エジプト・イスラエル旅行記 − 8月18日その1

 Hope For Todayからもらったイスラエル旅行ガイドには、ガリラヤにいる間、朝に静思の時を薦めています。私も99年にこれがとても良かったので、今回も朝早く起きてプールサイドにてゴラン高原を背にした日の出を待ちながらマルコ伝を読み、主の宣教について思い巡らしました。

 主が語られたことは、やはり「わたしは、名の知られないところで働く、へりくだった者である。」でした。霊的に中心的な役割を担いながら確執の多いエルサレムから離れて、異教的な地であるにも関わらずキリストの豊かさを見るガリラヤへ移ってきました。そしてマルコ伝は、イエス様を、黙々と神に仕える僕として描いています。宣教とは、人々に注目されるような働き、クリスチャンの間でさえ注目されるような働きではなく、誰にも顧みられないところで働きたいと願われる主の御思いであることを知りました。

 18日の旅程は次の通りです。

 1.ガリラヤ体験(Galilee Experience)
 2.ガリラヤ湖上ボート
 3.聖ペテロの魚
 4.カペナウム
 5.山上の垂訓の丘
 6.タブガ
 7.桟橋のレストラン


ティベリヤ

 私たちが今いるところはティベリヤの町です。この町も聖書に出てきます(ヨハネ6:23など)。けれども聖書時代の時には、ユダヤ人はこの町を避けていたようです。ツィポリと同じくヘロデ・アンティパスがこの町を首都とすべく紀元20年に建てました。けれどもアンティパス自身が非常に世俗的な人間であり、何よりも墓地の上に建てたためユダヤ人はそこを汚れているとみなし(レビ記11章参照)、中に入りませんでした。主ご自身もアンティパスを非常に嫌い、おそらくは立ち入ることはありませんでした(ルカ13:21)。結局ヘロデ・アグリッパ二世の時に、首都をツィポリに戻したようです。

 けれども後に、ラビが墓場の死体を掃除してから話は変ります。ここを清いと宣言し、それからユダヤ人が入るようになりました。ツィポリに拠点を持っていたサンヘドリンはティベリヤに落ち着き、ミシュナの編集作業もここで続けて行なわれました。さらに中世に入ると、イスラエル博物館見学の時に説明しましたマソラ学派が、旧約聖書の写本をここティベリヤで編纂しました。ユダヤ教の体系化に多大な貢献をしたマイモニデスも、ここで葬られています。ですから長年のこと、アラブの侵略があるまでここが現代ユダヤ教の中心地になりました。

 上のリンクで、これらの遺跡と今のリゾート地が混じり合っているきれいなティベリヤを眺めることができます。


1.ガリラヤ体験(Galilee Experience)

 朝一に出かけたところは、ティベリヤの中心にあるショッピングセンターの中にある、Galilee Experience(ガリラヤ体験)というお店です。このお店の特徴は何といっても、メシアニック・ジューが経営していることです。

 観光地のど真ん中にあって、観光ガイドブックにも最初に出てくるぐらい有名なお店ですが、そのお店はユダヤ人への伝道を第一の目的としています。彼らが作ったビデオがあり、映画館があります。題名はそのまま「ガリラヤ体験」ですが、古くはアブラハムが捕らえられたロトを助け出すためにダンまで追跡した出来事から始まり、ガリラヤ地方で起こったことを聖書から順番に語り継げます。

 そしてその半ばに、主の宣教が出てきます。福音的なクリスチャンであれば、ちょっと押しが足りないと感じるかもしれませんが、このお店のオーナーが、「ユダヤ人はイエス様についてほんの少しの知識もない。」と話しておられました。ヘブル語でイエスはイェシュアですが、それさえも知らず罵る言葉「イエシュ」しか知らないそうです。日本人でいうならば、「あの人、お陀仏」と、仏の名前を使って人を見下げる表現と同じように使うのと似ているでしょうか。

 そして主が行われたことが終えると、「ユダヤ人はこのようなメシヤではなく、政治的なメシヤを願った」と言って、ユダヤ人のローマに対する反乱、それに伴うローマによるエルサレム破壊にも触れます。そしてその後のガリラヤにおけるユダヤ教の発展、異邦人による支配、19世紀後半からのユダヤ人の帰還、イスラエル建国、中東戦争、そして現代のリゾート地としてのガリラヤの姿で終わります。

