2018年トルコ・ギリシア旅行記 4月11日 その2

(1.2.は「その1」へ)
1.トルコの国と歴史
2.スミルナ
3.ティアティラ
4.サルディス
5.フィラデルフィア


スミルナからティアティラまでの行程(グーグル地図

 黙示録の七つの教会の順を辿れば、スミルナの南55㌔にあるエペソから始め、それからスミルナ、そして約100㌔北にあるペルガモンに行くのですが、エペソもペルガモンも後日行きます。スミルナから、北東に90㌔のところにティアティラの遺跡があります。バスは、E881号線を走り、Sureyya自然公園のある山を上がっていき、セレオコス朝がローマに敗れた戦いの現場マニサを通過します。

3.ティアティラ

 そしてティアティラの遺跡のある、アクヒサルに近づきます。町の中に入ると、なかなか開かれていますが、イズミルに比べたら、良き田舎という感じでしょうか。歩いている人々がとても庶民的、気さくでした。けれども、発展している町で、煙草や品質の高いオリーブとオリーブ油を生産しているようです。イエス様の時代も似たような感じでした、エペソやペルガモン、またスミルナのような大都市には劣りますが、それでも中堅都市として栄えていたそうです。トルコは山が多いのですが、編み目のように渓谷と平野があり、エペソ、スミルナ、ペルガモンとティアティラはつながっています。これで交通の要所となっています。


 ティアティラの遺跡に着きました。ビデオで見るように、本当に狭い敷地で、町に取り囲まれています。考古学の発掘は町があるのでほとんど進んでいないとのことです。


 Joe Stowell氏の動画には、この遺跡のドローンによる上空からの映像が流れています。とても小さいことが分かるでしょう。

 ティアティラは、リュディアの名で元々「ペロピア(Pelopia)」と呼ばれていましたが、ギリシアのセレウコス一世(ニカトール)が、ここをティアティラと名づけました。ヘルムスとカイカスの谷をつなげる回廊となっていたので、軍事戦略的に適した位置にありました。進軍を止めるための守備隊をここに置いたのです。兵士たちは「アポロ・トリムナエウス」を自分たちの守護神(守り本尊や、氏子みたいな存在)にしていました。アポロが「神の子」と呼ばれますが、イエス様がティアティラの教会でご自身を「神の子」と呼ばれて、ご自身こそが神の子であると啓示しておられます。この時、セレウコス朝において、何千人ものユダヤ人をバビロンからリュディアやフリュギアから連れて来ていたので、ティアティラにもユダヤ人が多く居住していたことでしょう。そして、セレウコス朝においては西方からの敵の進軍を遅延させる駐屯地であったのが、ローマ時代、ペルガモン王国に入ってからは、東方からの敵軍が首都ペルガモンに進軍するのを遅延させる駐屯地となりました。

 紀元前133年にローマの統治下に入りましたが、ローマ街道において、ペルガモンからラオディキア、さらに東方の属州をつなぐ大事な要所となりました。貿易が発達した町となりました。衣服の染色、土器や真鍮の制作は貿易の主な商品でした。皮なめし、焼き物、銅細工、そして奴隷貿易も盛んでした。パウロが初めてのヨーロッパへの宣教旅行のピリピにおいて、初めて回心した女性、リディアは、ティアティラ出身で「紫布の商人」「神を敬う人」と呼ばれています(使徒16:14)。神を敬う人とは、異邦人として自分たちの神々には習慣として仕えているが、ユダヤ人を神を敬う人々のことです。そして「紫布の商人」ですが、彼女はおそらくティアティラの商人の海外特派員のような存在であったのでしょう。今でも、紫はアカネの染料として、「トルコの赤」という名の区域で生産されているそうです。当時、紫色の繊維は、ローマ市民が高い階級であることを示すため売られていました。町には、先のアポロ・トリムナエウスの他、ギリシア神話の神々の宮があり、三つの競技場があって、そこに数多くの彫像、柱廊、店が並んでいたそうです。

 そこで貿易の商いの同業組合がありました。商売をするには、同業組合に入っていることは必須です。そしてその組合には祭りもあり、その祭りの中にアポロなどの神々に対する偶像礼拝や、それに伴う乱痴気騒ぎ、性的不品行がありました。それがティアティラにある教会の背景です。

 「イゼベル」と主が呼ばれる女預言者ですが、当時の諸教会が、今のように聖書と言う文書がなかったことを思い出してください。したがって、巡回する弟子、教師、預言者によって福音が語られ、その教えに従っていました。それで、まことしやかに話す話者が、拡がりを持つ諸教会の中に入り込んで、自分たちの欲を満たすことがよくあったのです。

 イゼベルと呼ばれる、自称預言者は、ニコライ派のような、グノーシス的な教えを持っていたのでしょう。グノーシスとは、当時の異端で、自らが高次の霊的知識を得て、世界はその力から造られているとしていた者たちです。「サタンの深いところ」とイエス様が言われましたが、それは彼らが自分たちが「神の深いところ」と言っていたのを皮肉り、神ではなくサタンなのだと言われているかもしれません。また、実際にオカルトの儀式を持っていたかもしれません。コロサイ4章8節で警告されているように、私たちは神の言葉である聖書、キリストご自身、そして聖霊を明らかにし、キリストによって完成されている啓示が既に知らされているのであり、隠されていません。しかし、この女が特別な霊的知識を持っているとして教えを行って、教会の人々の中にそれにのめり込む人たちがおり、その中で偶像礼拝と性的不品行が許容されていたのです。それゆえ、教会の人たちまでが同業組合の異教の慣わしと性的不品行にも妥協し始めた、ということです。

 イエス様の言葉には、ティアティラの人たちにはグサッとくるものばかりでした。先に話したように、「神の子」はアポロ神に使われていました。真鍮のような足ですが、真鍮作りでティアティラは有名でした。また、諸国民を治める権威が与えられるとの約束は、軍事的に戦いに勝利してきたティアティラに対して、キリストこそが勝利者であることを示しています。そして、「イゼベル」はもちろん、彼らの異教の慣わしを教会に持ち込んでいる姿を明らかにしている、ということです。



