2018年トルコ・ギリシャ旅行記 4月11日 その1

1.トルコの国と歴史
2.スミルナ
3.ティアティラ
4.サルディス
5.フィラデルフィア

(3.以降は「その2」へ)

 モーベンピック・ホテル・イズミール(Mövenpick Hotel Izmir)にて宿泊、翌朝、朝食に行くと、そこにおそらくアメリカから来た私たちのグループらしき人たちがいました。そこに、写真では顔を知っていた、団長のジェイさんもいて私たち二人は挨拶です。今日は、ホテルから徒歩で行ける「聖ポリュカルポス教会」を訪問、それからバスに乗り、ティアティラ、サルディス、そしてフィラデルフィアへと一気に進みます。

1.トルコの国と歴史ウィキペディア

 トルコという国について、スミルナからティアティラに行くバスの中で、ディレクさんが大まかなことを説明してくださいましたが、まず初めに説明させていただきたいと思います。下の写真はディレクさんがバスのフロントの窓の上に掲げて説明してくださったものです。


 まず、トルコの正式名称は「トルコ共和国」1923年に共和制を宣言して、現在の国家が誕生しました。その建国の父は、ムスタファ・ケマル・アタテュルクであり、今でもトルコ人から絶大な敬愛を受けているようで、ディレクさんもその一人です。最も大きな都市はイスタンブール(Istanbul)ですが、首都はアンカラにあります。面積は日本の約2倍の面積で、上のように横に長い長方形のような形をしています。人口は約7900万人です。

中東ではなくアジア

 住民のほとんどは、トルコ人です。トルコ人とは、中央アジアから東西に広域に広がったテュルク系の人々であり、東には例えばウイグル人もテュルク系です。ですから、トルコを旅すると、そこは「中東」ではなく、聖書時代の「小アジア」の名にふさわしく「アジア」と言っていいでしょう。この出っ張っている半島の部分を「アナトリア」とも言いますが、それはギリシア語で「日出る処」という意味で、ローマなど西方に生きる人々はトルコを、今の日本のような日出るところと見なしていたようです。トルコはアジアの最西端にあり、私たち日本人は最東端にあり、西と東で飛行機で12時間以上という非常に遠いですが、民族的、歴史的には「アジア」でつながっている人々です。私たちアジア人に共通する、情や気遣い、そういったものに共通するものを私は強く覚えました。

 けれども、彼らは、セルジューク朝が始まる紀元後11世紀ぐらいから移入し、モンゴルの拡大によってさらに移住が進んだために居住している人々で、トルコの中では比較的新しい人たちです。しかし、その歴史の皮をひっぺ返すと、その前の歴史には、東と西の世界が行き来する悠久の歴史が横たわっています。実にその最大都市イスタンブールが、アジアとヨーロッパの境目にあります。そして、聖書を信じるキリスト者にとって、トルコこそが、創世記における聖書の足跡、それから新約聖書と初代教会の主な舞台、そしてビザンチン朝という東ローマ帝国時代までの、聖書とキリスト教の現場なのです。

創世記から新約聖書、東ローマ帝国まで

 創世記においては、2章から「ユーフラテス(Euphrates)川」と「ティグリス(Tigris)川」の上流部分がトルコを流れています。そして、アブラハムが神に召されて、約束の地、カナンへの旅で、途中で留まったのがハランですが、それはトルコ南東部にあります。そしてノアたちが箱舟に乗って、洪水の水が引いて箱舟が留まったアララト山が、トルコ北東部に位置します。洪水後、ノアの家族は民族、国語に分かれ出ましたが、ヤファテの子ゴメルやトガルマの子孫は、トルコ辺りに住み始めたと言われます。エゼキエル38章の、マゴグの地のゴグがイスラエルを侵略する時、ゴメルやベテ・トガルマも参戦することが預言されていますが(6節)、残念ながらトルコも参戦するということでしょう。

