エジプト・イスラエル旅行記 − 8月11日

エルサレム新市街闊歩

 前回は8月11日の朝までのことを書きました。その続きです。

 11日の予定の最優先事項は「Hope For Today」のグループに会うことです。私が宿をAllenby #2 B&Bにしたのは、HFT(Hope For Today)が泊まる予定のクラウンプラザ・ホテルが徒歩距離圏内にあるためです。荷物をとりあえずAllenbyに置いておき、徒歩でこの辺りを散歩して、午後に戻ってきてホテルに移動しようと思っていました。

 この宿とクラウンプラザホテルの間には、旧市街から新市街をつなぐ一番主要な「ヨッパ(Jaffa)通り」が通っています。下の地図をご覧ください、左上にセントラル・バス・ステーション(Central Bus Station)が見えますね。そのすぐ裏にAllenbyがあります。そしてヤッファ通りの下を見ていくとCroun Plazaとありますね。そこがクラウンプラザ・ホテルです。ここは、その南を見ると公園になっているのがお分かりでしょうか?そこは、官公庁、最高裁、クネセット(Knesset 国会議事堂)、そしてイスラエル博物館もある丘になっています。そして地図の右端に城壁の絵がありますね、それが旧市街です。旧市街の西側のこの一帯が、西エルサレムまたは新市街と呼ばれているところです。ここは、近現代的なユダヤ色の濃い地区です。旧市街に行けば、古来からのキリスト教やイスラム教を含め、古めかしい雰囲気があり、そしてオリーブ山などの東エルサレムに行けば主にアラブ人(イスラエル国籍を持っている)が住んでいます。



 私たちはヨッパ通りを軸にして行動しました。東方へと進みます。ここは旧市街までずっとなだらかな下り坂になっています。


郵便局と市場

 私たちはまず、マハネ・イェフダ(Mahane Yehuda)市場に向かいました。いわゆるそのままの「市場」で、上野のアメ横みたいなエルサレムで代表的な所です。けれども妻は、まずトラベラーズ・チェックを現金化したいということで、通り沿いの銀行に向かいました。行員に郵便局に行ったほうがいいと言われ、市場の近くの小さな郵便局に立ち寄りました。

 入口にお兄さんがいて、私たちが持っていたウェストポーチの中身を調べました。新市街では特に、このようにどこに行ってもお店や建物に入る時に調べられます。そして順番が来て、妻が持ってきたシティバンクのトラベラーズ・チェックを局員の人がコンピューターで調べました。なっ、なんと、この銀行のトラベラーズ・チェックは取り扱っていないのです。後でアメリカ人のツアーの仲間にこの話をしたら、「アメリカで一番有名な銀行の一つなのに・・・」と口を揃えて言いました。私が99年に来た時にはドルの現金を携帯していたのでしょうか、記憶が定かではありませんが、エジプトだけでなくここイスラエルでもトラベラーズ・チェックはあまり役に立たないことを今回初めて知りました。現金が一番いいです。

 そしてそこから市場へと向かいますが、地図を見ながら歩いてもなかなか見つかりません。エルサレムは東京のように、細かい道がお互い絡まるようにして走っているので、すぐ迷子になります。何となく勘で、ある小道を曲がったら、あった!あった!野菜売り場のようです。新鮮な野菜がずらりと並んでいます。少し歩くと果物もありました。ここから、妻はこの場所にやみ付きなりました。

 物価の高いイスラエルですが、ここは世界有数の農業国です。砂漠のある国で信じられないかもしれませんが、イスラエル中に灌漑施設の整った農場があります。私たちにはイスラエル産は見慣れませんが、それは主な輸出先がヨーロッパだからです。だから、野菜や果物は日本より安いです。そして何よりも新鮮です。ここで妻はいちじくとバナナを買いました。バナナもイスラエル産ですが、これはフィリピン産のほうがおいしいですね。でもいちじくは、さすが聖書にも出てくる果物だけあって、本当に新鮮でおいしいです。
しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。イザヤ書32:15

超正統派の人

 そしてさらに東に進み、途中でHANEVI'IMに折れて、メア・シェアーリーム(MEA SHEARIM)へ向かいました。そこは、今でも生活では、ヘブル語ではなくイディッシュ語を話している超正統派ユダヤ教の人たちが暮らしている地区だということなので、興味がありました。行ってみたのですが、特に他の住宅地と趣が異なることもありませんでした。というのも、今、私たちが歩いているこの一帯そのものが、超正統派の人たちが住んでいる地区だからです。

