2018年トルコ・ギリシア旅行記 4月15日
1.トロイ
2.ギリシアへ越境
3.カヴァラへ(ネアポリス)
今日、ついにトルコからギリシアに越境します!昨晩、見たように、パウロの一行が船で旅立ち、ヨーロッパ側のネアポリス港に着岸しますが、私たちは今晩、ネアポリス港を目の前に眺めるホテルに泊まることになります!パウロの宣教の旅を、ここまでねちねちと辿って行く恵みにあずかれて、感無量でした。
ホテルからトロイまで(グーグル地図)
1.トロイ(ウィキペディア)
聖書には出て来ませんが、この地域一帯の歴史、また東西の文明の十字路と呼ばれるトルコと、ヨーロッパの古代文明の発祥地、ギリシアが衝突した有名な地点が、このトロイです。かつて紀元前13世紀中期、起こったと言われている、トロイア戦争の現場です。東西文明の交差点と言えば、トルコの最大都市、イスタンブールですが、そこはボスポラス海峡が南北に走っており、北はロシアに通じる黒海、南はマルマラ海があります。ここは、国際海峡となっており、ロシアを始めとする大国の思惑が今でも渦巻いているところです。その海峡の大橋を渡れば、アジアからヨーロッパへ、ヨーロッパからアジアへ行き来することになり、地元の人は、「今日はアジアに行って来た」「今日はヨーロッパに」という会話が交わされるほど、文字通りの「東西の架け橋」になっています。
しかし、ボスポラス海峡が東西文明の境になったのは、キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンチヌスが、イタリアのローマから首都を、ギリシア人の植民都市ビザンチオンに遷都し、紀元後330年にコンスタンチノープルと改名した以降であり、その前は、マルマラ海とエーゲ海をつなぐ、ダーダネルス海峡が東西の分かれ目であり、エーゲ海の出入り口にあるトロイが、その要所となっていました。トロイア戦争が起こるまでは、アナトリア側の人々が治めていましたが、トロイア戦争をきっかけにギリシア側が支配するようになったのです。
ギリシアに今日から旅行に行きますが、トルコに対する怨念が今でも続いていることがわかります。ギリシア側とアナトリア側は古代から近代に至るまで対立と衝突を繰り返していて、今でも何と、中央アジア系のトルコ人が支配するイスタンブールを、ギリシア人の都市ビザンチオンであり、ギリシア正教の主教座であるコンスタンチノープルとして奪還し、征服することを、かなりリアルに願っているそうだと、後にディレクさんから聞いて、びっくりたまげました。
そういった、文明や歴史の衝突した重要な出来事として、この遺跡を訪問するのはとても意義があると思います。そして、もう一つ、面白い点があります。このトロイア戦争、実はギリシア神話の中にだけ登場したものであり、神話であり歴史事実ではないとしていた点です。「イリアス」に登場するだけでしたが、ドイツ人の考古学者(といっても、考古学の訓練を受けていなかった)シュリーマンが、夢を追ってこの辺りを掘ったら出てきた!という代物なのです。そして、私たちの日常の言葉の中に定着している、「アキレス腱」「トロイの木馬」など、まさにイリアスに登場する内容であります。
手っ取り早く、この戦争のことを知りたいなら、映画「トロイ」をお薦めします。
まず入口には、大きなトロイの木馬の模型があります。
そして入口で、ディレクさんがトロイの解説をしてくださいました。
「ホメロスのイリアスとオデュセイアが、西洋文化や文明の下敷きになった叙事詩。ギリシア世界のバイブル(原典)とも呼べる。
紀元前3000年から紀元後500年まで居住の跡がある。第六層がトロイア戦争の頃で1250年頃。城壁外の庶民の居住地域は今は農地の下にある。王族や祭司は城壁内にある。庶民の家屋の基盤は石で、城壁は泥煉瓦である。地震や外敵が攻めてきたら、泥煉瓦で埋め立てる。
なぜ、ギリシア人がここまで攻めてきたのか?ダーダネル海峡のためだ。トロイア王国は小国だったが、ギリシア人が黒海方面に金塊を得るためなどに航行する時、海峡入口にあるトロイアだけが停泊できる港だったので、ここでトロイア王国は通行税を徴収していたのだ。発掘をしているドイツとアメリカの考古学チームは、トロイアを「風の文明」と呼んだ。風によって航行が左右されていたので、それを利用して発展した文明だったからだ。」
「ギリシア人が攻撃した城壁。イリオスや映画「トロイ」において、トロイ国の王子ヘクトルが、アキレウスに仕えた武将で、愛人でもあった(同性愛!)パトロクロスを殺したので、アキレウスは怒り狂い、ヘクトルを殺した。ヘクトルの遺体を、戦車の後ろに縛って引きずって城壁の周りを走った。トロイ王プリアモスは、愛する息子が引きずられるのを見なければならず、独りで海岸のほうに行き、アキレウスの天幕に行き、ひざまずいて遺体を葬らせることを懇願した。」
