エジプト・イスラエル旅行記 − 8月15日その1

 それでは8月15日の旅行について記録します。今回は、死海方面の旅行です。

1.マサダ
2.エン・ゲディ(ダビデがサウルから逃れて隠れたところ)
3.クムラン
4.死海遊泳

 死海地域は砂漠です。非常に暑いことが予想されるのでいつもより早く出発し、かつ一番時間を取り、最も暑いであろうマサダを午前中に見終わる予定となりました。マサダ(Masada)がもっとも南にあり、その次がエン・ゲディ(En Gedi)、そしてクムラン(Qumran)へと北上します。(右の地図をご参照ください、赤印を付けたところです。)


ユダの荒野

 エルサレム(Jerusalem)を中心に東西にのびている1号線の道路があります。バスは1号線を東へと進みました。エルサレムは東がオリーブ山ですが、その山を越えるとすぐに荒野になります。木々が極端に少なくなり、背の低い植物がぽつぽつ生えている程度です。

 イスラエルの魅力は、ユダヤ人がここに戻ってきて、開墾し、花を咲かせたということだけでなく、天賦の多様な地形と気候にもあります。エルサレムを真中に南北に走っている山脈があり、西は地中海に向かってなだらかな丘が続きます。比較的肥沃な土地です。そして東は砂漠になっています。さらにこの町を境にして南北の地形も変わります。北はサマリヤ、さらに北はイズレエル平野、ガリラヤ地方になりここはイスラエル最大の農耕地です。南はベツレヘム、ヘブロンがあり、ごつごつした山々になっています。

 この、エルサレムの東側から死海に向かって南方に広がっている一帯を「ユダの荒野(Judean Desert)」と言います。荒野と言えども、丘陵があり、谷があり、見ていて飽きさせない地形です。ここには遊牧民はいても、定住している人はほとんどいないため、歴史を通じて、人目を避けてやってくる格好の場所となりました。

 それで聖書的、歴史的に重要な出来事がここでたくさん起こっています。ダビデはサウルの手から逃れるために、この地域に来ましたが、その隠れ場の一つがエン・ゲディです。バプテスマのヨハネは、ここから御言葉を語り始めました。イエス様が誘惑をお受けになったのも、ユダの荒野ではないかと考えられています。ヘロデ大王は、自分の身に危険が迫った時のことを考えて、ベツレヘムの南にあるヘロデオンと死海ほとりのマサダに要塞を作ったのです。

 そしてエルサレムが堕落したと考えて、清めを求め、終末の準備をするためにユダヤ教のエッセネ派の人たちは、クムランで共同生活を始めました。そして、ユダヤ教の熱心党がローマに反抗し、人々から離れて生活するためにヘロデの要塞マサダを選んだのです。

 来てみると、彼らの気持ちがよく分かります。静かで、時間が止まったかのような感覚を得、霊的な事柄に一心に集中できるような空気が漂っています。

 エルサレムからユダの荒野に入り、間もなくすると左手にベタニヤがあります。主がガリラヤにおられたときカペナウムを拠点にして宣教されたように、エルサレムに来られた時はベタニヤを拠点にしておられました。99年にはここにある、ラザロの墓を訪ねることができましたが、パレスチナ自治区の中にあるため、今はイスラエル人の旅行社のバスとガイドは入ることができなくなっています。


定住を始めたベドウィン

 ここでベドウィン(遊牧民、リンク先は日本語のウィキペディアをたくさん見ました。ベドウィンの生活を見れば、アブラハム、イサク、ヤコブの族長時代の生活を想起することができます。羊やヤギなどを飼って生活し、天幕暮らしです。ものすごく暑い砂漠の中で生きているのですが、その中にある生活の知恵がたくさんあります。彼らはイスラエル国籍を持っていますが、アラブ人のため本来、徴兵はありません。けれども自ら志願して、陸軍の道案内人になります。イスラエルの地形を彼らほど詳しく知っている人はいないからです。

 この頃のベドウィンは定住してきているそうですが、バスから眺めてもそれが分かりました。天幕だけでなく、掘っ立て小屋もたくさん見かけました。極めつけは、衛星放送を受信する皿があちらこちらにあったことです!これはイスラエルだけでなくエジプトなど他の国でも起こっている現象で、政府が教育や福祉サービスなど、定住者向けに定めているためだということです。