 ですから、リゾート地として来るついでにユダヤ教の歴史も知りたいと思って来るユダヤ人が、このお店にも立ち寄って少し考える時間が与えられます。イスラエル陸軍の人たちも団体で鑑賞したらしいです。地道な種まきの作業です。けれども、うれしいことに刈り取りもできています。デービッドのツアーに以前参加したことのあるユダヤ人の方が出てこられましたが、今はイエス様を信じて、ここガリラヤ体験のお店で働いておられます。

 ガリラヤ体験のもう一つの目的はクリスチャンにユダヤ的ルーツを教えることですが、この映画が描いている通り、聖書時代のイスラエルは現代のイスラエルまで一直線につながっています。ここが非常に大事なところで、信仰は私たちの内側にあるのではなく、キリストの十字架における死と、墓からのよみがえりという客観的な事実に基づくものです。そしてこの神の真実を、私たちは現代のイスラエルの地で確認することができるのです。

 この映画は私は非常に気に入り、99年にはオリジナル英語版のVHSを買いました。その時にすでに日本語版が出る話は聞いていました。ハーベストタイムの中川健一師が行なわれるとのこと。そして今回、メディア技術は進歩して一枚のDVDに数ヶ国語の翻訳が入っていました。お土産用に三枚買いました。


祈りが必要なメシアニック・ジュー

 ショッピングの時にオーナーの方と少し話しました。私が日本にはクリスチャンが人口の1パーセント未満であることを教えると、彼は、「イスラエルのユダヤ人の間では、0.2パーセントです。」と答えられました。それでも、以前に比べたらずっと増えているそうです。

 メシアニック・ジューと言うと、何かクリスチャンと異なる信仰を持っているように聞こえますが、用語や礼拝形式においてユダヤ的な装いをしているだけで、中身はキリスト教と何ら変りません。イスラエルに住んでいるユダヤ人信者の方々が、同胞の救いを願ってやまないのが本当に伝わってきますし、私もささやかながらの祈りと支援をしたい気持ちになります。イスラエルやユダヤ人について、ロマンを抱いている間はまだ良いのですが、実際に本腰を入れて伝道を始めたら、彼らがいかに心のかたくなな人であるか、嫌というほど分かると想像します。反ユダヤ主義はどんな理由があっても悪ですが、ルターがユダヤ人に伝道しても受け入れなかったため反ユダヤ的になってしまったそのいきさつは理解できます。

 このかたくなさを一番身に染みて実感していたのは、本人もユダヤ人であるパウロです。彼らからどれだけの迫害と苦しみを彼は受けてきたことでしょうか。けれども彼は、彼らが救われるのであれば、自分がアナテマ(呪い)になっても構わないとまで言いました(ローマ9章参照)。これだけの愛は、人間的にロマンを抱いたり、漠然とした愛を抱いているところからは決して生まれてきません。浅はかな愛は、憎しみにすぐに豹変することでしょう。そうではなく、自分がいかに愛がないかを身に染みて知ったとき、「自分」ではなく「神」の愛が自分に注がれて、最も愛せない人を愛せるようになります。

 そしてユダヤ人伝道を考える時に、そのかたくなさの背後に神の主権があることを知らなければいけません。これまで、ユダヤ人やユダヤ教の歩みを肯定的に書いてきましたが、誤解していただきたくないのは、イエス・キリストの福音について言うならば、彼らは敵対的であり、ユダヤ教は深刻な問題を持っていることです。しかしそうした否定的なものでさえ、神はご自分の主権の中で彼らの選びをさらに確かなものとするために用いられて、ご自分の栄光に至らせているという事実があるのです。詳しくは、ローマ9章10章11章のロゴス・ミニストリーの学びのところをお読みください。

