2018年トルコ・ギリシア旅行記 4月16日

1.ネアポリスからピリピへ
2.川岸にて
3.ピリッポイ(ピリピ)の遺跡
4.テッサロニキへ



1.ネアポリスからピリピへ

ホテルからピリッポイのリディア洗礼堂まで(グーグル地図

 前日、カヴァラについて簡単な説明をしましたが、今日は本格的にピリピを見学するので、改めて説明したいと思います。新約時代はネアポリスと呼ばれ、「新しい町」という意味です。古来は、対岸のタソス島の住民がこの地に植民都市を建設したのが、その名の由来です。後に後にオスマン・トルコ時代にカバラと呼ばれるようになりました。昨日、写真でお見せしたように、町の東にビザンチン時代の城壁に囲まれたアクロポリスが、今の港を見下ろしているのがここの代表的な景色です。1912年までオスマン・トルコ領だったので、トルコ風の街並みを残しているようです。(参照ページ

 紀元前350年に、アレクサンドロス大王の父、マケドニアのピリッポス二世がピリッポイ(ピリピ)の町を建ててから、ここをピリッポイの港町にしました。そして、ローマ領となってからはローマの都市になり、前42年のフィリッピの戦いの前に、ブルータスとカシウスの拠点となりました。

ヨーロッパ宣教の大動脈となったエグナティア街道

 そして大事なのは、ローマ時代にネアポリスが、エグナティア街道の東の始発点であったということです。エグナティア街道は、紀元前二世紀に建設されて、イタリアのアドリア海を隔てた海岸、現在のアルバニアのトラキウムが西の始発点で、ネアポリスまで道が通っていました。後にビザンチウム(コンスタンティノープル)にまで延長されます。「すべての道はローマに通ず」という諺があるように、ローマ帝国の全盛時代、世界各地の道がローマに通じる、ローマ街道がありました。私たちが、トロアスに行く途中で歩いたローマ街道も、その一部ですね。初めはローマをローマたらしめたローマ軍のための、軍用道路として使われ、エグナティア街道もトラキア地方、そして黒海地方の帝国の版図拡大に役立ちました。

 しかし、それだけでなく、福音宣教の旅にも役に立ったのです。パウロの一行が比較的、短い期間に広範囲な宣教旅行ができたのは、よく整備されたローマ街道のおかげだと言われます。

 パウロは、ネアポリスの港から上陸し、そしてピリピへつながるエグナティア街道を歩きます。まず、ネアポリス港ですが、現代の港から北に100㍍ほど進むと(地図)、アギオス(聖)・ニコラス教会があります。そこの教会の裏に、古代の岸壁跡が見られますが、そこがパウロの一行が上陸したところではないかとも言われます。そして、エグナティア街道は、今もカヴァラからピリッポイに向って残っていて、そこを歩くこともできます。(動画

ピリッポイ(ピリピ)の歴史

 カヴァラから内陸に走ると、ピリッポイ平野が続きますが、ここがフィリピの戦いの戦場で、ブルータスとカシウスが、アウントニウスとオクタウィアヌスに対して敗れます。



 ピリピは、エーゲ海のほぼ最北端に位置し、かつてクレニデス(泉の意)と呼ばれ、オルベロス山(現在のレニカ山)の麓にあります。南にあるパンガイオン山脈にある金鉱により古代から栄えていました。紀元前356年にここを征服したピリッポス二世が、自分の名を冠してピリピ(ピリッポイ)を名づけました。彼は付近の近郊の開発を促進し、また、軍事防衛の拠点としました。海岸沿いの二つの都市、ネアポリスと、パウロの一行も通過したアンピポリス(使徒17:1)を結ぶ街道を防衛する要地となりました。

