エジプト・イスラエル旅行記 − 8月13日その2

1.西壁(嘆きの壁) 2.神殿の丘(岩のドームがあるところ) 3.エルサレム考古学公園(神殿周辺の発掘現場)

4.神殿再建財団(The Temple Institute)
  (上のリンクは、第三神殿について多くの教材を提供しています。Study Toolsの部分をクリックしてください。)

 私たちはエルサレム考古学公園から階段を上って、嘆きの壁の広場辺りに出ます。そしてさらに階段を上がってユダヤ人地区へと向かいました。先ほど言及しましたように、東のケデロンの谷、南のヒノムの谷に囲まれているエルサレムですが、さらにその中にチロペオンの谷が通っています。(チロペオンの谷とケデロンの谷の間にあるオフェルの丘がダビデの町です。)そのため私たちは階段を上がってユダヤ人地区に行きます。

 その地区の入口辺りに、驚くべき展示物がありました。ガラスケースの中に入っている、高さ2メートルはあると思われるミノラ(燭台)です。なんと純金だそうです。これは単なる模型ではなく、第三神殿において実際に使うことを考えて造ったものです。在ウクライナのユダヤ人の醵金で作ることができたそうです。

 そして神殿再建財団に到着しました。私は以前これを「神殿協会」と訳していましたが、この団体の性質を今回知るところとなりました。他のサイトで「神殿再建財団」となっていてこれはぴったりの名称だと思い、これを採用したいと思います。


目で見ることができる神殿

 ところで、皆さんが聖書通読を始めた時の頃のことを思い出してください。創世記を読むのは比較的容易です。興味深い物語が続くからです。そして出エジプト記の20章、イスラエルの出エジプトから、シナイ山に宿営するところまでの話もついて行けます。問題はそこからです。21-23章は、司法的な十戒の適用(定め)があり、そして24章から幕屋についての説明が延々と続きます。まるで建築士でもなければ理解できないような文面が続きます。ここで通読も頓挫することが多いです。

 さらにレビ記でも、その聖所においての動物のいけにえの教えが書かれており、これも読むのが困難です。さらにソロモンが神殿を建てるとき、列王記第一に書いてある神殿の構造、さらに歴代誌に書いてある、レビ人らの神殿の奉仕など、数多くの規定が書かれてあるにも関わらず、あまりにも複雑で読むのに困難を感じるでしょう。さらに終わりの時の神殿の幻を読んでみてください。エゼキエル書40章以降に書いてあります。ここなど、牧師もどうやって説教すればよいか悩むところです。

 けれども、これを図や絵で見れば一目瞭然となります。実は神はこのことを意図されていました。一目見て、神の栄光を知ることができるようにこれらのものを造りなさいと命じられました。

 そしてこれは、天にあるものの模型であり、イエス・キリストご自身の栄光を現しています(出エジプト24-27章のメッセージ参照)。だから聖書には、神殿礼拝の記述が数多くあるのです。私たちは人間の行為に注目するのに対して、聖書は神ご自身の性質とお働きに焦点を当てています(こちらの拙エッセイを参照)。

 したがって、神殿再建財団を訪れることは私たちクリスチャンにとって信仰的に大きな助けになります。もしこのような熱心なユダヤ教徒の存在がなければ、神殿についての事細かな内容を把握することはできないでしょう。

 ただ視覚的教材という意味だけでここを訪れると、少し恐ろしく感じることがあります。これらは模型でも教材でもなく「本物」だからです。実際に第三神殿で用いようとして作っているものであり、患難期における神殿建設を間近に感じることができるからです。


各祭具の説明

 私たちのグループは二手に分かれて、それぞれ、祭具が展示されている前で若いユダヤ人女性から説明を受けました。今回はカリフォルニアに住んでいたことがある人だったので、英語も分かりやすく、説明も上手でした。かつてのヘロデ神殿の絵を見せながら、説明してくださいました。

