エジプト・イスラエル旅行記 − 8月14日その1
14日の旅行は以下の通りです。
1.イスラエル博物館
a)エルサレムの模型
b)死海文書
2.ヤド・バシェム(ホロコースト博物館)
3.エラの谷
4.ベテ・シェメシュ
この日の大御所は、何と言ってもイスラエル博物館にあるイザヤ書の死海写本でしょう。複製ではなく現物を見る恵みにあずかりました!追ってご説明します。
1.イスラエル博物館
(リンク先は公式サイトです。前日と同じく非常にたくさんの情報が載っています。)
クラウンプラザホテルからバスで約5分で、イスラエル博物館に到着します。12日の旅行記で説明しましたが、この辺りはエルサレム新市街です。政府機関や博物館が集まっています。アメリカのワシントンD.C.見学に行ったことがありますが、少し似ているかもしれません。公園の中に緑に囲まれるようにクネセット(国会議事堂)や官庁が建っています。
イスラエル博物館は、エルサレムに訪ねる人は必ず立ち寄るべき場所です。一つは死海写本が展示されているということと、もう一つは、ヘロデ時代のエルサレムの町の模型があることです。模型は、以前は聖地ホテルにありましたが、ガイドによるとここに移したようです。
模型を見る前に、その途中にある白色の立方体と黒色の立方体の説明をドランがしました。クムランの死海写本のところで共同生活をしていたエッセネ派が信じていたものを象徴しています。白が「光の子」で黒が「暗闇の子」です。彼らは自分たちが生きている時が終末だと信じ、大きな戦いがあると思っていました。そして自分たちは光の子であり、他のユダヤ人は暗闇の中にいると思っていました。さらに前方に、白い蓋のようなものがあります。これが「文書の殿堂(Shine
of the Book)」と呼ばれており、この建物の中にイザヤ書の写本を始め、数々の写本が展示されています。その蓋は、クムランの洞窟で発見された写本が入っていた壷の蓋を表しています。
この文書の殿堂も、またエルサレムの模型も、イスラエル博物館の様子をすべて、バーチャルに見学できます。ぜひ「
イスラエル博物館」のサイトにお入りください。
a)
エルサレム模型
そしてこれからエルサレムの模型を見ます。幅15メートルはあるでしょうか、かなり大きいです(
動画)。1960年代に、ある大学教授によって作られ、考古学の発掘による新しい発見があったら付け加えたり、修正のため作り変えたりしたそうです。
これは「ヘロデ時代」のものですから、何度も言っていますように主イエス様が地上におられた時のものです。
まず神殿の説明を受けました。今、ちょうどオリーブ山の位置に私たちがいることになります。
神殿は壁で取り囲まれていますが、さらにその周りに障壁が小さく見えます。これは異邦人が入ることができる外庭と区別するためのものです。それより中に異邦人は入ることはできません。イエス様が宮清めをなされた時は、この外庭で起こった出来事でした。両替人は柱廊のある部分にいたそうです。
そして門の中に入るとそこは女の庭です。女と言っても、女性も入ることができるということで、ユダヤ人はみなそこに入ることができます。ここで姦淫の現場で捕えられた女の出来事が起こったと考えられます。そしてさらに中には、女だけでなく、ナジル人もらい病人も入れませんでした。それぞれに貯蔵室がありましたが、ナジル人はぶどう酒が神殿の中で使われているから入れませんでした。らい病人は汚れているとみなされていたから入れませんでした。そして階段がありますが、一段ずつ上がるときに詩篇120篇から134篇まで一篇ずつ読みます。ゆえに15段の階段になっています。
そして神殿再建財団でも聞いたエジプトからの巡礼者が捧げたニカノルの門があります。そしてそこは男の庭であり、さらにすぐに祭司の庭になります。神殿の建物の周りの敷地です。そして神殿そのものの金の門の中が聖所と至聖所に別れており、至聖所には大祭司が年に一度だけ入ることが出来ました。
