イスラエル旅行記 10月15日

 シャローーム!今日は、エルサレムに来て4日目、イスラエルに来て12日目である、10月15日の旅行記をお知らせします。

15日の日程は以下の通りです。
シロ→第二神殿時代の模型→ベテスダの池→ビア・ドロローサ→聖墳墓教会→カルド


シロへ

 私たちの最初の目的地は、エルサレムから北上したところのシロでした。私たちは、エルサレムの人ごみの中にしばらくいたので、私は気分的にもほっとしました。エルサレムの郊外であるユダヤ人の住宅地を通っていきました。通りにたくさんの老齢者が歩いていました。アビグドールに聞いてみたら、ロシアからの移民がほとんどとのことです。住居は、みな他のイスラエルの家と同じように石造りです。また、イエスさまがお生まれになった家畜小屋も石造り、あるいはほら穴であったし、イエスさまの父ヨセフは、石切りをして家具や家を作っていたのです。聖書に、数多く、神が「救いの岩」や「石」にたとえられています。

 住宅地を通りすぎて、とくに建物がない岩地が続きました。そして、シロに到着しました。この近くには住宅地が見えました。その住宅地の名前も「シロ」であります。

 バスがフェンスの中に入ると、ビジターセンターがあります。私たちはまず、その中で、シロについての映画を見ました。ここは、ヨシュアたちがカナン人の土地に入ってきて、相続地が割り当てられてから、幕屋が置かれていたところです。つまり、士師記の間、ペリシテ人によって契約の箱が奪われるときまで、ここがユダヤ人の宗教的中心地でした。少なくとも、350年間はそうでした。そして、サムエル記上1章をご覧ください。話しは、サムエルの親になるエルカナとハンナがシロに来て主を礼拝するところから始まります。ハンナは子どもが与えられず悩み苦しみました。彼女が主の宮でうめくような祈りが聞かれて、サムエルが与えられました。そして、彼女は誓願どおりにサムエルを主にささげ、サムエルは幕屋で仕える人となったのです。

 ビジターセンターを出て、しばらくさらに中に入っていくと、右手に古い建物がありました。紀元5世紀のビザンチン時代の教会だそうです。そして、さらに前進すると、前方に丘があり、その手前にテルがありました。まさに、そのテルの上に幕屋が安置されていたのです。デービッドは、ここでサムエル記第一1章と2章前半を朗読しました。

 朗読後、簡単に2つの要点を話しました。一つは、神のみこころに拠り頼んだ祈りです(PRAYER based on Dependency upon the willof God)。ハンナの祈りは、神がイスラエルに霊的指導者を立てたいというみこころに沿ったものでした。私たちの祈りを、神は喜んでくださいます。しかし、その祈りは、神を動かすものではなく、むしろ私たちが神のみこころに導かれるためのものです。もう一つは、主の尊厳と御業にもとづいた賛美です(PRAISE based on Worth and Work of the Lord)。ハンナの賛美は、産まれた赤ちゃんのことではなく、主ご自身をほめたたえたものでした。私たちはとかく、祝福は求めますが、祝福の源である神を求めることを忘れてしまいます。

 こう話してから、デービッドは自分の証しをしてくれました。お母さんが、二人目の赤ちゃんができないことで、ずっと祈っていたそうです。教会の祈り会でも祈ってもらいました。彼女は、子を与えてくださったら、この子をあなたにおささげしますと祈ったそうです。まだ信仰をもって1年しかたっていなかった父親も、ちょうどサムエル記第一の1章を読んでいて、そのことを表明しました。そして、お母さんが懐妊されました。再び祈り会でこのことを感謝し、牧師はお母さんのお腹に手を置いて、「この子は、牧師になり、この教会で説教をするようになる。」と預言したそうです。確かに、デービッドが20何歳かで牧師になって、この教会で説教しました。父親は彼が牧師になってから間もなくして召天しましたが、その直前にこのことをデービッドに明かしたそうです。まさに、ハンナの祈りとそっくりですね。

 そして私たちは、実際のテルのところに行きました。ほんとうに幕屋があったかなあと思わせるような平面の敷地になっています。ここら辺には、土器のかけらが落ちていました。当時のものなのかどうかわかりませんが、少なくともかなり昔のものであることは確かです。イスラエルそのものが博物館のようですね。

 そしてバスに乗りました。アビグドールがそばにある住居地を指して、「あれを見れば分かるとおり、だれも住んでいないところにユダヤ人は居住しています。(この地域は、多少草が生えている程度の岩地が続いているだけです。)マスコミ報道が間違っていることが分かるでしょう。ただ、私たちは、聖書のゆかりの地に住みたいと願っているだけなのです。」そう説明されなくても、もう気づいていました。二週間近く旅をしていて、数多く、そのような居住地に出くわていたからです。


