イスラエル旅行記 10月13日

 シャローム!きよきよです。先週は忙しく、旅行記を書くことができませんでした。クリスマス時期も近づいていますから、また忙しくなる前に頑張らないと。(この旅行記は、99年11月末に記しました。)

 クリスマスと言えば、今日ご紹介する13日の旅程には、ベツレヘムも含まれています。以下が旅程です。

13日 オリーブ山→ゲッセマネ→ベツレヘム→ヘロデオン

 私は、イスラエルのことに深い関心を持つことによって、今までのイエスさまについての見方が変わりました。イエスさまは、イスラエルという土地と民族の中におられたわけであり、私が知っていたイエスさまのイメージは、アメリカの家の庭に飾られている、イエスさまが飼葉おけにおられる姿のような、ほんわかした雰囲気でした。けれども、それは、脚色された、悪く言えば異教的な要素を持っていることを知ります。

 また、つい最近、オリーブ山から撮られた岩のドームが輝くエルサレム旧市街のポスター写真を見て、ある宣教師が私にこう言いました。「なんで、こんな岩だらけのさびれたところを求めて、ユダヤ人やアラブ人は戦っているのだろうか。神にとって、地上の神殿は重要ではないでしょう。私たちのからだが、神殿であり、聖霊の宮なのですから。」

 私も以前、そう考えていました。けれども、「私たちの心におられるイエスさま」は、真理である反面、そのことだけに焦点を合わせると、私たちの信仰が主観的な、自分の気持ちや感情に脚色されたイエスさま像に置かれる傾向を持っています。私たちの信仰は、あくまでも神のみことばに置かれています。そして、神は、みことばにおいて、イスラエルの土地と民族を選ばれて、ご自分の物語を創出されたのです。ですから、おのずと私たちの信仰は、イスラエル的なものにならざるを得ないのです。


オリーブ山

 私たちの泊まっているホテルは、旧市街の北に位置します。そこから南東へ下ると、オリーブ山の上を通っている道路があります。展望場所があり、ここから、キデロンの谷をはさむ、エルサレム旧市街の全景を見ることができます。ここにさっそく、物売りがいました。この風景のポスターであり、一枚1ドルです。これは安い!私は、5枚買いました。そして、Hope For Todayのグループは、それを背景にしてグループ写真を撮りました。これで、メンバー全員の顔を家に持って帰れます。名前と住所のリストは、仲間の一人が作ってくれましたから、残りは顔と名前を合致させるだけです。これをやってくれた人もいました!彼らとは、今もEメールなどで、旅のことを分かち合うことができます。

 それから私たちは、少し坂を下り、ユダヤ人の墓地まで来て、そこでドランがオリーブ山について説明してくれました。

 「イエスさまは、エルサレムに来られたとき、いつもオリーブ山に来られました。この山のふもとがゲッセマネです。オリーブ山と呼ばれているのは、オリーブの木があったからですが、今はほとんどオリーブがありません。アラブ人の村やユダヤ人の墓地になっています。(後日、私と他の一人がオリーブ山に来たとき、道に迷ってしまい、出てきたところにアラブ人の住居があって、その家の人たちとあいさつを交わしました。)ここはイエスさまが昇天されたところでもあり、昇天の場所と言われている4つの教会があります。このユダヤ人の墓は、ほとんどが最近のものですが、一部は2千年も経っています。ユダヤ人がここに葬られているのは、ゼカリヤ書14章にあるように、メシヤがこのオリーブ山に来られて、そのときに死者が復活すると信じているからです。」

 デービッドは、このメシヤの来臨について、さらに詳しく説明してくれました。「イエスさまが再臨されるときは、イザヤ書63章によると、まずボツラ(ヨルダンにある)に行き、反抗する軍勢を打ち倒されます。そして、最終的な勝利をたずさえてオリーブ山に立たれます。ダニエル書12章によると、その日が第70週目の真ん中から1290日目であり、1335日との差である45日の間に、諸国が主イエスさまによってさばかれます。」

エルサレムのために主が泣かれた場所

 そして、私たちは急な坂道を下って、今度はイエスさまがエルサレムを見られて、涙を流されたと言われるところへと向かいました。そこには、古代のユダヤ人墓地の跡が残されていました。また、「ドミナス・フレビット」という教会もあるようですが、そこには入らないで、そこからエルサレム旧市街が見えるところで、ドランとデービットが話してくれました。城壁の東の門である「黄金の門」が、よく見えます。けれども、これは当時の門とは少しずれており、実際の門は現在のイスラム教徒の墓地になっています。その墓地は、「獅子の門」の隣にあります。

