エジプト・イスラエル旅行記 − 8月14日その2

1.イスラエル博物館(エルサレムの模型、死海写本)、2.ヤド・バシェム(ホロコースト博物館)


ベツレヘムのキブツ

 ヤド・バシェムの後、ベツレヘム近郊にあるキブツ経営のホテルにあるレストランで昼食を取りました。以前にも来たことのあるキブツ経営のレストランです。ここからだと静かで綺麗なベツレヘムの丘を見ることができます。かつてダビデがここで羊飼いをし、また羊飼いたちが天使による聖誕告知を受けたのです。

 ここで、サルエル・ツアーのデニスさんに会いました。彼女とは、私たちが日本にいる時からメール交信しています。私たちがエジプトに行かなければいけない事情を説明し、グループがエイラットにいる時にエジプトのターバからカイロ国際空港まで行きたい旨を話しました。この間だけ交通手段がなかなか見つからなかったのです。

 彼女はサルエルのエジプトの旅行社(おそらくは提携している会社)に尋ねてみたところ、ハイヤー車を用意できるとの返事が返ってきました。一人90ドルです。ちょっと高いですが、無事に空港まで連れて行ってくれるので私たちは安心しました。

 このお金を受け取るためにデニスさんが来て下さったのです。

 このレストランでも、私たちは昼食セットではなくサラダだけを注文しました。朝夕でたくさん食べているし、とにかく外食は本当に高いです。でもサラダ・バーで、パンも食べることができるので、結構たくさん食べられます。

 ところでいつも不思議に思うのですが、こういうキブツ経営のホテルに泊まれば、宿泊費がもっと節約できるという話を聞きます。高級ホテルをなぜ選ぶのかな?と、デービッドのツアーだけでなく、他のいろいろなツアーにも思います。たぶんイスラエル旅行は退職した年老いた人が多いので、なるべく快適に、ということを考えているのでしょう。でもキブツ経営のでも十分きれいで快適に見えます。

 また、ツアーは高いから個人旅行で来ようとする人には、一つ警告します。「パッケージツアーのほうが逆に安いですよ。」ということです。ホテルなら朝夕の食事が出ます。外食すると物凄く高いのです。そしてグループの割引がありますから、ホテルも割安に泊まれているはずです。

 そして何よりも旅行ガイドが絶対に必要です。いなければ、遺跡の説明が聞けないばかりでなく、遺跡自体に行けなくなる可能性もあるのです。彼らはイスラエル政府観光省公認の人たちですから、いろいろな所に行くことができるよう手配することができます。私の知っているある人たちは、個人的に直接現地ガイドに問い合わせて、数名単位で旅行しています。こういう方法もあるでしょう。


グリーン・ライン(Green Line)

 そこからダビデがペリシテ人のゴリヤテを倒した、エラの谷に向かいます。これはちょうど、ベツレヘムで羊飼いをしていた少年ダビデが、お兄さんにお弁当を持っていくためにエラの谷に向かった道と同じです。ベツレヘムからそのまま西に向かいました。

 途中で道路はパレスチナ自治区(西岸)に入らなければいけません。そこはもちろんアラブ人が住んでいますが、オリーブの木が至るところに植えられています。ガイドは、これがおそらく聖書時代で見かける風景だっただろうと言っていました。

 そして再びイスラエル領に入ります。妻も私ももびっくりしました。自治区からイスラエルに入る検問所を境に、くっきりと荒地から緑の生い茂る地に変わるのです!(例えば、ここの写真のリンクを見てください。)「このため、自治区とイスラエルの境界はグリーン・ライン(緑の境界線)と呼ばれます。」と言っていました。アラブ人は土地の世話について気にしないが、ユダヤ人は約束の地を大切にする、とのことです。

 Jewish National Fund(ユダヤ人国家基金)という基金が植林のプロジェクトを行っています。50年間で2億2千万本を植えたそうです。彼らがイスラエルの土地の大半を購入しており、多くの土地は私有ではなくこの基金から賃借りしているそうです。

