2016年イスラエル・ヨルダン旅行記 2月16日

1.マダバ
2.ネボ山
3.ヨルダンの向こう岸ベタニヤ
4.死海ホテルへ


クィーンアリア空港からマダバへ(Google地図)
(注:逆V字型の行程になっていますが、もしかしたら真っ直ぐ走ったかもしれません。)

 アンマン近郊にあるクィーンアリア空港から次の目的地、マダバまでは車で30分ぐらいのところです。ところで、天気はとても温暖で、過ごしすそうでした。私たちが聖地に訪問する一・二週間前は、日本でもそうであったようにかなり寒くなり、初日に死海遊泳、それからペトラ訪問を次の日に控えていたので、天候が守られるように祈っていましたが、主の憐れみを思いました。後日、通訳のマヘルさんが教えてくださいましたが、私たちのペトラ訪問の数日後に、雨が激しく降り、宝物殿の前も水浸しで、一時閉鎖されたということでした。

 内容をたくさん詰めている盛りだくさんの旅程であることを知って、ラエルさんはすぐに、「車中でどんどん説明をしていきますね。」と言ってくださいました。私もそれを願っていたので本当に感謝です。(左のラエルさんの写真をクリック、音声が始まります。)

 ここで私のほうから、まずキリスト者がヨルダンに降り立つことの意義をご説明したいと思います。

①アブラハムの子孫の住む所

 主は、人類に救いを与えるためにアブラハムを選び、彼を召し出し、彼からすべての民族を祝福するという約束をされました。しかし、彼は完璧な人間ではありませんでした、約束の子イサクを生む前に、女奴隷ハガルによってイシュマエルを生みました。しかし、主はアブラハムを祝福するように決めておらえました。イシュマエルは、兄弟に敵対するようになるという預言を受けましたが、それでもアブラハムのゆえに、彼を一つの国民にするという祝福を与えられました。彼はパランの荒野に住み、今のシナイ半島の北部、イスラエルの南端を網羅する沙漠に住みましたが、彼が後のアラブ人となります。

 さらに、約束の地へはアブラハムの甥であるロトが付いてきていました。彼はソドムの辺りに住みつき、それからソドムの中に住むようになりました。神がソドムの罪のゆえに火を降らせますが、主の憐れみにより、かろうじて未婚の娘二人と共に逃げることができました。二人の娘は、残った子孫は自分たちだけだと思い込み、父を深く酔わせてそれぞれが父と寝たのです。姉は「モアブ」を生みました。そして妹は「アモン」を生みました。

 このモアブ人が今のヨルダンに住んでいました。ヨルダンの中部、死海の東側の高原平地一帯に住みつき、旧約時代の中に数多く出てくる国となります。そしてアモン人もそうです。今のヨルダンの首都「アンマン」は、アモンから来た言葉です。アンマンはかつてアモンの首府であった「ラバ」であり、ヨアブがこれを陥落すべき戦っていた時に、ダビデが宮廷でバテ・シェバと姦淫の罪を犯しており、そして彼女の妻ウリヤが、ダビデの陰謀で殺された所です。ですから、アモンはヨルダン中部の渓谷の部分から離れたところ、高地の部分を領土としていました。

 そしてイサクから双子が生まれましたが、兄がエサウで、弟がヤコブです。主はヤコブを選びの子とされ、ヤコブからご自身の祝福の約束、すなわちキリストの約束を与えられます。エサウは長子の権利よりも、レンズ豆のスープを願ったので、退かれました。後に彼は、カナンの地から離れて、ホリ人セイルが住んでいた所に移り住むようになります(創世36章)。彼らがエドム人であり、死海の南、紅海に至るまでの一帯の岩地であり、現在のヨルダン南部に当たります。

 したがって、ヨルダンは「アブラハムの子孫の住む所」ということができます。主は、モーセ率いるイスラエルの荒野の旅において、注意深く、エドム人、モアブ人、アモン人と戦ぬようにせよと命じられます(申命2章)。なぜなら、主がアブラハムに約束されたように、これらの国々にもその地を与えておられたからです。

 そういった意味で、今のイスラエルはヨルダンと過去に二回、中東戦争で交戦したものの、1994年のイスラエル・ヨルダン平和条約によって平和が保たれていることにも、アブラハムへの約束に伴う主の憐れみがあるでしょう。