写真の一番下に東門が見えます。それは今見ることができません。13日の旅行で見た黄金門の地下にあります。けれどもそこにイスラム教徒の墓地があるので掘ることができません。(以上の
音声)
そして神殿の丘の北側に、
アントニア要塞があります。ヘロデはこの神殿を建ててもユダヤ人から憎まれることは知っていました。ユダヤ人は彼を「イドマヤのヘロデ」とか「屠殺者ヘロデ」と呼んでいました。それでユダヤ人をローマ総督が監視できる場所を設けました。ここにイエス様が連れて来られます。(以上の
音声)
そして私たちは左側に歩き、神殿の丘の南壁を見ました。女預言者フルダの墓があります。(
動画)
さらに左に進みました。そこはダビデの町です。今の城壁は南壁のところになっていますが、当時は、シロアムの池があるダビデの町の南にある門から入らなければいけませんでした。巡礼に来た人々はここで自分が乗ってきたろばを置いて、そしてシロアムの池から続いている歩道を上がります。この歩道は昨日エルサレム考古学公園で見た、南西の角にあるロビンソン・アーチのところまでつながります。この歩道を掘り起こしたいのですが、地上にはアラブ人の家があり、なかなか立ち退きしてくれないそうです。(
動画)
そしてダビデの町に数々の家や建物がありますが、これらは紀元70年に完全に破壊されています。基盤だけが残っているそうです。紀元60年にメソポタミアから来た女性、ヘリナという人がユダヤ教に改宗し、彼女は大富豪であったためこれらの美しい宮殿を建てる資金を提供したそうです。
ドランによると、今も変わらないとのこと。離散のユダヤ人は自分たちがイスラエルにいないことを引け目に感じているので、多額の醵金(年に3億ドルだそうです!)をすることによって補おうとしているとのことです。昔は、在バビロンのユダヤ人がエルサレムのユダヤ人を支援していました。今のアメリカと同じです。
私たちはさらにぐるりと時計回りに歩き、南側にいます。左側が高くなっていますがここがシオンの山です。イエス様の時代はシオンの山と呼ばれていたそうです。そして「上町」とも呼ばれていました。その下、つまりシロアムの池の左側が「下町」と呼ばれていました。上町のほうの住宅はきれいです。お金持ちが住んでいました。そのほとんどが祭司の家族でした。祭司がエルサレムで一番の金持ちだったそうです。(
動画)
そしてカヤパ邸ですが、私たちが行った鶏鳴教会が考えている所と考古学者が考えている場所は違うようです。
さらにダビデの墓ですが、ヘロデが
塔を建てました。あくまでも伝承です。私たちにとって大事なのは、使徒2章の聖霊ご降臨がそこで起こったということです。ダビデの墓の上に屋上の間がありました。そこに五旬節の時は大勢のユダヤ人が集まっていました。なぜなら、ダビデは五旬節の時に死んだとユダヤ人は考えていたからです。そこでペテロが、「ダビデの墓は今までここにあります」と言ったのです。
そしてさらに左に動きます。城壁の南西の部分に門がありますが、この区域にヘロデはエッセネ派の人を住まわせました。クムランに地震が起き、その共同体がつぶされた後彼らはここに移ってきました。エッセネ派の人たちは門のすぐ近くに住まないといけません。なぜならエルサレムの町は聖なるところだから、用を足す時に城壁の外に出なければいけなかったからです。門から出て行く人がいたら、その人はエッセネ派だって分かった、とドランは冗談を言っていました。
そしてさらに廻って、今は西側にいます。西壁のすべてを見ることができます(
動画)。そして、ここの左側つまり北側にカルバリーが見えます。
可能性のある場所は二つあるのですが、一つは今、聖墳墓教会が建っているところです。ずっとここだと信じられていましたが、疑問を持っている人もずっといました。1864年、ダマスコ門の近くに住んでいたゴードンという英国総督が、しゃれこうべのような形をした岩を見ました。そして発掘をさせたところ、墓を見つけました。そこが「園の墓」と呼ばれているところです。ここが福音派のクリスチャンには人気のあるところです。(リンク先の写真ですと右側真中辺りに円形にくぼんだところが聖墳墓教会、そして上方のやや左側のくぼんだところが園の墓です。どちらもエルサレムの城壁のすぐ外にあります。一番外側の壁は紀元44年にヘロデ・アグリッパが建てたものなので、イエス様の時代にはありませんでした。) (
