イスラエル・ヨルダン旅行記 5月29日 - 第一回目シャバット(安息日)

1.エルサレム・アセンブリー(Jerusalem Assembly)
2.エルサレム新市街で昼食
3.オリーブ山
4.徒歩でベン・イェフダまで
5.夜のベン・イェフダ


 私がこの旅行で頭を悩ましたのは、シャバット(安息日)をどう過ごすかの予定でした。前回と前々回の旅行では、しっかりと旅程が組まれていて、観光バスで動いていたので何の問題もありませんでした。けれども、アーノルドのこの旅行ではイスラエル人と一緒に休みを取ります。「自由行動です」と言われるのですが、動こうにも公共のバスはすべて運行していません。また公共の建物も多くが閉じています。本当に家でじっとしているような、日本で言うならちょっと昔の正月のような雰囲気になります。

 この日は、エルサレムのカルバリーチャペルに行きたいと思っていました。ところが問い合わせたところ、金曜の晩に礼拝があります。(イスラエルは金曜の日没から土曜の日没までが安息日です。)なので、この計画もおじゃんです。そのことを知ったルームメイトのライアンは、副牧師のマイク、そしてマイクのルームメイトのロンさんと一緒に現地の宣教師をガイドにしてオリーブ山の頂上に行きたいみたいです。私は既に二度、そこに行ったことがあります。それにタクシーを使いたいみたいなので、私が参加したら一台で行けなくなります。ライアンの誘いに私は断りました。

エルサレム・アセンブリー(Jerusalem Assembly)

 他のオーストラリア人のグループは、歴史も比較的長い、メシアニック集会に行くみたいです。話しの流れは、朝に旅行仲間のほとんど全員がそこの礼拝に出席するみたいでした。それで私も参加しました。ホテルから車でだいたい10分ぐらいのところ、場所はよく分かりませんでしたが、集会のウェブサイトにある住所によるとエルサレム南部のようです。多目的ビルのようなところで、階段を使って5階まで上がりました。現地の宣教師の人が教えてくれましたが、「安全」のため、どの集会もこのように普通のビルなどを借りて、看板も取り付けないで行なっているそうです。

 写真撮影は控えるようにとのことでしたが、礼拝前に一枚だけ撮りました。けれども彼らのことを尊重して、ここには掲載しません。ウェブサイトに写真ビデオがありますので、そちらをご覧ください。ウェブサイトとビデオをご覧になったら分かりますが、ここは英語とヘブル語の二ヶ国語による礼拝と集会です。(説教や司会は英語なので、むしろ英語が中心になっています。)そしてヘッドフォンでロシア語の同時通訳を聞いている人たちもいました。ですから、イスラエル人だけでなくエルサレム在住のいろいろな民族や国の人が集まっています。

 私は、宣教の観点から考えますと、「ヘブル語だけの集会が必要なのではないか?」と感じました。イスラエル到着の次の日の日曜日に行ったKing of Kings Communityも英語が中心でしたが。もちろん国際性豊かなのはすばらしいです。けれども現地イスラエルの人たちが、「ここは自分たちの教会だ」と感じるためにはヘブル語だけの集会が必要です。っで、後でガリラヤ湖畔のホテルでお会いした、ノアム&ジョアン・ヘンドレンさんが、まさにそのことをおっしゃっていて、自分たちはヘブル語だけの集会を始めた、とおっしゃっていました。

 礼拝は、比較的静かな現代風の賛美を選んでいて、とても良かったです。(こちらで礼拝賛美のビデオを見ることができます。)スクリーンには、ヘブル語、そしてヘブル語の英語読み、それから英語の歌詞が出ていて、歌も英語とヘブル語を交互に歌っています。メシアニック、というかユダヤ・イスラエル風の歌を聞いたことのない方は、その全ての曲調が短調になっていることに気づかれるでしょう。どんなに楽しく喜んでいても、「抑えられている」という感から抜け出すことができません。なぜなら、まだメシヤを待っている、それで贖いが到来すると信じているからです(もちろん、メシアニックの人たちにとっては再臨のイエス様ですが)。

 そして打ち解けた、祈りの時を持ちました。祈りの課題がある人が誰でも立って、分かち合うことができます。印象的だったのは、小学生ぐらいの子供と、私の隣に座っていた松葉杖を付いていた兄弟です。その子供は、自分がメシアニックの学校に入学することができるように祈ってほしいとのこと。そういう学校があるのですが、人数が限られており入学が難しいそうです。でも自分の「信仰」のことを考えて、そこに入りたいと言っていました。そして隣のおじさんは、アラブ人でした(開いていた聖書もアラブ語でした)。彼はイエス様を伝えるために、パレスチナ自治区にいる家族のところに行ったがそこで殴られ、蹴られて、このように怪我を負ったということでした。もうしばらくは家族のところに行くことはできません。私は、主にあって喜びました。ここにも真の信仰の家族がいると感じました。「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。(詩篇34:19)