 その違いは後日、他の地方を廻っても同じでした。自治区に入る直前の土の色と、自治区の色が急に変わります。良い土壌から悪い土壌に変わるからです。また、ユダヤ人は土地を耕すとき、基本的に有機栽培だそうです。土地を悪くしたくないからです。そしてゴミも自治区に入ると突然たくさん落ちています。

 今、イザヤ書の学びをロゴス・ミニストリーでしていますが、そこに何度も荒地が緑になるという土地の回復の預言があります。ただ、イスラエルの土地があれば良いということではありません。またユダヤ人がいればどこでも良い、ということでもありません。「イスラエルの土地」があり、かつそこに「ユダヤ人」がいて始めて、神にある回復が起こるのだと、さらに実感しました。
わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、桧も共に植える。(イザヤ41:19)


3.エラの谷(写真)

 そしてエラの谷に着きました。右の写真の、道路を挟んで左側に見える丘がアゼカです。サムエル記第一17章1節に、ペリシテ人とイスラエル人が対峙しているエラの谷は、ソコとアゼカとの間にあるとあります。そこでデービッドがダビデがゴリヤテを倒す話からメッセージをしましたが、非常に慰められるものでした。

 今、朝のデボーションの中でサムエル記のダビデの話を読んでいますが、彼の心は何と柔和で、主の御心に自分の身を任せられる人なんだろうと、私自身が引き込まれそうになります。デービッドはこの柔和さと、主にある確信について中心に話しました。

ユダヤ人にとって、ここは非常に大切な話です。一つはダビデです。聖書に千回以上出てきて一番多く出てきます。イスラエルに栄光をもたらした王です。ソロモンは異邦人の女や王たちを通して王国を大きくさせましたが、彼は戦士でした。神の名前に、「戦陣の神」というのがあります。ですからダビデを見ると神を連想するのです。

そしてダビデは、「ご自分の心にかなう人(1サムエル13:14)」と呼ばれました。このように呼ばれたのは聖書で彼だけです。どういう意味なのでしょうか?私が考えるに、彼は敵に復讐しようとしなかったのでこのように呼ばれました。神は復讐する方です。ペリシテ人を倒すように主はダビデに命じられました。けれども、ダビデが神の心そのものを示した出来事がたくさんありました。メシヤは、心優しく、へりくだっている方です(マタイ11:29)。

ギリシヤ語は豊かな言語で3200万の言葉がありますが、各言葉に反対語と類似語があります。聖書で「柔和」の反対語は実は「復讐」なのです。柔和であれば、復讐しようと思いません。

ダビデの心に触れた人が何人かいます。例えばアビガイルです。「この愚かな夫に時間を費やしてどうするのですか。」と(1サムエル25章)。ダビデはアビガイルに礼をして、そして彼女の夫の亡き後、彼女を妻としました。

そしてダビデを呪って、罵った若者たち(2サムエル16章のシムイ?)のことを覚えていますか?ヨハブなど生粋の軍人がそばにいて、彼らの首をいくらでもはねることはできたのですが、ダビデはそれを止めさせました。

そして明日行くエン・ゲディにて、自分たちが隠れていた洞窟にサウルが入ってきました。他の者たちが「今がチャンスです。殺してください。」と言いましたが、彼は上着のすそを少し切っただけでした。けれどもそれが肉的な思いから出てきたことで心を痛めました。サウルは、「あなたは私よりも正しい。」と言いました。

ですからダビデがこの谷に登場するのですが、何が起こったのでしょうか?羊飼いでしたが、獅子でも熊でも倒しました。神がそうしてくださるのだから、ゴリヤテなど何ぞや?と言いました。兄たちは怒りました。見せびらかしのために来たな、と。でも、「あの谷にいる巨人をなぜ恐れているのですか。」と答えています。

サムエル第一17章の話です。十の要点について話したいと思います。

第一、イスラエル軍は感情面で敗北していました。恐れは酷いものです。これは罠であると聖書にあります。主を恐れなければいけません。主の敵は大きいです。けれどもそれが、私たちが隠れる理由になりません。現在でもイスラエルは、この話を思い出さないといけません。

