イスラエル・ヨルダン旅行記 5月30日 - 死海地域

1.ユダの荒野
2.クムラン

3.マサダ
4.エン・ゲディ
5.死海遊泳

6.講義

 私たちはエルサレムで、昨日、タクシーでオリーブ山に行く際に通った道を行き、右に曲がってオリーブ山に行くのではなく左の道に入り、トンネルに入りました。すると景色は一変し、荒野の様相を呈します。ここから一気にヨルダン渓谷そして「アラバ」の低地へと下ります。そしてエリコを左手(北側)に見て、右に曲がるとそこが死海です。

ユダの荒野

アドミムの坂

 トンネルを通過してからしばらくして、ワゴン車三台が止まりました。二つの目的があります。一つは正面に見える峠が、かつてのベツレヘムとユダの境になっていた町であるアドミムの上り坂(Ma'ale Adumim)を見るためです。アドミムは「血」という意味がありますが、土の色が赤くなっているからだそうです。ヨシュア記15章7節、18章17節に書いてあります。

 ここに「良いサマリヤ人」の宿があったと伝承的に言われている遺跡があるそうです(サイト1サイト2)。といっても、喩えでイエス様は語られたのですから、実際に存在していたわけではないことは明らかですが。

 そしてここに停車したもう一つの目的は、残り一台のワゴン車が迷子になったからです!道はきわめて単純なので迷うはずがないとアーノルドは言っていましたが・・・30分近く待っていました。私はここから見える風景、そして乾燥した空気を楽しんでいました。ちょうどバスの停留所の近くに私たちがいたので、これからユダの荒野に行くであろう10代の女の子が数人いました。ユダの荒野は確か、イスラエル人が砂漠ハイキングをする場所であったと思います。

ベドウィン、海水面地点、エリコ

 ようやくワゴン車が来て、再出発しました。右側には、どんどんベドウィンの住処が見えてきます。掘っ立て小屋と家畜がその特徴です。ある時は衛星放送の皿まで付いていますから、半定住していることは確かです。

 そして海水面の地点を通り過ぎました。ここから水面下の陸地になります。死海が世界で最も低い陸地です。

 エリコの前に着いた時、アーノルドが説明を始めました。「このユダの荒野の地域は、バプテスマのヨハネが来たことがあるし、イエス様もそうであったし、そしてダビデがサウルから逃げていたときたくさん来ていた。ここから見えるのは現代のエリコである。エリコは三つあるが、旧約時代のエリコ、新約時代のエリコ、そして現代の町である。旧約のは丘状遺跡がある。新約もあまりここからは見えない。旧約のと新約のは二キロ離れているが、そのため福音書の「盲人」の記述に矛盾がないことが分かる。

彼らがエリコを出て行くと、・・・道ばたにすわっていたふたりの盲人が・・・(マタイ20:29-30)』(旧約時代のエリコ)
イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、・・・(ルカ18:35)』(新約時代のエリコ)

 そして北東にはアモン人が住んでいたところがあり、東にはネボ山がある。ヨルダン旅行に行ったら、その頂上に行く。そして死海だが、ここの地域だけは、水面下で水面上で飛行機に乗れるところだ(つまり、水面下なのに空中で飛行機に乗れること)。マサダに行ったら見えるが、死海の南端にあるソドム、ゴモラ、そしてアデマ、ツェボイム方面が見える。ロトはそこを初めに見たとき、ちょうどここエリコ(椰子の木で緑になっている)のようであった(創世記14:2)。けれども神の裁きによって荒廃した。」

クムラン

 私たちが初めに訪れた死海沿岸の地は、「クムラン」です。観光案内所があって、その中に展示物や模型があったと思うのですが、アーノルドはそこには入らずにそのまま遺跡の入り口まで来ました。そして次の説明が始まります。