 そして説教が始まりました。とつぜん説教壇の下のところで椅子を使ったゲームみたいな実演をスタッフの人が行ないました。ちょっとびっくりしましたが、これを例話にしてエペソ書4章から、「キリストのからだの部分部分が、結び合わされて、一つにならなければいけない。」という主題でした。だから、お客さんでいることはできない、その奉仕の一部を担わなければいけない、という内容です。

 そしてもう一つの別の部屋で礼拝後、お菓子とジュースを食べながらの交わりの時を持ちました。

.エルサレム新市街で昼食

 私たちは全員ワゴン車に乗り、いったんホテルに戻りました。そして、私は「地球の歩き方」を見ながら、「では、『ダビデの塔』に行ってみるか。」と思いました。ヤッフォ門にあるその博物館には、実はまだ一度も行ったことがなかったからです。と、ところが、土曜日は午後2時までとあります。今すぐ行っても30分といることができません。がっかりしましたが、ライアンのグループは、ロンさんが疲れたのでオリーブ山行きを辞退するとのこと。そこですぐにいっしょに行くことに決めました。

 現地の宣教師が、自分の好きな「非コーシャ」のレストランに連れて行くということで、私たちは徒歩で行きました。ほとんどのお店は閉じているのですが、少しだけ開いています。それらは食物規定にこだわらないお店だそうです。旧市街の南西にある私たちのホテルから、「キング・デービッド通り」 → 左に「ケレン・ハ・イェソド」へ → そのまま「キング・ジョージ通り」になり、→ 「ヒレル通り」に右折します。(こちらの地図参照)歩いて20分はかかりました。

 このキング・ジョージ通りも結構観光スポットがあり、例えば「グレート・シナゴーグ」があります。イスラエル最大のユダヤ教会堂です。宣教師は「ヨム・キプール(贖罪日)の礼拝に参加したことがあるが、心が溶けてしまう経験であった。贖いについて話しているのに、血による贖いが出てこない。ましてやメシヤによる血の贖いの話がない。」とのことでした。そうですね、ユダヤ教のラビの聖書のお話には良いところがたくさんあり、「すごい!」と思わせる聖書解説があるのですが、「何かが抜けている、そしてその抜けているものが実は本質的だ!」という、非常なる落胆感と空しさが襲ってきます。建物の構造はきちんと残っているのに、内側だけが崩れ落ちた感触です。ちょうど、イエス様がご覧になられた、「葉は生い茂っているのに肝心の実がなかったいちじくの木」のような感じです。(たとえば神殿再建協会のラビたちのサイトに行けばビデオを見ることができます。贖いの日についてのメッセージ・ビデオはこちらから。)その抜けているものはもちろん、「本体なるイエス・キリスト(コロサイ2:17参照)」です。

 そしてもう少し歩くと、最初のクネセット(国会議事堂)が見えます(右上写真)。

 そしてレストランに到着しました。名前は、「フォカツィア・バー(Focaccia Bar)」です。半屋外テラスもあり、現代風、西洋風のレストランですね。私は、宣教師の人のお気に入りは何かを聞いて、それを食べました。ビザです。そしてマイクとライアンは、すかさずハンバーガーを頼んでいました。アメリカ人はアメリカン・フードに飢えていたようです。

 そして宣教師の人は食べませんでした。断食中だったのです。なぜか?自分を送り出した教会がなぜか、支援をほとんど完全に打ち切ってしまったからです。金銭的な支援だけでなく、祈りなどの霊的、精神的なものもなくなってしまったのこと。でも自分はイスラエルに召されている。だから今、これからの方向性を求めるために祈りと断食に専念しているのだ、とのこと。

 他にもここには書けない詳しいことを聞いて、私は開いた口が塞がりませんでした。私が後でマイクに、元宣教師としてこのようなケースはどうなのかを聞いたところ、「よくあることだ。牧師には、宣教活動には無関心で何も支援しないのに、自分の説教の材料だけには使う人がいる。」と言います(大汗)。みなさん、宣教師を大事にしましょう!特に牧師の人は、自分たちが送り出した宣教師を見捨てないでください。