 そして、ユダヤ人がアッシリア捕囚、バビロン捕囚によって離散しましたが、トルコにも移住してきて、エルサレムで聖霊が降り、弟子たちが異言を語っていた時に、世界中から五旬節を祝うために集まったユダヤ人に、トルコから来た人々がたくさんいました。「私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキアポントスアジアフリュギアパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。(使徒2:8‐11)」ここでリンクを付けた地方はみな、今のトルコの中にあります。そして使徒の働きは、トルコ中部の南端にあるアンティオケから始まり、トルコ西端のトロアスに至るまで、この国で興ったものです。


(出典:新改訳2017)

新石器期から初期青銅器期まで

 トルコの歴史は、新石器時代のものに遡ります。世界遺産に登録されているギョベックリ・テペの遺跡は、紀元前1万年から8千年のものと言われており、エジプトのピラミッドより古い建造物が発掘されています。一般的に考えられてきた原始人のような生活とは裏腹に、高度な文明を持っており、なんと神殿までも発掘されているそうです。進化論に影響されている人類発展の歴史ではなく、ノアの時代の洪水前に文明が既にあったように(創世記5章)、初めから文明が発達していたという聖書観により近づいています。

 そして、パウロが宣教旅行で開拓したイコニウムがあったコンヤの近郊に、こちらも世界遺産登録されているチャタル・ヒュユクという村落があります。こちらも、紀元前6千年代の時期で新石器時代です。ここで発掘された、「チャタル・ヒュユクの座った女性」という地母神の像は、後にキュベレー崇拝へと受け継がれ、エペソのアルテミス神殿へと継承されていきます。エペソに訪問する時に、さらにこのことをお話ししたいと思います。

 そして、トロイという世界遺産もあります。これは「トロイの木馬」や、ギリシア人が勝利するトロイ戦争を描いたホメロスの「イリアス」で有名な名前ですが、はるか昔、紀元前3000年頃、初期青銅器時代の都市からの遺跡が見つかっています。トロイも後日、訪問します。

オリエント

 そして古代オリエント史が始まります。紀元前18世紀頃、古代バビロンを倒し、古代エジプトも脅かすような巨大な帝国が始まりました、「ヒッタイト」です。以前の版の新改訳では、創世記23章など、「ヘテ人」で登場する人たちは、ヒッタイト人であります。今のボアズカレにある巨大な遺跡群「ハットゥシャ」は世界遺産登録されています。一時、海の民によって滅ぼされます。ペリシテ人は、その海の民の一部であり、それゆえ士師の時代とダビデの時代に激しく内陸に入って攻撃する姿が出てきます。

 時を経てメソポタミアに、アッシリア帝国が台頭します。その時、アッシリアの内乱に乗じて領土を広げた、イランにほどなく近いヴァンを首都にしたウラルトュ王国が成立します(紀元前9‐6世紀)。そしてアナトリア中部には、フリュギア人が王国を作りました。今もゴルディオン遺跡として残っています。パウロが宣教旅行で、ピシディアのアンティオキアから西方に動いた時に、そこは当時もフリュギア地方と言われていました。コロサイやヒエラポリス、ラオディキアはフリュギアの西部にありました。

 しかしヒッタイトに変わる王国は、紀元前7世紀に最も優勢になるリュディア王国です。都はサルディスですが、七つの教会の一つに出てきます。本日、後で訪問します。紀元前560年に即位したクロイソスがエーゲ海沿岸のギリシア植民都市を征服しました。世界で一番早い硬貨を彼が造ったということで有名です。しかし、クロイソスはペルシアのアケメネス朝のキュロス二世、そうバビロンを倒し、ユダヤ人を解放、エルサレムに帰還せしめたキュロス大王のことですが、彼に倒されます。「生きているとされるが、死んでいる」とイエス様がサルディスの教会に言われた、その背景の一つとなる出来事だと言われます。