 イエスさまは、エルサレムに入られるとき、ゼカリヤ書9章9節にあるように、ろばの子の背に乗って来られました。群集が、「ホサナ!」と叫びましたが、それは詩篇118編にある、メシヤ預言です。だから、パリサイ人は群集をいさめるようにイエスさまに言われましたが、イエスさまは、「彼らがだまれば、石が叫ぶでしょう。」と言われました。この石は、もしかしたら、ユダヤ人の墓石を意味していたかもしれません。群集は叫び、パリサイ人はイエスさまを批判しました。けれども、イエスさまは、泣かれました。全知の主として、40年後にこの都に起こることを、悲しみ泣かれました。そして、イエスさまは、この場所から宮きよめに行かれます。

主が十字架刑にされた場所

 ドランは、エルサレムの旧市街にある聖墳墓教会について説明してくれました。確か、そこから教会が見えたのだからだと思います。それは、カトリックの伝統で、イエスさまが十字架につけられて、また、3日目によみがえられた墓があるところです。けれども、城壁の外には「園の墓」があり、これもまた十字架刑が行なわれたゴルゴタとイエスさまの墓ではないかと言われているところがあります。

 けれども、デービッドは、おそらくどちらでもないだろうと言いました。なぜなら、マタイ27:51,54によると、十字架刑の場所から、神殿の幕が上から下に真二つに裂けたのが見えなければいけないのであり、唯一見える場所は、このオリーブ山の上から、とのことでした。イエスさまは、「木にかけられた」のであり、オリーブの木にはりつけにされた可能性があります。けれども、最後に、「どこで死なれたかは、あまり重要ではないですね。主はよみがえられたのだから!」と言っていました。

ゲッセマネの園

 そして私たちはさらに坂を下って、ついにゲッセマネの園の到着しました。オリーブの木が数本ある庭園です。その中には、2千年の年輪があるものもあるそうです。つまり、イエスさまが地上におられたときのものです。当時は、この山の至るところにオリーブの木があり、その油を圧搾するところがありました。そこから、ゲッセマネという言葉が来ています。ヘブル語だと、ガト・シャムナと発音するそうであり、ガトが圧搾機で、シャムナがオリーブ油です。そして、その園のとなりに「万国民の教会」があります。中には、イエスさまがもだえて祈られた岩と言われているものがあるそうで、私たちは、とりあえず中に入り見学しました。そして、ゲッセマネの園の近くにある、人が集まって礼拝できるような場所があり、そこでデービッドがメッセージをしました。

 「(マタイ26:31‐56朗読後)31節と32節には、裏切りの予告(Prediction)が書かれています。イスカリオテのユダです。イスカリオテという名前から、彼はエドム人であることが分かります。

 33節から35節には、ペテロのでしゃばり(Presumption)が書かれています。私たちが後日訪れるカヤパの家で、ペテロは三度主を否定しました。彼は自分の弱さを理解していなかったのです。そして、36節以降に、父のみこころに服従するイエスさまの祈り(Prayer)が書かれています。イエスさまは、悲しみもだえ始められました。これは、自分で制することができない、心の奥底からのもだえを意味します。なぜ、もだえられたのでしょうか。ある人は、ペテロがご自分を否なれること(denial)を考えておられたと言います。ある人は、誰が一番偉くなるかという弟子たちの議論(discussion)であると言います。また、ユダの欺き(deceit)、三人の弟子が祈れなかったことに落胆されていた(disappointment)と言いますが、私は、聖書が、なぜかを明らかにしていると思います。イエスさまは、父のみこころにささげていた(dedication)ので、もだえておられたのです。イエスが過ぎ去らせてくださいと願われた「杯」とは、十字架上の死ではありません。なぜなら、死なれるためにイエスさまは地上に来られたからです。そうではなく、「苦しみ」です。ヘブル書5章に書かれています。イエスさまは、私たちのために苦しまれました。

 イエスさまは、「目をさまして、祈っていなさい。」と言われましたか、これは、誘惑におちいらないためです。第一ペテロ5章によると、悪魔がいるので目をさましていなければいけません。そのためには、祈らなければいけません。私たちの肉は弱いので、祈ることによって、主ご自身の力に全面的に頼ることができるのです。