エルサレムの模型

 私たちは再びエルサレムに戻り、今度は、聖地ホテル(Holy Land Hotel)に行きました。そこには、第二神殿時代の模型があります。実際の50分の1に縮小された精巧な模型になっており、これを一目見れば、イエスさまが地上におられたときのエルサレムの姿を詳しく見ることができるのです。これはもともと、このホテルの宿泊者の鑑賞のために作られたそうですが、途中から一般公開を始めました。ちょうど、私がガリラヤ湖畔でイエスさまの宣教活動が一目で分かったのと同じように、このエルサレムの模型は、イエスさまのエルサレムにおける活動を眺めるのに助けとなりました。ただし、前にもお話したとおり、エルサレムは歴史が重層的に積みあがっており、この模型を見ても把握しきれない面がありました。やはり、またイスラエルに来なければいけない、という思いにさせられました。

 アビグドールの細かい説明を聞きながら、この模型を一周しました。かなり大きい模型ですが、縦横それぞれ、おそらく10メートルはあったように思われます。



ベテスダの池

 これを見終わってから、私たちはベテスダの池へと向かいました。ベテスダの池は、もちろんヨハネ5章で足なえの男がイエスさまによって立ち上がったところとして有名な場所です。この遺跡が、今、神殿の丘の北側のすぐそばにあります。二千年経っているとは思えないほど、多くの部分が残っていました。ここでエドが、ベテスダの池について説明してくれました。

 「ベテスダの池は、当時は、エルサレムの町の外にありました。(模型を見たとき、確かに城壁の外にありましたが、今は城壁の中にあります。)ここで神殿にささげられる羊のいけにえが洗われていました。ヨハネ5章の『祭り』は五旬節であろうと思われます。世界中からのユダヤ人がエルサレムに集まり、数多くのラビが率いるグループが、ここで自分たちの羊を洗うために列をなして待っていました。彼らは、エルサレムに滞在中、ほら穴に宿泊しましたが、墓があるほら穴は白く塗られていました。死体にふれて、儀式的に汚れることのないためです。この日は安息日だったので、計算すると紀元29年であったと思われます。

 数多くの寄るべのない人々が、この池に集まっていました。当時、オカルト的な作り話があって、その水の中に入れば病気が直ると思われていたようです。イエスさまが行くところ、ユダヤ人たちが付いて来ていました。イエスさまのあらを探して、捕えるためでした。彼らの秩序にとって、イエスさまは脅威だったのです。

 なぜ、イエスさまがそこに行かれたのでしょうか。いくつかの理由があります。一つに、主は御父の仕事に携わっているからです(ルカ2:49参照)。また、弟子たちに奇蹟を見せて、彼らを訓練されるためでした。また、あわれんで奇蹟を行なわれます。律法を守るために、祭りに参加されたとも言えます。そして何よりも、ご自分がメシヤであることを群集に明らかにされるために奇蹟を行なわれたたのです。

 そして、イエスさまがこの男に個人的に近づかれたことを思ってください。イエスさまは、私たち個人の必要を知っておられて、その必要を満たしてくださるために来てくださいます。」

 エドが話したあと、デービッドがさらに説明を加えました。「これが、ユダヤ人たちの主に対して、最初に対抗したことを思い出してください。また、ここの『ユダヤ人たち』は、”the” Jewsとなっていることにお気づきください。ユダヤ人すべてではなく、腐敗したユダヤ人指導者たちのことを指していました。彼らが怒ったのは、安息日のおきてをイエスさまが破ったことでしたが、たしかにネヘミヤ記13章には荷物が運ばれてはならないことが書かれていますが、律法のなかには、穴に落ちた牛を助けるなど慈善行為が許されています。ベテスダとは、『あわれみ(エスダ)の家(ベツ)』であるですから、この行為はまさに的を射ていたのです。彼らが主を殺そうとしたのは、主が安息日をやぶったことと、また神の御子であると言われたことであります。けれども、安息日に御子は働いておられるのです。神は6日で天地を創造し、7日目に休まれましたが、それは働きをやめられたことではありません。…」

 このような説明のあと、すぐそばにある聖アンナ教会に入りました。実は、ベテスダの池は聖アンナ教会の敷地になっています。十字軍によって建てられた古い教会堂です。その中で会話は禁止されていますが、賛美歌は歌って良いことになっています。それで私たちのグループは、無言で建物の中にはいり、椅子にすわって、デービッドの指揮のもといくつかの賛美歌を歌いました。建物中に歌声が美しく響き渡りました。