 「ユダヤ教の主流にサドカイ派とパリサイ派がいたが、パリサイ派の主流はローマ支配に対し消極的な抵抗しかしなかったが、過激な分派の熱心党は積極的に抵抗した。またもう一つの極端の分派にエッセネ派がいた。サドカイ派が神殿の敷地を管轄をしており、祭司はサドカイ派だが、神殿の犠牲がサドカイ派で行なわれている限り神に対する冒涜は終わらないし、義の祭司が到来しなければいけないと信じていた。エッセネ派は共同体をなして住んでいたが、町の中に住む人々がおり、ダマスコに住んでいた者たち、またエルサレムの城門にも「エッセネ門」があった。けれどももっと極端な人々は砂漠に住み、その一つが「クムラン」と呼ばれていた。

 とても厳格な規定を持っており、数度の浸礼、仲間になるためには三年間の弟子プログラムなどがあった。そしてここの遺跡はこのクムラン共同体のものである。貯水したものをいくつかの槽に分けている。体を洗うためにも使われたが、主な使用目的は浸礼の儀式である。

 ここは死海文書が発見された所でもある。主に六つの巻き物が洞窟で見つかった。その経緯は、ベドウィンの子がやぎを捜している時に、洞窟に石を投げたら何かが割れた音がしたことによる。考古学者がやってきて、数千の断片が見つかった。ほとんどが第四洞窟で見つかったが、エステル記を除く旧約聖書の全てが見つかった。

 なぜこれらの巻き物を壷の中に保管していたのか、二つの理論がある。写本筆記者がどこかで写し間違いをして、けれども写本には神の名が記されているので、焼き捨てるわけにはいかず、このように保管していたという説。もう一つの説はローマが紀元68年にこの地域にやって来る時、ここを破壊するだろうと思って隠した、というものである。

 ユダの荒野の方角、山々の中に白い線が降りてきているのが見えるが、それはワジ(涸れ川)の跡である。雨季になると流れる。彼らはこの水を貯めていた。雨が降らないときは、エイン・ファシュカ(Ein Fashka)、聖書的には「エイン・エグライム(エゼキエル47:12)」から湧き出る淡水を使った。泉が死海の中にあり、そこの地点は食塩水程度の塩分になるため魚が棲息できるが、それ以上外に出て行くことができないため戻ってくる。(注:この後、上の地図を指して説明しているようなのですが、よく分かりませんでした。音声をどうぞ。)」

 そして旅行仲間の一人が、「バプテスマのヨハネはエッセネ派であったのか?」と尋ねたところ、「違う」との答えです。ヨハネはヨルダン川の向こう側、死海より北の所までが活動場所だがクムランは死海の北西側に位置し、そしてヨハネの神学とエッセネ派のそれとは異なることを指摘していました。私も、ある日本人牧師からエッセネ派とヨハネ、そしてイエスとのつながりについて聞いたことがありますが、どう見ても福音書にあるヨハネまた主ご自身の活動と教えが、エッセネ派のそれとは合致しませんでしたので、納得できました。こんなサイトも見つけたので、ご参照ください(英語)。

 そしてクムランについてのサイトは良質のものがたくさんありますが、ヘブライ大学によるもの(バーシャル・ツアー、写真、ビデオなど)、そしてUCLAによるCGによる復元サイトは、視覚教材として良いと思います。そこで、エッセネ派の遺跡については、この二つのサイトまたは題名のサイト先Biblewalks.comでお確かめください。

 右上の写真は、「洞窟4」のものです。(他の洞窟についてはBibleplaces.comにあります。)千以上の断片が見つかりました。これを収集するのに人力が必要で、考古学者は遊牧民を雇ったそうです。断片の数に応じてお金を支払いました。けれどもこれが間違いでした。彼らは巻き物を引きちぎって、もっとお金をもらおうとしたのです!それでそれからは寸法にしたがって支払うことにしました。

