エジプト・イスラエル旅行記 − 8月18日その2

これまでの旅程
 1.ガリラヤ体験(Galilee Experience) 2.ガリラヤ湖遊覧船 3.聖ペテロの魚


ベツサイダ

 ガリラヤ湖の東からカペナウムに行く途中に、ガリラヤ湖畔北東にあるベツサイダを通りました。ここはヨルダン川の水がガリラヤ湖に入っていくところなので非常に肥沃な所で、漁業も盛んでした。(リンク先の写真を見てください。)また、ガリラヤ湖北は交易路でもあったため、戦略的な地理にもなっているそうです。たくさんの村々が散在していました。遺跡も今発掘中で、もしかしたらベツサイダかもしれないというテル(丘状遺跡)があるそうです。

 ここではもちろん、二つの大きな出来事が起こりました。一つは、五千人の給食です(ルカ9:10)。もう一つは主が盲人を癒されたことです(マルコ8:22)。写真を見れば、五千人の男、さらに女と子どもがいても十分座れそうな広い場所ですね。

 そしてヨルダン川を見ました。ガイドが、「あまりにも小さいのでがっかりすると思います。」と言いましたが、本当です、カメラのシャッターを切るのが非常に難しく一回目は失敗。次の日、ゴラン高原からの帰り道でなんとか撮れました。夏なので、たくさんの人が水遊びしていますね。


4.カペナウム

 ついにカペナウムに来ました。主がここをナザレからご自分の町にしご自分の家にされました。主の宣教の本拠地です。入口の写真を見れば分かるように、ここは教会の敷地になっています。カトリックのフランシスコ会がこの土地を購入しました。発掘もフランシスコ会の考古学者が主に行ないました。題名のリンク先はフランシスコ会が持っているもので、詳細に発掘の経緯を載せています。


時代背景と地理的位置

 まずカペナウムの町の時代背景また地理的位置について考えてみましょう。なぜ、イエス様がナザレから出て、ここカペナウムに移られたのでしょうか?これに対する答えはありません。もちろんイザヤ書にあるガリラヤ地方におけるメシヤの光の預言がありますが、でもなぜカペナウムなのか?

 あくまでも想像の域を越えませんが、カペナウムは大きな交易路のある町だったということが挙げられます。南はエジプト北はメソポタミアまでつながっている幹線道路のところにありました。ナザレは孤立した寂しい町であったのに対して、ここは人々が行き交うところです。主がお語りになったことは、人々によって遠くにまで運んでいくことができます。

 そして住民の大部分はユダヤ人ですが、それでも完全にユダヤ人ではなかったローマの町であったこともあるでしょう。百人隊長が自分の僕を癒してほしいとお願いしましたが、彼の家はカペナウムにあったのを思い出してください。しかも、彼が寄与してカペナウムのシナゴーグを建てたというところです(ルカ7章)。ユダヤ人とローマ人が比較的調和を保って過ごしていました。始めはユダヤ人、そして異邦人に救いが及ぶという神のご計画に適うところです。

 でありながら、ヘロデ・アンティパスが定めたガリラヤの首都ティベリヤから離れています。しかも、すぐそばのヨルダン川を越えると、そこはヘロデ・ピリポが領主になっているところです。つまりアンティパスの力が及びにくいところにいることによって、ご自分の宣教に政治的また宗教的な邪魔が入らないようにした、ということがあるかもしれません。

 ここは1500人ぐらいしかいなかった小さな村でしたが、それでも漁業が発達した所でした。その他、農民、商人、取税人などいろいろな職業の人もおり、比較的平等に暮らしていました。一部の階層の人にしか福音が伝わらない、という心配もありません。彼らは一般的に勤勉な人々で、柔軟な心を持ち、倹約的でした。だから、弟子たちの多くが漁師でしたね。ペテロとアンデレ、ヨハネ、ヤコブがそうでした。そしてここは国ざかいの町だったので取税人も多く、マタイが弟子になりました。

 ここから宣教方法の秘訣が導き出せそうです。1)人が行き交い、人との接触が多いところに行く。なるべくいろいろな人と接し、また、自分だけで伝えるのではなく伝えられた人が他の人に伝えるところまでの目標を持たなければいけません。2)福音を聞くことのできる人から始める。意思疎通ができる何らかの接点がなければいけない。3)政治的、宗教的にならない。宣教において政治、宗教論議は意味がないどころか、妨げになります。4)一般の人々から始める。もちろんお金持ちや貧乏な人も福音が必要ですが、核になる人々はその社会の一般層であれば、他の層にも伝えることができます。

