イスラエル・ヨルダン旅行記 5月28日 - ユダの山地(北部)

 この日から、私たちはエルサレム郊外に出ました。まずは近郊のユダの山地です。ユダの山地の南の部分は私が初日に行ったヘブロンの地域です。後日行くベツレヘムもそうですが、この日はエルサレムのすぐ北と西に広がる、元「ベニヤミン」の割り当て地になっていたところです。「アナトテ」「ギブア」「ラマ」「ゲバ」「ミクマス」「ギブオン」そして「キルヤテ・エアリム」があります。聖書では士師時代から王政に入る時期にこれらの町々が数多く登場します。

 そしてこの地域には、テルアビブからエルサレムを結ぶ幹線があり、1948年の独立戦争の熾烈な戦場となった所でもあります。ユダヤ民族にとってエルサレムは絶対的な重要性を持っていますが、アラブ人がこの町の補給線となっているその道路を占拠することにより、町全体を絞め殺すことができました。その道路を巡る攻防戦が戦史の中で有名です。「カステル」「ハル・アダル」「バブ・エル・ワド(Bal El Wad)」そして「ビルマ道」を見ました。

朝のデボーション

 私たちは、6時半に朝食、8時にホテルのロビーでデボーションの時を持って出発という日課を持っていました。デボーションでは5分程度の御言葉の分かち合いの時があります。前日は、カリフォルニアから来た宣教担当牧師のマイクが分かち合いました。創世記12章3節にある「あなたによって、すべての民族が祝福を受ける。」の箇所から、パプア・ニューギニアでの働きを話してくれました。彼は物事をはっきり言う人で、シンガポール・マレーシア系のオーストラリア人の仲間について、「マレーシアはまだ福音が必要なところだ。豊かな国に移民した人たちは祖国に戻りたがらないが、戻るべきだ。」と言っていました。また、「宣教師が現地の言葉を話せないのは非聖書的だと思う。ついでに短期宣教も非聖書的だ。」と、私もアメリカの教会の宣教方法に多少おかしさを感じていたところだったのですが、アメリカ人本人がずばっと言ってくれたので、私は思わず「アーメン」と言って握手してしまいました!事実、彼はパプア・ニューギニアの言葉で福音をどう説明するのか後で教えてくれました。

 そして私は、ヨハネ伝10章から「良き羊飼い」について分かち合いました。私たちは何らかの形で「声」を聞いている。それが誤った羊飼いからのものであれば束縛を受けるが、イエス様からのものであれば自由を得る、ということでした。「イエス様を知らない方へ」のところに掲載しています。久しぶりの英語でのメッセージだったのでちょっと緊張しましたが、なんとか通じたようです。

 でももっと恵みを受けたのは本人だったかもしれません。この日、ユダの山地で羊や山羊を導いている羊飼いに何度か出会いました。それから、私たち旅行仲間そのものがアーノルドの羊のようでした。的を得ない質問をしてみたり、自分勝手な行動を取ったり、足取りが遅かったり、運転もガイドも交渉も全てを行った上で聞き分けのない私たちを導いていたアーノルドは、さぞかし大変だったことでしょう!ちょうど小さな子たちを世話しているお母さんや、幼稚園や小学校の先生みたいなものです。

1.アナトテ
2.ギブア
3.ラマ、アズマベテ、(アナトテ)
4.ゲバ、ミクマス
5.カステル
6.キルヤテ・エアリム
7.ハル・アダル
8.「エルビス・イン」でイスラエル料理
9.バブ・エル・ワド、ビルマ道

10.講義と証し


アナトテ

 エルサレムの町を60番線で北上するとパレスチナ議長府のあるラマラに行きます。私たちはまだイスラエル領になっている、60番線の東を平行に走っている道を行きました。10分もかからない所でワゴン車を脇に停車し、右手に見えるアナトテの町を見ました。

 レビ人は割り当て地を持たず、他の部族の中にあるレビ人の町に住んでいましたが、ベニヤミン族の地にレビ人のアナトテがありました。ここが出身地なのがエレミヤです(エレミヤ1:1)。従兄弟に負債があったので買い戻しのためにエレミヤがエルサレムからここに戻って来ました。バビロンから間もなく来るので、その土地購入には意味がないので、彼は主に尋ねました。主の答えは、「ユダヤ人がこの地に帰ってくることの象徴である」でありました。事実、自身が預言したとおり70年後にユダヤ人は帰還しました(32章参照)。

