イスラエル・ヨルダン旅行記 6月3日 - 下ガリラヤ(東部)
1.ベルボワール城
2.オフラ
3.ハロデの泉
4.シュネム
5.モレ山
6.ナイン
7.ダボル山
8.エン・ドル
9.イズレエル
10.ギルボア山
11.ガン・ハ=シュロシャ国定公園(サーネ)
私たちは、これまで以下の地域を探索しました。1)エルサレム、2)ユダ山地、3)ユダの荒野、4)死海地域、5)シェフェラ(低地)、そして6)ヨルダン渓谷です。そして、今は「ガリラヤ地方」にいます。これまでは主にイスラエルの中南部を見たのですが、今は北部を見ています。ちなみに中北部には、ユダの山地の北にエフライム山地、そしてサマリヤ地方があるのですが、そこは西岸地区になっているので、旅行団体は簡単には行けません。
ガリラヤ地方を視聴覚で学ぶには、私は「ガリラヤ体験(The Galilee Experience)」をお勧めします。ガリラヤ地方の聖書歴史を全て網羅し、その中にイエス様が現れ、そして現代に至るまでの姿を描いています。
日本語や他の言語の吹き替えが入っているDVDも発売されています。
そして右の地図をご覧ください。Wikipediaの"Lower Galilee(下ガリラヤ)"からの地図です。ガリラヤ地方とその周囲を実によく描いています。ガリラヤ地方は東はヨルダン渓谷(Jordan Rift Valley)、南はイズレエル平原(Jezreel Valley)に面しています。イズレエル平原の南には西にカルメル山脈(Mount Carmel)が北西から南東に向かって伸びており、その下にサマリヤ山地があります。
そしてガリラヤ地方を「上ガリラヤ(Upper Galilee)」と「下ガリラヤ」に昔から区分しています。ちょうどガリラヤ湖の北端の所から東西のところが境界で、中部にベテ・ハ=カレムの谷(Beit HaKarem Valley)が走っています。そして私たちが今日訪れるところは、下ガリラヤの西側の部分です。
1.ベルボワール城
私たちは、ガリラヤ湖に向かった時の90号線を再び南下して、それから717号線に右折しました。道路は一気に上り坂になります。なぜなら、ヨルダン渓谷からナフタリ高原と呼ばれる高地に入っているからです。
そして私たちは「ベルボワール(Belvoir)城」の跡に来ました。ここに来た一番大きな目的は、ベテ・シャンの丘状遺跡の上で見た景色を、もっと高い所で広範囲に見るためです。東にはヨルダンのギルアデの山地が広がっています。そして西にはイズレエル平野が広がっています。けれども、霞がひどくてあまり見えませんでした。霞は夏にひどくなるそうです。特に朝はひどいのだそうです。水の蒸発が原因だからです。冬にイスラエルに来ると景色はきれいに見えるそうですが、その代わり雨季なので雨に降られることが多いそうです。とりあえず、写真とそれに相応する地図を掲載してみましょう。
ヨルダン渓谷(北側)
地図によると左(北)に、ガリラヤ湖の南の部分が見えます。そして向こう側がギルアデ山脈です。
ヨルダン渓谷(正面)
一昨日、ベテ・シャンから見たのと同じような魚の養殖所が手前に見えます。
ヨルダン渓谷(南側)
南側にベテ・シャンがあります。
そして下のヨルダン渓谷を地形的に紹介してある地図をご覧ください。
思い出していただきたいのは、死海を始めとし、ガリラヤ湖もヨルダン渓谷もみな、水面下の低さにあるということです。その理由は、アラブ・プレート(The
Arabian Plate)とアフリカ・プレート(The Afrian Plate)が衝突している部分に生じた、シリア・アフリカ地溝(The
Syrian-Afrian Rift)のためです。ちょうど日本列島の太平洋プレートが深海にあるのが、陸上に生じているようなものです。したがって、周りに山々が高くそびえているように見えるのですが、実は、グランド・キャニオンのように渓谷の方が低く凹んでいる、というほうが正しいです。
