イスラエル・ヨルダン旅行記 5月26日 - エルサレム旧市街(ムスリム・キリスト教・アルメニア人地区)

1.神殿の丘
2.ベテスダの池

3.ヴィア・ドロローサ
4.聖墳墓教会
5.昼食(シュワルマ)
6.キリスト教・アルメニア人地区
7.Christ Church(クライスト・チャーチ)
8.園の墓
9.城壁周囲

10.二つの池(講義)

 時差ぼけのためか何なのか分かりませんが、旅行の間、自然に5時には目が覚めました。ロビーに上がり、デボーションをしていると次第に外が明るくなり、オリーブ山辺りから日が昇ってきます。そして天気の良い日は、その向こうに死海が見えました。

 この日と明日はエルサレム旧市街巡りです。主に城壁の中にあるものを見学しますが、明日、ユダヤ人地区にあるものを見て、今日はムスリム地区、キリスト教地区、そしてアルメニア人地区にあるものを眺めます。

1.神殿の丘

 私たちは前日使った、ダビデの町の向かいにある駐車場に車を置いて、そのすぐそばにある「糞門」から城内に入りました。そこが一番、「神殿の丘」に入っていくのに近い門です。朝一に行ったにも関わらず、神殿の丘への入口は長蛇の列ができていました。待っている間、旅行仲間と楽しく話し、アメリカからの若い女の子二人は、糞門で警護していたハンサム兵士と写真と撮ったりしていました。そして、右手に神殿南壁の遺跡群がありますが、これは明日訪問します。

 セキュリティーを通りますが、私たちは前日に「聖書の持込は禁止」と言われていました。聖書というか、宗教的な物は一切だめです。私はその日、2008年のHope For TodayのTシャツを着ていたのですが、アメリカ人の女の子が「後ろに御言葉が書いてある!」と指摘してくれて、すぐに着替えてきました。創世記12章3節の有名な、「あなたにあって、すべての民族は祝福を受ける」が書いてあります。

 セキュリティーまでは混雑していて重苦しいのですが、南西にある「モロッコ門」を通り過ぎると、とても静寂な神殿の丘の敷地があります。下では嘆きの壁でたくさんのユダヤ教徒が祈りを捧げています。それに比べると、おそらく祈りや礼拝がモスクの中で行なわれているせいなのでしょうが、敷地そのものはムスリムの憩いの場という感じです。

 次からの文章は、神殿の丘の地図を開きながら見ると良いでしょう。

 アーノルドは、「アル・アクサー寺院」の横に連れて行きました(私が撮った動画)。そしてこの丘の大まかな説明をしました。「この丘は、アブラハムがイサクをささげようとしたモリヤの山である。そしてダビデが、イスラエル人の数をかぞえるという罪を犯した後、エブス人の麦打ち場を買い取って、そこを神殿の敷地とした。神殿の建物がこの敷地のどこに位置していたのかは断定はできない。発掘すれば分かるのだが、イスラム教がここを管轄しているのでそれはできない。そして、バビロンからの帰還の民が建てたのはソロモンの神殿よりずっと小さく、目覚しいものではなかった。ヘロデがゼロからの改築を行ないここを大きくした。現在主な建物は二つあるが、このアル・アクサー寺院の位置にソロモンの宮殿があった可能性がある。現在は非ムスリムは入ることはできないが、中は綺麗な装飾がある。」

 そして明日、南壁にある神殿への入口の門の跡を見ますが、そこから階段を上がるとそこが神殿の外庭になります。その出てくる所を撮ったのが右写真です。今はアル・アクサ寺院の中にあります。

 写真のずっと左側に、おそらく「ソロモンの馬小屋(Solomon's Stable)」があるのだと思うのですが、これは特にアーノルドから説明がありませんでした。これは、名前とは全く関係のないもので、これはヘロデ大王が神殿の敷地を建設するために、地下にアーチ形の天井を建てたその一部です。どのようにして神殿の敷地の土台を形成したかの貴重な遺跡なのですが、1997年にイスラム当局がここをブルドーザーで掘り起こしてモスクにしてしまったそうです。ここにユダヤ人の神殿があったという証拠隠滅の意図があったと言われます。

 そして私たちは彼らの清めの儀式のための水場(Al-Kas, 左写真)を通り越して、岩のドームに向かいました。

 そして岩のドームの前で説明しました。「今はもう中に入って見られないが、そこにモリヤ山の頂上がある。もしアブラハムが頂上でイサクを捧げようとしたのなら、そこがその地点である。そして大部分の学者は、この地点に神殿が建てられていたと考えている。床岩の測量を行なったが第二神殿時代の至聖所の設計に合致した。けれども下を彫ってみなければ本当は分からない。私個人はここだと思う。」