 そして紀元前167年にギリシアのアンティゴノス朝が滅び、マケドニアはローマ領に入りました。そして、前42年のフィリピの戦いで勝った二人が戦勝を記念してここをローマの植民都市とします。「植民都市」の市民は、免税と自治を含めイタリア市民権を所有していました。ローマの誇り高き都市だったのです。それで、次に行く安息日での川岸での礼拝ですが、ユダヤ人成年男子が十人もいなかったことを物語っており、ユダヤ人さえ締め出されているような状況があったようです。パウロとシラスが役人に引っ張り出された時に、「この者たちはユダヤ人で、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、受け入れることも行うことも許されていない風習を宣伝しております。(使徒16:20)」と言って、訴えたのです。パウロたちが、ここを離れた後に教会が建てられた後も、ここの信者たちはパウロと同じように、苦しみを受けていたことが手紙の中に書かれています(1:27-30)。

 ピリッポス二世の治世に戻りますが(在位、前359-336年)、彼がギリシア北部のマケドニア王国の王として、事実上のギリシア全土に対する支配を確立して、息子アレクサンドロス大王の帝国建設の基盤を築きました。その財源となったのが、上で話した金鉱です。それで作った金貨がフェリペイオスとよばれ、王国の政治力が増大するとともに、古代ヘレニズム世界で通用する国際通貨となりました。パンガイオン山の金の採掘量は年産34トンに達して、テッサロニキ考古学博物館には、ピリッポス二世と王妃の墓から出土した驚くべき点数の金細工品が展示しており、マケドニア王国の富裕ぶりがよく分かるそうです。ピリピから送られてくる贈り物によってパウロは神に感謝して、彼らに手紙を書きましたが、「私の神は、キリスト・イエスにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(4:19)」と言っているのには、いかにキリストにある富が私たちに与えられているかを伝えているものです。

2.川岸にて

 ピリピ遺跡が近づいてきましたが、遺跡から西に1㌔手前に、クレニデス川が流れています。ここに、ティアティラの紫布の証人リディアとその家族がバプテスマを受けたところを記念した、洗礼堂のあるところに着きます。


 写真の右手にある八角形の建物が聖リディア洗礼堂ですが、その上部に流れる川のところが、バプテスマを実際に受けることのできる場所になっていて、そこでジェイさんが、バプテスマについて語ってくださいます。


 「使徒16:12-15 そこからピリピに行った。この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。そして安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。

 ここが、パウロが福音をヨーロッパで伝えた最初の時になります。ユダヤ人の成年男子が10名もいなかったので、女性たちが川岸にあった祈り場で福音を語りました。(川岸に祈り場があったのは、水洗いなどユダヤ教についてのしきたりを守ることができたからではないかと思います。)そして、私たちはティアティラに行きましたので、彼女が紫布の商人であることは容易に分かります。そして、バプテスマを受けた後に、家で泊まらせるというもてなしをしましたが、これは面子にかかわることなので、そこの文化、習慣から必ず泊まらないといけません。

 そしてジェイさんは、バプテスマについて教えます。カルバリーチャペルは全身の浸礼を信じていますが、けれども、大事なのは信じたら、バプテスマを受けるという命令そのものです。当時は、流れている水は「生ける水」を表していました。そして当時は、誰かが手をかけて人を水に沈めるのではなく、自分自身で水の中に入っていきます。ミクバ(浸礼漕)でも、自分自身で入っていきます。そして証人が複数名いて、それでバプテスマが成り立ちます。けれども、大事なのはあくまでも、バプテスマを受けることが大事であり、どのように授けるのかその形式でキリスト教会が意見が別れますが、意味がないことです。

 次にデーナさんが、当時、パウロがここに来た時の状況を説明します。


 ローマがギリシアを占領していたことを強調しています。紀元前146年にコリントスの戦いで、ローマの執政官ムンミウスがコリントスを完全に破壊したところから、ローマのギリシア支配が始まりました。テサロニケやアテネなどの大きな都市もローマの植民都市となっていきました。ギリシア史において、ペルシアなど、外来の敵が攻め込んできたことはありますが、占領され、支配下に置かれることはなく、ローマがその始まりであることを話しています。

