イスラエル・ヨルダン旅行記 5月27日 - エルサレム旧市街(ユダヤ人地区)

1.屋上の間(主の晩餐、聖霊降臨)
2.エルサレム考古学公園

3.西壁(嘆きの壁)
4.アルメニア料理
5.ユダヤ人地区探索

6.神殿再建財団

 今日の旅程は主に、エルサレム旧市街のユダヤ人地区です。私たちはまず現在のシオン山に行きました。当時はエルサレムの上町のあったところで城壁内にありましたが、オスマン・トルコが建てた時にここを含めませんでした。それで前日見ましたが、スレイマン一世が建築士を死刑にしました。

1.屋上の間(主の晩餐、聖霊降臨)

 初めに来た建物は、「屋上の間」です。「チェナクルム(Coenaculum)」とも呼ばれます。二階には、十字軍が建て、後にイスラムがモスクに変えた建物があります。ここで最後の晩餐が起こり、また弟子たちが祈っている時、聖霊が降られた所と言われています。

 一階に「ダビデの墓」があります。ダビデの墓は、ダビデの町になければいけないのですが(1列王2:10)、ここに墓がある理由は、シオン山そのものの地形を誤って特定したためです。シオンの山がこっちに動いてしまったために、ダビデの墓もこっちに動いてしまったわけです!

 アーノルドは、この二階の広間が絶対に主の晩餐が起こったところではないことを強調していました。むろん十字軍が建てたものですから当たり前ですが、けれども上の題名のリンク先には一階の基盤の所にローマ時代の跡があり、その可能性があると書かれています。

 そして外に出て、この建物の壁の下の部分の石が、上のよりも大きいことをアーノルドは指摘しました。ここは初期のユダヤ人信者たちが集まっていた所だとのことです。(上の「ダビデの墓」のリンク先サイトにも説明があります。)ルカ21章などで、イエス様が「エルサレムが軍隊に囲まれているのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。(21節)」と言われました。それで66年にユダヤ人反乱が起こりました。ローマがエルサレムを包囲しました。イエス様の言葉から、この戦いには勝てないことを知った彼らは、ユダヤ人ゲリラがローマの補給線を断ち切ったことによって、包囲が2年間解除されたその間に、エルサレムから逃げて、ヨルダン川沿いの町ペラに移り住みました。

 70年にエルサレムがローマに陥落したので、彼らはエルサレムに戻り、そしてここにメシアニック・ジュー(ユダヤ人クリスチャン)の会堂を建てたとのことです。石はヘロデ系のものであり、神殿の辺りから持ってきた可能性があります。135年、第二次ユダヤ人反乱勃発の後、ローマ皇帝ハドリアヌスがエルサレムから全てのユダヤ人を追放するまでの間、合計15人のユダヤ人信者の監督がこの教会にいたそうです。これらの記録は、エウセビオスが「教会史」の中で記しているとのことです。

シオン門鶏鳴教会

 そして私たちは再びシオン門から出て、城壁沿いに歩き糞門に向かいました。シオン門のところで、アーノルドが説明をしました。「南壁には五つの門がある。昨日話したとおり、一つ門、三つ門、二つ門があり、そして糞門、それからシオン門であり、その名はユダヤ地区につながることから来ている。1948年から67年には、左側の城壁がイスラエル領で右側がヨルダン領内の城壁であった。当時、ユダヤ人地区のある部分を上から眺めたが、67年以降そこに再建した。門壁にある銃痕は独立戦争と六日戦争の戦跡である。」

 そして途中で、かなり霞がかっていて見えなかったのですが、エルサレムを囲む山である、「つまずきの山」と「悪巧みの山」の位置を示し、それから正面に見える、てっぺんに鶏がついている教会を紹介しました。現在のシオン山のところが上町で、大祭司アンナスとカヤパの家があった所ですが、カトリック教会がここであると定めているのがその教会です。「鶏鳴教会」と呼びます。デービッドが99年、08年に私たちを連れて行った所です。

 アーノルドはカトリックの伝承であることをほのめかしましたが、デービッドは数少ない真正性のある所だと言っていました。・・・今回の旅で鍛えられたのは、「ことなる見解を聞く」ということです。昨日の園の墓もしかり、二人の高名な聖書教師の間に、必ずしも意見が違うわけではないけれども、強調点がかなり異なる部分が結構あります。後は、私自身が検証して、私自身の見解を得なければいけません。疲れる作業ですが、同時にやりがいのある作業でしょう。

2.エルサレム考古学公園

 糞門の所に入るとき、面白い光景を見ることができました。右の写真をクリックして動画をご覧ください。この日、また次の日も、旧市街中ににぎやかな踊りと音楽が鳴り響いていました。ユダヤ人が13歳になった時の成人式「バル・ミツバ」です。

