イスラエル・ヨルダン旅行記 6月4日 - 下ガリラヤ(西部)

1.ハッティンの角
2.カナ
3.ナザレ
4.ベト・シェアリム
5.キション川
6.カルメル山
7.メギド
8.カファル・カルマ


ハッティンの角

 私たちの第一目的地は、昨日、一昨日から話題に上がっている「ハッティンの角(Horns of Hattin)」です。ティベリヤの町まで上がり、それから7717号線に入ります。(その途中に、一昨日訪れようとしていた「アルベル」への道があります。)すると昨日のオフラの時と同じように、道が無くなっているのにそのまま進んでいきました。激しい揺れを受けながら野原の丘を走り上ります。すると「ハッティン国定公園」という標識があり、右写真のように閉じている門を乗り越えて、無人の丘を上がっていきました。

 ここは死火山のため高地にあります。なぜ「角」という名が付いているかと言いますと、南北に雄牛の角のように突き出た部分があるからです。(左下の写真は北側の「角」です。クリックすると動画が始まります。)かつてマドンという所でここの王がハツォルの王の連合隊に加わり、ヨシュア率いるイスラエル軍に対して戦いましたが、負けて殺されています(ヨシュア11:1、12:9)。そして聖書後の歴史では、「ハッティンの戦い(1187年7月4日)」で有名な所です。十字軍によるエルサレム支配がこの戦いによってイスラムの手に落ちました。

 十字軍は、ここの西方にあるナザレの隣町ツィッポリに陣を敷いていましたが、サラディン率いるムスリム軍隊はガリラヤ湖の南部にいました。そしてティベリヤにある十字軍の城を攻撃して、十字軍が救援に出てきました。サラディンは元々、エルサレムを包囲するよりも外に引き出したほうが良いと考えていたのです。そしてハッティンの丘まで来た時に、サラディン軍は攻撃し、十字軍を打ち倒しました。

 十字軍の敗因は、7月4日という夏にヨーロッパ式の武具を身に着けていたことです。その暑さのため喉が渇き、士気が落ちていました。さらにサラディンは野原に火をつけました。乾燥しているので一気に火は広がり、彼らはその熱の中で死んでいったのです。二万人が死に、三万人が捕虜になりました。この後、十字軍は一世紀の間居残りましたが、もはやかつての力と栄光は失っていました。

 ここの南に「ヤブネエルの谷」が見えます。ナフタリ族に属する谷です(ヨシュア19:33)。そして南西にはタボル山が見えます。そして東に、アルベルの崖の端が見え、その向こうにゲネサレの谷があります。そして下のふもとの所に看板らしきものがありました。それがチャーチ・オブ・クライストが定めた「八福の山」です。そしてはるか北側には、上ガリラヤがうっすらと見えます。下ガリラヤよりも上ガリラヤのほうが標高が高いからです。その他のハッティンの写真は題名リンク先のBibleWalks.comで楽しんでください。

カナ

 そして私たちは、77号線に乗り西に動き、そして754号線に左折し南下します。そして途中で道路脇に駐車して、アーノルドが説明しました。ここのアラブ人の町が伝承によるカナの町です。ウィキペディアで調べると「カフル・カナ(Kafr Kana)」というです。コンスタンチヌス帝の母ヘレナは、聖地を訪問したとき、例えば聖墳墓教会のように、ユダヤ人信者らが守っていた場所として正確な位置を定めた所もあれば、現地の人に聞いて、「ここら辺じゃないですか。」といういい加減な回答に基づいて定めた所もあるそうです。カナの町はその一つで、ここにカトリックとギリシヤ正教の「カナ婚礼教会」があります。主が水をぶどう酒に変えられた奇蹟です。

 「それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。・・・(ヨハネ2:1-2)

 けれども、20世紀の初めにここから9キロ北にある「キルベト・カナ(Kirbet Cana)」と呼ばれるところが発見されました。発掘はこれからだということです。そしてこのアラブの町から南方に「ガテ・へフェル」があります。これは、預言者ヨナの出身地です(2列王14:25)。ナザレから大して離れていないところにあるので、イエス様がご自分が葬られることを、三日三晩の大魚にいたヨナになぞらえられた理由が分かります。以上、右上の小さな写真をクリックすれば動画による説明があります。