 至聖所があるのは西壁なので、南壁よりも西壁が重要だということです。東側から入り、西側に行けば行くほど聖くなります。つまり外の庭、神殿、聖所、そして至聖所です。そして今の嘆きの壁はごく一部であり、その高さと長さの全貌を西壁トンネルで見ることができます。そしてトンネルの中で、至聖所に最も近いところに近づくことができます。

 そして「なぜ、礼拝が東から西へ向いていたのか?」という問いに対して、非常に興味深いことを話してくださいました。神殿が建てられた当時、世界中の人々は偶像を拝んでいました。そして太陽を神として拝んでいました。そして日が昇る方向、つまり東を向いて拝んでいたのです。そして偶像に、太陽に背を向けて、西を向いてまことの神を礼拝したということです。・・・これには私は感動しました。日本でも初日の出など東を向いて手を叩く習慣がありますね。創造主の礼拝者は、周りの偶像礼拝とはっきりと区別した信仰生活を歩まなければいけないことを学びました。

 そして大祭司の装束について説明してくださいました。他の祭司は亜麻布の服ですが、大祭司のは特別です。ヘブル語で祭司は「コヘン」です。ユダヤ人の名前でコヘンが多いです。そしてどの時代でも世界のどこにいても同じ遺伝子があり、それがアロンから始まるコヘンの家系です。

 大祭司が身に着けている青服の色は、特別なかたつむりから取れる染色です。非常に希少なため、青色の服を身に着けている人は裕福であったそうです。一本の撚り糸で30匹のかたつむりが必要なので祭服全体では、どれだけ数多くのかたつむりが必要であったか知れません。

 そして胸当てについてですが、そこに12の宝石が埋め込まれていますね。この胸当ては主と意思疎通を図るために用いられました。ダビデが主にみこころを伺ったときがそうでした。そして答えが、胸当てのイスラエル12部族の名から出てくる輝きによって返ってきたそうです。(以上の音声の説明はこちら。)

 そして香壇についての説明では、香は朝と夕に焚くそうです。その香は非常に強く良い匂いがすると言っていました(99年の旅行で嗅ぎましたが、本当に強烈でした。ちょうど仏壇の香を五倍にしたような・・・)。そしてその煙は神殿の外にも出て行ったそうです。そして町の市場でもそれを嗅ぐことができ、神殿で何が行なわれたかが分かったそうです。供えのパンの机は物質的な必要を表し、燭台は霊的な必要を満たしましたが、そしてその真中の香壇はそのどちらもを表したと説明しました。

 そして供えのパンの机ですが、週に一度パンを交換します。けれどもパンは腐らず、新鮮なままなそうです。そして週に祭司の務めの交替時に一室に入って、そのパンを分けて食べたそうです。

 そして聖所の外、祭壇の絵を見ましたが、左端にレビ人が列をなしています。ラッパを吹き鳴らしたりして、音楽を奏でています。(以上の音声はこちら

 そして神殿の模型に移り、門が金で出来ていたのに一つだけ銅になっている理由を説明しました。エジプトから巡礼にわざわざイスラエルまで来た人にまつわる話があるそうです。(音声はこちら。)

 そして赤い雌牛(民数19:2)の話をされました。これを見つけるのは非常に困難である話をしばしば聞きますが、彼女は、実際の写真を見せながら、これが少なくとも二、三年前には用意ができていることを話されました(音声はこちら)。


ユダヤ人の霊的生活

 この後に、ここの所長の方が出てこられ、この神殿に対する熱い想いを語られました。

 彼の話は、神殿がユダヤ人の生活の中心であるという話から始まりました。そして、聖書の預言の成就の説明です。ユダヤ人がこの地に戻ってきて、1967年に六日戦争にエルサレムがイスラエルのものとなりました。そしてここに異邦人を含めてやって来ていることは、まさに預言の成就であり、贈り物を携えて来るという(イザヤ60章などの)人々だということです。そして私たちは単なる旅行客ではなくこの預言の成就だということです。・・・これには驚きました。私は正統派ユダヤ教徒の人々に、異邦人を迎え入れる姿勢を見ることはないと考えていたのに、異邦人を含めた神のご計画を話したからです。そして、イザヤ書58章の「すべての民の祈りの家」を引用して、異邦人を含む神殿プロジェクトであることを強調しました。