 ところで彼らは生粋のムスリムです。アラブ人と言えば、荒野で遊牧をする彼らこそが元祖です。アラビア語もベドウィンの言葉から由来しているとか。イスラムがこのアラブ文化を踏襲したと言って良いでしょう。


エリコから死海へ

 そしてしばらく行くと、左手遠くに緑が見えました。エリコです。そこはオアシスのようになっています。エリコが見えたら、もう死海も近いということです。ヨシュア率いるイスラエルの民がヨルダン川を渡って始めに攻めた町が、エリコであったことを思い出してください。そして福音書にもエリコは数多く出てきます。世界最古の町があったと言われる所で遺跡の宝庫です。

 エリコが見えるとなると、ヨルダン川が近いということになります。ヨルダン川の終着地点が死海です。バスは右に曲がり、死海に沿った道路を走り始めました。左手に見えました!コバルトブルーの死海です。右手は黄褐色の山々が連なっています。99年の旅行で、ここの風景と空気が本当に気に入ったことを書きましたが、戻って来れて嬉しかったです。

 ここの地域が、クムランのエッセネ派やマサダの熱心党を引き付けたのは、ユダの荒野の静けさだけでなく、死海そのものの静けさにもあるでしょう。死海は世界一塩分の多い湖水を持っていることを思い出してください、約30パーセントが塩分です。それは、ヨルダン側など流入する水はありますが流出することはなく、ただ大気に蒸発するため、ミネラル分だけが残りどんどん濃くなっているためです。そのため魚類は一切いません。さらに船が行き交っていないのです。船底が塩分や他のミネラルですぐに駄目になってしまう為です。死海の東岸ヨルダン側も砂漠が続いています。ですから、不思議な独特の静けさが流れています。

 さらにここは、世界で最も低い陸地であることも思い出してください。死海は、シリアの方からアフリカに貫いている地溝の上にあります。そのため海面下420メートルのところに位置します。深海底ならず深陸底と呼ぶべきでしょうか、大気の一番深い部分になっており、気圧が高く紫外線も少なく、酸素も多いです。これも、不思議な清らかさを生み出すのに貢献していると思います。

 聖書ではもちろん、死海で有名な話はソドムとゴモラです。ロトの妻が塩の柱になってしまったことが有名ですが、これは死海の南側にあります。後日、エイラットまで南下するときに訪ねますので、その時に詳しく説明したいと思います。そして、エゼキエルの預言では、主が再臨された後に、エルサレムの神殿から流れ出る水が死海の中にも入り、死海はいやされて魚も棲むようになることが約束されています(47章8-9節)。


1.マサダ

 バスは死海の西側の海岸沿いをどんどん南に進んでいきます。後で訪ねるクムランと、エン・ゲディを横目で見ながらさらに南下してマサダに到着しました。

 上のリンク先にある写真を見ていただくとお分かりの通り、マサダは菱形の台地になっています。標高は海抜50メートルほどですが、死海が水面下400メートルですから450メートルぐらいあると考えていいです。広さは約600×200mです。この地形が格好の要塞になるのは見ての通りです


歴史家ヨセフス

 ここで起こったことを記録したのは、ユダヤ人の軍人であり歴史家のフラウィウス・ヨセフスです。彼はローマに対するユダヤ人反乱の時、紀元66年、ローマ軍に投降しました。

 彼の著作「ユダヤ戦記」は、新約聖書時代と重なっており、しかも直接目撃したことを記録しています。聖書記述の信憑性を裏付ける文献として、第一級資料と言われています。

 初代教父たちはヨセフスの言葉をよく引用しました。イエス様がエルサレムの破壊を預言されたことが、まさにそうなったことをヨセフスの記述で確認でき、その他の新約聖書の出来事も確認できるからです。アメリカの牧師たちの説教にもしばしば"Josephus says"と、引用が出てきます。このイスラエル旅行でもガイドの口から彼の名前が頻繁に出てきます。

 このヨセフスが、最後に記した第七巻においてマサダの陥落を描いています(ちなみにエルサレム破壊は第六巻)。

 彼によると、この台地が本格的に利用されたのは、ヘロデによってです。彼が建築プロジェクトに精を出し、神殿も建てたけれども、ユダヤ人から嫌われていることも知っていることは、前に話しました。事実、彼は残虐な人、というか被害妄想の激しい人で、自分の妻や息子たちを次々に殺しています。自分自身もいつかユダヤ人に殺されるのではないかと恐れていました。それで、万が一ということでここを要塞化し、自分が住める宮殿にしました。ただ彼は、実際にこれを使う前に死に絶えました。