 続けて注釈を加えました。「(岩のドームを指して)ドームの黄金はかなり新しく9年前に葺かれたものだ。ムスリムではなく、アルメニア人によって行なわれた。いろいろなイスラム団体が自分たちが葺きたいと言って喧嘩になって、中庸の人を選んだ。」なるほど、どこの世界でも起こっていることだなと変に納得しました。

 そして私たちは岩のドームの左側を通って、丘の北西部分に来ました。そこに「霊のドーム」があります。(リンク先の地図では、28番です。)そして左下の写真のように、私たちがそのドームの中に入った時にアーノルドが説明し始めました。「ここがもう一つの説による、至聖所の地点です。」皆が最も聖なる所に自分たちが立っているから冒涜の罪を犯していると、冗談を言い合っていました。「敷地の石は敷き詰められたものだが、このドームの石は床岩のオリジナルだ。平らだが、打ち場であったからだ。アラブ語では二つの意味があって、「霊(spirits)」と「板(tablets)」だ。古代の「契約の箱」の記憶があったので、そう名づけたのだと思われる。」

 「カーフマン教授がこの説を取っているが、彼は考古学が専門ではない。彼の主張は、東の門である黄金門から、この場所が一直線になっていることだ。(地図を見てください、左にGolden Gateがありますね。岩のドームはまっすぐ西にあります。)確かにその通りですが、問題は黄金門が当時の神殿のものではなく後世のものだということだ。」

 「あるキリスト信者が、ある雨の降る日、黄金門の前を歩いていたが、地面が崩れて下に落ちた。暗闇に目が慣れると、前の時代の門の外形を見たそうである。その門は紀元後二世紀のもので、第二次ユダヤ人反乱の後に建てられた185年頃のものである。ヨセフスも、東門からまっすぐのところに聖所があることを言っているが、問題は一世紀の門はどこにあるか、である。もし二世紀の門が一世紀の門の上に作られたのであれば、ここが神殿が建てられた所である。けれども、問題はそこがムスリムの墓地であることだ。掘ることが許されない。その人が見ることができたのは穴に落ちたからである。」

 そして質問を受け付けましたが、正統派ユダヤ教徒は神殿の丘に入ってくることはないとのことです。それはムスリムを嫌っているからではなく、自分が至聖所の上を踏みつけてしまう可能性があるからです。そして私は、黙示録11章にある「外庭は異邦人に明け渡せ」という命令はどのように考えているのかを質問しました。答えは、「この敷地にはまだたくさんの空き地がある、また必要であれば分離壁を建てることができる。必ずしも今の岩のドームを破壊しなくてもよいではないか。聖書が黙っている所は私たちも黙るべきだ。」でした。

 あと他の仲間から、「美しの門(使徒3:2,10)はどこか」との質問がありましたが、これはいわゆる「東門」なので、もしどこにあるかが分かったら、この議論にも決着がつくのだ、ということでした。そして他の人が、礎石をここに持ってくる団体のことを聞きましたが、それはThe Temple Mount Faithfulであり彼らは政治的理由でそれを行なっているが、明日訪問する神殿再建財団(The Temple Institute)は宗教的動機で神殿再建を考えている、とのことです。そして先の岩のドームにある岩盤の質問をした人がいましたが、そこに正方形の印が付けられている場所があり、それが至聖所との寸法と同じだそうです。

 それから今度は、岩のドームの東隣にある「鎖のドーム」の前に来ました(右写真)。ムスリムの人たちはここにソロモンの王座があったと信じているそうですが、もちろん伝承に過ぎません。その反対を振り向くとオリーブ山の西斜面が見えます。そこに、いろいろな教会が見えますが、目立つのが金色の玉ねぎを載せたような「マグダラのマリヤ教会」というロシア正教の教会、「主の泣かれた教会」、そして頂上に「昇天教会」が見えます。けれどもこれは伝承であり、ルカ伝の最後に「イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き」とあり、ベタニヤはオリーブ山の東斜面にあるとのことです。だからオリーブ山の頂上の地点でイエス様が昇天されたと考える必要は全くない、とアーノルドは説明しました。

 そして黄金門の所まで歩いていきました(左写真)。神殿の丘の方から見た黄金門です。ここでなぜこの門が閉じられているのかを説明しました。「多くの誤解は、ここからメシヤが来られるからだ、というものである。七世紀にムスリムがエルサレムを奪取してから、彼らにとっての第三の聖地である神殿の丘を守るためにそこに直接つながる門を閉じた。四つの門を閉じた。そのため、他の旧市街にある門を通ってからここの敷地に入ることができる。四つの一つが黄金門(東門)であり、他の三つは南壁の一つ門、二つ門、三つ門である。

 誤解として、イエス様がこの黄金門を通ることができないように、ムスリムがその下に墓地を造ったというものだが、墓地を通れないというのはレビ人の問題であり、イエス様はユダ族だから関係のないことである。」そしてイエス様が棕櫚の聖日にこの門を通られて神殿に入られたという考えについては、「聖書に書いていない」とのことでした。