ギブア

 少し北上すると、今度は「ギブア」が見えます。ギブアと言えば、二つの出来事を思い出さなければいけません。一つは、士師の時代、イスラエル最大の内戦が起こった場所です。士師記19-20章にあります。レビ人がベツレヘムからエフライムの自分の家に、そばめを連れて帰る途中、このギブアの町でソドムさながらの事件が起こりました。男を貪っている男ども(ベニヤミン人です!)が、結局、この祭司のそばめを陵辱して殺してしまった事件です。この恥ずべきことのために全イスラエルが誓いを立てて戦いました。大損害を受けましたが、結局打ち勝って、けれどもベニヤミン人が600人の男に減ってしまいました。それで21章に書いてありますが、一つの部族が無くならないようにヤベシュ・ギルアデの人々を、処女の除き殺し、またシロの祭りに出てきた娘たちを奪い取るようにさせました。

 そしてもう一つがサウルの出身地であり、ここがイスラエル王国の最初の首都になったところです。彼の最初の戦いは、ヤベシュ・ギルアデの人々がアモン人に滅ぼされそうになっているのを救ったのですが(1サムエル11章)、このギブアから出発しています。彼がヤベシュ・ギルアデの人たちを助けたのも、彼らが自分の先祖だからというのは言うまでもありません。それからペリシテ人と対峙したときも、ここを拠点にして戦いました(同13:15、14:2)。

 丘の上に見える、骨格だけの建物は、ヨルダンの故フセイン国王がギブアのテル(丘状遺跡)の上に夏の宮殿を建てようとしたものです。けれども六日戦争が起こり、そこはイスラエルの管轄に入りました。そのため40年以上、あのままです。アーノルドは「サウルのように、ギブアはずっと自分の町にすることはできない所のようです。」と冗談を言っていました。

.ラマ、アズマベテ、(アナトテ)

 おそらく私たちは、ピスガト・ゼエブ(Pisgat Ze'ev)というユダヤ人居住地の公園に上がってきています。
 上の地図をご覧ください。私たちは下にある旧市街(Old City)から北上し、そして、その居住区までやってきたのですが、ピスガト・ゼエブ(青色)に接してに薄いピンク色のところが、アナトテの町でした。現在はパレスチナ人の町になっており、アナタ('Anata)と呼ばれます。だから、右手にアナトテがあり、そして左手奥には「ラマ」がありました。今は、同じくパレスチナ人の町のアル・ラム(Al Ram)になっています。赤い線は分離壁があるところです。そして正面に見えたのが聖書的にはアズマベテで、今はヒズマ(Hizma)と呼ばれるパレスチナ人の町です。ですから、私たちはユダヤ人居住地の公園から、左手にラマ、正面にアズマベテ、そして右手にアナトテの町を眺める景色を楽しむことができました。

 ラマは、何と言っても最後の士師サムエルの家があったところです(1サムエル1:1,19、2:11、7:17、15:34、16:13)。彼はここを拠点にして、ベテル、ギルガル、ミツパを巡回していました(7:16)。そして、ここで民がサムエルが王を要求し(8:4-5)、その王サウルがダビデを殺そうとして、ダビデがラマのサムエルの所に逃げました(19:18)。

 サムエルはラマに葬られました。けれども現在「サムエルの墓」と呼ばれる場所は、今、私たちが立っているところからちょうど西に約4キロのところにあります。後日そこも訪問するのでその時に詳しく話しますが、サムエルの墓に行きたくてもアラブ人の町なので危険だから、そこにある十字軍の遺跡の上に建てたイスラム教寺院のところに移したそうです。でももちろん、サムエルはアル・ラムの町のどこかで葬られています。

 そしてラマは、イスラエルが南北に分裂した後、戦いと対立の境界線にありました。北イスラエルの王バシャが、南ユダの王アサに対抗すべくラマに要塞を築きましたが、アサはシリヤのベン・ハダデに援軍を呼び、そこを取り返して、要塞を壊し、別の町ゲバとミツパの建築材として用いました(1列王15:16-22)。

 つぎにアズマベテです。元々はサウルの子孫によって建てられた町でしたが(1歴代8:36)、バビロン捕囚の帰還民のうち、神殿奉仕を行う人々はエルサレム近郊に住み着きました。ネヘミヤ書7章28節に、神殿の歌うたいの者たちがこの住んでいたことが書かれています。