②イスラエル二部族半の相続地

 イスラエルの陣営は、エドム、モアブ、アモンを通過してから、エモリ人の王シホン(ヘシュボンが首府)と戦うことになります。主が、彼らが攻めてくる時に攻め取りなさいと命じておられたからです。シホンは、死海東に流れ込むアルノン川から、あのヤコブが御使いと格闘した「ヤボク川」辺りまでを支配していましたが、そこを攻め取りました。さらに、ヤルムク川がガリラヤ湖のすぐ南に流れ込んでいますが、その北が「バシャン」という、今のイスラエル領になっている(国際社会は認めずシリア領としていますが、完全にイスラエルが実効支配しています)、ゴラン高原です。

 このエモリ人たちが住んでいた地は、家畜に適した土地でした。ルベン族とガド族は非常に多くの家畜を持っていたので、ここを自分たちの土地にしたいとモーセに言います。モーセはカデシュ・バルネアのことを思い出して非常に怒りますが、彼らが仲間と共にヨルダン川を渡河し、約束の地で戦うことを確約し、そこを自分たちの相続地にしてもらいました。そして、マナセ族もヤボク川からヤルムク川までに広がる山地「ギルアデ」をエモリ人から攻め取り、マナセ族はカナンの地にも、ヨルダンの向こう岸にも相続地を持つことになります。

 ということで、バシャンとギルアデ北部をマナセ半部族が、ギルアデ南部から死海北端辺りまでがガド族、その南からアルノン川までがルベン族の相続になります。したがって、その後のイスラエルの歴史、神の御民への関わりは、ヨルダン川の西のみならず東でも展開することになります。ミデヤン人を追い詰めるギデオンや、エフタなどの士師の時代、アブシャロムから逃れマハナイムに陣営を敷くダビデなど、王朝時代に起こった出来事で、ヨルダン川の向こうで起こったものは数多いです。

③ローマの属州、ヘロデの領地

 準備会でお話ししたように、北イスラエルがアッシリヤに、ユダがバビロンに捕え移された後、時は異邦人が支配する「異邦人の時」が始まりました。そして、バビロンを倒したのがペルシヤ、ペルシヤの次はギリシヤ、そしてローマが台頭します。その時のことは、時代的に旧約聖書の最後、マラキの預言の後であり、しばしば「中間期」と呼ばれますが、しかしダニエルは預言としてその時代を書き記しました。ペルシヤの後にギリシヤ、そしてギリシヤの後にローマが来ることを予期しました。そしてローマの時にキリストが現れました。

 
マダバに行く途中、オリーブの木栽培の説明


 したがって、新約聖書の舞台には必ず、ローマの存在があります。文化的、言語的にはその前のギリシヤの影響がローマ帝国以後も残っているので、ギリシヤ語が使われ、またギリシヤ文化についての記述も新約にはあります。さらに、ヘロデ家の統治下の話も出てきます。ヘロデはローマに媚びながらこの地域を支配することになった領主だからです。そこでゴラン高原の付近は、国主ヘロデ・ピリポの四分領の中に入り、以南はギリシヤ語を話す者たちによる十の自由都市連合であった「デカポリス」が広がり、そしてかつてのガドとルベンの割り当て地辺りは、ヘロデ・アンティパスの四分領の一部「ペレヤ」でありました。したがって、ヨルダンには、イスラエルに負けず劣らずの、ギリシヤ・ローマ時代の遺跡が数多くあります。ガリラヤ地方からユダやエルサレムに行く旅人はこのペレヤを通って行き来していたので、イエス様も例外ではありません。

 ですから、旧約時代から連綿と続いていた、ヨルダン川の向こう岸におけるイスラエル人の活動は、新約時代に入っても、例えばバプテスマのヨハネやイエスご自身において、またイエスのガリラヤ宣教において、受け継がれていったのです。

④将来の預言

 そして将来において、アモン、モアブ、エドムに対する神の宣告があり、終わりの日に反キリスト率いる諸国民の軍隊が通る場、また残されたイスラエルの民が隠れる場、永遠の廃墟となるエドムなど、ヨルダンはこれからも、神の働かれる現場となっているのです。

 以上①~④のことから、イスラエルのみならずヨルダンの地に足を踏み入れることは、「神の約束のカナンの地から外れているが、それでも主がその隣の地に深く関わってくださった」所として見ていくことができます。


