イスラエル・ヨルダン旅行記 5月23日 - ヘブロンへの一人旅
1.日本語を話すアメリカ人
2.ヘブロン
3.ベン・イェフダ通り
4.King of Kings Jerusalem Community
1.日本語を話すアメリカ人
5月のエルサレムの夜は予想していた以上に寒かったですが、朝は気持ちよく起床できました。Allenby #2でのご飯は午前8時からなので、6時頃に起きた私はデボーションの後にスカイプで妻の携帯に電話しました。教会が終わったばかりでその回りにいた兄弟姉妹とも話すことができました。
そしてリビングに行きましたが、いつもの宿主のダニー(Danny)と黒人の二人が台所で朝食の準備をしています。私は席に着きましたが、隣の白人の男性が突然、日本語で私に話しかけました!アメリカ人ですが奥さんが日本人で、現在、福井県在住とのこと。私がアーノルドの旅行に参加することを話したら、「彼の英語、私でも分かりませんよ。」とのこと。中川先生の日本語の通訳を聞いて、アーノルドが話したことを確認できた、とも!私は膨大な情報に加えて、そのポーランド語訛りの英語を聞かなければいけないと思って、恐れおののきました(?)。
その隣に座っている、いかにもユダヤ人らしい兄弟がヘブル語で食前の祈りをささげ、そして向かいにはその娘さんが二人座っています。フロリダから来て、彼が友人の在日アメリカ人さんのガイドになってくれています。そして、私の反対隣にはヨーロッパの国から来た人々で、前回もそうでしたがAllenby
#2の朝食は国際色豊かな旅人の談笑の場となります。
その在日アメリカ人さんによると、台所で働いている黒人の人二人は、難民でクリスチャンだと紹介してくれました。私は、「ああ、エチオピア系ユダヤ人ですよ、おそらく。」と答えました。先日、生き別れになっていた奥さんも無事に帰還できたとのこと。(注:エチオピア系ユダヤ人については、映画「約束の旅路」がおススメ。また以前読んだ「イスラエル人とは何か」の中にも説明があるし、実際の「ソロモン作戦」に携わった元イスラエル大使が書いた著作もあります。)次の日に分かりましたが、ダニーのお手伝いをしているオーストラリア人のご夫婦もクリスチャンです。たぶんこの宿でクリスチャンでないのは、ダニー本人だけではないかなと思います。
2.ヘブロン
それで、私は歩いて2分のところにあるエルサレム中央バス・ステーション(Jerusalem Central Bus Station)に向かいました。イスラエルには、エゲッドというバス会社があり、エルサレム市内はもとよりイスラエル国内に縦横無尽に路線が走っています。その路線が集積しているのがこのバス・センターです。だから個人の旅には、私は絶対にAllenby
#2をお勧めします。
行き先はヘブロンです。私は99年のイスラエル旅行のときから、いや聖書の学びを本格的にはじめた時からぜひ行きたいと思った場所でした。なぜなら、信仰の父アブラハムがここに滞在し、人類に対する神の救いの計画が立てられた所であり、ダビデが初めの七年半、ユダの王となっていた都であります。「ダビデの子、アブラハムの子孫、イエス・キリストの系図」が、新約聖書の冒頭の言葉なのですから、ヘブロンが霊的に非常に重要なのは言うまでもありません。
問題は、現在の政治的状況です。族長や旧約時代の預言者らがいたゆかりの地の多くは、現在パレスチナ自治区内にあります(地図にある点線が境界線です)。ユダヤ・サマリヤ地方と呼ばれる所の多くがいわゆる「ヨルダン川西岸」にあり、2000年9月に起こった第二次インティファーダ以降、その行き来がますます厳しくなりました。例えば、ベツレヘムに行くときは分離壁のある検問所にて、パレスチナ・アラブ側のバスに乗り、パレスチナ人の旅行ガイドによって案内を受けなければいけません。(99年は、イスラエル人のドランは入ることはできましたが、08年にはバス運転手と共に外で待っていました。)
そしてヘブロンは特に、非常に危険な町であると言われています。これを見るには日本語のウィキペディアがまとめています。アラブ人の町ヘブロン近郊にキリヤト・アルバ(Kyriat Arba)などの入植地を建設、そしてヘブロン内にも数百名の入植者が住んでおり、彼らの安全を確保するために多数のイスラエル兵士が常駐しています。そして、外務省による海外安全ホームページによると、ヘブロンも(明日訪問する予定のナブルス)も、「渡航の延期」を勧める地域に入っています。特にヘブロンについては、「ユダヤ人入植者とヘブロン訪問者との間の衝突の事例も発生しています。」とあります。
ですから、ますそこに外国人旅行者が行くことができるのかどうかが分かりませんでしたが、調べてみるとエゲッド・バスが毎日、45分置きにバスを運行しているではありませんか!しかもバスは防弾ガラス付き、運賃は9.2シェケル(約220円)です。だったら行ってみよう、と思いました。地図を見てください、幹線道路60番線に乗ったものと思われます。