 あと、もう一つ、ここガリラヤに限らずイスラエル全体に感じることを書かせていただくと、彼らは「援助を受け取る」ことに非常に慣れているという事実に気づきました。イスラエルは世界の注目を浴びています。パレスチナも同様です。ですから、外の世界の人々が自分たちに何かをしてくれることを前提の上で動いています。私は少し、中東やイスラエルで宣教の働きをしてみようかどうか祈っていましたが、今回、「ここには召されていない」と強く感じました。かつて誰も注目しなかったガリラヤの村々は、今や注目の的になってしいまいました。主はこの終わりの時に、まだまだ人の目に留まらないところに御目を注いでいらっしゃると思います。でも、もちろん、ここイスラエルやパレスチナ人、中東の人々に福音を伝えることに召されている人々のためには、祈り、支援をしたい気持ちでいっぱいです。


2.ガリラヤ遊覧船

 私たちは、これまでいろいろなお店に連れて行かれましたが、ここでまとめ買いをすることにしていたので、いくつか買いました。映画のDVD、イスラエル音楽のCD、ヘロデ時代のエルサレムを描いたTシャツ、あとダビデの星のネックレスなどです。レジが一つしかないので長い列が出来ましたが、ガリラヤ湖には、私たちが乗る舟が待っています。私たちは最後から三番目ぐらいでした。免税の手続きをしてもらったら、すぐに走って裏手にある船着場に行きました。

 これから気の利いたガリラヤ湖ボート遊覧が始まります。前回もそうでしたが、私たちは主にアメリカ人のグループなので、合衆国国旗を掲揚し、国歌を歌います。けれども今回は、カナダ人も結構います。なんと船員はカナダ国旗と国歌も用意していました!他にも私たち日本や中国の人もいましたが、そんなことやっていたら時間がありません。文句なしです。


周囲の紹介

 この遊覧のすばらしさは、何と言ってもガリラヤ湖畔全体を見渡せることです。ガイド、ドランが説明を始めました。

 ガリラヤ湖の水源はヘルモン山です。明日ゴラン高原旅行に行くときに見学します。そこからここに溜り、そして南からヨルダン川によって死海へ流れていきます。この湖にはいろいろな名前がありますが、旧約聖書では「キネレテの海(民数34:11)」と呼ばれています。キネレテはヘブル語で「ハープ」の意味です。確かにハープの形をしていますね。イスラエルでは今も、この名称を使っています。そして新約聖書では「ゲネサレ湖(ルカ5:1)」と呼ばれています。ゲネサレは北西の湖畔にあった町で、昨日、ガリラヤの舟を見た辺りにあった町です。そしてヨハネの福音書には、「ティベリヤの湖(ヨハネ6:1等)」と呼ばれています。そして「ガリラヤの湖(ヨハネ6:1)」と呼ばれます。

 そしてこの湖で漁業が盛んですが漁場は二千年前と同じところで行なっています。主に獲れる魚はティラピアで「聖ペテロの魚(マタイ17:24-27参照)」と呼びます。後はイワシ類、そしてナマズも獲れます。けれどもこの類は、水に投げ入れます。理由は分かりますか、食物規定で、うろこのないものは汚れているとみなされているからです(レビ記11章参照)。(きよきよ注:天の御国の奥義の例えで、網にかかったものを選り分けているのがありますが、あれは汚れたものとそうでないものを分けているのでしょう。マタイ13:47-48)

 聖書時代と同じように、ガリラヤ湖の北側で漁をしています。カペナウム、ベテサイダ、そしてデカポリス地方に面する西側でも釣っています。また、ティベリヤの南側でも釣っています。

 そしてドランは、ティベリヤ、私たちがいたところを指しました。この町は先ほど説明した通りですが、現在はガリラヤ湖畔で唯一の都市です。現在は4万人の人が暮らしているそうです。

 そしてティベリヤの北に「アルデルの山(左の写真)」があります(私たちが前日、下ガリラヤからガリラヤ湖畔に入ってきた道が、この山の崖のところにあります)。主がただ独り山に退かれて、弟子たちが舟に乗り込みましたが、それがアルデルの山だと言われています(マタイ14:23)。

 その隣にある町がミクダルです。そこで舟を造り、魚を売っていました。当時はこの地域で一番大きな町でした。今は5000人程度の小さな村です。もちろんここが、マグダラのマリヤの出身地です。