<要約>

 七つの教会の中では、最も小さな遺跡だが、イエスが最も多くを語られた教会である。背後には、ビザンチン時代の教会であり、黙示録の時の教会ではない。ティアティラにあった教会には、問題があった。初めは純真な思いで始まり、使徒5章のアナニヤとサッピラが倒れたように、聖く保たれていた。彼らは家々に集まっていた。当時は、シナゴーグはギリシア語であり、ヘブル語ではベイト・クネセットであった。当時の人々に考えでは、キリスト教がユダヤ教の一派と考えられていたから、同意できなくともシナゴーグを使ってもよい場合もあったであろう。サルディスには、ユダヤ地方に次ぐ最大のシナゴーグの跡がある。

 昔、モーセがエジプトからイスラエルの民を連れ出したが、民は長いこと、何度も偶像礼拝に陥ったが、同じ理由でティアティラの教会も偶像に陥っている。エジプトでは400年間、偶像の中で生きていた。多神教の世界では、神々は地域に根ざしている。エジプトを出たらエジプトの神々を捨てたが、カナンの地に入ったらカナン人の神々を拝み始めた。地元の神々を拝まなければ、災いが下ると信じられていた。ユダヤ人の神、ヤハウェを敬う異邦人がいて、「神を恐れる者」であったが、キリスト者ではない。異教の神々に仕えながら、ユダヤ人の神を敬っていた。コルネリウスは、全てを超越する、宇宙を超える神を知って、イエスを信じた。ヨナがニネベで宣べ伝えていた神は、地域を超えた方であり、ヨナを海に放り込んだら嵐がやむ神であった。アテネでのパウロの宣教につながる。キリスト教会に異邦人が入って来た。ユダヤ人はそれを嫌がったが、フィラデルフィアの教会でそのことを話す。異邦人は、学ぶべきこともあったが、習得したものを捨てる必要もあった。

 ティアティラは、東方からの軍がペルガモンで人々を防衛するために、その手前で軍の進軍を止めるための守備隊の町であった。また通商の町でもあった。商売のための同業者組合があるが、繁栄するために神々がいた。その組合には、異教の乱痴気騒ぎがあった。偶像礼拝と共に性的不品行も行なっていた。これらの神々に仕えれば、災いは起こらないと安全祈願でもあった。だから、たくさん慣わしとしているものを捨てなければいけなかった。

 「神の子」とは、あまりにも大きな神であることが分かる。「燃える火」や「真鍮」は、裁きの象徴である。イエス様は、彼らの行いをほめておられた。愛と信仰、奉仕と忍耐にすぐれていた。しかし、「なすがままにさせている」とイエスは言われるが、寛容が悪の許容としてなっている。「イゼベル」という女だが、本名ではなく、シドンの王の娘、アハブの妻でイスラエルにバアル信仰を持ち込んだ女だ。「わたしのしもべ」とイエスは言われるが、教会の人たちをご自分のものと言われてる。

 「淫らなことを行わせ、偶像に献げた物を食べさせた」と言われる。使徒15章において、使徒たちの会議が行われ、異邦人もそのまま信仰によってきよめられるとしたが、ヤコブが立ち上がり、「ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行い」を避けるように言いましたが、忌まわしい慣わしを捨てるように我々は召されている。しかし、シンクレティズム(混合)を行った。つまり、イエスが私たちの経済的に後援する神(patron god守り本尊みたいなもの)であり、けれども組合の慣わしは楽しんでよい、とした。

 「悔い改める機会」をイエスは女に与えられたが、すぐに裁かれないで、忍耐し、悔い改めるのを待っておられた。そしてイエスは、「病の床に投げ込む」と言われたが、この「床」とは、トリクリニウムのことで、ソファに寝そべって食事を食べる。そこが同時に、不品行の床になった。「この女たちの子たち」とは、女について行く弟子たち。「すべての教会は」と主が言われるように、ティアティラの教会に限った神ではないのだ。「サタンの深み」とあるが、神は聖書を与え、イエスを与え、ご自身を啓示された。隠そうとしておられたのではない。コロサイにおいては、深い神秘的な秘儀を好む者たちがいた。

 「重荷を負わせない、保っていなさい」とイエスは言われる。それだけなのだ。「諸国の民を支配する権威を与える」と主は言われるが、ティアティラは守備隊の町だが、経済的後援をする神ではなく、超越した方なのだ。「明けの明星」とイエスは言われるが、他にルシファーもその呼び名があるが、もちろん同等ではない。彼が明けの明星ではなく、わたしこそが明けの明星なのだと言われる。

 教会は、聖く、愛の行い、そして正しさに留まる。世の流れに従わないことだ。
(要約終)

 私たちには、神々に地域性があるというのはあまりにも当たり前に知っています。アメリカのクリスチャンに語っているのでジェイさんは、想像力を働かせるように勧めていますが、私にはあまりにも身近なので、そんな必要はありませんでした。ですから、ティアティラの教会は、私たちがいわゆる「仕事付き合い」とか、友達付き合いの中にある異教の慣わしや、不信者の彼氏との付き合いで迫られる不品行であるとか、「付き合い」に関わっている話です。そして多神教を背景にしている人たちは、神々を地域で考えますから、我々日本人は、「教会ではキリスト、日常生活ではそこの人々が大事にしているものを敬わないといけない」として、教会と世の生活の二重生活にいとも陥ってしまいます。具体的に神仏を拝んでいなかったとしても、どんなに教会生活が送れない人たちが多いことでしょうか。イエス様が「神の子」、すべてを超えた方だということを忘れてはいけないのでしょう。

 それから、「何か特別の霊的知識を持っている」という流れには警戒しなければいけません。誰々先生や、誰々神学を聞いた、特別な霊の流れの中に自分はいる、携挙の時期を知っている教師がいるなど、他の教会をことさらに批判して見下げ、自分が教会の有体のところに留まっていない時に、気をつけるべきです。そういった人々に限って、世的になり、これこれのことをやっても許される、教会の教えは律法主義的だと責めるのです。