第二に、ゴリヤテの傲慢さが、イスラエルの軍全体に恐れをもたらしました。8節分、彼らが恐れたことを聖書は伝えています。この男は巨大でした。でも「大きければ、それだけ倒れると大変になる。」のです。

第三に、ダビデがここに到着したことは、誰にも歓迎されなかったことです。滑稽でした。サウルが自分のよろいをダビデに着せた時のことを思い出してください。男の子ダビデは歩くことさえできなかったのです。

けれども第四に、ダビデの態度がサウルに伝わりました。サウルは肉的な人でしたが、この男の子は何かが違うと感じました。25-31節にあるダビデの態度がサウルを打ったのです。

第五に、神が行なってくださることにダビデは確証を持っていました。これがサウルの心に響きました。神がこの若い羊飼いを通して語っておられるのだと、そして自分を責めておられるのだと分かりました。サウルはペリシテ人を恐れていましたが、神は彼に勝利を確約されました。その確信をこの羊飼いに見たのです。

イスラエルには、また羊飼いが必要です。「イスラエルよ恐れるな。妥協するのを止め、間違った柴(bush)に聞き入るのを止めなさい。」と。(注:デービッドは、モーセが見た燃える柴(bush)とブッシュ(Bush)大統領を掛けています。)

第六に、36-40節ですが、サウルの鎧はダビデが負うには重過ぎました。私たちは皆、自分が効果的な存在になるにはどうすればよいか解決策があると思っています。気をつけてください!神がいて、そしてあなたなのです。神が事を行なってくださるのであり、あなたの才能ではありません。神がどのような方かに拠るのです。ダビデはこのことを、その日、明確にしました。

自分に能力があるとか、神があなたの才能を必要とされているなんて考えるのは止めましょう。コリント第一1章に、神が馬鹿(moron)を選ばれたと書いてあります。神の家にようこそ!ギリシヤ語でそうなっているのです、モロナスと。英欽定訳には「愚か(foolish)」となっていますが、本文にある真理を書き記すのを恐れたのです。そして「弱い者」となっているのは、アステノスで全然出来ない、まったく能無しという意味です。英欽定訳の人たちは、「そんなに悪くないだろう、私たちは。」と思ったのでしょう。

そして本文は、「あなたは無価値だ。10円の価値もない。」と言っています。今日は、「あなたは、私の大事な自尊心を傷つけている。」と人々は言います。それは良い事ですね、自尊心は取り除きましょう。私の尊厳と価値は主から来るのです。この世の制度が私たちに安心感を持たせようとしますが、違いますよ!ダビデは、どこに保証があるのかを明らかにしました。

もっと神は酷いことを言っておられます。「誰もあなたのことを好きじゃない。」と。好きだと思っていたんですか?イエス様は、「彼らがわたしを憎むなら、あなたがたをも憎むのです。」と言われました。

第七に、ダビデに対してゴリヤテが罵ったけれども、ダビデをくじくことはありませんでした。人々が私の口を閉じようとさせました。罵ったり、卑しめようとしましたが、私は「歯をなくしたら、歯茎でかんで死にます。(? 多分、沈黙したら死んだほうがましだ、という意味だと思います)」主が自分の見方なら、もうそれで十分です。そこで多数派を得たのです。

人生において戦いは来ます。十代の若者が「戦いなんで経験しなかったけど。」と言ってきたのですが、「時間の問題だよ。もうじきやってくるよ。」と答えました。

第八に、ゴリヤテに対するダビデの答えは、主に拠り頼む、力ある神の人であることを表しました。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かってくるが、私は、イスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」と言いました。

第九に、ダビデの攻撃です。なんと石投げで戦うのです。なんと馬鹿げたことでしょうか!彼には確信があったのです、それで十分でした。物は少なくていいのです。ただ心を尽くして主に拠り頼めばよいのです。あなたに頼るのではありません、主が大事なのです、あなたではありません。