 そして私たちが入ったのは、「エルサレム考古学公園(Jerusalem Archaeological Park)」です。この場所を発掘したの考古学者の人がこの神殿南壁の遺跡をじっくりと説明してくださいました。名前はインさん、32年前にアメリカのニュージャージー州からイスラエルに帰還したユダヤ人です。「私の意見では、ここがイスラエルの中でもっとも印象深い所であり、イエスの時代のエルサレム、ユダヤ人の中心を感じることができるところです。

 まず、公園にこだましている太鼓の音についての説明をしました。「バル・ミツバをお祝いしています。エズラとネヘミヤが律法を民に聞かせる「広場」の日(ネヘミヤ7:1?)が 土曜日の他に月曜日と木曜日があります。この日に律法を朗読しますが、書き物をしたり、音楽を奏でたり、運転が安息日にできません。そのため月・木に行ないます。西壁(嘆きの壁)でバル・ミツバ式を挙げますが、そこは正統派が管轄しています。アメリカのユダヤ人には、保守派、改革派が多いので、この公園でバル・ミツバ式を挙げます。ここでは、男女が祈祷する場所が区分されている西壁と違って、男女が一緒に祈ることができるからです。また人数は少なくても10人の13歳以上がいなければいけません。」そんなことを話していながら、外からけたたましく雄羊の角笛の音が鳴り響いて、インさんの声をかき消しています(音声)。

 
 今、インさんが掲げているのがヘロデ時代の、同じ位置から見た神殿です。そしてその後ろがもちろんその遺跡です。「左に二本の木が見えますが、当時の神殿はだいたいその木のてっぺんと同じ高さでした。そして木の下にある三つの窓のさらに下にあるでっぱりが、絵の中でインさんが指差しているロビンソン・アーチです。これは王家のバシリカ(Royal Bacilica)につながっていた所です(バシリカは、神殿南壁に面している、赤い屋根をした長方形の建物)。ここでイエス様が宮清めを行なわれたとき、両替人がいた所です。

 なぜそこに両替商がいたのか?一つは、神々や皇帝の銘のある硬貨で犠牲の動物を買うのは冒涜であった。もう一つは、古代で盗賊に合わずに金を保管できる場所が神殿であったこと。それゆえ、国がある他の国々を征服するとき、宗教的動機以上に、財産没収の動機で神殿を破壊した。そして、ユダヤ人三大祭には世界中からの巡礼者が来るため、そこが交易の一部の役割を果たしていた。古代は聖俗の区別がはっきりしておらず、有機的であったのだ。」

 そして私たちはロビンソン・アーチの下の方に行きました。当時、アーチが発見された時の高さは、地面に立っている人がアーチに寄りかかれるほどでした。上のリンク先のサイトにその写真があります。

 ミクバ(儀式用浴槽)を見ました。当時この敷地には50から60のミクバがあったそうです。「神殿に上がるには、まずこの浴槽で身を清めなければならなかった。男女とも行ない、マリヤはミクバに入って神殿に上がりました(ルカ2:22)。今も伝統的ユダヤ教徒は、出産後、また結婚前に入る。この儀式的清めが当時のユダヤ人の規範的行為であった。

 清めについての儀式だが、例えば、自分が死体に触れて、その不浄の状態になった自分が他の人に触れたなら、その人は程度は低くなるが不浄状態になり、また自分が土器に触れたなら、その土器は使えなくなる。石やガラスは不浄から清められえると考えていたため、当時の人の家の前には石の水がめがあった。ガリラヤのカナには当時の石の水がめがある。

 そしてこの解釈があるため、誰と付き合うかが重要になった。律法を知らない人が、知らずに汚れた者に触れていて、例えば握手を求めてきたならば、それがその不浄が自分に移ってしまう。したがって、誰と一緒にいるか、一緒に食事をするかが極めて重要になったわけで、これが福音書の中でイエスが律法学者からの非難を受ける原因になっていた。」

 そしてロビンソン・アーチの真下に行きました。「写真では感じることができないかもしれないが、上の木のてっぺんまで当時の神殿の壁があった。」かなり高い、荘厳なものであったことが想像できます。「弟子たちが、「何とすばらしい建物でしょう。(マルコ13:1)」と言った意味が分かる。南西の角の先端部分から地面までの高さは約48メートルであった。

 建てたのはヘロデ大王であり、彼は妄想症であったが建物を造るに当たっては天才であった。カイサリヤ、エリコ、マサダ、ヘロデオン(ここで彼は葬られた)などがあり、そしてここを再建した。第二神殿と呼ばれるが、実際は最初から最後まで建て直しを行なったので第三番目の神殿になる。