 こうして、アナトリアはペルシア帝国によって征服される時代に入りました。

ギリシア

 ギリシア人は、青銅器時代ににミケーネ文明と呼ばれるものを発展させていました。先ほど言及した、トロイにおけるトロイア戦争は、ミケーネ期のギリシア人がトロイを打ち倒したものです。ミケーネ文明が衰退すると、アルカイック期(紀元前9‐6世紀)に入ります。この時期に、エーゲ海沿岸にはギリシア人の植民が盛んになりました。パウロが第三次宣教旅行からエルサレムに向かう時、エペソの長老たちを集めたミレトス、またエペソも発達していきました。その頃、その地域はイオニアと呼ばれていましたが、周囲のエーゲ海の島々に住んでいた人々が移り住んでいます。「イリアス」すなわち、ミケーネ期のトロイア戦争を神話として描いたのは、詩人ホメロスですが、彼自身はアルカイック期にいた人物で、一説ではスミルナ出身だと言われています。

 紀元前六世紀半ばに、リュディア王国はこれらイオニア地方のギリシア人諸都市を、ミレトスを除きすべて征服しました。その間にコロイソスはエペソにアルテミス神殿を建て、ギリシア世界で最大の神殿となりました。ギリシアは、最も栄えた古典時代(紀元前5‐4世)に入りました。ギリシア旅行で訪れる、アテネのパルテノン神殿が建てられたのもこの時期です。しかし、リュディアは、キュロス率いるペルシア帝国の前に倒れました。イオニアは今度はペルシアの支配下に入りました。ペルシアに対してイオニアの反乱を起こしました。けれども、ペルシアの野心は収まらず、さらにクセルクセス王率いるペルシアの遠征が続き、ギリシアの都市群と戦い「ペルシア戦争」が続きました。後日、ギリシア旅行で訪れるスパルタ人によるテルモピュライの戦いの場所に行きます。

 しかし、この地域のペルシア支配は200年ぐらいしか続きませんでした。ギリシアはヘレニズム期(紀元前4世紀から1世紀)に入ります。そう、マケドニア王国からアレクサンドロス大王が出てきて、一気に東方へ遠征、南はイスラエルの地域を越ええてエジプトまで、東はインドにまで至る広大な地域を征服します。

 しかしアレクサンドロスは、若くして夭折、その将軍たちの間で帝国は分割されます。シリアのセレウコス朝とエジプトのプトレマイオス朝が大きな二国ですが、他にアナトリアにはペルガモン王国がありました。4月14日にペルガモン遺跡を訪れますが、七つの教会の一つです。ペルガモンはアナトリアの文化・経済の中心となり栄えました。羊皮紙が発明されたのは、ここペルガモンで、文化も発達していました。しかし、そこでじわじわと力をつけてきたのが、ローマです。ペルガモンを足がかりとしてアナトリア全域を支配していくようになります。

ローマ

 ペルガモン王国のアッタロス3世が共和制ローマに王国を遺贈、前1世紀までには小アジアの西部は「ローマ属州アジア」となりました。ローマはさらに東方に進出して、古代イランの王国であるパルティアと戦いました。そして、紀元後30年頃に私たちの主イエスが、十字架に付けられ、三日後に甦り、その五十日後の五旬節で、離散しているユダヤ人の目の前で聖霊が降り、彼らが使徒の説教で悔い改め、主を信じ、受け入れました。教会の誕生です。先に話しましたように、そこに来ていたユダヤ人の多くが、小アジア出身でした。ゆえに、そのまま福音がトルコにも伝えられていくことになります。イスラエルは、私たちの教会の誕生したところですが、その後、教会の揺りかごはトルコが舞台でした。(参照地図:「小アジアの地域図」)