1.マダバ
2010年の旅行記
ウィキペディア

ヨルダンの地形


 そして私たちはマダバ(聖書名は「メデバ」)に近づきます。ここでマダバの説明に入る前に、この地域全体の地形について説明するとよいと思います。西の地中海からヨルダンに至るまで、そこにはイスラエル側に連なる南北に連なる山地があり、ガリラヤ地方、サマリヤ山地、ユダ山地、そしてネゲブがあります。そしてヨルダン渓谷と呼ばれる、ガリラヤ湖、ヨルダン川、死海、アラバ、紅海へと続く地溝地帯の一部の存在がとても大事です。

 ここは、巨大で広域に及ぶ「シリア・アフリカ大地溝帯」の一部であり、私たちの住む日本列島は例えば太平洋側に日本海溝があるのと同じように、ヨルダン渓谷は非常に低くなり、ガリラヤ湖地域は海面下、死海地域は世界一低い陸地となっています。渓谷の西、すなわちイスラエル側には山地が連なっていますが、東は、渓谷から眺めると高地(台地)がずっと広がっています。「すなわち、高原(ヘブル語でMishorミショル)のすべての町、ギルアデの全土、バシャンの全土・・・(申命3:10)」ガリラヤ湖畔から東を眺めれば、そこはバシャン(ゴラン高原)で、どこから入るにしても急な坂道を上っていくことになります。ヤムルク川の南、ギルアデは、凸凹の山地になっています。なぜなら、おそらく、そこから多くの支流や川がヨルダン川に向かって流れいくからであり、その浸食で高原のような平らなところではないです。(旅行仲間は、最後の日、24日にもう日没で周りが暗くなってしまった時に、途中で道路を左に曲がり、長い長い登坂を上り、アンマンに向かっていた時にそれを経験していました。)

アバリム高地と谷

 そしてヨルダン川の南端、死海のすぐ北は「モアブの草原(民数36:13等)」と言われる所で、イスラエルが約束の地に入る前に宿営したところで、ヨルダン渓谷と同じ高さになっています。(衛星写真Bibleplaces.com)おそらく、ヨルダン川が死海に流れ込む部分で、川の流れの変遷で低くなったのでしょう。この草原に、主がバプテスマを受けられた「ベタニヤ」があります。

 死海の東西には、そうした低くなっている部分はありません。非常に急斜面の山地になっており、西は「ユダの荒野」の黄褐色の山が連なり、東はモアブの山々が連なっているのです。ここもまた、アルノン川やゼレデ川などによって、支流や川が死海に流れ込んでいくため浸食で渓谷となっており凸凹になっていますが、けれども、少し内陸に入れば高原で平らになっており、王の道では、モアブ高原という、とても平らなところがずっと続きます。

 マダバは、そのモアブ高原の北西の端になっておりその一帯は「メデバ高原(Medeba Plateau)」とも呼ばれて、この高原を指して「ミショル(Mishor)」とも言います。聖書では「アバリム高地」とも呼ばれています。「この同じ日に、主はモーセに告げて仰せられた。『エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に上れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。』(申命32:49)」その尾根にネボ山があり、そこから、イスラエルが約束の地に入る直前に宿営したモアブ草原を眺めることができ、またヨルダン川を越えたカナンの地を眺めることができます。そして、終わりの日を預言するエゼキエルの「ゴグとマゴグ」において、主によって滅ぼされたゴグの軍が埋められる所になるとあります。「その日、わたしは、イスラエルのうちに、ゴグのために墓場を設ける。それは海の東の旅人(アバリム)の谷である。そこは人が通れなくなる。そこにゴグと、そのすべての群衆が埋められ、そこはハモン・ゴグの谷と呼ばれる。(39:11)

マダバの歴史

 そしてマダバに戻りますが、ここは古代の道「王の道」の上にある町です。王の道については17日にも注目したいと思いますが、エジプトとメソポタミアをつなぐイスラエルの「海沿いの道(ヴィア・マリス)」と共に、紅海からシリアのユーフラテス上流地域までつなぐ重要な国際幹線道路でありました。(こちらを参照The Historical and Geographical Map of Israel and Jodan, by Arnold Fruchtenbaumから)創世記14章の、ロトとその家族がさらわれていく、五人の王たちが死海周囲の王たちと戦う行進経路にちなんで、名づけられたと言われています。シリアのダマスコから、バシャンのアシュタロテ、そして、ラモテ・ギルアデ、ラバテ・アンモン(今のアンマン)、そして次に向かうネボ、メデバ、ヘシュボン、ディボン、カラク(キル・モアブ)、タフィーラ、ショーバック、ワディ・ムーサ(ペトラ)、エラテ(アカバあるいはエイラット)へと向かっていました。翌日、17日にここを通りますが、丘や渓谷を越えながら、断続的に集落が数々と現われます。