それでダビデは五つの石を拾いました。ダビデが不信仰に陥ったことを言う話に私は飽き飽きしています。ダビデが、バテシェバの夫ウリヤを殺した後で、もうダビデは以前のダビデではなくなった、と言う人がいますが、それは嘘ですよ。この後でも、歴代のユダの王の中で、「正しかった。しかしダビデのようではなかった。」とあるのです。神はこの人をずっと尊ばれていました。その死後でさえも。

五つの石を拾ったのですが、「もしもっと信仰があれば、石を一つだけ取り上げればよかったのだ。」と言います。聖書を読んでください、ゴリヤテには四人の息子がいたのです、ダビデごゴリヤテの家すべてを追っていたのです。

第十に、ダビデの能力は、主ご自身から来たものであるということです。あなたの内におられる神がすべてなのです。主が、その万能の力であなたの内に働かれます。「でも、もうこれ以上前に進めない、と感じているときはどうするのですか?」と。分かります、けれども、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方です。

パウロが、私は弱い時に強いと言いましたが、それは本気だったのです。「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(1コリント12:9)」神の力は、私の無力や痛みによって妨げられることはないのです。神は全てのものをご自分の栄光のためにお用いになります。その痛みを用いてくださるのです。

すでに皆さんの多くに、家庭の中に悲しみがあることを聞いています。子供や孫や、叔父や叔母や。ある人は、「私以外に、神を愛している人は家族にはいません。」と言いました。聖書は、父の罪は子に帰せられないことを教えているのを知っていましたか?エゼキエル18章にあります(20節)。「三代、四代」という言葉は言い回しであり、後の世代が同じ罪を繰り返せば、同じ苦しみを味わうという意味です。あなたが神を愛していれば、その呪いの鎖は断ち切れるのです。事実、神は、ご自分を愛するものに千代に渡る憐れみを示してくださるのです。

私たちは頭をきちんと整理しないといけません。各人がしたことに応じて、神は申し開きを求められます。心を尽くして、主に拠り頼まないといけません。箴言3章5節に、「心を尽くして」とありますね、そして「自分の悟りに頼るな」と。私は絶えずこれをやってしまいます。すべての道に主を認めよ。そうすれば主がまっすぐにしてくださる、と。

ここエラの谷で、主がどれだけのことをしてくださったのか覚えることができました。

イスラエルだけでなく、北アメリカもこのメッセージをどうしても必要としています。全世界がそうです。政治家や指導者に頼ってはいけません、聖書がそう言っているのです。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(詩篇20:7)

主がどのような方であるか、このことを語るのが、惨めな私たちの存在を語るよりもずっと良いのです!(以上の音声

 このメッセージを聞いて本当に慰められました。今日のキリスト教は、本当に人間の可能性志向なのです!だからダビデのことも悪く言えるのです。なぜ神がこれほどダビデを高く評価されたのか?それは「主」が大事なのであって「私たち」ではないという明確な境界線を彼が持っていたからです・・・再び説教は要らないでしょう、ここで止めときます。

 妻はそこから石を数個拾いました。日本に持ち帰るつもりです。


4.ベテ・シェメシュ

 エラの谷を今度は北に進むと、間もなくベテ・シェメシュ(Beth Shemesh)に到着します。

 ベテ・シェメシュは、ダン族とユダ族の境にある町で、レビ人に与えられていた町です(ヨシュア21:16)。エラの谷ではペリシテ人とイスラエルが戦ったのですが、ここら辺は地中海沿岸地域にあるペリシテ人の五つの町に近く、ペリシテ人からの攻撃にさらされていた所でありました。ですからベテ・シェメシュからは、ペリシテ人と戦った士師サムソンの出身地であるツォルアが見えます(士師13:2)。

