イスラエル・ヨルダン旅行記 5月25日 - エルサレム新市街

1.ヘロデ家の墓
2.ハダサ病院
3.ヤド・バシェム
4.ファラフェルの昼食
5.エルサレムの模型
6.ダビデの町


 初日の25日は、エルサレム新市街から始まります。新市街は、聖書時代からのエルサレム(旧市街)の西にある、帰還ユダヤ人によって造られた町です。そこにイスラエル政府機関が集まっており、経済や文化においてもイスラエル国家の中心地区です。(ちなみに旧市街の東が「東エルサレム」と呼ばれており、そこは六日戦争(1967年)前はヨルダン領になっていた所で、イスラエルが併合した所です。アラブ人がたくさん住んでいます。)

 私たちは四台のワゴン車に乗ってMount Zion Hotelを出発しました。アーノルドが運転手の一人で、他の旅行メンバー三人が残りの三台をそれぞれ運転しました。「なぜ、バスで移動しないのだろう?」「なぜガイドを付けないのだろう?」という疑問がありましたが、その理由がだんだん旅行をしているうちに分かってきました。

 まず、これは「歴史的・地理的研修旅行」であることです。ですから、「地形」を非常に重要視します。道なき道を走り、バスであれば決して停車できないところに停車して、地形を説明します。ワゴン車でなければ決してできません。そして、アーノルドはある意味で「現地人」です。私はこの初日、アーノルドが運転する車の助手席に座りましたが、他のイスラエル人の運転手と同じように、荒くもあり、けれどもハンドル捌きが非常に上手な運転で車を走らせました。現地の人と車から話す時は、流暢なヘブル語で会話しています。彼はここイスラエルに何年間も住んだことがあり、イスラエルにいた時はバイクに乗ってこの地を舐めるように見て回り、現地人しか分からないスポットをたくさん知っています。

1.ヘロデ家の墓

 ホテルから車で数分のところに「ヘロデ家の墓」があります。位置的にはキング・デービッド・ホテルのすぐ南、旧市街の西側です。ここは、ヘロデ大王が自分自身が処刑した妻マリアムネとその息子たちが葬られているところです。ヨセフスのユダヤ戦記の中にその記述があります。(ヘロデ自身の墓は、エルサレムとベツレヘムの間にある「ヘロディウム」にあり、2007年に発掘されました。)

 ヘロデはパラノイア(被害妄想)で有名な人ですが、自分の妻を自分が殺しておきながら、その死を非常に悲しみます。(ヘロデ一族の家系の説明が日本語で見つかりました。)この墓の東には旧市街のアルメニア人地区があり、そこにかつてヘロデの宮殿がありました。ですから自分がよく見ることができるところに、彼らの墓を設けていたのです。

 したがってこの墓は、紀元一世紀前後のものであり、つまりイエス様が葬られた墓と同じ作りになっています。写真の墓の入口に石があるのが見えますね。主の墓も同じでした。

2.ハダサ病院

 再びワゴン車に乗り、12-3分走りました。道路脇に停車して、遠くに見える、国立病院であるハダサ病院を見ました。

 ハダサ病院は元々スコパス山にありましたが、イスラエルが1948年の独立宣言によってアラブ連合軍がイスラエルに戦争をしかけた結果、東エルサレムはトランス・ヨルダン側(現在のヨルダン)に落ちました。ヘブライ大学と共に飛び地となってしまいました。イスラエル軍がそこに二週間おきに行くことが許されましたが、当然それでは病院運営をすることはできないので機能不全に陥り、場所を移さざるを得なくなりました。

 それでヘブライ大学は、クネセット(国会議事堂)等があるギブアット・ラムに移し、ハダサ病院はエルサレム郊外のエイン・ケレムに新たな病院を建てました。(左の写真の、上部左の部分)

 19年後、六日戦争によりスコパス山をイスラエルが奪還しました。それによって再びヘブライ大学も、そしてハダサ病院も使用できるようになり、結果的にそれぞれ二つの箇所で機能、運営しています。こちらのエイン・ケレムのハダサ病院のほうが中心になっているそうです。

 名前「ハダサ」はヘブル語の「エステル」です。エステルという名前は元々ペルシヤ語なのでイスラエルではハダサが使われています。ユダヤ人女性のシオニスト団体が始めた病院のようです。

 そしてエイン・カレム(Ein Kerem,「ぶどう畑の泉」)という場所は、伝承的にバプテスマのヨハネの誕生地(ルカ1:39)とされ、そこにそれを記念するいくつかの教会があるようです。