トルコにいた離散ユダヤ人

 ここで気になるのは、小アジアのユダヤ人の存在です。五旬節の時に既にトルコにユダヤ人がたくさんおり、ユダヤ人にまず福音を伝えたパウロは、必ずユダヤ教会堂(シナゴーグ)で福音を伝えました。そして七つの教会には、不信者のユダヤ人がキリスト者を迫害している時に、「サタンの会衆」と主が呼ばれましたが、それだけユダヤ教がその地域に根差していたことを示しています。

 旧約聖書には、僅かに小アジアにユダヤ人がいたことを示す箇所があります(ヨエル4:4‐6)、イザヤ66:19、オバデヤ1:20)。けれども、史実としてはギリシアのセレウコス朝のアンティオコス大王が、紀元前3世紀に2千のユダヤ人家族をバビロニアから、フリュギア、リキアに移住させる布告を出しています(1マカバイ15:23)。そして、ヨセフスの古代誌と新約聖書に最も多く、小アジアのユダヤ人の存在を描いています。(参照記事

 唯一神を信じるユダヤ人にとって、多神教を信じるギリシア人やローマ人の世界の中で、どのようにその信仰が守られたのでしょうか?完全な市民権が与えられている場合が多く、そうでなくとも彼らの信教の自由は守られていたようです。それを守るために政治的、経済的な力も持っており、社会の中で一定の地位を保っていました。しかし、そこにユダヤ教の一派とみなされていたキリスト者の集まりができ、これがユダヤ教には非常に厄介な存在になっていたのです。せっかく特例して信教の自由が与えられていたのに、その秩序を壊してしまうナザレ派と自分たちを一緒くたにされることを避けるために、必死で彼らを迫害したというのが、歴史的背景にあるようです。ちょうどこれは、大祭司カヤパが、イエスに従うユダヤ人たちの存在によって、ユダヤの民全体がローマに追放されてしまうと恐れ、国民全体を犠牲にするより、一人が死んだほうがよいとした政治的判断と似ています(ヨハネ11章)。

 しかし、福音は小アジア中に広がり、諸教会が建てられました。宣教旅行の一行、すなわちパウロ、テモテなどトルコ出身ですし、ペテロ第一の手紙で、ペテロは、小アジア一帯にある教会に対して手紙を出しています。「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントスガラテヤカパドキアアジアビティニアに散って寄留している選ばれた人たち(1:1)」そしてヨハネは、パトモス島で啓示を受けて、言い伝えによればエペソに戻り、エペソから黙示録がスミルナ、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアへと回覧されていったわけです。(参照:「黙示録7つの教会地図」)

 ローマ統治の中で、使徒時代以後も激しい迫害下にありました。当時の指導者の多くがトルコ出身です。スミルナのポリュカルポス、またイグナティオスはアンティオキア出身です。(Wikipedia

ビザンチン

 けれども、コンスタンティヌス帝がキリスト教に回心、313年にはミラノ勅令によりキリスト教がローマで公認されました。330年には、コンスタンティヌスはローマ帝国をビザンチウムに遷都し、後に名前をコンスタンチノープルと改めています。ここが今のイスタンブールです。ローマ帝国が395年に東西に分裂して、さらに西ローマ帝国が五世紀に消滅してから、アナトリアは、東ローマ帝国の一部となります。その間に、本来のローマの文化や伝統は薄れていき、ギリシア化していきました。ローマとの対比で、「東方教会」と呼ばれるようになっていきます。

 東方教会は、ギリシア正教会を筆頭にしています。今も、コンスタンディヌーポリ総主教庁がイスタンブールにあります。ギリシア正教会の他、アルメニア使徒教会、コプト教会、シリア正教会、エチオピア正教会、ロシア正教会などがあり、イラクにはアッシリア東方教会もあります。私たち福音派と呼ばれているのはプロテスタントですから、西方教会出身です。けれども、ギリシア、トルコ、中東地域には、西回りではなく東回りの、東方教会という全く別の流れがあるということを知っておく必要があります。

