イスラエル・ヨルダン旅行記 6月2日 - ガリラヤ湖
1.ヒッポス(スシータ)とエイン・ゲブ
2.ゲルゲサ(クルシ)
3.ベツサイダ
4.カペナウム
5.コラジン
6.昼食(聖ペテロの魚)と湖上遊覧
7.行き損なったアルベル
8.ヨルダン川流出口
マアガン(Ma'agan)はガリラヤ湖の南端にあるキブツです。このホテルは二階建てになっていて、すべての部屋からガリラヤ湖を眺めることができます。プールだけでなくガリラヤ湖遊泳もできる施設があります。昨日の夕食、そして今日の朝食は、味がいまいちでした。でも、十分ゆっくりできる雰囲気があり、イスラエル旅行の宿泊先としては格段に優れたホテルだと思います。
そしてこのホテルはキブツ経営です。食事を出していた若者はキブツの住民なのでしょう。後日、このキブツを訪問させていただきます。そして東隣にはイスラエルで最初のキブツである「キブツ・デガニヤ」があり、その東隣には浸礼(バプテスマ)をヨルダン川で受ける「ヤルデニット」があります。
私たちは、時計と反対廻りに車を走らせました。そしていつもの通り(?)、道路脇に停車させてアーノルドが説明し始めました。
1.ヒッポス(スシータ)とエイン・ゲブ
ガリラヤ湖の南東にあるティベリヤから南、そして東側は異邦人の地域でした。聖書の記述で有名なのは、豚を飼っていた「湖の向こう岸、ゲラサ人の地(マルコ5:1)」で、その出来事が起こった町「クルシ」の少し南に「ヒッポス(Hippos)」という丘陵があります。これはギリシヤ語名で「雌馬」という意味です。ヘブル語では「スシータ(susita)」です。ここはギリシヤ時代に始まりローマ時代に栄えた、「デカポリス」の十の町の一つです。この十の町は半独立を保っていて、相互防衛を行っていました。昨日、私たちは「ベテ・シャン」を観ました。そこは唯一、ヨルダン川より西側にあるデカポリスの町です。丘陵の上には、倒れた柱廊、水道橋など、典型的なローマの遺跡が残っています。
この異邦人は、ベテ・シャンと同じくビザンチン朝時代にキリスト教を受容しました。そしてティベリヤに住むユダヤ人に嫌がらせをしていたそうです。(本当に回心していたかはかなり疑わしいですが。)そして再びベテ・シャンと同じく大地震によって破壊され、再建はされませんでした。
この丘陵の真下に、イスラエルで最初の漁業のキブツである「エイン・ゲブ(Ein Gev)」があります。(この上空からの写真には、エイン・ゲブとヒッポスの写真があります。))99年と08年の旅行では、ここで「聖ペテロ魚」を食べました。今でも、年に350トンの漁獲量を誇ります。1948年の独立戦争の時、この丘状遺跡ヒッポスからシリア軍がエイン・ゲブを猛攻撃しました。エイン・ゲブには、このキブツのために妊娠を隠しながら戦い、戦死した女性の像があるそうです。けれどもキブツ住民は後方からヒッポスを奪取し、49年から、ゴラン高原をイスラエルが奪取する六日戦争まで、そこがシリアとの軍事境界線となりました。
ガリラヤ湖見晴台
そして次に、少し北に上がった所にガリラヤ湖全体を眺める見晴台に止まりました。ガリラヤ湖畔の異邦人地域は、正確にはティベリヤから始まり、そして次のゲラサ(クルシ)までに至ります。ゲラサの北のベツサイダから北廻りでマグダラまでがユダヤ人地域でした。
そしてガリラヤ湖には、二つの平原があります。北東側に「ベツサイダ平野」そして北西側に「ゲネサレ平野」です。イエス様がペテロを「人をとる漁師にしよう」と言われた辺りです。そして南東に見える都市が「ティベリヤ」であり、以前は平地の町でしたが拡張して山の中腹にまで広がっています。それから北西の山に「サフェド」という町があります。その時、私たちは霞があって見えなかったのですが、夜になればネオンで光っているそうです。ユダヤ教で歴史の長い町と聞いています。そして北東と北西のそれぞれに崖があります。そこから同時に風が湖に吹き降りると、湖が荒れることになります。
そして、ここは六日戦争前までは、ここはシリア領になっていました。エイン・ゲブのキブツは境界線を固守したわけですが、ここは違います。その為にシリア軍は数十万の地雷をここら辺に埋設しました。六日戦争の数ヶ月後、アーノルドがここに来ると、イスラエル軍戦車が踏みつけて爆破させていたそうですが、それでも地雷をすべて片づけられているわけではないので、黄色の「地雷のため立ち入り禁止」の標識が見えます。それで踏みつけてしまう事件が起こってしまうのですが、家畜の群れが被害に遭うこともあります。「それで瞬時にステーキが出来上がり。でもかなり生焼けかも。」とアーノルドは冗談を言っていました。