3.ヤド・バシェム
  (日本語のウィキペディアYouTubeのビデオ
 
 私たちは次に「ヤド・バシェム(Yad Vashem)」に行きました。これでもう三回目ですが、今回は、ホロコースト歴史博物館の周囲にある、いろいろな記念碑などを見学することができました。まず「ヤド・バシェム」の意味ですが「記憶と名前」です(「ヤド」が記憶で、「バ」は接続詞の「と」、そして「シェム」が名前)。イザヤ書56章5節からの引用です。

 私たちが初めに見たのは、「正義の諸国民通り(Avenue of the Righteous Gentiles)」です。ホロコーストの時にユダヤ人をかくまったり、逃げるのを手助けした諸国民(異邦人)に対して、イスラエルが栄誉を与えた人々の木々が植えられています。(日本語のウィキペディアが詳しく説明しています。)

 アーノルドが見せたのは、「コリー・テン・ブーム」の木です。「キリスト教界で有名だから」とのことですが、そうですね、私もウェブサイトで何度か紹介した「わたしの隠れ場」の著者です。他の木々に比べて小さい理由は、彼女が死んだ年に不思議にも木も枯れてしまったそうで、新しく植え直したからだそうです。コリーがイスラエルに来たのは66年で、アーノルドがその時イスラエルに住んでいたので、よく覚えているそうです。
   
 そして映画で有名になった「オスカー・シンドラー」の木も見せてくれました。

 私たち日本人が忘れてはならないのは、もちろん杉原千畝氏です。彼の木がこの通りに必ずあるはずなのですが、今回も団体行動をしているため探す時間がなく、残念でした。(日本語のウィキペディアが彼のことについてよくまとめています。私は幸子夫人の「六千人のビザ」を読みましたが、雑誌「みるとす」がまとめた記事は彼女の、特に日本政府の取り扱いへの否定的な見方に疑問を呈していました。ウィキペディアにはどちらの見解も載っています。また軍人「樋口季一郎」氏も、ユダヤ人救出に活躍した人物です。)

 アーノルドが補足説明として、絶滅収容所はポーランドにもっとも多かったと言いました。ヒトラーは、反ユダヤ主義がドイツよりもポーランドのほうが強かったので、絶滅・強制収容所を作っても抵抗が少ないだろう、とのことでした。フルクテンバウム家で死んだ人は、「トレブリンカ強制収容所」に連行されたそうです。(参照:「ナチスドイツの強制収容所一覧」)

 そして少し歩いていくと、貨物車がありました。強制収容所にユダヤ人たちを運ぶために使われたものです。(参照:Holocaust Train)ここまでの「正義の異邦人の通り」の動画がこちらにあります。

 次に見たものは、ワルシャワ・ゲットー蜂起の記念碑です。ナチスが作ったゲットーで最大規模のものはワルシャワ・ゲットーでした。主にアウシヴィッツ強制収容所に彼らは送られましたが、ついに青年ユダヤ人抵抗組織が立ち上がり蜂起を起こしました(日本語のウィキペディア)。そして、戦争がドイツの敗戦に傾き、ロシア軍がポーランドに侵攻した時、ナチスは証拠隠滅のため収容所を閉鎖すると共に、囚人らを真冬に死の行進をさせました。それが右にある「最後の行進」の彫刻です。
 
 アーノルドの叔母二人は、数少ない「死の行進」の生き残りだったそうです。ロシア軍が接近したのでナチス軍が逃走、そのまま捨て置かれたため生き残りました。そしてこの二つ記念碑の間にあるヘブル語は、英語に訳すと"By Your blood, My life"訳せば、「あなたの血によって、我が命あり」です(エゼキエル16:6から)。アーノルド自身が、まさにその言葉の証しかもしれません。

 次に行ったのが「記憶の殿堂(Hall of Remembrance)」です。ガリラヤから持ってきた黒色の玄武岩で作られたこのユダヤ教会堂は、床に絶滅収容所の名前が刻み込まれています。そして真ん中に「永遠の灯火(eternal flame)」があります。外国から元首が訪問する度に、再燃するそうです。

 次に、150万人の子供が殺されたことを記憶する「子供記念館(Children's Memorial)」に行きました。中に入ると、一本のろうそくの火が、鏡の反射によって無数の光に見えます。それが一人一人の失われた生命を表します。アブラハムの子孫が「星の数のように」という約束に基づいてのことです。そして中に入ると、一人一人の名、場所、歳が朗読されています。写真撮影は禁止されていましたが、録音することができました(ここをクリック)。