 そして正面、つまりヒズマの町の前にある分離壁が見えました。上の地図のように、ユダヤ人居住区とパレスチナ人の町が非常に複雑に入り組んでいまます。そして自分たちの立っている居住区ですが、けっこう良さそうな家です。アーノルドによるとエルサレム近郊はものすごく地価が高く、確か一戸建てで一億円近い値段を言っていました!イスラエル、特にエルサレムは物価か高いです。どうやって生きているのだろうと不思議になります。

 

(左側 - ラマの町、中央 - アズマベテの町(手前がピスガト・ゼエブ))

ゲバ、ミクマス

 まず、このGoogleの地図を開いてください。私たちはピスガト・ゼエブを出て、437番で北上し、二つの町ジャバ(Jaba)とミカマス(Mikhamas)の南にある入植地ゲバ・ベニヤミン(Geva Benyamin)の入り口に来ました。ジャバはアラブ語のゲバであり、ミカマスもアラブ語のミクマスです。

 ここでの出来事と言えば、何と言っても対ペリシテ戦です。サムエル記第一にある「ヨナタンと道具持ち」が、ゲバからミクマスの渡りに陣を敷いていたペリシテ人に、果敢に信仰をもって進み出た話です。ですから、左前方に見えるジャバの町から右前方に見えるミカマスの町の方面に進み出たのです。こちらに戦いの進展地図があるのでご覧ください。

 その他ゲバの町については、ダビデがペリシテ人を北はこの町から南はゲゼルに至るまで追い出したこと(2サムエル5:25)、先に見たようにラマの要塞を壊してユダ王アサがこの町を建てたこと、また、ヨシヤの宗教改革によって北はこの町からベエル・シェバまでを偶像礼拝の汚れから清め、ユダの支配下に置いた(2列王23:8)ことなどがあります。アズマベテと同じく、帰還ユダヤ人の歌うたいたちの家となり(ネヘミヤ12:28-29)、非常に興味深いことに千年王国において、この町を北端にしてエルサレムの南リモンまでアラバの低地のようになると預言されています(ゼカリヤ14:10)。


 そして、私たちはさらに60番線でミクマス方面に北上し、橋から見えるミクマスの渡しを北西から見ました。左手にあるのがミカマスの町です。ですからこの渡しの向こうに、右側のほうに「ボツェツ」と呼ばれる切り立った岩が、左側に「セネ」と呼ばれる岩があったはずです。さらなる写真は上の題名のリンク先のBibleplaces.comをご覧ください。

カステル

 私たちは一度エルサレムに戻ってきて、それから、エルサレムとテルアビブを結ぶ幹線道路である1号線に入りました。そして10分もしないところで1号線を降りて、「カステル国定公園(Castel National Park)」に入りました。ここに丘があって、そのてっぺんに上がると右手にはエルサレムの町が見え、近郊の居住地が数多く見えます。手前には1号線が走っています。

 ここから1948-1949年に起こった独立戦争の跡地の旅になります。聖書の遺跡ではないですが「イスラエル建国」は神の約束の中心部分ですから、この戦争について知るのは信仰者にとって非常に有益です。この戦争のことを知りたい方は、「おおエルサレム!」を読まれることをぜひお勧めします。この旅の予習としての必読図書の一つでした。

 イスラエルへの帰還の歴史は、地中海沿岸地域に町を建てることから始まりました。内陸はアラブ人がたくさん住んでいるので、危険だったからです。その代表的な町がテルアビブです。そしてユダヤ人の故郷として「エルサレム」は切っても切り離せない彼らの都であることは、聖書をお読みの方なら誰でも気づくと思います。彼らは過越の祭り毎に、「来年はエルサレムで」という掛け声で終わります。これを70年の世界離散の歴史が始まってからずっと続けてきたわけです。そしてパレスチナ地方の各地に開拓した居留地が飛び散っていました。

 そこでベン・グリオンは、シオニズムへの強い信念のもと、「定着したところから、ユダヤ人は決して離れてはならない。特にエルサレムはどんな犠牲を払ってでも固持しなければならない。」という前提を、IDFの前身であるハガナに対して命じました。このことは、アラブ側もよく承知していました。彼らは、彼らの補給線と生命線になっている幹線道路を占拠すれば、彼らを「絞め殺す」ことができると考えたのです(英語のWikipedia「エルサレム封鎖」)。