動画)
そして北側に廻ると、ゴードンのカルバリーをもっとはっきり見ることができました。ダマスコ門がすぐそばにあります。今のダマスコ門と同じで、パウロがダマスコに行く時に、この門から出て行きました。
そしてさらに廻って、再び東側に戻ります。今は
神殿の北側にいます。目の前に見えるのが、ベテスダの池です。ここで主は、足なえの人をいやされて、それが安息日だったのでユダヤ人がこの方を迫害しはじめました。そしてその奥に見えるのが、先ほど見たアントニア要塞です。そして写真では見えませんが、手前の城壁の門は「羊の門」と呼ばれ、ヨハネ5章にベテスダの池が羊の門のそばにあると書かれています。ここで羊が売られていました。今はステパノ門とも呼ばれています。(以上の
音声)
こうやって見てきましたが、
模型サイトに入れば360度パノラマでこの町を眺めることができます。
また、説明入りで写真を見ることが出来るサイトも見つけました。非常に役立ちます。
Jerusalem At the Time of Jesus
とにかくエルサレムは、何度も訪れて、自分で歩いて、各箇所を眺めて、それでここの模型で全体像を確認する作業が必要です。ジグゾーパズルを一片ずつ見て、それをはめていくのに似ています。この作業をすると、福音書と使徒行伝を読むとき、エルサレムにおける出来事の位置関係をすべて念頭に置くことができます。
b)
死海文書
そして私たちは先ほどの文書の殿堂へ行きました。
前世紀における世界で最も偉大な発見と言われている死海文書ですが、その主なものは今、イスラエル博物館が保管しています。次の日に死海に行きますが、死海の北西の湖畔に位置するクムランで、1947年、ある遊牧民の男の子が偶然見つけました。これは当時、そこで共同生活をしていたユダヤ教の一派であるエッセネ派が残したものと考えられています。その中にエステル記以外のすべての聖書の巻物が発見されました。その中で、イザヤ書が一部や破片ではなく、全てが残っているものがありました。右の壷の蓋の形をした建物の中に、一周をするように円筒に巻物が貼ってあります。
これが書き写されたのが紀元前100年頃だと考えられています。そして私たちが今、手にしている旧約聖書はマソラ本文という写本を定本にしていますが、これは紀元後10世紀のものです。このマソラ本文の成り立ちと写本も、この殿堂の中に展示されているので、後で説明します。とにかく驚くべきことは、このマソラ本文と死海写本がほとんど皆無に近いぐらい違いがなかった、ということです。
これまでの見学でもお分かりのように、ユダヤ人が歴史にしろ、遺跡にしろ、古くからのものを保持することにおいて、驚くべき才知を発揮しますが、この聖書の写本については、俗に言う「神業」の領域だと思います。けれども聖書の中で、パウロが、ユダヤ人の優れたところとしてこのことを挙げているのですから、当たり前と言えば当たり前です。
では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。(ローマ3:1-2)
ところで、この白い蓋の建物の中にあるイザヤ書写本は、あくまでも複製です。本物は大切に博物館内に保管されていますが、それをこれまで展示することはありませんでした。
ところが、です。今年はイスラエル建国六十周年です。これを祝うためにブッシュ米国大統領がイスラエルを訪問しました。イスラエル政府がブッシュに何を見たいか尋ねたところ、「死海文書」とのことでした。それでこの機会に四ヶ月の間だけ、実物を展示することに決めたのです。
この本物を私たちは見る恩恵にあずかれたということです!