 そして北には山が連なっていますが、そこが上ガリラヤです。ツィポリは下ガリラヤでしたね。そして山の上のところに町がありますが、サフェドと言います。二千年前にはなかった町ですが、「山の上にある町(マタイ5:14)」というのがどういうものだったのか、想像するのに便利な景色です。本当はアルデルの山の上に町があったので、そこのことを主が言われたのではないかと思われますが、今はもう存在していません。でもサフェドを見ると、こんな感じだったのではないかと想像できるのです。

 そしてその右に、山上の垂訓の丘(右の写真)見えます。そのふもとに古代の町カペナウムがあります。主がガリラヤ宣教の三年間においてここを本拠地とされました。

 そして西に山脈がありますが、それがゴラン高原です。昨夜、高原の上に光が見えたでしょう。六日戦争の後、40年の間に出来た新しい居留地です。2万人の人が住んでいます。イエス様の時代にはデカポリスと呼ばれていました。この名前の意味は「十の町」です。そしてその丘の一つで、二千匹の豚がガリラヤ湖になだれ込んだあの出来事が起こりました。異邦人の地域でした。主が湖の向こう側からそこに来られて、悪霊にとりつかれていたその男を癒されました。そしてその男が、十の町で異邦人に福音を伝える弟子となったのです。(以上の音声はこちら。ただし舟のエンジン音によって声が聞こえずらいです。)

 以上が周囲の紹介でしたが、一部のリンク先にある私が撮った写真では写りがよくないと思います。次の二つのサイトが、きれいにガリラヤ湖周辺を写し出しています。

 Biblewalks.com - Sea of Galilee Overview
 Bibleplaces.com - Sea of Galilee

 あと、ぜひ地図で確かめてみてください。聖書の巻末に「キリストの初期旅行」「ガリラヤ伝道」「キリストの後期伝道」などの地図がありますね。私が今持っている新改訳のですと、西から「テベリヤ」「マグダラ」があり、そして北に「タビハ(タブカのこと))」「カペナウム」「ベツサイダ」、それから東は「ゲルゲサ(デカポリスの一つ)」があります。無い方は、英語ですが次のサイトにあります。 → The lake of Galilee and Envisions

 デービッドがこれからメッセージを語ります。マタイ14章22節から33節です。(音声はこちら

第一に、祈りの必要性をここから知ります。主は、弟子たちから離れて祈るために山に退かれました。他の人と祈るのはいつも祝福です。でもそれだけで、主とたった独りで時間を過ごしていなければ、十分ではありません。私的な空間において、主との歩みを育む必要があります。私的に行なっていることが、やがては公に出てきます。

第二に、弟子たちが経験したことは、いろいろなことを現しています。一つに生活がいかに困難かを表しています。ここに、「風が向かい風なので、波に悩まされていた。(24節)」とあります。私たちが経験するほとんどのことは、私たちの主との歩みにとって向かい風であります。主との交わりで一日が始まったのに、数時間後には、怒ったり、落ち込んだりしている自分を発見します。風が向かい風なのです。波が私たちを悩ますのです。ヤコブ書には、「知恵の欠けた人がいるなら(1:5)」とあります。「〜なら」となっていますが、ギリシヤ語では「〜のですから、だから」となっています。私たちはみな知恵が欠けています。知恵は人間からではなく神から来ます。

そして困難なだけでなく、その中で取り乱されます。「取り乱し、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。(26節 引照参照)」とあります。ちょっとしたことが大きな問題に発展したりします。それで取り乱すのです。

イスラエルに来てから40年後のある日、ここで嵐を経験しました。すぐ祈りました。ガリラヤ湖の嵐はすごいです。舟から投げ出された体を、舟の竿に掴まって吹き飛ばされないようにしました。今、皆さんが感情面で取り乱しているようなことがあるかもしれません、解決できなくて。これらの漁師は、かなり練達した人たちだったのです。でも対処できなかったのです。

神は、実は私たちが取り乱すように導かれることがあります。理由は、私たちがそれを通して主に呼び求めるからです。

そして、主が私たちを見守っていてくださっていることを、弟子たちを通して知ることができます。マルコ6章48節に主が、「(弟子たちが)漕ぎあぐねているのをご覧になり」とあります。主は見ておられたのです。貴方が生まれてから、主は貴方を見てくださっているのです。チャック・スミスが言った言葉が好きです、「主は、ご自分の目をあなたから離すことはおできにならない。」主は気にもかけておられます。だから私たちはこの方に心配事を任せるのです。そうしたら、主が心配してくださいます。