 そして近くに、「コルチャックと子供たち」の記念碑があります。ヤヌシュ・コルチャックは、孤児院院長で児童文学作家のユダヤ系ポーランド人でした。200人の子供たちと共にワルシャワ・ゲットーに押し込められて、友人からアーリア人の身分取得による脱出の道(彼は同化したユダヤ人であったため)を誘われたけれども、それを拒み、子供たちと共にトレブリンカ収容所に移送されそこで殺されました。

 そして私たちは最後に、「ホロコースト歴史記念館(Holocaust History Museum)」の中に入りました。中は写真撮影でしたが、こちらで紹介動画を見ることができます。ご覧になれば分かりますが、中がジグザグになっています。確か一時間程度しか時間が与えられませんでしたが、前回も同じでした。団体行動の限界でしょう、じっくり見たければ丸半日かかると思います。

 ちょっとした事件(?)をここで。この記念館に入る前に、なぜか「手荷物を持って入ってはならない。手荷物預かり所に預けるように。」と所の人から言われました。ほとんどの人は預かり所に歩いてゆきましたが、私は腰にパウチを付けていましたが、適当に無視しました。そして、さあ入場しようという時に私のパウチを見たアーノルドが「なんてことだ!」と嘆いていましたが、係員の人はOKしてくれました。案の定、館内には大きな手荷物を抱えながら観覧している人もおり、私の勘が当たっていました。

 アーノルドや他の仲間には申し訳なかったですが、イスラエルもエジプト程ではありませんが、規則を平気で無視するという話を聞いていました。(「禁煙」の表示の前で平気でマールボロを吸っているイスラエルの若者がいたりするそうです。)ちょっと理不尽や面倒なことをさせる規則は、適当に無視して柔軟に(?)対応する術を、私はどこかで身に付けてしまったようです。(他の方は真似しないように!)

4.ファラフェルの昼食

 アーノルドは前夜の講義の中で、昼食ではイスラエルを味わってもらいたいということを話していました。それで第一目はファラフェルを食べますと宣言していました。彼がエルサレムで、最も気に入っていたのが左の写真のお店だそうです。

 向かいの標識に"Russian Compound(ロシア区域)"とあります。ちょうど旧市街と、超正統派ユダヤ教徒の住む、メーア・シェアリームの間にあります(Googleの地図)。四台のワゴン車を駐車させる所がなかなか見つからず、そしてお店には約30名の旅行者を入れる空間もなく、みんなで店の前で飲料水を片手に、ファラフェルをもう一方の手でつかみ食べました。アーノルドが薦めるとおり、確かにこれまでのファラフェルよりおいしかったです。

 そして次にイスラエル博物館に向かいましたが、その途中で非常にメア・シェアリーム地区の中を走っていき、これまで見た超正統派ユダヤ教徒を足してもたりないと思ったぐらいの、たくさんの人々を見ました。ある通り(たぶんAvrahamなんだか通り)では、18世紀ぐらいのポーランドかどこかの通りにタイムスリップしたような気分になりました。アーノルドに「ブルックリンでもこんな通り、ありますか?」と聞いたら、あるとのことでした。(こんなサイト見つけました。)たぶん、私の物珍しさがあまり理解できなかったかもしれません。(イスラエル人が日本に来たら、同じように、私たちには見慣れた光景が物珍しく見えることでしょう。)

YouTubeで、日常のメア・シェアリームのスライド写真がありましたので、どうぞご覧ください。


5.エルサレムの模型

 08年の旅行でも来ましたが、イスラエル博物館の中にヘロデ時代のエルサレムの模型があります。つまり、主がおられた時のエルサレムです。ここに来れば、当時のエルサレムの全容を詳細に、立体的に知ることができます。上のリンク先である"Virtual Tour of Model of Jerusalem"に行けば、すべて詳しく見ることができます。けれども、せっかくアーノルドが説明をしたので、動画を見てみましょう。(写真をクリックしたら動画を保存あるいは再生できます。)

(動画1)
 今、町の北西部分に立っています。一番外側が第三の壁で、内側に第二の壁がありますが、その間が「ベテスダの郊外」として知られる。ベテスダの池は、その間あるからです。そして、北西の北端に「プセフィヌスのやぐら」があります。



(動画2)
 現在、町の西側に立っています。ここからは第一と、第二の壁が見えます。ギリシヤ正教やカトリックなどが保持しているゴルゴダの丘は、第二の壁の外にあり、第三の壁の内側にあります。しかし第三の壁は、紀元30年頃には存在していませんでした。