右上の写真は、ベツサイダ平野を遠くに見ているものです。手前が立入禁止の地雷地帯です。
2.ゲルゲサ(クルシ)
私たちはさらに北上して、「クルシ国定公園」に到着しました。ビザンチン時代の教会の遺跡があります。これはもちろん、イエス様が男から悪霊を追い出し、豚の中に入るのを許された所として記念するために建てられたものです。
この町の名前として「ガダラ」と「ゲラサ」そして「ゲルゲサ」の三つが出てきます。けれども、マタイ9章28節にある「ガダラ」は町の名前でもあるし、その地域の名前でもあります。そして「ゲルゲサ(ルカ8:22 新改訳引照)」は町の名前です。ガダラまたゲラサ町はヨルダン領の中にあり、後日その遺跡を見ます。
悪霊どもは人から追い出されると「底知れぬ所」に投げ入れられますが、この悪霊どもはそこに行けと命じないように懇願しました(ルカ8:31)。イエス様は、豚の群れに入ることをお許しになりました。なぜ豚に入ることを許されたのかは分かりません。ある人は、「モーセの律法で食べるのを禁じられた動物だからだ。」と言いますが、ここは異邦人の領域なので、モーセの律法は適用されません。「私は、異邦人が『悪魔にされたハム(Develed Ham)』を作る聖書的根拠ではないかと思います。」とアーノルドはまた冗談をかましていました!(音声)
そして私たちはこの教会の跡を観ましたが、これまでの白い石灰岩による建物ではなく玄武岩の黒色をしています。これはガリラヤ湖周辺、ゴラン高原に共通した特徴です。
そして私たちは中に入って、当時、使われていたオリーブ圧搾機を見ました。オリーブの圧搾には二段階があるようで、実をつぶすのが一段階、そしてつぶされたペーストを圧搾するのが二段階目です。オリーブ油の製法のサイトにこんな説明がありました。「石臼でオリーブの果実を砕き、オリーブのペーストを作り、ペーストはオイルを取り出しやすいようによく練り、マットに何層にも重ね広げてから圧搾機にかけられます。圧搾機で徐々に圧力をかけることで、マットの隙間からオリーブのジュースがあふれ出てきます。」
上の左写真が第一段階、右が第二段階の石です。こちらのBiblewalks.comにこのオリーブ圧搾機の全体の写真、またこちらには、クルシのを含む当時の様々な圧搾機の写真と説明が掲載されています。
そして左上の写真の石の類は、いわゆる主が言及された「ひき臼」です。「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。(マルコ9:42)」主が言われた「海」はガリラヤ湖のことでしょう。だから、このゲラサにある石臼は主が語られたものを鮮明に想像することができます。
そして下のモザイクがあります。果物などの模様は残っているのですが、人間と動物の全体、あるいは頭部が削り取られています。教会が放置された八世紀の時、ムスリムがこれを行ったのであろうと考えられています。彼らは「像(イメージ)」になるものは激しく忌み嫌ったからです。
さらにこの教会の遺跡には洗礼槽があります。
ビザンチン時代の教会はその多くがギリシヤ正教でした。ですから聖書もギリシヤ語であり、その影響か正確に(?)洗礼の意味を知っていたようです。それは洗礼ではなく“浸”礼です。彼らもカトリックと同じように幼児へのバプテスマを信じていましたが、それでも上の写真のように幼児の体全体を浸すための浸礼槽で行っていました。彼らはギリシヤ語の意味を知っていたからです。カトリックはラテン語のウルガタ聖書を使っていたためその意味から逸脱した、ということです。プロテスタントの多くの教会も浸礼ではなく洗礼(滴礼など)を行っています。
3.ベツサイダ
私たちは車をさらに北上させて、北東部分にあるベツサイダに来ました。上の題名のリンク先の写真にあるように、ここは平野になっています。西側は、ヨルダン川がガリラヤ湖に入る口になっています。99年にも08年にも行くことのできなかった、「エト・テル(et-Tell,
