出発


 次の朝、徒歩で地下鉄の駅に向かい、一駅乗ってシェラトンホテルに向かいました。どこで待つのか妻はホテルの人に聞いていましたが、私は遠くで立っている数人を見て、すぐそこが待ち合わせ場所だと感づきました。近づけば、やはりそうですイスラエル人や離散のユダヤ人です。聞かなくても分かります、99年の旅行の時に体験した感覚がよみがえってきました。もう既に、ここから「イスラエル」が始まりました。そして出発です。時刻は朝8時半です。



 そしてこのバス旅行が、そのまま聖書の旅となります。上の地図の赤線が、かつてイスラエルの民が歩いたであろう所です。エジプトのゴシェン(Goshen)の地から出て、紅海を渡り、それからシナイ半島の左沿いを南下し、シナイ山のふもとまで行きます。そして北上してカデシュ・バルネア(Kadesh Barnea)まで北上しますが、そこで不信仰に陥り40年間この砂漠を放浪していました。私たちはシナイ山には行けませんが、彼らが放浪していたシナイ砂漠を十分満喫できるわけです。


圧倒されるシナイ砂漠

 私たちはカイロから(上の地図だとギザ(Giza)の近くから)スエズまで、まず行きます。ちょうどスエズ湾(Gulf of Suez)の北端の上に位置します。そこでスエズ運河を渡り(実際はトンネルをくぐり)、ほぼ直線でシナイ半島を横断し、紅海のアカバ湾(Gulf of Aqaba)の北端にあるターバ(Taba)へ向かいます。カイロからターバまで、休憩時間を入れて7時間かかりました。

 バスの中はエアコンが入っています。カイロ市内を出るとすぐに緑はなくなります、ただスエズに行くまではわずかにあります。スエズ運河に近づいたら検問所がありました。そこを通って右に曲がり直線し、それから左に曲がるとトンネルです。後で分かったのですが、ここがスエズ運河で、車で移動していると運河を見ることができません。

 そして運河を通り越すと、わずかにあった緑は完全になくなります。この状態が、イスラエルの南端の町エイラットに隣接するエジプト側の町ターバに行くまで、5時間ぐらいでしょうかずっと続くのです。これぞシナイ砂漠なんだと、私は本当に感動しました。

 砂漠と言っても、いろいろな顔があることに気づきました。始めはなだらかな丘陵になっており、その間を走ります。2時間ぐらいして完全に平坦な平野になりました。これがまた2−3時間続きます。左側には送電線らしきものがあるだけで、他に何もありません。そしてターバに近づくと、今度は非常にごつごつした高い山の間を通ります。

 砂漠横断の途中で休憩が入りました。どれも非常に小さい町です。お店の中は日陰ですから何とか休めますが、外に出ると生まれてから感じたことのない灼熱の暑さを感じました。そしてカイロよりも乾燥しています。

 この暑さと荒涼とした景色の中でかつてイスラエルの民は40年も放浪していたのかと思うと、信じられませんでした。そして日陰とそうでないところの暑さの違いから、昼の雲の柱がいかに貴重、いや、それによって実際に灼熱の地獄の中で死なずに生存することができたのかが理解できました。
あなたは、大きなあわれみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。昼間は雲の柱が彼らから離れないで、道中、彼らを導き、夜には火の柱が彼らの行くべき道を照らしました。(ネヘミヤ9:19)
 またエジプト、そしてこの荒野の生活を送った神の民にとって、どれほど「乳と蜜の流れる地」が、救いそのものであったかを実感できました。


ついに国境へ

 そしてターバにやってきました。正面に黄褐色の山々の間から真っ青な海が見えました。紅海です。なんと美しいことか!ターバはリゾート地として発達しています。そこで車を降りました。イスラエル側で別のバスに乗り換えるとのことです。入国審査は個々人が徒歩で通過しなければいけません。初めはエジプト側で出国手続きです。再び何だかよく分からないのですが、書類に貼り付ける切手みたいなのを買わされて2ドルかかりました。

