エジプト・イスラエル旅行記 − 8月19日その1


 今日は、ゴラン高原へ旅です。

 1.ガムラ
 2.カツリン
 3.シリヤとの国境
 4.ピリポ・カイザリヤ
 5.プールサイドでの夕食

 ガリラヤ湖畔にいると、東側には一帯に盛り上がった薄黄土色の台地が見えます。それがゴラン高原です。まず、ここの地図を開いてください。

ゴラン高原

 ガリラヤ湖は、死海と同じく、シリア・アフリカ地溝に位置するため海水面より低いところにあります。ですから前々日、下ガリラヤからガリラヤ湖に入る時に、私たちは下ってきました。同じようにゴラン高原に行く時も今度は上っていきます。ちょうどガリラヤ湖がへこんだ盆地のようになっているのです。このような地形ですから、大気の流れも激しく嵐になるとその風がとてつもなく強くなるので、弟子たちが何度も舟の上で遭難するんではないかと恐れたわけです。

 99年の時は、ガリラヤ湖の南端にある道からゴラン高原に上がりました。地図ですとShaar Hagolanのところです。そして一気に急な上り坂を走ります。右側には下にヨルダン領が見えます。ここでゴラン高原の反対側がガリラヤ湖畔に対してと同じように、急な傾斜になっていることが分かります。そこはヨルダン川渓谷と呼ばれます。そして他のイスラエルの土地の多くが石灰石であるのに対して、ここは玄武石であるそうです。おそらくここで火山か何かが起こって、それで盛り上がったのではないかと考えられています。

 ですからここは、他のイスラエルの地とは少し切り離された感を受けます。事実、モーセが率いるイスラエルの民が約束の地に入ろうとした時に、ルベン族とガド族が、家畜を飼うのに良い土地なのでヨルダン川のこちら側に住み着きたいとモーセに言いました。そうしたらモーセは怒りましたが、カナン人の地に攻め入る時に共に行くことで同意しました。結局そこはマナセの半部族が所有することになりましたが、その時は「バシャン(「豊かな土」と言う意味)」と呼ばれています。バシャンの王オグをモーセ率いるイスラエルが、モアブのバラクと戦う前に倒していました。

 バシャンという名の通り、ここは非常に豊かな土地です。聖書では、放牧の代表地として登場します。「数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。(詩篇22:12)」「たしはイスラエルをその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで、その願いは満たされる。(エレミヤ50:19)」ここはソロモン王朝の時は、バシャンに兵站部が置かれていましたが(1列王10:33)、王国が分裂してからシリヤのハザエルが、ルベンとガドの所有地であったギルアデと共にここを打ち破っています(2列王10:33)。

 ところで「ゴラン高原」という名称は、バシャンの土地にあったレビ人の町で、逃れの町であった「ゴラン(ヨシュア21:27)」から来ています。

 そして新約時代には、ヘロデ・ピリポの領地の中にありました。(前日の旅行記でお話したように、カペナウムのすぐ東にヨルダン川が湖の流れ込んでいて、そこを境にヘロデ・アンティパスからピリポの領地になります。)ヘロデ・アンティパスの地には、ミグダル(マグダラ)というユダヤ人が多く住む町がありましたが、こちら側にはガムラという町がありました。ガリラヤ湖の北東部分に位置し、ガリラヤ湖に流れていく川のいくつかの渓谷の一つにあります。

 後で詳しく説明しますが、ガムラがユダヤ人反乱の要塞となりました。そこが67年に倒れて、それでエルサレムが70年に倒れています。地形的にも、当時からゴランがイスラエルの地全体にとって戦略的な場所であったのです。

 その後ゴラン高原はローマの直轄になったり、ヘロデ・アグリッパ二世に任せられたり、行ったり来たりしました。けれども離散したユダヤ人は、他のツィポリやティベリヤと同じようにここにもシナゴーグを建て、カツリンという町にその遺跡が残っています。この町にも後で行きます。

 そしてイスラム支配、オスマントルコを経て、列強時代に入ります。私たちがいつも考える国境という概念は、近代のものです。明確な線引きを当時の中東の人はしていませんでした。けれども、イギリスとフランスがその支配を分割するときに、前者はヨルダン川とガリラヤ湖、そして北はダンの町までは絶対に英国のものである、なぜならそれが聖書にイスラエルの土地と定められているからだと主張しました(アメリカだけでなくて、当時の英国もキリスト教価値観を背負っていたんですね)。ゴラン高原は、フランスのシリア分割領の中に入りました。44年に新しく独立したシリアが、48年の第一次中東戦争(独立戦争)の時にここを奪取しました。