 そして、「ヘロデの宮殿」が目の前に見えます。かなり大きいです。朝に見たヘロデ家の墓は、この向かい側にありました。そして、三つのやぐらがありますが、それぞれヘロデの妻、兄弟、親友にちなんだ名前が付けられています。そしてローマ軍がそのやぐらに駐屯していましたが、それはこの宮殿内を護衛するためでした。ユダヤ人たちに嫌われていたことが分かります。

(動画3)
 現在、町の南西部分にいます。この部分は、今の城壁の外側にあります。今の城壁はオスマン・トルコによって建てられました。そしてここは現在「シオンの山」と呼ばれますが、実際のシオン山は神殿の丘です。けれども、しばしば、例えば現代ではインティファーダによって聖書的町が危険な地域になったため、それを安全な所に移動してしまうように、シオン山も神殿の丘のほうからこちらに移してしまいました。ダビデの墓も、いっしょに、ダビデの町からこちらのほうに移ってしまいました。

(動画4)
 南側に立っています。ここは「ケテフ・ヒノム」ですが、これがギリシヤ語で「ゲヘナ」になりました。ここが偶像のために子供を犠牲にする場となり、火が燃やされるところとなりました。それで地獄を表すようになりました。そしてヒノムの谷は、東のケデロン谷につながります。



(動画5)
 まだ南に立っています。上町が左に、下町が右にあります。上町が裕福な人々が過ごし、下町は工業が興されていました。ケデロンの谷とヒノムの谷の間にチオペロンの谷があります。ダビデの町はケデロンとチオペロンの間にあります。もともとエブス人の町で、水源もあり、要塞化していましたが、このように小さな部分でした。

 シロアムの池が手前にあります。そして大きな建物が町の中にありますが、その一つがリベルテンの会堂(使徒6:9)です。ステパノを迫害することを画策した所です。そして神殿の南壁にある門が礼拝者らが出入りするところです。片方から上がり、もう片方から下がってきました。その階段を上がると、神殿の敷地内に入ることができます。

 興味深いことに、かつてあった競馬場がなくなり平らになっています。あの映画「ベン・ハー」の舞台背景になったところです。考古学の発掘によって進展し、そこにないことが分かりました。そして向こうに見える二つの塔がヘロデ・アンティパスの宮殿です。イエス様がピラトの官邸から連れて行かれたところです。

(動画6)
 今、神殿の南東に来ています。ここから見えるのは、イエス様が誘惑を受けられた「神殿の頂(マタイ4:5)」です。南壁に平行して作られた建物は「ソロモンの廊」です。ここで犠牲の動物の販売や両替が行なわれ、また使徒行伝における説教もここで行なわれました(使徒3:11)。



(動画7)
 今、神殿の北西部分にある四つの突起を見ています。そこが「アントニオ要塞」です。ローマ総督はいつもはカイサリヤにいましたが、ユダヤ人の祭りの時には治安のためここに駐在しました。



(動画8)
 今、神殿の北東部分に立っていますが、手前に見えるのは「羊の門」です。羊を洗って、いけにえに捧げるところです。そして右側には「ベテスダの池」があります。第二と第三の壁の間が「ベテスダ」ですが、池はここ二つです。五つの柱廊はここでは見ることができず、その水面下にあり池を支えていました。



(動画9)
 今、上のほう、東側から模型を眺めています。イエス様が捕らえられて、十字架につけられるまでの道のりを説明してます。

 アーノルドが指さしているのがその道程ですが、上ったり下がったり忙しいです。そして、シロアムの池から神殿のところまである階段を上りながら、詩篇の「都上りの歌」を歌いました。

 そして、場内に模型の案内板があったので、それを写真に撮りました。

1)ヒノムの谷から見た南西側からの眺め → 案内板 ・ 写真
2)プロムナード(遊歩道)から見た南側からの眺め → 案内板 ・ 写真
3)オリーブ山からの東側からの眺め → 案内板 ・ 写真

 そしてエルサレムの地形を研究しているサイトを見つけました。そこで詳しく学ぶことができると思います。

Jerusalem 101

 そして、Youtubeのアニメーションがあります。


6.ダビデの町

 次に私たちは「ダビデの町」に行きました。ダビデの町は最も初期のエルサレムであり、ダビデがエブス人から奪い取った所です。アーノルドが模型で説明したように、神殿の丘の南の部分、ケデロンの谷とチオペロンの谷の間にあります。