 でも彼の話は、この神殿建設の事業になるべく多くの人に関わって欲しい、つまり簡単に言うとお金を出して欲しいということでした。

 でも違和感は感じませんでした。ここまで熱心にユダヤ人の霊的生活を考えて話しているのを聞いたことがなかったからです。聖書の預言の成就というと、大抵、イスラエルの土地と国家だけでとどまってしまいますが、霊的生活にまでは考えが及んでいないからです。ですから、資金を出して欲しいというお願いは純粋な霊的復興の手助けをしてほしいという意図を感じたのです。(以上、所長の話はここで聞けます)

 けれども、ここに大きな罠があります。「誠実に間違っている」ということがあるからです。よくデービッドは説教の中で、こう話します。彼は冬に吹雪の中でのフットボールを観ていたそうです。そしてある選手が、間違って味方のゴールにボールを入れて、敵に点を与え、負けてしまったということです。誠実でも、いや誠実であるがゆえに、正しい方向とはまったく逆を進むことがあるのです。

 これがまさしく、神殿再建財団で起こっていることです。決め手は、ユダヤ人がイエスを自分たちのメシヤだとしていないところにあります。ヘブル書の著者は、ユダヤ教ですぐれたものよりも、さらにキリストが優れていることを論じていますが、この方を受け入れてこそ霊的生活が確立されます。イエス様をメシヤとしなければ、神殿建設を可能にする他の人をメシヤにしてしまうだけです。これが反キリストです。ダニエル9章29節、第二テサロニケ3章、黙示録13章に書いてあります。

 ということで、献金を募っていましたが私たちは財布を開けることはありませんでした。けれども、デービッドが先に警告していたのにも関わらず、数人のメンバーが貢献しようとしていました。

 次の映画予告は韓国人監督製作によるもので、ここにこの所長が登場します。



 この後、この財団についての映画を観て、建物を出て昼食を取りました。99年の旅ではあまり気になりませんでしたが、今回は妻とともにいるからなのか節約を心がけました。それで食べ物の値段の高さが目に付きました。私たちのグループが行った、すぐそばのレストランでのファラフェルが18シェケル(約540円)です。別の売り場に行って14シェケルのを買いましたが、同じことをやっているメンバーがいました。そのご夫婦も、「本当に高い!」とこぼしていました。


5.ダビデの町
(上のリンク先は公式サイトです。豊富な写真と映像、説明が掲載されています。)

 そして私たちは、嘆きの壁のほうに戻り、そこに一番近い糞の門からエルサレムの旧市街を出ました。そこでバスが待っています。私たちはここで、長ズボンから半ズボンに履き替えます。なぜなら、これからダビデの町に行き、そこで今でも水が流れているヒゼキヤの地下道を歩くからです。

 ダビデの町は云わば「元祖エルサレム」です。ダビデがエブス人から奪取して、その時からエルサレムが始まりました。ここはまた「シオン」と呼ばれています。

王とその部下がエルサレムに来て、その地の住民エブス人のところに行ったとき、彼らはダビデに言った。「あなたはここに来ることはできない。めしいや足なえさえ、あなたを追い出せる。」彼らは、ダビデがここに来ることができないと、と考えていたからである。しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これが、ダビデの町である。(2サムエル5:6-7)

 そしてここは、非常に最近の発掘場所です。ダビデの町に関して聖書の中に記述されていることが、どんどん発見されています。非常にわくわくする所です。

 ここのビジター・センターに入ったら、すでにデービッドがメッセージを始めていました。(音声はこちらで聞けます。)