 今回はこんなに正統派の人たちと会っていいものか、といわんばかりに会いました。黒の帽子や白のシャツなどの身なりは、微妙にそのスタイルが違います。後でツアーのガイドが説明してくれましたが、同じ超正統派でもいろいろなグループに分かれているためだということです。ツアーのメンバーの一人が、「ちょうどプロテスタントの中でも、長老派、バプテスト、メソジスト・・・と分かれているようにですか?」と聞くと、「そうです!その通り。」と答えていました。

 本当はこの人たちの姿をたくさん写真に取りたかったのですが、彼らは写真をも偶像(写像も英語では同じ"image")とみなすので、かなり控えました。

 ちょっと寂しかったのは、私たち東洋人の旅行客を見ても、一見、何ら興味を示してくれなかったことです。エジプトから来たばかりだったので、この正反対の反応にはとまどいました。特に若い子たちがたくさん歩いているので、興味を示してくれないかと。世俗的な人(つまり正統派以外の一般の人々)なら、Chinese?(中国人)とか言って、必ず誰かしら声をかけてきます。彼らにとって東洋人は珍しいですから。けれども、挨拶さえしようとしてこなかったのは、やはりユダヤ教にある仲間内意識の強さからなのでしょうか、外に対して関心を持たないという傾向があるのかもしれません。ただ、一度だけ後で若い女の子に道を尋ねたら、すぐに答えてくれました。

 後でガイドの説明によると、彼らは専ら、自分たちの宗教活動を行なって生活しているそうです。生活費が政府から賄われているとのこと。でも多額ではありませんから、慎ましい生活だそうです。そして子供たちはもちろん学校に通っていますが、それは同時に神学校です。そして、非常に子沢山のようでイスラエルのユダヤ人人口増加に貢献しているとのこと。アラブ人は子沢山なのですが、日本人と同じようにユダヤ人は子を生まない傾向にあり、それでアラブ人の比率が高まっているので、国としては少し憂慮しているらしいです。

 やはり、彼らの服装で気になることがありました。イスラム教徒ほどではないですが、「あんな格好をして暑くないのかな?」です。男の子の白シャツの下から、イエス様もそうであっただろう「ふさ」が出ています。ユダヤ教のショールを身に付けているためです。白シャツだけで十分なのに、その下にショール?と思いました。

 ところでエルサレムの気候も、さすが夏です、とても暑かったです。ただ日陰に入ると、急に涼しくなります。南カリフォルニアの地中海性気候に少し似ているかもしれません。夜が逆に少し寒いぐらいでした。


ベン・イェフダ通り

 そして私たちは方向を変えて南に歩きました。ヨッパ通りにまた出てきて、そこの角においしそうなベーカリーのお店で、甘そうなドーナッツを買い、後で食べるおやつにしました。ここら辺はみな、ヨーロッパ風のちょっとおしゃれなお店が並んでいます。

 目指す行き先は、「タイム・エレベーター」だったのですが、その途中で新市街で最も中心的なショッピング通りであるベン・イェフダ通りに入りました。ところで、ベン・イェフダというのは人の名前で、ラテン語のように経典にしか出ない死語となっていたヘブル語を日常使う言語として復活させた人です。

 ここに、AHAVA(アハバ)という死海クリームの直営店がありました。これはぜひ買いたいクリームだったので、実はずっと日用雑貨店があれば入って探していました。ハンドクリーム2本あるいはフットクリームとの1セットで75シェケル(1シェケル=約30円)というバーゲンがありましたので、これをゲットしました。

 観光客相手のお店だからここでなら、と思って、トラベラーズチェックを出したところ「これはトラベラーズチェックではないでしょう。(?)」と言われてしまいました。けれども携帯電話で誰かと話して使えるとの確認を得たみたいで、受け取ってくれました。


タイム・エレベーター

 そしてSALOMONという小道を南に歩いて、さらに右に曲がりBEN SIRAへ東に行くと左側に「タイム・エレベーター」があります。これはエルサレムの歴史を、その始まり、つまりアブラハムがイサクささげたところから、1967年の六日戦争までの鳥瞰的な歴史を、ディスニーランドのスター・ツアーズと同じような、バーチャル・ジェットコースターに乗って観て行くというものです。子ども用の歴史教材というところです。