 マダバは王の道沿いにある町ですが、モアブとエモリ人シホンの町境の町として登場します(民数21:30、ヨシュア13:9)。ルベン族の割り当て地にもなりました(ヨシュア13:9)。そして、モアブ王メシャがイスラエルとユダの連合軍と戦った時の記録「メシャ碑文」にもメデバが登場します。そしてイザヤ預言のモアブに対する宣告としても登場します(イザヤ15:2)。今でも、少なくとも紀元前13世紀まで遡ることのできる遺跡が発掘されていますが、基本的に今のマダバの町は、その遺丘の上に建てられています。

今も昔も、巡礼者が約束の地に思いを馳せた所

 この地域は先述のようにローマの支配下に入りますが、その前はペトラを首都とする、紀元前後に全盛を迎えたナバタイ王国の中に入っていました。そしてローマが東西に分裂した後のビザンチン朝の時に、ここに数々の教会が建てられることになります。多くの著名な教会の監督や殉教者を出しました。しばらく廃墟となっていたこの町も、カラクに住んでいたアラブ人キリスト教徒にオスマントルコが移動の自由を与え、その時に住みつき、教会堂を建てていきました。その工事の時に、ビザンチン朝の時の教会堂の遺跡が発見され、数々のモザイクが発掘されました。それでマダバは、「モザイクの町」と呼ばれるようになります。

 これらの教会堂の遺跡の一つに、1890年に新しい教会堂建築中に見つかった「マダバ地図」があります。紀元後560年頃のもので、当時の聖地巡礼地図であり、レバノンからエジプトまで描かれており、エルサレムは詳細に大きく描かれています。したがって当時のキリスト者たちも、今、私たちが、この町やネボ山にキリスト者として来て、約束の地であるイスラエルに想いをはせたのと同じように、この町にいたのだということが分かるのです。20-21日に私たちはエルサレム旧市街を闊歩しましたが、特に21日、ユダヤ地区のカルドの横を何度も行き来しました。カルドとは、(21日の旅行記で詳しく説明しますが)古代ローマの都市の中心部を南北に貫く基幹道路のことです(ウィキペディア)。紀元後六世紀辺りの、ビザンチン朝のエルサレムにもカルドがあり、そこに大きく、主が十字架で死なれ、葬られ、甦られた場所にある聖墳墓教会が書かれています。その他、聖書的に大切な所が大きく記されており、まさしく私たちが現地旅行社から受け取る、聖地巡礼の地図と同じ役割を果たしていたのです。

マダバ地図の全体図

 私たちはビジターセンターの裏の駐車場から、みやげ物屋の通りを経て、聖ジョージ教会へ歩きました。(→マダバ市内地図(地球の歩き方E04から))私は6年前ここを通りましたが、その光景が「ああ、戻ってきた」と記憶がよみがえってきました。町の様子はとても柔らかった、余裕があったと覚えていますが、キリスト教徒が多いからなのでしょうか。そして聖ジョージ教会に到着しました。ちなみにこの教会は、単なる遺跡ではなく今も礼拝している教会です。そして建物の前には、教会内にあるモザイクの全体図の説明があります。ここでラエルさんは、たっぷりと聖書の説明をしました。説明は動画にゆだねます!(なお、気をつけたいのは上が東になっていています。)


(訂正1:「カナがレバノン南部にあった」と言っていますが、もちろんガリラヤ地方にありました。
 訂正2:「イエス様がフィラデルフィア(アンマン)に行った」と言っていますが、デカポリス地方の一部は行かれたものの、そこまで深く行かれたとはあまり思えません。
 訂正3:モアブとエドムの境は山ではなく、川です。)