ヴィア・ドロローサ

 そして私たちは、ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)をたどります。ここはもちろん、ユダヤ人の嘆きの壁、イスラム教との岩のドームと等しい、クリスチャンにとっての最も重要な場所です。つまり、イエスさまが、十字架の上に磔にされるに至る道であります。ただ、これはカトリックの伝承に基づくものであり、一部はかなり信憑性があるのですが、その多くは立証されていません。

エッケ・ホモ教会

 私たちは、ヴィア・ドロローサの最初の部分にあるエッケ・ホモ教会の中に入りました。エッケ・ホモは、ラテン語で「見よ、この人です。」という意味です。もうお分かりですか、ヨハネ19章5節において、ピラトがイエスさまをむち打ちにしたあと、兵士たちがイエスさまをなぐり、あざけり、いばらの冠と紫色の衣を着けさせてから、イエスさまがユダヤ人たちの前に出て来られたときのピラトの言葉です。この一連の出来事が、この教会が立っている敷地で行なわれたとされます。

 教会の中は、石板になっています。当時のものが残されているのでしょうか。ドランがこの教会の中のことについて説明してくれました。「ここは、みなさんもよくお分かりのとおり、神殿の丘のすぐ北側にあります。この場所は、アントニア要塞の敷地であったことはかなり確かに言えます。ローマ兵たちは、この要塞に駐留し、ユダヤ人たちの神殿礼拝の様子を監視していました。ユダヤ人が反乱をすると言ったら、この神殿において民族主義的な動きが出てくるときであると考えられたからです。とくにユダヤ人の祭りのときには、余計に兵士が来ていました。そして、いつもはカイザリヤにいる総督は、過越の祭りのときにはこの要塞に来ていました。ですから、この場所で、ピラトが、イエスさまをユダヤ人の前に出したと考えて良いのです。」

 そして、私たちがさらに中に進むと、ガバダと呼ばれる所があり、ここでピラトがイエスさまをさばきました(ヨハネ19:13)。この場所にも長いすがあり、私たちはここでデービッドから短いメッセージを聞きました。マタイ27章27‐31節を朗読し、それから以下のことを話しました。「ローマ兵士は、主に対して七つのことを行ないました。一つは、罪のない方をむち打ち(Scourge)にしたことです。二つ目は、杖でイエスさまをたたき(Smote)ました。三つ目に、主につばきをかけ(Spit)、四つ目にからかい(Scoff)ました。五つ目に、イエスさまの容貌をそこなわせ(Scar)、六つ目にいばらの冠をイエスさまの頭に押し込め(Squash)ました。そして、七つ目にイエスさまをあざける言葉を言いました(Spoke)。

 十字架につけられていたときの、右と左につけられていた犯罪人と、真ん中におられる主のことを考えてください。主のことを悪く言った犯罪人のうちには罪があり、また、罪が負わされていました(Sin was in him, and sin was on him.)。もう一人の犯罪人のうちにも罪がありましたが、「きょう、パラダイスにいます。」とイエスさまが言われたとおり、罪は負わされませんでした(Sin was in him, and no sin was on him.)。そして主ご自身は、そのうちに罪を宿しておられませんでしたが、罪を負われたのです(No sin was in Him, and sin was on Him.)。」そして、私たちは、自分のために主が血を流されたことを思いながら、何曲か賛美の歌をささげました。

 エッケ・ホモ教会を出て、私たちは続けてヴィア・ドロローサを歩きました。この道には、イエスさまが十字架を背負って歩かれたときに起こったであろう出来事を記念するスポットがあります。第一留から第十四留まであります。例えば、第八留は、イエスさまが女たちに、「わたしのために泣くな、自分たち、自分の子らのために泣きなさい。」と言われたところです。ドランが簡単に一つずつ説明して、いっしょに歩いていきました。

 この道には、数々の店が並んでおり、喧騒さがあります。車が何とか通れそうな狭い道です。石畳になっており、日本でいうなら、一昔の下町の風景に似ているかもしれません。途中で、大人が、悪さをしたであろう子どもに軽くびんたをしている場面に出くわしました。日本でも、ちょっと前なら、このような光景はあったでしょうが、私はびっくりしました。仲間のアメリカ人も、「これアメリカで起こったら、犯罪だわ。」と言っていました。私は、いつものとおり、財布が入っているパウチを片手にかかえて気をつけながら歩いていきました。

聖墳墓教会

 到着地点は、聖墳墓教会です。ここはもちろん、イエスさまが十字架にはりつけにされたところ、また墓からよみがえられたところとして建てられた教会です。この建物は、初めに336年にコンスタンチヌス帝の母であるヘレナによって建てられて、後に同じところに十字軍が再建しました。ですから、建物はビザンチン時代のものと十字軍時代のものがあります。この教会は、6つの教派が区分管理しており、その6つは、ギリシヤ正教会、ローマ・カトリック、アルメニア、コプト、シリア、そしてエチオピアです。ここからドランの説明は終わり、彼は外で待っているそうです。