 そして私たちは再びワゴン車に乗り、死海の西海岸の中腹にあるマサダへ南下しました。

マサダ

 私たちはケーブルで山に上がり、頂上にある模型を見ながらアーノルドの説明を聞きました。「パリサイ派の分派の熱心党は、ローマに対して積極的な反乱を起こした。衣の中に短刀を隠していて、取税人に会おうものなら斬っていた。熱心党の中でも過激なのが、「短刀」の名を持つシカリ派であった。66年に第一次ユダヤ人反乱を起こしてから、彼らはヘロデオン、マカエラス、そしてマサダで篭城したがそれぞれローマ軍の手で陥落した。マサダは初めヘロデ大王によって建てられた。外側からの攻撃よりも内側からの攻撃(ヘロデはイドマヤ人だからと言うことでユダヤ人が彼を殺すかもしれないと思っていた)に備えて砦を作った。紀元前20年にパルティア人が攻めた時、家族をここに置いて彼自身はローマに逃げた。軍を調達してもらい、パルティア人を打ち滅ぼし、家族を引き戻した。

 彼は砲郭のついた二重の壁を作り、その間に部屋を作った。南(北?)端に三階建ての宮殿を建てた。結局こんなに防備を固める必要はなかったのだ。

 ローマにとって、ユダヤ人反乱は外国分子による初めての内乱だったため、見せしめにしなければならなかった。ヘロデオンもマカエラスも捕えることができた。残りはマサダだ。まず山の周囲に包囲壁を立てた。8つの軍の宿営を作った。マサダの砦の中には、当時最も大きな貯水槽があったため水には困らなかった。植物も育てたし、やぎもあったし、飢餓の恐れはなかった。けれどもローマ軍は20キロ先にあるエン・ゲディから水を運んでこなければいけなかった。傾斜台を作り、上まで来た。破城槌で壁を叩き、ようやく裂け目ができた。

 ユダヤ人の首脳エリエゼル・ベン・ヤイル(Elieser Ben Yair)はその夜、すべての男を集めた。女子供含めて千人足らずだった。ローマと戦えば、結局すべてが殺される。女たちは遊女として、子供たちは奴隷として売られるだろう。ローマが命を取る前に、自分たちで命を取ることに決めた。そこで男たちは自分の家に戻り、女子供を殺した。くじ引きで選ばれた十人は、他の男たちを殺した。そしてヤイルは残りの九人を殺し、一人だけ自害した。ユダヤ教の教えで、自殺すれば永遠に失われることになっていたからだ。

 ローマが入ってきた時は、食糧も水も残っており、隠れていた二人の女と五人の子供だけしかいなかった。ヨセフスは彼らから話を聞きだして、以上のことを記録した。そこから、『マサダは二度と陥落しない。』という言い回しを始めた。空挺部隊が基礎訓練を終えると、イスラエルへの忠誠を誓う時にここに来る。」


(Bibleplaces.comから)

 上の模型を見ながら、少しずつ見て行きたいと思います。まず東側の死海方面を眺めました(ここをクリック)。四角の部分が、ローマ軍の野営地です。緑が少しあるのがワジ(涸れ川)で、遊牧民はこういうところを掘り起こして水を求めます。ちょうど族長(アブラハム、イサクなど)は、そのようにして井戸を見つけました。そして写真では見えませんがずっと向こうに死海があります。以前と比べると、水がかなり引いてしまったそうです。

 そして今度はここの写真を開いてください。ローマ式風呂(Bath)の跡です。(ローマがどこに行っても造ったものは二つあり、「道」と「風呂」です。)まだ描かれた壁模様が残っています。そして貯蔵部屋(Storerooms)の跡がありますが、この写真を開いてください。黒い線の下が元々あったもので、上の部分は復元したものです。

 そして北側の宮殿(North Palace)に行きました。ここの模型を見てください。三階ありますね。私たちが立っているのは最上階です。そしてこれから下に行きます(左写真)!99、08年の旅では行きたかったのに行けなかったので、とても嬉しかったです。(この写真は西側から撮ったものです。)