e-Tell)」に連れて行ってくれました。ここは非常に最近の発掘地であり、私たちが訪ねた時も、ネブラスカ大学の発掘団が掘り起こしている最中でした。
ベツサイダは、もちろん福音書に記録されている主のガリラヤ宣教の中心地の一つです。けれども発掘団やイスラエル古代遺跡管理局の説明によると、紀元前十世紀の居住地が主に発掘されているそうです(参照:イスラエル外務省のサイト)。そこはアラム(シリヤ)人ゲシュル国の一部であり、ダビデの妻の一人マアカがゲシュルの王タルマイの娘でした(2サムエル3:4)。彼女からアブシャロムとタマルが産まれました。そのためアブシャロムがアムノンを殺した後に、彼は母親の故郷に逃げています(同13:37)。
そして新約時代に入ると、ヘロデ大王の息子ヘロデ・ピリポが紀元30年にここをローマ皇帝アウグストゥスの妻の名にちなんで「ユリアス(Julias)」と名づけました。そしてピリポ自身がここで葬られたとされています。
そして福音書の記述を思い出しましょう。ここはピリポとアンデレとペテロの出身地でした(ヨハネ1:44、12:21)。そして主が、ゴラン高原の北、ヘルモン山のふもとにある「ピリポ・カイザリヤ」に行かれる前に、この村から連れてこられた盲人を癒されました(マルコ8:22-26)。これは、先ほど訪ねた「デカポリス地方あたりのガリラヤ湖(マルコ8:31)」において四千人の男に給食を与えられた奇蹟(同8:1-10)の後の出来事ですが、五千人の男にパンと魚を与えられた奇蹟は、ここベツサイダで行われました(マルコ6:45)。その前にイエス様は独りになられてこの町で祈られています(ルカ9:10)。ですから、ここは目覚しい奇蹟が行われた所でしたが、全体的に悔い改める者たちが起こされず、イエスは、他のゴラジン、カペナウムの町と共にベツサイダを呪われました。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。(マタイ11:21)」
私が福音書のガリラヤ宣教を追っている時、ベツサイダについて調べていたら「二つのベツサイダ」の議論が解説書の中にいつも出ていました。Bibleplaces.comにも、また英語のウィキペディアにも書いてありますが、アーノルドに尋ねたところ「もう一つの可能性のあるベツサイダでは遺跡は発掘されていないからね。ここ一つだけだよ。」という答えでした。ここではないという人たちは、この遺跡が二キロも岸から離れていることから違うと言います。けれども反論は地震による地殻変動、また沈積によって変化したのだ、というものです。(こちらのネブラスカ大学のサイトも参照。)でも、カペナウムの町の遺跡は岸辺にあるので、そこは変化せず、ここの所だけが当時もっと奥にあったということになります。
ここで見られる遺跡で有名なのは、「漁師の家」です(下写真)。その名は、漁の器具がたくさん見つかったためにそう付けられました。左側の写真にはマルコ1章16-17節が記されています。イエス様がペテロとアンデレを「人をとる漁師にしてあげよう。」と言われたところです。
また、もう一つは「ぶどう酒造りの家」です。ここにぶどう酒の貯蔵所、瓶、枝の刈り込みの為の鉤が見つかっています(下写真)。
そして発掘団の姿を見ることができました。道具を使わないで手で石を除けていました。
そしてその発掘地点のそばに、ガリラヤ湖の見晴台があります。岸からかなり離れているのがお分かりになると思います。そして、霞がかかっていて見難いですが、向こう岸はティベリヤの町です。
ベツサイダ遺跡の写真と地図が題名にもリンクしたBiblewalks.comにたくさん掲載されています。
ヨルダン川のガリラヤ湖流入口
まず、このGoogleの地図を開いてください。印のあるのがベツサイダですが、すぐ西側に縦に2本の点線が走っているのを見てください。右側がDMZ(非武装地帯)の線であり、左側が1949年の、シリアとの独立戦争の休戦ラインです。私たちはそこまで行きました。この間にはシリア軍の掩蔽(えんぺい)壕の跡があるそうです。アーノルドは、ここにかかっているアリック(Arik)橋からのヨルダン川が写真うつりが良いということで連れてきたのですが、あいにく軍事上の理由で立入禁止になっていました。
けれども、この石が積みあがっている所の上に這い上がって、ヨルダン川を撮りました。けれども、この旅行記では、もうちょっと先にいって、ヨルダン川を越える橋の所で撮ったもののほうがきれいなので掲載します。下の写真は上流方向です。背景にはゴラン高原が見えます。