 ディレクさんが、背後にある教会の跡の説明をしてくださいます。


 教会堂があるということは、紀元後313年のローマによるキリスト教公認後のものであることが明らかで、その前は公に活動するものなら、殺されてしまいますから。紀元後500年代に建てられたものです。教会堂の大きさによって、礼拝者の人数が推し量れます。そして、奥の半円形状のところが至聖所、祭壇の部分です。側面に通廊があり、これで全体で数百人は入るものと見られます。そして次に向かいにあるローマ時代の遺物があります。

 これまでイスラエルでもそうですが、ビザンチン時代の教会堂を何度も見てきましたが、全く勉強しないでいました。ウィキペディアで調べると、「ビザンティン建築」というページがあります。そして、バシリカというローマ建築を採用したものなのだそうです。ウィキペディアで「バシリカ」を調べると、列柱によって部屋を作る身廊というものがあり、その側面にさらに側廊で取り囲むのだそうです。覚えています、ベツレヘムの生誕教会がまさにそれでした。そして、東奥に半円形あるいは多角形に窪んだところを、教会堂の内陣に対してアプス(後陣)というそうで、そこを至聖所(nave)と呼び、祭儀が行われます。さらに、ディレクさんが両脇の部屋に通じる廊下を示していましたが、その両脇の小室を「パストフォリア」と言うそうです。南側が「ディアコニコン」、北側が「プロテシス」と言います。(参考になる、ビザンティン建築の図式入り説明

 この後、長い休憩です。旅行の仲間がここティアティラの「パシャ・モスク(Pasha Mosque)広場」のお店で、当面の必要な服など日用の必需品を買うためです。旅中にはぐれてしまった旅行カバンが戻ってきていないためです。私はしばらく、遺跡を見ていましたが、その後、その外にでて妻といっしょにアイスを食べたり、ジェイさんの止まらない聖書の話を聞いていたりしました。下の写真は、ローマの柱廊通の跡です。



4.サルディス

ティアティラからレストランDEĞİRMEN ODUN KÖFTE経由、サルディスまで(グーグル地図

 グーグル地図で見るように、ティアティラからサルディスは、70㌔ほど南東に下ったところにあります。「1.トルコの国と歴史」のところで説明しましたように、サルディスはリュディア王国の首都でした。トルコは古代はヒッタイト帝国が隆盛を極めましたが、その後ギリシアがエーゲ海沿岸に植民を始めていたようなころに、一気にアナトリア半島の西半分を征服したのがリュディア王国です。そのリュディア王の墳丘墓が、サルディスに近づくと一度ならず見えてきました。小高い丘のようになっています。ここは、サルディスの北にあるビンテペ(Bin Tepe 千の頂)といいます。

 そして私たちは、遺跡見学の前にレストランに入りました。トルコ料理の定番というところでしょうか、写真に取り損ねましたが、お店を紹介している写真に、食べたメニューがしっかり出ていました。始めは、「チョバン・サタラス」と「スズメヨーグルト」です。前者は、定番の角切り野菜のサラダで、後者は水切りヨーグルトです。調べると、ヨーグルトは何とトルコ語で、消費量は日本の6倍になるとのこと。トルコ料理と言うと、何か香辛料がきついかな?と思っていたのですが、いやいや、こういったヨーグルトのようなものが上手にミックスされていて、マイルドな味わいというイメージでした。

 そして「トルコのパン」と「ドマテスリ・ケバブ」。トルコで世界一だと思ったのが、パンです。とにかくおいしいです、なんでこんなに芳ばしく焼けるのだろうか?と不思議になります。そしてドマテスリ・ケバブは、焼いたトマトとのコンビがとてもおいしいです。そしてトルコ人が絶対に飲む「チャイ」です。トルコ人はターキッシュ・コーヒー(トュルク・カフヴェスィ)もよく飲むけれども、圧倒的にチャイ(紅茶)のほうを飲んでいる感じです。チャイといっても、インドのチャイとは違います。普通の紅茶なのですが、お湯を通すのではなく、じっくり葉を煮詰めます。

 お昼は、運転手の方とジェイさんの助手として動いているマークさんといっしょのテーブルでした。
 

 バスに乗り、サルディスの遺跡が近づいています。


サルディスの成り立ち

 サルディスに近づいた時、そこは大きな平野になっていましたが、そこは内陸からエーゲ海までに流れるヘルムス川(ゲディス川)による渓谷に位置して、軍事的にそこを押さえておけば圧倒的に優位に立つことができるからです。ヘルムス川から南に4㌔のところ、トモロス山の山裾の険しく高い尾根に「アクロポリス」が形づくられます。ギリシアなど古代の城市は、小高い丘や山に砦を作り、そこに王が居住したり、神殿を建てたり、有事の際の避難所に作られていました。リュディア王国時のサルディスの場合、有事の際の避難所として使われていました。今は、かなり浸食していて、リュディア期の城壁はほとんど残っていないそうです。

 リュディア王国の始まりについて、話しておく必要があるでしょう。初期に王朝が後退したのですが、ヘロドトスによる伝説的な伝記が有名です。彼によると、ヘラクレス家の最後の王であるカンダウレスが、自分の妻があらゆる女より美しいと信じ、自分の家来のメルナムス家のギュゲス(Gyges)に聞かせました。そして、なんと妻の裸の姿を見せてやるとギュゲスに強要して、寝室のところにギュゲスが盗み見することになります。妻はそれに気づき、自分の夫のたくらみであることを知った彼女はギュゲスを呼び出し、二つの選択を迫りました。「私の夫を殺してリュディアの王となって私と結婚するか、ここで死ぬかのどちらかを選びなさい。」それで、ギュゲスはカンダウレスを殺した、とのことです。これでリュディアはギュゲスの一族に王位が移りました。

 ここでなぜ、この話をしたかと言いますと、一部の聖書教師がエゼキエル38‐39章の「ゴグ」は、ギュゲスであるとしているからです。どうしてそこの預言がギュゲスと合致するのか私には分かりませんが、アッシリアの楔形文字の外交記録の中に、ルッティ王グッグとしてギュゲスが登場することからのようです(ウィキペディア)。