そしてヨルダン川に走っている谷(涸れ川が流れている)が、ヨルダン側からだけでなく、イスラエル側からもあることを示す地図が左下にあります。山が三つあります。ハティーンの角とアルベルが一番ガリラヤ湖に近いところにあり、真ん中がタボル山で、モレ山が左側にあります。
十字軍の城
この後、「ベルボワール」の城跡を見ました。これはフランス語で「美しい景観」という意味です。ローマ時代はヘロデ・アグリッパ要塞がありましたが、十二世紀に十字軍のホスピタル騎士団が占拠、21年をかけて建設しました(1168-89年)。東からの侵略を試みるイスラム勢力を妨げるのが目的です。
エルサレムの歴史を思い出していただきたいのですが、エルサレムを破壊したローマの次に、キリスト国教化したビザンチン朝の時代が来て、それからイスラムが台頭し支配しました。そして西洋のキリスト教界が、聖地をイスラムから奪還する大義で遠征しに来たのが十字軍です。そして1099年にラテン・エルサレム王国を設立しました。
けれどもイスラムが再び奪還すべく攻撃してきたのが、あのサラディンです。昨日、遠くから見たプロテスタントの山上の垂訓の山である「ハティンの角」における戦い(1187年)で、サラディンが十字軍に打ち勝ったためエルサレムは陥落しましたが、それでもこの城砦が一年半、持ちこたえました。その後、十字軍が降伏したという歴史を辿っています。(十字軍の歴史については、いつかじっくり本などを読んで勉強してみたいと思いますが、「キングダム・オブ・ヘブン」の映画はハティンの戦いをモチーフにしていて、とても面白かったです。)
アーノルドは66年に、この城跡の発掘に加わったようで、当時は、今見ている石の一番上の部分まで埋まっていた、すべて掘り起こしたのだ、と話していました。
この地域では黒色の玄武岩の石しかでませんが、十字軍は残っていたヘロデ時代の石を使って再建したそうです。確かに周囲に枠のあるヘロデ式の石でした。
天井を撮ったものです。十字軍の建築様式には特徴があり、必ずアーチ型になっています。エルサレムで「最後の晩餐」の「屋上の間」と呼ばれているところも十字軍式の建物で、確かに同じような建築でした。
パン焼き暖炉(左)と食堂(右)
外壁
全体(Wikipediaより)
2.オフラ
私たちは再び717号線に乗り、さらに西へ進みました。ここで私はこのイスラエル旅行で忘れることのできない思い出を作りました。
これまでも道路の脇に停車したりして、どの旅行団体もしないであろう見学をしましたが、これは極めつけでした。717号線が切れたのです!舗装道路がなくなってしまいました!どう考えても、これはキブツか何かの畑だと思います。他人の所有地に勝手に入っていいのかな?と思っていましたが、後で聞いたらやはり、「イスラエルでは、入る許可を取るよりも、入ってから許しを請うほうが良い。」とのこと。思いっきり、わが道を行く社会です。そしてその畦道を、ワゴン車がぶっ壊れるのではないと恐れる揺れをもってどんどん進んでいきます。一生懸命、ネットで調べてみました。おそらく、RAMAT YSASCHARという所だったのだと思います。
そして作物の高さで遮られていた景色が、急に広がりました。そこで降車です。そしてアーノルドは、「向こうに見えるのがモレの山で、そして手前にある町が、『オフラ』です。」と言うのです。そう、ここは士師ギデオン出身の村で、ミデヤン人に対峙して300人で勝利へと導いた戦場でした。「わざわざ、この景色を見せたかったらここまで来させたのか?」と私は驚き、ヨルダンからイスラエルに戻る最後の講義で、お別れの言葉としてアーノルドにこの思い出を分かち合いました。
まず、このグーグルの地図を開いてください。印のついているTaibeというのが、今見ているアラブ人の町だと思います。Googleの写真を見る限り一致しています。717号線が切れているのが分かるでしょうか?そこのどこかに私たちが今、いるのです。ですから、東から西の方角を見ているのだと思われます。
