イスラエル旅行記 10月12日
シャローム!きよきよのイスラエル旅行記を続けてお伝えします。今日は、10月12日です。ようやく後半部分に入りました。これまで、東(ヨッパ)から北(ガリラヤ)へ、北から西(死海)をとおって南(エイラット)へ行きましたが、今度は南からイスラエルの中心地、エルサレムへと向かいます。ここまでたどった日数と、エルサレムの町で費やした日数は同じです。エルサレムにいかに多く観るべきものがあるか分かるでしょう。
12日の旅程は次のとおりです。
ホテル→ティムナ→ミツペ・ラモン→スデ・ボケル→(ベエル・シェバ)→(ペリシテ人が住んでいた地域)→エラの谷→ベテ・シェメシュ→エルサレムのホテル→西の壁トンネル
エイラットからエルサレムへ
ティムナ
バスは、エイラットからヨルダン国境沿いの90番を北上しました。二日前に死海から南下してきた道です。30キロほど走ったら、バスは左に曲がり、ティムナ渓谷国定公園に入りました。はげ山を背景にした草原が広がり、西部劇に出て来るような雄大な風景が続きます。実際、ここは、ある西部劇映画のロケ現場だったそうです。鹿のような動物も走っていました。そして、「ソロモンの柱」と呼ばれる、5階建てビルの高さぐらいありそうな、赤茶色の岩が柱のように三つ並んでいます。聖書的には、ここは、ヨシュアが住み、また葬られた場所です(ヨシュア19:50;士師2:9)。柱の裏には、エジプトの神の神殿跡があるそうなのですが、そこに行く時間がありませんでした。
というのは、デービッドやエドさえ知らなかった、新しい展示物がこの柱の前に建てられていたからです。実物大の幕屋です。一人の青年がすぐ近くのテントから出てきました。ユダヤ人ではないようです。15分のガイドをしてくれることになりました。私は、彼が、テキサス州から来たアメリカ人のクリスチャンであることを後で知りました。彼は、私たちがクリスチャンのグループであることを知って、イエスさまのみわざに適用させて説明してくれました。私は、本の中の写真や絵でしか幕屋の中身を見たことがなかったので、これは驚きました。(日本語では、幕屋についての説明が、こちらのサイトにあります。)
ネゲブ砂漠
バスはティムナを離れて北上し、19番線で左に曲がり、40番で右に曲がりました。ここらあたりから、ほんとうに砂漠になりました。預言書に出てくる、「荒地」とはまさにこのことを言うのだなあと思いました。けれども、こうした砂漠に、家畜の群れ、肥沃な農地、工場、また住宅地さえも出て来るのが、ネゲブ砂漠で驚くべきことです。実は、この現象は、旧約の預言者たちが預言していたことなのです。
「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。(イザヤ51:3)」
「万軍の主はこう仰せられる。『人間も家畜もいなくて廃墟となったこの所と、そのすべの町々に、再び、群れを伏させる牧者たちの住まいができる。この山の町々でも、低地の町々、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレム近郊、ユダの町々でも、再び群れが、数を数える者の手を通り過ぎる。』と主は仰せられる。(エレミヤ33:12-13)」
そして、私たちは、ミツペ・ラモンのビジター・センターに着きました。ここから、ネゲブ砂漠を一望できます。イスラエルという小さな国にいることを忘れさせるような、広大な土地です。
そしてさらに北上しましたが、ここでアブグドールが「ナバティア人」という人たちのことをしきりに説明していました。そのときはよく分からなかったのですが、調べると、紀元前3世紀ごろから住み始めた北西アラビア出身のアラブ人の建てた町の遺跡があるそうです。紀元2世紀ごろに、突然歴史から姿を消したとか。また、ここら辺りから、遊牧民であるベドウィンの姿を目にしました。
