イスラエル旅行記 10月14日

 シャローム!きよきよです。今回は、10月14日のイスラエル旅行についてお伝えします。この日は、主に、エルサレム旧市街の辺りを巡りました。旅程は下記のとおりです。

14日 ダビデの墓→聖霊降臨の屋上の間→神殿協会→嘆きの壁→モリヤ山→ヤド・バシェム(ホロコースト記念館)

 エルサレム旧市街とは、城壁に囲まれた町のことを指しています。その中には多くの住人がいますが、数多くの遺跡、教会、モスクなどが残されており、ショッピングもできます。現在、私たちが見る城壁は、紀元1500年代のオスマン・トルコ朝によって建てられたものであり、主が地上におられたときの第二神殿時代のものとは異なります。けれども、重なる部分もあり、オスマン・トルコの城壁の土台には、前の時代の城壁が使われていたりします。(旧市街ツアーのサイトは、こちらへ。ただし英語です。)

 後ほど紹介する神殿協会において、このエルサレムを、時代を追って説明している地図を購入しましたが、それによるこの町は、次の時代を経ています。

世界の創造 (モリヤ山の基盤となる岩から世界が創造したというユダヤ人の伝説がある)
紀元前2000年 イサクをささげる
紀元前1000年 ダビデ、エルサレムを攻略
紀元前 950年 ソロモン、神殿を建てる。
紀元前 701年 ヒゼキヤ王、エルサレムを要砦化する。
紀元前 586年 神殿がバビロンによって破壊される。
紀元前 516年 第二神殿
紀元前 167年 ハスモネ家
紀元前 37年  ヘロデ、エルサレムを支配
紀元   70年 第二神殿、破壊される。
紀元   132年 バル・コクバの反乱
紀元   324年 エルサレムのビザンチン
紀元   638年 エルサレムのイスラム教徒
紀元  1099年 エルサレムの十字軍
紀元  1187年 イスラム教徒、戻る。
紀元  1250年 エルサレムにいるマムルーク朝
紀元  1516年 オスマン・トルコ
紀元  1860年 城壁を越えて (ユダヤ人が、混雑した城壁内を越えて外に建築)
紀元  1917年 エルサレムの英国
紀元  1948年 イスラエルの首都エルサレム
紀元  1967年 六日戦争
今日のエルサレム
将来のエルサレム (イザヤ2章を引用)


 こんなに厚みのある歴史が、周囲4キロの城壁の中と、その周辺に残されています!


ダビデの墓

 私たちは、最初、城壁の南側にあるシオン門の近くにあるシオンの丘に行きました。(ここは、イエスさまが地上におられた時は、城壁の中にありました。)途中で、正統派ユダヤ人の小学校らしきところを眺めなめて(子供たちがかわいかった!)、ダビデの墓があるところでドランが、この場所について説明してくれました。

 「ここは、2千年の間、ダビデが葬られたところとして言い伝えられています。けれども、ダビデが葬られたのは3千年前のことですから、実際はどこに葬られたかは知らされていません。イエスが地上におられたときには、すでにこの墓がありました。この関わりは、とても大切です。なぜなら、伝承によると、ダビデは五旬節の日に生まれ、五旬節の日に死んだとされているからです。このすぐそばの屋上の間において、使徒行伝2章の出来事が起こりました。その建物自体は、もちろん破壊されてしまっており、現在残っているのは十字軍が建てたものです。」

 そして、ダビデの墓が安置されているところに入ります。入るとき、頭を隠すためのキッパが用意されていたので、それをかぶりました。中に入ると、ベージュの布が掛けられていた棺桶がありました。祈祷書を手にしながら、祈りをささげている人が何人かいました。

