イスラエル旅行記 10月7日

 シャローム!きよきよです。
 イスラエル旅行記10月7日に入りましょう。

 それでは、7日の日程をもう一度記します。

ホテル→ゴラン高原のガリラヤ湖を見下ろす展望台→(ここからゴラン高原)ガムラ→カツリン→ヨム・キプール戦争の舞台になったシリヤとの国境線→バニアス(ピリポ・カイザリヤ)→ホテル


ガリラヤ湖の朝

 グループの他のメンバーもそうでしたが、私も時差ぼけにかかっていました。また、旅特有の疲れも出始めてきたので、寝つきが悪かったのです。けれども、ちょうど日本に国際電話をかけるのにちょうど良い時間に目が覚めたりして、そんな嫌なことではありませんでした。7日の朝は、5時前に起きました。そのとき、「ガリラヤ湖に行って、デボーションして、日の出を写真に取ろう!」と思い立ち、出て行きました。「オオー!ここが、イエスさまが活躍されたガリラヤ湖だ!」と感動しながら、祈りや聖書を読むのに時間を費やし、日の出もちゃんと写真に撮ることができました。

 そのときに東洋系の男性が近づいてきて、私にあいさつをしました。台湾からのクリスチャンです。いろいろ話しました。北海道に観光に行ったことがあること、台湾の地震のときには、ちょうど自分は海外にいた事。クリスチャンの数は多いが、仏教徒の数がもっと多いことなどを話してくれました。ガリラヤ湖の日の出に加えて、他の国の兄弟との交わりも与えてくださった主よ、あなたをほめたたえます!と感動しながら、ホテルの部屋に戻りました。


ゴラン高原へ

 テベリヤのホテルから出発したバスは、ガリラヤ湖を南下して、ヨルダン川のあたりから分かれる98番線の道路に入りました。ガリラヤ湖周辺には、もっとも古いキブツの一つがあり、他にもいろいろなキブツがあります。それらを横目で見ながら、また、次の日に訪れる予定のバプテスマを受ける場所を見て、98番線に入りました。ここから北上しますが、急な坂道を上って行きます。ゴラン「高原」に入るからです。

 しばらくすると、右側にフェンスが出てきました。ヨルダンとの国境線です。そしてずっと向こうには、下方に川があって、畑もあります。そこはヨルダン領です。川の周りで農作業をしているのでしょうか、緑に囲まれていました。今、道路は、バスの進行方向の左から右へ下がる急斜面にあります。ここら辺から、もとシリヤ軍の防護塀があちこちにありました。ここは、1967年までシリヤ領だったのです。ゴラン高原には、このようなシリヤ軍の残骸があちこちに見えます。戦車もあれば、兵舎もある。それ以外に残したものはありません。ここは以前ただ岩だらけの荒地であり、シリヤはゴラン高原を対イスラエルの軍事的目的だけに使っていたとのことです。

 そして道路は平坦なところを走り始めました。すると、畑や木々が見えてきました。私は驚いてしまいました。だって、ここがイスラエルの支配下になったのは30年ちょっと前なのに、もうこんなに大きな農場を作ってしまっているからです。いろいろな作物が栽培されていますが、日本人にとって目新しいのは、綿でしょう。ときどき、道路脇に綿が吹き溜まりになっているのですが、まるで雪のようです。

 そして、ビジターセンターに入りました。ここからガリラヤ湖を見下ろすことができます。先ほど通ってきた道も、キブツも見ることができました。ここでドランとデービッドが説明していたのですが、前回のエドと同じく、録音に失敗してしまいました!重ね録りをしてしまったみたいです。

 けれども、一つだけ覚えている要点を話せば、十分かもしれません。私はそれを聞いたあとに、すばらしい景色よりも、事態の深刻さと切実さを考えさせられました。それは、このビジターセンターのところも、かつてはシリヤ領だった、ということです。ということは、ガリラヤ湖畔の住民は、毎日、上方からシリヤ軍の銃口を突きつけられて生きていた、と言うことになります。事実、ここからシリヤの狙撃兵がキブツを攻撃していました。それでもそこに住みつづけた、と言うのは、執念というか、神の選びの民であるユダヤ人であるからこそできることでしょう。

