イスラエル旅行記 10月9日
シャローム! きよきよからのイスラエル・レポートです。今日は、10月9日の旅をお伝えしたいと思います。
9日の旅程は、次のとおりでした。
テベリヤのホテル→メギド→ベテ・シャン→エリコ→クムラン→死海に面するホテル
ホテルを出発したバスは、ガリラヤ湖を少し南下し、右に曲がりました。上り坂になっています。途中でバスが5分ほど停車し、そこから見えるガリラヤ湖を観ました。ほんとうに、きれいでした。バスは、南西へと向かいますが、6日にウェストバンクに行ったときとは違い、緑の平野が続きます。イズレエル平野に入っていくからです。途中にタボル山がありました。…コンコルダンスをお持ちの方は、「イズレエル」「タボル」そして「メギド」を調べてみてください。だいたい、そこでは戦いが繰り広げられました。…ここまで来て、イスラエルにはいろいろな顔があることに気づきます。地中海の雰囲気をただよわせるヨッパとカイザリヤ、岩がごつごつしたサマリヤ、農作物の緑が豊かな、落ち着いた地域ガリラヤ湖畔、戦争の跡を見るゴラン高原、そして、ここは平野です。これから、さらにいろいろな顔が登場します。
メギドへ
アフラ(Afula)という町を通りすぎて、さらに進むと、小高い丘みたいなのが見えます。それがメギドです。丘といっても、それはテル(tell)という遺跡なのです。英和辞典には、「中東で古代都市遺跡の重なりから成る丘状遺跡」という説明書きがありました。以前存在した都市の上にさらに都市を築き上げるうちに、高く積み上がり丘のようになってしまいます。ですから、一つのテルを掘ると、いくつもの時代の歴史を発見することができます。イスラエルには、このような遺跡があちこちにあります。
メギドと言ったら、みなさんご存知のハルマゲドンであります。(ハルマゲドンは、ヘブル語で「メギドの山」という意味です。)世界の歴史の中で、メギドほど数多く戦場になったところはありません。このメギドには、ヴィア・マリス(海の道)と呼ばれる幹線道路があります。これは、エジプトからはるかユーフラテスまで続く道です。さらに、ここは、南の超大国(エジプト)と、北の超大国(アッシリヤやバビロンなど)の間に位置する場所であり、戦略的に、このメギドの地域を要塞にすることによって世界を支配することができました。古代のみならず、近・現代においても、英国がトルコからパレスチナを奪ったとき、48年にイスラエルとアラブが戦ったとき、そして六日戦争のときも、ここで戦争がありました。そして、終わりの時に、全世界の軍隊がここに集まり、神とキリストに対する戦いをしかけるのが、この場所です。
ドランから、メギドで起こった過去のことを聞いた後、今度はデービッドが、将来ここで起こることをメッセージしました。
「(黙示録16:12-16朗読)預言は、イスラエル抜きで語ることは決してできません。聖書の中で、神の次に、イスラエルが中心的なテーマとなっています。ハルマゲドンの戦いは、この平野の地域に限定されたものではなく、全イスラエルで起こるものです。また、エゼキエル38、39章の出来事は、イスラム教圏の攻撃であり、ハルマゲドンの戦いから切り離されたものではありません。
この戦いについて、4つのことが言えます。第一に、欺き(Deception)です。イスラエルの指導者は、和平についてだまされます。『平和だ。安全だ。』と言うときに、滅びが襲いかかります。第二に、暗やみ(Darkness)です。祝福など一切ありません(ゼパニヤ1:14-18)。第三に、破壊(Destruction)です。全世界がイスラエルを攻撃します(Zech.12:9;14:2)。第四に、救出(Deliverance)です。主を呼び求める者は救われる、という預言が成就します。…」
メッセージを聞いた後にテルを上りました。テルには、24回、破壊され再建された都市があります。カナン人の町々、ソロモン時代やアハブ王の時の都市もあります。地上では、城壁、町の門、馬小屋、かいば桶、サイロなどを見て、貯水槽と貯水トンネルの中に入りました。乾燥したイスラエルの土地では、貯水は欠かすことができないものです。
そして、私たちはバスに乗り、同じ道を戻りました。アフラのところで、今度は、南東に進む道路(71番)に入り、しばらくするとギルボア山が右手に見えました。このふもとには、ギデオンの泉があります。戦士が300人にまで減らされた場所ですね。道路をまたがって、イスラエル人が道路の右から左へとミデヤン人を追撃したところで、バスが一時停車しました。ああ、この平野をギデオンたちが駈け抜けたのか、と思い、感慨にふけりました。
ベテ・シャン
そして私たちは、ベテ・シャンに着きました。聖書では、ギルボア山で倒れたサウルとヨナタンなどが、ペリシテ人によって、ここで見世物にされました(Tサムエル31:10)。けれども、この町はそれだけの話では終わりません。ここにテルがあり、3000年前の18の古代都市の遺跡があります。そして、ここは、ローマ時代において、デカポリス地方においてもっとも大きな、栄えた都市でした。メギドと同じようにヴィア・マリスが通っていたこと、また肥沃な土地であることが、その繁栄の理由です。つい10年前までその町は土に覆われていたので、遺跡がかなり残されており、その中を歩いた私は、まるで現代の華やかなショッピング通りに匹敵するのではないか、と感じたほどです。
この町は、紀元749年に地震によって破壊されてしまったそうです。そして、その遺跡を見たあと、私たちに昼食を含めた自由
