2018年トルコ・ギリシア旅行記 4月12日
1.パムッカレ/ヒエラポリス
2.ラオディキア
3.コロサイ
リュコス川流域の三つの町
私たちが12日に巡回のは、三つの町です。ヒエラポリスとラオディキア、そしてコロサイです。この三つは互いに10‐20㌔圏内にあり、フリュギア地方の南西部にありました。この三つの町が書き記されているのがコロサイ書であり、このようにパウロは書いています。「私はエパフラスのために証言します。彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスにいる人々のため、たいへん苦労しています。・・この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキア人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたも、ラオディキアから回って来る手紙を読んでください。(4:13,16)」これらの教会は、おそらくエパフラスが建てたものであり、そしてここに表されているように、手紙が回覧され、共有されていたようです。ヨハネによる黙示録もラオディキアに来たのですから、おそらく、ヒエラポリスやコロサイにいる兄弟たちも読んだのではないでしょうか。
ここは、メンデレス川(Meander)の支流であるリュコス川(Lycus)流域に位置しています。ヒエラポリス(Hierapolis)と、ラオディキア(Loadicea)、コロサイ(Colossae)が三角地帯のようになっているのがお分かりになるでしょう。とても肥沃な土地であり、羊も数多く飼われていますいます。そして綿花がよく取れて、綿にしても、羊毛にしても織物の産地になっています。そして、ヒエラポリスから湧き出る温泉水が織物の染色に適していました。当時は、ラオディキアがその金融と政治の中心地でした。そしてヒエラポリスから出て来る温泉に人々が押し寄せ、またそこから出て来る硫黄と結びついた異教の儀式もあり、また、小アジア最大のネクロポリスを形成していました。ヒエラポリスからは熱い水が流れますが、コロサイには冷たい、新鮮な水が流れており、その間にあったラオディキアは生ぬるい水しかこなかったというのが、黙示録3章のライディキアに対するイエス様の言葉の背景になります。
そして、昨日の旅行記で説明しましたように、ユダヤ人を厚遇したことで有名な、ギリシアのセレウコス朝のアンティオコス三世(大王)は、バビロンとメソポタミア地方から二千のユダヤ人家族をリュディアとフリュギア地方に移住させていますが、それゆえ小アジアのユダヤ人は異邦人の地で大いに栄えました。ユダヤ地方のユダヤ人までも後に、こちらに移住してきたほどです。当時のアメリカまたニューヨークというところでしょうか。紀元前62年には、推定ユダヤ人人口は5万人だったそうです。そのため、ヒエラポリスのネクロポリスにはメノラの入った墓も見つかっています。これが、使徒の働きで聖霊が弟子たちに降った時に、小アジア地域から大勢のユダヤ人が来ていた所以です。
けれども、昨日の旅でも説明があったように、一世紀のキリスト者はユダヤ教の一派であったのに、異邦人をそのまま受け入れて行ったので、ユダヤ人社会から排除されるようになってきました。そのため、ユダヤ人が持っている社会的地位によるその信仰の保護がローマから与えられず、非合法な分派のように取り扱われました。キリスト者は皇帝崇拝に妥協しなかったので、それで裏切り者とみなされ、迫害され、殉教しました。それが、使徒ピリポがヒエラポリスで殉教した背景となります。(参考記事)
Doga Thermal Hotelからパムッカレの南門まで(グーグル地図)
1.パムッカレ/ヒエラポリス
ホテルを出発した私たちは、バスで10分ぐらいで到着です。すでにパムッカレの石灰棚が、雪が降り積もったスキー場のように錯覚するほど、真っ白に覆われた姿が見えて来て、そしてパムッカレの南門のほうの駐車場に到着します。そして南門に行くまでの道が、おそらくアネモネの花が沢山咲いていて、同じようにアネモネが咲く二月のイスラエルよりも、はるかに豊かに咲いている感じです(動画)。※右の地図をクリックすれば、拡大されます。
パムッカレとヒエラポリスは、どう違うのか?と思われていると思います。パムッカレは今のトルコ語の呼称で、その石灰棚の美しさから、周辺の綿花の栽培になぞらえて、「綿の宮城」という意味です。けれども、ギリシア・ローマ時代は「ヒエラポリス」と呼ばれて、「聖なる都市」という意味です。「ヒエラポリス・パムッカレ」として世界遺産に登録されています。
パムッカレで足湯
私たちは南ビザンツ門から入り、しばらく歩くと左手に石灰棚に面した遊歩道が出てきました。そこを歩きます。パムッカレの成り立ちについては、世界遺産のサイト「パムッカレ」をご覧ください。こんなにすばらしい外観になる背景は、なんと言っても温泉が湧き出ているからです。(パノラマ写真)
この温泉郷を狙って数多くの、特に裕福な人々がギリシア、ローマ時代にここを訪れ、また癒しの神アスクレピオスや、その父アポロンが祭られていたのですが、皮肉なことにそこに小アジア最大のネクロポリス(死者の都市)があるのですから、その癒しの無力さを物語っているのではないでしょうか。「長寿を願って、あらゆる薬やまじないが集まって来る所が、実は墓場になっている」という感じなのだと思います。