 ヘロデがこれを建築したのは紀元前30年代の時ですが、その90年後、紀元66年、ユダヤ人たちはローマに対して反乱を起こしました。覚えていますか、主はご自分がピラトの裁判を受けられている時、「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。(ヨハネ18:36)」と言われました。主に属する者たちは、物理的な力で神の国を保持したり奪取することはないのですすが、ユダヤ人たちは軍事的な救世主を求めていました。それで反乱を起こしたのです。けれどもそのためにかえって、エルサレム破壊を招きました。

 ユダヤ教の熱心党の中でもさらに急進的な人たちが、エルサレムの神殿が破壊されてからここマサダに来て、篭城を始めました。ヘロデが建てた物を使いながらなおかつ、シナゴーグなど新しい建物も建てました。ここは砂漠の中なので水が死活的な課題でしたが、ヘロデは高技術の貯水槽を作っていました。また食べ物も、穀物が大量に備蓄されていました。

 ローマ軍は、紀元72年にマサダを陥落すべく、行動を開始しました。包囲が長期に及ぶことを覚悟し、彼らは8つの宿営を周囲に作り、高い壁でマサダを囲みました。そしてマサダの西側に塁壁を築き始めました。台地の上まで届き、襲撃するためです。9ヶ月かかりました。

 そしてその中に入ることができるようになった、73年4月16日、女二人と子供五人を除いて約960人が皆、死んでいたのです。前日に火を付け、かつ彼らは、ローマの奴隷になるよりも死を選んだのです。十人だけが選ばれて、この十人が全ての人を殺し、そして最後にくじを引きながら、当たった者を他の者が殺し、最後残された者だけが自決しました。ユダヤ教でも、自殺は避けなければいけないものと教えていたからです。

 このことを生き残った女と子供からヨセフスは聞き出したのでしょう、彼が後世のためにこの事件を書き記しました。

 興味深いことに、彼らは故意に備蓄の食糧を残していたそうです。ローマが、彼らは飢餓で死んだのだと言わせないためでした。そしてローマ側には、自分たちが勝ったのにも関わらず、記録が一切ありません。あまりにも不名誉だったからです。略奪するものが何も残されておらず、勝った甲斐を見出せなかったからでしょう。

 後に六世紀頃、ビザンチン朝時代にて修道院としてここを教会が使った形跡があります。それ以降はずっと廃墟でした。

 1838年が初めてこの場所の位置が確認され、1949年、独立戦争でイスラエルが勝利を得た時、ここに国旗を掲げました。本格的な発掘が行なわれたのは、1963年以降にイガエル・ヤディンという人によって行なわれ、そして今日あるような全貌が明らかにされたのです。

 後でデービッドのメッセージに出てきますが、ここのシナゴーグで発見された巻き物に、エゼキエル書35-38章がありました。そこにはあの有名な「干からびた骨」の幻があります。イスラエルの国の回復の預言です。遺跡を掘っている人たちは、当時のマサダの人たちが陥落する時に信じていたことが、今まさにイスラエル領になったところを発掘している自分たちを通して成就していることを知って身震いしたそうです。

 イスラエル国防軍(IDF)は、基礎訓練を終えた兵士たちの宣誓式をここで行なっています。彼らは聖書を受け取り、"Masada shall never fall again.(マサダは二度と陥落されず)"という言葉で終えます。


遺跡

 歴史について話し終えたので、次に実際の遺跡を眺めてみましょう。

 私たちは2007年に作られた新しい博物館の中にある映画館で、マサダに関する短い映画を観ました。

 それからケーブルカーに乗ります(右の写真)。ところでこのケーブルカーの右横に、徒歩でマサダに上がるジグザグの小道が見えるでしょうか?これは「蛇道(The Snake Path)」と呼ばれ、当時から、マサダへの出入りはここしかありませんでした。

 ところで初老のガイド、ヤコブさんは、毎日かなりの距離を散歩しているそうですが、マサダに来ると必ず蛇道で上がるのだそうです。男性陣に声をかけて、他の人が若そうに見える(?)私に、「一緒にいったらどうだい?」と誘いましたが、きっぱり断りました。映画を観たかったし、第一、この真夏に、砂漠の山を一時間もかけて登ったら、絶対脱水症状が出てくると思ったからです。案の定、私たちがケーブルカーから降りてしばらくしてから、ヤコブさんともう一人、上半身裸になっているメンバー一人を除いて、数人が脱落したそうです。(つまり、マサダ見学は出来なかった、ということ。)

 デービッドは、降りるほうをやってみたらどうだい?と声をかけてきましたが・・・。これまでの記録では確か10代の男の子が13分で降りきったとか。ったく、私はもう若くない!!