そして地図左下にEin Horodと書いてあるのが分かるでしょうか?そこが「ハロデの泉」です。300人が選ばれる時に神が試された泉です。その南にギルボア山があります。そして、地図のカーソルを少し左にずらすと西に、緑色のところにGivat HaMore Forestが見つかるかと思います。それが「モレ山」です。上の写真でも背景にうっすらとその山が見えます。(動画も撮りました、ぜひご覧ください。)
「それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。(士師記7:1)」
つまりオフラから南西に行ってハロデの泉に動き、それからモレの山のほう北に動いて、たいまつの入ったつぼを割り、「主の剣、ギデオンの剣だ。」と叫んだのです。そして北にあるEin
Dor(エン・ドル)まで追い込み(詩篇83:10-11)、そしてミデヤン人はイズレエル平原のベテ・シェアン(Beth-shean)の谷を南東に逃げ、ヨルダン川を越えてスコテ(Succoth)、ペヌエル(Penuel)へと追撃したのです(以上、士師記7-8章)。
左の地図はOphrah(オフラ)がEndor(エン・ドル)の右側にありますが、本当は左側です。その他はすべて正しく、赤線がミデヤン人の敗走した道、緑はエフライム人が応戦した道です。(地図はJesuswalk.comより)
そして私たちは、また西の方角へ、道なき道を走りました。途中で作物に囲まれた狭い畦道に覆われて、この道でいいのかどうかを確かめるために最前車のアーノルドの車が先発しました。そして後で携帯で連絡するはずなのですが、・・・なんと後発車の人の携帯番号を持っていないのです。アーノルドの親戚の若い女の子、シャシャーナさんが、「スーさん(オーストラリア・グループの責任者)となら、通話記録があるでしょう?」と尋ね、調べてみたらありました!ここで立ち往生20分ぐらいは費やしたと思います。
3.ハロデの泉
ようやく舗装された717号線が現れて、私たちは次にハロデの泉へと向かいます(動画)。716号線に入って南に行くと、ギルボア山のふもとにある、「マアヤン・ハロデ国定公園(Ma'ayan Harod National Park)」に到着しました。芝がしきつめられて、プールやテニスコートなどがある、いわゆる「公園」ですが、真ん中に川が流れています(動画)。これは、ギルボア山にある洞窟から泉が出ており、この洞窟がいわゆる「ギデオンの洞窟」と呼ばれているものです。
その川で次の御言葉の実演を、二人の兄弟がしてくれました。「すると、主はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない。』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない。』と言う者はだれも、行ってはならない。」そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。(士師記7:4-6)」右の写真をクリックしてください、動画が始まります。
左下がギデオンの洞窟です。右下がこの洞窟があるギルボア山のふもとです。
そしてサウルがペリシテ人と戦うために陣を張った「泉」はここではないか、と言う人もいます(1サムエル29:1)。
4.シュネム
そして私たちは、71号線を北西に上がっていき、モレ山の南側のふもとにある町に行きました。(Google地図)今は、「スラム(Sulam)」というイスラエル系アラブ人の町になっています。ここが「シュネム」の町です。右の写真をクリックしてください、モレ山とギルボア山を含む動画が始まります。
ベテ・シャンで死体をさらされたサウルは、南にあるギルボア山に陣を敷きましたが、敵のペリシテ人はシュネムに陣を敷きました(1サムエル28:4)。