そしてアジア

 ビザンンツ帝国は、ユスティアヌス帝の時に最盛期を迎えました。イスタンブールにあるアヤソフィアは、ハギア・ソフィア大聖堂として彼の時代に建てられました。8世紀にイスラム軍の侵略を受け、次第に衰退していきます。そして、先に話したセルジューク朝(1071-1243年)に1071年に戦いで破れ、それからトルコ族が入ってきました。しかし、セルジューク朝はモンゴルの宗主権下に置かれ、それからアナトリア各地で群雄割拠の時代になりました。

 そして、同じくトュルク系のイスラム教のオスマン朝(1299-1922年)が台頭します。小さなイスラム系の王家でしかなかったオスマン家が、力を持ち、周囲の地域を征服、1453年にはついに、コンスタンティノープルを占領、ここでビザンツ帝国が滅亡します。オスマン帝国は、一時期は、イラクからイスラエル、北アフリカまですべての領域を網羅する巨大帝国となりました。帝国のスルタンとして有名なのは、コンスタンティノープルを征服したメフメト2世と共に、「壮麗王」スレイマン1世です。今のイスラエルのエルサレム旧市街の城壁は、スレイマン1世によって建設されたものです。その市場は、トルコのイスタンブールにある市場ととても似ています。エルサレムは、そういったオスマン帝国の名残と、それから英国による委任統治時代の趣があります。

 そして第一次世界大戦後、崩壊、1923年にトルコ共和国が始まるという流れになっています。トルコは、イスラム教の国でありながら、強烈な近代化をアタトュルクが行なったために、政教分離の世俗化がしっかりしており、他のイスラム教の国とは雰囲気や空気が違います。ビザンンツ帝国の建造物はイスラム勢力が支配していた時にモスクに変えられたのですが、共和国になってから博物館に変えています。また、これまで見てきたトルコ一帯に散らばっている膨大な遺跡も、キリスト教関連のも含めて、しっかりと保全されています。

2.スミルナ

 私たちは徒歩で、「聖ポリュカルポス教会」に行きました(Google地図)。ここは、17世紀に建てられ、今も礼拝に使われているイズミル最古の教会です。こちらのサイトに昔からの写真があります。(下の写真は入口、前日、妻と一緒に訪ねていました。)


町の歴史とイエス様の言葉

 まず、スミルナの町の説明をしましょう。エペソの北55㌔ぐらいにある、エーゲ海に面する町です。紀元前1000年頃にギリシア系のアイオリス人によって始まり、それからイオニア人の手に渡り、文化的、商業的中心地として栄えました。けれども、先に話しましたように、リュディアによる攻撃(600年頃)を受け、破壊されました。リュディアがペルシアによって滅び、けれどもアレクサンドロス大王がペルシアに勝ち、将軍の一人リュシマコスが三世紀に、再建しました。この時から、スミルナに、ヘルムス川(ゲティス川)沿いに広がる肥沃な渓谷に伸びている通商の道が、自然の港湾へと至る大都市に発展しました。そして、今も、イスタンブール、アンカラに次ぐ、トルコ第三の都市で人口20万人を有します。ここから、「一度は死んでいたけれども、また息を吹き返したのだ」という誇りを持っている町であったそうです。イエス様が、スミルナの教会に、「死んでよみがえられた方」だと言われた時、イエスこそがその町の誇りに相応しい方だと理解したことでしょう。

 そしてローマが影響を強めて行った時に、シリアのセレウコス朝との戦いにおいて、スミルナはローマと連合しました。したがって、古くからローマへの忠誠を誓っていました。紀元前195年にはローマの女神の座を造り、紀元後26年には皇帝ティベリウスのために宮を建てました。こうして、ペルガモンに次いでローマからの特権を受けていた町となりました。そのため、皇帝礼拝が非常に強く、キリスト者はその圧迫の中に生きていたのです。ローマの時代、ギリシアの神々も人々は拝んでいましたが、ローマをローマとして統合するための国民宗教として、誰もが信じる皇帝礼拝を造ったのです。年に一度、皇帝に対して香を焚き、「皇帝は主」です」と言えばよいのですが、それをキリスト者が拒んだので、彼らが迫害を受けます。これが、彼らが貧しかった理由でした。(黙示13章の、「売ることも、買うこともできない」に関わります。)