 このモザイクは、ずばり、「イエスが歩かれた」という意味の「聖地」だということ。


 この時期、もちろん航空地図などありません。写真も撮れません、それなのにこれだけ精密な地図を描けたということが驚きです。ちなみにマダバ地図について、これ以上詳しいサイトはないと思われるものを紹介します。

a virtual travel guide to THE MADABA MAP Holy Places

 そしてなんと、旅行仲間のたけさんが、ご自分の旅行記で詳しく写真付きで、マダバ地図を解説してくださっています。

マダバのモザイク地図

 ラエルさんはたっぷり説明してくださいましたが、あとで私に「ちょっと情報多すぎたかな?」と耳元で囁いてきました。私は、「いや、たくさんの情報は良いこと。あとは時間の管理だね。」と答えました。そう、間もなくお昼の時間です。教会内での閲覧は10分ぐらいでざっと見ました。



 その他Bibleplaces.comで購入した写真集から、以下の写真をアップしました。クリックしてください。
(南側から撮影アイノンとベタニヤベニヤミンとアリマタヤ死海1死海2死海3エリコ1エリコ2エルサレム1エルサレム2エルサレム3エルサレム4ヨルダン川とベタニヤヨルダン川とアイノンユダヤと死海エルサレムと死海ナイル川北エルサレム地図の北の部分南とエジプトタマルとモアトランスヨルダン

2.ネボ山
2010年の旅行記
ウィキペディア

マダバからレストランまで(Google Map)

 ネボ山への道は私たちの考えるような「山」と呼べるような登坂はありません。なぜなら、モアブ高原の端で、ヨルダン渓谷のあることによって、周りが低地となっていることで山になっているからです。マダバからの道を走っていると、一気に視界にモアブの草原またヨルダン渓谷が見えてきました。いよいよネボ山に近づいています。その手前にあったMazayen Nebo Restaurantで昼食です。このレストランが圧巻でした、なんと、食べている窓全景が、ネボ山のピスガの頂ではないですか!ここからモーセが約束の地を眺めました。実は、ガイドさんに「上まで行ってしまうと分からなくなるから、どこかで停まって、ピスガの頂を撮影できるようにしてほしい。」と言おうと思っていました。ところがレストランそのものがその絶景を用意しているのでその必要がありません。(クリックすれば実寸で見られます。)


 手前が私たちのテーブルですが、奥の二つのテーブルにいる東洋系の旅行客は、中国本土の教会の人々でした。熱心に、中国語で祈りを捧げていたのですぐに分かりました。イスラエルに中国からの巡礼者たちが増えていることは聞いていましたが、早速ヨルダンのほうでお会いできるとは。私たちが日本から来て、クリスチャンであることを告げ、共に兄弟姉妹であることを喜びました。

 食事の味は良かったです。私はヨルダンの料理も、イスラエルに負けず劣らずおいしいと思います。どちらも似ています、中東系ですね。ただイスラエルは、帰還民なのでもっといろいろあって、そしてサラダやヨーグルト、チーズなど女性受けするような、ヘルシーなものもあります。

 ところで、ヨルダンに来て2010年の旅で経験したことを思い出しました。ホテルでも外のレストランでも、「飲料水はすべて有料」ということです。水もただではありません、必ず買います。このことを旅行仲間に前もって言うのを忘れていました。ですから、自分の持っているペットボトルを持ってくるとよいというアドバイスをしました。そしてそしてもう一つ、ヨルダンでは高級ホテルなどは違うと思いますが、「トイレの紙は、便器に流さない。」ということも伝えていませんでした。下水の管がトイレットペーパーを流すことができるところは、実は世界中で一部だけです。中国の多くがまだそうですし、韓国もここ20年ぐらいのことだと思います。備え付けのごみ箱に入れるようにします。

聖書にある「ネボ」

 そしてネボ山に向かいました。ラエルさんによると、「ネボ」の由来は「モアブ人の交易の神様」だったとのこと。王の道にも位置するこの町から、モアブ草原やヨルダン川の向こうのカナンの地を眺めることができ、それで交易の神「ネボ」であったとのこと。