そして、私たちは城壁の真下を歩いて、向こう側、エーゲ海からダーダネルス海峡に入る辺りが見えるところに移動しました。
「ここで風が吹いているが、小アジアのほうに入りたいけれども風が吹けば、ここに停泊するしかない。それでトロイア国は徴税したのだ。もういい!としたギリシアは、トロイアを攻略した。
そして向こう側の見晴台から見えるのは、ダーダネルス海峡のヨーロッパ側だ。そこで第一次世界大戦における激戦地、「ガリポリの戦い」の場だ。近代戦においても、古代戦においても同じところで戦っているということからも、ここが軍事戦略的要所であることがわかる。
ガリポリの戦いでは、まずギリシアが豊富な資源獲得のために攻略したが、1915年に英国のアンザック(オーストラリアとニュージーランド軍団)を獲得した、イスタンブールにまで攻め取ることができるからだ。けれどもそうならなかった。」
そして、その見晴らし台からの眺めです。霞がかっていて、向こう岸のガリポリ半島は見えませんでした。
そして次は、先ほどの城壁のところよりもはるかに古い第二層の様子です。泥煉瓦だったのでこのように外形を留めていません。
けれども先に進むと、復元された泥煉瓦の城壁があります。
復元されていないところも指さしていますが、泥なので溶けてしまっています。それを復元してみたのです。「煉瓦にある穴には、藁があった。藁の部分が溶けたので、穴になっている。この町はシュリーマンが、1880年代に発見した。この辺りで金の装飾品を見つけたが、彼の死後、ここがイオリスの時代よりもっと前のものであることが分かった。
トロイア戦争の10年間の長い戦争で、ギリシア軍は戦いに勝てないと分かった。それで大きな木馬を造り、これが平和条約の印、贈り物であるとした。占い師は、これを城内に持ち込むな、持ち込めばトロイが終わると告げたが、誰も信ぜず、ギリシア軍が海岸からいなくなってから、木馬を城内に持ち込んだ。宴会騒ぎをしている時、夜明け前に、ギリシア人兵士が木馬から出て来て、城門を開け、隠れていたギリシア軍が城内に入り、攻略した、という話だ。」(ウィキペディア参照)
それから、シュリーマンが発掘したけれども、瓦礫に成り果てたところに立ちました。
「シュリーマンは、素人の考古学者だった。というか、当時、考古学というものが確立していなかった。ギリシア語などを独学して、カリフォルニアのゴールドラッシュで財を築いた。ギリシアに移住、第一の妻とは離婚していたが、ギリシア人の美女ソフィアと結婚した。
オスマン朝からこの地を購入、イリオスが歴史的事実だと主張し、当時は神話でしかなかったのが、ここを掘った。発掘の仕方が分からなかったので、こんな感じで滅茶苦茶にしてしまった。
シュリーマンは死ぬ直前、自分の発見した黄金は、トロイア二世プリアモスのものではないことを知った。それらの黄金を持ち出して、ギリシアに持って行ったが興味を持たなかったので、ドイツで認められて大学が栄誉賞を与えた。
ところが、黄金が無くなった。1981年にロシアがトロイアの財宝展を開催した。ロシアが第二次世界大戦の時に、占領したドイツから取り出して、プーシキン美術館に隠していたのだ。トルコも、ギリシアも、ドイツも、これは我々のものだと主張するのだが、ロシアのプーチンが、トルコのものを返すわけがない。(笑)」
そしてさらに歩くと、紀元前1200年代のトロイア二世の時の城壁の傾斜路を見ました。
「この傾斜路は、戦車の出入りや商品を入荷するためのものだったのだろう。庶民は城壁の外に住んでいた。総人口は、1万人だと推計される。
ここをシュリーマンとソフィアが発掘していると黄金が見つかった。それをソフィアに飾った。なぜ、ロシアの美術館の黄金がトルコから持ち出されたものだと分かったのは、その写真と一致していたからだ。(写真) 」
「なぜ城壁の外に黄金が見つかったのかというと、トロイア戦争でトロイア二世が、もうギリシアに攻め取られると分かって、略奪を懼れて、城壁の外にむしろ隠していたのではないかと言われる。
そしてここは、第六層、トロイア二世の宮殿の跡だ。」そしてディレクさんが、トロイア戦争の背後にあるギリシア神話の話を紹介します。恋話です。ウィキペディアの「トロイア戦争 原因」「キュプリア」、そして「パリスの審判」にあります。トロイア王子パリスが、ギリシアの王妃ヘレンを奪い取ってトロイに連れて来てしまうところから、戦争が始まります。
これでトロイ遺跡を巡りましたが、最後に売り場で、黙示録の七つの教会についての英書を買うなど、今後の旅行に役立つものを購入することができました。
2.ギリシアへ越境
トロイからフェリーでガリポリまで(グーグル地図)
バスは、ダーダネルス海峡沿いに、ホテルのあったチャナッカレを通過し、向こう岸のガリポリ半島にフェリーで移動します。フェリーには、車やバスはそのまま乗船し、その上で大体30分ぐらい、ダーダネルス海峡を渡ります。ついに、アジアからヨーロッパに移動です!