 デーナさんのこれからの説明でも、ギリシアがローマではないことを何度も繰り返していきます。それはそうだ、と思いました。ギリシアはギリシアで、ローマ帝国と言えどもここにはギリシアという国があったのだということです。けれども、かなり感情を込めて話すので、古代の歴史を含めてギリシアの人たちは、今の時代の自分たちを形成しているのかもしれない?とまで感じました。

 そして、ローマがギリシアの多くを自分たちの社会に適用させたことも言及しています。パウロもギリシアを知っていて、言語はもちろんこと、しきたりも知っていました。それから、パウロは、この状況、つまり、いろいろな地方から人々が来ていたので、様々な文明、様々な宗教が入ってきていて、ユダヤ人はほとんどいない状況を予期していなかったのではないか?と言っています。

 それから私たちは、聖リディア洗礼堂を見学しました。床のモザイクがパウロの宣教旅行を描いています。


 そして洗礼堂の裏手が、オルベロス山の城砦(アクロポリス)です。といっても、ギリシア・ローマ時代の遺跡はその麓にあり、この城砦はその前の時代のもの、またビザンチン時代のものです。


3.ピリッポイ(ピリピ)の遺跡

聖リディア洗礼堂から、ピリッポイ遺跡の入口へ(グーグル地図
ピリッポイ遺跡のグーグル地図

 私たちは、案内図(クリックすれば拡大できます)を眺めながら、見学している場所を確認していきたいと思います。ちなみに、ピリピ遺跡は世界遺産に、比較的、最近、指定されました。


 初めは、案内図右上にある2"NEAPOLHS GATE"を通ります、ギリシア時代のネアポリスの城壁跡です。(写真


 そしてすぐに見えてきたのが3."THEATER"です、劇場です。山の斜面に造られています。元々はピリッポス二世が紀元前四世紀半ばに建てたもので、ローマが紀元後2-3世紀に改築したものです。当初は、文字通り「劇場」として、ギリシアの悲劇や喜劇が上演されていましたが、ローマ時代には剣闘士の興業が行われるようになりました。


 デーナさんは、古代ギリシアの演劇について詳しく語られました。

 演劇の起源は、ディオニューソス神への礼拝、その祭りだとされます。劇場(Theater)のギリシア語は、「テアトロ」であり、テアトロは「神々によって語る」という意味です。春の終わりから夏にかけて、農耕者たちがデォニューソスを拝みました。酩酊し、悦んでいました。これらの人々を「コモス」と言って、歌を「オディ」といい、そこからコメディー(喜劇)という言葉が生まれました。ディオニューソスは、山羊の恰好をしているので、山羊の仮面を付けていました。そこで「トラゴス(山羊)」に「オディ(歌)」で「トラジティー(悲劇)」となりました。紀元前7-6世紀にはまだ語り合いであったのが、語り合いから距離を取って語り始め、それが俳優の始まりで、最初の人物はテスピスと呼ばれます。

 劇場そのものですが、いつも三つの部分で構成されています。観客の席をイキリア(ikria)と言いますが、ここをテアトロンと言います。丘の斜面を使います。そして、オルケストラがあってここで、俳優が演じるところで踊ったりします。そして、スケーネと呼ばれる楽屋がありました。ちなみに当時、女優はいません、男優だけで、女役を男性が仮面をかぶって行っていました。

 オルケストラの真ん中には、ディオニューソス神への祭壇があり、演劇の始めに必ずいけにえを捧げました。ローマ時代になって、格闘技が行われましたが、古代ギリシアでは神聖な場とされており、そういったことは許されていませんでした。血が流されるのは、神へのいけにえのためだけでした。(動画

 そしてピリッポイの歴史を語ってくださいました。

 おそらく紀元前356年にピリッポイの劇場が造られましたが、ピリッポス二世がこの町を建てて間もない時でした。ギリシアが町を建てる時は、いつも宗教的な理由がありました。自分の宗教に関わっていないといけません。城砦の山は、石器時代に前6000年、地母神ガイアが拝まれていました。また現実的な理由もあります。水が必要です、水源があるところに建てます。建築の材が近くにないといけません。そして次に、経済的繁栄です。カヴァラが近いのと金鉱が近くにあるのをピリッポスは知っていました。