 ここに来れば、イスラエルが、どんなことがあってもゴラン高原を譲り渡すことができない理由が分かります。素人の目でも、ゴラン高原が非常に戦略的な土地であることが分かるでしょう。私は、また、その他の土地に関する、イスラエルと周辺イスラム諸国の問題についても洞察が与えられました。つまり、「平和のための土地」という論理は通用しないことです。次の訪問地ガムラに行けば、歴史もそのことを物語っていることを知るのですが、このゴラン高原を手に入れれば、ガリラヤ湖も自分の支配下に入る。ガリラヤ湖が自分の支配に入れば、そこは貴重な水資源だから、他のイスラエル全体も支配下に入れることができる、ということになります。そして、とどのつまり、エルサレムを奪取できる、というシナリオが成り立ちます。

 したがって、土地を手放せば、さらに戦争やテロリズムを引き起こす可能性が大きくなります。(オスロ合意が締結されたあとに、イスラエル国内におけるテロリズムは一挙に増加しました。)その反面、シリヤとは停戦合意が出来ているだけでまだ戦争状態なのですが、20年間ゴラン高原は、ずっとその静かさを保っています。ゴラン高原に攻め入ったら、首都ダマスコが危うくなることをシリヤが知っているからだそうです。もちろん平和条約が結ばれればそれにこした事はないのですが、条約の条件に土地の譲渡を入れてはいけない、と言うことです。

 そして、聖書的には、もちろんここはイスラエルの土地です。ゴランという言葉は、ヨシュア記20章8節の逃れの町の名前から来ています。イエスさまが地上におられたときは、ここは人口が密集していたところであり、イエスさまの一向もこの地域をとおって旅をされました(マルコ9:30)。

 ここで写真集を2冊買いました。…イスラエル旅行に行く人で、英語ができない方でも、イスラエルのあちこちで日本語訳の写真集を見かけたので、それを買うとよいでしょう。「イスラエル」という題名のものと「イェルサレム」というのがあります。

ガムラ

 そして、再びバスに乗り、今度はガムラ(Gamla)に行きました。そこにラニがいました。私は彼がどのような人物なのか、そのときはよく知りませんでしたが、後で分かった事は、故ラビン首相がゴラン高原をシリヤに明け渡す話し合いを進めていたとき、ハンストをこのガムラにおいて行なった12人のグループの一人であることです。この草の根運動が全国的に伝わり、ついにラビン政権の人までがゴラン返還に反対しました。そして、96年に、この草の根運動のグループが「第三の道(The Third Way)」という一つの政党として出現したのです。ガムラから遠く西にガリラヤ湖が見えます。そこで彼が語りました。

 「ゴラン高原は、47年にシリヤによって侵略されました。ここはもともとシリヤでもなければ、シリヤ人も住んだことがありません。そして、67年の六日戦争にてイスラエルが取り返したのですが、その間の20年に、400回の攻撃がゴラン高原からありました。ガリラヤ湖畔のキブツ住民を狙撃し、またヨルダン川を迂回させようとしました。イスラエルの30パーセントの水資源はゴラン高原から60パーセントはヨルダン川から来ますので、これは深刻でした。

 ガムラは、ヨシュアの時代からずっとユダヤ人が住んでいました。諸帝国が来たときは、ユダヤ人はガムラを購入しなければなりませんでした。紀元1、2世紀のときは25のシナゴーグがあり、ここは北東地域で最重要都市の一つだったのです。5千人のユダヤ人がここに住み、商業的にも霊的にも農業産業上も、ここは重要でした。64年にローマがやって来て、この町を攻落し、そして70年にエルサレムを倒したのです。ここから硬貨が発掘されていますが、一面にはミノラが、そしてもう一面には『エルサレムの贖い』をと書かれています。マサダにおいては、逃亡したユダヤ人が最後に自殺した反面、ガムラは、その住民たちが戦ったのです。だから、『ガムラは北のマサダ』と呼ばれますが、私は、『マサダは、南のガムラ』と呼びたいです。歴史的にも、霊的にも、このここは、ユダヤ人が必ず守らなければいけない町なのです。」

 そしてデービッドが、彼がハンストをこの場所で行なった話しをしてくれましたが、デービッドがコスタメサの教会で水曜日に聖書を教えていたとき、デービッドがメッセージをする前に、ラニは説教壇からそのハンストの話しをしてくれたことを話してくれました。…そこで、私は、「ああ、やっぱりラニは、あの人だ。」と分かりました。私は、その水曜日の晩に、デービッドの聖書の学びに出席していたのです!でも、やはり、この場所に来て、この地形や歴史を聞かないと、ラニが話している真意は、完全には伝わらないなあと思いました。みなさんも、ぜひイスラエルへ、またゴラン高原へ旅行しにいってください!