 ヘロデ式の石は、周囲に縁がある。そして積み上げられ方は、上の石がほんの少し内側に入っている。つまりピラミッド型だ。これがヘロデによる記念建造物の特徴である。

 そしてロビンソン・アーチの所において、このその石が終わっている。その上はヘロデ時代の石ではない。ローマが神殿を破壊した時、木のてっぺん辺りからこのヘロデ式が終わるところまで破壊した。中世の人々がさらに石を積み上げたが、元の高さまでは届かなかった。そしてアーチの上に門もなくなっているが、アーチ自体がなくなっているのだから門を作る意味がなかったのだ。

 この裏にモリヤ山がある。ヘロデは人工的高地、平坦な地面を作らねばならなかった。ヘロデは北側の山を切り削いで、その瓦礫を南側に移して埋め立てることにより平坦にした。その土を維持するのに、東西南北に保持壁を建てた。私たちが見ているのはその西壁だ。そしてこれが終わって神殿の建物を造った。

 そして石切り場は、神殿の丘の北西の角にある。鉄道具をもって床岩を削っていった。乾燥した木材を岩の裂け目に入れ、水を差し込んで、その膨張によって岩を割った。

 ヨセフスによると一万の雇われ職人がこの作業を11年間以上かけて行ない、今度はそれを移動させた。目の前にある石は一つ50-60トンある。小さく見える石は縦ではなく横を向いているためだ。西壁地下トンネルに行けば、600トンの石がある。現代のクレーン車でさえ6-10トンしか持ち上げられない。だから持ち上げたのではなく、水平傾斜移動させたのだと考えられる。一列目は比較的容易だが、二列目以降が技術が必要であった。北側の山地を削って平らにしてからさらに石を傾斜移動させた。そしてそれ以上の高さの壁石は一個6-10トン石を使った。これらの技術は当時のローマの建築士の才智に拠ったものである。

 そして、もし単にこの保持壁の中に瓦礫を入れていけば、その重圧で壁がはじけ飛んでしまうことは彼らは熟知していた。そのため、円筒形の丸天井状アーチを並べている。そしてさらにその上に同じ形状のアーチを置き、ちょうどいわば「石の蜂の巣」を作ったのだ。そのことによって重力を取り去り、分散させることができた。(このサイトを見ると写真と図が出てきます。)

 さらに、その空洞のところに保管部屋を作ることができたし、貯水槽としても使えたし、そしてハラカー(ユダヤ教の慣例律法)の問題も解決できた。この神殿の敷地はソロモン時代よりも大きくしているため、墓などの汚れたものに触れているかもしれなかった。大祭司が贖いの日に、知らずに墓の跡に触れたところを歩いて至聖所に行ったとしたら、宇宙規模の冒涜行為になっていた。このアーチは空気の緩衝を作ってくれて、宗教上の不浄を防ぐことができた。(これは現代でも起こっていることで、85年、あるホテルをティベリヤで建てようとしたところ、古代の墓地が出てきてしまった。建設反対運動も起こった上、妥協策として支柱の上に建てた。)これを十字軍の人々は間違えて、「ソロモンの馬小屋」と呼んだ。「ソロモンの池」も「ソロモンの石切り場」も同様でソロモンも使っただろうが、ヘロデが使ったものだ。

 では、次にどのようにしてローマがこれを破壊したのかを説明する。石は石灰岩なので燃焼する。燃やすと石膏のようになる。アブの月9日に神殿が破壊されたが、ここにある石の瓦礫が、ローマ人が上の部分の壁を打ち倒したものである(下、左側の写真)。そして偶然にも同じアブの月9日に、第一神殿も破壊されていたのだ(紀元前586年)。そしてアーチは礎石を打ち落とすことによって全体を壊した。
 
 打ち落とすのは簡単だが、土台にある石は燃焼して溶かした。それがこの通りの石に見られるものだ(上、右側の写真)。さらに、火に食われて黒焦げになっている部分もある。店(?)の裏壁だ。(下の写真)

 なぜ、今の人々は嘆きの壁の広場のところで祈り、ここでは祈らないのか?神殿破壊後、祈る場所は許可された場所が変遷することで変わっていった。破壊された後は、神殿を眺め下ろすオリーブ山で祈っていた。そして後に、エルサレムの南側で祈ることが許され、南壁の階段の近くで祈り始めた。町を追放され、今度許可されたのは北側であった。再び追放を受け、1267年、ユダヤ人は町の西側に住み始めた。ユダヤ人地区の所だ。それから西壁で祈るようになった。700年強の伝承によるものである。

 そして壁石に刻まれている落書きに注目したい。「これを見て、心喜び、彼らの骨は若草のように生き返る。」これはイザヤ書66章14節の引用ミスである。高さを見ると、ちょうど自分の目の高さで書くものであるが、その高さであった時はビザンチンかムスリム支配の時である。刻み込んでいるので、時間もかかったが、イスラムの宮殿がムスリム時代は真上にあったため、その時代のものとは考えにくい。