そして下の写真が下流方向です。これからガリラヤ湖に流入します。「こんな小川だったのか?」と驚く人もいると思いますが、08年8月に来た時よりも水位が高かったというのが私の感想です。
4.カペナウム
そして私たちはカペナウムに来ました。ここはもちろん、イエス様が宣教活動を行われた本拠地(マタイ4:12-13、9:1、ルカ4:23)であります。カナの婚礼の後にすぐにここに来られています(ヨハネ2:12)。
紀元前二世紀に始まった町で、ヘロデ・アンティパスはここに百人隊長によるローマ兵の駐屯地を作りました。ユダヤ人の会堂を建てた百人隊長(ルカ7:1-10)の話がそれです。そしてペテロとアンデレの家がここにあり(マルコ1:29)、イエス様はペテロの姑を癒されました(マルコ1:30-31)。また、会堂で教えられていた時、悪霊を追い出され(マタイ8:14-15)、中風の人を癒されました(同9:1-8、マルコ2:1-12)。続けてマタイという取税人を弟子に呼ばれたのもここです(マタイ9:9)。イエス様が再びカナに行かれた時に、息子を直して欲しいとお願いしに来た王室の役人もカペナウムからの人です(ヨハネ4:46)。五千人の給食を与えられた後、いのちのパンについての説教を行われたのもカペナウムです(ヨハネ6:16-59)。あの「ペテロの魚」の話、彼が釣った魚が、宮の納入金に必要な硬貨を口に含んでいたのもここでした(マタイ17:24-27)。
けれども、これだけたくさんの奇蹟をイエス様は行われたのに、多くが不信仰であったためイエス様はこの町を呪われました。「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。(マタイ11:23-24)」ベツサイダ、カペナウム、そして次に訪問するコラジンの三つは、確かに今に至るまで居住区になっていません。
ここの遺跡は、主にビザンチン朝の時の教会、一世紀のユダヤ教会堂の上に建てられた三世紀の会堂、そしてその他のビザンチン時代の住居の跡です。まず私たちが見たのは、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)の一部にあった「ダビデの星」と、また契約の箱の彫刻です。
ダビデの星は、中世に至るまでユダヤ人の象徴ではありませんでした。その前はミノラ(燭台)が象徴でした。そして契約の箱には、なぜか車輪がついています。ダビデが初めてエルサレムに契約の箱を運ぼうとしたとき、牛車に載せた時のものなのでしょうか??
そして中に入ると、右側には「ペテロの家」だと伝えられている跡と教会があり、そして左側に、下の写真で見るような玄武岩の石の遺跡が広がっています。ずっと向こうにピンク色の屋根をした教会がありますが、それはギリシヤ正教のカペナウム教会(七使徒聖堂)です。この一帯は、カペナウムの住居地また市場があったとされ、手前の私たちがいるところは会堂もあるので町の中心街であったと考えられます。
そして次に、左隣にある会堂を見ました。現在見る、石灰岩の石によって作られたものは四世紀のものと考えられていますが、その土台の玄武岩の石の基盤は、イエス様が教えられた一世紀の会堂であると考えられています。
カペナウムを説明するサイトはたくさんあります。英語の分かる方は、ここを所有・管理している、カトリックのフランシスコ会が運営しているものです。そして、鮮明な写真をたくさん掲載しているBiblewalks.com、短くきれいに写真がまとめられているBibleplaces.com、そして詳しい説明が載っているNear East Tourist Agencyのサイトを紹介します。
「テル・モティラ」から見るベツサイダ平野
そして私たちは、ガリラヤ湖を廻る87号線を東側に戻って、左に曲がり、アルマゴル(Almagor)というモシャブに行きました。明らかに他人の所有地である砂利道をどんどん進んでいきますと、「テル・モティラ(Tel Molita)記念碑」があります。ここは49年の休戦ラインになった所(Google地図)ですが、51年にシリア軍が非武装地帯を越えてきたところイスラエル軍が激しい反撃を行った「テル・モティラの戦い」の場所です。イスラエル軍の掩蔽壕も残っています(下写真)。