 そこを出るとすぐそばに、屋上の間と言われているところがあります。建物は違うものの、まさにこの場所で聖霊が降臨され、弟子たちが聖霊に満たされて、ペテロが説教をし、ここから教会が誕生したのです。デービッドが、話しを始めました。「クリスチャンが日曜日に教会に通うのは、ユダヤ的な理由があるからです。ユダヤ人の祭りの二つは、日曜日に守られました。一つは、五旬節で、もう一つは初穂の祭りです。初穂の祭りのときに主がよみがえられ、五旬節のときに聖霊が臨まれました。」

 そして、デービッドは、使徒2章から読み始め、所々で注釈を加えました。それとは別に、ただ朗読を聞いていただけで私が気づき、驚いたことがあります。先ほどダビデの墓を見たばかりですが、五旬節の日にダビデが亡くなったという伝承があれば、ユダヤ人たちはこの日に、この墓のところへたくさん集まってきたはずです。それゆえ、世界中からのユダヤ人が、このところにたくさんおり、彼らが激しい風が吹くような音を聞いたのです。五旬節は、過越の祭りと仮庵の祭りと並んで、ユダヤ人成年男子が参加しなければならに祭りでしたが、ダビデの墓に近かったことも、彼らがその音を聞いた理由でした。

 また、2章の29節以降を読むと、ペテロが、詩篇に出てくるよみがえりの預言は、ダビデのことではなくメシヤであることを説明していますが、ペテロは、目の前にあるダビデの墓を例に出して話していたことに気づいたのです。これは、パワフルです。多くのユダヤ人が、これを聞いて心が刺されたのも理解できます(37節)。

 聖書を朗読した後で、デービッドは、信じる者のうちに聖霊がいてくださることを話し、それからみなで、聖霊が注がれることを祈るプレイズを歌いました。日本語にもなっていますね。


御霊の注ぎいま我に、御霊のいのち、あふれ出る。
きよめ、生かし、遣わしたまえ。
御霊の注ぎ、いま我に。

 それから私たちは、城壁の中に入っていきますが、このダビデの墓の近くに、なんとパープを持って、王冠をかぶって、ダビデの容貌を真似している人がいました。「地球の歩き方」にも彼の写真が載っており、「大道芸人」と呼ばれていましたが、実は彼、オーストラリアから来たクリスチャンで、もう7年以上ここで路傍伝道をしているのです。デービッドは、彼のことをよく知っているようで、久しぶりの出会いを喜んでいました。

 彼は、このグループがアメリカからのを知ると、神がいかにアメリカを祝福してくださったかなどを話しましたが、最後に、デービッドが私のことを紹介し、日本から来たことを話してくれました。そうすると、彼は私の肩に腕を回して、日本のために、宣教の働きのために祈ってくれました。路傍伝道によって、がらがらになった声で。私は、心の底から励ましを受けました。


神殿協会へ

 そして私たちは、ユダヤ人地区に入ります。旧市街は、4つ、いや5つの地区に分かれます。ユダヤ人地区のほかに、クリスチャン地区、アルメニア人地区、イスラム教徒地区、そして神殿地区です。けれども、神殿地区は実質的にイスラム教徒の礼拝の場所になっていますので、そこもイスラム教地区に括ってしまってもいいのでしょう…か?このところが、私がよく分からない複雑な部分で、つい最近のニュースでは、イスラエルがこの地区に対する主権を失いつつあるという記事がありました。

 私たちクリスチャンは、クリスチャン地区が一番合っていると考えてしまうかもしれませんが、そこはカトリック地区と呼ぶべきで、私はとくに好きになれませんでした。異教的で、偶像が多いからです。一番気に入ったのは、ユダヤ人地区です。お店はありますが、執拗に物を売るようなことはしないし、町並みがこぢんまりとして整っています。それに、彼らが信じているのは私たちの旧約聖書ですから、そこにいるだけで、聖書のことをさらに深く知る機会が多く与えられます。その一つが、神殿協会(the Temple Institute)です。私たちのグループは、このユダヤ人地区にある神殿協会にて、神殿の建築と儀式について学ぶことができました。