 「スミルナ」という言葉は、「没薬」から来ています。通商の要所であったため、エジプトから多くの没薬を輸出していたのではないかと言われています。エジプトでは、没薬をミイラのために使いました。遺体の埋葬のために使います。それでイエス様のことをスミルナの人たちは思っていたことでしょう。東方からの賢者が幼子イエスに没薬を貢物として捧げ、ニコデモが30㌔もの没薬をイエス様の埋葬のために持ってきました(ヨハネ19:39)。主の御名のゆえに死ぬ時には、同じようにキリストの香りを放つと彼らは意識していたに違いありません。

 福音がこの町に入って来たのは、おそらくパウロの第三次宣教旅行のことでしょう。彼がここからさほど遠くないエペソにて福音を伝えていて、「これが二年続いたので、アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた。(使徒19:10)」とあります。

「サタンの会衆」とは?

 黙示録2章のイエス様の言葉には、そこのキリスト者が苦しみを受け、投獄され、死に至ることが言及されています。皇帝礼拝をただ行わなかった、という理由からです。けれども、主は、「ユダヤ人だと自称しているが実はそうでない者たち、サタンの会衆である者たちから、ののしられているということも、わたしは知っている。(2:9)」と言われています。フィラデルフィアにいる聖徒たちにも、イエス様は同じことを語られました。当時、ユダヤ人が小アジアにかなりの人数で住んでいましたが、経済的にも栄え、社会的地位も得ていました。彼らには、皇帝礼拝は特例で行わなくてよいことになっていました。

 当初、キリスト者は、ユダヤ教の一派だと見られていましたが、異邦人がユダヤ教に改宗しなくとも、これらのナザレ派の者たちは異邦人を受け入れているということで、分派を引き起こす者として退け、また、ギリシア系ユダヤ人には一部、ローマにおもねり、皇帝礼拝も取り入れた習合信仰になっていたのかもしれません、皇帝礼拝を拒むキリスト者を積極的に迫害した急先鋒となっていました。人肉や生き血を飲むというような中傷を行なっていたのでしょう。それで、まことの神をあがめるからこそユダヤ人なのに、そうしておらず、キリスト者に殺意を抱くまで憎むのはサタンからのものだとして、イエス様は「そのような言葉を発せられたと思われます。

 スミルナの教会は、「苦しみと、その中でも忠実に主を否まない」教会として主はほめてくださっています。

 教会の中はカトリックの教会らしく、とても装飾が荘厳でありました。ここで、ジェイさんは御言葉を分かち合ってくださいました。



<要約>

 ポリュカルポスは、使徒ヨハネの弟子。86年仕えた、炎の中に入れられた。

 ローマはキリスト者を、ユダヤ教の一派だと思われていた。メシアをユダヤ人が求めていたことは、一般的に大きな問題ではなかったが、キリスト者がメシアを神であるとみなしていたことを ユダヤ人が唯一神信仰のゆえに激しく抵抗した。アウグスト以来、皇帝が神として拝ませた。一年に一度だけ、皇帝を拝みさえすれば、どんな神を拝みさえすればよいとした。ローマにとって、神の他にイエスという神を拝んでいるのだから、皇帝を拝んでもよいだろうとした。スミルナは、皇帝礼拝の中心だった。香を焚き、「皇帝は主である」と言えばよかった。しかし、「イエスが主」である。それでその一言がいえなかった。そのために、彼らは貧しかった。エペソの訪問の時にその理由をお話しする。買うこともできない