 ここはエラの谷の北にあるソレクの谷(士師16:4)にある町で、東西に伸びています。さらに南北の主要道路も通っていますから、東西南北四方を一望することができ、戦略的に重要な場所です。他にラキシュ、ティムナ、デビル、リブナなどを含め、この地域一帯が「シェフェラ(Shephelah)」と呼ばれています。東側のエルサレム、ベツレヘム、ヘブロンなどの高い山地と、地中海沿岸の平野との間にある、低い山地です。印象としては「農地が多い片田舎」という感じでした。

 ベテ・シェメシュで起こった大きな出来事は、一旦、ペリシテ人に奪われた契約の箱がこの町に初めて戻ってきたことです。サムエル第一6章に書いてありますね。かつて、エルサレムの北にあるシロに幕屋がありましたが、ペリシテ人との戦いでそこから戦場に神の箱を持っていきました。そこでイスラエルが戦いに敗れ、ついでに契約の箱も奪われました。それからペリシテ人は自分たちの神ダゴンの宮の中に、ダゴンと隣りあわせで箱を安置していましたが、ダゴンが頭と両腕を切り取られて倒れていました。それから腫物がその町を打ち、ペリシテ人のほかの町に運びましたが、そこでも人々に腫物ができました。ペリシテ人は恐ろしくなり、これをイスラエル人の下へ返すことに決めました。彼らが異教徒ですから、彼らの宗教の方法で、自分たちの災いが贖われるためのことをいくつか用意しました。雌牛と牛車と、それから金でできた五つのねずみと五つの腫瘍です。

 それを彼らは雌牛が行かせるままに行かせました。それがそのままソレクの谷間を歩き、ベテ・シェメシュまで歩いていったのです(上の地図のCからDへ歩きました)。けれども、大きな事件が起こります。ベテ・シェメシュの人たち約5万人が死んだのです。主はご自分の御心のままに、イスラエルに良いように動いてくださっているのですが、肝心のイスラエルが主を礼拝することについて何も分かっておらず、逆に害を被っているのです。

 ここからデービッドが短くメッセージをしました。

ベテの意味は「家」ですが、「シェメシュ」は「太陽」です。ここはカナン人が太陽を拝んでいた所として考えられています。

それで今、一台の新しい車を仕立て、くびきをつけたことのない、乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、その雌牛を車につなぎ、子牛は引き離して牛小屋に戻しなさい。また主の箱を取ってその車に載せなさい。罪過のためのいけにえとして返す金の品物を鞍袋に入れ、そのかたわらに置き、それを行くがままにさせなければならない。あなたがたは、箱がその国への道をベテ・シェメシュに上って行けば、私たちにこの大きなわざわいを起こしたのは、あの箱だと思わなければならない。もし、行かなければ、その手は私たちを打たず、それは私たちに偶然起こったことだと知ろう。」

人々はそのようにした。彼らは乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、それを車につないだ。子牛は牛小屋に閉じ込めた。そして主の箱を車に載せ、また金のねずみと腫物の像を入れた鞍袋を載せた。すると雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一筋の大路をまっすぐに進み、鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、そのあとについて行った。ベテ・シェメシュの人々は、谷間で小麦の刈り入れをしていたが、目を上げたとき、神の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。 車はベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑にはいり、そこにとどまった。そこには大きな石があった。その人たちは、その車の木を割り、その雌牛を全焼のいけにえとして主にささげた。 レビ人たちは、主の箱と、そばにあった金の品物のはいっている鞍袋とを降ろし、その大きな石の上に置いた。ベテ・シェメシュの人たちは全焼のいけにえをささげ、その日、ほかのいけにえも主にささげた。五人のペリシテ人の領主たちは、これを見て、その日のうちにエクロンへ帰った。

ペリシテ人が、罪過のためのいけにえとして主に返した金の腫物は、アシュドデのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。また、金のねずみは、五人の領主のものであるペリシテ人のすべての町・・城壁のある町から城壁のない村まで・・の数によっていた。終わりに主の箱が安置された大きな石は、今日までベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑にある。次を見てください。主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。ベテ・シェメシュの人々は言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。私たちのところから、だれのところへ上って行かれるのか。」そこで、彼らはキルヤテ・エアリムの住民に使者を送って言った。「ペリシテ人が主の箱を返してよこしました。下って来て、それをあなたがたのところに運び上げてください。」(サムエル記第一6:7-21)この住民は祝福されました。二十年の間、主が命じられた通りに管理していたからです。