 上がってから、まずマサダの模型の前で説明を受けました。これは遺跡類が集まっている北側の部分です。なぜ北側に集まっているかと言うと、南側に似たような台地があり、そこからこちらに矢を放つことができそうだからです。ですから、大事な建物は北の岸壁にある宮殿、食糧の貯蔵庫、そして風呂場です。

 ところでマサダの地図が、イスラエル外務省のサイトにあります。これをクリックして説明を読まれるとよいかと思います。上の三つは、1.2.3.になります。

 建物の写真がこちらにありますが、建物の真中に黒い線が走っているのが分かるでしょうか?黒い線の下の部分は実際のものでその上は修復したものです。他の建物でもみなそのようにしています。修復する前は、瓦礫と砂でいっぱいでした。

 そして北の岸壁を下に眺めると、建物が二階分見えます。今、立っているところを含めると宮殿は三階になっていることが分かります。一番下の部屋はヘロデがたった一人いることができる場所で、彼がいかに、家族を含めて誰も信じることができなかった、パラノイアであったかを物語っています。そして彼個人の風呂場がそこにあります。

 食糧の貯蔵庫は非常に大きいですが、これはもちろん長い期間、避難生活に持ちこたえるためです。ここの食糧を70年後、熱心党の人たちは食べたのです。7年間ここに篭城してもまだ残っていました。先ほど言いましたように、ローマ軍が進入するとき、彼らはあえてここを破壊せず、自分たちは飢餓で死んだのではないことを見せつけたのです。穀物、オリーブ油、ぶどう酒、なつめ、いちじく等を発掘しました。ヨセフスは、ここに菜園まであったと書いています。

 そして台地のふもとには、四角い囲いのようなものと、台地を取り囲む壁のようなものが残っています。それが包囲時の宿営です。驚くことに、これらもまだ残っているのです。

 そして大きな浴場があります。ローマ風の風呂です。いわゆる蒸気のサウナです。床下と壁に温水を流すことによって部屋を暑くします。今でもトルコ風呂として中東では親しまれています。

 そして、最後に残った十人がくじを引いた部屋に行きました。そこに名前が書いてある石が見つかりました。なぜ十人か?ユダヤ教では、墓の前で十人の男が祈るカディーシという祈りがあります。これを先に死んだ人たちのために祈ることができるため、ということです。

 そして次に貯水槽に行きました。降水量は極めて少ないですが、降る時には砂漠では土砂降りになるのだそうです。そしてこの貯水槽がいっぱいになると、溢れた水は水路を通って下にある他の貯水槽に流れます。山のふもとにも貯水庫があります。これらの水によって、菜園をも造ることができたのです。

 以上の遺跡は、上の題名のリンク先で確認することができます。また次の、ヘブライ大学が提供しているビデオは非常に分かりやすいです。英語の説明ですが、映像だけ見ても為になると思います。

 そしてシナゴーグに行きました。

 ここでデービッドがメッセージをしますが、左の写真を見てください。妻がデービッドの足の間にすっぽり埋まってしまっています!右隣の秘書のエリサベツさんと、メッセージを録音している旦那さんがこれを見て笑っています。私たち日本人は小さいなあ〜。この状態で、デービッドがメッセージをしました。(左の写真をクリックすると音声が始まります)

 まず彼は、篭城した熱心党の頭であったエラザー・ベン・イェアが残した言葉を引用しました。最後に生き残り、自決した本人ではないかとデービッドは考えています。全部訳すことはできないので、Jewish Virtual Libraryにあるものを訳しますと、こうなります。

「我々はずっと以前から、ローマの奴隷にも、神ご自身以外のいかなる奴隷にもならないことを決意していた。この方のみが真実であり、人類の主であられる。そして我々は今、この決意を実行に移さなければいけない時が来た。・・・我々が最初に反乱を起こし、最後まで戦った者たちだ。まだ自由の状態で勇敢に死ぬ力が私たちにはあるが、それを私は、神が許したもう好意として尊ばざるを得ない。」