 今回の旅行ではっきりしたことは、ここが実際に再臨の主が通られる東門ではないのだ、ということです。講義でも再び尋ねましたが、千年王国の神殿の敷地はここヘロデ神殿の敷地よりもはるかに大きく、この位置に当てはまらないのは確かだからです。でもムスリムからすれば、ここからメシヤが来られるとユダヤ教徒やキリスト教徒が信じているのであれば、墓地を造って遮断したいと思ったのは十分考えられます。でも私たち聖書を信じる者たちとしては、関係のないことだと思っていればいいと言うことです。

2.ベテスダの池

 私たちは神殿の丘の北東にある出口から出て、そこで少しアイス休憩をしました。(売店があり、そこで仲間たちがアイスを食べたということです。)そこにステパノ門(獅子門)があります。こちらの動画の説明を見てください。ステパノ門を入って、後で行く「ヴィア・ドロローサ(十字架までの受難の道)」に行きます。けれどもこの通りの向こう側(北側)に、ベテスダの池があります。聖書ではもちろん、イエス様が38年足がなえていた男を安息日に癒された、ヨハネ5章の記録(1-16節))です。

 中に入ると、右側に聖アン教会があります。カトリックの伝承でマリヤの母親がアンだということです。けれどもその左側にベテスダの池の遺跡があります。新約聖書時代のみならず、第一神殿(ソロモン)の時から使用され、そして新約時代の後も十字軍時代に渡るまで使われていたので、遺跡が重層的になっています。上のリンク先のサイトにある地図をご覧ください。青色の、北と南に分かれている二つの池がありますね、それが当時の池です。遺跡としては、ものすごい深い所にあります(右写真)。同じく上のサイトの写真を見れば、とてつもない深いことがお分かりになるでしょう。

 そしてアーノルドは話していませんでしたが、右側に沐浴場(Bath)の遺跡があったようです。サイトの説明では、そこが病人たちが横たわっていた場所であると説明しています。

3.ヴィア・ドロローサ

 再びステパノ門を通り、ここから聖墳墓教会までの道を歩みます。「ヴィア・ドロローサ(苦難の道)」と呼ばれますが、上のリンク先にある日本語のウィキペディアが詳しく説明しています。さらに、この日本語のサイトも写真入で説明しており、各留の地図はここのサイトが良いでしょう。ここでは、アーノルドのさらに聖書的な補足説明を中心に書き記したいと思います。

 第一留はムスリムの小学校内にあり、そして通りの向かいに第二留があります。第一留で主が死刑判決を受けられ(ヨハネ19:16)、そして第二留で十字架を背負われました(同17節)。この地点については確証はないものの、ムスリムの小学校の敷地がピラトの官邸であるアントニア要塞であることは確かです。当時の要塞は地下深くにあり(エルサレムでは時代が古ければ、それだけ地下深い所にあります)、後日向かう西壁地下トンネルの最後の部分で、アントニア要塞の基盤を見ることができます。

 そして第三留は、イエスが三度倒れる中で初めの場所で、第四留はマリヤがイエスに会う所ですが、どちらも聖書にはないカトリックの伝承です。メル・ギブソン監督の映画「パッション」はカトリックを色濃く反映しています。あまりにも多くの人が伝道として使えると言っていましたが、いいえ、非常にカトリック的で映画で、聖書的ではありません。

 第五留はクレネ人シモンが強制的に十字架を背負わされる地点です。この出来事は聖書にありますが、ここで起こったかは全くの推測でしかありません。第六留はベロニカという女がイエスの顔を拭いたということですが、これも完全に伝承です。

 第七留はイエスが二度目に倒れたという伝承の場所ですが、ここを過ぎるとムスリム地区からキリスト教地区に入ります。そして第八留がイエスが女たちに語りかけられる(ルカ23:27-29)所です。

 第九留が三度目に倒れられたという伝承です。これはコプト教会の柱にありますが、ここから聖墳墓教会の屋上に行きます。(99年と08年の旅では、この小さな路地に入らないでそのまままっすぐに行き、聖墳墓教会の中庭から教会の中に入りました。)右上写真は、その屋上です。後ろに小部屋を作っていて、黒服の修道僧らしき人々が歩いていました。コプト教会がこの区域を管轄しています。

4.聖墳墓教会

 ヴィア・ドロローサは第十留から十四留までは聖墳墓教会内にあります。ここでアーノルドがこの教会についての説明をしました。ちなみに彼は、プロテスタントが管理する「園の墓」ではなく、この聖墳墓教会がおそらく実際の十字架の場所であると考えています。