けれども、この記念碑を見に来たというよりも、アーノルドは反対側からベツサイダ平野を見せるために連れてきました。
二本の川がガリラヤ湖に流入しています。最後の最後のところで川が二つに分かれているためです。そして南端の所で再びヨルダン川が始まり、そして死海へと流れ着きます。そして背景にはゴラン高原です。そして上の写真では見えませんが、先ほど訪れたアリック橋も見えます。(Googleの航空写真で説明しますと、印が付いているところが現在位置で、中央下に二つの川がガリラヤ湖に流れているのがヨルダン川です。そして87号線がDMZのところで寄り道ができて、その寄り道とDMZが交差しているところがアリック橋です。)ちなみに「アリック」はアーノルドのロシア語名だそうです。
5.コラジン
そして8277号線を西に走りますと、コラジンの町の跡が残っています。イエス様が呪われた三つの町の一つです(マタイ11:21-22)。コラジンについて、イエス様は多くのしるしを行われたとおっしゃっているのですが、実際の奇蹟はベツサイダやカペナウムと違って何一つ記録されていません。けれどもヨハネが福音書の最後に、「もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることはできない、と私は思う。(21:25)」と書いたように、記録されていないしるしを数多く行なわれたことは確かです。
ここでの見物は、当時のユダヤ教会堂が、カペナウムのように土台だけでなく全てが残っていることです。また市場や住居の跡もあり、そして「モーセの座(マタイ23:2)」があることで有名です。
パン焼き場
市場の様子
モーセの座
「モーセの座」は、モーセの律法を実際の訴訟において適用させ、判決を下す時に座した所だそうです。イスラエルのシナゴーグの遺跡で、モーセの座が見つかったのはここだけだそうで貴重な石椅子なのですが、上のアーノルドのように観光客は平気で座って、喜んでいます。
シナゴーグ
当時の家の様子
石を積み重ねてアーチ型にしているのに、このように千数百年たっても崩れないのはすごいです。そして屋根も石で作っていたそうです。
二つの「山上の垂訓」の山
そして私たちは、90号線を下りて湖畔の周囲を走る87号線に入る所まで来ました。そこで停車して、アーノルドが二つの「八福の山」について説明しました。「八福(Beatitudes)」とは、山上の垂訓を主が始められた八つの「幸い」についての教えのことです。真横、東側にカトリックが伝承として持っている場所があり、そこに教会があります。99年も08年も私はそこに行って、下り坂になっているきれいなガリラヤ湖の景色を楽しみ、イエス様が説教されたことに思いをはせたものでした。けれどもアーノルドは、「具体的にどの地点かは分かりません。」と言います。そして南西方法に、はるか遠くに見える角ばったところが「ハティンの角」(聖書地名は「マドン」)と呼ばれるところで、プロテスタントが「八福の山」だとして記念しているところだ、と言います。こんなこと初めて聞いたので驚きましたが、調べると確かにそのようです。けれども実際は、私のように、ほとんどのプロテスタントの旅行客は、カトリックの定める場所を訪れます。
そしてハティンの角を眺めている方向に、「ゲネサレの平野」が広がっています(上の写真、Holy Land Photosより)。上の写真の向こうに見える山がハティンの角です。旧約聖書ではガリラヤ湖が「キレネテ湖」と呼ばれていましたが(民数34:11)、その名前を持つ町からゲネサレ平野が始まり、ミグダル(マグダラ)の町まで広がっています。この道路から動画を撮りましたので、こちらをクリックしてください。ちなみに「マグダラのマリヤ」は、マグダラという町出身のマリヤということで、ヘブル語で言うなら「ミグダルのミリアム」となります。
6.昼食(聖ペテロの魚)と湖上遊覧
そして私たちはティベリヤに向かいました。そこで聖ペテロの魚を食べました。私は開いて焼いてもらったので、他の仲間の皿の上の魚も写真に撮りました。
そして船に乗りましたが、国旗掲揚も、湖上での説明があるわけでもなく、湖上周遊でだいたい40分ぐらい過ごしました。アーノルドが居眠りをしてしまいました。本当にたくさん働いてくださっているので、お疲れ様です!