 そしてピリッポイは大きな都市になりましたが、ローマの支配下に入り、その後も発展しました。数多くの行政機関の建物があり、アゴラもパレストラ(運動選手の訓練場)もあります。その後、キリスト教が普及し、大きなキリスト者の共同体ができました。五つのうち四つの大きな聖堂の跡を見ます。

 以上、長い説明でしたが、これは大切でした。トルコでもイスラエルでも、またヨルダンでも私は数多くの円形劇場の跡を見ましたが、その起源と劇場の構造を聞くことができたからです。

 劇場から中に入っていきますが、その前に、どういう感じになっていたのか概観を見てみましょう。


 これが、今のピリッポイ遺跡です。今、右上にある劇場を見ましたが、これから左のほうに向かいます。真ん中の道路が走っていますが、その上の部分、山の麓の部分を先にみます。それから道路を挟んで下に行きます。当時の復元想像図がこちらです。


 なるほど!ですね。ちなみにどちらも、動画"Where is Ancient Philippi?"から取らせていただきました。おそらくはクリスチャンの人が、車によって聖書のゆかりの地を行き廻る動画シリーズです。

 私たちは、西のほうへ歩いて、案内図の6"BASILLICA"に向っています。道路を挟んで山の麓のほうを、考古学上"A"と呼び、道路の下のほうはBと呼びますが、こちらのバシリカ(聖堂)を「バシリカA」と呼びます。動画で撮りましたが、当時のバシリカは、Bのほうのフォルム(ローマのアゴラのこと)を見下ろすことができます。


 バシリカの説明をしてくださっています。私たちは既に、ティアティラへの旅で少し勉強しましたが、「キリスト教会堂建築について」というウェブページがあり、参考になります。バシリカ型の教会堂は、キリスト教史では初期のものです。列柱が四列ありますが、それは、これは廊(通路)のためです。考古学者によれば、バシリカ式はギリシアの神殿を踏襲したものと言われるそうです。そして、会堂には二階があり、女性は二階で座らないといけません。そして、漆喰塗りもされており、フレスコ画も描かれていました。

 そして続けて、ローマの支配について説明してくださいました。パウロが何に直面していたかを知るためです。紀元前146年に、ローマがギリシアを征服し、二世紀に渡って支配しました。反乱を抑えるために分割統治を行いました。ローマにとって、秩序を保つことが最優先でした。ローマ帝国は、巨大でした。人口は500万人以上、地中海は「我らが海」とまで呼びました。その秩序を保つために、第一に、皇帝は、多くの場合、神と呼ばれました。第二に、ローマに完全忠誠を誓う者には、市民権を与えました。第三に、徴税です。そして、街路建設のためなどに使われました。その秩序はパックス・ロマーナと呼ばれますが、通商によって繁栄がもたらされました。

 ローマは、ギリシア人に魅了されました。公共建築のために自財を注ぎました。ギリシアのものを採用しました。ギリシアの文字、ギリシア式建築、芸術、そして神々です。ゼウスユーピテルに、アフロディテウェヌスへ適用されました。ローマの神々ですが、相当するギリシアの神々があったのです。

 そして、ローマの植民都市を私たちはこれから訪問していきますが、ピリッポイがその最初です。アテネ、コリントなどです。植民都市は貿易でさかえ、コスモポリタン(多民族の人口を有している)であります。ギリシア人の横にローマ人が、そしてエジプト人も、シリア人も、という感じです。言語もいろいろ話されていました。使徒パウロのすぐれていたところは、言語を始め、ギリシアに通じていたので、いろいろな人に合わせて語ることができました。

参考: ピリッポイについてのバシリカの説明(英文) バシリカAの図面と説明文列柱の写真十字架の跡

 次にジェイさんが、ピリピ人への手紙を解説してくださいます。


 パウロは手紙を書いた時にローマの牢獄にいました。元々の手紙には、章と節の区分はありませんでした。山上の垂訓は、物切れで見てしまう。けれども、流れをもってイエス様は一連の話を語っておられて、結論を持っておられた。ピリピ人への手紙も同じです。