時間が与えられ、私はテルに上りました。頂上につくと、すばらしい肥沃な土地の景色を見ることができました。
エリコへ
そして私たちは、南下して次の目的地であるエリコへ向かいました。その道路は、ヨルダン国境沿いに走るもので、ヨルダン谷であります。ヨルダン川の向こう側の、ヨルダンの景色をずっと楽しむことができました。
エリコに近づきましたが、ここはパレスチナ自治区になっています。雰囲気ががらっと変わります。けれども、自然はもちろん変わらず、ここは砂漠のなかの、オアシスの町です。西側には、モーセがエリコを眺めたネボ山がありました。彼が見たところの、「乳と蜜が流れる地」とは、このオアシスを見ていたのでしょう。
ところで、エリコという町は、二つあります。ヨシュアたちが攻め入った古いエリコと、新約時代の新しいエリコがあります。今いるところは、古いエリコのほうです。イエスさまが、「エリコから出て行くと(マタイ20:29)」盲人がいて、また、「エリコに近づかれたころ(ルカ18:35)」盲人がいる、という記事がありますが、この古いエリコと新しいエリコの二つがあることを知れば、なんら矛盾がない、とチャックが話していたのを思い出しました。デービッドは、ここでルカ19章から、ザアカイの話しをしました。イエスさまは、群集を見てあわれまれることもあるが、個々人を気にしてくださる。イエスさまは、罪人の友であった、という内容でした。
デービッドが話している途中で、パレスチナ人が何人か近づいてきました。メッセージが終わると、「ハレルヤ!アーメン。」などと言いますから、信者なのかなあ、と思いましたら、物売りだったのです。ああ、こうやって商売しているんだなあと思いました。子どもなんかは、物も売らないで、お金を欲しいとせがみます。エルサレムやベツレヘムには、いたるところに物売りがいます。どの観光地にも物売りはつきものですが、慣れる人はなれるでしょう。けれども、強引な売り方をするので、私はどうも好きになれませんでした。ただ、物売りの売っているものには、かなり安いものもあるみたいです。(オリーブ山で、私は、東エルサレム全景のポスターを1枚1ドルで買いました。)そして、エリコの町をさらに通っていきます。通りに植えられているいちじく桑の木をたくさん見ました。「これが、ザアカイが登った木だ。」と呼ばれているものが、いろいろあるそうです。
死海へ
そして、エリコを出るところで、砂漠の景色が始まりました。ここからまた、イスラエルの別の顔を見ることになります。今までの岩地は白色系でしたが、死海周辺の地域や、次の日に通るネゲブ砂漠は、まさしく絵具の「黄土色」です。けれども、この砂漠の景色が始まったところに、同時に死海が見えてきました。なんと美しい!このときから、私は死海のとりこになりました。今使っているコンピューターの壁紙は、旅行前は嘆きの壁でしたが、旅行後は死海に変わりました。一面が黄土色の砂漠と山のなかに、エメラルドグリーンの海が光り輝いています。船は一隻も通っていません。あまりにも塩分とミネラル分が多いので、船底がすぐにだめになってしまうからです。たしか塩分は35パーセント、ミネラル分と合わせると、死海の水の4分の1はミネラル分であるそうです。
クムラン
そして、私たちは、クムランに着きました。クムランが有名なのは、もちろん死海写本です。エステル記をのぞくすべて旧約聖書の写本の断片が見つかり、イザヤ書写本は完全に残されていました。新約聖書の一部も残されていた、という話もあります。私たちはまず、ここでショッピングをしました。福音的なキリスト教書籍も並んでいた書店と死海商品が売られていました。私はここで、死海石鹸とアハバ・クリームを買いました。(帰ってから、アハバ・クリームをある人にあげたら、アトピーのようになっているその人の背中のかゆみが消えたそうです。)
次に、フィルムを見ました。エッセネ派の人々が、どのようにして生活をしていたのか、その生活を復元した映画でした。エッセネ派は、エルサレムの祭司制度が腐敗していると考えて、ここに移り住み、男性だけの共同体を作りました。きよめの儀式などを守りました。その映画を見た後に、エッセネ派が住んでいた遺跡を見ましたが、彼らが水を多く使っていたことがわかります。その水は、山の上からおりてくる水をダムにして、運んできたものです。その水路の遺跡もあります。ここは、死海がきれいなだけではなく空気もきれいなところなので、そのような、彼らが考える清い生活をするには最適の場所でした。
クムランの遺跡を見終わったあと、私たちはホテルへ向かいました。次の日に訪れる予定のエン・ゲディとマサダを通りすぎて行きました。ときどき、死海リゾートの建物があります。キブツが経営しているものもありました。ところが、その建物は、海岸線からずっと内地に位置しているところに立っています。理由は、死海の水位がそれだけ下がってしまったからです。死海の回りの砂はしめったような色をしています。それはミネラル分のオイルであり、水のように乾いてしまうことはありません。だから、どれだけ水位が下がったかがわかります。そして、私たちはホテルに着きました。ハイヤット・リージェンシーですが、いやぁ、このホテルは超豪華でした。新婚旅行には最高でしょう。仲間のブライアンとルームメイトのジェレミーは、プールではしゃいでいましたが、私も着いて行って泳ぎました。でも、私の心は、プールではなく死海そのものにありました。明日は9時出発です。必ず朝に死海で「浮くぞ」と心に決めていました。
(次回に続く)