 ビザンチンの時代、キリスト教徒はイエスをユダヤ人が拒んだ証しとして破壊された神殿を見たが、この聖書箇所はメシヤ的である。そこで考えられるのは、361年、背教者ユリアヌス治世の時、彼はキリスト教国を異教に戻すため、ユダヤ人に第三神殿を建てても良い許可を出した。それで神殿の再建はメシヤ到来を表していたので、ユダヤ教徒がこれを書いたのではないかと思われる。これによって、読む人はこれがメシヤ待望を表していることを知っていた。362年(3年?)にユリアヌスはペルシヤに遠征し、死んでいる。」

 下が、現在の西壁南西部分の全体写真です。瓦礫の石が向こう側に見え、手前が通りの跡で、石が落ちてきたためガタガタになっています。元々はその部分にも石が積みあがっていたそうです。
 
 そして旅行仲間が、この後もっと発掘するところはあるのかと尋ねたところ、完成しているとのこと。将来、マサダに逃げようとした残党が地下の下水道を使ったので、それを調べるかもしれないが、時代の変遷とともに考古学技術もも発展するのでその時を待って、すべてを一度に発掘しない、とのことでした。

 そして南西の角の部分にも落石の瓦礫がありますが、そのうちの一つが複製で本物はイスラエル博物館にあります。「文字が刻み込まれているが、意味は、『告示のラッパの場所へ』である。「神殿の頂の石であり、そこから安息日の告示をラッパを吹き鳴らして伝えていた。現在でもエルサレムで安息日を告げるサイレンが鳴る。タルムードでは三つのラッパの吹き鳴らしがあるが、畑で働いている人たちに帰宅の知らせをする時、お店の番人に対して帰宅を呼びかける時、そして安息日だ、休めという時である。

 そしてイエスが誘惑を受けられた『神殿の頂(マタイ4:5)』がここの南西の角なのか、南東の角なのか分からない。北の角は高くないので可能性はないので、こちら側の二つのどちらかである。こちら側(南西)は贖いの日に使われた所なので、こちらの可能性もある。」

 そして旅行仲間が「かしら石はどこか」と聞いたところ、このてっぺんの石もそうだし、19層石が地下にあり、その一番下、約20メートル地下にあるとのことです。けれどもインさんは、聖書の「捨てられたかしら石」はてっぺんの石だろうと言いました。

 次に南壁方面に動きます。その途中の壁を見せて、ヘロデ型の石がいかに精密に積み上げられているかを見せてくださいました。このリンク先の写真をご覧ください。すき間に包丁さえ入れられない位です。もちろん接着のためのコンクリは一切使われていません。

 そして、今度は地下をくぐります。7-10世紀のイスラム時代の宮殿から、さらにもぐってビザンチン時代の家屋を見、再びイスラム時代の下水溝を歩き宮殿に行きます。そしてさらに下がって、ビザンチン時代からハスモン朝の建築物に行きます。つまり、ここら辺にある建築物を時代を越えて歩くわけです。

 イスラム時代の宮殿
 

 ビザンチン時代の家屋
 

 トンネルから出てきたら、右の写真の石がありました。ヘロデ時代の石を使っています。そしてこの印章の二つの十字架はネア教会(七世紀のペルシヤによって滅ぼされる)であり、そしてこの石そのものがイスラム時代の城壁に用いられています。つまり、キリスト教会がユダヤ人の石を再利用し、イスラムがキリスト教の石を再利用したわけです。実にエルサレムの姿をよく表している、と言っていました。

 そして丘状遺跡(テル)の説明をしてくださいました。ある時代の町が他の勢力によって滅ぼされた時、当時はブルドーザーがありませんから瓦礫にしたその町を、そのまま均して新たな町を建てました。そして地形に沿って城壁を建てますので、以前の城壁と大抵同じところに建てることにあります。そしてまた別の勢力が来て同じことを繰り返す結果、いくつもの層からなる丘が出来上がるわけです。

 そして南壁の階段に到着しました。今、見ることのできる階段の遺跡は当時のものの半分だけです。というのは、壁にある二つ門が半分、中世に建てられた建物によって遮られています。これが階段の真ん中にあったので、今の階段は半分だけの部分であることが分かります(左写真)。

 そしてここは、イエスが教えられた階段と言われています。ミクバでの水洗いを済ませた後、この階段を上がります。一段が幅が長く、次の一段は短いです。このことによって大またで歩くことを止めさせ、内省的にさせ、巡礼のことだけに集中できるようにします。階段を上がる時、今でも食前にユダヤ人が歌う歌をうたいます。「都上りの歌(詩篇130-134)」です。「階段の歌」もあります。一方の階段から上がり、もう一方から下がります。