五つつの教訓を学びたいと思います。

第一に、エルサレムに向かうその道に一つの大きな石があったことです。けれども本当は神はエルサレムに箱が向かうことを願っておられたのです。

私たちは神の命令とは違うことを行なっているのに、自分なりの方法でそれが正しいとすることです。彼らは主にいけにえを捧げました。けれども、契約の箱を運ぶはずの牛をほふって、ささげてしまったのです。

私たちの生活は、主がよしと思っておられないことを、少しずついろいろ行ない、けれどもそれをうまく隠して自分が霊的であるかのように見せることがあります。

第二に、神の罰が彼らに及びました。契約の箱の中を見る誘惑に勝てなかったからです。神は見てはならないと命じておられます。

第三に、なぜこの出来事を聖書は記録しているのでしょうか?答えは本文の中にあります。聖なる神、主の前に立つことは誰もできないことです。A.W.トウザーは、アメリカの文化に対する断罪をたくさん書いています。どれだけ私たちが肉的になれるのか、と。聖潔は「別たれる」という意味があります。例えば、ユダヤ人は聖別された民ですが、その食物規定によって他の国々と別たれています。

ところでイスラエルにユダヤ人は、現在182ヶ国から帰還しています。世界で191ヶ国しか国がありません。エゼキエル書には、ユダヤ人は世界のあらゆる国から戻ってくるとの約束があります。これが成就するまであと8カ国か9カ国しかありません。

この土地は「聖地」と呼ばれています。この土地は世界のあらゆる土地から別たれている、という意味です。神がアブラハム、イサク、ヤコブの子孫に与えられましたが、これで全世界が怒っています。「聖」という言葉を人の言い伝えによる儀式的なものを考える人がいますが、違います。

神は聖なる方です。私たちがここで投票をして、それで牛をほふって、ささげよう。見てはいけないと命じられたのに、見よう。私たちは神の子どもではないか。

違います!アメリカの文化でも聖潔について何の気にも留めていません。これは、あなたの周りの世界からあなたが別たれていることを意味するのです。彼らと同じように考えないし、話しません。人気あるロック歌手のことも関係ないし、政治家や王たちのことも関係ありません。神は彼らに頼るな、と言われたのです。

このイスラエル人たちをそんなに裁かないでください。ここに契約の箱があったとしたら、ちょっとのぞいてみたいという誘惑に駆られませんか?これは「エデンの園症候群」と呼んでよいでしょう。ここにあらゆる木があります。何でも食べてよいのです。一本だけ、善悪の知識の木の実だけは食べてはいけない。悪魔の誘惑は、「神はほんとうにそう言われたのですか。これを食べたら神のようになり、善悪を知ることができます。」

今の文化で間違っていることは、私たちが神の役割を演じることができるというものです。自分たちのしたいようにすることができ、神が言われたことを再解釈できるのだ、と思っていることです。

神は罪から別たれた方だけではなく、ご自分の創造物からも別たれています。被造物を今日、拝んでいます。環境主義者らは私たちが木に抱きついて欲しいと願っています。植物に語りかけろと。異教の復興です。

私たちへの戒めは、神を私たちのレベルに引き下げるのではなく、神の命令を強調して、神を引き上げることです。(以上の音声

 少しずつ妥協して、「このくらいの罪はいいだろう」と考えて、そしてそれを隠して自分を霊的に見せる・・・。何という誘惑でしょう!主から強い戒めを受けました。

 そしてバスはエルサレムにあるホテルに戻ります。ちょうど、契約の箱がキルヤテ・エアリムの祭司の家に20年間安置され、それからダビデの町(エルサレム)に運ばれた道です(上の地図のDからE、そしてEからF)。