 私たちはまず、15分程度の映画を見ました。その鑑賞の前に、ニューヨーク、ブルックリン出身のユダヤ人女性の方が、この神殿協会のことについて説明してくれました。これまでの第一神殿、第二神殿の中身を知ると同時に、第三神殿の建築といけにえの儀式の再開を願っています。映画を見た後に、香壇や祭司の装束など、神殿の用具が陳列されている部屋で、また別の女性から説明を受けました。これらは、実際に第三神殿で用いられるものなのでしょうか、確か、チャックのダニエル書やマルコ13章の聖書講解で、この神殿協会がすでに神殿の用具を作って、神殿建設の機会を待っているという話を聞いていましたから、たぶん、模型ではなくて、実際に使うためのものでしょう(ちゃんと、質問しておけば良かった…^_^;)。香壇の香も陳列されており、その匂いを嗅ぎましたが、かなり強烈です。その陳列されている部屋を出たあとに、今度は、第二神殿(ヘロデ大王が建てたもの)の模型を見ながら説明を受け、次に、中庭にある祭壇などの説明を受けました。

 全体的な印象は、「やはり複雑で難しい」です。今、私たちの集会でレビ記を学んでいますが、模型として見ることのできる幕屋と違い、実際にいけにえをささげる場面を見ることができないので、その理解がけっこう難しいです。いけにえささげる儀式の、コンピューターのシミュレーションなどないのかなあ、と思わされてしまいます。

 ここで、先ほど紹介させていただいた時代を追うエルサレムの地図を買いました。

“TIME LINE Jerusalem Thru The Ages”
Genesis Jerusalem Institute
(Address: 70 Ha’Yehudim St., Jerusalem, 97500)

 この住所で、注文できるようです。これを他の仲間に見せたら、みんなが買いたいと騒いでいました。ほんとうに、見やすいんです。この複雑なエルサレムの歴史を、簡単に一望できます。

 その一方、買わずにいて後悔しているのが、”Holy Temple”という、神殿についての説明が書かれている本です。Galilee Experienceのカタログにもあったら、そこで買おうかなあと思っています。神殿協会にはホームページがあります。http://www.temple.org.ilです。


嘆きの壁

 私たちのグループは、この近くのカフェテリアで少し休んでから、嘆きの壁へと向かいました。岩のドームを背景にした嘆きの壁の光景は、あまりにも有名ですが、そこで写真をとったあと、実際の場所へ向かいます。中に入るとき、セキュリティーチェックを受けました。そして、そこは、紛れもなく嘆きの壁でした!言葉でどう言い表したらよいか分からないのですが、私は、最後日の自由行動のときも、また、日本に帰る日の、空港へ向かう直前に旧市街を訪れたときも、この嘆きの壁に行くほど、私は惹きつけられてしまいました。

 ところで、この日はバル・ミツヴァ(成人式)でした。この嘆きの壁の場所で、13歳になった少年が、他の大人から祝福を受けます。嘆きの壁のところに行くときも、頭にかぶりものをするための紙帽子が用意されており、私はそれをかぶって、壁のところまで行きました。紙切れに、“Bring revival to Japan(日本に、リバイバルを)”という願い事を書き、それを岩の裂け目に入れて祈りました。

 そこには、いくつかの机が用意されており、そこに大きなトーラの巻き物を置き、ユダヤ人の大人たちが少年の頭に手を置いて、大きな声で祈っています。リズミカルで、活気のある祈りです。この場所には、女性は入れません。女性は、この隣にある女性が祈ることができる場所で祈ります。ですから、仕切りの向こう側からのぞきこんで、男の子への祝福をともに行なっていました。また、嘆きの壁の左側にトンネルがあり、そこでも、嘆きの壁に向かって祈る人々の姿がいました。そこには本棚もありました。