 上のNETにある地図をご覧ください。すべての町の位置関係がよく分かります。右にティベリア(Tiberias)とアルベル(Arbel)があり、西に向かうと途中にハティンの角(Horns of Hattin)があります。それから二つのカナ(Cana)がありますが、南側の道路沿いのが伝承によるもの、そして北側が比較的最近、発見されたところです。そして伝承のカナの南西に「ガテ・ヘフェル(Gath Hepher)」があります。また西にはツィッポリ(Sepphoris)もあります。ナザレ(Nazareth)はその南です。

ナザレ

 そしてさらに754号線を南下し、主が育たれた「ナザレ」の町に到着しました。ここはイスラエル国の中で最大のアラブ人の町で、六万人が住んでいます。以前はほとんどがキリスト教徒でしたが、イスラム教徒が入り込み半々になっているそうです。99年と08年の旅では、北東にあるユダヤ人の住む同じく「ナザレ」という町からこの旧ナザレを眺めましたが、アーノルドはもっと近づいてその中心部分を見せてくれました。混雑する車道の脇に駐車して、どこかのお店の二回に上がる外階段を上っていき、グループを二つに分けて、同じ説明をアーノルドは二回しました。

 イエス様の頃はこの町は120-150人しかいない部落でした。ヨセフとマリヤの町でありました。「・・・御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。(ルカ1:26)」そしてここがイエス様が約30歳になるころまで育たれたところであり、イエス様は「ナザレ人イエス」と呼ばれるようになります(マタイ2:23,4:13,21:11,26:71、マルコ1:9,24;10:47;14:67,16:6、ルカ2:39-40,51;4:34;18:37;24:19、ヨハネ18:5,7;19:19、使徒2:22,3:6,4:10;6:14;10:38;22:8;26:9)。けれども評判のよくない町であり(ヨハネ1:45-46)、やはりここに「取るに足りないところをあえて選ばれる神」のお姿を見ることができます(1コリント1:28参照)。

 イエス様はガリラヤに本拠地を移された後も、ここに二度、戻ってきて会堂で教えられています。一度目は、会堂でイザヤ書を朗読された時(ルカ4:16-30)、そして不信仰によって多くの奇蹟を行うことができなかった時です(マタイ13:54-58、マルコ6:1-6)。

 その後、ローマとビザンチン時代はユダヤ人信者が居住する所となり、以後、孤立した町となりましたが、十字軍の到来によって多くの教会が建ちました。その後のイスラムの時代で衰退しましたが、オスマン・トルコの時代、西洋がナザレに興味を持ち繁栄し始めます。英国委任統治時代に政府機関がここに置かれたことによってさらにキリスト教機関が増え、独立戦争ではアラブ解放軍がここを占拠し、ここから周囲のユダヤ人殖民村を攻撃しましたが、デケル作戦によってイスラエル軍が奪還しました。ベン・グリオンは、教会や修道院に銃を向けることのないよう厳重な命令を下したそうです。

 肉眼で見るだけでも、数多くの教会の建物に気づきますが、中心の灰色の塔のある教会堂が「受胎告知教会」で、マリヤがガブリエルから主の受胎の告知を受けた所として記念している所です。中東で最大の教会堂だそうです。その周囲に人々が住み始めて、ナザレの町が広がっていったそうです。

 そしてヨセフが大工の仕事をしたとされる「聖ヨセフ教会」、イエスが教えられたシナゴーグを記念する「シナゴーグ教会」、マリヤの井戸(?)があるとされる「聖ガブリエル教会」また「マリヤの井戸」もあります。さらに、主が復活された後、弟子たちと共に食事をされた食卓のある(??)「メンサ・クリスティ」など、伝承のオンパレードです。

 極めつけは、「恐れた聖母」教会があります。イエス様を会堂の人々が追い出し、崖っぷちから投げ落とそうとしたその崖(右写真の左、衛星の皿の上)がありますが、その時マリヤが「恐れ惑った」ので教会を建てたというのです!そしてその向こうに広がっているのが、かすんで見えませんがイズレエル平原です。

断崖の山

 そして私たちは60号線を南下して、イズレエル平原に降りてきました。そのふもとに、今話した「断崖の山(Mt Precipice)」があります。その該当する聖書箇所を引用します。「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。(ルカ4:28-30)」上の題名のリンク先のBibleWalks.comには、その崖の上から見えるタボル山イズレエル平原の写真があるので、ご覧ください。(前日、私たちは、タボル山からナザレの町を眺めました。)