 スミルナが面するエーゲ海の沖にパトモス島があり、ヨハネはそこにいた。岩の採掘場であった。皇帝ドミティアヌスは異常だった。彼の死後、ヨハネはエペソに戻り、おそらく自分の監督の下の七つの教会で、黙示録を伝える。しばし、黙示録は理解できない、閉じられた書物だという。しかし、これを聞いていた当時の人たちにとって、彼らは黙示録の言葉は全て理解できるものだったし、その内容を悟っていた。

 今、私たちは、スミルナの教会にいる。彼らは迫害されたが、それは彼らが何を行なったからではなく、行わなかったこと、皇帝礼拝を行わなかったことによってである。ユダヤ人は、イエスを信じるユダヤ人たちに問題を持っていた。ユダヤ教に改宗せずに、異邦人を受け入れていたからである。ユダヤ人は小アジアに当時、人口の10㌫だった。ユダヤ教にとって彼らは分派を引き起こすものであった。また、ユダヤ人は特例によって皇帝礼拝しなくてよかった。そこで彼らを中傷した。肉を食べ、血を飲んでいた、子供を犠牲にしていたなどを法廷に告発したのだろう。そこにローマが反応して、キリスト者を投獄したのだろう。そして、ローマにとって天災や火事があれば、神々が怒ったからという理由を付けていたが、キリスト者は普段、神々を拝まないので、彼らをスケープゴートにしやすかった。貧しくて逃げられない人たちに、イエスが約束された。

 「いのちの冠」についてだが、彼らは勝利の女神ニーケー(ナイキ)のかぶる冠をよく知っていた。月桂樹の冠は朽ちるが、主の与えられるものは朽ちない。「10日」というのは、しばらくの間ということであろうが、それほど長くない。「第二の死によって害を受けない」というのは、肉体は滅んでも、死後に裁かれないということだ。

 人生に苦しみは来るが、イエスは知っておられる。そして、終わりの日に主が全てを建て直してくださる。

(要約終わり)

 私が衝撃を受けたのは、迫害の急先鋒であった人々の動機が、「一緒にされたくない」というものでした。ただでさえ、多神教のローマの中で生きていて迫害を受けてしまうのに、イエスを主だとして余計なことをしてくれるな、それに、異邦人は異教を拝んでもらえばよいのに、彼らをユダヤ教に引き込むなんて!という叫びだったということです。迫害は、神を知らない異教徒ではなく、神を知っているけれども妥協している人々、また、迷惑をかけてほしくない人々だったのです。

 ところで、ポリュカルポスについては、サイト「86歳の殉教者 ポリュカルポス」の記事がよいでしょう。彼が若きしときに、自分の師であるヨハネが啓示を受けたのですが、それがその通り、彼の身に起こりました。死刑執行者に対して、こう言いました。「私は86年間、私は主に仕えましたが、決して私に害を与えられませんでした。ならば、如何様にして私の王、私の救い主を冒瀆できますでしょうか。

今回は訪れなかった、スミルナの町の遺跡

 今回は訪れませんでしたが、徒歩で教会からおそらく15分、南に下るとスミルナの当時の遺跡があるようです。教会からアゴラ(広場)への道はこちらです(Google地図)。


 Joe Stowellによるアゴラの現場からのスミルナの教会についての動画があります。さらに、コンピュータ・グラフィックでアゴラを復元した動画を見つけました(Smyrna Agora 3D - 1から始まる4回分)。

 スミルナはアレクサンドロス大王によるギリシア支配の前は、Bayrakliにあり、今も遺跡が残っています。そこから、リュシマコスがパゴス山のほうに移住させました(旧スミルナと新スミルナの位置関係アゴラとパゴス山の位置関係)。今は、Kadifekale(ビロードの城)と呼ばれています。アゴラは、その新しいヘレニズム期、それからローマ時代で栄えた新しいスミルナの一部です。今のアゴラの遺跡の東側に、Havra Sokağıと呼ばれる今は市場になっている通りがあります。これは「シナゴーグの道」という意味で、おそらく主はここにあった会堂について、「サタンの会衆」と言われたものと思われます。