 中に入るとすぐに、イエスさまが十字架にかけられたとされる地点に石板があり、祭られています。自分の手に接吻をして、その手を石の上において祈る方の姿がありました。そして左に曲がると、イエスさまの墓といわれるところがあるのですが、建物が建てられて、壁で覆われているので、その形さえ分かりません。周りにたくさんのろうそくが立てられており、ろうそくをもった聖職者とその後に列をなしてろうそくを持って入っています。声を出して何かを言いながら。他の場所にも、いろいろな祭壇がありましたが、人ごみで私は戻ることにしました。

 仲間の、年配の婦人の方が、建物の中で私に付いてきました。はぐれたくないからです。彼女が、いっしょに来ている自分の娘のために祈ってほしいと話していました。ローマ・カトリックについての授業を取って、勉強しているとのことです。カトリックの本をたくさん読んでいて、彼女が今、何を考えて、何を信じているのかが分からない、と言いました。その人は、その前の日に、夕食のテーブルの真向かいに座って、ともに聖書のことを語り合っていた姉妹であることが分かりました。

 私は、答えに詰まりました。カトリックになったからといって、クリスチャンをやめるわけでなからです。しかしながら、もし神のことばではないものを自分の信仰基準に持ってきたら問題だと思いました。けれども、私がもっと問題だと感じていたのは、この聖墳墓教会を見て、それがいかに堕落しているかという批判を加えていた人が、仲間の中にいたことです。もし、その会話をその娘さんが聞いたら、たぶん、つまずくでしょう。

 たしかにカトリックは、異教を取り入れて、さまざまな聖書の中にない伝承を作り上げていきました。私たちは、そうした異教的な要素を取り除き、福音の真理を堅く保たなければいけません。しかしながら、カトリックの歴史は自分と同じ人間がたどってきた道であり、その延長線上に私たちも存在します。また、カトリックの中で三位一体などの基本教理が確立したのですから、カトリックそのものを批判することは、自分たちの信仰の土台を批判してしまうことになります。これでは、反ユダヤ主義ならず反カトリック主義になってしまいます。

 また、プロテスタント教会の中から、多くの異端が出て来ますが、それは、自分が神から啓示を受け、自分が直接聖書を読んで正しいと思うことを行なうという傾向が強く、多くの聖徒たちが祈りとみことばの学びの中で築き上げてきた遺産を、度外視してしまうからです。既存の教会を批判している本人が、神ではないこの世の価値観に支配されていることが多いのです。例えば、エホバの証人は、カトリックの階級制度を強烈に批判しますが、彼らの中にある統治体は、階級制度以外の何物でもありません。ですから、「私たちは歴史の子ども」という言いまわしがあるかどうか分かりませんが、過去の霊的遺産に尊敬を払うことによって神の前にへりくだり、また、同じ過ちのなかに陥らないよう自戒し、聖霊のご支配の中に生きることができると私は考えます。


カルド

 そして、私たちはユダヤ人地区に戻りました。そしてカルドと呼ばれる通りに入ります。ここは、地球の歩き方の言葉を借りれば、「太古からの大通り」と呼べます。エルサレムの町がなんども再建を繰り返したように、この通りも何度も再建を経験しました。この通りの横に発掘されて、何メートルも掘られている場所があったり、ローマ時代の柱廊も残されいます。ものすごいのは、ヒゼキヤ王の時代の遺跡もここから発掘されたそうです。今世紀のユダヤ人たちはこの地区に住み、重要なシナゴーグもあったのですが、48年にアラブ諸国がこの地区をことごとく破壊しました。67年にイスラエルがエルサレムの町を取り戻したときには、このユダヤ人地区は何一つ建物が残されていなかったそうです。けれども、その後修復され、例えば、カルドは今、おしゃれなショッピングアーケードになっています。

 けれども、一つだけ、ユダヤ人地区にその跡を見ることができる、いや、あえて見せているものがあり、それが先ほどのシナゴーグです。もしこの廃墟がなければ、おそらく私たち観光客は、30年前の姿がどうなっていたのか、知る由もないでしょう。現在、ユダヤ人地区には、2500人のユダヤ人が住んでいるそうです。

 日没が近づいてきました。その日は金曜日でしたから、次の日の安息日が近づいていることになります。黒ずくめの正統派ユダヤ人がシナゴーグに行こうとしているのでしょうか、たくさん歩いていました。ところで、その彼らを写真に撮ってはいけないそうです。安息日には、写真を撮ることも「働く」ことになるからです。

(次回に続く)