 ですからそこは聖書的には、「イスラエルのものであるが、しばしばシリアをはじめとする国々に攻め取られていた所」と言うことができるでしょう。

 イスラエルにとって、非常に実際的な問題がありました。それはイスラエルが独立した後、シリアがゴラン高原からガリラヤ湖畔のキブツに狙撃兵による攻撃を行なっていたことです。住民は常に死の危険にさらされていました。私たちのバスの運転手のアヴィさんも小さいとき、ガリラヤ湖畔の防空壕の中にあるキブツの学校に通っていたそうです。

 さらにもっと大変な問題がありました。それはシリアがガリラヤ湖に流れてくるヨルダン川の水を他のヨルダン川の支流に迂回させる計画を立てていたことです。これまでもお話したように、水は乾燥した中東地域にとって死活的な問題です。イスラエル全体の30パーセントを占めるこの水源を断とうとしたのですから、大変なことになりました。

 この時に、神の時が来ました。イスラエルが独立した時に周辺のアラブ諸国はイスラエルを攻め、負けてしまいましたが、次の機会をずっと狙っていました。67年についにエジプトが挑発、そしてヨルダンが参戦し、さらにシリア等も戦争を勃発させたのです。けれどもイスラエルがたった六日で大勝利を収め、しかもシナイ半島をイスラエルが攻め取り、ヨルダン川西岸をヨルダンから奪取し、その時にエルサレムがついにイスラエルの主権の中に入りました。

 シリアは様子を見ていたのですが、エジプトがシリアに自分たちが勝利を収めていているという嘘の情報を流し、彼らも攻撃を開始したのです。ところがイスラエルはエジプトに対して行なったのと同じように、空軍による圧倒的な制空権を得ました。それでシリアは、ゴランに駐留している地上軍をすみやかに撤退させたのです。

 この戦いにおいて、イスラエルの間諜組織であるモサドの、エリ・コヘンが詳細にゴラン高原などシリアの情報をイスラエルに流し続けていたことが大きな助けになったと言われています。

 こうしてゴラン高原が、イスラエルのものとなりました。彼らはまず行なったのは、考古学による遺跡発掘です。その中でガムラを発見しました。そして居留地をすみやかに創りました。67年ですから、まだ40年そこそこしか経っていないのですが、またたくまに美しい緑の農場に変りました。

 現在、イスラエルとシリアは休戦状態であり、しかもここはイスラエルの領土であるという国際的な認知を受けていません。(だからほとんどの地図で、ゴラン高原はシリア領になっています。)けれども40年以上、73年のヨム・キプール戦争を除いては静寂と平穏がここを覆っています。シリアは、ゴラン高原を攻撃すれば、すぐ近くにある自分たちの首都ダマスコが徹底的な打撃を受けることをよく知っているからだそうです。その代わり今は、レバノンのヒズボラを支援することによってイスラエルを攻撃しています。

 ざっとこんな感じですが、イスラエル旅行に来られる時は、ガリラヤまで来ているのにゴラン高原まで行かなかったら、大切なものを抜していると思います。主がアブラハムに、「北と南、東と西を見渡しなさい。・・・立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。(創世13:14,17)」と命じられましたが、北はゴラン高原の北西にあるダンから始まります。「ダンからベエル・シェバまで」という言い回しが全イスラエルを表していました(1サムエル3:20等)。エレツ・イスラエル(イスラエルの地)を満遍なく見ることによって、初めて神の御想いが分かるのだと確信します。ゴラン高原が地形的になぜイスラエルが手放すことができない所なのかを知ることができますし、イスラエルが想像以上に、非常に広がりをもった国であることを理解できます。


1.ガムラ

 今回、私たちのバスは湖の南端の道路ではなく、北東の、ベツサイダとクルシの間にある869番を走りました。どんどん渓谷の間を上昇していく感じです。この道を行くとそのまま国定公園の中にあるガムラに到着します。写真の右上が少し青くなっていますが、それがガリラヤ湖です。雨季にだけ川が流れるワジに挟まれている、らくだのこぶのような形をしている部分がガムラです。実際ガムラという名前は「こぶ」を意味していて、らくだのこぶから来ているそうです。