この写本を含め、建物の中における写真撮影は禁じられていたため、写真や動画は一切ありません。けれどもイスラエル博物館の
Shrine of the Bookのところに入れば、いろいろ見ることが出来ます。さらに360度のバーチャル見学もできますので、どうぞ言ってみてください。→
Interactive Virtual Tour at the Shrine of
the Book
博物館の中に入ると、非常にひんやりしていました。しかも暗いです。これは写本の保存のためだそうです。現物がある部屋も私たちのグループが入るまで、真っ暗にされていました。入るときだけ明かりを付けました。あった、あった!イザヤ書だ!・・・といってもヘブル語が読めない私は、ただ「ありがたやー」と、拝まないですが感謝するだけでした。ガイドのドランに読んでくださいと頼んだら、内容はだいたい理解できるが、今使っているヘブル語のアルファベットと一部違うので難しいと言っていました。(写真は撮れませんでしたが、
音声は録音できました。)
アレッポ・コデックス(Aleppo Codex)
この実物を見た後に、白い蓋の建物の中にある展示物を見ました。真中にあるイザヤ書は複製ですから、また見る必要はなく、その周囲にあるクムランのエッセネ派が残した他の文書や、一階にあるマソラ本文の展示に時間を注ぎました。
死海写本がマソラ本文とほぼ完全に一致しているということは、言い換えれば、マソラ本文に至るまで、それだけ正確に書き写してきたということです。この写本の成り立ちを、展示物と共に説明がありました。博物館のサイトにも詳しい説明がありますので、そこからかいつまんでお話したいと思います。
旧約聖書のそれぞれの書物は、バビロン捕囚後に正典化が始まりました。そしてこれらを「巻物」としてユダヤ人は保持していましたが、羊皮紙を折り重ねて織り、両面に文字が書けるようにした「
コデックス(codex)」の技術が、むしろ新約聖書の方では四世紀頃に見ることが出来ます。ユダヤ人は、八世紀頃からこの作業を始め、ガリラヤ湖畔にある都市ティベリヤにいる「マソラ派」と呼ばれる学者らによって十世紀に行なわれました。
このコデックスがティベリヤからエルサレムへ、そして途中でエジプトに渡り、最後にシリアのアレッポに来ました。これを1950年代、イスラエルの中に忍び込ませたらしいです。このアレッポの町にあったということで、「アレッポ・コデックス」と呼ばれています。
ヘブル語をかじった方はご存知だと思いますが、実際のヘブル語の文字は子音だけで書かれています。けれどもヘブル語の初心者は、それに母音印を付けたものを読んでいくのですが、ちょうど日本語の漢字に振り仮名が付いているようなものです。この子音だけのものに、マソラ学者は母音印を付けて写本を完成させた、というのも偉大な作業です。母音の組み合わせによって、一つの子音の言葉がいろいろな意味に変わってしまうと思うのですが、長年の言い伝えにより、どれがどの母音が付くかを定めていくことができたのでしょう。
今の旧約聖書の定本の成り立ちを知ることができて、非常に有益な時間を過ごすことができました。
後記:
こちらに日本語エンカルタ百科事典の説明があります。マソラ本文には、アレッポ写本の他にレニングラード写本というものもあるようです。また、旧約聖書のギリシヤ語訳である七十人訳の説明もあります。
上のリンク先、
The Aleppo Codexによるとアレッポ写本が最古の完全版の写本でしたが、1947年に国連が分割決議案を出した後に、アレッポのユダヤ人共同体に暴徒が入り込み、写本は完全に破壊されたものと思われましたが、隠れ場に保管されていました。けれどもモーセ五書をはじめ、かなりのページが失われてしまったそうです。そのため完全な形でマソラ本文が残っているのは、レニングラード写本のようです。
2.ヤド・バシェム
次の見学地、ヤド・バシェムもこのエルサレム新市街の中にあります。