 「コンスタンティヌスの母ヘレナがここを十字架の場所として教会を建てたが、それからいろいろな教派がここを自分の所有として主張した。あまりにも争いが絶えず、聖徒たちのすばらしい証(?)を立てたが(ここで私たちは笑いました)、結局、教会を六つの教派に区分けした。カトリック、東方正教、コプト教会、アルメニア教会などである。一つのものを動かすのに、他の教派の区画内にあればその権限を侵すことなる。したがって、「現状維持」という原則が貫かれている。教会の開け閉めの鍵は、数世紀前にムスリムの家族に任され、代々その家族が朝に鍵を開け、夜に鍵を閉める。“クリスチャン”が仲違いしているからである。」
 「そして後で教会を出たら、正面に『はしご』を見る。少なくともそこに二世紀の間、そのまま置かれている。それを動かそうとするものなら、戦争(war)が始まるからだ。ユダヤ人の共同体に対してまったく証しになっていない。」

 このはしごについては、失笑しました。右写真が後で撮ったものですが、真ん中にあるあの「はしご」を二世紀以上も、対立が起こるから動かしていないのです!ウィキペディア(英語)に、この「現状維持」の原則の説明がありました。アーノルドの「戦争」は比喩かと思いきや、本当に暴力事件が散発しているようです。修道僧らがこぶしで殴り合いとか!

 中に入ると、諸教会の礼拝堂がありました。そこを通りながら階段を降りると実際の聖墳墓教会の建物に入りました。

 第十留は聖墳墓教会の入口のところにありますが、私たちは今、第十一留、十二留、十三留にいます。この教会はかつて石の丘を取り囲んで造りました。今、そのてっぺんの所にいて、人々が触っているのはその頂上の部分です。ここだとそれが分かりませんが、一階に行けばそのふもとの部分を見ることができます。

 ウィキペディアに下の図がありました。こんな感じで建てられているようです。


 一階に下がって第十四留がイエスの墓ですが、大きな聖堂になっています。アーノルドは、「アルメニア派」の区画のところに連れて行きました。そして、そこに見つけたものが二つあって、一つはキリストの十字架だということです。けれどもそういう風に見つかった十字架の一部を集めて組み立てたら、とてつもない巨大な十字架になるだろう、と言っていました。そして大事なのはもう一つで、第二神殿の城壁が見つかったとのことです。したがって、位置的にゴルゴタの丘が城壁の外にあることがわかり、聖書の記述(ヘブル13:12)に合っているとのことです。私は撮った写真でどれがそこなのか見つけることができませんでしたが、ウェブサイトによるとこういうものでした。

 次にイエスの墓の後ろの部分をぐるっと回って、その岩盤の部分を見ることができました(右写真)。今回の収穫は、この石の丘の基盤を見ることができたことでしょう。

 そして私たちは外の中庭に出て、先ほど話したはしごをしっかりと見て、それから昼食の場所へと向かいました。

5.昼食(シュワルマ)
 
 中庭からくるりと回るとこの"Fountain Restraunt"お店があります。08年にも確かここで食べたと思います。シュワルマというのは、大きな肉の塊を鉄串に指し、それを回しながら焼いた肉を、包丁でスライスにしたものを、ピタの中に入れてサンドウィッチとして食べるものです。外見はファラフェルと似ていますが、ファラフェルはひよこ豆をつぶしたものを油で揚げたものが入っていますが、シュワルマはこのお肉が入っています。イスラエルまた他の中東の国々に行ったら、手軽に食べられるファースト・フードです。野菜もたくさん入れてくれるので栄養のバランスがあって、とってもおいしいです。


6.キリスト教・アルメニア人地区

 そして私たちは、その他のキリスト教地区にあるものを見ました。アーノルドは中庭の向かいにある「ウマル・モスク」を見せました。岩のドームをこう呼ぶことがあるそうですが、こちらが本物だそうです。ネットで調べたらこういう説明でした。「ウマル1世は征服後エルサレムに入り、エルサレムがイスラム共同体の管理に入ったことを宣言するとともに、聖墳墓教会でソフロニオスと会談し、聖地におけるキリスト教徒を庇護民(ズィンミー)として保護することを確認した。ソフロニオスはウマルにともに祈祷するよう誘ったが、ウマルはキリスト教の教会を穢すことを恐れてこれを断った。(引用サイト)」それで、この中庭のほうで祈ったそうで、それがウマル・モスクになったそうです。

 次に、十字軍の時代における聖墳墓教会の正面玄関を見ました。(右写真)今はこのように閉じられています。ところでこのキリスト教地区を歩いていると、ギリシヤ語の表示が目立ちます。理由は、ギリシヤ正教が強いからです。聖地ではカトリックよりもギリシヤ正教が影響力を持っています。

 そして私たちはヤッフォ門に行きました。門のところに左の墓があります。これは、オスマン・トルコがこの城壁を建てた時の建築家に墓だと言われています。ステイマン一世が、完成された城壁を見に来たとき、現在のシオン山を含めずに城壁の外にしてしまったことに怒りました。南の部分が外敵に脆弱になるからです。それで死刑にしましたが城壁の出来は優れていたのでそれを敬い、門内にを立てたとのことです。