 エルサレムは、とにかく地形においても、歴史的においても、考古学においても複雑な町であるとの実感を99年の旅で得ていましたので、なるべく分かりやすく妻に伝えたいという思いから、この乗り物に乗ることを考えました。同じように鳥瞰的な歴史が展示されているところで、旧市街のヨッパ門(上の地図の右端)のところにある「ダビデの塔」にもあります。けれども旧市街まで徒歩で行ったら疲れるし、なるべく平易に見られるようにという、きよきよのさまざまな配慮(?)があったのです。

 上映時間まで30分ほど待って、始まりました。外国語で聞く人はヘッドホンを付けます。なかなか私は面白かったのですが、なっなんと、彼女はこの子供だましの乗り物がつまらなかった、というようなことを言っています。いろいろ考えたのに〜と私はがっかりしました。

 後で実際のエルサレムをツアーグループで回っている時には、「情報過多で消化不良状態だ」と漏らしていました。そして「リピーターになる人の気持ちがこれで分かった。一回だけでは分からないんだ。」と言いました。「だから、だから言ったじゃないか!」と私は心の中で叫びました。


エルサレムの歴史

 皆さんもぜひ、エルサレムの歴史を把握されると良いと思います。ぜひ次のサイトに入って、ざっと一読されてみるといいでしょう。

 イスラエル大使館 国の紹介

 読めば分かりますが、聖書の歴史そのままです。けれども、歴史は聖書時代を越えて現代に至るまで続いています。これが味噌で、この現代に至るまでの事も、実は預言という形で聖書の中に記述されているのです。(注:08年9月現在、リンクの記事の続きが読めない状態にあります。ミルトスのイスラエル・ユダヤ情報BANKにも同じ記事があるのでご参照ください。英語のサイトもあります、こちら{PDFファイルはこちら}です。)

1.アブラハムがイサクをささげる
2.ダビデが奪還、ダビデの町を建てる。これがエルサレムの町の始まり。
3.ソロモンの第一神殿
4.バビロンによる神殿破壊
5.帰還の民による神殿再建。第二神殿。
6.ギリシヤ時代。神殿が汚されるが、マカベヤ家による奪還。
7.ローマ支配。
8.キリストの死、復活。
9.ローマによる、神殿破壊。ここで完全に異邦人にエルサレムの支配下に入る。
 a) キリスト教時代。(ビザンチン)
 b) イスラム教の台頭、アラブ人の支配
 c)十字軍の奪還
 d)イスラムによる奪還
 e)マムルーク朝(イスラム)
 d)オスマントルコ ここでイスラエルの地が荒れ果てる
 e)第一次大戦後、英国委任統治が始まる。 ここがシオニズムの始まり。帰還が始まる。
10.第二世界大戦後、イスラエルが1948年に建国。直後に第一次中東戦争
11.1967年、六日戦争。ここでヨルダンから東エルサレムを奪還、このときからエルサレムはイスラエルの支配に。


昼食はファラフェル

 そしてベン・イェフーダ通りに戻りました。99年の時にとても気に入ったファラフェルというファーストフード一人分を、そこのお店で注文しました。もうバナナやドーナッツを買って食べていましたから、これで十分です。

 そしてベン・イェフーダには、たくさんの両替商のお店があります。さすがユダヤ人!と思ってしまいました。そこで、日本円の現金からシェケルに換えてもらいました。交換レートは銀行よりいいです。


クラウンプラザ

 そこからベン・イェフーダをひたすら西へ歩き、途中で水のボトルを買って、BETZALELという通りに変わりますがとにかく歩きました。エルサレムは山々の上にあるから、とにかく起伏が激しい。いったん下りて、それからまた上り、一苦労です。

 まずAllenbyに戻って荷物を受け取り、クラウンプラザに向かいました。

 受付でチェックインの手続きをしていると、後ろにはデービッド・ホーキングの秘書、エリザベスがいました!ツアー団体より一足早く到着したとのことです。でもグループも無事にベングリオン国際空港に午後1時に到着しているとのこと。これで安心です。