降り立ってすぐに見えたのが「マクペラの墓」です。アブラハムが死んだ妻サラのために、ヘテ人から購入した洞窟です。
「こうして、マムレに面するマクペラにあるエフロンの畑地、すなわちその畑地とその畑地にあるほら穴、それと、畑地の回りの境界線の中にあるどの木も、その町の門にはいって来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬った。(創世23:17-19)」
後にアブラハム本人、イサクとその妻リベカ、ヤコブとレアも葬られています(創世49:29-32)。
現在建てられているのは、ヘロデが建てたものと言われています。(彼が建てたという証拠はありませんが、その建築構造がヘロデ式のためです。)
まず、このリンク先の資料(pdfファイル)をダウンロードしてください。ヘブロンの入植地団体の人たちがhebron.comというサイトを運営しており、そこにヘブロンの町の考古学と歴史の資料がたくさんあります。そして、姉妹サイトmachpela.comがあり、そこにマクペラの洞窟と上の建造物の詳細な紹介があります。上のpdfファイルは、このサイトからダウンロードしたものです。
Acrobat Readerの4ページ目を見てください、下の写真があります。
左下にあるTel Hebronがアブラハムがいた時に存在していた古代ヘブロンの町です(Telとは丘状遺跡のこと)。そして、左上にMamreとありますね。その丘が「マムレ」だと言われています。そして右上にあるMa'arat HaMachpelaというのがマクペラの洞窟です。ですから、「マムレに面するマクペラにあるエフロンの畑地(創世23:17)」とあるとおりです。そして、創世記23章9節には、「彼の畑地の端にある彼の所有のマクペラのほら穴」とあります。この端を「縁」と訳すこともできますが、畑地の縁がこの建物の南壁の基盤の所から見つかっており、マクペラの畑地が南に位置していることを確認できています(Machpela
Fieldの部分)。
そして実際のこの建物の中に「洞穴」があるのでしょうか?68年(つまり、67年に六日戦争でヘブロンを併合してすぐに)当時の防衛大臣モシェ・ダヤンが、12歳の女の子を開き穴に入れたところ、彼女はそこに通路があるのを発見しました。そして81年にヘブロン住民のグループがその通路の先に二つの洞窟があるのを発見しました(以上、6ページ参照)。そして、7ページに断面図と上からの図がありますが、確かに洞穴の真上に建物をたてたことが分かります。
建物は二つの区画があります。ユダヤ教徒が礼拝するところと、イスラム教徒が礼拝するところです。私はまずユダヤ教徒が礼拝するところから入りました。10ページの"THE
MONUMENTS(記念碑)"をご覧ください。下の中央に族長の墓の位置の略図があります。それぞれLeah(レア)、Jacob(ヤコブ)、Abraham(アブラハム)、そしてSarah(サラ)です。そしてIsaac(イサク)、Rebecca(リベカ)もありますが、この二人とアブラハム、サラの墓の間に仕切りができました。イサク、リベカの墓はイスラム側にあります。(年にそれぞれ10日ずつ、ユダヤ教徒が占有する日、イスラム教徒が占有する日があてがわれているそうです。
左の写真は、アブラハム(手前)の墓とサラの墓(向こう側)の間にあるシナゴーグです。
この建物は入口に兵士がいるだけでなく、ちょうどイスラム教徒の区画につながっているアブラハムの墓の奥のところにも兵士が座っていました。
そして私は一度、ユダヤ教徒の区画を出ました。そして敷地そのものからも出ました。できたらイスラム教側も行って見たかったからです。敷地から出てすぐに左に曲がると、低いコンクリートの壁で道路を二つに仕切っているのが見えます。片方からムスリムらしき人々がやってきます。マクペラの洞窟で礼拝する人々が、ユダヤ人入植地区に迷い入ることのないようにしているようです。その境目のところに兵士が二人います。けれども雰囲気はいたって平穏で、エルサレムの神殿の丘などのセキュリティー・チェックに比べれば無いに等しいです。外国人旅行者である私は、どちらの区域も全く自由に行き来できました。
そしてイスラム教徒側の入り口に来たら、イスラエル兵士から「何の目的できましたか?クリスチャンですか?」と聞かれたので、そうだと答えるとすんなり入れました。こちら側は靴を脱ぎます。なんかアジア人の慣習に似ています。そして中に入ると、先ほど話したリベカの墓が左側、イサクの墓が右側にあります。(先の7ページの図面によりますと、この二つの墓の直下が洞窟があるあずです。)その間で、ちょうどムスリムたちが礼拝が行なっていました。皆が歌をうたい、イマーム(教師)らしき人が説教をしています。それから信者たちが墓を眺め、ある人は祈っていました。(右の画像クリック!)