神殿の丘

 20分ほどそこにいてから、私たちのグループは神殿の丘へと向かいました。再びセキュリティーチェックがあります。今度は、イスラム教徒の礼拝の場所に入るからです。かなり混んでいて、時間がかかりました。

 そして、そこはモリヤ山です。アブラハムが、イサクをささげようとしたところです。また、もちろん神殿が建てられた場所でもあります。木陰で、デービッドがこの場所について説明してくれましたが、あいにく録音していませんでした。覚えているのは、彼がかつて、他の場所でしているようにここでもメッセージをして、「聖書」という言葉と「キリスト」という言葉を聞いたイスラム教徒が憤慨して、止めに入ったということです。ですから、音量を下げて説明するだけにとどめているそうです。

 そして、私たちは岩のドームに行きました。たしか2ドルで中には入れるそうですが、私たちは入りませんでした。ドランは、「お金を払って、彼らを支持したくない。入っても、彼ら以外はinfedel(非イスラム教徒)つまり人間以下とみなされるから、不愉快になるだけだ。」と言っていました。

 私は、この言葉をそのまま鵜のみにできませんでした。ユダヤ人に対し偏見を持ってはいけないように、イスラム教徒に対しても偏見を抱いてはいけない、主は彼らをも私たちと同じように愛しておられる、と考えるからです。けれども、イスラム教について、もっと知識を得なければいけないと思いました。以前、Islamic Invasion (by Robert Morrey)という本を買って、まだ全部読んでいませんでした。イスラム教が自分には身近な問題ではなかったからです。けれども、中東問題を考えるときに、また終わりの時の預言を考えるときに、イスラム教の理解は不可欠であると感じましたので、これから読んでいきたいと思っています。(きよきよのイスラム教についてのエッセイはこちら。)

 ドームの壁の日陰になっているところで、イスラム教徒の女性や子供が座って休んでいました。実に平穏な風景です。すれ違うときは、にっこりと笑ってあいさつをしてくれます。そして、私たちは、そこから獅子の門にまで続く小道を歩いていきました。途中で、私たちは止まりました。黄金の門のところでです。オリーブ山から見た反対方向から黄金の門を見ていることになります。ここでデービッドが、神殿の位置について話しました。実際の神殿の位置について、いくつかの意見があるそうで、Hope For Todayのウェブサイトhttp://www.hopefortoday.org/のリンクに入ると、神殿の位置についてのサイトがあります。私たちによく知られているのは、岩のドームの場所から少し北側にずれたところに聖所が位置していたので、彼らの礼拝の場所を残したままで神殿を建てることができる、というものです。黙示録11章2節がよく引用されます。

 神殿地区を出るところに、イスラエル兵が警備していて、そこから30メートルぐらいで獅子の門にたどり着きます。その間の広場に出店がたくさんあり、子供たちのおもちゃを売っているお店には子供たちが集まっていたので、私は写真を撮りました。獅子の門の辺りにも出店がありますが、私が不愉快になったのは、ゴミだらけだったことです。例えば、出店で靴を売っているのですが、その靴を入れていた紙箱や紙くずが散乱しています。ゴミ箱に捨てるという概念はないのか、と思いました。バスの運転手さん(ユダヤ人)によると、アラブ人の町は外側は汚いのですが、家の中はとてもきれいになっているそうです。床に食べ物が落ちても拾って食べることができるほどだ、と言っていました。やはり、こういう感覚が私には理解できないので、もっと彼らの文化や宗教について調べなければいけないなあ、と思います。


ヤド・バシェム

 そして私たちはバスに乗りましたが、次の目的地は、ホロコースト記念館(Yad VaShem)です。西エルサレムにあります。(その前に昼食を、劇場にある食堂で取りました。)この博物館は、確かに資料などは展示されていましたが、むしろホロコーストで亡くなったユダヤ人を追悼する色彩が強いところでした。というのも、私と妻は、ワシントンDCにあるホロコースト博物館に行ったことがありますが、そこよりも規模は小さく、義人の木(ユダヤ人を助けた異邦人)や、彫刻などが多く、研究するという雰囲気ではありません。けれども、もちろん ここはここで見ごたえがありました。