 ところでこのホテル、修繕がかなり必要です。後で分かったのですが、2000年から始まったパレスチナによる連続自爆テロのために、イスラエルの観光収入はがた落ちになりました。そしてここ数年どんどん盛り返しているのですが、これでようやく改修工事に着手できるようになったそうです。

 部屋に入ると、何となくずっと客が入っていなかったのでは?という古さを感じました。小さな冷蔵庫(ミニ・バー)から水が漏れています。修理の人も頼んだのに、なかなか来ませんでした。さらに、電話がおかしいです。一度電話が鳴ったのですが、二台のうち一台の受話器が作動していないようで、受話器を取っても声が聞こえません。後で分かったのですが、その電話はエリザベスからのもので、ツアー団体はスコパス山に向かっていたそうです。そこでエルサレムを一望して、かつ聖餐式を執り行ったそうです。ああ、残念!

 とにかく自分の部屋に入れたので、後の時間をどう過ごそうかと思っていました。本当は、聖書博物館というのがイスラエル博物館の近くにあるので行きたいと思っていました。またクネセットもその日は、議会を見学できます。でも疲れていたし、時間的にも夕食まであまりないのであきらめました。

 その代わり、妻がマナヘ・イェフダ市場にまた行きたいと言い出します。しょうがないから、一緒について行ってあげました。そこで今度は、ドライフルーツを購入です。ナツメと杏です。これが後で、旅行期間中の栄養補給食になりました。

 もどって6時半ぐらいになっていました。さすがお腹が空いていたので、私たちは先に食堂へ。前の旅行の時と同じ、ビュッフェ形式です。やはり、サラダの種類が非常に豊富で、チーズ・ヨーグルトも多種多様、その他にも健康的な料理が並んでいます。7時ぐらいになったら、やっとグループがやって来ました。ようやく合流できた、と一安心です。

 その中には、99年の時に来ていて、それからずっと親交を持っているジョンとシャーリーご夫妻もいました。久しぶりの再会を喜びました。そして、今回は多くの人が初めてだとのことです。メンバーも前回に比べると若い人は少なく、比較的落ち着いている雰囲気です。


ショッピングモールになっているバスセンター

 部屋に戻って、よりによって私たちは再び外出しました。イスラエルはITが発達しているから、いいインターネットカフェも必ず見つかるはず、と思っていたのです。なんとクラウンプラザは、30分4.6ドルの使用料を請求します。ならば外へ、と思ったのです。

 思い切って、歩いている正統派の女の子に聞いてみました。そうしたら、ショッピングモールの中にあるとすぐに答えてくれました。その通りに行くと、なんとそこはセントラル・バスステーションではありませんか!若者が主にバスを利用するので、イスラエル中にバスが出ているそのバスセンターをそのように変えたのでしょう。

 荷物検査を通って中に入ると、若者が好きそうなお店がたくさん並んでいます。インターネットカフェを見つけました。中では超正統派の男の子がネットに耽っています。不思議な光景でした。そしてお店の人にいくらかを聞きました。「中に入ったらお金は取られるけれども、この建物には無線LANが走っている」とのこと!ということで、さらに、よりによって私たちはホテルに戻りパソコンを持って来ました。さっそく使うと、う〜ん弱いのしかありません。(でも、後日強くなりました。)そこで何とか、日本人の友人の方々に実況のイスラエル旅行記を送信しました。

 そのカフェの近くで私たちはネットサーフィンをしていたのですが、中学生ぐらいの男の子、女の子が近くに座っていて、あまりできない英語を駆使して私たちに話しかけてきます。私たちが日本人だと知ると、ものすごくはしゃぎ始めます。勢いで私は、「いっしょに写真撮っていいか。」と聞いたら、もっとはしゃいで喜んでいました。

 一つの御言葉を引用しましょう。
万軍の主はこう仰せられる。「再び、エルサレムの広場には、老いた男、老いた女がすわり、年寄りになって、みな手に杖を持とう。町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう。」(ゼカリヤ書8:4-5)
 このような小さな出来事でさえ、イスラエルそしてエルサレムでは神の預言の確かさを確認することになります。ただ無論、荷物検査などしなければならず、まだまだ危険はありますから、完全な成就ではありません。

 今回の旅行は妻と一緒だったおかげで、単純な聖地観光でなくエルサレムの町を何度も闊歩して、ここの生活に触れることができました。