 ピリピ人たちにパウロが手紙を書いたのは、「仲違いのよりを戻す」ことです。

 「1:9-10 私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。」「1:27-28 ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。

 なんでこんなことを話しているのでしょうか?「2:1-5 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」そして、この後にパウロは、イエス様がご自身を無にしたことを語っています。

 それから3章にて、パウロが自分にいろいろな資格があるはずなのに、「すべてをちりあくた(直訳は「糞」)」と思っていると語ります。

 そして4章で、「4:2 ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。」この仲違いで教会が壊れそうになっていました。1-3章までは、キリストのような態度を持たなければいけないその前提を語っていたのです。そして、「4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」同意ができないことを話し合うのではなく、「喜びなさい」と勧めています。

 手紙を神学的に見るのもいいけれども、その下にある実際的なことを見てください。ここのものをぶつ切りに見るのではなく、注解書が注解しているのを見るように見ないでください。顕微鏡ではなく、全体を望遠鏡のようにしてみてください。この地域の人々は、世界を何千年もの数々の帝国の興亡を見るような視座で見ています。米国人は、物事を24時間以内で見ています、CNNのニュースのように。そして時系列で個別に事象を並べています。欧州の人たちは、時空間を川の流れのように見ています。しかし聖書の時代の人たちは、永遠の昔から永遠の将来まで眺めて書いています。

 対立が起こっている時に、こういうキリストに倣う姿勢で臨みなさい。そして喜びなさい、とも言っています。

 以上ですが、ジェイさんの旅は、聖書時代の人々の考えの中に入って、その中で書かれていることを読めばどうなるのか?ということを強調していますね。そしてそこには、2019年のトルコの旅で強調していた、ヘブライ的な考えがあります。神は私たちが聞いて悟ることができるように、啓示してくださっていて、分析をしなければ分からないように書いていない、ということです。こちらにブログ記事を書いています。

 デーナさんが、私たちがこれからパウロとシラスが、むち打ちにされるところを見学するので、その前知識を説明してくださっています。


 ローマ法は、裁判にかけなければ牢獄に入れられませんでした。キリスト教はローマに迫害されていました。行政長官や地方総督などは、例えばコリントでこうありました。「使18:14-15 パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人の諸君。不正な行為や悪質な犯罪のことであれば、私は当然あなたがたの訴えを取り上げるが、ことばや名称やあなたがたの律法に関する問題であれば、自分たちで解決するがよい。私はそのようなことの裁判官になりたくはない。」」紀元後313年に、コンスタンチヌスがミラノで宗教の自由を認め、キリスト教が公認されるまで続きます。

 そしてジェイさんが、このミラノ勅令の後、ビザンチン時代に入ってから、遺跡で十字架を見るのであって、その前は十字架は象徴として使われていなかった点を指摘しています。

 それからデーナさんは、コンスタンチヌスがビザンチン朝を始めたのは、ローマをビザンチオンというギリシア人の植民地に遷都したからだと強調しました。330年にコンスタンチノープルが始まります(今のイスタンブール)。紀元前667年にメガラからの植民者によって、ビザンチオンが建てられた、とのことです。ビザンチン帝国は、この330年から1453年、オスマン・トルコによって滅ぼされるまで続きました。

 そして、このバシリカAの遺跡を振り返ると、そこには道路を挟んで広いB区画が見渡せます。


 これから降りていくところの全体像です。最も大きく見えるのがフォルム、つまり、ローマ時代のアゴラ(広場)のことです。


 初めに、パウロの牢屋に行きます。そして道路を渡って、フォルムの手前にある、ビーマ(裁判席)とエグナディア街道の跡を見ます。この牢屋と裁判席が、ピリピにおける最も衝撃的な地点となります。