オリーブ山

 そして私たちはタクシーに乗って、オリーブ山に行きました。旧市街の北側を回って、途中で右に曲がりヘブライ大学のスコパス山キャンパスを横目で見ながら、「7アーチホテル」の近くにあるオリーブ山の展望所に付きました。ライアンが、「ここには必ずらくだがいると聞いたが、本当だ!」と言って笑っていましたが、確かにそうです!そして私は、三度目のこの景色を決して後悔しませんでした。三度目なのに、やはり「ここに来てよかった!」と感動しました。ここに来れば、イエス様がベタニヤからエルサレムに入城されたときの、エルサレムの全景を見ることができ、当時のヘロデ神殿もすぐに想起できます。

 手前に見えるのがユダヤ人墓地、そして下に傾斜しているのがケデロンの谷、それから神殿の丘の南にはヒノムの谷が、そして昨日訪問した南壁もくっきり見えます。何よりもここですばらしいのは、エルサレムの複雑な凹凸の地形を一目で確認できることです。これは地図で見ようとも、写真で見ようとも、決して把握することのできない、その場でしか分からないものがあります。

 そして私たちはゲッセマネの園に行く道を下りました。私たちを除いて歩いている人がほとんどいないので、びっくりしてしまいました。宣教師によると「だいたい午前中にここに来るから。」とのこと。途中で、初期のユダヤ人信者の墓の跡を見てそれからゲッセマネの園(右写真)まで降りました。

 これでマイクたちの目的は達成されました。第一回目のイスラエル旅行なので、オリーブ山は絶対に外せないのはとても理解できます。アーノルドがなぜ連れてこないのか不思議だと何度も言っていました。(でも、後で彼はスコパス山には連れて行ってくれました。)やっぱり、私のようなリピーターの方が、アーノルドの変則的な(?)旅程にはぴったり合うと思います。

 それで、どこに行くか迷っていましたが、結局、徒歩で旧市街の中を通り抜けて、それから新市街に行こうということになりました。ケデロンの谷の底からまた上り坂になり、今度は、一昨日通った「ステパノ門」から入りました。ここは私は何度も来ているものの、安息日の姿は初めてでした。本当に閑散としています。お店は開いていますが、聞いてみると店主は人を雇っても、ムスリムには金曜日に休ませてあげ、キリスト教徒には日曜日、そしてイスラエルの休日は土曜日だから、三日間自分でやりくりしなければいけない時が多い、と宣教師は説明してくれます。

.徒歩でベン・イェフダまで

 そしてヤッファ門に近づいたとき両替商を見つけました。アーノルドが前日の晩に「ヨルダンに行く人は、今のうちに両替しておいたほうがいい。」とのアドバイスを思い出して、ライアンと僕は両替しました。これが後で大変なことになります。私が受け取った1ディナーの硬貨は、ヨルダンでは偽物が出たために一切使えないようになっていたのです!両替商は知らなかったのか、知っていたのか、知っていたのだったらまんまと騙されてしまいました。

 そしてヤッファ門から出て、今度はヤッファ通りを歩きました。そして旧市街の城壁の北西の端から離れてすぐに、書店がありました。The Bible Society in Israelです。今回、メールのやり取りによってお世話になったクリスチャンがいるのですが、彼女はエルサレムで聖書学校に通っていました。お勧めの場所としてこの書店を紹介してくださっていたので、私は飛びつくように「やった、見つけた!」と喜んだのもつかの間、安息日ですから閉まっています。ヤッファ通り沿いの他のお店もほとんど全部閉まっています。そして左側に入る小道があって、なんか開けている感じでマイクが「行ってみないか?」と言ったのですが、宣教師がすぐに「あそこは風俗街だ。」ということを言ってくれて、もちろん行くのを止めました。イスラエルのエルサレムでもこういう所はしっかりあるみたいです。

 そしてようやく、「シオン広場(Zion's Square)」に到着しました。ここは23日に訪れたベン・イェフダ通りの東端で、ヤッファ通りとぶつかるところにあります。リンク先のように、何か催し物をしていることが多いです。やはりベン・イェフダもゴーストタウンのように静まり返っています。(ちょうど安息日に撮影したであろう写真がこちらにありました。)