ガリポルからギリシアへの国境まで(グーグル地図)
ガリポル(あるいはゲリポル)という町には、ガリポル戦争博物館があります。ガリポリ半島を北に上昇し、ギリシア国境に向けて西に方角を変えます。そこは、「トラキア」とも呼ばれる地域で、トラキアは東はトルコ、北はブルガリア、西はギリシアにあった一帯です。そして国境の近くのガソリン・スタンドで、国境越えを専門にしている旅行社のバスに乗り換えました。ここでディレクさんとバス運転手さんとお別れです!トルコでは、お別れの挨拶に水を流します。ペットボトルの水を地面に流して、私たちを送ってくださいました!
国境に近づくにつれて、トルコの田園風景にあった、オレンジ色の屋根の風景(写真)は消えていきました。トルコにあった一種の明るさが、ギリシアに入ってからなくなりました。それが主観によるもので、全く個人的な感想ではあるものの、霊的にも、パウロが住み慣れた小アジアから、ヨーロッパに行く時に受けた不安や圧迫も、こういったものであったかもしれないとまで思いました。
ギリシアとトルコの国境になっているマリツァ川を渡ります。
3.カヴァラへ(ネアポリス)
国境から、アレクサンドルポリのレストランまで(グーグル地図)
トルコ側はIpsa Boarder Gateと呼ばれて、マリツァ川を渡ると、Kipi Boarder Crossing Pointになります。そこで再びバスを乗り換えます。ギリシアの現地会社です。デーナさんというガイドが私たちを迎えてくださいました(なぜかフェイスブックでは、Ntia Stanthaさん)。
ここは、ギリシアでは、「東マケドニア・トラキア地方」というようです。トルコを越境してもそこはトラキア地方で、さらに西に行けばマケドニア地方になります。そうです、パウロが呼ばれた、あのマケドニア人の、マケドニアのことです。そして国境から約40㌔西にいったところにある、「アレクサンドルポリ」に向いました。
そこにあるElysseというレストランで昼食です。写真をきちんと撮っていなかったのです、グーグルの写真で参照してください。 外観 ・ 料理
アレクサンドルポリからカヴァラのホテルまで(グーグル地図)
さらに西に1時間半ほど走り、マケドニア地方にあるカヴァラという町に向います。ここは、東マケドニア地方の代表都市で、北部ギリシアでは、明日訪問するテサロニッキに次ぐ第二の都市だそうです。そしてここが、パウロがトロアスから船出した降り立った港「ネアポリス」であります。
「私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。」(使徒16:11)
町に近づくと、オスマン朝のスレイマンが建造したローマ式上水道の跡をくぐりました。ギリシアは、オスマン・トルコが崩壊するまで、ずっとオスマン朝の一部でした。そして、カヴァラ湾が見えて来て、陸から海を眺めて左手には、ビザンチン時代のカヴァラ城があります。
ホテル"Hotel Galaxy"に到着します。ずいぶん古風な(?)エレベーター(写真)でびっくりしました、開け閉めが手動なのです!しかし、ホテルの部屋に入ると、感無量でした。そこはカヴァラ港を目下に眺めるところにあったからです。
夕食になる前に、散歩もしました(カヴァラ城を背景にした写真)。そしてギリシア料理の二回目もいただきました。トルコ料理は抜群においしかったですが、ギリシア料理もなかなかです。パンと前菜、オリーブ油などふんだんに使ったサラダ、肉類や魚介類のメインコース、そしてデザートという流れですが、全部食べるとほんと、お腹がいっぱいになりました。
明日は、世界遺産に登録されているピリピを見学します。