 話を戻しますと、当時は、神々に伺いを立てる神託が大事にされていて、デルポイの神託によってカンダレス家の恨みがギュゲスの子から数えて五代目の時に晴らされるということです。それが、リュディア王国が最盛期を迎えたクロイソスだということです。

参考記事:「ヘロドトスのおもしろ話(第一巻より)

クロイソスの隆盛と突然の敗北

 クロイソスの治世はその莫大な富で有名になり、英語では、大金持ちの形容で"richer than Croesus"という言葉があるほどなのだそうです。古代には、町の中を貫くようにしてヘルムス川に流れ込むパクトロス川が流れ、それはトモロス山から砂金を産していたそうです。それで貿易と商業によって莫大な富が生み出されました。先に話したように、クロイソスの時に世界最古の貨幣「エレクトロン貨」が登場しました。

 クロイソスは、エーゲ海沿岸に植民していたギリシアの町々を次々と征服し、リュディアの支配下にいれ、軍事的にも経済的にも隆盛を極めましたが、そうこうしているうちにキュロス二世が東方から遠征しにきました。ペルシアとリュディアの間で戦いが始まりましたが、意表をついてキュロスが紀元前548年に進軍し、サルディスに到着しました。テュンブラの戦いが行われましたが、リュディアが破れ、サルディスのアクロポリスに逃げ込んだのです。そして、サルディス攻囲戦がありましたが、とてつもない自然要害で大量の軍隊でも到底、太刀打ちできない状況だったのに、一夜のうちにあっけなく倒すことができました。

ペルシアからギリシア、ギリシャからローマへ

 このため、サルディスはペルシアのアケメレス朝の支配に入り、アナトリアにおけるペルシアの首府となりました。それから紀元前334年のアレクサンドロス大王の遠征によってギリシアの支配に入り、セレウコス朝の一部になりました。紀元前214年、アンティオコス大王が自身の従兄弟アカエロスが反乱を起こしたので鎮圧しましたが、ペルシアのキュロスがかつてクロイソスをその強力な城砦を、一夜にして倒したように、サルディスに隠れたアカエロスを倒しました。サルディスには、「眠っている時に、盗人のように突如の戦いによって滅ぼされる」という歴史がこびりつくようになったのです。

 そして紀元前189年に、先ほど通過したマニサ(サルディスから西に50㌔)で展開したマグネシアの戦いで、アンティオコス大王がローマに敗れました。ペルガモンの王がローマを助けたので、ローマはペルガモン王国に任せます。紀元前133年に、ペルガモン王国が解消、そのままローマの属州となりました。そしてローマ時代に、サルディスは、ペルシア時代に作られた、当時の首都スーサからサルディスに至る「王の道」によって非常に栄えます。黙示録が書かれた紀元一世紀から、二世紀にかけて人口が10万人にもなりました。

 そして、後で見る、離散の地で最大級のシナゴーグの遺跡があるように、ここにユダヤ人が多くいましたが、その中からキリスト教会も生まれていったのではないか?と言われています。時代がビザンチン朝に入り、コンスタンティノポリスが首都になると、属州と首都をを結びつける交通網が発達しました。サルディスは、その交通網から離れていたものの、首都大司教座となったそうです。エペソやスミルナに次いで、三つ目に大事な都市であったとのことです。今のサルディスの遺構には、主にローマとビザンチン時代のものが発掘されています。

東ローマ時代の商店街の遺跡から出発遺跡の地図

 今のサルディスの遺跡は、国道によって二分されています。遺跡の地図によれば、北手にある②が中心的な遺跡です。そこには主に、「東ローマ時代の商店街」「シナゴーグ」そして、「ギョムナシオン(競技訓練の場)とローマ風呂」があります。そして南方には、エペソに次ぐ麗美なアルテミス神殿の跡があり、そこからアクロポリスの山頂を眺めることができます。私たちは初めに、ローマ時代の商店街から出発しました。

 入口、ローマ式トイレのある遺跡の前で、リュディア王国の説明をします。


 大体、紀元前1000年ぐらいからリュディア人が存在し、600年代にクロイソスが治めました。紀元前1200年ごろのトロイ戦争以降、ギリシア人がここら辺にいました。ここからはアクロポリスは見えません(ちょうど木々がある向こう側)。絶対に無敵な要害だと信じていました。正面、つまり東方、イランからキュロスが征服しようとしました。それでクロイソスは、デルポイの神託を求め、ペルシアとの戦争をすべきかどうか神官に聞きました。「おまえがペルシアを攻撃すれば、大国を滅亡させることになろう。」とのことでした。ペルシアを滅亡させると思って戦争をしましたが、実はその「大国」は、リュディアだったとのことです!そして、これから見る町の遺跡はローマ時代のものものです。サルディスがどれだけ、華麗なものであったかを垣間見ることができます。ローマ時代以前であっても、リュディア時代、ギリシア時代も基本的に同じ性格を持っていました。

 そしてトイレの説明です。このトイレは、ギョムナシオンの隣接のローマ風呂に行く人たちと、商店街を利用する人たちに使われていたでしょう。古代ローマのトイレは、仕切りはないのですが、その下に側溝があって、それは流れていたので、まさに水洗でした(ローマ風呂の水が使われたことでしょう)。海綿のスポンジを棒に付けて、その海綿でお尻拭きをするとのこと。もっと大きなトイレを、エペソで見ることになります。そして、これが私たちの主が十字架で受けられた恥辱にもつながってくるのです(参考記事)。こちらこちらにも、当時どうなっていたかを示す絵があります。そして、お金持ちは冬の寒い時、まず奴隷に座らせて、用を足すところを温めてもらったそうです。