 ここは、ダビデの墓よりも、嘆きの壁よりも、ここが最も神聖だからです。ここを上がれば、アブラハムがイサクをささげようとしたところのモリヤの山であり、至聖所があったところです。神が地上に御足を置いたところだ、とのことです。年に一度、大祭司が至聖所に入る時、ミシュナによると彼にロープを付けていました。至聖所で死んだ場合、そこから引き出すためです。



 太陽光線でこの階段が強く反射します。それで門に入るとトンネルになっているので、ともし火を持ちながら階段を上ります。出てくると、目が眩しさでくらみます。白い大理石の黄金の建物が目の前にそびえています。純粋に物理的現象においても刺激的な体験をします。それに加えて、霊的、文化的、国家的な意味も含まれ、とてつもない体験をするわけだ、と言っておられました。

 

 そして左上の写真を見ると、ヘロデ時代の石が下一段しかありません。イエス様が、「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。(マルコ13:2)」と言われた通りです。

 そして先ほどの南西部分の西壁の落書きのイザヤ書の書き換えを思い出してください。「彼らの骨は生き返る」とありました。なぜ「私たちの骨」だったのに「彼らの」に直したのか。それはオリーブ山に葬られているユダヤ人の墓からの復活を願っていたからです。神殿が再建されれば、メシヤがすぐにでも来られるという信仰です。そしてユダヤ人墓地ですが、最近の墓もあるし2800年前の墓もあります。

 この後に建物の中で、3Dを駆使したビデオを見ました。実在の人間のナレーターが3Dの中に入って説明をしていましたが、ちょうど下のYoutubeビデオのような映像でした。


 そしてこの3Dは、エルサレム考古学公園のサイトでも見ることができます。

西壁(嘆きの壁)

 次に行ったところは西壁です。男は男の区画に、女は女の区画に分かれて行きます。男は頭にかぶり物をしないといけません。このことの指示を出しているアーノルドの声が、バル・ミツバの声と音でかき消されています。題名のリンク先は、西壁のライブ画像が出ています。

 私が撮った映像を紹介します。 (下の画像をクリック)
 

 この箇所だけが西壁の中で何世紀にも渡り、表に出ていました。67年の六日戦争の時、この広場には建物があり、壁に近づくには小道を通っていかなければいけませんでした。下の部分の大きな石が当時の神殿敷地の西壁ですが、その上にあるのはビザンチン時代もの、そしてムスリム時代のものです。

アルメニア料理

 私たちの昼食は、今日はアルメニア料理です。昨日訪れたアルメニア人地区の中にある、Bulghourjiレストランで食べました。題名のリンク先は日本語サイトですが、そこにあるメニューと同じものが結構ありました。

 前菜を食べる女の子三人
  

ユダヤ人地区探索

 食事を済ませた後、私たちは旧市街の中心地点に行きました。そしてなんと人家の屋根の上にあがり、そこから旧市街を展望しました。私たちだけではなく、他にも旅行グループがいて、またユダヤ教徒の男の子が歩いています。ムスリム地区を通過せずに、安全に移動するためだそうです。

 右の写真をクリックすれば動画が始まります。あいにくこの日は曇りです。遠くが見えません。。霞だけでなく埃も舞っています。そして何とこの日、雨が少し降りました。雨季は四月には終わっているそうで、アーノルドはこの時期に降るのは非常に珍しいと言っていました。

 ギリシヤ・ローマ時代の町は、主要道路を東西にそして北西に走らせます。それによって四つの地区ができあがりますが、そこでローマがエルサレム破壊後、ハドリアヌスがこの町を「アエリア・カピトリナ(Aelia Capitolina)」と変え、二世紀にこの町をつくりかえました。北西にキリスト教地区、西南にアルメニア人地区、東南にユダヤ人地区、そして北東にムスリム地区があります。時代が変わっても、基本的にその作りは変えませんでした。その主要道路は「カルド」と呼ばれます。

カルド

 私たちは、ユダヤ人地区のカルドに行きました。ショッピング通りにもなっているこの場所で、下の足元を見ると、黒い線が走っています。これは、ヒゼキヤのエルサレムの城壁を広げた時にあったところだそうです。後で見る「広い城壁(Broad Wall)」のところにある地図を見れば、今のエルサレムと当時のエルサレムを比較できます。

 この通りを北に向かうとムスリム地区の「ダマスコ門」につながり、南に行くとユダヤ・アルメニア人地区の「シオン門」につながります。

 そして、通りの横には掘り起こされた各時代のカルドの遺跡があります。私も写真を撮ったのですが、こちらのリンク先のほうが良いでしょう。ビザンチン時代、ローマ時代、そしてハスモン朝のギリシヤ時代を見ることができます。もう一つの写真は、奥にあるのが第一神殿時代(つまりソロモンからの歴代誌の王たちの時代)のものと、浅い部分のハスモン朝時代のがあります。