 そして再び城内に戻り南に下ると、アルメニア人地区に入ります。聖墳墓教会を出た後のキリスト教地区は静かでしたが、アルメニア人地区はもっと静かです。ここは他の四つの旧市街地区の中で最小ですが、最も古い地区でもあります。この地区の中心的な存在である、聖ヤコブ大聖堂の入口にある中庭でアーノルドがこの地区の説明をしました。

 「アルメニアはロシア地方南部にある、トルコに隣している国であるが、三世紀にキリスト教を国教として採用した最初の国である。カトリックは四世紀である。国教化された後、聖地に来て、修道院、学校などを建てた。他の東方正教と同じように総主教を持っている。

 彼らは迫害を受けてきた少数派である。ペルシヤ人の侵略の時(紀元614年)、そのゾロアスター教による迫害のゆえ、何百万ものアルメニア人の死、教会、修道僧の破壊などが行なわれた。そこで彼らはこの地区に壁を設けた。つまり「城壁の町の中に城壁の町」である。彼らは学校でアルメニア語の他に、ヘブル語、アラブ語、英語、フランス語を学ぶ。

 ここはアルメニア人地区の中心であるが、ヘロデによって斬首されたヤコブを記念した教会である。アルメニア人はイスラエル・パレスチナ紛争において、少数派として中立を保っている。壁にアルメニア教の十字架があり、またこの向こう側には神学校がある。

 ユダヤ人との関係については、彼らがここに来た時にはユダヤ人の人口は既に非常に少なくなっており接触はなかったが、少数派の被迫害者としてユダヤ人に同情を持っている。第一次世界大戦時に、トルコ人による大規模なアルメニア人大虐殺が起こった。150万人が死んだ。アルメニアは諸各国から公式に虐殺が起こった認知を求めているが、各国の政治的理由でなかなか進まない。これは宗教よりも人種的要素の強い虐殺であった。

 教会の入口にある絵は真ん中にイエスがおり、両脇にヤコブとヨハネがいる。そしてマリヤはカトリックほど崇敬されていない。」

 アルメニア国、アルメニア人、アルメニア教について私は初めて聞いたことばかりなので新鮮でした。特に、アルメニア人大虐殺については全く無知でした。日本語のでもこれを取り扱っているサイトが多いです()。そして左上の写真は翌日、この地区を通った時に見つけた、虐殺についてのポスターです。

 そして次にアルメニア人地区の壁を見ましたが二重になっています(動画)。さらにユダヤ人地区との境になっているアララト通り(Ararat Rd.)でアーノルドが、ユダヤ人地区側にある家の窓の柵を見せました。アルメニア人地区の壁から1.5メートルぐらいしか離れていないので、ユダヤ人が進入されるのを恐れて付けた柵だそうです。写真に撮らなかったのですが、James st.の方にある柵は撮影していました(右写真)。見るに滑稽なのですが、聖墳墓教会のはしごと言い、旧市街は人間社会の小さな縮図を見るような気がします。

Christ Church(クライスト・チャーチ)

 アルメニア人地区には、ヨッパ門の近くに「クライスト・チャーチ」があります。日本語の情報ですと「クリスチャンのホスピス」宿泊所としか紹介されていませんが、ここが中東で最古の、そして現在も活動が活発なプロテスタントの教会です。聖公会の教会ですが、最初に中東のユダヤ人宣教として入ってきた所であり、ユダヤ的ルーツを最大限考慮しています。

 今回は、旅行仲間の一人が現地の宣教師で、その方がここの所長さんとの時間の段取りをしてくれました。非常に興味深いお話でした。

 「イエス様が再臨されるには、ユダヤ人が帰還し、艱難神殿が建設されなければならないという預言があるが、それだけでなくすべての国々に御国の福音が伝えられなければいけない。18世紀以前、プロテスタントが200年経ったのに宣教会がなかった。17世紀の終わりに宣教会が爆発的に増えた。当時ナポレオンが世界を席巻し、教会は世の終わりだと思った。

 その時、映画「アメイジング・グレイス」の主人公ウィリアム・ウィルバーフォースは、奴隷制度廃止への熱情と同じ熱情をもって、ユダヤ人郷土帰還と宣教に燃えていた。彼とその他の一握りの人々(ユダヤ人信者を含めて)で、Church's Ministry Among Jewish People (CMJ)(ユダヤ人の中の教会ミニストリー)を開始した。これは教派間の共同の働きであった。ヤド・バシェムにワルシャワ・ゲットーユダヤ人クリスチャンがいたことを展示しているが、この宣教会によって回心した人々である。また、エチオピヤ系ユダヤ人でクリスチャンになった人たちも、この宣教会によるものである。第二次世界大戦によって、この働きは破壊されてしまった。(ユダヤ人虐殺や宣教師迫害によって)