 このネボは、イスラエル人の約束の地への旅で、イスラエル人がモアブの草原に宿営する途上の道でありました。「アルモン・ディブラタイムから旅立ってネボの手前にあるアバリムの山々に宿営し、アバリムの山々から旅立ってエリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原に宿営した。(民数33:47-48)」すなわちイスラエルの民はまずアバリムの山々に来て、それから草原に降りたことが分かります。そして「バモテからモアブの野にある谷に行き、荒地を見おろすピスガの頂に着いた。イスラエルはエモリ人の王シホンに使者たちを送って言った。・・(民数21:20-21)」とあります。すなわち、モーセがネボ山のピスガの頂に来て約束の地を見ましたが、それがここに来た最初ではなく、既にイスラエルの民はここに来て、そこからエモリ人の王と戦い、そしてモアブ草原で宿営したという順路を辿ったようです。

 そして、エモリ人の王シホンを打ち破った後に、この高地やギルアデの山地全体を見て家畜に適しているとして相続しました。その時にネボの町も挙げています(民数32:3)。それでルベン族の割り当て地の中に入りました(民数32:38)。そして先に言及した「メシャ碑文」によれば、このモアブ人の王メシャ(2列王3章)がネボも含めて奪い取ったと言っています(「そしてケモシュは私に言われた。「行け、イスラエルからネボを奪え」。そして私は夜に出て行き、戦い- 夜明けから正午に至るまでこれと-、私はこれを手にし、そして私は全住民を殺した。」)それで、モアブに対する宣告として、イザヤもエレミヤもネボを挙げています(イザヤ15:2、エレミヤ48:1,22)。したがって、ネボはモアブ人にとって重要な町の一つであったことが伺えます。

 ところでモアブは、その北の境に変遷があります。イスラエル人が荒野の旅をしている時は、アルノン川が北の境でした。アルノン川がエモリ人との境であると民数記21章13節には記しています。27‐30節には、シホンがモアブからメデバ等の町々を奪ったことが記されています。けれども、イスラエルとユダの南北王国時代にメシャがそこを自分たちの地にして、それがアッシリヤやバビロンが来るまでモアブの町であったことが分かります。

 ネボに戻りますが、興味深いことに、私たちプロテスタントは正典とは認めていないけれども、重要な歴史的文献としては価値のある外典「マカバイ記」には、この場所のどこかに、預言者エレミヤが幕屋と契約の箱と香壇を洞窟に入れたと書かれています(2マカバイ2:4‐8)。

 そしてネボ山の尾根にピスガ(頂上)があります。尾根には複数の頂があり、バラクがバラムを雇って、モアブの草原にいるイスラエルの宿営(民数22:1)を眺めながら、祭壇を築いて呪おうとした時に行った所です。

 「バモテ・バアル(22:41)」:東にあるピスガです。なぜなら、イスラエルの宿営の一部しか見えなかったからです。「神がのろわない者を、私がどうして滅びを宣言できようか。(23:8)」
 「セデ・ツォフィム(23:14)」:ここでも一部しか見えませんでした。「ヤコブの中に不法を見いだせず、イスラエルの中にわざわいを見ない。(23:21)」
 「バアル・ペオル(23:28)」:ここはネボ山の最も西の頂上であり、今、モーセが約束の地を見たピスガの頂、私たちが今、向かっている所でしょう。そこからモアブの草原全体また、死海の向こう側に広がる「荒地(23:38)」を見おろすことができます。「なんと美しいことよ。ヤコブよ。あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。(24:5)」

フランシスコ会の敷地

 ネボ山に到着すると、二つの記念碑による入口がありました。ラエルさんは、私たちがクリスチャンのグループであることを私に確認して、それからキリスト教会(といっても、カトリック)とここのつながりを説明します。(音声
 

 音声の内容を聞くと、ウィキペディアに出ている情報とほぼ合致しています。「1933年、山の頂上部、シャーガ (Syagha) で[5]、教会と修道院の跡が発見された[6]。その教会は初め、4世紀後半にモーセの死の場所をしのんで建てられた。教会の構造は典型的なバシリカ様式による。教会は5世紀後半に拡張され、西暦597年に建て直された。教会については、西暦394年に一人の女性、エゲリア (Aetheria) の巡礼記に初めて記載された。モザイクで覆われた教会の床下からは、天然の岩をくり抜いた6基の墓が発見されている。現在も、年代の異なるモザイクの床の断片を見ることができ、現代の教会は、その場所を保護して、礼拝の空間を備えるよう建設されている。」「2000年3月20日、ヨハネ・パウロ2世は巡礼の中で、聖地(ヨルダンで最も重要なキリスト教霊場の1つであるネボ山)を訪れた。訪問時、ヨハネ・パウロ2世は ビザンティン様式の礼拝堂の側に平和の象徴としてオリーブの樹を植えた[7]。教皇ベネディクト16世は、2009年5月9日、この地を訪れて演説し、エルサレムの方向を山頂から眺望した[8]。」