ヨシュアがこの地を占領した時、エルサレムは奪取しませんでした。エブス人の手中にあり、約三千年前にダビデが初めて攻め取りました。

そしてダビデはここに自分のための家を造りました(1歴代14:1-2,15:1)。ここで約三千年前の住まいを発掘しました。住居は比較的ありふれた遺跡ですが、ここ歴代誌にはレバノンの杉材が使用されていることが分かります。三千年前では珍しいことです。考古学者は、ダビデが宮殿の隣に作ったこの住まいに興味を持ちました。1986年、丘の東側に住居を見つけましたが、石の住居に挟まれてレバノン杉が発見されました。それ以来、本格的な発掘が始まり、驚くべき発見をしています。

次に、列王記第一2章10節に注目してみたいと思います。「こうして、ダビデは彼の先祖たちとともに眠り、ダビデの町に葬られた。」私はこの発掘に初めから関わっていますが、ヤフダ・マリというラビがダビデの町に関わる聖書の記述をすべての引用を探しました。そして彼が、ユダの善王らがここダビデの町に葬られたことを書いています。そしてこの丘の東側に、これらの王の墓が発見されました。

そして今度は何を発見するか?彼らはギホンの泉を見つけました。数千年も、きれいない新鮮な水が流れています。そしてギホンの川のそばに巨大な岩を見つけました。そこに、ソロモンを王に即位するために油注いだ預言者の名が記されていました。「ナタン」です(1列王1:45)。

そして、列王第二20章と歴代誌第二32章に、ヒゼキヤ王が、ギホンの泉の水を町の中に引くために、古い城壁の外側にさらに城壁を築いたことが書かれています。そして聖書によれば、彼はトンネル(水道)を建てました。これは硬い岩盤を500フィート(約150メートル)貫いています。上のほうからと下のほうからの両側から掘りました。現在の測量法なしに、彼らがちょうど同じ場所で出会ったのです。その会った時点に記念銘板があったのですが、今は博物館にあります。

マナサは邪悪な王でしたが、悔い改めました。そして彼の息子ヨシヤの時に霊的復興が起こりました。けれども神の裁きは免れることはできませんでした。彼は主が言われたことに恐れをなし、イスラエルがかつて見たことのない大きな城壁を建てました(2歴代33:14)。これは、私たちが入ってきたオフェルの丘の西側から、現在の神殿の丘の西側の方まで上がっていき、シオンの丘と呼ばれているところ、現在のユダヤ人地区にまで至ります。それをそのユダヤ人地区のところで見つけました。これはマナセが建てた壁に違いないと思い、辿っていったら確かにここダビデの町までつながっていました。

ですから、考古学者らはただ聖書を開いて、その情報に基づいて発掘したのです。

エレミヤ書38章によると、エレミヤの説教に気に食わなかったユダは彼を穴の中に入れました。そこは泥になっていました(6節)。そして着物やぼろ切れで綱を作り彼を引き上げましたが、考古学者らはこの穴も見つけたのです。皆さんは、今、その中の一人を見ています(デービッドのこと)。私の図体はでかいので、入るのが大変でした。穴に私を押し込んで、入れました。ヤフダ・マリはたまたま専門がエレミヤ書でした。5,6人しかその穴にいなかったのですが、泥のそばで彼が私たちにエレミヤの話を教えました。彼は泣いていました。

聖書は、どんな些細なことでも完全に信頼に値するものなのです。

ヤフダは、後に人がこの発見に疑問を抱かせないように、この大きな貯水庫の一部を泥のままにすることに決めました。

そしてダビデ王はここで数多くの詩篇を書きました。第40篇には、「私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。(2節)

最後に、将来に関わることをお話します。このオフェルの丘、ダビデの町は、メシヤご自身による慰めを受けます。イザヤ17,28,33,59,62章でそれを見つけることができ、ヨエル2章にもあります。ペテロがこれを五旬節の時に引用しました。ゼカリヤ9章にもあります。至る所にあるのです。今私たちがいるこの場所に、メシヤが戻って来られるのです。メシヤは、誰の王座に着かれますか。「ダビデの王座」ですね(2サムエル7:16)。神殿の丘ではありません、ここです。主がシオンについて行なわれると言われたこと、すべてがここで行なわれるのです。30エーカー(約12キロ平方)の敷地がそれほど重要なのです。聖書は、「救いがシオンから来る(詩篇14:7など)」と言っています。