 この時に気づいたのですが、審査官のブースのところに、「再びイスラエルからエジプトに入国する人は、再入国許可を別の部屋で申請してください。」との紙が貼ってありました。本当は、1)カイロ国際空港で、他の観光客と同じように一次入国ビザを発行してもらう。2)そしてこのターバで再入国許可の手続きを取る、ことが出来たことが分かったのです。そうしたらもっと安くなるはずでした。ただインターネットで、日本人の旅行者がエジプトから陸路でイスラエルに入る時、かなり審査官からの尋問に遭って時間を取られるという話を読んでいました。他の同乗の、おそらくほとんどはイスラエル人であろう旅行者に、外国人の私たちのために迷惑をかけたくなかったのと、東京のエジプト大使館に問い合わせて、複数回入国ビザを発行してもらうしかないとのことだったので、発行してもらいました。

 だからエジプトの審査官は、私たちが複数回入国ビザを持っているのにいささか驚いているようでした。そして、「これなら何の問題もない」とのことですぐにスタンプを押してくれました。

 50メートルぐらい歩くとイスラエル側の入国管理局があります。右側には鮮やかなコバルトブルー色をした紅海を目にしながら歩きます。ここの入国審査場は世界で一番美しい審査場ではないかと感動しました。

 そしてイスラエル側では、まず予想通り、白いシャツを着たユダヤ人のお姉さんが待っていました。私がかつてベングリオン国際空港でこのお姉さんたちの尋問を受け、結局、別室ですべての所持物の入念な検査を受けたのです。そしてネット上でも、ヨルダン側から入国する際の記録があり、「ユダヤ姉ちゃん」という言葉を使って時間がかかる審査について説明している人がいたので、私もそれを覚悟していたのです。ところが、今度は妻もいるからなのか、「あなたたちのコネクション(?)は何なのですか?」「武器は所持していませんね。」という質問だけですぐ通してくれました。

 そして次に確か税関の人、それから実際の入国審査官です。手前のお姉さんは、テロ対策用の質問であり実際の審査はこちら側です。ここでも同じ質問を受けました。まず妻が通過しました。そして私の時に、彼女は疑いをかけました。歳の違いから私たちが夫婦であることを疑ったようです。妻が戻ってきて自分の生年月日を言うと、あまり英語の得意そうではないそのお姉さんは、あきらめて通してくれました。


バスの乗車客

 国境を通れば、その雰囲気もがらっと変わります。こちら側はイスラエルのエイラットです。海の家みたいなお店があり、そこできれいな、輝いている紅海と黄褐色に輝くヨルダン側の山を眺めながら、他の旅行者が来るのを待っていました。

 他に待っている乗客と少し知り合いになりました。タンクトップの10代であろうお姉ちゃんは、生粋のイスラエル人に見えます。そしてスペイン語が出来るというスキンヘッドのお兄さんです。言葉だけでなく顔もヒスパニックっぽいですがユダヤ人です。待っている間この二人はビールを何瓶が飲んで、タバコも吸っていました。

 そしてバスの中でアラビア語の新聞を読み、エジプトの同乗者とアラビア語で話していたおじさんも実はユダヤ人でイスラエル人です。エジプトではエジプト人に間違えられていたそうです。でも、彼の話すアラビア語がなまっている、おかしい、と思われたそうです。同じ英語でも、アメリカ、イギリス、オーストラリアで発音や表現がかなり違うように、アラビア語も違うとのことです。

 その他に、完全に白人の肌で金髪の女性もいます。「アメリカのユダヤ人ぽいなあ」と思っていたら、当たりです。出身地も聞いたら、なんとサンディエゴで私たちがかつて住んでいた町からそう遠くありません。

 その他、黒人の男性が一時間ぐらいしたら審査を終えてやってきました。彼は手に聖書を持っていたのを出発する時に見ています。僕らと同じ聖地旅行者なのかなと思ったら、兄弟がテルアビブに住んでいるとのことで、彼を訪問するとのことです。南アフリカから来ました。ちょっと審査が厳しかったようです。

 そしてたぶん審査が大変だろうなと思っていた、いかにもパレスチナ系っぽい家族がいました。お父さんはいないようですが、高校生か中学生ぐらいの娘さん二人、そしてお母さんとおばあさんと推測していましたが、彼らも1時間半ぐらいしたら出てきました。聞くとエジプト国籍とのことで、やはり尋問は厳しかったようです。