 一階分を降りて行くと二階がありますが、柵があり閉じています。けれども三階から下を撮ることができていました。こちらの写真をクリックしてしてください。

 そして一階です(左下・右下写真)。柱も残っているし、内装の壁装飾の跡もあります。
 

 そして私たちは階段を上って、元の位置に来ました。仲間のうち数多くの人がいっしょに降りて来ず、日陰で待っていました。・・・ちょっと私には理解できませんでした!そして西側に周り、傾斜台を見ました。

(模型)
 


(真上からのもの)

 そしてエゼキエル37章の巻き物があったユダヤ教会堂も見て、そしてビザンチンの教会も見ました(下の写真)。これは5-6世紀に建てられたものだと言われています。これがマサダが陥落した後に、唯一ここに住んだ形跡のある所です。
 

 他にもいろいろ見ましたが08年の分と重なっていますので、そちらをご覧ください。

エン・ゲディ

 そして私たちは北上して、エン・ゲディに来ました。アーノルドは、ここでは歴史的、聖書的説明はほとんどせず、他のイスラエル人と同じように一番奥にある滝に向かって行きました。

 エン・ゲディはもちろん、ダビデがサウルから逃げていた要害です(1サムエル24)。砂漠の中のオアシスであり、そして洞窟がたくさんあるので、サウル軍は彼らを捜すのに苦労したであろうし、かつちょうどダビデたちの洞窟に入ってきたのはまさに「奇跡」としかいいようがありません。けれどもダビデの部下と彼自身とでは、この出来事に対する解釈が異なりました。部下たちは、今こそサウルを殺す神の時であると解釈したのに対し、ダビデは衣のすそを少し切っただけで心を痛め、自分が王に害を与えるつもりはないことの証言の機会と解釈したのです。よろしければ、この箇所についてのメッセージがあるのでお聞きください(1サムエル記24章)。

 そしてエン・ゲディは、自然や動物に恵まれた場所ですが、雅歌に「私の愛する方は、私にとっては、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。(1:14)」とあります。そして詩篇42篇の「鹿が谷川の流れを慕い求める」という言葉はダビデがエン・ゲディにいた時に書いたものではないかと言われています。「エン・ゲディ」の意味は「子やぎの泉」で、アイベックス(ibex)と呼ばれる山羊がたくさん棲息しています。(見た目は山羊というよりも鹿です。)

 08年の旅では上流に向かう時間をほとんどくれなかったので、とても嬉しかったです。とにかくアーノルドは、どの人よりも早足であるくタフな人でした。次の予定のことを考えながら歩いていたのでしょうが、物事に集中する性格の持ち主であり、かつ体力のある人であることを知りました。

 右上の写真をクリックすると動画が始まります。(動画ですが、初め間違って縦向きにしてしまいました。)集合写真ということで、60歳未満と以上のグループに分けて撮影しました。こちらはこちらは60歳以上の人たちです。イスラエルでは、歳を召された方もたくさん旅行に来られています!

 私たちは戻り、途中でアーノルドが「アカシヤの木」について説明しました。左の写真は、私たちのいるエン・ゲディを見下ろすユダの荒野にある見晴台です。そこに生えているのがアカシヤの木ですが、幕屋に用いられたものですね。ネゲブ砂漠に行けば至るところに生えているものです。

 ワゴン車に載って、外に出るときにアイベックスに出会うことができました!