 国道沿いに、商店街が東に伸びています。その左隣にシナゴーグがあります。たくさんのお店の跡がありますが、「染物屋」に立ち止ります。



 ローマ時代、サルディスの主な産業は「紫布」の貿易でした。王家を表す色です。普通、紫色は海生巻貝を使っていましたが、ここは沿岸ではなく内陸にあります。この地域は茜(あかね)の根が採れました。また鉱物からも取れ、それで紫色の衣装でサルディスの商人は多くの収益を得ました。紫色は、地位や富を象徴していましたが、イエス様はサルディスの聖徒には白い衣を約束されました。染料漕で紫の染料を入れ、そこに布を入れます。終わったら、低い椅子に座りながら織機の前で編んで行きました。彼らが染料漕に十字架を掘っているのですが、これは明らかに313年以後のものです。なぜなら、キリスト教の公認がされるまでは、信仰を明らかにしたら迫害されたからです。次もまた別の、紫布の染物屋です。



 染料漕に、パイプが付いていますが、これはローマ風呂からの温水が流れてきたのでしょう。漕の前には大理石の平らかな部分がありますが、そこで脱水して、ベンチに座り、編む作業、それから通りに面する窓口のところにいって商売をしていたということになります。そして、乳棒の跡もあり、そこでアカネの根を叩いたとのことです。

 そして上の動画で既に見えていましたが、南側には、道路の跡があります。


 上の跡はあくまでも一部で、その向こう側の国道のほうまであったようです。そして手前が商店街のアーケードのようになっていて、上に煉瓦にできたアーケードの屋根がありました。道路の砂利から繊維から出てきたものが残っています。優雅な絨毯が敷かれていたのです。そして、この横にある道路が、ペルシアのスーサにまで至る王の道です(写真)。王の道は、究極はシルクロードで中国にまで続きます!そしてサルディスからエペソまでも道があります。五本の柱があり、その向こうが青草になっていますが、わずかに石畳が見えます。そして石垣がありその上は現代の国道になっていますが、つまり同じ道を使っているということです。

ディアスポラ(離散の地)で最大のシナゴーグ跡

 この商店街を左に曲がると、シナゴーグの遺跡に入ります。

 先に話したように、この地域、特にサルディスにはユダヤ人の定住がかなりの割合で知られていました。バビロン捕囚以後から移住が始まったのではないか、と言われています。オバデヤ書20節の「セファラデ」は、サルディスではないかと言われています。ヨセフスは、アンティオコス三世(大王)が、メソポタミアから二千のユダヤ人家庭をリュディアとフリュギアへ移住させたことを言及しています。また、ローマ皇帝アウグストは、サルディスのユダヤ人に集会の自由と、エルサレムへ神殿税を納めることを許しました。そして、ここのとてつもなく大きいシナゴーグの跡があります。

 まずは、会堂の前庭に入ります。全て壁に囲まれていますが、青空天上です。(復元図


 このシナゴーグは紀元後150‐250年には建てられたのではないか?と言われています。その時に、裕福なユダヤ人がこの区画を購入することができたということです、しかも商店街の真隣です。帝国ホールも、ローマ風呂もすぐそばにあります。そして、前庭の真ん中に複製ですが、儀式的に手を洗う洗盤があります。今でも、エルサレムの西壁のところで手洗いの場があります。ジェイさんは、ペテロが三度、イエス様を知らないと言ったことを覚える鶏鳴教会にて聞いたのですが、カトリック教会での「聖水」はユダヤ教の手洗いの儀式から来ているとのことです。(本会堂を向かいにした前庭の写真

 そして中に入ります。長さが50㍍という非常に広い本会堂で、千人は収容できたのではないかと言われています。そして屋根が当時はあったのですが、それを支えるために14㍍の石柱が並んで建てられていたと考えられます。(模型)台座の跡は残っています。

 そして本会堂の入口の左右に二つのトーラの巻物の置き場があります。中に入って手前の左の壁には、大理石による装飾が壁に施されているのが残っており、寄贈者の名もギリシア語で刻まれているそうです。贅沢にモザイクの残っている床を正面にあります。そして隣接して、「ローマ帝国ホール」と呼ばれる遺跡があります。建物の二階の真ん中に、皇帝の像が置かれました、だれの保護の下にあるのかを示していました。そして広場がありますが、これが「ギョムナシオン」(あるいは、パライストラ)です。ギリシア時代からのものですが、裸体の選手が、競走やレスリングなど訓練します。休憩の間に、ギリシア哲学の教師が彼らを教えます。これが、裸の男たちがいる隣で、シナゴーグがあるのは?というのは疑問があります。二つの可能性がありますが、後世、シナゴーグが建てられるときはアゴラ(広場)として使われていたということと、もう一つはシナゴーグには窓がなく、向こう側は見ることが出来ません。(全体の一区画の図

 そして、本会堂を歩いています。真ん中に、四つの正方形の形で、四隅に柱を立てていた跡があります。ここに巻物が持ってこられ、トーラが朗読されたと思われます。さらに奥に進むと、大きな大理石の机があり、その両隣に獅子の彫刻があります。そして最後の一番奥のアーチ型の部分は、会衆の席になっています。(会衆の席から前庭に向けて眺める全体の写真同じ方向からの復元図

 ここに来たユダヤ人は、ギリシャ・ローマ社会の中で、ここの中で社会的地位を得ました。なのでローマは、神々の宮への捧げ物をしなくてもよいとしていました。けれども、ギリシア人、リュディア人、ローマ人は、みな神々の宮で拝まないといけませんでした。ユダヤ人のような特例はなかったので、それがキリスト者の挑戦となったのです。

 では、ジェイ牧師が会衆席に座る私たちに対して、サルディスから御言葉を取り次いでくださいます。


<要約>

 第一に、先ほど見た、壁にあったモザイクのような模様が、エルサレムの神殿の敷地の全体を覆っていた。第二に、リュディア王の墳墓群についてだが、最大のものはギザのピラミッドより2㍍ぐらい低いだけだ。中ぐらいの大きさのものは、ギュゲスのものだ。使徒ヨハネの時代に至るまで有名になっていた。「グッグ」という名であるが、「ゴグ」の背後にある人物である。