 この建物はある奇跡で建てられた。オスマン・トルコがここを支配していた時、新しい教会やユダヤ教会堂を建てることは許されていなかった。1822年、最初に宣教師がエルサレムに来た。聖墳墓教会の横に小さな教会堂を建てる許可を求めたが拒まれた。何度となく「だめだ(No!)」という言葉を聞いた。そしてビザの問題もあった。彼らは「政府を変えてください。」と祈った。そうしたら、1830年代にエジプトがオスマン・トルコを倒し、ダマスコまで進出した。そしてその認知をもらうために欧州の帝国を歩き回ったところ、英国は「教会を」という条件を出した。政府の中にこの宣教会の人々がいたためである。けれどもエジプトは「だめだ」と言った。イスラムの教えでは土地そのものが文字通りイスラムの地だからだ。

 けれども、エルサレムに領事館を置いたのは英国だった。領事館を置くのは諜報活動が行なえるということで、隣に他の国が領事館を建てるという競争が起こった。それで他の国々も領事館を置き始めた。英国はエジプトが嫌になり、アッコにあるエジプト海軍を倒した。オスマン・トルコが戻ってきて、この見返りに何がほしいかと尋ねたところ、英国は「教会を」と答えた。でも再び「だめだ」との反応であった。けれども英国は、「英国領事がキリスト教徒である。領事と家族、知人だけの私的な礼拝堂を建ててよいか、と尋ねたら、OKとのことだった。それがこの建物でありこの隣に元領事館がある。1849年のことである。その後、カトリック、ギリシヤ正教、アルメニア教などが競争して教会を建てた。

 エルサレムの監督は135年までユダヤ人だった。第二次ユダヤ人反乱によって、亀裂が起こった。ユダヤ人信者の聖公会の監督になって、1842年にエルサレム旧市街の中に入ってきた。そこは酷い環境だったが、彼は病院を立て、また学校を建てた。女性の平等の権利の思想から、ユダヤ人女子のための学校を建てた。これによって中東の教育制度に変革がもたらされた。今も、教育省からの管轄外の学校を四つ運営している。

 驚くべきことに、毎月千人以上のイスラエル人がこの教会を訪問する。好奇心からだ。中東でキリスト教徒と言えばアラブ人で、教会には像、ろうそく、装飾があり、ユダヤ的なものは微塵たりともない。ここにはそれらのものがなく、むしろミノラ(燭台)があり、巻物があり、ヘブル語がある。この教会を紹介する常駐ガイドもイスラエル人だ。

 この建物にあるものは、みな話を始めることができるように設計されている。女性着席の箇所がある。教会は東を向いているが、それは幕屋の入口が東を向いているからだ。聖書(巻物)は、シナゴーグと同じように建物の中心で朗読する。そしてイエス様の時代と同じように、三年かけてすべての聖書を読む。正面の巻物の中には、主の祈り、十戒、使徒信条がある。

 イスラエル人がキリスト教に対して抱く疑問の一つが「三位一体」である。ステンドグラスには、三つの神の名がある「エロヒム イマヌエル ルアク」である(「ルアク」は霊のこと)。そしてその木はオリーブで、ローマ11章にある野生と栽培種のオリーブの木を教えている。」

 過去の英国は、近年の米国にとても似ていると思いました。聖書的クリスチャンの政治への影響力、シオニズム推進運動、世界の不安定化による終末意識とそれに伴う宣教運動など、とても似ています。そして「メシアニック運動」というのは米国から始まったものと考えられがちですが、この教会とその歴史を見れば英国から既に始まっていたと言えます。

 そしてこの教会常駐のボランティアである、イスラエル人の信者の方が証しをしてくださいました。「すばらしい霊的動きが起こっていて、世俗的イスラエル人の間では福音に心が開かれている。イスラエル人の旅行団体が訪問して、ガイドが『あなたの信じていることを話してください。』と言った。エレミヤ31章から「新しい契約」について話し、福音を伝えた。聞いた人々はとても喜び、聖書や冊子を持っていき、質問をしてくれた。次の日、同じガイドがまた別のイスラエル人旅行団体を連れてきて、『同じことを話してください。』とのこと。語っている時に、主が『きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。(ルカ4:21参照)』と語ってくださった。イスラエルの地にこれと同じ霊的爆発が起こるという確証であった。横で、私の伝道のために祈っていたスウェーデン人夫妻がおられた。彼らが御言葉が与えられたというので聞いてみると、まさしく同じ箇所であった。」

 そして私たちを所長さんは、「もう一つの、イスラエル人への伝道の場所」として地下の穴に連れて行きました。「当時のエルサレムは、飲み水の他に、犠牲の動物の血を洗う水とミクバ(ユダヤ教浸礼)の為の水が必要であった。ヘロデ大王は、61キロの水道橋をヘブロンからエルサレムに通らせた。そしてここ現在のシオン山付近に大量の水が貯められた。そして、上町から下町に水が流された。32個の貯水槽の洞窟うち、クライスト・チャーチ区画の下に一つあり、今立っている所がそうである。