 私たちはとかく、イエスさまがどのような方かを忘れてしまいます。12軍団の御使いをお呼びになることもできた、また、イエスさまを捕らえにきた者たちは、ドミノのように倒れてしまった。イエスさまが完全に状況を支配されていたのです。けれども、預言が実現するため、私たちのために苦しまれました。エルサレムに来ることは、私たちが神に服従しなければいけないことを教えます。「わたしの願いではなく、あなたのみこころのままになさってください。」という主の祈りにあるように。」


ベツレヘムへ

 そして私たちは、オリーブ山のふもとにある道路からバスに乗り、ベツレヘムへと向かいました。ベツレヘムは、エルサレムの南に位置する、エルサレムに隣接する町です。エルサレムのユダヤ人の居住区から、ベツレヘムのパレスチナ自治区に入ります。ユダヤ人が住んでいるところは、きれいに整頓された、こぎれいな所ですが、ここに入ると、砂埃が立ち込め、ゴミがたくさん投げ捨てられており、窮屈で雑然とした所に変わります。(でも、これは飽くまでも私の感想なので、もっと肯定的な感想を持つことができる人がいるかもしれないことを、付記しておきます。)

 道の両脇に車がたくさん駐車されているところがありましたが、アラブ人がここに駐車して、エルサレムへ出勤に行くそうです。道路工事をしている人の一人が、ひざまずいて祈っていました。イスラム教のメッカへ向かった祈りです。また、出店をたくさん見ました。混雑しているので車は一時停車するのですが、そこにやって来て、物売りが売ろうとします。途中に、ラケルの墓がありました。この場所は、ユダヤ人にとって、とても大切なところですから、しっかりと警備されていました。

 そして、私たちは、あるお店に到着し、そこで降りました。デービッドによると、ここのオーナーと知り合いであり、信頼できる人であるから、買い物をしたい人はここでしてください、とのことでした。いろいろなものが売られていましたが、オリーブの木の彫刻が目立ちました。イエスさまがお生まれになった場面を彫刻しているのがたくさんありました。でも、私は、それらは買わずに、AHAVAのクリームと、ノアの箱舟のオルゴール(とってもかわいい!)と、そして、シナイで切りとって来たと書かれていた、十戒の石板のミニチュアを買いました。

 買い物が終わって、バスで待っていると、物売りがバスの入口で商売を始めます。ガイドは、彼らをバスには決して入れませんが、売っているものをみなに見せてあげて、買いたい人がいるか聞いてきます。何人か買っていました。

聖誕教会

 そして、バスは、イエスさまがお生まれになった場所に建てられているチャーチ・オブ・ネティヴィティ(聖誕教会)に向かいました。けれども、その途中で、観光バスは指定された駐車場に駐車させられて、10分ほど歩かなければなりませんでした。去年は、その教会の前にある駐車場まで行けたそうです。

 理由はすぐに分かりました。その通りで建築工事が盛んに行なわれているからです。西暦2000年にローマ法王がここを訪れるのを準備するためです。アラブ人が、アラブの歌をカセットテープで聞きながら、法王のために工事をしています。そして、もっと驚いたのは、この通りは、日本の会社が買収したとドランが言っていたことです。日本の会社って、ほんとうに世界中に進出しているなあと思わされました。

 そして教会に着きました。石造りのかなりしっかりとした建物です。入口は、かなり小さく、背の低い私でもしゃがまなければならないほどでした。これは、建物の中を守るために、当初の門を改修して小さくしたそうです。ですから、最初のときの門の跡も見ることができます。中に入ると、かなり広い空間があり、ずっと向こうの正面には、金色の祭壇がありました。天上から、飾り物がぶらさげられており、ちょっと、仏閣の中に入ったふいんきです。そして、床の一部に穴があり、そこには、大理石の床が見えていました。ドランが、この教会について説明してくれました。

 「これは、1400年の歴史をもつ教会です。イエスさまが生まれたところとして、ここはすべての伝承が一致しており、かなり信憑性が高いところです。イエスさまがお生まれになったところとして、大ぜいの初代クリスチャンがここを訪れていたので、それを嫌ったローマは、紀元2世紀に、ここに異教の神殿を造りました。コンスタンチヌス帝の母ヘレナは、そのことを知って、その神殿を打ちこわし、紀元325年に教会を建てました。その後、5世紀にサマリヤ人によってこわされましたが、6世紀にユスチアヌス帝が再建しました。