 他の乗車客もみな通過したのですが、二人の女性だけがやってきません。もう日も沈みかけていました。さすがに待ち疲れてきました。ようやく出てきたときは3時間後です。結局、私たちは迷惑をかけることはありませんでしたが、他の乗車客を待って国境で時間が過ぎました。

 このバスの乗客だけでも、聖地旅行に参加する私たちも含めて「イスラエル」の縮図です。世俗的なイスラエル人、離散のユダヤ人が一時的に定住している人、中東系でアラビア語も自由に操れるユダヤ人、パレスチナ系、そして私たちみたいに、何か特別な宗教的動機をもって来ている人たちです。これに黒い帽子をかぶった宗教的ユダヤ人が来たら本当に縮図になるでしょう、これだけイスラエルは多様でアメリカ以上に「るつぼ」です(参考:Jewish Society, Minority Communities)。

 この間、軍服は着ていませんが、裸身の機関銃を持って警護しているイスラエル兵のお兄さんがいました。これも99年によく見かけた光景です。途中で交代していました、それだけ長くここで時間を過ごしていたのです。


乳と蜜の流れる地

 ついにバスが出発します。そのパレスチナ系の家族のおばあさんが、大きなかばんを引きずって運んでいます。誰も助けません。思い余って私がバスから降りて運んであげたら、「シュクラン(?)」と連発しています。「ありがとう」と言っているのでしょう。イスラエルに滞在した日本人の本を読んだことがありますが、とにかくイスラエル人はぶっきらぼうで、他人のことはお構いなしと、つぶやいていました。荒野の文化で生きている、中東の人たちの気質ではないかと思います。

 そしてエイラットを出発しました。ネゲブ砂漠を走ります。ああ、すべてがエジプトと違います!蒸し蒸ししているカイロ、そして荒涼としたシナイ半島から出てきて、ぽつぽつと緑が出てきて、さらに作物のプランテーションもありと、すべてが変わりました。このときに、なぜここが「乳と蜜の流れる地」と呼ばれたのか理解できました。それは非常に甘いというか、過酷な生活からの脱出を意味する言葉であることを理解しました。
主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。(出エジプト3:7)

その日、彼らをエジプトの地から連れ出し、わたしが彼らのために探り出した乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に入れることを、彼らに誓った。(エゼキエル20:6)
 砂漠の途中で、夕食も兼ねて下車しました。マクドナルドがあります。とにかく入りました。ビックマックセットとビックマックを単品で買いました。なんと約15ドル!イスラエルの物価は、日本のそれどころではありません。もっともっと高いです。しかも、大変なことに気づきました。ビックマックがどうもおいしくないのです。それもそのはず、チーズが入っていません。そしてマヨネーズも使われていないようです。さらに肉自体もなんかかたくてぱさぱさしています。そうです!コシェル(食物規定)のせいです。肉製品と一緒に乳製品を摂取してはいけないという規定(出エジプト23:19の拡大解釈)、そして肉は完全に血抜きをしなければいけない規定(レビ17:10‐11)のために、これだけまずくなりました。

 どこでもそうですが、その地に入ったらその地の食物を取るべきです。次の日の朝は、おいしい朝食にありつけました。

 そして私たちはバスの中で爆睡し、気づいたらテルアビブにいました。そこで多くの人が降りて残りの人がエルサレムに行きました。私たちはバス・セントラル・ステーションの前で降ろしてもらいました。もう12時を回っています。それでも結構、黒い服を着た若い子たちがたむろしています。ここは超正統派ユダヤ教徒の地区だからです。


ついにエルサレム

 宿を見つけるのが少し大変でした。車どおりから外れて、閑静な住宅街の中にあるからです。もう戸は閉まっていました。けれども私たちの名前が書いてある紙がはさんであり、鍵の位置も教えてあり、そして中に入ると私たちの泊まる部屋のところにも私たちの名前の紙が貼ってありました。そして部屋の中はこじんまりして、こぎれいです。エルサレムの夜は体に優しかったです、涼しい、いや少し寒いぐらいの風が入ってきます。