そして私たちは、スデ・ボケルというところでバスから降りました。ここは、イスラエル初代首相ベン・グリオンの住んでいたところであり、彼が住んでいた家を見学することができました。すぐそばには、ネゲブ大学があります。ここでは、砂漠に農作物を育てる技術の研究が進んでいるところらしいです。ベン・グリオン自身、ネゲブが開拓されれば、ユダヤ人は数多く移住することができると確信を持っていました。
彼のビデオ、発言などをざっと読みましたが、外国人である私でさえ興奮させるようなイスラエル建国の熱い思いが伝わってきました。彼の書籍には、いろいろな言語の本があり、なんと日本語の図鑑までがありました。ガイドのドランによると、彼は数多くの言語に通じていたそうです。変だったのは、仏陀の像などが居間に飾られていたことですが、なんと東洋神秘に凝っていたそうです。これには、ちょっと幻滅しました。おい、それは、聖書が禁じている霊媒だよと、もし彼が生きていたら言いたくなりましたが、ドランによると、彼は信仰的にはリベラルだったそうです。けれども、聖書の知識はとてつもなくあったそうです。
ベエル・シェバ
ここで昼食を取って、バスはさらに北上します。私は睡魔が襲って、気づいたときには、ベエル・シェバにいました。だれかが、「Kiyoは、食いすぎで眠いんだ。」と冗談を言っているのが聞こえたので、「まさか、他のみんなはここで、すでにバスから降りて、観に行ったのか。」と思いましたが、そうではなかったみたいです。私は、ほんとうは、アブラハムの井戸など、見学してみたいと思っていたので残念でした。アブラハム、イサク、ヤコブにとって、ここはとても大切な場所です。神は、ハガルとイサクとヤコブに、ここでお現われになりました。
ベエル・シェバは大きな町でした。住宅が多くあります。また、他のところと同じく、農場が広がっていました。バスはそのまま40番線を北上しましたが、もし、60番線を使って北東へ行けば、ヘブロンに行きます。私はそこも行きたかったのですが、パレスチナ自治区になっていますから、たぶん、あまり観光客が楽しめるようになっていないでしょう。でも、やはり、次にイスラエル旅行に行くときは、このベエル・シェバとヘブロンは立ち寄ってみたいです。神が、アブラハムに、世界の歴史を決定づけるような壮大なご計画を啓示されたのですから、そうした霊的スポットに行ってみたいのです。
ペリシテ人の町
バスは、キルヤト・ガトというところで右に曲がり、35番線に入りました。この辺りの地域は、整頓された工業・産業都市でした。これが、実は、聖書預言にとって大事になります。この地域は、ペリシテ人が住んでいました。ガザ、アシュドデ、アシュケロン、ガテ、エクロンがその5つの町です。それぞれについて、預言者イザヤからゼカリヤまでがその破滅を預言していました。そして、事実、これらは、アレキサンダー大王の時までに完全に破滅し、ペリシテ人も全滅し(イザヤ14:28-32)二度と人が住むところではなくなりました。しかし、再建の預言もあり(アモス9:14、オバデヤ19)、今、私たちの目で、その姿を見ることができます。
ダビデとゴリアテ
35番線から左に曲がり、38番線へ北上しました。しばらくすると、エラの谷が見えました。ダビデがゴリアテを打ち負かしたところです。手前に畑があり、左横には38番線の道路があり、ビジターセンターも標識もない、単なる空き地のように見えるところでした。ここでバスを降りて、みなで小石を拾いました。デービッドは、投石で人を打ち倒すことに疑いをかける人がいるが、ラザロの墓の向かいのお店に、石投げが売られていて、お店の人がそれで石を投げると、ものすごい勢いで飛ぶことを話してくれました。実際、後日ベタニヤに行ったとき、お店のおじさんが天に向けて石投げを披露してくれて、かなり高く飛んでいったのを見ました。ゴリアテが倒れて、イスラエルはペリシテ人をガテとエクロンにまで追撃したのです。