「ヤド・バシェム(Yad VaShem)」という名前はイザヤ書56章5節から来ており、「ヤド」が「思い出す」で、「シェム」が「名前」です。ホロコーストで犠牲になった人々の名前を思い出す、という意味になります。
これは所謂「ホロコースト記念博物館」です。私が99年にここを訪れた時、実は大した強い印象はありませんでした。というのも、94年9月に米国東海岸へ妻と旅行に行ったとき、ワシントンDCで何となく立ち寄ったのが、「
米国ホロコースト記念博物館」だったからです。ホロコーストの惨劇についてはもちろん見聞きしていましたが、そこで私の世界観が変わったと言っても、過言ではないぐらいの衝撃を受けました。
それは単に酷いことをナチスが行なった、ということではなく、至極詳細な記述を延々と展示物も交えて客観的に行なっている、という所にありました。あまりにも沢山あるので、早歩きでどんどん進みましたが、優に四時間はかかったかと思います。そして最後に、イザヤ書の「あなたは、わたしの証人である」との言葉が出口に掲げられていて、私は、単なる怨念とか復讐とか、または悲しみという感情ではなく、もっともっと深い恐ろしいものを感じたのです。これこそ感情ではなく「霊」の領域だと思ったのです。
しかもその博物館は、世界の超大国アメリカの首都のど真ん中にあります。つまり全世界を相手に、「二度と、このようなことは起こさせない」という強い意思を突きつけているのを感じました。ユダヤ人は世界の日時計と呼ばれ、ユダヤ人を中心にして世界の歴史が動いているといっても過言ではない、という言葉は聞いたことはありますが、この博物館でそれをまざまざと見せつけられた思いがしたのです。
そして99年にイスラエル旅行に来たわけですが、当時のヤド・バシェムはワシントンDCのに比べると、正直言うと貧弱でした。博物館ではなく記念館と呼べばいいかな、と思ったのです。ワシントンDCにはない、子供の名前を読む記念館があったり、ユダヤ人を命を賭けて助けた異邦人らを記念する木が植えられていたりしています。
けれども新装改築したとのこと。これは楽しみだと思いました。
この記念博物館も写真撮影ができません。ですから中で何が展示されているかは、どうぞ
ヤド・バシェムのサイトに行ってみてください。
そしてホロコーストについては、日本語でもたくさんの情報を得られると思います。映画ならば「シンドラーのリスト」があるし、書籍ならば「夜の霧」もいいでしょう。そして日本にも
ホロコースト記念館があるようで、そこにホロコーストの歴史について、子供用に簡単に説明してあるのを見つけました。どうぞ、これを読んでください。 →
ホロコーストとは
ホロコーストと今
ということで展示物の説明は省きます。展示館に入る前にガイドのドランが説明してくれたことをお分かちしたいと思います。非常に示唆に富む内容です。なぜなら、ホロコーストは昔のことではなく、今起こっていることに直接関係することを説明してくれたからです。
ユダヤ人にとって決して忘れない出来事は、70年のローマによるエルサレム破壊と、ナチスによるホロコーストです。この二つを決して繰り返してはならないというのが、彼らの強い原動力となっています。彼らの生存を保障する手段がまさにここイスラエルの地そのものであり、どんなユダヤ人も無条件でイスラエルに帰還また避難することができるようにしています。例えば、今回、ロシアがグルジアに侵攻しましたが、イスラエルはすぐに飛行機を飛ばして、グルジア在住のユダヤ人を救出したそうです。
そして理由は分からないが、ユダヤ人への憎しみはいつまでも続くことをユダヤ人は知っていると言っていました。例えば、ユダヤ人がほとんど住んでいない日本でさえ、ユダヤ人への憎しみがあります。旅行客の中で、自分はユダヤ人を憎んでいると言った人がいるそうです。理由を尋ねると、ユダヤ人は世界を支配しているから、だとのことです。ドランは、「世界を支配しているのはユダヤ人ではなく、日本人でしょ?」と言いました。