 階段を下りて行くところに、案内図の7.ヘロン(Heroon)があります。英雄を祀る記念碑あるいは小神殿のようなものだったそうです。ピリッポス二世を称えていたのではないか?と思われます。ローマ時代にはローマ神殿が建てられました。今でこそ、道路で分断されていますが、当時は階段がフォルムまで階段でつながっていたそうです。


 そして、ヘロンの横にはパウロの牢屋と言われているところがあります。


 パウロはローマ市民でありました。ローマ市民は政治的権利が完全に与えられていました。生まれながらの市民ですが、どのようにして得たのか定かではありません。裁判なしで投獄されたら、ローマ法に違反します。ですから、パウロが訴えた時に、役人は青ざめたということです。

 この前でジェイさんが、使徒16章16-40節を語ります。朗読をしながら、所々で注釈を加えています。この牢屋がどこにあったのか、その位置が大切です。


 ここの牢屋は、おそらく実際のパウロが入っていたものかもしれません。貯水槽が、牢屋に使われていることがあります。臭いです。占いの霊につかれた女が、「いと高き神のしもべ」と叫んでいますが、おそらくは、ヤハウェのことではなく、ゼウスのようなギリシアの最高神のことを話していたのでしょう。そして、19節でパウロとシラスが捕えられ、「広場の役人」のところに引き立てて行かれます。この「広場」とは、道路を挟んだところにあるフォルムのことです。そこにローマの役人による裁きの席、ビーマがあります。

 そして、彼らは「衣をはぎ取ってむち打つように」されます。これは、公衆の目の前で辱めるためです。これは、木の棒を束ねている束桿(そっかん)と呼ばれるもので、リクトルという役職のものが携帯していたもののようです。広場で、公衆の前で、背中や足の腿の裏をひどく打ちたたかれました。そして、「奥の牢」に入れられます。手前の牢ではなく、奥にある牢です。そして、「木の足かせ」をはめられましたが、いたってもいられない、じっとしていられない不快感が絶えず伴います。

 そんな時に、彼らは「祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた」とあります!他の囚人も、このものすごい狭い所で彼らの歌に聞き入っていました。不満ではなく、賛美したのです。そして地震が起こり、鎖が解けます。看守は自害しようとしましたが、パウロはやめさせます。看守は、家族がいるので、退役軍人だったかもしれません、現役や独身で無ければいけないと、ジェイさんは言っています。そして彼も彼の家族も救われるとパウロは言いますが、それは彼が家父長だからでしょう。彼が信じれば、他の人々に彼が教えることができます。そして、彼らはバプテスマを受けましたが、リディアが受けた川のところにいったのではないか、と思われます。

 それから、長官たちが釈放しようとしたところ、パウロはここで自分たちがローマ市民であることを明かします。ローマ法で有罪判決を受けていないのにむち打ちにすることは、とてつもない思い重罪に処せられる可能性があります。それで、恐ろしくなって立ち去るようにお願いしています。パウロは、なぜ最初にローマ市民であることを告げなかったのか?他の時には、エルサレムで騒動が起こった時に千人隊長に初めから告げました。ここで告げなかったのは、騒動になっていてそんなこと言える余裕がなかったか、あるいは「最後の切り札」に取っていたのかもしれません、そして、パウロとシラスはすぐに出ていくのではなく、リディアの家に行って励ましました。そしてここから次に行くテサロニケ、ベレア、アテネ、そしてコリントへと行くのです。

フォルムの前のビーマ

 そして次に、ピリッポイの遺跡で聖書的に最も大切な、フォルム(市場)の前のビーマ(裁きの席)についてです。


  初めにフォルムです。アゴラゾーは「買う」という意味から、アゴラと呼ばれます。アヒロメーという言葉から来ていて、「語る」という意味です。アヒロは「集まる」ということで、哲学者たちが集まるという意味もあります。ローマのフォルムは、ギリシアのアゴラから来ています。これには大きな中庭があります、社交場です。周辺には、店が立ち並んでいます。もっと先には、バシリカBがあり、またトイレもあり、保管庫もあり、そして手前には、エグナティア街道の跡が、そして高き所があり、そこが裁きの席(ビーマ)があります。→ エグナティア街道の跡(写真)