 実はデービッドは、イガエル・ヤディンの遺跡発掘チームの中にいました。1968年、ちょうど40年前であり、また六日戦争が起こった翌年のことですが、このシナゴーグの貯納室で聖書の写本の断片を見つけました。申命記33-34章とエゼキエル書35-38章です。

エゼキエル36章には、第一に、「土地の回復」が記されています。この中に、この地を木々が覆うことが書かれています。イスラエルの神、主が、山々に語り木々を出すことを命じられています。それによって世界が、この方が神であることを知ります。荒れ果てた地に対して主がこのように語られていますが、1948年前に書かれた本には、沼地、砂漠、岩だらけで、木は見ることが出来ないとあります。けれども48年以降、ユダヤ国家基金や世界中の人が木を植え始めました。何百万本も植えました。ほぼ2500年前にこのことを主は予告なさいました。

木だけではありません、実もです。この小さな不動産が、全世界に対して果物を生産しているのです。ヨーロッパ連合の果物の80パーセントがこのイスラエルから来ています。アメリカ、カナダに次ぐ輸出国なのです。

そして家畜も預言されています。

第二に、ユダヤ民族がこの地に帰還することが書かれています。主は、「すべて」の国々から彼らを連れ出し、イスラエルに住まわせることを約束されました(24節)。これはメシヤが戻ってこられる時の話です。世界には191カ国あります。イスラエルにいるユダヤ人が帰還した国々は、182カ国です!主の来臨は近いのです!

第三に、ユダヤ人の心が新たに生まれることです。清い水を振り掛けるとありますが、実際は新しい霊を授けるのです。ユダヤ人の指導者ニコデモが、夜イエス様のところにやって来て、主は彼に「新たに生まれなければ、神の国に入ることはできません。」と言われました。これは、エゼキエル36章からのメッセージだったのです。いつの日か、ユダヤ人は新生します。

第四に、38-39章にはゴグとマゴグの預言がありますが、これは、イスラエルを攻撃する国々たちに対して、主が復讐されることがテーマです。敵どもを、イスラエルの山々で滅ぼされます。今は危険な時代です。核拡散など、軍事関係者はこれから地球に何が起こるか、非常に懸念しています。神は何が起こるか教えてくださっています。神の復讐の時が来るのです。神に反抗する者どもに対して戦われるのです。

第五に、メシヤの統治が書かれています。イランの大統領は、国連にてメシヤはアラブ人であると言いました。彼は天国ではなく、地獄に行きます。アラブ人のメシヤではなく、イスラムの第13のマディではなく、ユダヤ人のメシヤが来られるのです。永遠の御国を立てられるのです。これを彼らは、貯納室で見つけたのです!

最後、第六に、神殿が再建されます。彼らが見つけた章の次は、9章に渡ってエゼキエル書は神殿再建を取り扱っています。ゼカリヤ6章12-13節には、メシヤご自身が王となり祭司となられ、神の宮を建てられることが書かれています。これは滅びることのない神の御国です。

ここでどれほどのことが起こったのでしょうか!これまでたくさんの見てきた考古学者らが、この写本を見て「信じられない」がその反応でした。これが忘れ去られようとされています、だから今、世界中に放送されるラジオ番組の録音として、ここに宣言します。世界はここで起こったことを知らなければいけません。「マサダは二度と陥落しない!」

 ・・・時々、デービッドはどういう人なんだろう、と思います。時代の人というか、歴史的に重要な出来事に居合わせた人というか・・・。エゼキエル書36章から最後の章までの彼のメッセージ・シリーズ「将来の幻(Visions of the Future)」があります。詳しい説明を聞くことができます。

 そして西側沿いにさらに南に行くと、ローマが築いた塁を見ることができます。その周りに丘がありますが、その中にマサダの人たちの遺骨が埋まっているのではないかと考えています。見つかった17体は、今、戦死した兵士と同じように葬ったそうです(つまり、マサダと今のイスラエルを一つに考えている)。

 そして私たちはケーブルカーに戻ります。ガイドのドランが、ここから見える死海についていろいろ説明しました。死海の真中部分が干上がっているため、北の部分から南の海に運河を作り、水を引いている様子を見ることが出来ます。死海の水位がどんどん減っているためです。このことは、後日、エイラットに行く途中の旅行記で書きたいと思います。

 そして私たちはバスに乗り、次の目的地エン・ゲディに向かいました。