ところで、私は、二人の人からデービッドによろしく言ってくれと頼まれていました。一人は、毎月デービッドのテープを聞いて聖書の学びをしている友人です。彼の名刺をデービッドに渡しました。彼は、東洋の人たちは、ビジネスマンのように名刺交換をするのが習慣なんだよね、と言っていました。アフリカに行ったときのことも話してくれました。「いつでも、家に遊びに来ていいよ。」とあいさつがわりに言うと、文字通り、ホテルの予約も取らずに、家の戸をたたいて、泊まりに来るそうです。もう一人は、私の知り合いの、韓国の牧師からです。彼は一度、デービッドを韓国に招きました。もう一度招きたいとのことです。そのときは、日本にも立ち寄らせてみては、と私を誘っていました。
ベテ・シェメシュ
そして、私たちはバスに乗り込み、今度はベテ・シェメシュで降りました。上り坂のところに、これまた空き地のようになっているところにおりましたが、今度は小高い丘になっており、それはテルでした。東のほうを見ると平野になっており、これが海岸地域にまで広がっているそうです。そして、西側は山や丘が重なり合うように連なっています。そこがエルサレムです。とうとう、エルサレムに近づいてきました。ドランが、「エルサレムの空気を感じる。」と言っていましたが、ほんとうにそうだなあと思いました。
さて、このベテ・シェメシュは、東のペリシテ人の領地とイスラエルの領地の境目に当たる町でした。ペリシテ人は、地中海、海岸地域を支配していた民族ですが、丘と山になるこの辺りまで支配していたのです。ダン族の領土となっていましたが、ペリシテ人の存在のために、北へ住むところを変えました。この地域は、士師サムソンが住んでいました。彼がここからペリシテ人の領土まで行き、ペリシテ人の女に引かれて、結婚したのです。
けれども、ベテ・シェメシュで大事な出来事は、契約の箱がペリシテ人の町からやってきた所であります。契約の箱は士師記の時代、約400年間シロにありました(シロには15日に行きます。エルサレムの北にある町です。)イスラエルは、鉄の武器を持っていたペリシテ人に立ち向かうことができなかったのですが、逆にペリシテ人が攻め入ってきて、彼らの町アシュドテに持って行かれました。けれども、ペリシテ人に災いが降りかかったので、契約の箱はガドに移り、ついに、このベイト・シェメシュにやって来たのです。イスラエル人は大いに喜びましたが、箱の中を見たために、多くが死んでしまいました。それから契約の箱は、後で通るキルヤテ・エアリムに安置され、ついにダビデがエルサレムへと移したのです。…この話をドランがしてくれたとき、この平野の東からやって来て、エルサレムのほうに移っていく契約の箱の様子が、目に見えてくるようでした。
エルサレム
こうして私たちは、イスラエルをほとんど東西南北網羅しました。南のネゲブ地方から東のペリシテ人の地域まで来て、残りは、イスラエルの中心部、心臓部分、いや全世界の中心と言ってしかるべきでしょう、エルサレムへと向かいます。
バスは、38番線から1番線へ右に曲がります。ここはベングリオン空港とエルサレム間の幹線道路でもあります。丘というか、山というか、それらが連なっており、だんだん上ぼっていきます。エルサレムへは、どの方向から入っても上っていかなければいけません。詩篇で「都上りの歌」がありますが、これは首都へ向かうとう比喩的な意味だけではなく、文字通り「上る」からです。終わりの日には、エルサレムが世界中でもっとも高い地域となります。
丘の上には住宅地があります。そして、道には戦車などの残骸がきれいに残されています。以前、ヨルダン領になっていたことを思い出させてくれます。バスの中で、エルサレムを慕う歌が流れました。ああ、とうとうエルサレムに入る!という感動を奮い立たせました。
エルサレム市内に入ると、道路はとても混んでいました。夕方のラッシュ時に入っているからでもありますが、エルサレムはイスラエルの首都であり、車がひしめく町でもあります。しかしながら、詩篇で歌われているように、「よくまとめられた町」でありました。黒いズボンに白いシャツを着ている正統派ユダヤ教徒が歩く姿をあちらこちらに見ました。正統派の女性は、濃い目の色の長スカート、白いブラウス、長い髪の毛をしており、とても慎み深い身なりです。石で建てられたアパートや住居が立ち並んでいます。