 この教会は、破壊されたなかった唯一の教会です。614年にペルシヤが侵略し、存在しいたすべての教会をこわしました。シナイにあるカタリナ修道院とこの聖誕教会だけは取り残されましたが、その理由は、カタリナ修道院はそんなものがあることを知らなかったのですが、聖誕教会が残された理由は知られていません。もしかしたら、彼らは、東方の博士たちの絵画を見たのかもしれません。東方はペルシヤですから、「何か、私たちに関係のあることなのかもしれない。」と思ったのでしょうか。この中は、ギリシヤ正教会とアルメニア教会とカトリック教会が管理している部分に分かれます。床の下に見える大理石は、コンスタンチヌ帝のときの床です。」

 そして、私たちは正面にある祭壇のところまで来て、右に回り、祭壇の裏手にある小さな入口に通りました。そこは、イエスさまがお生まれになったと言われる地点、石造りの宿の中と言われているところです。イエスさまがお生まれになった地点には、星の形をした穴があって装飾されており、また、2メートルほど離れたところには、飼葉おけがあったとされているところが装飾されています。私はしゃがんで、その穴を見ていたとき、二人の小さな子どもがやって来て、なんとその一人の女の子が、穴の中に自分の頭を入れて、遊んでいるのです。実にけな気でした。たぶん、この教会を管理している人の子どもたちなのでしょう。

 ここでデービッドが少し説明を加えてくれました。ミカ書4章8節によると、ベツレヘムが「羊の群れのやぐら」と呼ばれています。そして、ミカ書5章2節には、メシヤがベツレヘムから出てくることが預言されています。ベツレヘムでは、エルサレムの神殿でささげられる犠牲の子羊が飼育されていたところです。ここからエルサレムに運ばれて、神殿でほふられます。イエスさまは、過越の犠牲の子羊が生まれるところで、お生まれになりました。そして、過越の子羊がほふられるところで、死なれたのです。そして、私たちは、クリスマスの歌をここで賛美して、教会を出ていきました。

 そして、バスに乗り、元来た道を通りましたが、再び途中下車して、昼食を取りました。ファラフェルの昼食です。お店の人が、手際良く、袋状のパンのなかにファラフェルと他の具を入れてくれました。ここで、ブライアンがとんでもないことをしました。なんと、そのお店のところにいる物売りから、その売られているものを手にして店の中に持ってきて、私たちにセールスを始めたのです!リベートをもらおうという魂胆です。もちろん、ユーモアの一部で行なっているのですが、ちょっとやりすぎでは、と思いました。(この彼、エリコでは、アラファト議長もかぶっているPLOのベールを買って、かぶっていました。)

羊を飼う丘

 そして、バスに乗って、またすぐ降りました。そこからは、ベツレヘムをたしかに「シオンの娘の丘(ミカ4:8)」として見ることができる場所でした。ベツレヘムは、羊を飼う丘なのです。ここで、エドがベツレヘムの説明をしてくれました。

 「ベツレヘムは、長い歴史のある小さな町です。ちょうど、玉ねぎのかわをむくように、いろいろな歴史を見ることができ、最後にアブラハムを見出すことができます。ここは、アブラハムにとって、またほかの族長にとっても、重要な町でした。ラケルはここでベニヤミンを生んで、死にました。カレブは、ここから南15マイルにあるヘブロンを自分のものとしたいと言いました。

 そして、ベツレヘムは、メシヤとの関わりが深いです。イエスさまがお生まれになることは、メシヤ来臨の待望が人々の間で高まっていたときでした。私たちも、今、イエスさまの再臨への待望が高まっている時代に生きています。(これを聞いて、ほんとうにそうだなあと思いました。アドベントの歌をうたうと、私はどうも、再臨を待ち望む歌に聞こえてしまいます。)

 そして、ベツレヘムは神の受肉との関わりがあります。ナザレの町もそうですが、紀元前100年ごろから、バビロンからガリラヤ地方に戻ってきた人々がおり、一部はゴラン高原のある町に、そして、ダビデの直系である何人かが共同生活を始め、彼らがナザレ人と呼ばれるようになり、その町がナザレと呼ばれたのです。ここで、御使いがマリヤに、イエスさまをみごもることを告げたのです。