ここから聖書では三人の女が輩出されています。一人は、エリシャが関わった「シュネムの女」(1列王4章)です。預言者に感謝を示すために彼女の家の屋上をエリシャのための部屋としました。その感謝のお返しをエリシャがするために、不妊の彼女が子を産むことができるにしました。けれども、その子が日射病か熱中症かで死にます。カルメル山(シュネムからずっと西)にいるエリシャの所にその悲しみを表したところ、エリシャは男の子を生き返らせました。後に、不在の時に土地を他の人に取られてしまったのですが、その奇蹟を王が聞き、王は返してあげます(2列王8:1-6)。
もう一人の女は、「シュネム人の女アビシャグ(1列王1:3)」です。老年のダビデの世話をしていました。彼はこの娘を知ることはありませんでした。けれども、ダビデの死後、息子アドニヤがアビシャグを嫁にもらいたいと願います。当時、王のそばめと寝ることは、王位を取ることに他なりませんでした(アブシャロムがエルサレムで、ダビデのそばめと寝たことを思い出してください)。それでソロモンは彼を死刑にしました。
そして三人目の女は、ソロモンの愛した「シュラムの女(雅歌6:13)」です(シュラムとシュネムは同じです)。雅歌に、彼女の美しさを歌うのに「ギルアデから降りて来るやぎの群れのよう(6:5)」であるとか、「あなたの頭はカルメル山のようにそびえ(7:5)」など、ガリラヤの自然の風景がふんだんに出てきます。
私はアーノルドに、「アビシャグと、雅歌のシュラムの女は同じ人ですか?」と尋ねたところ「違う」と答えました。デービッド・ホーキングの説教また雅歌の注解書に、確かその可能性が書かれていたからです。手元にアーノルドの雅歌の注解書もあるので、調べてみたいと思います。
ところで、このスラムの町の中を通ったのですが、一人の旅行客が「安全なのですか?」とアーノルドに尋ねました。「イスラエル領だから安全だ。」との答えです。問題は民族的違いではなく、あくまでもパレスチナ自治区にあるのかどうかの違いです。アラブ人でイスラエル人はいるの?と疑問に思う人がいるかもしれませんが、独立戦争の時に自分の住まいから逃げなかった人に対して、イスラエルは市民権を与えました。そうでない人たちが難民になりました。その違いです。ちなみに、他のアラブ諸国でユダヤ人も難民になったのですが、彼らはイスラエルに逃げたら自動的に市民権が与えられ吸収されました。アラブ諸国も「難民キャンプ」に押し込めずに、同じようにパレスチナ人を吸収すれば、今の難民問題は即解決されます。
5.モレ山
そして私たちはモレ山に上がりました。車を停めて、塔を上っていくとイズレエル平野の東の部分一帯が見える・・・はずです。残念ながら霞でほとんど見えませんでした。てっぺんにはムスリムの墓地があります。
イズレエル平野は山に囲まれています。北がナザレの山々です。東がこのモレ山と北にあるタボル山です。そして南はギルボア山とサマリヤの山々です。そして西ははるか遠くにカルメル山があります。
左の写真は、先ほど訪れたシュネムの町です。遠くにはギルボア山があるはずです。イズレエル平野から見たきれいなモレ山の写真が題名のリンク先にあります。
そしてすごいサイトを見つけたのですが、聖地にある山の昔の写真集がありました。その中のモレに関する写真を拾ってみたいと思います。
・ 南から見たモレ山
・ モレから見るナザレ
・ モレから見たギルボア山
6.ナイン
私たちはモレ山の北側に廻りました。そこには「ナイン」の町があります。「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。(ルカ7:11-15)」
つまり、モレ山は南側で、預言者エリシャがシュネムの女の息子を生き返らせ、北側ではイエス様が、やもめの息子を生き返らせた山なのです。神の命を与える力を証しする山です。