 「実は死んでいる」と主は言われるが、霊的に鈍感になり、神に役立たない者となった。キリストの体は各部分が生きているから有機的に動けるが、その部分が壊死してしまっている状態だ。「聞いたのか思い起こし」とエペソと同じことを言われ、「悔い改めなさい、さもないと盗人のように来る」と強く言われている。そして、「白い衣」とあるが、サルディスは紫の衣で有名だったが白い衣だ。

 ここの人々は、キュロス王の時代のことを知っていた。険しい山があり、そこのアクロポリスはアテネのよりもっと高く、険しい。これは主に避難用のものであった。この周囲の人々が退避するためのもの。糧食の備蓄もあり、誰も侵入できない。ペルシア人が向こう側、東方からやって来た。歴史上、第三の世界制服を目指した帝国だ。ギリシアに目を付けていたので、その強大な軍隊を西進させていた。そして、デルポイの神託がその通りになる。

 しかし激しく険しいこのアクロポリスの主門の上で胸壁で護衛していた者がいた。たった一人である!万単位のペルシア軍なのに、それだけサルディスは高慢だった。そこでキュロス王は、「突破口を見つけたら、報酬を多く与える」と約束。ヒロイアデス(Hyroiades)が、弱点がないかずっと観察していた。真夜中に、胸壁にいた護衛が、そこから顔を出した時に兜が頭から落ちてしまった。それで拾いに行くが、秘密の階段と地中箱を降りて行き、兜を拾って、上って帰って行った。これで、「突破口が分かりました」と報告、多くない数でそこを上がっていき、一夜にして城砦を攻略したのである。みな眠っていたのである。ほとんど同じことが、アンティオコス三世が同じように町を攻略した。ちなみに、四世はアンティオコス・エピファネスである。

 これをサルディスの教会の人たちは知っていた。自分は完全にされていると思っているが、取られてしまう。敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、食い尽くそうとしている(1ペテ5:8)。「思い出しなさい」と言われるが、これらの歴史を思い出しなさい。そしてキリスト教をだめにするために、サタンは殺す必要はなかった、眠らせればよい。そうすれば役に立たないものになる。エゼキエル16章 49節には、主は「あなたはソドムである」と言われ、「高慢、飽食、安逸をむさぼり、貧しい人に援助をしなかった。わたしは、彼女を取り除いた」と言われる。(安逸を貪るはunconcernedであり「無関心」と訳せる。)「白い衣」は、純粋、祭司のような、聖なる人々と見ていた。キリスト者は、何かやりくりできる人ではなく、聖さが求められている。

 そして、「いのちの書から決して消しはしない」という言葉がある。最後の裁きの御座は有罪宣告である。しかし、ここの「消しはしない」ということは、救いを失うことなのか?その話をしておられるのではない。しかし「実は死んでいる」とイエスは1節で言われている。昔、住民登録があった。巻物があり、「いのちの書」があった。生まれたら登録され、死亡したら消去される。「あなたがこのままでいったら、死んでいる。」とイエスは言われている。
(要約終)

 ティアティアも、サルディスも、いかに当時の人々に分かり易く、そのまま入っていく言葉をイエス様が使われていたのかが分かります。救われている、救われていない、救いを失ったとかいう議論の中で彼らは聞いていなかった、彼らの頭にあったのはいのちの書に自分が死んでいるからない、という事実だったということです。

 そして私たちは隣接している帝国ホール方に移りました。シナゴーグも、パライストラもローマ風呂も全て、一体化しています。(復元図)ローマにおいて、公衆浴場は社会的交流の場であり、イスラエルでも、ベテ・シェアンなど、いろいろなところに遺跡が残っています。小アジアではエペソにも、ローマ式浴場の跡があります。そこは、ちょうど私たちが健康ランドに行くようなリラックスする場であり、微温、高温、冷温の浴室がそれぞれあり、会話を楽しみ、また運動してからお風呂に入るという習慣もありました。トルコ風呂に、ローマの風呂形式が遠巻きながらに遺っています。なので、全裸の選手たちは訓練をパライストラで行った後で、冷水風呂に入り、それから高温浴室に入ったのかな?なんて想像しちゃったりします。

 それから、ここの説明では、シナゴーグは元々、、このローマ風呂と訓練場の合体した建物の一部であったけれども、後にシナゴーグに改良したという説明をしています。本当に、サルディスでは裕福なユダヤ人たちが、社会的地位をもっていたことが分かりますしかし、非ユダヤ人のキリスト者は、次に大理石の中庭に安置されている偶像との戦いが絶えずあったことでしょう。

 復元図にしたがってお話ししますと、大きな広場がパライストラで、そこで選手たちが訓練を受け、練習します。そして大理石の中庭(Marble Court)がありますが、そこで儀式的なことを行います。その奥に、フリギダリウムという冷水プールがあります。さらに、その奥、カルダリウムという高温浴室がありました。その浴場の横に左右対称に部屋が並んでいます。

 大理石の中庭の動画です。


 二階にある壁龕(へきがん、像を安置するための凹み、ニッチとも)は、正面のところに皇帝の像が、そしてその周りの凹みには、ギリシアの神々であるとか、いわゆる自分を保護し、後援する守り本尊の神々をそこに置いてありました。そして裏に行くと、フリギダリウムの跡がありました。そして、左に曲がり、フリギダリウムの横にある部屋を横切り、南東にある出入口に向います。このローマ浴場の前で、新郎新婦の記念写真撮影が行われていました。



 とてもきれいですね、ディレクさんはそれでも、「ムスリムの衣装ですね、でも、いい加減。肌は隠しているんですけれど、体型が見えてしまっていますからね。」と、ぼそっと。確かに、元々、新婦の衣装は西洋のもので、全然、イスラムの女性の服とは正反対の価値観を持っていますから、折衷しても無理があります。保守派に対する、世俗派の彼女らしい皮肉り方です。

 最後に、ドローン撮影の、敷地全体の上空映像を見つけたので、ご覧ください。


アクロポリスを背景に、アルテミス神殿へ

 かなり時間が押していたのですが、ぎりぎり、アルテミス神殿の敷地まで行くことができました。いったんバスに乗らないといけません、それだけ距離が離れています。南方に向っています。前もって電話をディレクさんがしてくれたので、閉まる時間ギリギリでしたが、開けて待っていてくれていました。