ペテロの家

 ここの敷地には、ペテロの家があります。興味深いのは、その家の隣にも右の写真のように当時の一般の家の遺跡が残っており、そして手前、すぐ横にシナゴーグがあります。向こう側にペテロの家があります。ペテロの家からシナゴーグまでは30メートルほどしかありません。

 当時のローマの典型的な町の造りをしているそうです。いくつかの家がこじんまりと合わせて造られており、中庭があります。ペテロの家も、三つの家族、つまりペテロの家庭、アンデレの家庭、そしてペテロの姑の家庭が住むことができるよう、複数の区画に分かれていた可能性もあります。イエス様がその一区画に住んでおられたということも考えられます。そこには中庭がありかつ主要道路にも面しているので、人々が家に詰め寄って来ても、はみ出た人たちの為の空間はあったようです。題名のリンク先の"The Private Houses"のところに発掘から想像できる絵がありますので、見てみてください。

 今ペテロの家は、新しく建てられた教会の下にあります。その前に、四世紀に教会を建てており、さらに五世紀にも教会を建てていますので、元々どうなっていたのか推測するのは難しいです。書き込みが発見されており、ペテロの名前と魚の印があります。(ドランの説明はこちら

 家々の造り、また出てきた遺物は一般的か貧しい人たちが使っていたものが多いようです。なんとなくちょっと昔の団地ような所狭しの場所だったのではないかと思います。ただし、造りから一階建てであったことは確かです。マルコ2章中風の人の話の通りです。

シナゴーグ

 そして主が数多くの奇蹟を行なわれたユダヤ教会堂があります。今建っている白い石灰石の建物は四世紀以降のものですが、それは昔の一世紀の会堂を土台にして建てたものです。その黒い玄武岩の部分が、イエス様の時代のシナゴーグです。ここでいろいろなことが起こりましたね。例えば、主がラビとして教えを垂れておられるとき、汚れた霊が騒ぎ出して主が追い出されたり、いのちのパンについての話をユダヤ人にここで聞かせ、ご自分の肉を食べ、血を飲むものが永遠の命を得ると話されたため、多くのユダヤ人がそこから立ち去りました(ヨハネ6章)。

 上のシナゴーグに行くと、祈りの場所がエルサレムを向いています。それは神殿が破壊された後、そこに再建されることを願っているからです。過越の祭りは、「来年はエルサレムで」という掛け声で終わります。そして女は二階の席でした。会堂では男女を分けます。(ドランの説明はこちら

 そしてこの建物がシナゴーグであることは、ユダヤ教の印がたくさん残っていることから分かります。例えば燭台、契約の箱、そしてダビデの星など(これらは四世紀のもので、イエス様やペテロの家があるため多くの人がここに住みたがり、発展しました。ガイドの音声はこちら)。その他の写真は、Biblewalks.comでお楽しみください。

 それでは下にデービッドのメッセージを書きます。(音声はこちら

カペナウムは、「ナホムの村」として知られていました。(注:名前の由来。預言者ナホムとは関係がないとのこと。)ここが主のガリラヤ宣教の本拠地であり、ほとんどの時間をここで過ごされました。ここでメシヤとしての確証を示されました。預言書によると、メシヤであるためには奇蹟を行なわなければいけません。イザヤ書に書かれてある奇蹟すべてを、主が行なわれました。使徒ヨハネも、主が数多くのしるしを行なったが、このように書いたのはイエスがメシヤであることを示すためであると言いました(ヨハネ21:30-31)。

マタイ4章12節から読みます。ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。「住まわれた」とありますから、一時滞在ではありませんでした。おそらくヨセフは既に死んでいたと思われます。ここに母を連れて来ていました(ヨハネ2:12等)。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。今さっき湖のほとりを見ましたよね。

これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」この預言は、神がどのようにご自分の民をアッシリヤからお救いになるのかを話しているところで出てくるものです。