この右の写真をクリックしてください。船上で撮った動画が始まりますが、そこにマイケルとライアンと、そしてパットが出てきます。旅で仲良くなった人たちのうちの三人です。彼らが今度の安息日の計画を話しています。私も誘いたいようです。聞いてみると、「ピリポ・カイザリヤ」に行きたいとのこと!私は思わず、「やった!」と喜びました。
実はアーノルドの研修旅行は以前は五週間のプログラムでした。聞くところによると奥様のお体が心配で旅程を縮めたそうです。その時は、もっとねちねちと(?)しらみつぶすように、各地を見て廻ったようですが、今回の三週間プログラムの中には、なんと「上ガリラヤ」がありません!ゴラン高原も、フラの渓谷も、ハツォルの遺跡も全てすっとばされているのです。私は、ガリラヤにいる時の安息日に、その地域にワゴン車に乗る仲間がいないかと期待を寄せていました。
私はすかさず「行こう!ピリポ・カイザリヤだけでなく、テル・ダンにもぜひ行きましょう。」と言いました。テル・ダンは、私がずっと行きたいと思っていて、08年の旅にも行っていなかった所だったからです。マイケルとライアンは、経験者のパットと私を案内人にしたかったようで、これで安息日の計画が立ちました。
7.行き損なったアルベル
そしてアーノルドは、私たちをガリラヤ湖東にそびえ立つアルベル(Arbel))山に連れて行こうとしました。(聖書にはホセア書13章14節に登場します。)ティベリヤの町を一気に丘を上がって上昇し、そしててっぺんにまで来て、住居の中を通り、到着したのですが、なんと入口の人が入場を禁止しました。確か、5時半が閉まる時間なのですが、5時に到着したにも関わらず、「30分で見る時間はない」とのことで断ったそうです。イスラエルではこういうことが良く起こるそうです。
題名にあるBiblewalks.comの写真を見るとゲネサレ平野の絶景が見られるようです。またシナゴーグの遺跡もあるみたいです。
それで引き返して、途中でガソリンスタンドに寄って、その時に共同でペットボトル六つで1セットになっているのを購入しました。一本で買うより三分の一ぐらい安いです。そしてさらに下がっていき、集合写真を撮りました!(上から写真を撮っている人がたくさんいるので、これで全員ではないです。)
8.ヨルダン川流出口
そして私たちはガリラヤ湖の南端に戻り、今度はガリラヤ湖からヨルダン川が流れ出るところを見ました。
つながっていないように見えますが、ポンプで水を出しているようです。少し西に流れるそうです、それから南に流れていきます。そして私たちがいる道路の向こう側は、イスラエルで最初のキブツである「キブツ・デガニヤ」があります。
講義
夕食の後の講義では、ラケルが葬られた所の検証と、それからペテロの信仰告白の箇所の説明を聞きました。
今のラケルの墓はエルサレムからベツレヘムに入る所にありますが、聖書を見ると「ベツレヘムへ行く道(創世35:19、48:7)」とありますが、サムエル記第一10章2節には、「ベニヤミン領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで」とあります。つまり、ベツレヘムはユダ族の領内にあるのでその墓は間違いということになります。そして、エレミヤ31章15節に、「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。」とあります。つまり、私たちがユダ山地の北部に行った時に見たラマの辺りに葬られたと考えられます。
そしてカペナウムには、右の写真のペテロの彫刻があります。彼がなぜカトリックで敬われているかと言うと、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。(マタイ16:18)」と書いてあるからです。けれども、マタイ16章の記述によると、これはペテロの信仰告白です。「あなたは、生ける神の御子キリストです。(16節)」と言いました。これは英語ですと、"You are the Messiah, the Son of the living God"と言っており、一つ一つの言葉を定冠詞で強調しています。そして「ペテロ」というのは男性名詞で「小石」という意味です。けれどもイエス様が言われた「岩」は「ペトラ」であり女性名詞です。これは大岩のことで、ヘルモン山のふもとの巨大な崖のことです。そして旧約聖書で「岩」はメシヤを表していました。だから、ペテロの告白が教会の基なのです。
そして「ハデスの門(18節)」は、肉体の死のことを強調しています(例:詩篇9:13、107:18、ヨナ2:6、ヨブ38:17、イザヤ38:10等)。また「教会」ですが、マタイのみが四福音書の中で教会を言及しています。
「天の御国」は、この文脈では教会のことを指しています。この「鍵」は使徒の働きにおけるペテロの特別な役割を意味しています。彼が、「ユダヤ人(2章)」「サマリヤ人(8章)」そして「異邦人(10章)」に対する福音の戸を開くことに用いられたからです。「つなぐ」こと「解く」ことは、ギリシヤ語では法制と司法について使われる言葉です。法制的な意味では、前者は「許可」をすることで後者は「禁止」することです。司法的には前者は「罰しない」という意味で後者は「罰する」ことです。ペテロと使徒たちが教会の権威であり、それ以降は聖書の権威があります。
明日は、下ガリラヤの東部を巡ります。