 それで独立戦争における戦闘は、幹線道路の拠点になる町々をどちら側が支配できるかの戦いでした。物資供給地であるテルアビブから、エルサレムに至るその道路脇には、小さなアラブ人の村落が点在していました。そこをパレスチナ・アラブ側が攻撃の拠点とすることによって、物資運搬トラックを次々と倒していったのです。その中で有名な町が、「カステル」「バブ・エル・ワド」そして「ラトルン」です。一番エルサレムに近い「カステル」に私たちはいます。

(「おお、エルサレム!」より)
 ハガナはこれを「ナフション作戦」と名づけます。正確には独立戦争勃発の直前、48年4月に行った作戦です。アラブからカステルを奪取しました。そしてアラブ側には、パレスチナ・アラブのカリスマ的戦士である、アブデル・カデルがまだ味方が保持していると思い偵察に来ました。そこであるユダヤ人兵士が、彼がアブデル・カデルとは知らず撃ち殺しました。アラブ側は気が狂ったように攻撃し、カステルを再占拠したものの、アブデル・カデルの死体を見つけるや悲しみにくれて帰って行きました。葬儀をもってみなが泣き崩れました。こうしてユダヤ側がここを保持しつづけることができました。

 ここには数多くの塹壕があります。独立戦争後、カステルより北側はトランス・ヨルダン領になりました。イスラエル国防軍はここに塹壕を掘って彼らの動きを監視し、西エルサレムを守り続けました。そして67年の六日戦争によって、この軍事的脅威はすべて無くなります。

 当時のカステルの丘アラブ人の進軍の写真がウキペディアにありました。リンクをクリックしてください。

キルヤテ・エアリム

 私たちは再び1号線に入って西に向かい、今度は右の道に入り、坂を上がっていきました。道の脇にワゴン車を停めて、南側に見たのが写真の町、アブ・ゴシュ(Abu Ghosh)です。ここはイスラエル領にあるアラブ人キリスト教徒の町ですが、聖書的には「キルヤテ・エアリム」に当たります。

 ここで起こった重要な出来事の始めは、ギブオンの住民たちがヨシュアたちに、自分たちは遠い国から来たのだと欺き、ヨシュアたちが和を講じる盟約を立ててしまった、そのギブオン人たちの町の一つです(ヨシュア9:17)。後にここが、ベニヤミン族とユダ族の境の町(ヨシュア15:9-10、18:14-15)となります。

 そしてもっとも大きな出来事は、ダビデが神の箱をエルサレムに持っていくまでの間、20年間、それが安置されていた町であることです(1サムエル6:21-7:2、2サムエル6:1-12、1歴代13:5-6、2歴代1:4)。イスラエルがペリシテ人と戦うとき持ち込んだ契約の箱が、ペリシテ人に奪い取られて、けれどもペリシテ人の町でその箱があるところに腫物の災いが下りました。それで雌牛が引く台に乗せて到着したところが、イスラエル人の町ベテ・シェメシュです。ところが彼らがなんと箱の中を見ました。それで5万7千人が死にました。そこでその箱を移したのがこのキルヤテ・エアリムです。そして後にダビデがそこから運び出しましたが、主の律法をよく知らなかったため、牛車に乗せてしまいました。そのため箱が転げ落ちそうになったのを手で押さえたウザが死に、オベデ・エドムの町にその箱をしばらく安置させました。彼らの家が祝福されたので、ダビデは今度は、レビ人に横棒によって箱をかつがせて、しかも六歩進むごとに全焼のいけにえをささげて、ダビデの町まで運んで行ったのです。

 この町には、この契約の箱の安置を記念するカトリックの教会が、町のてっぺんにあります。そこが安置されていた地点であるとして建てたのですが、もちろん正確にどこにあったかは知りません。この町の紹介が上の題名のリンク先にもありますし、また英語のウィキペディアにもあります。この町はイスラエル系レストランで有名なところらしいのですが、その一つに後で昼食を取ることになります。