これはイザヤ書7章から始まります。アハズが王でしたが彼は悪い王でした。主は彼に、国々に拠り頼んではいけないと言われました。アッシリヤは残虐な国民であり、十字架を発明したのもアッシリヤです。人を生きたまま火あぶりにもしていました。そのようにして、人々に恐れを埋め込んでいたのです。神はアハズに、しるしを求めよと言われました。アハズが断わったら、ではわたしがしるしを与えると言われました。私がベツレヘムで話したことですが、「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(7:14)」メシヤがアッシリヤからユダを救われるのですが、アハズの子はヒゼキヤでした。彼が、アッシリヤにエルサレムが包囲されたとき、神に心を注ぎだして救いを願ったのでした。

そしてその男の子についてこうも書いてあります。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。(9:6-7)」この箇所は、実は先ほど呼んだイザヤ書9章1-2節の続きなのです。主がナザレを去って、カペナウムに来て住まわれたが、それは異邦人のガリラヤであり、ゼブルンとナフタリの地で、暗闇の中に座っていた民が偉大な光、すなわちメシヤを見るわけです。

そしてマタイ9章1節に、興味深い言葉があります。「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。」またカペナウムには、ご自分の家がありました。癒しの力があることを知って大勢の人が主のみもとにやって来て、彼らを癒されました。主の家がどこにあるか分かりませんが、ペテロの家は見つかっています。ほとんどの学者が、ここに住まいを移したのはヨセフが死んだからだと言います。けれども聖書が言っているのは、ガリラヤにメシヤが来る預言を成就させるためです。

なぜカペナウムを本拠地に主がされたのでしょうか?三つの理由を挙げます。

一つは、ここの位置です。ヴィア・マリス(海の道)がここを走っていました。エジプトからの幹線道路があり、異邦人たちはここを行き来していたのです。マタイ4章23節からこう書かれています。イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、ガリラヤには少なくとも241あったことが分かっています。ガリラヤ地方に241の村があり、ヨセフスは全ての村に最低一つのシナゴーグがあったと言っているからです。御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。つまりゴラン高原方面です。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸つまり、ゴラン、バシャン、ギルアデなどヨルダンの山々から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。

そして二つ目に、既に話した預言があります。イザヤ9章1-2節です。

そして三つ目は、ここの人口に関わることです。ユダヤ人と異邦人によって構成され、ローマの駐屯地でした。そしてガリラヤ全体の取税の中心地でした。ここ出身の弟子は取税人マタイですね。

そしてここで何が起こったのでしょうか?沢山のことが起こりましたが、三つに簡単にまとめます。

第一に、マルコ1章によると主はここで弟子として男たちを選ばれました。

第二に、ここのシナゴーグで主は説教を行なわれました。私たちが見ているシナゴーグは、135年ごろハドリアヌスが建てたものです。けれども私たちの主イエス様がおられた会堂の上に建てたものです。石の色が違うので跡を見ることができます。このシナゴーグでいろいろなことが起こりましたが、マルコとルカが多くを語っています。

第三に、奇蹟がここで行なわれたことです。マタイ8章16-17節に、「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」」これはイザヤ53章4節からの引用です。

ここに来ると、四福音書がよく調和して、一つの話に構成することができます。一つは、ペテロの家です。その上に大きな教会を建てていますが、その下に二千年前の家の石を見ることができます。そこで何が起こったのでしょうか?イエス様はカトリック主義を破壊されたのです。どういうことでしょうか?イエス様はそこでペテロの姑を癒されたからです。姑がいるということは、妻がいなければいけません。ペテロには妻がいたのです。カトリック教会はペテロの終生独身によって成り立っています。

もう一つは、シナゴーグで片手がなえた人を癒されました。いつ癒されましたか?安息日です。マルコ2章では、ご自分の家で癒されました。(注:サイトで調べたら、この「家」の前にはtheがついており、主ご自身の家であることが分かっています。)人々でいっぱいだったので、中風の人を屋根までかついで、そこからイエス様のところに降ろしました。これによって、癒し伝道師らの主張を壊しています。なぜなら、主は「彼らの信仰を見て(5節)」癒されたからです。病気にかかっている人の信仰ではなかったのです。癒し伝道師によって癒されなかったら、あなたに信仰が足りないからだと彼らは言います。主は、信仰を言い表さなかった人をも癒されました。神の力は、私たちの信仰に限定されるものではありません。