バスは、まずスコパス山へ向かいました。オリーブ山の北にある、ヘブライ大学があるところです。エルサレムに入ったことを感じさせるところに、まず連れて行きたかったようです。もう日没が間近でした。行ってみると、エルサレムの旧市街などを一望できました。もちろん、すばらしい眺めです。
ところで、デービッドは、エルサレムの町を歩く際の注意事項を話してくれました。物売りに要注意だそうです。彼らは破格値で売ってくれますが、その時に財布を出すと、プロのスリに持って行かれるから、ポケットにお札だけ入れておいて、必要な分だけ出しなさい、とのことです。
神殿西側トンネル
それからホテルへ向かいました。ここで残りの6日を過ごします。いつもは、夕食を済ませたらこれで終わりですが、この日は、この旅行のクライマックとも言える場所へ直行します。神殿の西壁トンネルです。6ヶ月前に予約をしたから、ここは絶対に遅らせることはできないとのことでした。私たちは再びバスに乗り、旧市街へと向かいました。バスは、上ったり下ったり、旧市街がさすが、ケデロン谷とヒノム谷の間にあるモリヤ山のところにあるなあ、と思わせてくれます。万国民の教会など、夜でも、光りが灯された教会がいくつか見えました。
バスから降りて、ついに城壁に囲まれた旧市街へと入ります。嘆きの壁があるユダヤ人地区から入りましたが、私はもう、感動しまくって、倒れそうになりました。しばらく歩くと、左側に嘆きの壁がありました!私のコンピュータの壁紙にしていた嘆きの壁が、今、私の眼に映っています!(ごめんなさい、独りで勝手に感動して。)そのそばに、トンネルの入り口があります。
これからエルサレムの町を詳しく見ていくのですが、ガリラヤ湖とは対照的に、見れば見るほど頭がこんがらがって来ました。ガリラヤ湖では、イエスさまが地上で生きておられた一つの時代だけに集中できて、しかも、主に自然や地形を見ることができるので、イエスさまがどのように活動されていたのかを一望でき、福音書の話しが鮮明になりました。けれども、エルサレムでは、たしか16回ぐらい破壊され、また再建される歴史が繰り返されており、何重もの歴史と、異なる民族や人物の出来事が同じ場所に折り重なって積み上がっているので、考えれば考えるほど、こんがらがってくる、というところがあります。何度も何度も咀嚼して、ようやくイメージができるのでしょう。
これからトンネルに入りますが、ここは主に、ヘロデ大王が建てた第二神殿、つまりイエスさまが歩かれた神殿の、西側の壁を見ることができます。けれども、発掘はさらに進められており、ところどころにハスモニア朝時代の遺跡も見ることができます。
入ってしばらく行くと、神殿の模型があり、そこで説明を受けました。私たちが見ている嘆きの壁は、西側の壁の右側のごく一部であることが分かります。トンネルは、この西側の壁に沿って掘られています。私たちが壁に沿って歩くと、なんと長さ15メートルほどもある石がありました。400トンあるそうです。現代の工学では、200トンまでしか運べないので、これは世界の七不思議の一つなのです。弟子たちが、「何とみごとな石でしょう。」と言ったのが理解できます。
ずっと歩いていくと、基盤が見えてきます。壁は平らかなところに建てられているのではなく、右に向かって下り坂になっているところに建てられているためです。これら西壁の向こう側は、もちろん、マスリム地区であり岩のドームがあります。けれども、ウォレンという人が黙って、神殿の至聖所の下へ向かって掘っていきました。けれども、しばらくしてマスリムに見つかって、埋められてしまったとのことです。
出口は、ヴィア・ドロローサに出てくるところにありました。ヴィア・ドロローサは、イエスさまが十字架につけられるときに通られた道とされている所です。そして私たちは、獅子門から出て、そこで待っているバスに乗りました。
これから、盛りだくさんの名所を訪れますので、続く旅行記を楽しみにしていてください。