そして今のイラン大統領についてですが、彼の発言はヒトラーのそれに酷似しているということです。当時、ヒトラーの気違いめいた発言を、世界の人々は(ユダヤ人も含めて)あまりにも滑稽で相手にできないとあしらっていましたが、本当にそれを実行したのです。だからイスラエルは世界が何と言おうと、彼の発言を軽くあしらいません。(以上の
音声)
ドランが日本の旅行客のことを言及した時、私は大きくうなずきました。日本にどれだけのユダヤ人支配が経済的にあるのでしょうか?世界に出てみてください、どこに行っても、経済的な日本の進出があります。ここイスラエルでもエイラットには、日本から輸入された車が並んでいて、走っている車はMAZDAなど日本車ばかりです。
99年の旅行でもそうでしたが、ユダヤ人のガイドは、日本から来た旅行客を通して嫌な思いをしています。世界情勢やイスラエルについての知識をかじった人たちが、漠然としたユダヤ人への敵愾心を抱きながらイスラエルに来ているのですから、困ったものです。
ここが日本での世界情勢の感覚のなさなのですが、イラン情勢についてほとんど報道されていないのが現実です。日本の政治が外交面でだらしないこと、今の経済と社会の不安、そしてアメリカに対する漠然とした敵愾心、これらが重なって世界がどうなっているかを把握せず、無茶な行動を取る。これが太平洋戦争を引き起こした背景にありますが、同じ過ちを繰り返す可能性が十分にあります。
日本にある反ユダヤ主義について、
拙エッセイがありますのでどうぞお読みください。
そして書き忘れましたが、ドランは、イスラエル国家そのものの意義をさらに説明しています。当時、ホロコーストが始まる前は、ユダヤ人はユダヤ教のラビ(教師)の言うことを聞いていました。ラビはメシヤが来臨された時にイスラエルへ帰還することができるし、また建国ができると説明していました。
けれども、ユダヤ人のための国がないということで自分たちが滅んでしまうと危機を感じた人たちが、シオンへの帰還運動(シオニズム)を始めたわけですが、これは宗教的ではない世俗的ユダヤ人によるものでした。それでなおさらのこと、ラビはこの考えに同意しなかった面があったそうです。
そのために被害はさらに酷くなりました。今でも宗教的ユダヤ人は、自分がイスラエル人である前にユダヤ人である、としています。つまりイスラエルという国家に所属している一員というよりも、ユダヤ教を信じる者という意識が強いのです。その証拠に、彼らは兵役に就く義務はなく、ほとんど軍務に就いていません。
これだけイスラエルはいろいろな多様な意見があり、まとまらないという内情を示しています。
ホロコーストの生き残り
博物館の見学に与えられた時間は、たった一時間でした。しかも入場したら、かなり混雑しています。妻は、どんどん前に進んで空き始めたところから見はじめようと提案したので、そうしました。
確かに新装されたヤド・バシェムは見ごたえがあります。これをじっくり見たら丸一日が経ってしまうでしょう。するとすでにもっと先に進んでいたツアーのメンバー二人がいました。どちらもおばあさんです。一人は旦那さんをベトナム戦争の枯葉剤作戦で亡くした人ですが、もう一人が展示物を見ながら、自分のことのように何か話しています。私が興味を示すと、その旦那さんを亡くしたおばあさんが、「彼女はホロコーストの生き残りなのよ。」と教えてくださいました。
やはり、と思いました。このおばあさんとは会話を既に交わしています。私たちにとって英語は外国語だということを聞いて、自分も1948年に米国に移住したから、未だに英語が慣れていないと話しておられたのです。
展示館に入る時、ぐっと感情をこらえて「私は泣かないことに決めています」とおっしゃっていましたが、バスに置いておけばよい手荷物をしっかりと握っています。「これは私の持ち物だから」とおっしゃっていましたが、それは、ホロコーストの時、ナチスからユダヤ人は財産をことごとく没収されましたが、その時のトラウマがまだ残っているかもしれないと思いました。