私の経験からお話します。首に瘤ができましたが、別に祈ったわけではありませんでした。医者は、これを切除しないと大変なことになると言っていました。それで手術の日、朝、起きたら直っていることに気づいたのです。そして手術台に寝ました。医者がびっくりしました。無いからです。「癒し伝道師に直してもらったなんて言わないでくださいよ。」と言いました。「いいえ、祈りもしませんでした。」と答えました。

神が行なわれる奇蹟には、目的と理由があります。かつて医者は私の喉を見てもう話せなくなると言いましたが、どうですか、私が自分の声をラジオで聞くたびに、「これは神の奇蹟だ」と実感するのです。神は、私たちが癒されたいから癒されるのではなく、目的と理由を持っておられます。究極の癒しは、私たちが死ぬことです。そうしたら新しい復活の体をいただけますから。

中風の者を癒された目的は、宗教指導者の言葉にあります。「彼は神から来たはずはない。」と。「神にしか罪を赦すことはできないのに・・・。」と心に思っていました。彼らは正しいのです。主が主張されていたのは、ご自分が神だということなのです。

では、百人隊長の家についてはどうでしょうか。イエス様は、彼の家に行く前にその僕を癒されました。百人隊長は(注:王室の役人のことか?二つの話が一つになっている気がします・・・)、何時に息子が癒されたかを聞いたら、主が言われたまさにその時刻であることが分かりました(王室の役人についてはヨハネ4章46-54節)。

神が天地創造をされたとき、言葉を語って創造されました。聖書は神の御言葉です。これには力があり、人を救う力があります。テモテ第二3章15節に、「幼い頃から聖書に親しんで来た」とありますが、ここの「幼い」は子どもではなく、母の胎にいるときからの胎児あるいは出てきたばかりの乳児を意味しています。私は生まれてきたばかりの初めての孫に、病院の他の人々がいる中で福音を語りました。

そしてここにいる人たちはほとんど語りませんが、イエス様はこの町の破壊を預言しておられました。ルカ10章15節です。四世紀に大地震が起こって、この町はペっちゃんこになりました。七世紀にも地震が起こり町を破壊し、十一世紀にはさらに地震が起こりまた破壊しました。そしてもはや復興せず、現在に至るまで破壊されたままなのです。イエス様は、ご自分の町をこのように予告されました。

なぜでしょうか?イエス様の奇蹟がこの方がメシヤであること証明していたのに、信じなかったからです。自分が救われるために、イエス様の行なわれた奇蹟を信じなければいけませんか?その通りです。これらのことが書かれたのは、イエスがメシヤで神の子であることを信じるためです。信じることによって、この方にあって永遠のいのちを得るためです。

 この最後の町の破壊の預言については、本当にびっくりしました。カペナウムの他にも、ベツサイダ、そしてコラジンの破壊も予告されましたが、今でも見事に丘状遺跡だけ、あるいは教会だけしか建っていない、人の住まないところになっています。この上空からのカペナウムの写真を見てください。ガリラヤ湖畔にはティベリヤを始めとし、ミグダルも少ないですが人が住んでいるし、西側は険しい丘陵なので住めませんが先ほど行ったエイン・ゲブにはキブツがあるし、南はキブツがたくさんあります。この辺りだけが住んでいないのです!エルサレムの破壊同様、主の予知そして御言葉の力強さには驚きます。

 また彼らの不信仰にも驚きます。ものすごい強烈な奇蹟をこのような小さな地域で見聞きし、そして非常に広域から大勢の人が来て、癒しを受けたり、悪霊を追い出していただいたりしたいのに、当の住人たちは信じませんでした。これもまた人間の性(さが)ですね。目の前にいる人たちのほうが、逆に神の働きに気づかないものです。

 また、マタイ4章23節以降に書かれている、イエス様を見にカペナウムに来た記述も、その地域が海の道があるところ、またその周辺であったことにも気づきました。カペナウムに立つと、東にゴラン高原やデカポリスつまりシリヤやヨルダン方面の地域が広がっていることを実感でき、一気に噂が広がったことを想像できます。幹線道路(の威力を見せつけられた思いがしました。また、カイザリヤでデービッドがキリスト教の伝播にローマの道があったと話していましたが、改めてなるほどと思いました。

 教会を出るとレジャー目的でガリラヤに来ているであろう正統派の人たちが、この教会の入り口で入るかどうか迷っている様子でした。ぜひ、そのシナゴーグを見てほしいなあと思いました。