 また、贖いとの関わりがあります。ガラテヤ4章4節によると、「時が満ちて」、キリストがお生まれになったことが書かれていますが、400年の沈黙を打ち破って、御使いが、まずザカリヤにバプテスマ・ヨハネの誕生を告げます。このときに、初めて、世界の言語がローマ帝国の中で始まりました。時が熟していたのです。

 さらに、ベツレヘムは、預言との関わりがあります。エルサレムといっしょにされて、「ユダの町」として数えられています。また、歴史的な関わりがあり、ベツレヘムは、神のご計画のなかで注目の町とされているのです。」

 またデービッドが話しましたが、マタイ1章1節についての説明です。日本語訳では、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」となっていますが、本当はアブラハムとダビデの順番が逆になっており、「ダビデの子、アブラハムの子孫、イエス・キリストの系図」となっています。そこでデービッドは、本来ならアブラハムが先に来るべきだが、ダビデの子が先に来ているのは、マタイが、イエスがメシヤであることを証明するためである、と言いました。

 ヘブル語のアルファベットには、それぞれに相当する数字がありますが、「ダビデ」のヘブル語の、3つのアルファベットの数字を合計すると14になるそうです。さらに、メシヤのヘブル語の数字を合計しても14だそうです。1章の系図は、14代ずつで区切られていますが(17節)、本当はもっと多くの代があります。なぜ14代かというと、ここでメシヤの系図を表しているからです。ですから、ベツレヘムは、「ダビデの町」なのです。


ヘロデオン

 ベツレヘムから、今度私たちは、ヘロデオンというところに行きました。ベツレヘムから南東5キロに位置するところにあります。オリーブの山やベツレヘムと違って、ヘロディオンまで行く観光バスは私たちしか通っていませんでした。アラブ人の家屋がまばらにあり、途中で、羊を抱いて通りの近くまでやって来たアラブ人の少女がいました。ガイドのアビグドールは、いっしょに写真をとって、お金をもらおうとしているのだ、と教えてくれました。

 ヘロデオンは、マサダに並んで、ヘロデ大王の要塞、兼、宮廷となっていたところでした。けれども、マサダと同様、一度も使うこともなく死んで行きました。ヘロデ大王はエルサレムに住んでいましたが、エルサレムで反乱が起こったさいに逃げてきて、住みつく場所として、ここを要塞としたのです。事実、ここからの見晴らしは、東西南北とも遥か彼方まで見届けることができ、戦略的な場所であることがわかります。ここでヘロデ大王は埋葬されたという記録が、ヨセフスの文献にあるそうですが、発掘しても発掘しても出て来ないそうです。

 ヘロデオンは、富士山のかたちに似た丘となっており、てっぺんに上がると、浴場などの遺跡や、また後にユダヤ人反乱の要塞として使われたトンネルなどがあります。このヘロデオンからの眺めがすばらしいです。なんと、ここから東には死海が見えます。南はネゲブ砂漠、そして、もちろん北西にはベツレヘムがあり、北にはエルサレムが見えます。死海の向こう側はモアブですが、あのルツは、ナオミとともにあのモアブから砂漠をとおって、北西に見えるベツレヘムまで来たのです。南側に行くと、近くにユダヤ人の居住地が見えますが、「テコア」と呼ばれているそうです。そこは、預言者アモスが出てきたテコアの町だからです。

 私たちは真ん中にある遺跡のところに入り、宮廷の柱らしきものが何本か立っていたので、アビグドールはサムソンの真似をしていました。二本の柱をつかんで、ペリシテ人の宮殿を破壊してしまった場面です。そして、そこからトンネルに入れたので、入って、出てきたところに、なんと羊飼いたちがいました。まだ小学生ぐらいの少年たちです。一人が子羊を手に抱いていました。羊たちは地面に顔を突っ込んで、何かを食べているようなのですが、そこは乾いた砂というところで、何を食べているのか不思議に思いました。根っこでもあるのでしょうか。そこで、彼らは私たちに、一人ずつ1ドルをくれるように頼んできたので、渡しました。どこでも商売、という感じですね。

 日も傾いて、間もなく日没になろうとしていました。バスはそのままエルサレムへと向かい、13日が終わりました。

(次回に続く)