 そしてビザンチン時代のショッピング通りが、そのまま現代のカルド沿いに残されています。2.5メールビザンチンのほうが低いです。他の角度からの写真は、こちらをご覧ください。そしてこの通りの幅は現在のものよりも幅広いですが、実は元々はさらに広かったそうです。半分の部分しか掘り起こされていないためです。

 そしてそこに、六世紀のエルサレムの町のモザイクが掲げられていました。もちろん複製ですが、ヨルダン旅行に行った時に本物を見ることができました。

 この地図の左にある大きな門が、ダマスカス門です。中心がもちろんカルドです。(つまりこれは東が上を向いています。)そして上のほうに走っている通りは、「チロペオン谷の通り」と呼ばれます。そしてカルドの南側の部分がここには描かれていません。なぜなら、これは地形的な地図ではなく、神学的な地図だからです。中心に見える大きな建物が聖墳墓教会で、これがこの絵の中心部分です。そして右下に伸びている道は、東西に走っている道です。

シナゴーグ

 次に私たちが見たのは、右写真のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)です。左上に、"Four Sephardic Synagogues"(四つのスファラディ会堂)と書いてあります。

 スファラディ系ユダヤ人は、南欧、主にスペインとポルトガルにいたユダヤ人です。スペイン異端審問のため追放されたユダヤ人は、トルコと北アフリカ方面に散っていきました。彼らはアシュケナジのイディッシュ語ではなく、スペイン語とヘブル語の混成語であるラディノ語を使っています。オスマン・トルコ朝のときエルサレムに帰還しましたが、当時モスクが力を持っていたため、会堂は攻撃を受けました。そのため、シナゴーグは町の高い所に建てますが、ここでは低いところに建てられています。またモスクのミナレット(尖塔)に似たものがあります。すべてごまかすためです。出身地の違いによって四つのスファルディのグループがいるため、シナゴーグもそれだけあります。独立戦争のときに破壊されましたが、六日戦争後に戻ってくることができました。それぞれが独自の礼拝形式を守っています。

 参考までに、アシュケナジとスファラディのユダヤ人についてミルトスのサイトの一読をおすすめします。

 次の左の建物は、独立戦争前から存在していた、ユダヤ人地区のユダヤ機関の官庁でした。そして広場は当時最も広い所でした。数多くのユダヤ人が移住してきたのですが、当時のユダヤ人は貧しかったでした。たいてい一部屋しかない所に住んでいました。当時、ユダヤ機関は移住する人々に、定住前に一時的に仮住まいする建物を造りました。けれどもそれらは二部屋ある家でした。それで、入ってきた人々はそこに住み着いてしまったのです。そして49年、独立戦争時にヨルダン軍が攻めてきたので退出しました。

 ここは学校になっており、今、休み時間で子供たちが外で遊んでいます。

 そして右の碑石は、ユダヤ人地区で独立戦争時に葬られた人々のものです。40人の戦士が死にましたが、オリーブ山をヨルダン軍が占拠していたため、そこに葬ることができずにここに埋めました。67年の六日戦争後、オリーブ山に移しましたが、その記念碑が残っています。

 そして次に見たのはフルバ・シナゴーグです。こちらはアシュケナジ・ユダヤ人によるもので、一度建てたシナゴーグを破壊されたので、「フルバ(Hurva、破壊)」と呼ばれています。再建しましたが独立戦争時にヨルダンによって破壊されました。67年以後、ユダヤ人が戻ってきた時、アーチの記念碑のみがありました。アーノルドが、「2年以上前にイスラエルに来たことのある人は?」と聞くので手を上げると、「その時はこの建物はなかったでしょう?」と聞かれて、「あっ、本当だ!」と改めて驚きの声を挙げました。最建築が始まったのは2000年です。記念碑のままにしておくのか再建すべきか議論があったそうです。

 政府は補助金を出していたのにハシディム派の人たちに明け渡してしまったため、一般の人々の出入りができにくくなったそうです。

 この建物の下にアシュケナジーのラムバン・シナゴーグがあります。フルバよりも古いものです。ある時、その一員が怒ってイスラム教に改宗したそうです。それで建てられたのが、左横にあるモスクです。そしてモスクが力を持ったとき、ユダヤ人を追い出しました。けれども67年以後はユダヤ人は戻ってきましたが、ムスリムは戻ってこなかったので逆になりました。

 なんと、ユダヤ教徒がイスラムに改宗するなんて!と驚きました。もっと驚くのは会堂内で問題が起こって、つまずいて改宗したことです。何か、キリスト教界でもありそうな話で・・・(汗)。