シリヤとの国境へ

 そして私たちは、カツリムという町へ行きました。ここにもまた、ユダヤ人の居住遺跡が残っています。そして、ここには、小さな映画館があります。ゴラン高原についての15分フィルムを上映するためです。中に入りますと、ガリラヤ湖とゴラン高原の模型があり、そのフィルムに沿って、ある箇所が点滅します。たとえば、水資源について話しているときは、その川が点滅しました。フィルムには、キブツ住民の発言、自然、そしてもちろん歴史などが紹介され、最後に故ラビン首相が、首相の座に着くか、着いたころに、ゴラン高原の住民に対して行なったスピーチの一部が出てきました。(彼はそのころ、絶対にゴラン高原は手渡さない、と住民に確約していたのです。)

 そして、昼食を取ったあと(もちろんファラフェルを食べました!)、私たちのバスは北東へと進んでいきました。シリヤ軍の兵舎などの残骸があちらこちらに見えます。けれども、キブツは限りなく続きます。このコントラストがとても不思議な気分にさせられました。そして、私たちはバスから降りました。一両の戦車と、記念碑のようなものが立っています。私はなぜここに降りたのか、よく分かりませんでしたが、ラニが再び説明してくれました。ここは、73年に起こったヨム・キプール(贖罪の日)戦争で、シリヤ軍が攻めて来たところの国境でした(下の写真参照)。私が座っているところの10メートル先には背の低い鉄線があり、そのはるか向こうには、シリヤの町が見えました。(小さく白いモスクが見えます。)



 ラニは、ここで、ヨム・キプール戦争の英雄であるアビグドール・カハラニ大佐の話しをしてくれました。奇跡の連続であり、その細部まで書かないとその凄さが伝わっていきませんが、要約だけ書きます。

 「ヨム・キプールには、ユダヤ人は完全に休みを取り、テレビもラジオも、また電話も取らない。兵士たちもほとんど家に帰っている。そのときに、シリヤがゴラン高原へ、エジプトがシナイ半島へ奇襲攻撃をして来た。ゴラン高原からの攻撃はここと、南30マイル離れたところからであるが、ここでは戦車を使える人がわずかしかおらず、5台の戦車しか使えなかった。戦争が始まったことを知らせるのに、テレビもラジオも電話も使えない。それで兵士たちは、街中に出て行って戦争が始まったことを告げ、個々の家々を回り、援軍を募った。ゴラン高原の住民は、自転車や徒歩などで、ここにまでやって来た。そして、戦車の使い方などをここで学んだ。36時間の間に、40〜50台の戦車の波が5回押し寄せた。それを5台の戦車で倒した。南側は、がらんどうだった。シリヤ軍は思う存分に攻め入り、テベリヤへ向かった。しかし、こんなに容易に入っている事実をシリヤは逆に恐れ、パニック状態に陥った。カハラニは、200台以上の戦車を倒したあと、その5台の戦車でシリヤの首都ダマスコへ進んだが、途中で引き返した。

 5年前、アメリカの退役軍人がカハラニの事務所に訪れ、この戦闘について非常に興味を満ち、2時間、一言も話さないで、ずっとカハラニの話しを聞いた。それから、戦術上の質問をいくつかしたが、カハラニは、指を上に向けて指すことしかできなかった。つまり、神が行なってくださったわざである。ここが、ユダヤ人とクリスチャンを愛で結び付る国境線である。先ほどみなさんが、昼食を取ったときに働いていた、ここに住んでいる若者たちのためにも祈ってほしい。」

 もちろん、私たちクリスチャンとユダヤ人を結び付けるのは、イェシュア・ハメシアク(イエス・キリスト)以外におられません。けれども、聖書に照らして、正義だと思われることで彼らの味方になることは、大きな証しになることは言うまでもありません。ガイドのアビグドールの親友にブリッジ・フォー・ピースの方がいて、そのために、アビグドールの心はいやしを受けているのを知りました。物質的、霊的の両面において働きかけることが、イスラエルを愛することなんだと思います。