パウロはここに来なかったかもしれないけれども、コロサイが向こうに見えますが、ラオディキアと共にパウロが手紙を出しました。そして、手紙はこの三角地帯のキリスト教会には回覧されたであろうと言っています。そして石灰棚は、かつては温泉としてそのまま浸かることができたそうなのですが、環境汚染が激しくなり、一部、足湯だけであったり、また歩ける区域を定めたりしているようです。私たちは30分間、その時間が与えられました。(写真)
ヒエラポリスの広大な遺跡
パムッカレの石灰棚は、数多くの中国人や他のアジア人の観光客がいましたが、隣接するヒエラポリスの遺跡はがらんとしていました。しかし、こちらが歴史そのものが遺っているところです。まず、ディレクさんが全体の説明をしてくださいます。
ヒエラポリスは、紀元前二世紀ペルガモン王国のエウメネス2世によって建設された都市です。ペルガモンに行く時に、説明します。ヒエラポリスの東方にまで領域を広げ、肥沃な土地を得たかったたいので、ヒエラポリスを支配しました。スミルナやサルディスのような古い都市ではないです。イタリア人に発掘の許可をトルコ政府は与えましたが、一向に動かないので、「発掘しないのなら許可を取り上げる」と言ったら、本格的に始めて、「ピリポの墓を発掘しました」とのこと!言い伝えによると、彼がここに来て殉教したというものがあったのですが、墓が見つかったとのことで確認ができたとのことです。ジェイさんによると、これは四人の娘の預言者がいた伝道者ピリポのことではなく、「神を見せてください」とイエス様にお願いした、十二弟子の一人ピリポのことです。
ディレクさんがとても興味深いことを話してくださいました、彼女はアメリカの大学で考古学を専攻したのですが、その時に「古代キリスト教の芸術」という授業があったそうで、六世紀ぐらいの初期キリスト教会、つまり公認されてから二百年ぐらい経った後ですが、「キリスト者、聖徒が殉教したところを記念して教会堂を建てる」ということなのだそうです。ですから、フィラデルフィアにあった教会堂など、無名の聖徒の殉教があったのかもしれない、とのこと。
次に見えるのは、ローマの遺跡(南大浴場)です。公衆浴場です。ペルガモン王国がこの都市を建てたけれども、ローマに後に明け渡し、ローマの都市になりました。他の小アジアの都市のどこでも起こったことです。古代ギリシア人には風呂文化はありませんでしたが、ローマによって作られました。カントリー・クラブのような、裕福な人々の社交場です。必ず四つの部屋があり、アトリウム(中庭や脱衣場)、フリギダリウム(冷浴室)、テピダリウム(微温浴室)、カルダリウム(高温浴室)がありました。
裕福なローマ人は、一人の妻がいて家事をやらせて、愛人を公の場でも連れていて、女性かもしれないけれども男性もいて、それは常であったとのことです。そして、男であればいっしょに浴場にも行ったとのこと。そして奴隷がローマの三分の二を占めていましたが、必ず奴隷が裕福な人の家にいました。これらの奴隷は、もちろん市民ではなく、ギリシア・ローマの宗教儀式には決して参加できないのに、キリストは使徒たちを通して、奴隷に恵みによって神が近づかれたので、それでローマ社会に広がったということです。キリストにあって、奴隷も自由人も一つで、今の民主主義に寄与したと言っています。
プルトニウム(プルトンの聖所)
この看板の前から私たちは、アポロ神殿跡のところに歩いて行きます、徒歩3分ぐらいです。そしてその手前には、「パムッカレ温泉(別称:クレオパトラのプール)」というものがあるらしく、これが凄い、その温泉の底はギリシア・ローマ時代の遺跡がそのまま眠っているようです(動画)。
そしてアポロ神殿跡に来ましたが、そこに隣接して、プルトニウムと呼ばれる、ローマ神プルトンの聖所があります。(原爆や原発で使われている物質ではなく、むしろこの神にちなんで付けられたものです。)ローマ神話における冥界を司る神のようで冥王とも呼ばれるようです。ギリシア神話のハデスがローマ神話に取り入れられたものです。ここから、ジェイさんが、目が開かれるような解説をしてくださいました。
黙示録は、七つの教会に対して書かれていますが、その一つラオディキアに書かれている時、ヒエラポリスにも来たことは確かです。ヨハネは、ガリラヤの漁師であり、古代の東方とヘブライ的思考を使って、非常に、小作人に対して書くように単純に書いていました。そこで、黙示録は「これを聞いている人々には、非常に分かり易く書かれている」ということです。旧約聖書の引用は数百もあり、ユダヤ人が読めばすぐに理解できます。けれども、ここに住む人々にとっても、また別の背景の中でとても分かり易かったのです。彼らが既に知っていることに基づいて書かれており、容易に想像できる幻でした。神はご自身が理解されるように願っておられたのですから。そもそも、黙示録は隠すためではなく現わすもの、明らかにするものです。
古代の地中海世界では、プルトニウムというものが知られていました。地の奥深くに、プルトンという神がいるというものです。イスラエルには、ピリポ・カイサリアに、崖の洞窟の底から突如として水が湧き出ていて、それがヨルダン川の源流の一つになっているのですが、当時の人々はそこに神秘を見い出し、古代の人たちは「そこに地獄(冥界)」がある、と理解しました。ここの、別のそういった場所なのです。
以前は、ここは有毒が出るから危険という標識があったそうです。石灰棚が出来ているのは温泉があるからで、ここに療養のために多くの人が来て、でもやはり死んでしまって墓が多くあるのでしょう。ここには、アポロン神殿が横にありますがそこで神託があります。処女たち(ウィキペディアですと去勢をした祭司たち)がずっと地下にまで降りて行きますが、熱湯が出ているところは、炭酸カルシウムだけではなく二酸化硫黄が出てきます。これを吸引すると、脳を破壊します。そして吸引して完全にハイになり、死にかけます。けれども出てきて、幻覚を語ってそれが神託となるのです。(映画「300」で、スパルタの神官が、神託のために少女を酔わせて、その幻覚を語らせる場面があったのを思い出しました)。