第三に、主からの励ましです。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。(27節)」だから私たちは主に拠り頼むのです。「わたしはここにいるよ。」「でも、今この問題を何とかしてください!」「何とかするよ、しばらく経ったらね。でもここにいるからね。」と。

第四に、ペテロが主に水の上で会いました。ここに信仰とは何なのかがよく示されています。主は詳細な説明を何ら行なわず、「来なさい」とだけ言われました。聖書を調べると、この美しい言葉があります、「来なさい」。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。(マタイ11:28)」主は、わたしたちがご自分に来ることを願っておられますが、宗教的な行ないをすることによってではありません。

それでペテロは水の上を歩きました。ペテロは最初は興奮したでしょう、けれどもすぐに波を見てしまいました。主から目を離してしまいました、そしたらすぐに沈み始めました。いろんなことが私たちの前に立ちはだかって、至極容易に主から目を離してしまうのです。

そして、イエス様は「すぐに手を伸ばして」彼をつかまれました。そして、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われました。「何事も思い煩わないで」とある御言葉は、ギリシヤ語で「分かれる」という意味で「気をそらす」ということを表しています。つまりペテロは、主から気をそらして、波を見てしまったのです。その時に私たちに沈んでしまうのです。けれども主の御手は、私たちの問題の渦中にもあります。ちょうど台風の目のようです。

そして、風がやみましたが、主が叱られるという言葉は、悪霊を戒めるときの言葉と同じです。

そして大事な点は、これで弟子たちがイエス様が何者かを知ったのです。ずっといっしょにいたのに、この方が誰なのかを知らなかったのです。バプテスマ式を明後日行ないますが、この方が誰なのかを知って、それで自分をささげてください。

 遊覧船のエンジンはまた作動し、北西のゲネサレ、私たちがガリラヤの舟を見たところに向かい、到着しました。この間、他のメンバーの多くが、おみやげを買ったり、船上で談笑していましたが、私はじっと北側の岸辺の景色を見ていました。幼い頃から、何かに没頭すると他に何もしなくなると母親が言っていましたが、その癖はなくならないようです。目に焼き付けておき、福音書を読むときにいつでも思い起こすことができるようにしたかったからです。


3.聖ペテロの魚

クルシ

 「ガリラヤの舟展示館」ではトイレだけ行ってバスに乗ります。そして時計回りに走って、船から見た町々を通り過ぎます。タブカ、カペナウム、ヨルダン川、ベツサイダ、そしてゲルゲサです。ゲルゲサは今のイスラエルではクルシ(Kurisi)とも呼ばれます。そこにビザンチン時代の教会が発見されました。けれどもガイドのドランは、そこは違うだろうと話していました。豚がなだれ込むには、あまりにもなだらかだからです。その向こう隣に、黒くなって野焼きでもやった坂があります。ここであることに間違いない、と言いましたが、確かにバスの右を見ると、ここだけが急な崖になっています。

キブツのレストラン

 もっと南に行くと、エイン・ゲブという町があります。ここに漁業のキブツがあります。ここでお食事です。待ちに待っていた、「聖ペテロの魚」を食べられます。

 もし皆さんといっしょにイスラエル旅行をしたら、ここで何の問題もならないことが問題になります。アメリカ人のグループといるからです。99年には、魚を注文した人が数人しかいませんでした。ほとんど全て東洋系の人たち、そして二人の白人のご夫婦ですが、ハワイから来られた方です。ハワイを知っている人は、そこの大半がアジア系の移民なので、少数派の白人もアジア文化に慣れていることを知っています(何しろ、マックでご飯が注文できるのですから)。

 今回、私たちのテーブルには、アジア系の人たちが多くいました。そして注文をウェイトレスが取りに来たとき、何とジョンを除いて全員が魚を選んだのです。シャーリーも他の白人の数人も魚を選びました。そうですよ、せっかくここまで来てピザは頼まないほうが良いと思いますよ!ジョンもついに、「なら、私も・・・」と全員が魚注文です。