 上の題名のリンク先を見るほうが、いくつかのもっと接近した写真があるので見やすいかと思います。西側は急な崖になっているので、自然の要塞になっています。敵は東側、つまり私たちが立っている側の坂からしか入ることはできません。そこに城壁があります。その間にV字形をしている裂け目があります。そこをローマが突破口にしたのではないかと思います。そしてすぐ横にシナゴーグがあり、浸礼槽も見つかっているそうです。

 ここに着くと、ユダヤ人ガイドの語気が強くなります。なぜなら、ここは「北のマサダ」と呼ばれて、第一次ユダヤ人反乱(66-70年)の時に、ユダヤ人がローマに激しい抵抗をした町だからです。ここを67年に失ったためにローマはエルサレムを攻略することができました。また、ここはシリヤが第一次中東戦争の時に勝手に取ったところであり、古代からユダヤ人が住んでいたイスラエルの地であることを証明する場所です。ここで硬貨も見つかっており、「エルサレムの贖い」と銘記されているそうです。

 このガムラの戦いもヨセフスが詳細に描いているそうです。NETのサイトがそれを要約していますが非常に面白いです。

 彼らはようやくこの壁を突破して、ユダヤ人たちをこの「こぶ」の頂上まで追い詰めましたが、もう空しかない追い詰められたユダヤ人がもう振り返って気が狂わんばかりにローマ兵に討ちかかったそうです。そうしたら今度はローマ兵が後ろにいる仲間とユダヤ人との間に挟まれて、家屋の屋根に飛び降りたそうです。屋根は武具や武器の重さでつぶれ、彼らは家のなかに落ち、まさに罠にかかった状態になりました。これを神からの助けと知ったユダヤ人が、がむしゃらに攻撃をします。

 そして面白いのは、この家の中に落ちた兵たちの中に、なんと指揮者である総督ヴェスパシアヌス本人もいたことです!ドイツ人をも打ち倒した勇士ですが、その自尊心から冷静さを取り戻し、倒れた兵士たちが盾を重ね合わせて、そのままの状態で突破口に出口に少しずつ声を合わせながら移動したそうです。

 生き残った兵士たちに対して、性急に攻め入ったことを柔らかく叱ったそうです(だって、本人も行っているんだから!)。そして息子ティトスが来るまで、ガムラから空腹で出て行くユダヤ人たちがいても追うこともなく待っていたそうです。そうとうショックだったのでしょう。

 そしてティトスは、殺された仲間への復讐もあって女も子どもも大虐殺します。ヨセフスは、殺されたのは4千人、崖から転げ落ちたのが5千人と書いています。後者を自殺と長いこと捉えてきたのですが、逃げている中で折り重なって落ちていったというほうが正しいのではないかという見方もあります。


ユダヤ人反乱とは

 ところでリンク先のBibleplaces.comの説明の中に、パウロの師匠であるガマリエルが言及した「ガリラヤ人ユダ」が熱心党の創始者であり、ここガムラ出であることを言及しています。「その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。(使徒5:37)」紀元6年のことらしいです。

 この箇所を読んで、私は少し気持ちが複雑になりました。聖書的に、この反乱を神がどう思っておられたのか気になってきたからです。ガマリエルは信者ではありませんでしたが、少なくともユダヤ人がイエス様を信じていくその動きを、神からのものであればそのまま続くし、そうでなければ滅びるとみなすほど、冷静で寛容でした。むしろローマへの反乱を、人間の勝手な仕業と捉えていました。

 それで、第一次ユダヤ反乱について少し調べましたが、さらに気持ちが複雑になりました。これまで少しずつ言及しましたユダヤ反乱をまとめますと、これが起こったのは66年カイザリヤでのことでした。シナゴーグに対して嫌がらせをした人をユダヤ人が追い出したところ、かえって暴動が起こったそうです。それでユダヤ人が逃げなければいけなくなりました。この事件だけでなく、ガリラヤ、ユダヤ全体に渡って、ユダヤ人はローマの圧制、異教、堕落などに我慢ができなくなっていました。ユダヤ人の主権を持つ国を造るべく立ち上がったのが熱心党です。そして、カイザリヤ事件をきかっけにユダヤ人たちはエルサレムで、異邦人によるいかなる捧げ物も禁じたそうです。それでローマ総督がいかり、神殿から金を巻き上げようとしたところ、ユダヤ人は叱りました。それで総督はさらに怒り、エルサレムの住民を強姦、殺害していきました。