ハル・アダル

 この道路をさらに北に上がっていくと、1949年の休戦ラインを超えたすぐそこに「ハル・アダル(Har Adar)」という入植地に入りました。ここは元々、独立戦争の時にヨルダン軍団の拠点となっていたところで、イスラエルのハレル旅団が奪取しようとしたけれども失敗し、六日戦争でようやく手にした所です。「ハル(山)」という名がついているように、非常に見晴らしのよい所に位置し、しかもとても高い「ハレル旅団記念碑」が立っているので、そこを上っていくと展望台になっています。

 入植地だけあって、周りは分離フェンスがいっぱいあります。興味深いことに、フェンスに沿って小さな道路があり、その道路の脇は平らにならした土道になっています(右写真の中央に見える道路がそれ)。そこを越える者がいるとき、その足跡で誰なのかを突き止めるそうです。(雨があまり降らないという、中東でしかできない捜査方法ですね!)

 そしてここから北東方面に聖書時代のミツパがあります。ミツパというと、ヤコブとラバンが別れたヨルダン川の向こう側の町もありますが、いま話しているのはベニヤミン領にあったもので、先に説明した破廉恥な行為をしたベニヤミン族にイスラエル部族が戦争を行った拠点であったし(士師20:1)、サムエルの巡回地の一つであり(1サムエル7:12)、ペリシテ人と戦った場所(同7:5-12)、サウルが王になったことを宣言した場でありました(同10:17-24)。パレスチナ議長府のあるラマラのそばにあるテル(丘状遺跡)が発掘されているようです。私たちが先ほど見たラマより、少し北にあります。

 そしてここには、六日戦争の時に使われたハレル旅団の戦車とジープがたくさん置かれています。「独立戦争のものではないですね?」とアーノルドに尋ねると、「その通り。独立戦争ではイスラエルもアラブも戦車は持っていなかった。」との返答。旅行仲間がはしゃいで、その上で写真をたくさん取っていました。

.「エルビス・イン」でイスラエル料理

 そして前日からアーノルドが予告していた「イスラエル料理」の昼食にあやかります。お店に来てみたら、なっ・・・なんと、エリビス・プレスリーの完全マニア経営による究極のアメリカン・レストランでした!入り口の銅像だけではなく、中にはエルビスの写真や絵で壁はぎっしりです(お店へのリンクへGO!)。しかも地下にはエルビス博物館もあり。実はルームメイトのライアンは、エルビスの生家からそれほど離れていないところに住んでいます。その彼も「発祥地でさえ、こんなにエルビスを慕っていない。」とのこと。けれども出てきた料理はみなイスラエル風です。一般のイスラエル人が好んで食べる料理だそうです。

 で、実際のメニューですが、日本にあるイスラエル料理店のをご覧ください。ホテルでもそうですが、必ずピタ・パン(袋状になっているナンのようなパン)とフムスと呼ばれるヒヨコ豆のペーストが出ます。そしてオリーブの実の漬物も。この二つが病みつきになり、止められません(店内で食べている時の写真)。それから、「シュニッツェル」と呼ばれるチキンの揚げた物とフライドポテト、さらに「シシリック」と呼ばれる肉の串刺しと、「ケバブ(あるいはカバーブ)」と呼ばれる挽き肉のつくねが出ました(左下の写真、またこちらのリンク先も)。イスラエル料理は、ヨルダンでも見た中東料理が基本なのですが、ヨーロッパや北アフリカからの帰還民も多いため、微妙な混合料理になっていると思います。

 ところでこの料理を探すために、上のリンク先のレストランの存在を初めて知ったのですが、恵比寿に近そうです。恵比寿バイブル・スタディのついでに行ってみようかな、とふと思いました。ちなみに日本で私が行ったことのあるお店は、江古田にあるシャマイムです。

 アーノルドは、旅行中トルコ・コーヒーばかりを飲んでいます。相当好きなようですが尋ねてみると、「アメリカではめったに飲めないから。」とのこと。私も試しに飲んでみようと思いました。ところがちゃんと意思伝達ができなかったようで、普通のコーヒーが出てきました。でもこのコーヒーが、私の好きな濃い目のヨーロッパ風のもので、ものすごくおいしかった!ついでにペンシルバニア州から来た女子大生のブルックさんに、一口飲ませました。エルビスのマグカップはプレゼントということだったのですが、持って帰るのは割れたら恐いので彼女にあげたら、とても喜んでいました。旅行中は、パットさんという、面白いアメリカ人おばさんの日焼け止め用リップ・スティックを借りたりと、家族のように、何も気にしないで分かち合っていました。