 ここで何をすればいいか分からなくなった四人は、いろいろだべっていましたが、犬を連れた二人の女性 - けれども丸刈り - が歩いてきたので少し話をしました。彼女たちがいなくなってから、宣教師さんが教えてくれましたが小さな声で「彼女はレズビアン」だとのこと。「ぎょっ!」と私はしましたが、レズビアンだからという以上に、彼女たちの丸刈りの頭です。これで私が連想したのは、強制絶滅収容所のガス室に送り込まれたユダヤ人女性のことでした。ガス室に送り込まれる前に、身に着けている貴金属はもちろんのこと(金歯なども含めて)、髪の毛まで刈り取られて、これら全てをナチスは後に再利用しました。その写真や映画で見たことのある丸刈りの女性にそっくりだったのです。これがたまたま同性愛の中で流行っているものだからなのでしょうが、なぜ、自ら自分を貶めることをするのだろう・・・、という衝撃がありました。ローマ1章26節の言葉を思い出します。「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え・・・

そして宣教師は、もう一度、夜8時以降にここに戻ってきなさいという勧めでした。私も同意でした。ベン・イェフダ通りが初めてなら、これだけ見て帰ったら誤解してしまいます。近くに、その人の好きなアシュケナジ系ファラフェルMoshikoもあるし(私たちが今まで食べたのはスファラディ系だとのこと)、あそこにはアイスクリーム屋さんがあるし、そして独奏する人もいる、と教えていました。マイクが、「なら、路傍伝道をここですればいいじゃん。」と言ったのですが、宣教師も私も大きく手を振って「だめだ、捕まる。」と言いました。けれども在イスラエルの韓国のクリスチャンはかなり熱心に伝道しているそうです。裏では祈りに祈って、それで表に出てくる時は例えばベン・イェフダで、韓国語で賛美を歌ってしまうそうです。韓国語だから意味が誰にも分からない。でも聞かれたら説明する、という風にすれば、捕まえられずに伝道できます。

 それでここで宣教師の人とは行き別れ、三人で徒歩でホテルに戻りました。三人ともくたくたです。夜に戻るかどうか、気力と体力があれば行こうということになりました。

.夜のベン・イェフダ

 ホテルで夕食はでません。でもかなり遅い昼食だったので夕食を取る気はしませんでした。それで少しおなかが空いてきたかな、という感じだったので、マイクもライアンもやっぱりベン・イェフダに行こう、と言いました。今度はタクシーに乗り、シオン広場まで連れて行ってもらいます。様変わりしているベン・イェフダに二人は喜んでいました。マイクはMoshikoでファラフェルを、ライアンと僕はアイスクリームを食べました。そして、あの韓国人のグループが賛美をしているではないですか!思いっきり韓国風丸出しの賛美をしていました、「サランヘヨ、チュッポケヨ(主にあって)愛しています、祝福します)」など、両手を前に広げて出しながら笑顔で歌っています。歌が終わってから彼らに質問してみました、いつも韓国語だけで歌うのか、と。そうしたらヘブル語でもたまに歌うとのこと。知恵を使ってうまくやっているんだな、と感心しました。

 マイクはアシュケナジ系ファラフェルにご満悦です。やっぱり中東風のよりヨーロッパ風の方がアメリカ人には合うのでしょう。僕らもおいしいアイスクリームにありつけましたが、その後、開いているお店を眺めました。私がものすごく気に入ったのは、ユダヤ・ジョーク満載のTシャツを売っているお店です。中にあるものを全部買いたいぐらい笑えてしまいました。コーシャに関するものもありますし、イスラエル兵についてのものもあります。

 私が特に気に入ったのは、確か、"I get stoned at Hebron, Nablus・・・"と、イスラエル兵士がヘブロン、ナルブスなどパレスチナの町々で駐屯している時に住民から石を投げられる、という内容のものです。けれども、オチはその町々の最後にMea Shearim(メア・シェアリム)と書いてあることです。私は腹が痛くなるほど笑いをこらえました。メア・シェアリムは超正統派ユダヤ教徒の居住区であり、歴史的にそこは世俗的なイスラエル国を反対、あるいは嫌ってきたところです。世俗的イスラエル人と宗教的な人たちの間には今、深刻な亀裂が社会的に走っていますが、彼らは徴兵制も免除です。だからイスラエル兵は世俗イスラエルの象徴であり、かつ何かにつけ(律法に関して)いろいろ問題をそこのユダヤ教徒は起こすので、事態の収拾に兵士が動くのですが、そこで危害を加えられる可能性もあるわけです。パレスチナを虐待するイスラエル兵という世界のマスコミとは裏腹に、石を投げつけられても抑制を命じられている彼らの思い、そしてパレスチナ人とイスラエルの間にある淵と同じぐらい、世俗vs宗教の対立もあるのだ、ということを暗に示す政治的なTシャツです。

 そして私たちはホテルに戻りました。明日は死海地域に行きます。