 そしてアーノルドが、さらにすごい伝承の話をしてくれました。「飛越の山」という教会があります!イエス様がこの断崖から投げ落とされそうになった時、なんとそこから、向こうのタボル山に飛び越えられた、という伝承があるのです!聖書本文には「彼らの真中を通り抜けて」とあるのに・・・(汗)。

ベト・シェアリム地下墓地

 私たちは73号線で西に向かい、それから75号線に入りました。これはハイファとナザレを結ぶ道路ですが、そこに「ベト・シェアリム(Beth Shearim))」という国定公園があります。99年と08年に私は、ツィポリというユダヤ教にとって重要な町を訪ねましたが、この町も同じ機能を果たしました。132年から35年の第二次ユダヤ人反乱(バル・コクバの乱)の後、ローマ皇帝ハドリアヌスはエルサレム地域にユダヤ人が入ることを禁止しました。そのため、これまでユダヤ教の中枢機関がエルサレムにあったのを他の地域に移さなければいけませんでした。そこで選ばれたのがガリラヤ地方です。以前はガリラヤといえば無学の田舎者という印象が付き物でしたが、二世紀以降、ガリラヤがユダヤ教の中心地となりました。サンヘドリン(ユダヤ人議会)は二世紀はここにあり、三世紀初頭にツィッポリに移りました。

 ユダヤ教と言えば、何が聖書と異なるかと言いますと「口伝律法」があることです。モーセのトーラ(律法)は成文化されましたが、この口伝律法によってトーラの解釈を行いました。これがパリサイ人がイエス様に対して怒った理由そのものであり、安息日についてイエス様が行われたことが、彼らの口伝律法に違反していたのです。現代ユダヤ教はパリサイ派から発生したラビ的ユダヤ教に基づいており、数多くの伝承を持っています。

 「ユダヤ人共同体の長であったユダ・ハナシー(ハナシーは称号)が、複数のラビたちを召集し、口伝律法を書物として体系的に記述する作業に着手した。その結果出来上がった文書群が「ミシュナ」である。本来、口伝で語り継ぐべき口伝律法があえて書物として編纂された理由は、一説には、第一次第二次ユダヤ戦争を経験するに至り、ユダヤ教の存続に危機感を抱いたためであるともされる。」(ウィキペディアより引用)そして、このミシュナの解説書としてタルムードが出てきました。

 このユダ・ハナシーというラビが葬られたのが、ここベト・シェアリムと言われています。彼の墓はまだ見つかっていませんが、彼の二人の息子(ラビ・シメオンとラビ・ガマリエル)のは見つかっています。そして偉大なユダ・ハナシーが葬られているということで、ユダヤ人がここに自分たちの墓を求めました。墓地として使っていたオリーブ山の山腹にはもう行くこともできないことも手伝っていました。

 そのため、ベト・シェアリムで有名なのはユダヤ人の共同墓地です。26もの洞窟がつながっている地下墓地となっており非常に巨大です。ユネスコの世界遺産の候補にもなっているとか。私たちはこの墓地の中に入りました。(右写真)

 中に入ると、とても涼しくて気持ちよかったです。そしてものすごい数の石棺があります。その中には彫刻がほられているものがあります。

 ユダを象徴する獅子の彫刻です。


 ミノラ(燭台)の彫刻です。


 これも獅子でしょうか。


 「猟の石棺」と表示があります。


 こんな感じで洞窟が通路でつながっていました。

 その他、BibleWalks.comでも写真を見ることができます。

キション川

 私たちは75号線をさらに西に行き、722号線に左折、南に下りました。カルメル山に行く途中、「キション川」を渡る橋があります(Googleの航空写真)。ここで私たちは写真を撮りました。背景に見えるのがカルメル山脈です。

 ここでは聖書の中で大きな出来事が二つ起こっています。一つは、デボラとバラクが、カナン人のシセラと戦った時です。デボラとバラクはタボル山にいましたが、戦車に乗っていたシセラはキション川付近に陣をはっていました(士師記4:7)。けれども、神がキション川を氾濫させ、彼らを押し流しました。「天からは、星が下って戦った。その軌道を離れて、シセラと戦った。キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キションの川。私のたましいよ。力強く進め。(士師記5:20-21)」これで恐ろしい戦車も泥に浸かって無力になり、イスラエル軍が圧倒的な勝利を収めました。