 そして私たちは、「広い城壁」のところを通って、再び嘆きの壁がよく見える高台に来ました。アーノルドはここを「ヒゼキヤが建てた物」と言いましたが、08年にデービッドは、ユダヤ人ガイドと議論して「マナセが建てた物」と主張したところです。私も当時の地図をじっくり見て、やはりマナセの建てた物だと確認しました。でも、アーノルドとは議論したくなかったので、何も言いませんでした。

 アーノルドは、ここが西壁(嘆きの壁)の写真撮影スポットだと言いましたが、確かに絶景ですがものすごく霞んでいます。現地の宣教師の人に言わせると、「これこそ雨が降った時のエルサレムだ」とのことです。砂漠地方(おそらくネゲブ)から風に乗せられて、砂を運んでくるからだそうです。聖書の中で、神の裁きの一つで数多く出てくるのは「風」ですが、イスラエルの人々にとっては非常に身近な天災であったことを容易に想像できました。

 そして神殿再建協会による純金のミノラ(燭台)の展示物を見ました。08年にも見たものですが、第三神殿で実際に使用するものとして用意しています。オフレコでアーノルドは「彼らは純金だと言っているが、金を覆いかぶせているだけかもしれない。」と言いました。この団体は財政的に苦しいようです。

 次に見たのは、「聖マリヤのドイツ人ホスピス(Saint Mary's German Hospice)」で(左写真)。十字軍のエルサレムは「ラテン・エルサレム王国」と呼ばれていましたが、公用語はフランス語でした。けれども巡礼者の多くはドイツ人で、フランス語を話せない彼らのために建てたホスピスだそうです。二年前に門が閉じられて今は中に入ることはできません。

 そして私たちは、「ティフェレト・イェスラエル・シナゴーグ(The Tiferet Yisrael Sunagogue)」に来ました(右下の写真)。これはハシディズムの会堂です。オーストリア・ハンガリー帝国の時のこと、ここエルサレムに会堂を建てたのですが、途中で財源が尽きてしまい、屋根を付けることができませんでした。オーストリア・ハンガリー帝国の王が訪問したとき、ラビが彼に会いましたが、王が「屋根はどうしたのですか?」と尋ねると、「王の表敬のために、会堂さえもその帽子を脱いだのです。」と言いました!皇帝はこの答えに感心して、屋根建築のためのお金を寄付しました。

 けれども1948年の独立戦争の時に、ヨルダン軍が屋根を滅ぼしました。そして現在にまで至っています。(写真の上の屋根の部分がコンクリートの塊にだけになっていることにお気づきください。)あと、上のリンク先のサイトに独立戦争によって破壊されたこの会堂の写真があります。

 そして向かいには違う宗派のユダヤ教会堂があります。これはカライ派(Karaite)と呼ばれる人で、カライは「読む」という意味で、書かれたトーラ(律法)のみを信じ、ミシュナやタルムード等の口伝律法は信じない厳格な人々です。けれども現実には伝承が入り込んできている、とアーノルドは説明します。一時は大きな運動になりましたが、今のユダヤ教では少数派です。右の写真の門に書いてあるヘブル語は、「ここは、すべての民の祈りの家である(イザヤ56:7)」という意味だそうです。

ウォール考古学博物館(別名「ヘロデ地区」)

 そして今回初めての、見ごたえのある博物館に入ることができました。ここは、第二神殿時代、つまりイエス様が地上におられた時のエルサレム「上町」の遺跡です。イスラエル博物館にあるエルサレムの模型でも見ましたが、そこには裕福な人々が住んでいました。祭司たちもここに住んでいました。そしてここの遺跡はその家の跡です。写真撮影禁止ということで非常に残念ですが、上の題名のリンク先にいくつかの写真が掲載されています。

 六つの家の遺跡がありますが、この博物館ではその三つに注目しています。二階式だったそうですが、遺跡は一階の部分のみです。ギリシヤ・ローマ式の建築になっており、とてつもなく大きく、豪華です。数多くの貯蔵部屋があり、貯水槽、浸礼槽、かまどもあり、モザイクの床などがあります。家財道具も当時の輸入品で高級なものだそうです。

 最も大きいのが「測りの家」と呼ばれる所で、600平方メートルの空間があり、すべてが装飾されており、神殿を見下ろすバルコニーもありました。この祭司長の家族は非常に裕福だっただけでなく、親族が住む大世帯だったのでしょう。

神殿再建財団

 そして私たちは、なぜかキリスト教地区にあるお店でお買い物になりました。ルーテル派の「贖い主教会」の向かいに"Dajani's Oriental Bazaar"というアラブ系クリスチャン経営のお店があります。確か08年の旅の時にも聖墳墓教会に入る前に入りました。アーノルドは研修旅行と言えども、ショッピングを少しさせなければいけないと思ったのでしょうが、旅行仲間の女性陣からは「ショッピングはしたいけれども、なぜこのお店なのかしら?」という声がありました。私はすぐにお店に出て、前に置いてある椅子に腰かけて、同じ旅行仲間の一人と時間つぶしをしていました。