黙示録9章には、こうあります。「第五の御使いがラッパを吹いた。すると私は、一つの星が天から地に落ちるのを見た。その星には、底知れぬ所に通じる穴の鍵が与えられた。(1節)」この底知れぬ所の穴こそが、彼らがプルトニウムを思い起こさせるのに十分だったのです。「それが底知れぬ所に通じる穴を開くと、穴から大きなかまどの煙のような煙が立ち上り、太陽と空はこの穴の煙のために暗くなった。その煙の中からいなごが地上に出て来た。それらには、地のサソリが持っているような力が与えられた。そして彼らは、地の草やどんな青草、どんな木にも害を加えてはならないが、額に神の印を持たない人たちには加えてよい、と言い渡された。その人たちを殺すことは許されなかったが、五か月間苦しめることは許された。彼らの苦痛は、サソリが人を刺したときの苦痛のようだった。その期間、人々は死を探し求めるが、決して見出すことはない。死ぬことを切に願うが、死は彼らから逃げて行く。」この悪霊のような生き物は、彼らにとって想像力を強く働かせるまでもなく、奥深く、すぐに連想できたのです。
このプルトニウムの存在は、この三角地域のみならず、フィラデルフィア、サルディス、ティアティアのあるヘルモス渓谷のほうにも知られていたし、ヒエラポリスには、ローマ時代、英国地方のほうからも来ましたし、ユダヤ人も多かったし、ともかく広く知られていたのです。
イエス様が底知れぬ所の存在を語られましたが、福音はこの地域にも来ました。マルコ伝はローマ人には身近な存在で、初めに書き記された福音書であるマタイ伝も、アラム語から恐らくはコイネのギリシア語に訳されたのではないかと思われますが、ここに到着しました。ヨハネが、福音書を書いた時には、エペソにいました。ルカは、アンティオケから来ましたが、それもこの地域です。ですから、底知れぬ所の話を聞いた時に、すぐに彼らはどんな姿なのかは想像が着いたのです。もちろん黙示録は、終末の、地球規模で起こる出来事なのですが。
そしてディレクさんが補足します。
プルトニウムの神官たちは、トリックも使いました。鳥をまず中に入れて、戻ってこないのを確認して、自分も中に入って、けれども息を止めます。それで死んだ鳥を持って来て、この穴から出てきたら、「プルトンによる害を受けなかった」として神官を信じる者たちを驚かせます。
それからこの聖所のそばに、アポロンの神殿の敷地に立てかけるようにして、ギリシア語の書かれた石盤がありました。
これはローマの建物ですが、ギリシア語で書かれているのは、ローマ時代になってからもギリシア語は既に世界言語になっていたので、ローマはそのままギリシア語を使い続けた、ということです。(別の角度から撮った写真、左上がアポロン神殿跡です)
このプルトニウムの耳を近づけると、今でもふつふつと音がしているとのことで、旅行仲間の何人かが耳を傾けたら、確かに音がしていたとのこと。ところで、次の記事で復元した図を見つけました!これを観ると、神官が出て来るのを眺める観客席みたいなものもあったのですね。
Scientists unravel the mystery of the Roman 'gate to hell'
使徒ピリポの殉教者廟と墓へ
この後、ディレクさんは、ヒエラポリスを見せるのにどうすればよいか迷っていました。広い遺跡だし、年を召した方や足を痛めた人がいたので、徒歩は無理です。そこで急遽、施設の人にワゴン車二台をチャーターしました!どんどん勾配があるところを上がっていき、右目には保存状態が良いと言われる、ハドリアヌス帝が作った劇場を見て、そして使徒ピリポのマルティリウム(殉教廟)に着きます。
このような教会堂が建てられたのはキリスト教が公認された後なのですが、ピリポがここのどこかで葬られていて、公認されてからその言い伝えに基づいて、建てたわけです。次は、教会堂が八角形であることの意味について教えています。
八は「永遠の命」の象徴する数字だとのこと。神が六日で天地を造られ、七日目に休まれ、そして八はその先の命ということです。私は八は「新しい始まり」という意味で捉えていましが、でも、新しい命、完成された後の命と考えれば、永遠の命も妥当な解釈だと思いました。そして、ガリラヤ湖畔の山上の垂訓の教会が八角形であるし、よくある形ですね。
500年代に建てられたものと思われますが、必ず330年以後、キリスト教の合法化以後のものです。祭壇が東を向いています。そして傍聴席が祭壇の回りにあります。小アジアの初代教会(400‐800年代)の典型的な形です。教理や信条について議論をするためのものだったそうです。こちらのリンク先に復元図があります。
次は、アーチにある要石の説明です。十字架の印がある石ですが、これを取ればすべて崩れます。イエス様が、要石と呼ばれましたね。
次の動画は、この殉教廟から見えるヒエラポリスです。先ほどいたプルトニウムは左手に、正面に町のメイン・ストリートがあります。
そして墓は、殉教廟の下に、階段を下りたところにある、また別の教会跡(英文の説明)のところで発見されました。
墓の中には何もないのですが、大抵盗賊が取って行ってしまっています。なので、墓にはしばしば、「この墓に触れるな、さもないと罰が下る」という主旨の言葉が残されています。この墓の左右に、二つのサルコファガス(石棺)の跡がありますが、言い伝えによるピリポには二人の娘がいたとのこと。ちなみに、サルコファガスは、「肉体を食べるもの」という意味です。こちらに墓の中を撮った写真があります。