 そしてもう一つの出来事は、エリヤがバアルの預言者とカルメル山で対決して、その後、預言者450人をここキション川で殺せと命じました(1列王記18:40)。

カルメル山

 77号線はそのまま70号線になり、そして672号線に右折すると、北西の方向にカルメル山脈に沿って上がっていきます。

 カルメル山は左の地図(Bibleatlas.orgから)にあるように北西から南東に走っている、なだらかな山の連なりです。北西はそのまま地中海に突っ込んでいるようになっています。カルメルという名は「神のぶどう園」という意味ですが、古代のぶどう園が見つかっています。雨季にはたくさん雨が降るので緑豊かな山地です。北の傾斜地にイスラエルで三番目に大きいハイファの町があります。

 沿岸の平野がカルメル山脈によって断ち切られたようになっていますが、北側を「アシェル平原」と呼び、南側、テルアビブに至るまで「シャロン平原」と呼びます。また、この地中海の突き出た地形から、かつてエジプトのパロ・クフ(紀元前24世紀)は「ガゼルの鼻」と呼びました。そして紀元前15世紀のトトメス三世は「聖なる頭」と呼びました。

 ここはヨシュアが取っています(ヨシュア12:22)。そして「アシェル」「ゼブルン」「イッサカル」「マナセ」の四部族の割り当て地の境界になりました。(山自体はアシェル族のものです(ヨシュア16:26))。そして、あの有名な「エリヤとバアルの預言者の対決」が起こりました(1列王記18章)。「さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。(19-20節)

 そして後に、エリヤの後継者であるエリシャが、シュネムの女が息子の死を伝えに来たとき、カルメル山にいました(2列王4:25)。

 カルメル山は詩歌や預言書にしばしば登場します。美しさ(雅歌7:5)、豊かさ(イザヤ35:2)、威光(エレミヤ46:18)、繁栄と幸福(同50:19)を示し、神の裁きが下る時、カルメルがしおれることを話すことによってその影響を表現しています(ナホム1:4、イザヤ33:9)。

ドルーズ人のお店で昼食

 08年の旅でゴラン高原を訪れた時、ガイドの人から「ドルーズ人」についての説明を受けました。そちらはシリヤとの国境地域ですが、こちらカルメル山にはさらに大きいドルーズ人の共同体があります。「ドルーズ派」というイスラム教の亜流が十世紀にエジプトで始まりましたが、イスラム教主流の人たちからはイスラムとは思われていないので、彼らは他のアラブ人とは異なる独自の歴史を辿ってきました。イスラエルにおける少数民族の一つですが、ドルーズの教えの中に居住の国への忠誠を教えているらしく、イスラエルへの帰属意識は強いです。アラブ人とは違って兵役義務があります。

 「ダリヤット・エル・カルメル」というドルーズ人最大の町が、カルメル山の上にあります。そこで私たちは昼食を取りました。(ドルーズ料理とアーノルドは言っていたのですが、他のお店で売られているシュワルマとどう違うのかが分かりませんでした。こちらにドルーズ料理の紹介があります。)そしてお店の人が、私たちに音楽を披露してくれました。右上の写真をクリックしてください、動画が始まります。そして、この音楽に合わせて旅行仲間の何人かが踊り始めてしまいました!

ムフラカ

 そして少し道路を戻って、横道にそれるとカルメル会修道院があります。ここに、あの大きな、エリヤがバアルの預言者を踏みつける像が立っており、ここが伝承として対決があった場所として「ムフラカ(Mukhraqa)」と呼ばれています。けれどもこの修道院の見物が目的ではなく、その屋上から見えるイズレエル平原で有名です。

 上の写真は左がイズレエル平原の正面を撮っているものです。ナザレの山が左にあり、続けて右にタボル山、モレ山があります。手前、右上にV字形の滑走路が見えますが、これは発着の滑走路が地下につながっている「ラマト・ダビデ空軍基地」です。そして右の写真は左にギルボア山、サマリヤの山地があり、手前左側にヨクネアムの丘状遺跡があります。ヨシュアが倒した王の一人がここにいました(ヨシュア12:22)。

 そしてヨクネアムは、イズレエル平原への入口の一つで「ヨクネアム道(峠)」と呼ばれます。入口は合計七つあり、それぞれに要塞化された町がありました。1)キション道(アッコからの道)、2)タボル道(ガリラヤ湖からの道)、3)「ジェニンの下り坂」(サマリヤからの下り坂)、4)イズレエル道(ベテ・シャン)、5)メギド道、6)タナク道(ヨシュアによって倒された王の町、ヨシュア記12:21)、そして7)ヨクネアム道、です。