 これでエルサレムの愛国者らは、沸きあがるようにして立ち上がり、ローマ兵たちを次々に倒し、ついにアントニア要塞も占拠しました。ローマの手下になっていた大祭司も殺したそうです。これでついに、ユダヤ人の自治が回復しました。ローマからの激しい報復が待っているのを知っていた彼らは、ユダヤとガリラヤをそれぞれの地域に軍事的要塞を置き、ガリラヤ地方をヨセフスに任せました。

 怒り狂ったネロは、部下のヴェスパシアヌスにその鎮圧を命じました。彼は冷静に、一番手堅いエルサレムを攻め落とすために、全国に張り巡らされた軍事的拠点網を寸断する戦略を練りました。それでまずガリラヤを狙いました。ツィポリはすぐ降伏したので、破壊しませんでした。ヨセフスは逃げましたが、最後に降参しました。ヴェスパシアヌスはサマリヤとイズレエルを回り、ガリラヤ湖に着いたとき、その入口であるミグダル(マグダラ)の抵抗を徹底的に打ち、そこは血の海になりました。ヘロデの首都ティベリヤもすぐに彼に明け渡し、ティベリヤの高い丘からガムラを眺めました。そこが熱心党の拠点です。

 そしてガムラの話になります。それから他のユダヤの地域を降伏させ、エルサレムを包囲したのです。けれどもその前に、ヴェスパシアヌスは皇帝になり息子ティトスが総督としてエルサレムを紀元70年に破壊したのです。そして73年にマサダの篭城を倒し、これで反乱に終止符が打たれました。

 このユダヤ人反乱が始まった時、クリスチャンの多くが、イエス様のエルサレムの破壊の言葉を信じてヨルダン川東にある「ペラ」という町に逃げました。「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。(ルカ21:20-24)

 このエルサレム破壊をイエス様は、神の怒りがユダヤの民に下るものであると教えられました。当時のユダヤ人は、ある者はローマやヘロデに妥協し、ある者は孤立して死海のほとりで修道生活をして、メシヤが我ら光の子のために戻ってこられると信じ、そしてある者たちはローマと闘ってユダヤ人が主権を持つことによって神の国を早めるのだと信じていました。けれども昨日立ち寄った山上の垂訓において私たちは、メシヤの国は、外側のローマとの徹底的な戦いではなく、自分に対する徹底的な戦い、抵抗であることを知りました。当時の彼らはどこかでずれていたのです。

 けれども当時のユダヤ人クリスチャンたちは迫害されることを甘んじ、可能であれば逃げました。なるべく周囲と平和に暮らすことを求め、それによって福音が広がることを願ったのです。次のテモテへのパウロの言葉を思い出します。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(1テモテ2:1-4)


鷲の飛翔

 ガイドのヤコブさんのお話がここで聞けます。内容は初めに私が説明させていただいた、ゴラン高原の存在意義についてです。この話を聞いているうちに、ガムラの上を鷲が数羽飛んでいました。ガリラヤ湖につながっている渓谷ですから、気持ちい風がここを通っています。その風に優雅に乗っかっているという感じでした。ヤコブさんがデービッドに話を移した時に、彼はイザヤ書40章31節を引用しました。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ書40:31)
 イザヤ書40章の学びの準備の時にデービッドの説教を聞きましたが、鷲は風に乗ることによって飛ぶのであって、羽をバタバタ動かさない。だから私たちも、自分の力でバタバタするのではなく、主の力に乗るのだということを話していましたが、まさにそんな感じです。

 またシリアの話が出てきたので、その首都ダマスコの預言も引用しました。これもイザヤ書にあります。
ダマスコに対する宣告。見よ。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。(17:1)
 歴史の中で、ダマスコが町でなくなったことはないそうです。ですからこれは将来の預言です。いつかは分かりませんが、ダマスコは廃墟となります。


2.カツリン

 カツリンは、ゴラン高原における唯一の行政市です。ゴラン全体に広がっている居留地に住む人たちにとって、ここに来れば教育など、文化的サービスを受けられるようになっています。前回ここを訪れた時は、ここにあるユダヤ教の町の遺跡を主に訪問しました。紀元4世紀から7世紀に発展したそうです。そこには小さな博物館もあり、ガムラの遺品も展示されていました。そしてゴラン高原の模型と音声による説明を見ました。