ネクロポリスへ
再びワゴン車に乗り、ヒエラポリスの中心街を通ります。始めに、北ビザンツ門が見え、それから中心通りがあり、その向こう、木々のあるところがアゴラなのでしょう。そしてドミティアン門が見えます。そこを過ぎると左に家型墳墓が、右側に大きなローマ風呂(北大浴場)跡があり、そしてネクロポリスの到着です。
先に説明したように、あらゆるところから人々が療養のために来ま、ここの人口は増え、その甲斐もなくここで死に、それぞれの思いで墓を作り、葬られていきます。これも家族墳墓です。
ここも家族墳墓ですが、上にあるのはスペースがなくなったのでしょう、さらに追加でサルコファガスがあります。そして貧しい人はただ穴を掘って、そこに埋めるだけでした。
メノラのある墓です。先に説明したように、ユダヤ人の移住がアンティオコス三世の時にあって、それでユダヤ人の存在が非常に大きかったと言えます。墳丘墓もありますね。ミケーネ時代の時の墓が墳丘墓なので、ギリシア系の人たちの墓なのかもしれません。
ドミティアン門へ
ドミティアン門に戻りました。ドミティアヌス帝(84‐85年)を称えて造られましたが、三つのアーチのローマ様式をよく表しています。
この門は税関のような役割を果たしていました。ローマ市民であれば、許可証を持っていたのでそのまま通過できました。エジプトとか、違う地域から来た人たちはここで止められて、尋問を受けます。ここに木製の青銅で覆われた門があって、閉じられます。門衛が横の塔に駐屯していました。パウロはヘレニスト系ユダヤ人であり、ローマ市民でありましたが、パピルスの巻物を背中に担いで歩いていたのではないかと言っています。
この後、ワゴン車に乗って戻り、そして初めの南門に歩いて戻りました。最後に、日本語の動画でとてもすばらしく、ヒエラポリスを紹介しているものがありましたので、こちらに紹介します。これまでの説明がかなり網羅されています。
2.ラオディキア
パムッカレから、ラオディキアまで(Google地図)
上のグーグル地図を見ての通り、バスで十数分、15㌔ぐらい南下したところにライディキアの遺跡があります。一目見て驚きましたが、とてつもなく大きな遺跡で、現在進行形で発掘が進んでおり、みるみるうちに見ることのできる遺跡が増えて行ったとのことです。地元のパムッカレ大学の発掘チームが行っているそうですが、あまりにも速く発掘するため、案内の書籍でさえ発掘されたものが正確に何であるかを把握しきれていなくて、戸惑っている表現さえあります。ともかくも、裕福な町であるようです。英語ですが、こちらに遺跡の地図があります。
ちょうど㉑の辺りから入っていますが、ここは「シリア街」と呼ばれて、デクマヌス・マクシムス(東西の中央通り)を歩いています。紀元後一世紀にできたものだそうです。発掘された遺跡としては、アナトリア最大の競技場、二つの劇場、四つのローマ風呂、五つのアゴラ(広場)、五つの憩いの場、二つの記念碑的な門、会議所、神殿、列柱に囲まれた家、教会、そして街路があり、町の四方にはネクロポリスがあります。
ここのラオディキアは「リュコスのラオディキア」とも呼ばれています。肥沃な二つの小川の間に挟まれた丘の上に位置し、その小川はリュコス川からの支流のため、そう呼ばれています。この町を建てたギリシアのセレウコス朝のアンティオコス二世が、自分の妻ラオディケの名にちなんで他にも同名の町を建てたので(今はシリア領のラタキアなど)、それと区別するためにリュコスのラオディキアと呼んでいます。
ここは、フリュギア地方にある小アジア西方の重要な町で、エフェソからシリアに通じる幹線道路や、先に見たヒエラポリス、その先にはサルディスもあり、通商の要所となりました。ローマ時代には、商業の発展に恵まれ、黒い羊毛と銀行、そして医療の発達に特徴のあった非常に裕福な町でした。ユダヤ人の多く住む所でもあったので、そこからキリスト者が現れて、教会が生まれたと言われています。パウロが、コロサイ人への手紙の中でライディキアにも読まれていることを意識してその手紙を書き、そして黙示録の七つの教会の最後の町として出てきます。
ラオディキアの歴史
歴史は、後期銅器時代、初期青銅器時代(紀元前3000-3500年)のも発見されており、その町がアンティオコス二世によって建てられる前から人々が居住していたことが、紀元前4世紀の貨幣や土器の破片から分かっています。そしてアンティオコス二世ですが、これまで私たちが西トルコの歴史を知るうえで、ヘレニズム時代のセレウコス朝の人物について、実は紀元前536年辺りにダニエルが預言した11章に、その詳しい姿が描かれています。アンティオコス二世については、次の通りです。「6 何年かたって、彼らは同盟を結ぶ。和睦をするために南の王の娘が北の王に嫁ぐが、彼女の勢力は保たれず、彼の勢力も続かない。彼女は、自分を連れて来た者、自分を生んだ者、そのころ自分を力づけた者とともに引き渡される。」
南の王プトレマイオス二世が、娘ベルニケを北の王アンティオコス二世に嫁がせます。仲が悪かったので和睦するための、政略結婚でした。プトレマイオス二世はベルニケを妻に与える時に、アンティオコスには妻ラオディケがいたのに、離縁するように命じていました。プトレマイオス二世は数年後に死にました。アンティオコス二世はラオディケと寄りを戻そうとしました。けれども、ラオディケは復讐に燃えて、なんとアンティオコス二世と、ベルニケと、この二人の間に生まれた赤ん坊を殺したのです。このように正確な預言であるため、旧約聖書はマラキ書を最後に中間期に入りますが、その時期にもダニエルによって歴史が啓示されています。