 面白かったのは次です。「頭を取ってね」でした。なるほど、ちょうど私たちが豚や牛、鶏の頭をお肉屋さんで見たらびっくりするように、彼らは魚に対しても同じように感じるのです。みな食べ始めましたが、向かいにいる白人の女性は、魚の片側だけ食べて終わりにしていました。妻が、きれいにお魚を食べているのをジョンがびっくりして見ています。

 隣のフィリピン系の人が、いかに魚がおいしいかを叫び、そしてこう言いました。「これにご飯があったらいいのに。」私は反論しました。だって、イエス様が弟子たちといっしょに食事されたとき、ご飯でなくてパンと魚だったからです。同じように食べたいですよ、せっかく聖地に来ているんだから。
こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。(ヨハネ21:9)

カペナウムに入る前に・・・

 バスは時計反対回りで、カペナウムに向かいました。ここで私たちは、せっかくガリラヤ湖畔にいるのですから、イエス様の初期旅行とガリラヤ伝道について福音書の足跡を追ってみたいと思います。この旅行記でお世話になっているBiblewalks.comの中に、Jesus Footsteps - 100 events in 1000 days(イエス様の足跡 − 千日に起こった百の出来事)というページがあります。これと、Harmony of the Gospels(福音書の調和) リンク先探す blb内 という有名な本も参考に、キリストの初期旅行そしてガリラヤ伝道の道を辿りたいと思います。これから見るカペナウムがいかに中心的な役割を担っているか、そして湖畔にある町々へどのように行かれたのかに注目してください。