 朝起きたら、宿主が朝食を作ってくれています。とても気のいい人でした。食事もおいしい!野菜がたくさん入ったサンドウィッチ、チーズ、ジュースとコーヒーです。これまた、99年のイスラエル旅行を思い出します。野菜と果物が豊富で、それが主体になっています。

 彼が、去年と今年は日本人の客がいなくなったと彼が言っていたので、私は、地球の歩き方のイスラエル版がもう絶版になったことを話しました。中東の他の国々はほとんどあるのに、なぜかイスラエル版はありません。そして古本でさえ既に存在していないのです。ついに図書館で2003−2003年版を見つけ、期間を延長したりしてずっと借りたのです。なんで、こんな良い国のガイドブックがないのか!と私は嘆きました。宿主さんは、今、日本のガイドブックの人と連絡を取っていて、これから出版する予定だとのことを話しておられました。後で分かりましたが、地球の歩き方の人がこの宿で宿泊しながら取材をするようです。(ちなみに、私が投稿してもいいことをその人に書きましたが、返答なしです。)

 とてもいい宿なので、エルサレムに行く人はぜひ泊まってください。Allenby #2 B&B

 エジプトの宿で会った日本人の人にもイスラエルのことを話したのですが、彼はテロで危なくないのかという質問をされました。けれども、イスラエルがとても美しい国であること、人々が多様で、宗教も多様で、エキゾチックなところであることを話すと、「ずいぶん、見方が変わりました」と彼は言いました。「危険ではないのか」が、どこに行っても、誰からも受ける質問です。これから旅行記を書き続けますが、それは「日本は地震が多いから、観光は危険ではないのか。」と言っているのと同じくらい、ほとんど滑稽な話なのです。しかも自爆テロはここ数年激減し、観光客も増加している最中なのです。

****西日本新聞の記事から****
イスラエル、外国人観光客が最高に 治安改善で8年ぶり更新へ
2008年7月26日 17:10

 観光客や巡礼者でにぎわう、エルサレム旧市街の「神殿の丘」周辺=22日(共同) パレスチナとの紛争で観光業が低迷していたイスラエルで、治安の改善傾向から外国人観光客が戻り始め、ことしは8年ぶりに過去最高を更新する勢いだ。観光関係者は日本人客の増加にも期待している。

 聖地エルサレムなど世界的な文化遺産があるイスラエルでは、観光客や巡礼者などの外国人旅行者数が2000年に過去最多の270万人に達した。しかし、同年秋にパレスチナとの大規模衝突が始まり、02年は90万人足らずに激減した。その後、07年に230万人まで回復。ことし上半期も前年同期比45%増と好調で、観光省は通年で280万人の来訪を予想する。

 外国人旅行者の国別数は、07年実績で米国が54万人と首位。2位はフランスで25万人。日本からは1万1000人で、キリスト教徒が多い韓国の約3分の1にとどまっている。
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 確かにエジプトには、とてつもなくたくさんの観光客がいました。そしてイスラエルにも多いですが、エジプトには適いません。でも私はあえて、エジプトの気候や人々、土地の過酷さ強調しました。そしてイスラエルの美しさを強調します。この評価は普通の一般のとは、正反対でしょう。

 なぜか?聖書がそのように描いているからです。そして、私もそのように実感しているからです。


後記:8月9日の旅行記で紹介したサイトや、他のサイトを読んでいたら興味深い写真がありました、ここをクリックしてください。エジプト第一王朝のナルメル王が描かれている化粧版で、他のサイトによるとエジプト博物館の入口にの正面に展示してあるそうです。こう説明してありますね。「パレットでナルメル王は、棍棒を振り上げて捕虜を打とうとしている。この図柄は「武力によって支配する」王の権力を示しており、それはなんとローマ時代にまで受け継がれたのである。エスナにあるクヌム神殿にも棍棒で捕虜を打とうとしている王の図があるが、ローマ皇帝ティトゥスであることがわかっている。」

 この姿、何かの場面を思い出しませんか?
そのとき、(モーセは)自分の同胞のひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。(出エジプト3:7)
 この打っている姿は、エジプトで起こった単なる一場面ではなく、その国の統治の性質を代表していたようです。エジプトという国の過酷さをよく表しています。