 ここのビーマには、何か公的な建物があったものと思われます。そしてビーマそのものも、かなり高い台になっています。コリントに行けば、それを認めることができます。そして、長官たちがここに立ち、フォルムにいる公衆の面前で、彼らはここで、むち打たれたのです。

 この後に、ジェイさんがここで改めて、ビデオ録画をしたようです。


他の遺跡

 こちらの日本語のサイトに、この遺跡の近くに博物館があり、このフォルムの辺りの復元模型があり、その写真と説明が掲載されています。

 フィリピ(ピリッポイ)遺跡

 ずっとページを下がって、「フォーラム」となっているところに、白い材質で作られた模型がありますね。奥にある神殿は、先にいたAのところで、バシリカがありました。この模型はローマ時代なので、ビザンチンの前で、すなわちパウロが生きていた頃に近いです。神殿がフォルムを見下ろしていたようになっています。そして、フォルムの東西に神殿があり、さらに東には事務所が、西には図書館があったようです。さらに奥、南に行くと、大浴場がありますが、そこに、運動選手の訓練場(サルディスで見たようなところ)があったようです。サルディスでも訓練場と隣接してローマ風呂がありました。そして、今、バシリカBの遺跡があるところには、オデオン(文化イベントや、小規模の民会を開くところ)があったようです。そしてフォルムの南には商店が立ち並んでいますが、その遺跡も見ることができます。今の姿だと次のようになります。

 初めに、東の神殿の跡のところ、そして事務所のところを回りました。


 そしてバシリカBを見ます。(全体の写真洗礼室の写真


 そしてバシリカBから出て、商業アゴラのあるところと、フォルムに入っていくところで、美しい賛美を歌っているグループの方々に会いました。この方々とは、テッサロニキのほうでも同じホテルに泊まりました。

 そして自由時間も終わりが迫って来たので、急いで東神殿と図書館のあったところを歩きました。ところがもっと東は、ビザンチン時代の町で、八角形の教会のあるところに行きました。(写真1写真2写真3)元々は「パウロ聖堂」のあった所に、八角形の大きな聖堂を建てたようです。モザイクがきれいです。(説明の看板の写真


 そして風呂や司教の住居の遺跡を通り、先の真ん中にある道路に戻りました。そこを歩くと、そのまま駐車場のある入口に近づきます。

カヴァラのレストランへグーグル地図

 そして私たちは、カヴァラに戻りました。カヴァラ港の目の前にあるレストランで、お魚料理を楽しみました。食べ終わった後に、ちょっと時間が会ったので、旅行仲間とほんの少し、散歩をしたりしました。
 

4.テッサロニキへ

 カヴァラのレストランから、テサロニッキのホテルへ(グーグル地図

 カヴァラから、テッサロニキまで約2時間走りますが、そこはE20号線という国際幹線道路を走ります。興味深いことに、ポルトガルからトルコ・イラク国境まで続く道路のようです。ギリシアの中では、そのままエグナティア街道としても知られています。けれども、そのローマ街道はE20のすぐそばを通っているので、E20そのものがローマ街道だったということではないと思います。

途中、立ち寄っているアンピポリスとアポロニア

 しかし、使徒の働き17章1節を見ますと、「パウロとシラスは、アンピポリスとアポロニアを通って、テサロニケに行った。」とあります。


 上の地図を見ていただくと、エグナティア街道は、ピリピからパンガイオン山脈の北を通り、そして再びエーゲ海の沿岸を通りますが、ストルマ川の下流が囲むようにしてアンピポリス(Amphipolis「囲まれた町」の意)があります。現在のアンフィポリです。調べますと、紀元前5世紀の城壁の跡があり、当時は七キロにも及んでいたといわれます。紀元前4世紀に、フィリッポス二世の攻撃に破れます。この町の象徴的な遺跡として、アンピポリスの獅子の石像がありますが、復元して建てられています。そしてローマがここを属州として、、ピリピとテサロニケを結ぶ交通の要衝としてマケドニア地方の首府としました。ピリピからアンピポリスまでは約50㌔です。古代ローマは、街道には約50㌔ごとに、いわゆる「道の駅」を設けました。ですので、パウロの一行はここで一泊したものと思われます。その外、アンピポリスにはビザンチン時代のバシリカの遺跡の跡もありますし、ローマ時代の木製の橋脚跡があります。化石化しているので、今でも残存しているとのことで、今でもここを訪れる見所の一つとなっているそうです。