 まず、こちらのグーグル立体マップをご覧ください。先にいたところは、Sardesということです(上方)。そこから、南東に下り、アルテミス神殿(The Temple of Artemis 左下)があります。そして、右下に注目してください、山がありますが、ちょっとこげ茶の禿げた部分がありますね、そこがアクロポリスです。これを上空からドローンで撮影した動画があります。アクロポリスがいかに険しいかが堪能できるでしょう。


 アルテミスは、ギリシア神話に出て来る女神ですが、小アジアにおいてはキュベレーの大地母神信仰と混淆して独自の崇拝が行われていました。エペソのアルテミス神殿が最も大きく、そこに行く時にアルテミス崇拝について詳しい説明があります。小アジアには、エペソの他に、このサルディスと、マグネシアにもう一つあります。サルディスのは、イオニア式の神殿として世界で四番目に大きな神殿です。

 元は、ギリシアのアレクサンドロス大王がペルシアからサルディスを取った後、紀元前300年にギリシア人によって建てられました。当時は、二重列柱堂(dipteros)だけであったと考えられます。その入口の外にアルテミスの祭壇があり、紀元前6世紀に遡るものですが、このヘレニズム期に今も残存している、段付きの平面敷地として、神殿に組み込まれました。しかし、ヘレニズムの後期には、セレウコス朝のの衰退に伴い放棄され、建築は再開されたものの、再び放棄されます。しかも紀元後17年に地震が起こり、損害を被りました。どこかの時点で、ゼウス神もアルテミスと共にこの場所を共有したそうです。

 そして、ローマ時代、150年になって、大体的な改築が行われました。サルディスが神殿管理者(neokoros)という特別な称号を得るために、ローマの皇室に献納する宮が必要でした。そこでアルテミス神殿が、半分はアルテミスと皇后ファウスティナ、もう半分がゼウスと皇帝アントニウス・ピウスに献納する宮となりました。(参考記事)何とも、神仏混淆のお寺みたいな形ですね。

 映像では背景に、アクロポリスの山が見えます。(写真)そして、こちらは図面の写真です。ここの説明によると、神殿は800年間使用されたけれども、建設は完成しなかったそうです。そしてこちらの写真を見ていただくと、いかに柱の部分が大きいかお分かりになるでしょう。



 柱の説明をしておられます。まず台座ですが棒が付いていました。ロープか何かで運び、指定の一に置いたら切り、彫刻をするのですが、そこまで終わらせていません。(写真)または、上にも棒があって、そこで青銅の鉤によって持ち上げた後に、その溝を埋める作業をするのですが、お金がないので、溝が残ったままになっています。神殿はリュディア時代からあり、ギリシア、ローマへと拡張しました。おそらく、次のようなことではなかったのか?と復元図があります。

 そして驚くことに、神殿の敷地内にビザンチン時代の教会があるのです。


 普通は異教の神殿があれば、それをキリスト教式に改造するのですが、これは500年後半のもので、まだ強いアルテミス崇拝が行われていました。それで神殿の横に建てたのですが、宣教的な意味合いがあります。神殿に参拝に来たら、ここにも立ち寄ってくれることを期待します。そして、神殿側としては、「多くある神々の中で、またもう一つの神が増えただけだ」と思って、認めていたのでしょう。こちらには、教会がよく見える全体写真があります。

 そして、礼拝や犠牲の捧げ方について、聞いた解説を日本語で説明しました。


 まとめとして、アルテミス神殿をじっくりと眺める、映像がありましたので、ご紹介します。



5.フィラデルフィア

アルテミス神殿からアラシェヒルの聖ヨハネ教会(グーグル地図

 私たちは、サルディスから東南東に約50㌔走り、アラシェヒルという町に着きました。比較的新興の町のようです。


 フィラデルフィアは、「友愛」という意味です。ここは紀元前二世紀、ペルガモン王国のエウメネス二世が建てた町で、自分の弟で自分に忠誠を尽くしたアッタロス二世への友愛のために、彼の別名「ピラデルポス」から名付けたとのことです。そして、アッタロス三世の時にローマに王国を寄贈してから、ローマの属州の中に入りました。ヘルムス渓谷の上流部に位置し、ここから川がサルディス、そしてスミルナの近くで地中海に達します。肥沃な土地で、ぶどう園で有名でした。渓谷の平野に今も美しいぶどう園があります。それで、ギリシア神話のぶどうの神、デオニュソスを守り本尊としました。そして紀元後17年に地震によって破壊され、そのため皇帝ティベリウスは五年間分の受け取っていた貢物を返還、町の再建の助けになるようにさせました。それで、ネオカイサリアという名前でも少しの間知られるようになりました。

 キリスト教がここで建て上げられたのは定かではありませんが、おそらくはコロサイ書に書いてある、ヒエラポリス、ライディキア、コロサイの後にこちらにも立てられたのではないかと言われています。黙示録の書かれた90年代には、スミルナと並んで、イエス様から叱責を受けない教会として、忠実に耐え忍んでいました。107年に、アンティオケのイグナティオスが、ローマで殉教(107年)の途上でここを訪れています。また、ポルカリュポスが155年に殉教した時に、11人のフィラデルフィア出身のキリスト者も共に殉教したということです。

 フィラデルフィアの当時の町の遺跡は、現代のアラシェヒルの町に埋まっており、アクロポリスにあった劇場の土台の僅かな部分だけが残っています。(右上の写真)