そしてこの丘は、信じる者すべてによって祝われます。あなたがたは、異邦人の救いを含めて神のご計画がその通りになったことを、この丘の上で歌い、喜ぶのです。神はユダヤ人をお見捨てになっていないし、ダビデの町も、です。シオンの山が、永遠に救いであることを覚えられます。そして新約聖書だけを信じると言っている人にも(新約のほとんどは旧約から来ているのですが)、ヘブル書には「あなたがたは、シオンの山、天にあるエルサレムに近づいているのです。(12:22)」とあります。この小さな場所を取り上げて、私たちに天の故郷を思い出させておられるのです。

この場所がこのままの姿であるのではなく、地球全体の地殻が刷新し、万物が崩れ落ちます。

そしてあなたが真の信者であるなら、メシヤとともに統べ治めるのです。そしてオフェルにある御座から指令を受けます。

神殿はどうなるのでしょうか?オフェルの丘か、それとも神殿の丘か。どちらでもなく、主がここをすべて平らにされて歴史上最も大きい山にされます。そして世界で最も美しい神殿をお建てになります。それがメシヤ神殿です。神殿再建財団が、この神殿を建てる必要はないのです。メシヤご自身がなされます。

そして最後に、ギホンの泉からの発掘をデービッドが11人を率いて行なったことを話しましたが、ケーブルカメラを使って2万7千枚の写真を撮ったそうです。ラビのヤフダ氏が最後に声をかけるには、「何か箱を、金の蓋が付いているのを見たら、触・る・な・よ!」でした!契約の箱はどこにあるか分かりませんが、ダビデの町かもしれないという考えもあるそうです。


ウォレン縦抗ヒゼキヤ水道

 そして私たちは、ヒゼキヤの水道に向かいました。

 その前に「ウォレンの縦坑」があります。ウォレンとは考古学者の名前で彼が発見したなのですが、ギホンの泉のところに秘密の縦坑があったのことです。先ほど引用したサムエル第二5章の続きに、ダビデが、「だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて、ダビデが憎む足なえとめしいを打て。」と言った、とあります(8節)。この「水汲みの地下道」の発見です。

 ウォレンはここからエブス人は水を汲んでいたと考えましたが、1995年、ビジターセンターをギホンの泉のところに作ろうとしたときに、巨大な貯水槽を発見しました。その縦坑はこの貯水槽につながっており、エブス人はそこから水を汲んで飲んでいたと考えられます。

 実際の縦坑はものすごい深いものでした。ここをヨアブがよじ登ったことを思うと、信じられませんでした。彼は天才的な軍人だったと思います(1歴代11:6)。

 そしてその途中でここら辺で見つかった偶像の写真がありましたが、エブス人の時代のものです。

 そして穴をさらに下ると、その巨大な貯水槽(っというか貯水池を守る要塞)が出てきました。本当にでかいです。人が歩いていたので、まだ発掘中であることが分かります。


 そしてついに、ヒゼキヤの水道です。先ほどデービッドが言及した御言葉をここに引用しましょう。

そこで、多くの民が集まり、すべての泉と、この地を流れている川をふさいで言った。「アッシリヤの王たちに、攻め入らせ、豊富な水を見つけさせてたまるものか。」それから、彼は奮い立って、くずれていた城壁を全部建て直し、さらに、やぐらを上に上げ、外側にもう一つの城壁を築き、ダビデの町ミロを強固にした。(歴代誌第二32:4-5)

ヒゼキヤのその他の業績、彼のすべての功績、彼が貯水池と水道を造り、町に水を引いたこと、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。(列王記第二20:20)

 見ての通り、非常に細く、そして時々頭を垂れなければいけないほど低いです。図体の大きいアメリカ人の人はかなり苦労したんじゃないかなあと思います。後で、「ヒゼキヤのトンネルを考えて、昼食は食べなかった。」と言っていた人がいました。私たちはその分、かなり得をしました!