見ていたその展示物は、ホロコーストの犠牲者の遺品でした。「よく残っていたわね、普通没収されるのに。」
そこで私は質問しました。どうやって生き残ったのか?と。「神が救ってくださいました。」と答えられましたが、彼女が14歳のとき、ナチスを介していわゆる奴隷として売られたそうです。けれどもその主人がたまたま良い人で、そこに同い年の子がいて友達になれたそうです。そして17歳のとき連合軍(米軍)がやってきて町を解放しました。
「ナチスにはヒトラーに忠実な人もいたが、一部は良識のある人もいた。私は幸運だった。」と話しておられます。ロシア語の話せるユダヤ人です。
アメリカという国
話はずれますが、私はアメリカ人の中にいると、こういう大切な経験をすることがよくあります。例えば他のメンバーで、ヨルダン系アメリカ人がいます。彼女がイスラエル入国の時、1時間の尋問を受けたそうです。
ドランが彼女に「ヨルダンに戻る気はあるか?」と聞いたところ、「戻れるわけがないでしょう。あなたには分かっているでしょう。」という答えでした。ヨルダンの国でクリスチャンとしてイスラム教徒から迫害を受けそれでアメリカに来たのですから、戻れば大変なことになります。アメリカには、そういう政治や宗教の自由のため移民してくる人が多いのです。
ツアーで少し仲良くなったご夫婦も、奥さんがレバノン系の二世です。親は彼女にアラビア語を話さなかったので、英語しか話せないとのこと。レバノンに行ったことがあるか聞いたところ、「ある。まだ内戦が起こる前だったから、美しい国だった。」と話してくださいました。
日本にいれば本やテレビでしか見ることのできない世界のことを、アメリカにいるとこのように生きた証言として接することができます。
子供記念館
ヤド・バシェムは、歴史博物館にとどまりません。一人ひとりの名前を記憶しておこうとする記念物がたくさんあります。例えば、この敷地の中に
シナゴーグがあります。一見、見物用のようなのですが、実際に使われているシナゴーグ(ユダヤ教会堂)です。
それから、私たちは「子供記念館(Children's
Memorial)」に行きました。ドランの説明によると、ここには150万人の殺された子供を追悼しています。17歳未満の子です。そしてこの記念館では、一人ひとりの子の名前と国すべて録音し、朗読しています。一人につき25秒使うので、一周するのに何年もかかるのです。
これが全ての殺された子ではありません。今、ヤド・バシェムではコンピューターにより350万の名前があるそうです。名前と出生地、育った所、そして殺された所があります。
そして若いドイツ人たちがボランティアで、これらの資料を翻訳してくれています。ほとんどの資料は1945年、ベルリンで米軍が見つけました。ドイツ人はこういった整理に非常に長けていますから、詳細に渡るファイルがあったのです。
ドランはそのボランティアの一人と話したそうですが、すべてを記録したらしいです。殺した時刻、その手段、例えばガス室で死に至らしめるのにどれだけの時間がかかったか等です。
そしてこの記念館のもう一つの特徴は、館内にある5本のろうそくの光を鏡によって無数に見せていることです。星の光のように、数多くの光点があるのですが、アブラハムへの神の約束「星のようになる」を反映しています。
実際に、これだけたくさんの子が殺されたにも関わらず、ここイスラエルで何百万の子供が生きているわけです。そしてドランは、「これが私たちの復讐の方法だ」と言いました。ユダヤ人はドイツに戻って、ドイツ人の子供を殺しに行きませんでした。生きている子供たちを見せつけることによって、復讐しているのだと言いました。(以上の
音声)
そして館内を歩きました。写真は撮れませんが音声は残しました。
こんな感じでテープが流れています。
そして外に出ると、
こんな風景が広がります。ドランは、「このようなきれいな木々と家々が見えますが、これが私たちの復讐の仕方なんだ、ということを訴えています。」と言いました。