 パゴス山の麓、北側に劇場の跡が土台の部分だけあり、西に競技場があったはずですが、ほとんど見えなくなっています。当時、処刑場としてローマは円形劇場を使いましたが、小アジアには適切なものが見つからず、競技場で代用したそうです。ポリュカルポスとフィラデルフィアから連れて来られたキリスト者は、この競技場で殉教しました。その東隣にはローマ時代の導水橋があります。そしてアゴラはパゴス山から北西にあります。相当に大きな町でしたが、表に出ているのはこのように散らばっています。(参照:「スミルナの町の地図」「ローマ時代のスミルナ」)

 そして次回、行く時に確かめてみたいと願うのは、アゴラにあるキリスト者の落書きです。

Turkey 2016– Part 17– The Agora at Izmir (Smyrna)から。

 このようにして、アゴラでパン屋をやっている人が、他の兄弟姉妹に暗号のようにして家の教会の場所の案内を書いているとか、迫害下に工夫しながら信仰と教会の集まりを守っていたのだと思われます。(参照記事:「内容濃い落書きがスミルナのアゴラで発見」」

イズミールを出発

 教会の前にバスが来て、そこから出発です。ハプニングが続きますが、すぐに十字路のところで乗用車と少しぶつかったかで、その事故処理で10-20分停車しました。無事に出発です。イズミルは、かつてのスミルナと同じように港湾都市として今も、とても発達しています。次の写真がイズミルの展望写真として、よく見るものです。エーゲ海の面した海岸の非常に入り組んだ入江にあります。


 そこの港を眺めながらバスが走っている動画がこちら。


トルコとギリシアの関係

 今回調べているうちに、スミルナが第一次世界大戦後で、トルコとギリシアの戦いの現場であったことを知りました。

 「ギリシア=トルコ戦争/侵入ギリシア軍との戦い」「イズミル/スミルナ

 歴史的に古代から、ギリシアの植民が続き、スミルナというのはギリシア語です。けれども、オスマン・トルコ時代はギリシアのほうもすべてオスマン・トルコが支配していたので、ギリシア正教はイスラム教の支配下にあり、人頭税を支払うことによって生きていたようです。また、ギリシア人も今のトルコにも多く住んでいました。スミルナは、ギリシア人が多く住む所でした。けれども、第一次世界大戦でオスマン・トルコが敗れました。そこで、その混乱している時にギリシアがかつてのギリシアの植民都市スミルナを奪還するという名目で、スミルナを占領したとのこと。けれども、トルコ独立を果たすケマル・パシャ(アタトュルク)がトルコ国民軍を組織して、ギリシア軍に対してゲリラ戦を展開。ギリシア側からは解放戦争であるけれども、トルコ側からは独立戦争という、典型的な歴史認識の違いができたようです。その戦争の前後で、相互に相手側に対する虐殺が行われたようで、それがキプロス島やエーゲ海の島々の領有を巡る領土問題として残り、感情的にも大きなしこりを残しているようです。

 そして驚いたのは、ローザンヌ条約という、第一次世界大戦の連合軍とトルコ共和国との間で結ばれた条約の内容に、「ギリシアとの住民交換協定」というのがあったそうです。住民交換の条件は言語でも民族でもなく、「宗教」とされ、それでトルコ側からギリシアや正教徒が大量に移住、同じくギリシアにいるイスラム教徒がトルコに移住したそうです。ああ、近代における悲劇がここでもあったのか!と思いました。似たようなのは、インドとパキスタンとバングラディッシュでもあったし、そしてイスラエルとアラブ諸国の間でも、第一中東戦争を前後にして、大量に難民が互いに発生し、イスラエル側は吸収したのに、アラブ側は市民権を与えないので「パレスチナ難民」という問題が生じています。

(3.以降は「その2」へ)