話しを戻しますと、ラオディキアはアンティオコス三世(大王)の時に急速に発展しました。紀元前三世紀には、自分の部下であったアカエオスが自立してしまったので彼と戦い、213年に倒しました。そして先に話したようにこのアンティオコス三世がユダヤ人を厚遇して、バビロン地方からこちらに移住させたのです。伝説にもなりましたが、ここの裕福なユダヤ人たちが毎年、9㌔もの重量の金をエルサレムの神殿に送ったと言われています。そして紀元前188年、マグネシアの戦いがローマとアンティオコス大王との間で繰り広げられ、ローマが優勢で終わりました。その時に友好関係をローマと結び共に戦ったペルガモン王国のエウメネス二世が、この地域を支配するようになります。(ヒエラポリスは、エウメネス二世によって始められたものでしたね。)そして彼の死によって、そのままローマに遺贈されたということです。
私たちはシリア街の真ん中辺りまで歩くと、左側にアゴラ(広場、市場)があり、右側に神殿Aと呼ばれる、というかまだ具体名が与えられていない神殿跡があります。その中に入ろうとしています。
話しをローマ時代に戻します。その後、ローマとポントス王国のミトリダテス六世との戦いが続き、ラオディキアも荒れ果てましたが、すぐに復興し、ローマはここを自由都市としました。そして紀元後一世紀から五世紀にかけて黄金時代に入ります。金融が発達したこと、繊維が主な産業で黒い羊毛で有名であることは説明しました。そして、医療の学校の中心にもなり、眼科の分野で影響力を持っていました。フリュギアの粉末と呼ばれるようになる、目の疾患のための薬が使われていました。イエス様の言葉を思い出しますね、「黙3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。」
地震が紀元後27年、また60年に起こり、ラオディキアは全滅しましたが、皇帝ネロが再建のための資金を援助しようとすると、なんとラオディキアの住民は誇りにかけて断りました。アジア地方において、唯一、皇帝からの資金援助を断った所であったのですが、そこに彼らが「自分たちでやっていっているのだ」という自負を生み出し、その自負に対してイエス様は彼らに「創造の源」として黙示録3章で現れたのかもしれません。
交通の要所として建てられた町なので、水源の問題がありました。古代都市は、水源がどこにあるかは非常に重要な要素になっていましたが、そこでラオディキアは、二つの町から水道を作って引き入れていました、ヒエラポリスから温水を、コロサイから冷水を引いてきたのです。けれども、もちろんラオディキアに来る時までは生ぬるくなっていますから、それがイエス様がラオディキアの教会に生ぬるさを語られた背景になります。
ラオディキアの教会は?
先ほど話したように、ユダヤ人が多くいたために回心する人たちの中から教会が生まれて、パウロがコロサイ書に手紙を書いた時に、ラオディキアの信者たちにも読まれるようにしていました。そこには、熱心で、愛のある信徒たちの姿が描かれています。けれども、いつの間にか、その都市の富によって生ぬるくなり、イエス様の叱責の言葉があります。けれども、驚くことに彼らは悔い改めたようなのです。教会の跡が発掘され、それがローマ公認後直後に建てられたものであり、その下にはそれ以前に教会の跡もあるとのことです。そしてビザンチン時代に、ラオディキアは司教座が与えられ、なんと1450年まで続いていました。(以上の参考記事:日本語、英語)
神殿の跡と教会跡
神殿の跡に入っていくと、なんとその奥、聖所の部分を下に眺めるような形でガラスの床となっていました。下には、ここで発掘された遺物がたくさん見えます。そのガラス床の上でディレクさんがラオディキアの概要を話してくださいました。(こちらに復元図もある案内の写真)
発掘されているのは、まだ全体の十分の一ぐらいで、東側に見える列柱よりも遠くにまで広がっています。この神殿の辺りが、町の中心部でありました。ここは、ローマ皇帝を祭る小さな神殿だそうです。(案内図には、元々はアポロス、アルテミス、そしてアフロディテの宮だったところを皇帝礼拝へと移していったようです。ディオクレティアヌスとマクシミアヌスの名が見つかったとのこと。)ここは、中庭を超えて聖所の中にいるのですが、奥にはローマ皇帝の像が安置されていたはずで、立っているところは保管所になっていました。貴金属や貨幣もありました。当時は、神殿がしばしば金庫のような役割を果たし、それでエルサレムの神殿もお金が集まって来るという問題が起こった、とも言えます。
右側には、教会跡があり、小アジアで発見された最古のものです。キリスト教の公認後、300年代、400年代のものと考えていますが、この教会跡の下にさらに、公認前の教会の跡も見つかっているのだそうです!ただ、まだ推測に過ぎなく公表はまだできないとのこと。左側には、アゴラにあるコリント式の列柱ですが、以前、ジェイさんたちが来た時には発掘、復元されていなかったとのことです。
まず、ラオディキアの話をする前に、最近、発掘されたイスラエルのメギドでの驚くべき発見について話しています。ハアレツ紙の記事にそのニュースを見つけました。古いメギドの刑務所の下に、ユダヤ人のキリスト者の祈りの場所が発掘されたとのこと。紀元後二世紀後半のものだから、世界で最古のキリスト教の施設の発掘です。そのモザイクには「神、イエス・キリスト」とはっきりと銘記されているとのこと!