 そして再びユダヤ人地区に戻り、神殿再建財団に入ります。アーノルドは、「彼らは正統派ユダヤ教徒なので、聖書を信じる人たちだと思って質問しないように。例えば、反キリストがこの神殿を建てるのを許すのではないですか?」など。信者のように聞こえるが、あくまでもラビ的ユダヤ教を信じる人たちなので気をつけてください。」とのこと。

 これで私は三回目なのですが、一番良かったのは二回目の08年でした。今回はなんと、写真撮影禁止だったのです。私が「前回は、バチバチ写真撮ったのに。」とつぶやいたら、財団の人が「じゃあ、私たちはあなたを告訴する準備でもしましょう。」と冗談をかましていました。なので、ここに掲載することはできませんが、08年の旅行記にたくさん掲載・リンクをしています。そして上の題名のサイトには第三神殿の膨大な資料と写真があります。そして女性ガイドの音声は録音しましたので、英語の分かる方はどうぞ(音声1 音声2 音声3)。

だまされる福音派クリスチャン!

 お聞きになると分かりますが、彼らは実に私たち信者の心を動かす雄弁さを持っています。たしかにまるで同じメシヤを信じる者たちであると勘違いしてしまいます。前回の旅では醵金しようとした人たちまでいましたから。そこで私は後で講義の時に、アーノルドに質問しました。なぜ彼らは我々福音派クリスチャンを歓迎してくれるのか?と。答えは予想以上のものでした。「福音派の人たちが、一番たくさんお金をくれるから。」ぎょっとしました。続けてアーノルドは答えました。「彼らはユダヤ教の中でも少数派である。正統派ユダヤ教の大部分が、メシヤの到来の時に神殿が建てられると信じているのに対して、彼らはメシヤが来られる前に自分たちの努力で神殿を建てることを信じている。だから、ユダヤ教の人たちからの資金援助が少ない。援助してくれるのは福音派のクリスチャンなのだ、残念なことに。」私が「彼らは福音派の神学を知っているのか?」と聞くと、「ああ、熟知している。福音派への語り方も知っている。」とのことです。

 これを読んでいる福音信仰を持つ方々、ぜひ見分ける目と耳を持ちましょう!

 ・・・と書いたものの、最後に私はこの財団の入口にある本屋さんで本を買ってしまいました。目に留まったのは、Leen & Kathleen Ritmeyer著の"Jerusalem in the Time of Nehemiah"です。ヘロデの第二神殿についての資料は入手しやすいですが、ネヘミヤ時代のエルサレムについては聞いたことがないので、これは!と思った次第です。この著者Ritmeyerという人は、第二神殿について有名な書物を書いている人のようで、Amazonでもたくさん買えます。ブログもあります。

ユダヤ教書店"Moriah"

 そして私たちは車が駐車してあるところに戻りますが、その途中でユダヤ人地区の中にユダヤ関連の商品や書籍が並んでいるお店を見かけました。Moriahという名前です(このサイトの中に紹介されています)。現地宣教師の人も、またアーノルドもこのお店は知っていました。旅行仲間はここで買い物してはいけないのかと頼んで、時間を取りました。私もこのお店は気に入りました。

講義では

 ホテルに戻り、ご飯を食べてからいつもの講義を受けました。開いた聖書箇所は、エゼキエル書43章1-5節と44章1-3節でした。「エゼキエル書は、シェキナー(神の顕現))の栄光が離脱し、また戻ってきたことが主題である。8-11章に、栄光が去っていく四つの段階を描いているが、43章では栄光が戻ってくることが書かれている。40-48章に、千年王国の姿が詳細に描かれている。栄光は第二神殿にも戻ってこなかったし、イザヤ66章1-6節にある患難期の神殿は神によるものではなかった。千年王国の神殿で戻ってくる。

 44章1-3節には、戸を閉じたままにしなさいと命じているが、それは主の栄光がすでに至聖所にあるためである。今の黄金門のことを言っているのではない。そして、黄金門が閉じられているのはイエスがそこを通られたという人たちがいるが、それは四世紀の門であり、一世紀の門は下のどこかにある。しかもイエスは東の門ではなく、南壁の門を使われた。」

 そして質問討議が行なわれ、明日の予定を話しました。

 部屋に戻って、寝始めたら寒気がしてきました。毛布を余計に一枚かけていましたが、それでも足りなかったようです。外の気温が低いからではなりません、冷房の温度設定が低すぎるからです!ほとんど冷蔵庫状態。ルームメートがアメリカ人ですから、仕方がありません。(次の日にさらに一枚、毛布を頼みました。)熱が出てきましたが、明日は出発前のデボーションの時間に、短くメッセージを語らなければなりません。とにかく祈りつつ、朝を迎えました。