 上の写真をパノラマで映した動画があります。そしてBibleWalks.comにあるこのパノラマ写真もご覧ください。

メギド

 私たちは、カルメル山を降りて次の目的地であるメギドに向かいます。一度 、北東に70号線を走り、それから66号線を右折して南西に走ります。(66号線をさらに行くとパレスチナ自治区のジェニンに行きます。)そしてアフラに向 かう西北西に走っている65号線との交差点の所に、メギドのテル(丘状遺跡) があります。

 この丘状遺跡の重要性と意義を語るには、長い時間を必要とするでしょう。 「メギド・エクスペディション(メギド遠征)」という考古学発掘団体がありますが、そのサイトに一つ一つ意義が書かれています。そのホームの左下にあるパワーポイントによるプレゼンが分かりやすいでしょう。

メギドの歴史

 メギドが重要性を持つのは、その地形的位置にあります。イズレエル平原の入口である「メギド道(Megiddo Pass)」があり、そこからヴィア・マリス(海の道)が二手に分かれます。一つは東方にガリラヤ湖のミグダル、カペナウム を経てダマスコに向かい、もう一つは北方にツロとシドン方面に向かいます。

 ヴィア・マリスは、エジプトとユーフラテス地域をつなぐ国際幹線道ですから、この道路の占拠を巡って大国が戦ったと行っても過言ではありません。そしてその道路の分岐点がメギドであり、それゆえここに要塞の町を歴史を通じて人々が建てていきました。ここには実に30近い町が倒されてはその上に立てられ、地層のように積みあがっています。

 メギドは、実に聖書より前の文献から出現します。エジプトの文献、またアマルナ書簡に、トトメス三世アメンホテプ二世の遠征のそれぞれが記録されています。カナン人のメギドの王がその時に既にいたのです。(有名なのは「メギドの戦い」)

 そして紀元前15世紀にヨシュアが約束の地に入ってきて、この王を倒し、マナセ族の割り当て地になりました(ヨシュア12:21,17:11)けれどもカナン人が続けて実効支配していました(士師1:27)。そして士師の時代、キション川の氾濫で戦車がぬかるみに浸かって動けなくなった彼らは、先ほどカルメルから見た「タナク」の町からこのメギドにかけて敗北しています(士師5:19)。

 そして時代はソロモン期に移ります。ソロモンの国の拡がりとその栄華はすでにご存知だと思いますが、彼が要塞の町の一つとして建てたがメギドです。「ソロモン王は役務者を徴用して次のような事業をした。彼は主の宮と、自分の宮殿、ミロと、エルサレムの城壁、ハツォルとメギドとゲゼルを建設した。(1列王9:15)」このソロモン期の要塞の遺跡と、そして先ほどのカナン人の時期の遺跡がここにたくさん残っています。

 それから聖書には載っていませんが、アハブやヤロブアム二世などイスラエルの王が作った遺跡も残っています。ソロモンが建てたものを拡張したのでしょう。聖書には、この二人はどちらも豊かな時代であったことを記録していますから、遺跡で確認できるのです。

 そして戦いの記録は続き、アハブ家の血を受け継いでいるユダの王アハズヤは、アハブ家の復讐を神に命じられたイスラエルの王ヨラムの将軍エフーによって殺されます。死んだところがこのメギドです(2列王10:27)。

 そして北イスラエルをアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルが侵略しました (2列王15:29)。首都サマリヤはその時は陥落しませんでしたが、ガリラヤの地域を含むすべてを占領し、彼らをアッシリヤに捕え移したのです。彼は、メギドをこの地域の首都としましたが、その遺跡も存在します。

 さらにペルシヤの時代に入って、ペルシヤはメギドをこの地域の首都としました。

 時代は一気に近代に飛びます。オスマン・トルコに対して英国が戦って打ち勝った時、その決め手になった戦いがメギドでした。それゆえ将軍アレンビーは「メギドの主」という称号を受けました。

 そして時代は未来に飛びますが、ここが「ハルマゲドンの戦い」の舞台です(黙示16:12-16)。アーノルドの解釈によりますと、ハルマゲドンは「メギドの山」という意味なので、イズレエル平野で流血の戦いが繰り広げられるのではなく、その後の戦いのための集結地になるとのことです。反キリストと同盟を結んでいる七人の王(ダニエル7:24-25、黙示17:12-14参照)がこの丘の上に立ちます。