 水は冷たいです。外は暑かったので気持ち良かったです。初め、膝の上まで水が来ましたが、すぐ足のくるぶし位まで下がりました。そしてこの状態で延々30分近く歩きました。前は詰まっています。ユダヤ人の若い子たちが修学旅行か何かで来ています。歌をうたっていました。これに負けじと、後ろのツアーのメンバーも賛美を歌っていました。

 そして先ほどデービッドが言及した、トンネルの繋ぎ目のところを見ました。ガイドのヤコブさんが説明してくれましたが、すでにオスマントルコの時代にここの部分にあった銘板を取り、今はイスタンブール博物館にあるそうです。

 そして出てきました。終着地点はシロアムの池です。主が生まれつき盲人を直された、あの池です(ヨハネ9:7)。今も考古学の発見が進んでいます。そこの階段を上がったら、ガイドのヤコブさんが説明してくれましたが、見上げるとモスクがあります。分かりますね、イスラム教はこうやってユダヤ教やキリスト教にとって大事なところを自分たちのものとして征服していくのです。

 その場を出てさらに進むと、水がさらに流れ出ていました。ここが実はヘロデ時代のエルサレムの町の入口であり、私たちがエルサレム考古学公園で見た西壁沿いの通りにつながる歩道の始まりなのです。ここで巡礼のために遠いところから来た人は清めのためにここで洗いをして、そして上っていきました。


6.デービッドとの交わり

 そして私たちはホテルに戻りました。食事の席で、デービッドといろいろ談笑することができました。ユダヤ人の二人のガイド、ドランとヤコブさんは、私はメシアニック(イエス様を信じているユダヤ人)だと思っていました。現地ツアー会社はメシアニック経営のサルエル・ツアーであるし、ドランは1999年のときのガイドでもありました。今回の説明の口調から、彼もイエス様を信じたのかなと思っていました。非常に確信的に主のことを話していたからです。けれども実際は、彼らは正統派のシナゴーグに通っているそうです。

 デービッドによると、二人はいわゆるメシアニック・ジューのガイドよりも聖書のことをよく知っていて、福音派のクリスチャンのことは大好きで、イエス様も偉大なラビとして尊敬しているそうです。けれども、イエス=メシヤとなると拒むそうです。

 ここのユダヤ人は、人に合わせるのが非常に上手で、いろいろな人を迎え入れるのですが、根本的なところで懐疑的であり、それはこれまでいかさま、いかがわしい人々をたくさん見てきているからだそうです。私たちが日本を発つ前に、阿含宗のポスターがでかでかと駅構内に貼られていましたが、創始者がイスラエルに9月に招かれているとのことでした。このことをデービッドに話したら、イスラエルにはあらゆる種類のカルトが来ているそうです。そしてその度に彼らは訪問を歓迎するそうですが、決して相手を信頼したり、受け入れたりしないそうです。

 そしてさらに複雑なことを話してくれました。聖誕教会でデービッドがカトリックの伝承を批判したとき、カトリックのパレスチナ人ガイドは怒っていたそうですが、そこに立って聞いていた二人は、親指を立てて「よく言ってくれた!」と合図したそうです。きちんとした身だしなみの服装から、彼らはハマスのようだったそうです。ハマスのようなイスラム原理主義者も聖書をよく読んでいて、キリスト教の教義もよく知っています。(この様子は、ブラザーアンドリュー著のLight Forceにも書いてありました。)いつもニュースで、ハマスがミサイルを飛ばしているような話を聞いている私たちには、このようなことを聞くと何がなんだかわけが分からなくなってきます。

 要は、あまりにも数多くの宗教やキリスト教を見て、現地の人たちはいかがわしさをすぐに見極める目が備わっている、ということだと思います。そして、外の人々との付き合い方の処世術も身に付けているということでしょう。

 ここで宣教の働きをしている人々は、ほんと〜に大変だろうな、とため息を付いてしまいました。