ピリポ・カイザリヤ

 そして、私たちはさらに北上して、バニアスに行きました。ここは、ピリポ・カイザリヤ、つまり、イエスさまが弟子たちに、「あなたがたは、わたしをだれだと思いますか。」とお聞きになった場所であります。バニアスに来るまでに、ヘルモン山を見ました。このあたりは、冬になると、スキー客でにぎわうそうです。また、レバノン側の山脈も見ることができました。また、十字軍の城跡も見ることができました。そして、バニアスに戻りますが、ここはギリシヤ宗教の礼拝の場所でした。岩には偶像が据えられた穴がいくつか空いています。また、ここは、ヘルモン山のふもとであり、ヨルダン川につながる流れがあります。ですから、ここは昔からもくつろぎの場所でした。イエスさまも、弟子たちとここで一休みされていたのでしょう。ここでデービッドが話しました。内容は単純明快でしかし最も重要なことでした。マタイ16章13節以降を朗読したあとで、私たちの信仰はただ、イェシュアに対するものである。イェシュアがメシヤであるという告白に基づいている、という話しでした。ペテロのギリシヤ語はペトロス(小石)ですが、私はこの岩(ペトラ)に教会を建てます、と言われた岩はヘルモン山を指していたのです。ペテロが最初の法王ではありません。イエスさまが教会の土台なのです。そして、デービッドは、明日ヨルダン川でバプテスマ式を行うことを説明しました。

 それから、実際のギリシヤの宗教が行なわれていた場所に行きました。私にとっては、ここは霊的にもっとも大切な場所の一つではなかったかなあ、と思います。いくつもある偶像のそばで、イエスさまは弟子たちに、「あなたは、わたしをだれだと思いますか。」とお聞きになったからです。私の両親は、クリスチャンではなく、私はミッション系の高校に通ったわけもありませんでした。けれども、神社でもなくお寺でもなく、イエスさまを自分の主として、生ける神の御子として受け入れ、従う決断を大学生のときにしたのです。これは狭い門です。しかし神は、私をあわれんでくださり、罪を赦し、ご自分の家族のなかに入れさせてくださいました。ハレルヤ!

 ここでしばらくコーヒーを飲みながら休息をとりました。…イスラエルのコーヒーはおいしかった!いま、買って来なかったことを悔いています。

 そして、私たちはテベリヤに向かいました。まず西へ進みます。レバノンの国境のすぐ近くを通りました。そして南下します。比較的平らかな地が続きました。もちろん農作物が育てられていましたが、ここはもともと湿地だったようです。イスラエルは岩地か湿地かのどちらかであったようです。ユダヤ人はそこを開拓しています。そして、町の中も通りました。ちなみに、イスラエルのアパートは下の部分がシェルターになっています。この地域も最近まで、弾が飛んできたのですから。

 テベリヤに着いたら、夕食なのですが、その日はとくべつなディナーで外食(ホテルも外食ですが…)しました。ホテルから歩いて5分くらいのところのバーベキューのお店で、HFTのグループは食事をしました。湖まで突き出たデッキのところで食べたので、眺めは格別でした。向こう側では、ユダヤ人の若者たちがパーティーをしているのが見えます。船の上でも、踊っています。私は、肩を組んで輪になって踊る、イスラエルのフォーク音楽が大好きです。彼らが踊っているのを見るだけで、わくわくします。(私も実は、一度、ダビデの踊り(Davidic Dance)を即席で習って、踊ったことがあります。)そして、夕食も終盤にさしかかったころ、そのレストランが私たちのグループのことを歓迎するアナウンスをしました。すると、湖のほうから一隻の船がこちらに近づいてきます。そこから音楽が聞こえ、花火がひらめきました。船はとうとう、私たちのデッキのところに着きました。そしてデッキが開き、なんと私たちはそこに乗って、ホテルの目の前まで連れて行かれました。ずいぶんなサービスです。

 エドは、私に、「近くに、Galilee Experience(ガリラヤ体験)というメシアニックのお店があるよ。」と教えてくれました。明日の朝にグループが行く予定だったのですが、その夜に私の足はそっちに行ってしまいました。私は驚きました。テベリヤのホテルが立ち並んでいるどまんなかに、でっかく看板を掲げて、メシアニックのお店があるのですから!そこに売られている本やCDやその他の商品は、ぜんぶ買ってしまいたいような誘惑にかられましたが(まあ、そんな誘惑はかなうわけありませんが)、冷静になって、必要なものだけを買うことに決めました。そして、その夜は、ヘブル語・英語対訳の聖書を買いました。

(次回に続く)