実際の遺跡

 ビジター・センターの中にメギドの模型があります。

 この模型はソロモン時代のものです。手前が北側でそこが門です。そして中に入ると左手に馬屋と宮殿があります。奥(南側)にも馬屋があり、またヤロブアム二世の作った穀物貯蔵庫があり、そして見物は泉を城内に引くための、ソロモン時代の地下水道があります。

 けれども、この下にいろいろカナン時代の遺跡が埋まっているのです。

 北の門のすぐ隣にはカナン人時代の門があります。

 それから東(左側)の部分には、カナン人の祭壇があります。

 このように、一つの場所にいながら、重層的な歴史を見ることになります。

 では北の門から入ってみましょう。カナン人時代の城門です。



 門が三つあり、その間に部屋がありました。途中、黒い線があって上下に分かれていますが、これはマサダの遺跡と同じように実際の部分と復元された部分の境です。

 そしてここを通り過ぎると、ソロモン時代の門に入ります。

 この形式は、もう一つの要塞の町ハツォルでも同じだと、そこを発掘したアーノルドは言っていました。そして、この写真は門の片方の部分だけで、もう片方は発掘のため全てがなくなっています。

 そして下の写真は、北側にあるソロモン時代の宮殿と馬屋の跡です。




 そして東の方に行きました。ここにカナン人の祭壇があるのですが、その前にここら辺から見えるイズレエル平原を見たいと思います。下は左側(北)の写真で、ナザレの山地です。


 中央(東)には、左にナザレの山地、その右に遠く小さく見えるのがタボル山です。左中央にモレの丘があります。モレの左(北)にナインの町があります。


 右側(南)の写真です。サマリヤの山地があります。


 そして下の写真は、手前にある65号線と66号線の「メギド交差点」です。

 かつてのヴィア・マリスと同じように、65号線が北への主要道路になっており、66号線が東への主要道路になっています。そしてその右側に「メギド道(峠)」があり、イズレエル平野の入口でもっとも重要な所です。あさって、シャロンの平原に向かう際にそこを通過するそうです。

 そしてカナン人の祭壇がありますが、これはこちらの写真で見てください。下の写真はその背後にある地層です。ここに何十もの都市が積み上がっているを見ることができます。


 そしてヤロブアム二世(紀元前八世紀)の時の穀物貯蔵庫です。

 今、小預言書を学んでいるのですが、この時代に北イスラエルに対して預言者を神はたくさん遣わされました。富におぼれて貧しい者たちを搾取していたことが咎められています。「彼(ヤロブアム)は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。(2列王14:25)

 下がソロモン時代の馬屋、そして飼葉桶であると言われています。「ソロモンは戦車用の馬のための馬屋四万、騎兵一万二千を持っていた。(1列王4:26)

 これには論争があるらしく、反対意見の人は、「馬が食べたり、水を飲んだ りするのは小さすぎる」「公共建築物の基盤だったのではないか」と言うらしいです。

 そして最後は、地下水道です。左は下は地下水道の泉です。これを城内に持ち込むために水道を作りました。
 

 地下水道からの出口です。


カファル・カルマ

 私たちはメギドを出て、65号線で帰路の途に着きました。ガリラヤ湖南へ向かう767号線の途中で立ち止まり、ある町の入口でアーノルドが説明を始めました。

 ここは、チェルケス人(Circassians)の町です。黒海とカスピ海の間にあるカフカス地方からロシアによって追放された人々が、当時のオスマン・トルコに移り住み、町を建てました。

 オスマン・トルコにとって彼らは貴重な存在でした。当時の戦いはベドウィン(遊牧民)によるもので、ベドウィンは乗馬に長けていました。カフカスの人たちも騎馬を得意としていたので(エゼキエル38章のマゴグを思い出します!)、トルコ人はこの町を急襲し拉致して、イスラム教に改宗させました。そしてオスマン・トルコの国境地域における紛争で彼らを用いたのです。

 チェルケス人の町のほとんどは現在のレバノンとシリアにありますが、中東戦争によってイスラエル側にあるのは二つのみで、一つは上ガリラヤにありますが、もう一つがここカファル・カマ(Kfar Kama)です。

 彼らはドルーズ人と同じように、イスラエル国家への忠誠を誓っています。それゆえドルーズ人と同じように兵役は義務となっています(ただし男性のみ)。

 そして私たちはガリラヤ湖の南端に行き、ホテルに到着しました。その途中で写真を撮りましたが、前日よりもさらに霞が取れて、きれいに撮れました。背景には左がゴラン高原で、右がヨルダンです。


 明日は二回目のシャバット(安息日)です。