 第一次ユダヤ人反乱の時、ローマは北からエルサレムを攻め、反乱軍の首謀の一人シモン・バル・ギオラが南側のここに来て、「死ぬのであれば神殿で死のう。」ということで、この貯水槽から神殿につながっている水道トンネルを通って神殿の丘へ行った。そこでローマ兵と小競り合いになり皆死んだ。だからイスラエル人の考古学者は、ここから神殿の丘までのトンネルを通って人々を連れて行く。当時、ここはヘロデ宮殿の庭園の地下であり、おそらくここの水を庭園のために使ったのであろう。だからイスラエル人たちが、今でもここをたくさん訪れる。そしてイスラエル人信者たちがここで福音を伝えることができる。」

 イスラエル建国前に存在していたこの教会は、神の摂理の中で与えられた所有地と既得権益(?)の中で、福音宣教のために神によって今でも用いられているようです。

園の墓

新門

 私たちは再びヤッフォ門まで行き、そこから城壁の回りをダマスカス門の所まで歩きました。普通のイスラエル旅行なら、バスの運転手が私たちをヤッフォ門で拾い、園の墓の所で降ろすのですが、私たちのワゴン車は南壁のそばにあるダビデの町横の駐車場にあるからです。

 私たちが城壁の北西に位置する「新門」を通り過ぎる時、説明してくれました。ドイツの王がここに入る時、オスマン・トルコがその入城のためにぶち開けた所です。ここから直接キリスト教地区に入ることができ、外のキリスト教共同体と連結することができました。

 そしてここは独立戦争の終結(1949年)から六日戦争(67年)までイスラエルとヨルダンの境になっていたところでした。(ここにある地図を参照。城壁の北西部分から北に折れて走っている境がそれです。)彼は何度か、ヨルダン側に忍び込み、クライスト・チャーチの中で泊まった経験があるようです。そして、僅かな隙間のように無人地帯があり、それがここ北西部分を通っている道路の部分です。

 ヨルダン軍がこの門を占拠し、塞ぎました。そして六日戦争後イスラエルがまた開けました。それで「新門」と呼ばれています。もう少し歩いて、境が城壁から離れて北に上がっていく角の所で、私は四街区離れた所に住んでいたとアーノルドが言いました。だから六日戦争エルサレム戦の第一目撃者であり、それゆえこの旅行の宿題となっていた書籍の中に六日戦争関連のが多かったのでしょう。

 そして私たちは園の墓に入場します。

 私にとって園の墓はもう三回目で今回のガイドの人は前回の人よりもここが実際の場所である確信は薄いようでした。(確信をもって話したガイドの説明を08年の旅行記で読むことができます。)そして園の墓のサイトバーチャル・ツアーがあります。ガイドさんの音声をここにアップします。→ ①ゴルゴタ、②貯水槽、③

 主な要点は、1)ゴルゴタの「しゃれこうべ」の形、2)その前の通りは昔からの大通りであり、その前に主が十字架につけられた、3)城壁の外にある、4)園には貯水槽が必要であるが、ぶどう園の貯水槽がある、5)墓は一世紀のものだ、6)1300年前に墓の前に教会があった跡がある。・・・です。

 アーノルドの意見は一貫して、「墓は紀元前7-8世紀のものであり、考古学によるものではなく類型による推定にしか過ぎない。」というものです。Bibleplaces.comも同じ説明をしています。けれども、私は、なぜ聖墳墓教会が覆っている「丘」がそれほど可能性があるのかの考古学的な説明を十分に聞いていないので(そこに初期キリスト教とが巡礼したという話はたくさん聞きますが)、「間違いだ」という話だけを聞いても納得はできません。(英語のWikipediaは聖墳墓教会の真正性への疑問を書いています。)そして確かに園の墓は類型としては完璧な所です。主が当時どのように死なれ、そして葬られたのかを、そしてその墓が空であることを思い出すのには最適な場所です。対して、聖墳墓教会はむしろ、「まだ贖われていない“キリスト教徒”を自称する人々の罪と宗教のたまり場」に成り果てています。

9.城壁周囲

 園の墓を見終わった後で、さらに時計回りで南壁の近くに停めている駐車場まで、城壁の周りを歩きました。

 初めに「ダマスコ門」を見ました。ユダヤ人は「シェケム門」と呼んでいます。ここからダマスコへつながる道があり、またシェケムへつながる道があったからです。エルサレムの町で最も主要な門でした。今の門の下に二世紀の門が埋まっています(左写真の下の部分)。そして一世紀の門はさらに下に眠っており、見ることはできません。

 そして少し歩くと、「ソロモンの石切り場(別名:ゼデキヤの洞窟)」があります。リンク先の地図を見ると、旧市街のかなり広範囲に広がっている洞窟ですが、先ほどの園の墓のゴルゴタまでの全域が、石切り場によって切り出されたところであると考えられています。(つまりモリヤ山はゴルゴタまでつながっていたので、例えばチャック・スミス牧師は、アブラハムがイサクを捧げようとした所はゴルゴタと同じ所であったことを示唆しました。)ソロモンが神殿を建てるための石切り場(1列王5:15-17)である可能性があります。