 今回は、驚きました。モダンなショッピングセンターが中心にあるからです。

 そして映画を見るというのですが、いったい何だが分かりませんでした。出てきたのは、超ハイテクの180度パノラマ映像でした。そして主題は「ゴランの自然」です。映像とステレオ音声だけではなく、水がほとばしり出る時には霧がどこからか場内に降ってきたりと、びっくりです。

 私はこれらがみなゴラン高原だとは信じられませんでした。あまりにも真っ青な緑と鮮やかな色彩の花と豊かな水(また雪)で潤っていたからです。けれども春は、どこもかしこも花で咲き乱れるのだそうです。本当にびっくりしました。

 ゴラン高原の自然の豊かさを、次の写真集に行って楽しんでください。→ PhotoZion.Com

 そしてこの次に、ゴラン高原の模型を見ます。これもまたハイテク化していました。ナレーションとともに、語っているところにライトが照らされ、話を追っていくことができます。これは録画に成功しました。ナレーションが始まると暗くなるので、開始前の動画も見てください。

 開始前  開始後 (動画アップロード要)

 サイトで捜したら、ここの施設は"ゴラン・マジック"と言うことが分かりました。


ゴランのオリーブ油

 ゴラン高原には有名な製品がいくつかありますが、一つは水。「エデン」というブランドです。それからワインも有名らしく、ワイン工場があります。さらにオリーブ油があります。私たちはそのオリーブ油工場兼ビジターセンターに立ち寄り、オリーブ油の製造についてお話を伺いました。(音声はこちら

 ここで驚いたのは、妻がエッセイで書いたことで彼女がこう記しています。「ゴラン高原にある世界有数の良質のオリーブ油を生産するという工場兼ショップに行ったときに聞いた話だが、オリーブ油を絞ると、それと同時に毒物も出てきて、普通は土壌汚染を引き起こしてしまうとのこと。しかし、技術開発して、毒物が出ないばかりか、石鹸や化粧品を作って販売しているそうだ。」

 そしてこの石鹸や化粧品もここで売られていて、石鹸を使って手を洗うところもあったので洗っていたら、ちょうど死海クリームのように手がすべすべになりました。この写真に出ている人ですが工場長です。妻がこうも書いています。「このオリーブ油工場の社長は、元軍人だとのこと。娘はエルサレムのような都会に出て一儲けしたい気持ちもあったそうだが、ゴラン高原にとどまり続けて、地域のために働くことにしたそうだ。このような努力と土地への愛の積み重ねが、今の美しいイスラエルを作っていることを、どれほどの人が知っているのだろうか。」

 ここで私たちも、オリーブ油を買いました。サイトもありこちらです。とてもすっきりして、きれいな所です。

 そしてバスに乗ってカツリン市内を走りましたが、本当にきれいな家々が並んでいます。

 デービッドのかつてのツアーのメンバーで、カナダ人のご夫婦がこの町が大層気に入って、なんと移住したそうです。けっこうお手ごろな値段で家を購入できたとか。本当に、「約束の地に約束の民が住むと、主が約束された緑が戻る。」という公式は成り立つようです。


3.シリアとの国境

 そしてバスは、ゴラン高原の北端、ヘルモン山のふもとにあるバニアス(ピリポ・カイザリヤ)方面へ向かいます。けれども、その前にシリアとの国境を少し見学します。

エリ・コヘンとモサド

 夏のゴランは、映画館で見たような緑はないですが、それでも線上に緑の木が生えている部分があります。これは何と、かつてイスラエル間諜組織であるモサドの要員であったエリ・コヘンが、シリアの軍人とここに来た時に、彼が植えるように助言したものです。シリア軍の要塞のところにユーカリの木を植えれば、そこが要塞だとイスラエルは思わないだろうし、兵士たちに木陰を作ることにもなるから良いと言ったそうです。それをエリ・コヘンはイスラエルにすぐに電送して、六日戦争の時、イスラエル空軍が難無くシリア軍の駐屯地点を爆破することができました。

 ところで、私がイスラエルに興味を持ってからイスラエルについての本を読み始め衝撃を受けた本の一つは、落合信彦著の「モサド、その真実」でした。その諜報員たちの、恐ろしいまでの愛国心とそれを支える思想には驚きました。彼らの最大の武器は兵器でもなく高度技術でもなく、人間そのものであること。人間に潜在している智慧であるという考えがモサドにはあります。そのため、わずか数百人しかいない要員でCIAよりも優れた諜報活動をやりのけました。