 そして、アンピポリスから西に約40㌔に、ボルビ湖畔の南にアポロニアがあります。ここは温泉が湧くところなので、パウロたちはここでも一泊して、旅の疲れを癒したかもしれません。

 彼らが二・三泊かけて歩いた町を、私たちは高速道路E20を使って、約二時間で走ったわけですが、テッサロニキの町に近づいてきました。


 テッサロニキの町の歴史をデーナさんは説明しています。紀元前315年、マケドニアの将軍カッサンドロスによって造られました。アレクサンドロス大王の異母妹であるテッサロニキを妻として迎え、それでテッサロニキと名づけられました。古代ローマの時代には、紀元前168年に古代ローマが、ここをマケドニア地方の首都とします。エグナティア街道の宿場として要所となっていました。そして、パウロがここに来て福音を伝えます。

 そして、ビザンチン時代は、ユスティアヌス帝の治世でここがコンスタンチノープルに次ぐ、第二の都市となりました。一時期、十字軍に支配されますが、再びビザンチンに戻り、1492年にはスペインでのユダヤ人追放令によるユダヤ人たちがここに移り住むことになったそうです。そこでここが商業で発達するようになりました。

 今は、ギリシアのアテネに次ぐ第二の都市です。トルコから1921年に独立しました。トルコの支配下にあった時も、比較的自治は許されていたので、発展したとのこと。(以上「地球の歩き方2017-2018」参照)

 そしてテッサロニキの遺跡を見るのかな?と思ったら、市内観光を兼ねて、バスが巡り走りました。


第二の都市テッサロニキの準廃墟状態

 港沿いの通りを走り、それから最も華やかなはず(?)のショッピング通りを通って行きました。しかし、その時に強い衝撃を受けました。半分近くの建物が、誰も住んでいない、廃墟のようになっていたのです。そしてギリシア全体がそうですが、落書きが建物に書かれています。日本から来た者としては、この光景があまりにも耐え難いものでした。ギリシアは、物価は日本よりも高いのですが、その町の様子は、トルコよりもはるかに遅れている、というか、さびれきっているのに、一向に建て直す気配がないという感じです。(例:廃墟となった工場の記事建物の落書きの写真)そして、車が洗車をずっとしていないでしょう?というものが、かなり多く走っていました。

 2009年に社会主義の左派政権に交替して、2010年に国債が暴落、デモが起こり、12年に緊縮反対政党が躍進しました。そして12-14年に借り入れを繰り返して、15年に緊縮反対政党がさらに躍進して、EUとの交渉が決裂、財政破綻に陥っています。トルコからギリシアへ越境した時に、何となく感じていた空気の違いをここで、まざまざと知りました。経済破綻から立ち直れてない、おや立ち直ろうと自助努力していない姿だったのです。

 ホテル"The MET HOTEL"は、とてもモダンな高級なものでした。けれども、その周囲の建物はほとんどが廃墟に近いもので、ゴースト・タウンの中にあるような感じがして、映画のロケ地のような錯覚もしました。夕食の後に、仲間の多くが中心街に出て行きましたが、私たちはがっかりするだけではないか?と思ったので、ホテル内に留まりました。

 その中でも、ギリシアの食べ物はとても美味しかったです。ずっと伝統的なものを食べていましたが、ホテルではモダンな物が出て来て、これもまた面白かったです。


 最後に、悪いことばかり書いてしまって申し訳ないので、テッサロニキの観光のための動画を貼り付けます。