バブ・エル・ワド
ビルマ道

 私たちは再び1号線に乗り、さらに西に行きました。そこで左側に空き地のようになっているところに駐車しましたが、そこが「バブ・エル・ワド(ウェド)」です(上にあるエルサレム街道の略図を参照)。これはアラブ語ですが、ヘブル語名は「シャアル・ハガイ」です。ここがラトルン、カステルと並んで、アラブ人が占拠し、エルサレムへの道を分断した地点でした。(左の写真は、1号線に並ぶ、当時使われていた護送車です。)

 この場所が重要なのは、この占拠によって、「ビルマ道」と呼ばれる迂回道を切り開いたことです。当時は森林が濃く茂っていて、アラブ人は何か工事をしていた物音は聞いていたものの、ブルドーザーで道を切り開いていたなど想像さえでなかったのこと。そしてこの道を考案したのが、「ミッキー・マルカス」という米軍の大佐です。連合軍がビルマから中国に補給線として使っていたビルマ道にあやかって、その名称をつけたそうです。

 この道についての物語は「おお、エルサレム!」に詳しく書かれています。「現実は小説なり奇なり」とはその通りで、この道を探し当てたことから、切り開く作業など奇跡の連続です。そしてどうしても車では動けない部分があったようで、そこの傾斜を地ならしするまでの間、数百人の一般市民をうんと言わせず連れてきて、「君がかつぐその背嚢で、エルサレム住民はあと一日、生き延びることができる。」と言って、それで彼らは歩いたのでした。

 マルカス大佐の死がちょっと悲しいです。彼はヘブル語がほとんどだめで、イスラエル兵のヘブル語の合図の言葉を理解することができず、英語で返答したところ、その兵士も英語が分からず撃ってしまったそうです。

 そして場所を移して、ビルマ道がよく見えるところに動きました。下に見えるジグザグの道がそうです。今でこそ整備されて、ちょっとしたハイキングの山道のようになっていますが、当時は文字通りの山道でした。そこを、護送車だけでなく、テルアビブを走っているトラック運転手をかたっぱしから集めて、ここの道を食糧を積めて、ゆっくりと、ゆっくりと前進させたそうです。

 彼らは自分の運搬の仕事も無理やり、理由も告げられないまま中断させられたわけで、会社から解雇されもおかしくない状態でした。けれどもエルサレムの町に到着したとき、彼らを待ち受けている住民たちを見たときに、やっと自分がしていることの意味が分かったそうです。ここはイスラエルが独立戦争を耐え抜いた、文字通りの「生命線」でした!

10.講義と証し

 今日は金曜日で、日没になると安息日です。それでホテルでも夕食は早くなります。それで私たちは早めに帰りました。たぶん3時ごろに到着したと思います。だから、ほかの人たちはプールで泳いだりしていましたが、私は寝ていたと思います。まだ熱ぽかったので、休息が必要でした。

 そして夕食はシャバット風のものでした。その後、講義がありましたが、イスラエルと、マスコミがいわゆる「占領地域」と呼んでいる地域についてアーノルドが説明してくれました。なぜ彼らが占領しているのか?という疑問では本当の姿は見えてきません。

 むしろ「なぜ併合しないのか」と問うべきです。彼らが六日戦争後、併合したのは東エルサレムとゴラン高原です。併合すればそこは完全にイスラエルのものですから、そこにいるアラブ人にも市民権を与えることになります。すると、イスラエルの人口割合が、ユダヤ人よりもアラブ人が多くなります。そしてアラブ人のほうがずっと出産率が高いので、アラブ人が多数派になる可能性も出てきます。イスラエルを建国したのは、「ユダヤ人が主権を持つ国」という目的があります。そしてイスラエル国は民主主義です。少数派が多数派を支配することはできません。したがってアラブ人の人口が多い地域を管理することすれ、併合はしないという理由になっているのです。アーノルドは、「占領は土地に対するものではなく、人口に対するものです。」と言いました。

 アーノルドが明日、メシアニックの集会に参加する人を尋ねましたが、ある人が服装で気をつけなければいけないことがあるか聞きました。そこで一つジョークを彼はかましました。「厳しくジーンズは規制しています。リーバイスでなければいけません!」私たちは大笑いです。リーバイス(Levis)は「レビ」から来ていますから。