 私たち戦後生まれの日本人は、戦争の話を聞くと生理的嫌悪感が生じますが、それは軍事主義の日本軍が強いた無謀な犠牲を思い出すからです。イスラエルはその反対です。「命を棄てろ」ではなく「他の人々の命を守れ」です。たった一人、二人が捕虜となっても国をあげて、あの手この手で救出するのがイスラエルです。仮の話ですが、もしアメリカ人が北朝鮮に拉致されていたら、アメリカは救出のために戦争をするという人たちがいますが(それだけ国民を守ってくれるという意味で)、イスラエルなら戦争するまでもなく諜報活動でこっそりと救出してしまっているでしょう。表向き北朝鮮の面子を保たせながら、けれども内側では「やられた」というとてつもない自信喪失を与えながら・・・。

 これが六日戦争の時にエジプトに対して行なったことでした。エジプトの兵士たちに戦う機会も与えずに、地上に駐留してあった戦闘機をことごとく爆破させたのですが、そのエジプト空軍の情報を細かく提供していたのは、まさしくモサドです。

 もっと身近な話をチャック・スミス牧師がしてくれました。「哀歌」からの説教ですが、彼のイスラエル旅行でおなじみのユダヤ人ガイドが、確かヨッパ門の前でイスラエル兵がたむろしているとき、すぐ近くに自爆テロリストらしき人が近づいてきました。そのガイドさんはその男を倒して両腕を掴み、「男を打て!」とイスラエル兵に命じました。ところがイスラエル兵は打つ場所を少しはずしてしまい、爆弾に当たってしまいました。それでその爆弾がすべて彼の体に当たり彼が盾となったために、そこにいた兵士たちの命は助かったのです。

 ガイドさんは一命を取り留めました。けれども完全に外見がぐちゃぐちゃになり、見てもいられない姿になりました。その彼を見舞いにいった兵士は、彼を見て、「この方のおかげで、私の命は救われた。」と言いました。イエス様が、顔が人として認知できないほど損なわれたことについての例えでチャックは話していましたが。

 私はこの話を聞いて身震いしました。文字通り自分の体を張って、それをめちゃくちゃにしても、とっさの行動で他の命を守るという行為、一般市民がその咄嗟の行為ができるほど「自分たちでこの国を守る」という連帯意識、愛国意識があるのだと知ったからです。

 話をエリ・コヘンに戻します。彼は、シリア系ユダヤ人の両親からエジプトで生まれました。あのアレッポ・コデックスが見つかったアレッポ出身です。そしてイスラエルを支持する運動に加担したためエジプトから国外追放されました。そしてイスラエルで、イラク系ユダヤ人の女性と結婚します。けれども会計士の仕事もうまくいかず、奥さんに負担をかけていました。その時、イスラエルはシリアとの確執の中にいました。先ほど話した、ヨルダン川を迂回させてしまう計画です。どうしてもシリアからの情報がほしかった時、以前はテストで不合格にさせていたエリを採用します。彼は間諜としてのあらゆる訓練を受けましたが、暗号伝播とシリア訛りのアラビア語習得に重点が置かれました。

 彼はレバノンにいたシリア人イスラム教徒の両親から生まれ、両親がアルゼンチンに移住、そしてビジネスで成功しているという架空身分をもらいました。61年にアルゼンチンに行き、そこに在住のシリア人の共同体の中に入り、文化的、社会的地位を築きました。それからシリアでビジネスチャンスを与えるという誘いがあり、彼は多くのシリア人の支援の中でシリアに入りました。

 彼の情報を取る場所は、夜の遊びでした。自宅にも閣僚や軍人を招き、彼らが酔っている時に話している内容を、素面の彼はずっと聞いていたのです。そして彼は軍事機密の深いところまで接近できるほど信頼される人間となりました。その時に、一般の人々は決して入ることのできなかったゴラン高原にも、シリア軍幹部の招待で入ることができたのです。その時に、上の逸話がありました。

 彼は後に首相になるハフェズと親交を深めており、彼が首相になったとき防衛大臣の候補にまで上がっています。

 ここまで信頼を置かれていたエリですが、イスラエルに戻った時に、身近に自分を信頼していない男がいる。危険だからもう止めさせてくれと頼みましたが、彼の提供する情報があまりにもおいしいので、もうちょっといてくれとイスラエルは頼みました。