 アラシェヒルの町の中を通って、真ん中に、聖ヨハネ教会があります。


 こんな感じなので、車はバンバン通ってあいさつ代わりに警笛を鳴らすは、子供たちは遊んでいるは、心地よい喧噪に満ちていました。


 ディレクさんが説明してくださいます、このように教会堂の建てられている後ということは、ローマで公認された後の時代のものです。


 六世紀のものです、かなり大きな建物で、ここに見える大な数本の柱だけでなく、左にあるマンションの一角全体もすべて教会であったと言われているます。コンスタンティノープル(今のイスタンブール)にあるハギア・ソフィア大聖堂が当時、最も大きな聖堂でありました。そこまで大きくないけれども、かなり匹敵していたのではないかということです。バシリカ建築で、ドームがあり、屋根は傾斜があったでしょう。けれども当時、かなりのキリスト教徒の人口を抱えていたものと思われます。フィラデルフィアは、サルディス、スミルナ、ペルガモンのようなメトロポリスではないけれども、教会は大きかったです。これだけ柱が大きいということは、「神殿の柱とする」とイエス様が言われた言葉を意識していたのでしょうか?(教会の写真

 ジェイさんが話し始めると、警笛がなるわ、二度、取り直して、ようやく始めます。


<要約>

 フィラデルフィアには、214年にしか皇帝礼拝が来なかった。ここでの問題は、ガラテヤ書と関係する。「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことができない。」と言われ、基本的に「あなたがたは大丈夫だよ」と言われている。そして、「だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。」と言われた。これは、伝道の戸について語られるが、実は文脈が違う。

 「サタンの会衆の属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しているが、実はそうではなく、嘘を言っているものたち」とある。スミルナの教会にあったように、異邦人が割礼を受けてないのに集会に入ってくるのに腹を立てていた。この辺りには、ユダヤ教の分派で「ヘレニズム・ユダヤ人」がいた。彼らは哲学者のような語り方をした。しかも、ヘレニズム化したエッセネ派であった。異邦人の影響を受けている。異邦人は、アフロディテの宮で神官になる時、ここで阿片も栽培していたのだが、それを噛み、精神錯乱状態に陥って踊り、公に去勢をしていた。パウロが、割礼を主張する者たちは、一層のこと不具(去勢して)になってしまえばよい、とガラテヤ書で言った理由がある。

 そのギリシア化したエッセネ派はこういったのであろう。「あなたがたは去勢しているが、私たちは割礼をしているのだ。」と言ってごまかしたのだ。そのような去勢は異教であり、悔い改めて生ける神に立ち返りなさいと宣べ伝えなければいけないのに、「私たちはあなたがたと似ている。ちょっと違うだけだ。」と言ったのだ。イエス様がティアティラの教会に、異教の慣わしを取り入れたことで叱責されたが、同じことをしていたのである。

 そのようなところに、福音が来た。イエスを信じようになった。ところが、これらユダヤ主義者がいた。エッセネ派のヘレニズム化したものだ。「あなたがた異邦人は、我々の共同体に入れることはできない。」と言ったのだ。キリスト者たちは、異邦人たちがそのままで教会に受け入れらた。そして数も質も増えて行った。

 神殿破壊後、ユダヤ人は本拠地をテルアビブのところに、ヤムニアに移していた。これらエッセネ派の者たちがヤムニアの会議で、キリスト者たちのことを訴えた。そこのサンヘドリンが90年に、12の祝祷なるものを書いた。そこのエッセネ派が訴えたので、サンヘドリンは、キリスト教会全体を追放したのである。(Wikipedia)異邦人のキリスト者はその含意が掴めなかったが、つまりは、シナゴーグからの追放、社会からの追放を意味していた。シナゴーグは地域の集会場のようなものだから、そこを通して教会が増えたのに、ここでユダヤ教とキリスト教が分裂したのである。

 彼らは、共同体から追放されたけれども、イエス様は「わたしはダビデの鍵を持っている、私が開ければ閉じることはない」と言われたのだ。そして、「あなたにはわずかばかりの力がある」と言われたが、大きな力を持っていたのはシナゴーグである。そして、新しいエルサレムで新しい名が与えられるのだ。どちらが、いいか?スミルナの時も、あなたがたは苦しむがわたしは共にいる、見捨てないということだ。

 そして、「試練の時」とあるが、黙示録は紀元後90年以後に書かれているが、神殿破壊の70年の二十年後だ。だから、この試練の時は将来の話である。
(要約終わり)

 とても難しい話だったと思います。スミルナの教会の時も同じような問題があったのですが、「当時の初代教会は、ユダヤ教の一派であった」ということ。つまり、初めはユダヤ教として会堂も使用がある程度、許されていたというものがあります。そして、会堂というのは、共同体を機能させる人々の集会場としての役目があったので、そこにいるということは、生活を営んでいるうえで死活的でした。さらに、次に、ユダヤ主義者というのは、要は「異邦人のままでは受け入れないよ」ということです。だから、ユダヤ教徒になるために割礼を受けなさい、ということです。けれども、異邦人がそのまま信じて、その中に入り始めたので、フィラデルフィアのユダヤ教徒(エッセネ派)が、訴えて、云わばナザレ派の彼らを完全追放したということです。ここで決定的なユダヤ教とキリスト教の分離が起こりました。

 最後に、ジェイさんが、神殿の柱にするという約束、新しい名を記すという約束について、当時の会堂は柱に、善行を行った人々に敬意を払うために名を刻んだそうなのです。それがカペナウムの会堂跡にあるので、そこで説教している動画を見つけました。


ヒエラポリス - パムッカレへ

聖ヨハネ教会から、Doga Thermal Hotelへ(グーグル地図

 かなりの時間になっていました。トルコは、サマータイムに切り替わったばかりということもあり、8時頃にならないと日が暮れないのですが、それでももう日が暮れてきているかな?という感じです。ここから1時間30分近く、sらに走らないといけません。次の旅程、ヒエラポリス/パムッカレは、観光名所であり、温泉も出るところなので、ホテル街になっています。そこのDoga Thermal Hotelはとても新しく、豪華なホテルでした。

 夕食は9時頃になったでしょうか、美味しく食べて、それからホテルの真ん中にある大きな温水プールに入りました。トルコ旅行で分かって来たのですが、プールに入る時は、必ずプール・キャップが必要です!ここでは、こっそり入りましたが、後のホテルでは絶対ダメと言われたので、水着の他にキャップをお忘れなく。