そして私たちは、そばにあるイスラエル系アラブ人のレストランでお昼を取りました。ピタ・パンが主食で、フムスを始めとするいろいろなペーストの皿が並んでいます。もう、イスラエル料理に慣れて楽しんで食べることができました。
7.ダボル山
私たちはモレ山の北から65号線で西北西に進み、タボル山の周囲を走る7266号線に入りました。(Google地図)頂上にはたくさんの教会があるため、また霞があるので頂上まで行っても景色は同じなので、そこまでは行かず途中で停まりました。
皆さんがお持ちの聖書地図で十二部族の割り当て地を見ますと、タボル山を境に北にナフタリ族、西にゼブルン族、南にイッサカル族になっています。この戦略的な地点で、あのデボラとバラクによる戦いが起こりました(士師記4章)。キション川を明日見ますが、そこが洪水になったため、カナン人の戦車が泥につかり身動きできなくなりました。ミデヤン人はギデオンの肉の兄弟をタボルで殺しています(同8:18)。そして詩篇や預言書にタボル山が出てきます(詩篇89:12、エレミヤ46:18、ホセア5:1)。
頂上に教会が多いのは、カトリックの伝承でここがイエス様の御姿が変貌した高い山だと言っているからです。けれどもそれは間違いで、ヘルモン山のことです。ゴラン高原の北にあります。
右の写真は、ダボル山の西側から撮ったものです。右側の山脈がナザレで、中央がイズレエル平野、そして写真には見えませんが左側にモレ山があります。写真をクリックすれば、動画が始まります。
8.エン・ドル
そして私たちはタボル山の東側に廻ってきています。そこには、エン・ドルのキブツがありますが、もちろん私たちは聖書に出てくる「エン・ドル」を思い出さなければいけません。南西にはシュネムとナインの、二つの「命」の証しがありましたが、こちらは暗闇の力の話です。サウルがギルボア山のほうに陣を敷き、ペリシテ人がシュネムのほうに陣をしていて、彼は主に伺っても何の答えもないので、ひそかにエン・ドルにいる魔女の所に霊媒を頼みました。出てきたのは、死んだサムエルです。そしてサウルは死ぬことを宣告されます。
左の写真の奥に見える山がタボル山です。手前がエン・ドルです。
9.イズレエル
私たちは、65号線の道を戻って、アフラ(Afula)の町の中を通り60号線に入りました。この60号線は南に下るとサマリヤ地方にまっすぐに入っていく道で、昔もエルサレムとガリラヤをつなぐ幹線道路でした。(今はジェニンの町など西岸地区になっています。)したがって戦略的に大切な地域なのですが、そこに「イズレエル」の聖書の町がありました。イズレエル平原はもちろん、この町名から取られたものです。
60号線と675号線の交差点のところに同名のキブツがあります。その東隣に、古代イズレエルの町の丘状遺跡があります。右の写真をクリックすれば動画が始まります。
ここはアハブの宮殿があったところです(1列王21:1)。アハブとエリヤがカルメル山で対峙してから、大雨が降った時に、エリヤが彼の先に走ってイズレエルまで行きました(1列王18:45-46)。そしてイゼベルの脅しを受けて、そこからベエル・シェバ、そしてシナイ山まで逃げます(同19:1-3)。ナボテの畑をアハブが欲しがって、イゼベルが企て彼を殺した事件がここで起こっています(同21章)。
それゆえ、後にエフーが主に油注がれます。アハブ家の王ヨラムが傷を負ってイズレエルで療養していたとき、ユダの王アハズヤもアハブ家の血のつながりがあったので見舞いに行きました。そしてラモテ・ギルアデにいたヨラムの将軍エフーが、エリシャの弟子の預言者によって油注がれて、気も狂わんばかりにイズレエルへ向かって猛走しました。ヨルダン川を越えて、ベテ・シャンの谷を通ってイズレエルに向かってくるエフーの姿が想像できます。そしてヨラムまたアハズヤを殺しました。