 ところがその後、エリの通信の回数が多くなり、しかもその時間も長くなったそうです。・・・私はモサドや諜報関係の本を時々読みますが、いつも教えられることがあります。これもその一つですが、自分の時、つまり神が与えられている時や限度があるということです。いくら良くみえても、その時を越えると、エリ・コヘンのように思慮深くなることにも嫌気が差したり、自暴自棄的になったりするということです。・・・そして当時はアラブ諸国はソ連からの全面的な支援を受けていましたが、ソ連から来た電波関係の技術者が彼の発信源を突き止めました。彼は発信している最中に自宅に突入され捕まりました。

 アラブ諸国でも、国民性がいろいろあり、エジプトは根っから明るいと言われますが、シリアは陰鬱だそうです。そこでエリが受けた拷問はここでは表現できないほど陰惨なものでした。けれども彼はイスラエル側の情報を漏らすことなく、ダマスコの広場で絞首刑を受け、数時間、首を吊るされたままにされました。

 シリアはその遺体を決してイスラエルに返還しないそうです。そして遺物もすべ焼却しました。彼の体にさえも、何か暗号が埋め込まれているのではないかと疑っているからです。これだけシリアを恐れさせるほど、エリ・コヘンはシリア中枢部に浸透していました。

 世界のあらゆる間諜の中でも彼ほどの人はいなかったであろうというのが、多くの人の意見です。


ベンタル山

 そして私たちは、シリア側を眺めることができる「ベンタル山」のふもとに来ました。ベンタル山の頂上には、レーダー通信のアンテナがたくさんあります。かつてはここからイラクの軍事情報も受信していたのですが、今は脅威ではなくなったからその必要はありません。

 右端に見える白い建物は、国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)の建物です。緑の畑がイスラエルのキブツですが、国境すれすれのところまで栽培しています。そして向こうがシリアです。ユーチューブで、国境付近の映像ビデオが見つかったので、ここにリンクしておきます。本当に静かで、平穏な空気が漂っています。かつて戦争があったことが信じられないぐらいです。


涙の谷ヨム・キプール戦争

 そしてこのベンタル山と次に行くヘルモン山の間に、「涙の谷」と呼ばれるところがあります。ここは、73年に勃発したヨム・キプール戦争の激戦地でした。

 「ヨム・キプール」とは「贖罪日」のことです。レビ記23章に出てくる、秋の祭りの一つであり、断食をし、主の前に悔い改める日であります。この時に聖書ではレビ記16章にあるとおり、大祭司が年に一度至聖所に入り、イスラエルの贖罪を願うのです。

 今は神殿がなく、犠牲の血にによる贖いの考え方が希薄なユダヤ教は、この日に向けて良い行いを積み上げようとします。自分の悪い行いと天秤にかけて良い行いが多いことを望んでいるのです。ずいぶん、聖書的贖いから離れてしまいました。

 この時、宗教的ユダヤ人だけでなく、世俗的な人もシナゴーグに行きます。ちょうど教会のクリスマスや復活祭のようです。そして普通の安息日ならほんの少しは運営されているいかなる仕事も、完全に閉じられます。テレビもラジオも放送はありません。

 このように、イスラエル人が完全に機能を停止させている日(1973年10月6日)に、エジプトがシナイ半島を、シリヤがゴラン高原に侵攻したのがこの戦争です。二国とも、六日戦争で取られた領土を取り戻したいと願っていました。

 前哨にわずかに残っている兵士たちが、急いで町の中に出ていって援軍を求めました。ゴラン高原ではイスラエルの180台の戦車に対して、シリアが1400台あったのですから圧倒的な差です。網攻撃にさらされながら100台あった戦車がたった7台になってしまいました。けれどもその中でイスラエルはシリアの600台の戦車を打ち倒していたのです。

 そして予備軍がゴラン高原に到着し、猛反撃をしてついにシリア領内に侵攻、首都ダマスコの寸前まで到着しました。同じことがシナイ半島でも起き、カイロの直前まで侵攻しました。そしてソ連、アメリカなどが介入して、停戦です。

 ここで今でも不思議になっているのは、ゴラン高原に侵攻したシリア軍が、ほとんどティベリヤまで手が届きそうだったのに、引き下がったことです。その他、たった一台の戦車が、相手には何台もの戦車に見えたのか、混乱していたそうです。まるで、聖書に出てくる数ある戦いの中で、わずかな人数で戦うイスラエルに、神が勝利を収めてくだったような話です。