今回、ラオディキアの教会に対するイエス様の言葉が、見方ががらっと変わりました。最も厳しく、イエス様から除外されるような教会だと思っていましたが、実は、後半は悔い改めた後のイエス様の優しい交わりと、勝利した者への栄光ある約束が書かれています。それに気づいたのは、初めにジェイさんが、右側にある、この教会の跡を示していることです。
「15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。16 そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。」
ここの「生ぬるく、熱くも冷たくもない」の意味ですが、ラオディキアは後ろに見える白い部分、ヒエラポリスと経済的に競合関係にありました。右側にはコロサイがあり、山々の麓にありメンデレス川の支流が流れているので、雪解け水なので冷たいのです。コロサイは衰退していた町だったのですが、水道をこちらに引っ張って来て、またヒエラポリスの温水から水を運んで来ました。どちらにしても生ぬるくなっています。これが、ここのイエス様の言葉の背景だというのが、一つの解釈です。
もう一つの解釈は、温水がそのまま熱いままここに来たというものです。なぜなら、水道管ですからきちんと保温されて、こちらまで流れてきたというもの。またコロサイからも冷水が水道管の中で、きちんと保冷されていたということです。ローマ風呂には、冷水風呂もサウナもどちらもあったのでそういった可能性もあります。冷水は暑い時にリフレッシュさせますし、温水は体を癒します。温泉に入って体が癒えて、その後に水風呂に入ったら、最高ですね。
アメリカの福音派教会では、熱いというのは、「主に対して燃え上がる」という意味で、冷たいというのは、「その情熱が冷めてしまった」いう意味で、生ぬるいのは、本当は冷たくなっているのに、熱いままでいるように見せかけている偽善だ、と解釈されていました。けれども、実は温水は癒し、冷水は爽快にさせるという意味です。生ぬるいのは、鉱水は苦く、当時は飲むのは有毒であると信じていました。だから、口に入ったら吐き出していたのです。
聖霊の賜物は、「生ける水」と呼ばれています。貯水槽にあるような淀だものではなく、流れて来るもので、私たちを新たに、元気にさせます。聖霊に満たされた時には、自分を通して他の人々も、元気になります。あるいは、自分を通して人々が癒されます。しかし、生ぬるいとは、周囲に有害になるのです。ライディキアの人々は、祝福され繁栄しましたが、それでサルディスと同じように無関心で自己満足の中に陥ったのです。
「20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
ここでしばしば西洋画で、イエス様が外で戸を叩いているものがありますが、そういったことではありません。「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。」と言われました。当時、結婚はお見合いだったのですが、恋愛の時、一つの儀式がありました。それが、お嫁さんになってほしい人の家に行き、戸を叩くのです。叩いている時、彼は彼女への愛の歌をうたわないといけません。周りの人たちがいる中で、とても恥ずかしい状況になっていますが、彼女は二階から降りて来て、彼が戸を叩いている間に、食事の席を整えます。そして彼を入れます。それから、彼が彼女と食事を取るのです。彼女は彼に、「あなたの妻となります」と言って、彼は彼女に、「あなたを愛している」と言うのです。
ものすごいですね、こんな愛の呼びかけだったのです。そしてラオディキアは悔い改めたようなのです、数百年も教会跡が遺っているのですから、その軌跡を見ることができます。
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・・ということですが、驚きましたね。私も、聞いたことがあります、熱いのは主に対する熱さで、冷たいのは愛が冷えるという解釈。でも、どうですか?私たち日本人は、温泉がいかに体を癒すかを知っていますね。あのサウナに入った後の水風呂が、冷たいけれど気持ちいこと!また、私たちは軟水は好きだけれども、硬水は好きではないですよね、鉱水ならなおさらのことです。そのままの文化背景で、イエス様の言葉が理解できるのです。また、戸を叩くというのも、そういったラブストーリーであることは全く知りませんでした。
次に見るのは、驚くべき落書きです。なんと、ユダヤ教の象徴メノラ(燭台)と、十字架が重なって彫られている柱が発掘されました。今私たちは、㉘の中央アゴラにいます。
紀元前640年に、ユダヤ人がかなりいました。彼らはプトレマイオス朝によって雇われた、優秀な傭兵で、免税までされていました。彼らはディアスポラ(離散の民)であり、エステルが救った人々でもありました。この落書きを見ますと、火を灯しているメノラがあり、右側にはショーファー(角笛)があります。左側にはナツメヤシの葉(Luav)があります。これは、仮庵の祭りの時に使うものです。
そして十字架の印ですが、これはビザンチン時代のものです。十字架は、卑しめであり、侮辱の象徴であり、キリスト者はそれをイエス様が負われたことを知りました。これを象徴とするのは、コンスタンチヌス以降です。ローマに行くと、カタコンベの墓のニッチ(壁龕)のところに魚の印があります。または鳩の印です。これが自分たちがキリスト者であることを表していました。エペソに行けば、魚のイクススの跡があります。アテネに行けば、ギリシアのアゴラとローマのアゴラがありますが、翼の宮の土台のところにキリスト者の印があります。