 そして北壁の三つ目の門が「ヘロデ門」です(西から東に「新門」、「ダマスカス門」、「ヘロデ門」となります)。「ヘロデ」という名は、ここがヘロデ・アンティパスの宮殿があったという伝承があるからです。「花の門」とも呼ばれるそうです。

 そして私たちは右折して、東壁の横を歩きました。東壁には「獅子門(ステパノ門)」と「黄金門」があります。アーノルドは、私たちをかつて「羊市場」があったところに連れてきました。聖書時代の「羊の門」と呼ばれた所のすぐそばにありました。

 そして獅子門の前を通り過ぎ、そのまま行くとムスリムの墓地に入ります。獅子門は伝説で、オスマン・トルコのスレイマン一世の前任者が獅子に食われそうになった、というところから来ているそうです。「ステパノ門」と呼ばれているのはステパノがここから引きずり出されて石打ちで殉教したという伝説があるからです。私たちはそのままムスリム墓地の中を通っていきました。

 そこからオリーブ山方面を眺めました(上写真)が、スコパス山に見えるアーチがいくつかある建物はモルモン教の大学だそうです。改宗をしないとの確約の元に許可されたとか。そしてオリーブ山のふもとに「万国民の教会」があり、その横にゲッセマネの園があり、今はそこにしかオリーブの木がありません。けれども当時は全体にオリーブの木があり、神殿の礼拝に使われる油のために用いられました。エルサレムをローマが破壊する時、この木を使って城壁崩しを行なったそうで、それで切り取られたそうです。

 そしてケデロンの谷にギリシヤの国旗がなびいている教会があります。これはかつてカトリックの「マリヤの墓」だったそうです。カトリックで「聖母の被昇天」という教義が始まり、そのためマリヤは死なないでそのまま昇天したと仮定されるわけですから墓があってはいけないわけです。それでこの「マリヤの墓」と仮定(assumed)される所を、被昇天(Assumption)を信じないギリシヤ正教に売った、ということです!

 そしてこのケデロンの谷の部分は、「ヨシャパテの谷(ヨエル3:2)」と呼ばれます。ケデロン谷の神殿の東壁がある部分です。ここで、再臨の主が国々を裁かれることになります。そして反対側は右上の写真のとおり、黄金門があります。

 そして南東端にある、イエス様が悪魔の誘惑を受けられた行かれた「神殿の頂」を見て、道路を横切りました。そして南壁を眺めましたが、右側から一つ門、三つ門、そして二つ門があります。そのどれもが閉じられています。二つ門はアル・アクサ寺院の建物によって半分しか見えません。これは明日、詳しく見ます。



10.二つの池(講義)

 この日の講義の中で、昨日訪問したシロアムの池と、今日見たベテスダの池について、それぞれヨハネ9章と5章をアーノルドが説明しました。どちらにも言えることは、「当時のラビ的律法解釈に縛られているユダヤ人指導者の姿」とそれを「故意に破られる」イエス様の姿がある、ということです。

 9章の「生まれつきの盲人」の場合、まずラビの伝承によりますと、「良く傾くか」「悪く傾くか」で赤ん坊の姿が決まり、大抵は前者だが、母の胎内で足蹴りをするなど反抗していた赤ん坊は後者となり、神の裁きの徴として生まれながらにして盲目になった。メシヤが来られるまで目は開けられることはない、との考えがありました。そして「泥を目に塗」られたイエスは、律法解釈の口伝書であるミシュナに、「安息日に泥で目を癒してはならない」という内容があるそうで、それをあえて破られたと解釈できます。

 5章のベテスダの池の足なえの男に「床を取り上げて歩きなさい」というのは、これも律法解釈において「安息日に私的な場と公の場の間で物運びをしてはならない」という命令を、床(私的な場)から道(公の場)に移動させる命令をあえてされた、とのことです。ちなみに、この男には信仰がありませんでしたが、マタイ12章の、聖霊の働きを悪魔に帰した事件によって、イエス様は信仰者に対してのみ癒しを行なわれましたが、それ以前は、信仰の有無に関わらず癒しを行なわれた、と言いました。

 そして5章の最後に、「あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。」とイエス様が言われましたが、アーノルドは祖父がハシディズムのユダヤ教を信じている人であり、旧約聖書をあまりにもたくさん知りすぎたため、以前のラビが施した律法の再解釈から抜け出すことができなかった、とのことです。モーセの律法をそのまま読めば、イエスを認めることはできたのだ、ということです。これは、アーノルドのThe Life of Christ from a Jewish Perspectiveシリーズに詳しく説明されているとのこと。ハーベストタイムでも日本語通訳付きで「ユダヤ的視点からみたメシアの生涯」としてCDとテキストが販売されています。