 私たちはこれからウォレンの縦坑とヒゼキヤ水道を見にいきますが、その途中に東に連なるエルサレムの山々を見ることができました。オリーブ山を初めとし、オリーブ山の向こう側(北)にはスコパス山が、そして手前(南)には「つまずきの山」があります。(左の写真をクリックしてください、動画が始まります。)

そして、下が当時のダビデの町のアニメーションです。



エルサレムを取り囲む山々

 ところで、私たちがエルサレムのホテルに泊まっている間、エルサレムの周辺にある山々を注意して見ていきました。詩篇125篇2節にある、「山々がエルサレムを取り囲む」というのは、これらの山のことです。

 この地図を開いてください。太い線は現在のエルサレム市の境界線です。中心から北西にナビ・サムウィル(Nabi Samwill)があります。そこにイスラム教徒のサムエルの墓があります。(後日そこを訪問します。)実際はラマという町で葬られたので(1サムエル28:3))そこではありません。そしてサムエルがいけにえを捧げたとき、主が彼に現れた高き所ギブオンであると言われています(1歴代21:29、1列王3:4-14)。

 そして東エルサレムに南北に連なる山々があります。北から「スコパス山(Mt. Scopus)」があります。祭司の町「ノブ」であったと言われています。ダビデがサウルから逃げる時に、祭司からパンを受け取ったところです(1サムエル21:1-9)。そしてアッシリヤの王セナケリブが攻め取って(イザヤ10:32)、そこからラブ・シャケがエルサレムの城壁にいるヒゼキヤの側近たちに脅迫した(同36:2)のもその山と言われています。

 そしてスコパス山の南に「オリーブ山」があります。それから次に「つまずきの山(Mount of Offense)」というのがあります。ここに晩年のソロモンがアモン人、モアブ人、エドム人の神々の宮を建てた所です(1列王11:7-8)。後にヨシヤ王がこの宮を破壊しました(2列王23:13-14)。

 そしてエルサレムの南に「悪い計略の山(The Mount of Evil Counsel, Abu Tor)」があります。(ここも後日訪問します)確か、イスカリオテのユダが祭司長らと、イエスを引き渡すことに同意したことから付けられた、と聞きました。そこは六日戦争においてイスラエルとヨルダンの激戦区となり、それで中東における国連の本部となりました。私がアーノルドに、「彼らは何をしていますか?」と聞くと「何もしていない。」と答えました。まさにUnited Nothingです!

 そして現代の「シオン山(Mount Zion)」です。新約時代は城壁の中にあり、有名なのはカヤパ邸があったところです。なぜ「現代」というのかと言いますと、聖書のシオン山は神殿の丘からダビデの町のところにある山であり、後世の人が誤ってここがシオン山だと思って名づけたからです。
 そしてエルサレムには「聖書的シオン山」があり、つまり合計七つの山があります。

・・・

 そして私たちはウォレンの縦坑を見ましたが、ここがエブス人の町に入るときにヨアブがそこを這い上がって、攻め入った所です(2歴代11:4-9、2サムエル5:6-9)。

 そしてさらに行くと、ギホンの泉とエブス人の要害がありました。かなり広い空間です。
 

 そしてヒゼキヤの水道に入ります。前回は8月に行ったのですが、今回は5月なので水かさが少し高かったです。前にいた数人の方が始めの水の勢いを見てうろたえてあきらめてしまいました。一人が、頭にかけていた懐中電灯を私に貸してくれたので非常に助かりました。

 写真は私のルームメートのライアンです。彼はこの時、ポケットに入っていたMP3レコーダーを濡らしてしまいました。それで、毎日、私が録音したものをUSBメモリーに入れて、持って帰りました。他の旅行仲間も初めは録音していたのですが、結局、私だけになってしまい、まるでアーノルドの追っかけ記者みたいになってしまいました。そして多くの人が私の録音を後で聞きたいということで、録音失敗も許されなくなってきました。

 出口はもちろんシロアムの池です。あの、生まれつきの盲人が主の癒しによって見えるようになったところです。けれども、実際の池の場所はさらに20メートルぐらい進んだ所にあります。けれどもそれもごく一部で、残りは一世紀の頃のものは隣にあるギリシヤ正教の教会の敷地内にあり発掘できていないそうです。(この辺の議論は、Bibleplaces.comでどうぞ。)

(左下の階段がその一部。人が出てきている向こう側が伝承的なシロアムの池。右にいるおじさんは、ヨルダンでライアンと共にルームメートになったロンさんです。)