十字架の下の丸の部分は、世界を表していると思われます。これが、単なる侮辱で彫られたのか、あるいは、キリスト教会がユダヤ教に置き換わった意味なのか、あるいは、キリスト教会がユダヤ教に付け加えられたのか?なのですが、三番目の意味だったらいいだろうなと思いますが、たぶんビザンチン時代のものなので、二番目の意味なのですね。ユダヤ人もいて、そしてキリスト者もいたことを示す証拠です。
続けて、ディレクさんの説明。
この柱は、通の向かい、㉜の皇帝セプティミウス・セウェルスの泉(ニンファエウム)で、大理石の壁が並んでいますが、大理石の低い壁(Parapet)の上に、円柱が並んでいて、その上に三角形のペディメントがあったのですが、その円柱からのものです。なぜこの落書きなのか?解答は与えられていません。メシアニック・ジューが不信者のユダヤ人に対するメッセージなのか、キリスト者がユダヤ教との融合を願っていたのか、二つの共同体が共存したいという思いが込められているのかあ?と思うとディレクさんは言っています。三世紀には、ユダヤ人の共同体もあったし、そしてキリスト教の共同体もあったので、そうだったのではないか?とのことです。
そして次に、⑧の北にある劇場、ローマ時代のものを見に行きました。
ディレクさんは、ライディキアに対するイエス様の言葉を、町が腐敗していることを話しているけれども、その只中で神への渇望を表しているのではないか?ということを言っていますが、ジェイさんは「恵み」だと解説します。怒りの子であった私たちが、キリストによって神の子どもになるというもので、理解をはるかに超えているが、受け入れることができるものだ、というもので、その腐敗の影響が会衆に及んでいたと説明します。ディレクさんは、「腐敗のある所に、神を求める人々が起こる」ということを繰り返していますが、私も、彼女がムスリムながら良い点を付いていると思いました。コリントも腐敗していましたが、そこでリバイバルが起こったし。ヤバいところで、主の教会が栄えることって多くあるでしょう。
それから、この劇場自体の説明をします。
当時は、ギリシアの12の神々にちなんだ宮がたくさんありました。町がいくつかを選んで自分たちの神々にするのですが、毎年、例祭が行われていましたが、小アジアではアルテミスが主な神でした。ローマ名は、ディアーナです。例年、人々が集まって来て、そうした宮でアルテミスを拝んでいました。それによって町は収益を得ていました。そして、娯楽もあり、劇場は娯楽のためです。巡礼もありは、娯楽もあったわけです。
これで私たちは時間の制限があり、帰りましたが、その途中で発掘中の遺跡があり、ディレクさんが尋ねるとまた別の教会跡だとのことです。とにかく大きいです、こちらのサイトに、遺跡のについてのそれぞれの詳しい説明が書かれています。
そして最後に、本当は見たかったけれども、見なかったものがあります。それは水道管の跡です。その内側に鉱物が付着して、沈殿していたことを示すものがあります。二つの動画をここで紹介します、一つは以前、ジェイさんがここで撮影したもの、もう一つはDay of Discoveryから。
3.コロサイ
ラオディキアからコロサイまで(グーグル地図)
ラオディキアからバスで大体20分ぐらいでした、西に走ると、何でもない遺丘のところに停車しました。そう、コロサイはほとんど手付かずの、発掘されていない遺跡なのです。ホナスという村から1.5㌔ほど北にあり、フリュギアの町でした。背景にはカドムス(Cadmus)山があり、そこから雪解け水がコロサイを通って流れ、リュコス川に入ります。紀元前五世紀は、サルディスとコンヤ(イコニウム)の途上にあった通商の中心地で、コロシヌム(colossinum)という名の濃い赤の染料の布で有名でした。フリュギア人、ユダヤ人、ギリシア人の貿易商人を引き付けたことでしょう。ここにペルシアの王クセルクセスが立ち寄り(紀元前481年)、小キュロスもリュコス渓谷を行進した(401年)ことが記録されています。
けれども、コロサイの商業的な価値は、紀元前一世紀にライディキアが設立されてから失われ初め、紀元後17年と60年の地震によって倒れ、ラオディキアは自分たちで再建したものの、そのまま低迷していったと思われています。上の写真は、遺丘にある劇場の跡のようですが、発掘される価値をまだ見出されていないのでしょうか、そのままにされています。
しかし興味深いのは、その手紙の中に書いてあることです。まず、コロサイに教会が始まったきっかけは何なのか?パウロが、エペソでティラノの講堂で福音を語り続けたことです(使徒19:9‐10)。これによって、アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた、とあります。その中に、エパフラスがいたのでしょう。彼はおそらく故郷のコロサイに戻り、彼の働きによって教会が建てられたと思われます。そして先に説明しましたように、コロサイとラオディキア、そしてヒエラポリスの諸教会は何らかの形で、エパフラスの働きと関わっていたと思われます。パウロは、エパフラスの同労のしもべだと紹介しています(1:7)。したがって、パウロのコロサイの人たちに対する思いは、エパフラスの働きを通して伝えられていったということです。