 ホロコーストが起こったとき、その多くがポーランドに住んでいました。10パーセントはユダヤ人だったそうです。ドイツには一パーセント未満だったので、実際の迫害はドイツがポーランドに進攻してきてから起こったことになります。ユダヤ人は、中世のことからゲットーという地域で住むようになる、か、あるいは住まされて、生きてきました。ドイツは、数あるゲットーにいるユダヤ人を一つのゲットーに押し込め、そこで人は病気になり、死んで行きました。それでは多くのユダヤ人は生き残ったので、ヒトラーは、「最終解決法(Final Solution)」を打ち立てました。アウシュヴィッツなどの収容所に送り込んで、ガス室で死なせることによって、ユダヤ人全滅を試みたのです。

 私たちは、この中にある子供博物館に入りました。館内は暗く一面鏡になっており、ろうそくが灯るなか、スピーカーから犠牲になった子供たちの名前が読み上げられていました。次に、私たちは、ある彫刻の前に立ちました。子供たちを抱えている一人の大人の彫刻です。彼は、242人のユダヤ人孤児を世話していたヤノシュ・ユチャク(?)という人で、収容所のガス室に子供たちが送り込まれるとき、自分もいっしょに行き、ともに死んだ人でした。

 ・・・もちろん、涙なくしてホロコーストの歴史を知ることはできませんが、私はなるべく客観的に、冷静になろうとしました。ワシントンDCのときもそうでした。私に興味があったのは、「なぜ」そのようなことが起こったのか、「どのように」起こったのか、ドイツ人だって私たちと同じ人間なのだから、このような結果になるのを知りながら行ったのではないだろう、と思ったからです。私は、また聖書から、悪魔がその背後に働いていると信じています(黙示録12章)。

 まず、ユダヤ人に対する悪魔の仕業があります。私たちは、ユダヤ人を愛し、彼らの側につくか、もしそうでなければ、彼らを激しく憎む敵になるか、どちらかしかない、ということです。ユダヤ人の問題を取り扱うとき、私たちは霊の戦いの領域の中に入ると思っています。少しでも道をそれてしまうと、とんでもない方向に進んでいってしまう、ということです。現に、ルターを始め、実に多くの良心的なクリスチャンが、ユダヤ人に対して激しい憎しみの感情を表してきました。

 そして、もう一つは、この世の中に悪魔が働いています。ナチの台頭と隆盛の歴史を見ると、私たち日本人が過去に犯した過ちとさほど変わりません。ナチの考えによれば、自分たちの人種が優れており、自分たちが世界を支配して、弱い者は排除されるべきであり、いのちの尊厳は二の次にされます。日本人が今になっても捨てない天皇制は、まさにこの偏狭な考えに基づいており、それゆえクリスチャンになる人が少ないと言っても過言ではありません。

 さらに、私たちが終わりの時に入っていることを知ります。世界の諸国の壁がなくなり、「平和」「共存」の名のもとで、しだいに個人の自由が奪われ、全体主義化しています。ですから、ヨーロッパで起こったあの悲劇は、これから必ず来るであろう大患難の原型にしか過ぎなく、ホロコーストを見るとき、私たち自身の間で、たった今、反キリストの霊が働いていることを知らなければいけないのだ、というのが私の確信です。・・・

 その彫刻を私たちが見ているときに、横で、10人ぐらいのイスラエルの女性兵士が、同じく先輩であろうイスラエル女性兵士から、この彫刻についての説明を受けていました。まだ20歳ぐらいの女性が、軍服を着て、機関銃を持っています。これを写真に取って、知り合いの大学生の女の子に見せたら、「日本に生きていて良かった」と言っていました。私は、「いや、日本に生きているほうが大変かもしれないよ。」と応えました。歴史を教えられない国、自分以外の人々に関心を寄せることのないわがままな社会に生きている私たちのほうが、よっぽど不幸ではないでしょうか。