そしてイゼベルがその宮殿からエフーを眺めていたところ、エフーが彼女の家臣に謀反を呼びかけ、彼らが彼女を窓から突き落としました。「すると、エフーは言った。「これは、主がそのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだ。『イズレエルの地所で犬どもがイゼベルの肉を食らい、イゼベルの死体は、イズレエルの地所で畑の上にまかれた肥やしのようになり、だれも、これがイゼベルだと言えなくなる。』」(2列王9:36-37)」
10.ギルボア山
イズレエル交差点の675号線から667号線に入ると、そこはギルボア山の山道を通る道となります。08年の旅ではヨルダン渓谷から遠目に見ていたギルボア山でしたが、今回はこの中を通れるのかと思うと、とてもわくわくしました。ここは、二日前のベテ・シャンの旅、また今日の旅の中で何度も出てきた出来事ですが、サウルがここでペリシテ人によって倒れたところです。「ペリシテ人はイスラエルと戦った。そのとき、イスラエルの人々はペリシテ人の前から逃げ、ギルボア山で刺し殺されて倒れた。・・・ (1サムエル31:1)」この戦い全体を追う地図がネット上にありました、こちらをご覧ください。ベテ・シャン(Beth Shan)、シュネム(Shunem)、エンドル(Endor)、モレ山(Hill of Moreh)、イズレエル(Jezreel)、そしてギルボア山(Gilboa)の全てが出ていて、位置関係がよく分かります。
左上の写真は、イズレエルから撮ったギルボア山の北端です。ここから南南東に向かって山が続きます。途中で降りたり、また車中で動画を撮りました。ご覧ください。
・ ギルボア山のふもと
・ ギルボア山から見たベテ・シェン方面
・ ギルボア山がはげている部分
三つ目の動画は、ダビデがサウルとヨナタンの死を悼む歌を意識して撮りました。「ギルボアの山々よ。おまえたちの上に、露は降りるな。雨も降るな。いけにえがささげられた野の上にも。そこでは勇士たちの盾は汚され、サウルの盾に油も塗られなかった。(2サムエル1:21)」下の写真はギルボア山から降りたところで、この山を撮った写真です。
二つ目の動画を撮った時、立ち止まった所でアーノルドは、「ニル・ダビデ(Nir David)」というキブツを指し示しました。ほとんどのキブツが今、財政的危機に陥っていますが、ここは魚の池の産業で立ち直しているそうです。(グーグル地図)
11.ガン・ハ=シュロシャ国定公園(サーネ)
私たちは、6666号線に曲がってギルボア山を降りました。そして669号線を右に曲がり、まさに上のキブツのすぐ横にある公園に入りました。アーノルドが前日に、「明日は水着を用意してください。絶対に気に入る所に連れて行きます。」と言っていたので、その意味がよく分からなかったのですが、着てみて目が飛びぬけるほどびっくりしました!まさに自然の泉によるプールがそこに広がっていたのです。ここはガン・ハシュロシャ(Gan Hashlosha)という国定公園ですが、別名の「サーネ(Sahne)」は「熱い水」という意味があるそうです。水温が28度と年中保たれている、とのこと。
右の写真を撮った後、すぐに泳ぎに行きました。水に濡れると行けないのでカメラは持っていかず、これ以上の写真や動画はないのですが、この右の写真をクリックしてください。誰かが撮ったYoutubeの動画に飛びます。まさにこんな雰囲気で、イスラエル人の子供たちがヘブル語できゃっきゃ、きゃっきゃ叫びながら遊んでいました。
プールは三つありますが、上から下に流れています。真ん中のプールに滝がありました。プールの端で足をついて休んでいると、足の先がちくちく痛みます。よく見ると、なんと小魚たちが私の足をつついているではありませんか!
塩素もなにも使われていない、飲料水にしてもいいような水で泳ぐなんて信じられませんでした。現地の宣教師やイスラエルに在住したことのある日本人に聞いてみたら、二人ともご存知で、「行ってきたのですね!」とおっしゃっていました。イスラエルでは有名な場所だそうです。外国の旅行者には「ザ・穴場」です!
明日は、下ガリラヤの西部に向かいます。