 そして今日は、アリエル・ミニストリーズのイスラエル支部の奉仕者のご夫婦で、サーシャさんとリアナさんが証しを分かち合ってくださいました。こちらのアリエルのニュースレターに彼らの証しがあります。2ページ目にありますが、写真がないこと、また彼らの姓が書かれていないことに気づくと思います。なぜだか、分かりますか?イスラエルは民主主義国で宗教の自由は認められていますが、ユダヤ人がクリスチャンになるのを阻止する反宣教団体が政治の中で力を持っているため、その監視が非常に強いのです。ただ自分が信仰を持っているというのでイスラエルに入るのには何の問題もありませんが、ユダヤ人にイエス様を紹介する時は、思慮深く、賢く動かなければいけないのです。

 サーシャさんとリアナさんは、現在のカザフスタン出身です。育っていた当時はソ連邦の一部でした。サーシャさんはロシア人でリアナさんがユダヤ人です。帰還を果たしてから、無神論国家の中にいて霊的に飢え渇いていた二人は、間もなくしてイエス様を自分のメシヤとして受け入れました。二人が導かれた集会(教会)は、ヘブル語だけの礼拝しかありませんでした。けれども一生懸命へブル語習得の努力をして内容が分かるようになり、霊的にも早く成長できました。

 サーシャさんの悩みは、「自分は誰?」というアイデンティティーの苦しみでした。ロシア人という異邦人がイスラエルに来て、ユダヤ社会では受け入れられないクリスチャンになったわけです。リアナさんのご両親に会うときも、夫が異邦人でかつ「イスラエルに来てクリスチャンになりました。」ということをどうやって言えばよいか悩んだそうです。

 リアナさんの悩みは、リアナさんというよりもお二人の課題ですが、息子さんの一人が自閉症になっていることです。それで、教会の奉仕者としてどのような働きができるのか悩みました。自分たちは物理的に動き回ることができません。けれども、神は息子さんを用いてくださって、イスラエル人の若者が自分たちのところにやって来るようになりました。自閉症の子を世話する人が、定期的に自宅に来ました。60人のイスラエル人の若者が訪問してきて、彼らに良き知らせを伝えることができました。

 私はお二人の話を聞いていて、宣教師というものは同じ道を辿るのだな、と再確認しました。宣教師は誰しも、「宣教地に出て行って、現地の人に大胆に福音を伝えて、魂が救われる。」という夢を描きます。短期宣教の人たちは、それを少なくともそれっぽいことができますね?けれども、長期にいる人は、言語、文化の障壁の他に、思いがけない問題や課題が出てきて、物理的にそれが許されない状況の中に置かれます。けれども、自分たちががっかりして、自分が思い描くような形でできていないと葛藤を覚えているとき、不思議に神が一方的に、結果として福音を伝えることができるようにしてくださいます。

 私はつくづく、アメリカ式また韓国式の、英雄主義的な宣教方法は必ずしも聖書的ではないことに気づいています。主ご自身を見れば、公生涯を送られる前に約30年間の準備期間があったのです。そして福音を語られても、それを拒む人々がたくさんいました。その度に他のところに移られました。そして私たちは、使徒パウロの目覚しい働きを注目して、短期宣教の伝道集会などを行うのですが、彼だって救われてからアラビア地方に、また出身の町タルソにいた長い期間がありました。そしてパウロはヨーロッパ宣教に御霊によって導かれたにも関わらず、逃げるようにしてコリントにまで行きました。唯一、定着して福音を伝えられたのはエペソでしょう。

 むしろ現代のものさしで成功したといえるエルサレムの教会(迫害が少なくなり、教勢も安定して成長している)は、律法主義を抱えているユダヤ人がかなりいた、本質的な問題を抱えていたところです(使徒21:20)。ある韓国やアメリカの流行になっている宣教方法に従えば、主ご自身も使徒パウロも失敗者です。イエス様は、人の国ではなく神の国を広げるために、私たちを低くさせます!

 そしてアリエル・ミニストリーズの奉仕者としては、彼らは弟子訓練の"Come and See"を使っているそうです。ヘブル語に翻訳する人を探しています。体系的に聖書と神学を学びたい方には非常にすばらしい学びです。そしてご存知のように、アーノルドが来日するときに話している内容は、この中にあるものばかりです。日本語訳があるので、それを購入されると良いでしょう。