 そして、私たちは、収容所からの灰がある部屋に入りました。一つ一つの収容所の名前が書かれている看板がその上にありました。

 そして、私たちは、異邦の義人たちの木が植えられているところに行きましたが、ドランがデンマークについて教えてくれました。デンマークは、ドイツのユダヤ人殺戮計画に強く反対しました。ユダヤ人たちは服に、黄色のダビデの星を着けられていましたが、デンマークの指導者は、「私たちはみなユダヤ人である。」と言って、そのワッペンを彼自身を含め、すべての国民に着けさせたそうです。それで、だれがユダヤ人だか分からなくしたそうです。もちろん、国民はだれがユダヤ人かを知っています。けれども、このようにして、ユダヤ人をドイツから守ったのです。デンマークは、個人レベルではなく、国レベルでユダヤ人をかくまった国として特異であります。

 この異邦の義人の木の中には、日本の杉原千畝さんの木もあるはずなので、私はくまなく探しましたが見つかりませんでした。バスガイドのアビグドールに私は、「彼は日本人で、クリスチャンだったんだよ。」と教えました。

 展示物がある建物に入るときに、今度はアビグドールがその入口にある彫刻について説明してくれました。ピカソみたいな彫刻ですが、その説明によると、ホロコーストの歴史が詳しく象徴されています。説明をしているアビグドールの目に涙がたまっていたのを発見しました。他の仲間によると、彼の親戚がホロコーストの犠牲者であるそうです。そして、展示物を見ましたが、見ているうちにいつの間にか、集合時間の5時に近づいていました。あっという間に時間が過ぎてしまっていたことに気づきます。

 私がバスに戻ってきた最後の人でした。私はいつも、バスの前のほうに座り、アビグドールが近くに座っていますが、彼が突然、「マサミって知っているか。」と聞くのです。私は、「宇野正美のこと?」と聞き返しました。どうやらそうらしく、彼はなんと、宇野正美氏のグループをガイドしたことがあります。その数週間後に、宇野氏から手紙を受け取りました。そのガイドがとてもすばらしかったこと、ユダヤ人を愛しているなど、ほめ言葉を連ねていて、アビグドールはに自慢してその手紙を見せたそうです。そして、1ヶ月もしないうちに、今度はなんと、イスラエルの新聞に大々的に、「宇野正美氏、反ユダヤ主義の本を著作」という記事が載っていたので、驚いてしまったというのです。ベギン首相と肩を並べている宇野氏の写真とともに、「ユダヤが解ると、世界がわかる」の本の説明がなされていました。アビグドールは、「彼はうそつきだ!」と叫びました。日本のイスラエル大使館に、抗議文を送りましたが、何の返答もなくがっくり来たようです。

 私は、中川健一氏の「ユダヤ入門」の本を読み、また、宇野氏の本も何冊か読んでいましたので、彼の言っていることがよく分かりました。それで今、日本では彼の本はそれほど人気が出ていないことを説明し、彼の著作に反論している人たちもいることを伝えて、彼は少し安心したようです。

 けれども、まだまだ「陰謀説」の類いの本は、日本で廃れることはないようです。みなさんも気をつけてください。最近、このことについて来日経験のあるユダヤ人たちが抗議しているサイトを見かけました。非常に平易に、分かりやすく書かれていますので、ぜひご参照ください。
http://www.weeklypost.com/jp/991126jp/index/index1.html

 彼は翌日、バスの中にいる人たちに、宇野正美氏について説明してくれるよう私に頼みました。こういう話題になると、アビグドールはけっこうホットになります。また、彼は、その新聞記事と宇野氏の手紙を持ってきてくれて、その手紙をコピーしてくれました。これ、どうしようかなあ、と今、迷っています。

(次回に続く)