加えて興味深いのは、コロサイとピレモンの手紙はつながっていることです。パウロは今、コロサイ人へ手紙を書いている中で獄中にいます。ローマの獄中ですが、その時にエペソ人への手紙を書きました。そして、その時にコロサイのところにいた、キリスト者でピレモンという人のところで奴隷であったオネシモが逃亡し、ローマでパウロに出会い、福音を聞いて信仰に至ったことです。それで、オネシモをコロサイに戻しますが、その時にピレモンに執り成しているのが、「ピレモンへの手紙」です。そして、手紙を携えているのはティキコで、ティキコと共にオネシモはコロサイに戻ります(4:7-9)。
エパフラテスはとてつもない労苦をもって、コロサイの教会や、またヒエラポリスやラオディキアの教会の兄弟たちを建て上げて行こうとしたと思うのですが、その指導が間に合わず、かつてから人数の多いユダヤ人の影響で、ユダヤ主義が入り込み、それから、各種の人間の哲学、異教の教え、天使礼拝も混淆していました。天使長ミカエルが保護者として拝まれていたこと。そして、コロサイには、エペソのアルテミス崇拝、ラオディキアのゼウス崇拝、また、様々なギリシアの神々、エジプトの神々も拝まれていたとのことです。その中で、地震が起こった時にこれは祟りではないかという恐れを持っていたのではないか?と思われ、それでパウロが手紙を書いた背景となっているというのが、次のジェイさんの講釈です。
ジェイさんが勧めてくれたのは、「手紙を読む時は、手紙を受け取った人々の人物像を知ることだ」ということです。コロサイでは、ユダヤ人が神殿税を支払っていました。60年に地震が起こって、彼らは恐怖に満たされました。神々から祟られたと思っていました。何か恐怖をもたらす霊を恐れていました。下界、先祖の霊も恐れていました。それで去勢や肉体の苦行も行ないました。教会については、上に説明したとおりです。そして手紙を読む時は、章や説ではなく、「一気に手紙全体を読む」必要があるとのこと。当時、何か、ここでこうしたコロサイの人々の迷信を煽って、神秘主義やカルト的なことをしていた背景が見えてきます。
それで、次を読むとほっとするのです。「1:15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。1:16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。1:17
御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。1:19
なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。」
そして、次も恐れている人々に慰めです。「3:12 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。3:13 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。3:16 キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。3:17 ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。」イエス様に頼って、それで安心できます。
これでここから立ち去ろうとしたら、なんと羊の群れがどっと来ました。
羊たちが、牧羊犬と羊飼いに導かれている姿は圧巻です。ところでこの羊飼いの方、コロサイの遺跡の裏に住んでおられるようで、お茶でも陰府に来なさいと誘っていたそうです。政治についても談義されたようで、現エルドアン大統領を批判していたとのこと。
そして忘れてはならないのは、このコロサイに下のように、雪解け水の流れる小川がこのようにあります。これが水道管をつたって、ラオディキアまで運ばれていったということですね。
午後4時頃の昼食、それからエペソへ!
コロサイからレストランまで(グーグル地図)
ラオディキアを出た時はもう2時ぐらいになっていたのではないでしょうか、コロサイを見てから、その地域で最も大きな都市デニズリにある、魚料理レストラン"Değirmende Canlı Alabalık Restaurant"に行きました。豊かな自然の中で、下に鯉が泳いでいるのを見ながら、美味しいマスの料理を食べました。写真に料理を納めるのを忘れましたが、こちらのページに食べたものがしっかりのっかっていました。この時に既に四時ぐらいになっていたのを記憶しています。
レストランからクシャダスのホテルへ(グーグル地図)
そして、これから一気にその日の夜と、次の日の夜に宿泊するクシャダスにあるCharisma Deluxe Hotelに泊まります。デニズリから、一気に西に移動、2時間半はゆうにかかりました。クシャダスについて、グーグルには次のような説明がありました。「クシャダスはトルコ西部のエーゲ海に面したビーチリゾートの町です。すぐ近くにあるエフェソス(エフェス)の古代遺跡を訪れる際の出発地点となっており、有名なクルーズ船の寄港地でもあります。海辺の遊歩道、マリーナ、港の周辺にはホテルやレストランが立ち並びます。」
ホテルに着いて部屋に入ったものの、トイレの下から、若干、水が漏れていました。(けれども、満員だったので、他の部屋に動けず、けれども次の日に移動することができ、そこがホテルの中でもはじっこできれいなオーシャンビューを楽しめました。)この日は、昼食が夕食のようになっていたので、夕食はほとんどお腹に入らず、けれども、夜に街中を歩いて、イズミールの時に見つけたチェーン店、Migrosに行き、それから近くにあるカフェで、トルコ・コーヒーとチャイ(トルコ紅茶)を飲んで、まったりとしました。
明日はついに、七つの教会中の大御所、パウロの宣教の二代拠点(もう一つはコリント)の一つ、エペソ(エフェソ、エフェス)を見ます。