出来事 場所 福音書箇所
ナザレからカペナウムへの旅(約30歳) 28年 カペナウム ルカ3:23,マタイ4:13
ヨルダン川でヨハネから浸礼 ヨルダン川 マルコ1:9-11,マタイ3:13-17
ユダの荒野で誘惑 40日 荒野 マルコ1:12,ルカ4:1,マタイ4:1
浸礼の場所で5人の弟子を召す ヨルダン向こう岸
ベタニヤ
ヨハネ1:28-42
弟子たちと共にガリラヤへ戻る ガリラヤ ヨハネ1:43
カナで水をぶどう酒に 28年 カナ ヨハネ2:1
カペナウムへ移動、宿泊 カペナウム ヨハネ2:12
過越の祭りでエルサレムへ 4月 エルサレム ヨハネ2:13
宮きよめ エルサレム ヨハネ2:14
ニコデモ、イエスに会う エルサレム ヨハネ3:1-21
浸礼を授けに弟子たちと立ち去る ユダヤ ヨハネ3:22
北上しサマリヤの女と会う サマリヤ ヨハネ4:4-5
サマリヤ人が信仰持つ 2日 サマリヤ ヨハネ4:39-42
浸礼者ヨハネ捕らえられる ティベリヤ? マタイ4:12,マルコ1:14,ルカ3:19
ガリラヤへ帰る ガリラヤ ヨハネ4:43
ナザレの会堂でイザヤ書朗読 ナザレ ルカ4:16-30
ガリラヤで歓迎受ける ガリラヤ ヨハネ4:44-45
王室の役人の息子癒す カナ ヨハネ4:46-54
カペナウムに動く 29年 カペナウム マルコ1:21,マタイ4:13,ルカ4:31
宣教を始める カペナウム マタイ4:17
ペテロ、ヤコブ、ヨハネ召される タブカ マタイ4:13-,マルコ1:16-,ルカ5:1-
会堂で汚れた霊に憑かれた男癒す カペナウムの会堂 マルコ1:23,ルカ4:33
ペテロの姑の熱を癒す ペテロの家 マルコ1:29,マタイ8:14,ルカ4:38
巡回、宣教と癒し ガリラヤの会堂 マルコ1:39,マタイ4:23
らい病人を癒す ガリラヤの町 マルコ1:40,ルカ5:12
カペナウムに戻る カペナウム マルコ2:1
中風の者を癒される カペナウム マルコ2:3,マタイ9:2,ルカ5:18
取税人マタイを召される カペナウム マルコ2:14、マタイ9:9,ルカ5:18
ユダヤ人の祭りのためエルサレムへ 4/5月 エルサレム ヨハネ5:1
ベテスダで足なえを直す、安息日に 安息日 ベテスダの池 ヨハネ5:2-19
ガリラヤへ戻る ガリラヤ湖 ヨハネ6:1
片手のなえた者、安息日に癒す 安息日 ガリラヤの会堂 マルコ3:1,マタイ12:9,ルカ6:6
大勢の者を癒す ガリラヤ マルコ3:7,マタイ12:15
12人を使徒に選ぶ ガリラヤの丘
(カペナウム近辺)
マルコ3:13,マタイ10:1,ルカ6:12
山上の垂訓 ガリラヤの丘 マタイ5-7
百人隊長の僕を癒す カペナウム マタイ8:5,ルカ7:2
宣教、癒し続ける ガリラヤ
やもめの息子を生き返らせる ナイン ルカ7:11-16
12弟子と女たちと共にガリラヤの旅 ガリラヤ ルカ8:1
ガリラヤ湖を渡るため舟に乗る ガリラヤ湖上 マルコ4:35,マタイ8:18,ルカ8:22
嵐をしずめる ガリラヤ湖上 マルコ4:37,マタイ8:24,ルカ8:22
ゲラサ人の地へ デカポリス マルコ5:1,ルカ8:26,マタイ8:28
レギオンを追い出し、豚は湖へ クルシ マルコ5:1,ルカ8:26,マタイ8:28
立ち去るように要求される ゲルゲサ マタイ8:34,マルコ5:14,ルカ8:34
舟でカペナウムへ カペナウム マルコ5:21
ヤイロの娘を生き返らせる カペナウム マルコ5:22,マタイ9:18,ルカ8:40
ナザレへ ナザレ マルコ6:1
再び拒否される ナザレ マルコ6:1,マタイ13:54
ガリラヤへ ガリラヤ マタイ13:58,マルコ6:6
12使徒を宣教に遣わす ガリラヤ マルコ6:7,マタイ10:5,ルカ9:1
宣教の旅から12人が戻る カペナウム マルコ6:30,ルカ9:10
12人と舟に乗って静かな所へ ガリラヤ湖上 マルコ6:32
五千人の給食 ベテサイダ近辺 マルコ6:33,マタイ14:14,
ルカ9:10,ヨハネ6:5
弟子たち再び舟に ガリラヤ湖上 マルコ6:45,マタイ14:22
水の上を歩く ガリラヤ湖上 マルコ6:48,マタイ14:25,ヨハネ6:19
ゲネサレの岸に到着 ゲネサレ マルコ6:53,マタイ14:34
大勢を癒す ゲネサレ マルコ6:53,マタイ14:34
家に戻り、いのちのパンについて教える カペナウム ヨハネ6:24
ツロとシドンの地方へ ツロ、シドン マルコ7:24,マタイ15:21
異邦人の女の娘を癒す ツロ マタイ15:22,マルコ7:25
デカポリスへ戻る デカポリスの岸 マルコ7:31
聾、おしを直す デカポリス マルコ7:32
四千人の給食 デカポリス マルコ8:1,マタイ16:5-12
舟でマグダラへ マグダラ近辺 マルコ8:10,マタイ15:39
パリサイ派とサドカイ派が徴を求める マグダラ近辺 マルコ8:11,マタイ16:1
ベツサイダへ ベツサイダ マルコ8:22
盲人を癒す ベツサイダ マルコ8:22
ピリポ・カイザリヤへ(上ガリラヤ) ピリポ・カイザリヤ マルコ8:27,マタイ16:13
ペテロが、イエスをキリストと告白 ピリポ・カイザリヤ マルコ8:29,マタイ16:16
高い山へ 6日後 ダボル山?ヘルモン山? マルコ9:2,マタイ17:1,ルカ9:28
変貌し、モーセとエリヤも ダボル山?ヘルモン山? マルコ9:2,マタイ17:1,ルカ9:28
癲癇の子を直す ダボル山?ヘルモン山? マルコ9:14
ガリラヤへ カペナウムへ マルコ9:30,マタイ17:22
ご自分の最後を弟子たちに伝える ガリラヤ マタイ17:22
神殿税を魚を獲らせて支払う カペナウム マタイ17:24-27
ユダヤ人から守られるためガリラヤに ガリラヤ ヨハネ7:1
ガリラヤを去られる ガリラヤ マルコ10:1,マタイ19:1