 その谷で戦ったアビグドール・カハラニ大将が書いた本を、ぜひ読んでみたいと思っています。

 The Heights of Courage: A Tank Leader's war on Golan

 けれども、ヨム・キプール戦争そのものはイスラエルに大きな敗北感をもたらしました。六日戦争の大勝利の後、アラブは奇襲攻撃をかけてくるはずはないという慢心があったからだと言われています。

 このずっと後に、エジプトとイスラエルは和平条約を結びます。シナイ半島も返還しました。ヨルダンとも和平を結びましたので、私たちは旅行をする時、エジプトとの国境とヨルダンとの国境はかなり簡単に行き来できます。問題なのはシリアやその他のアラブ諸国です。旅券にイスラエルのスタンプが押してあれば、それらの国々に入国できません。(サイトで調べてみたら、このような人のために日本政府は旅券の二重発給を特例として行なってくれるそうです。)戦争状態はまだまだ続いています。


ドルーズの人たち

 この先を進むと、ヘルモン山に近づいてくるので、高原というよりも山の起伏が出てきます。その景色がとてもきれいです。その中に集落が点々と出てきて、それから比較的大きな町の中にも入りました。ここはユダヤ人のキブツではなく、ドルーズの人たちが住んでいる所です。ゴラン高原に何百年も前から住んでおり、六日戦争の時にシリアに逃げずこの地にとどまった人々です。実はゴラン高原は、ユダヤ人よりも彼らのほうが沢山います。ガイドのドランが彼らについて詳しく説明してくれましたが、非常に興味をそそりました。

 彼らは民族的にはアラブ人に分類されていますが、ドルーズという宗教を信じています。イスラム教の分派と言われますが、その信仰体系があまりにもイスラム教の支柱とは異なり、別の宗教と言っても良いそうです。ギリシヤ哲学から大きな影響を受け、また輪廻転生も信じています。紀元十世紀にエジプトで、ハムザ(Hamza Ben-Ali)等の指導者が創設し、彼らは、アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドと続き、最終的な預言者がハムザであると信じています。(それに対し、イスラム教はムハンマドが最後の使徒ですね。)信仰の継承は、エジプトからレバノンとシリアに移り、そして11世紀半ばには新たに改宗する人々を拒否しました。既存の信者の間で輪廻転生すると信じているからです。

 そして異端視を避けるために、この宗教は密教化されました。ほとんどの人が、その聖典に触れたことがありません。ウカルというごく限られた宗教指導者のみ接することができます。そして彼らは自分たちの先祖を、イシュマエルではなくモーセの姑イテロであるとします。道徳的に非常に高潔な教えを説き、アルコールや賭博は厳禁です。そして非常に興味深いのは、自分たちが住んでいる国には絶対忠誠を誓うことを教えられています。

 そこで彼らは他のアラブ人とは異なり、イスラエルへの帰属意識が非常に強い人々です。私たちがよく知っている、ユダヤ人とアラブ人の対立は彼らにはほとんど皆無です。キブツのユダヤ人とよく調和しています。ただ政治的に微妙な立場にいます。もしゴラン高原が再びシリアのものとなったらどうするか?という報復への恐れがあります。それで、イスラエル国籍は取らず、シリア国籍のままです。(カルメル山の所にもドルーズ人がいますが、彼らはイスラエル国籍を取得しているそうです。)そしてドルーズの若者はイスラエルの兵役に準じています。他のアラブ系イスラエル人は免除されているにも関わらずです。彼らは今のイスラエルの自由で民主的な社会、経済の豊かさを享受しているので、なおさらのことシリアには戻りたくないと本音では思っているそうです。

 題名のリンク先のサイトによると、彼らは旅人を非常にもてなす文化を持っているそうで、イスラエル旅行に行く人々は彼らの家を訪問してもよいのだそうです。

 アラブ人にある大きな問題を見つけた私には、この人々の存在は新鮮でした。パレスチナ人クリスチャンにしても、アラブ人クリスチャンにしても、純粋に福音の中に生きていることだけでなく、いかにイスラエルが暴挙を働き、自分たちを虐げられているかを話の前面に出してきます。けれどもおかしなことに仲間のアラブ人ムスリムについては、無口です。その根底にあるのが民族的な誇りと自尊心だからです。お隣の韓国のキリスト教も似ていて民族的な自負心をキリストの名を借りて昂揚させる傾向を持っていますが、それぞれの国民、民族がキリスト者になった後に克服しなければいけない課題があります。その中で、ドルーズ人のような人々もいるんだと関心しました。