そして外に出ましたが、まだ午前10時ぐらいだったと思います。時間がまだたくさんあります。他のところも行ってみたいと思ったので、先ほどムスリムの人が入ってきた所の道を奥に進んでいきました。イスラエル兵士に聞くと、「向こう側にはユダヤ人地区もパレスチナ地区もあります。」と言われたのですが、なんせ地図を持っていません。仕方ないので、パレスチナの人たちが多く歩いている道を辿ってみました。
そうしたら閑散とした商店街が見えました。若者たちが声をかけてきます。ずっと先を歩きましたが、迷子になると恐いので折り返し戻りました。アラブの少年が私に声をかけて、いっしょに歩きます。マクペラの洞窟に戻るのかい?と聞いているように思えましたが、アラブ語ですからさっぱり分かりません。私は英語で、「私はお金払えないからね。」と念を押しましたが、彼には通じていませんでした。無人のセキュリティーボックスを彼は自主的に通過し(私は完全に無視し)、元のところに戻ってきましたが彼はやはりお金をせびりました。「だから、案内は必要ないって言っただろう。」と言い返して、私はユダヤ側に移りました。
この後、私は古代ヘブロンの遺跡に行きたいと思っていました。ところが、数人のイスラエル兵士に聞いても、どこだか分からず、分かったような素振りを示した時は「ここから歩いたら遠いね。」でした。・・・今、調べると、看板もあるし、有名な極右政党の活動家(?)も住んでいるとのことですから、知らないわけはないはず。ここのYou Tubeの動画を見ればその様子が分かります。
それでエルサレムに戻ることに決めました。検問所やセキュリティーチェックでものすごい時間が費やされると覚悟していたため、こんなに早く終わると思っていませんでした。次のバスを待っていましたが、かなり暇だったので敷地の入り口を警護しているイスラエル兵とだべりました。「ここは危険だ」「子供たちは貧しい」などと話していましたが、そこが学校の通学路なのか子供たちがたくさん行き来しています。アラブ語で話しかけていました。話をさらに聞くと出身はナザレで、しかもムスリムだとのことです。アラブ系イスラエル人で(たしかアラブ系は兵役義務がないはず)しかもムスリムだとは、珍しいなと思いました。
ようやくバスが来ました。すばやく乗りましたが、ここら辺で乗り降りしているのは兵士だけです。隣の席のイスラエル兵士とまた話しをしましたが、「ここは危険ですか?」と聞くと、「危険と言ったら、どこでも危険でしょう。」との答え。「ヘブロンはどうだった?」と聞かれて「かなり静かでした。」と答えると、「静かにしていないと、大変なことになるからね。」との答えでした。やっぱり、平穏さは表面的なもので、いつ事件が起こってもおかしくないというのは確かなようです。
そしてバスは、ユダヤ人入植地のキリヤト・アルバの町を通ってエルサレムに戻りました。
おそらくヘブロンにはもっと見るところがあったはずでしょう。けれども、入植地とパレスチナ人の町が入り組んでいる複雑さ、そして市内の地図が入手できなかったので多くを見ることができませんでした。(主の御心ならば、またの機会があるさ!)
参考:ヘブロン、マクペラ洞窟周辺の地図(注:これを見ても町の中は歩けません!)
3.ベン・イェフダ通り
この日は日曜日なので、ぜひ礼拝に出たいと思っていました。エルサレム新市街にKing of Kings Communityというのが夕拝を行なっています。でも宿に到着したのはまだ2時過ぎです。私は08年の時と同じ道を辿りました。ヤッフォ通りを歩きまずマハネ・イェフダ市場に立ち寄りました。そこで杏とナツメヤシを買いました。今後の補給食です。そしてベン・イェフダ通りに行きました。そこで両替をし、かなり遅いファラフェルの昼食を済ませ、そしてお土産を買いました。アハバとSea of SPAのクリーム、キッパなどです。最後に水のペットボトルを購入、そして礼拝の時間を待ちました。
4.King of Kings Jerusalem Community
この教会は、かつてジョエル・ローゼンバーグ氏のメッセージがここで行なわれたので知ることになりました。サイトを見て、少し良さそげだなと感じ行くことに決めました。
率直な感想としては、賛美はすばらしかったものの教えの時間が少なかったです。でもサイトには、きちんと聖書から教えている説教もあったので、その日だけなのかなと思いました。
今回の旅では、この教会の他に二つまた別のところを見ることになります。そこで知ったのは、「イスラエルは宣教について言えば、安全に考慮しなければいけない国だ。」ということです。例えばこの教会も、ホームページでこそ大体的に宣伝はしていますが、実際言ってみると看板がありません。これがここの教会(会衆)の特徴です。公に行なえば、政治にも力を及ぼしている反宣教団体の矛先が向きます。
今回の旅は、これまで以上に「宣教」について考えさせられるものとなりました。