死海遊泳

 そして私たちは死海に行きました。アーノルドが死海遊泳の仕方を少し教えましたが、コツは「浮く」ことです。歩いていき、そしてそのまま足を浮かすことです。カメラを持ってきて塩水でだめになるのを恐れて、ここでの写真は撮りませんでした。

 私はやはり、死海が好きです。自然が作り出したこの不思議に体験できる嬉しさと、そしてここが聖書の歴史を通じて重要な場所であったことが交差している所だからです。ロトがさらわれた時の戦争の舞台から始まり(創世14:1-12)、もちろんイスラエルの割り当て地の境になり、ヨルダン川と並んでエドム・モアブ・アモン人の侵入を不可能にする自然要害でありました。そして過去だけでなく未来も、ここが魚の棲息するところとなるという預言がエゼキエル書にあります(47:6-12)。

 死海というと一つの海のように地図では載っていますが、実際は二つに分かれています。真ん中の部分が特に乾季は干上がって陸続きになります。おそらくこの部分を通って、ユダの王ヨシャパテに対してモアブ、アモン、エドム軍が戦いに行ったものと考えられますし(2歴代20章)、またダビデが両親をモアブに非難させた時(1サムエル22:4)も、この乾いたところを通ったのではないかと考えられます。

 そして誰もが危惧しているのは死海の水位がここ数十年で激減していることです。こちらをクリックしてください。1960年から2007年までの死海の変化を示しています。そして下のニュース番組は、死海の自然のすばらしい映像を見せていると同時に、環境破壊が進んでいることを報道しているものです。ここに観光に来ている者であっても、すぐに水位が減っているのに気づきます。


 原因はひとえに「水不足」です。ヨルダン川の水を大量に使用しているからです。イスラエルだけでなく、ヨルダンとシリアも使っています。

 遊泳が終わって、すぐにシャワーを浴びて、荷物が置いてあるところに行きました。シンガポール系オーストラリア人の仲間から、名称を忘れましたが「即席の更衣室」を貸してもらいました。ただ布を丸く縫ってあるだけのものです。でもその先を口でつかんで水着を脱いで服を着る、というものです。なんか変な意味で「アジア」を味わいました。

 ライアンは水着のままワゴン車に入ってきました。アメリカ人はよくすることですが、私が心配したのは水着に残っているミネラル(鉱物)です。死海の岸辺も、水がひいているのに濡れている状態がずっと残っているのは、ミネラルのせいなのを知っていたからです。案の定、後日、彼の座った跡は消えてなくなりませんでした。日本人の人は几帳面だからたぶんしないとは思いますが、一応、気をつけてください。

 そしてアーノルドはなぜか、すぐにエルサレムに帰りませんでした。なんと死海にあるアハバ(AHAVA)専門店に連れて行きました。(彼によるとアハバに行きたいと言った人がいるようです。)私はアーノルドに、「ベン・イェフダの専門店の方が安いよ。割引してあるから。」と伝えました。まあ、品揃えはこちらのほうが良いかもしれません。

 そしてエルサレムに帰りました。トンネルを越えるとそこは雪国・・・ではなく、すばらしい黄金に輝くエルサレムです!オリーブ山の頂上だけでなく、私はこの風景も好きです。車で移動しているので、その地形の姿も動き、さらに立体的にエルサレムを鳥瞰できます。

.講義

 そしていつものように講義ですが、アーノルドはこの貴重な時間をまず、イスラエル紙の切れ端から始めました。ちょうど、シー・シェパードか何かで調査捕鯨船が攻撃を受けた後で、それからオーストラリアと日本が国際司法裁判所で戦うかどうかの話の記事でした。「20人のオーストラリア人がいて、1人の日本人がこの旅行の仲間にはいますが、もう一人いたら戦争になるでしょう。」と言って、この記事を読み始めました。それで結局オチは、「これはもう一つの『嘆きの壁』版ですね。」です。鯨(whale)と嘆き(wail)を掛けたものです!彼は朝からこの新聞記事を切り抜いて、このジョークに備えていたのです!ジョークのためなら惜しみなく時間を費やします。(音声

 そして明日はシェフェラです。ユダ山地と地中海沿岸の間にある低地です。その前に、「西壁トンネル」の予約が午前7時だそうです。