 そしてその教会には入れませんが、ヨルダン観光省が他の教会から一部のモザイクを移動して展示しています。(音声 05:35辺りから)

 先のマダバでラエルさんが説明していましたが、モザイクは当時、今で言う絨毯のような役割を果たしており、その芸術性が尊ばれていました。そして、教会ではパラダイスの様子を想像したものだと言います。それから、モザイクは着色ではなく、石そのものに色があるので、何年経っても脱色はないとのことです。

 そして、モーセが見た約束の地を展望するところに移ります。(音声 07:10辺りから)



 標高が海抜約700メートルなのに対して、死海が水面下420メートルですから1キロ以上の標高差があります。そしてヨルダン川、エリコ、そしてエルサレムの位置も示してくださいました(上のパノラマ写真では見えています)。その他、クムランの洞窟、ベタニヤも指しました。この荒野はペレアという、と言って締めています。そしてNETというサイトでは、衛星写真でモーセが見ていた約束の地を次のように見せています。

モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデ(Gelead)をダン(Dan)まで、ナフタリ(Naphtali)の全土、エフライム(Ephraim)とマナセ(Manasseh)の地、ユダ(Judah)の全土を西の海まで、ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアル(Zoar)まで。そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。」(申命記34:1-4)山地などがあるので、それで遮られている部分があります。

 ここから私が話しますが、重要な所、そして私の聖書メッセージについてですが、旅行仲間で映像に撮ってくれた兄弟がいます。私の説教ノートをご紹介します。

 特に4節「あなたはそこへ渡っていくことはできない。」
モーセが約束の地に入れなかった理由を探る。

1)新しい世代にある古い性質
 民数20章「メリバの水」10‐13節
 モーセが民に対して怒った。
 時:第一の月(約束の地に入る最後の年)
 場所:ツィンの荒野(カデシュ・バルネアはこの荒野にある。19日に通過。)
 機会:新しい世代が、古い世代と同じように不満を鳴らした。
→ しかし主は、怒っておられなかった。「聖なる者としなかった。」
  主は、罪を負わせるのに四十年を定めておられた。(民数40:34)
  ご自分で、四十年後の新しい世代には命を与えると決めておられた。
2)主の始められる新しい事
 主は、バビロン捕囚においても新しいことを行なわれた(エレミヤ29:10‐11)。
 罪を問われる期間は七十年であり、七十年が満ちれば将来の希望を与えられる。
「イザヤ43:19-20見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
 主は、ご自分の時にキリストに神の怒りを受けさせた(ローマ3:26)。
 したがって、新しくされている。
「2コリント5:17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
→ 私たちは自分の古い性質に落胆し、がっかりするかもしれない。また、他人の変わらぬ姿を見て、いら立つかもしれない。
  しかし、主は確実に新しい者として見ておられ、ご自分の業を行なっておられる。大事なのは信仰だ。




 この後、とても面白い議論が始まりました。マヘルさんがショート・メッセージを聞き、それをラエルさんにかいつまんでアラビア語で説明したのでしょう。お二人で熱心に、話し合っていました。バスに戻ってから、マヘルさんが、何を話していたのか説明してくれました。「二人ともムスリムで、モーセが約束の地に入らずに死んだことについて、今、聞いた話とは違う理解をしています。」とのこと。私も興味津々でした。ラエルさんは本当のことを言わず、ジョークを飛ばしました。「モーセが約束の地に入れなかったのは、彼が失敗したからではない。神は、モーセをヨルダン人にしたかったからだ!ヨルダン領内で死に、彼がヨルダン人になるようにするためです!」なるほど!(笑)そしてマヘルさんが、ムスリムの理解を教えてくれます。「コーランには、モーセがここで死んだこと、約束の地に入れなかったことについて書いているが、なぜかは書いていない。基本的に預言者は、神の言葉を取り次ぐ者だから、間違いを犯すということは考えていない。」へ~、そうなんだ!という感じでした。私は後ろを振り返り、仲間にはこう説明しました。「私たちキリスト教の理解は、『神のみが義』だということです。どんなに偉大な預言者であっても罪を犯すことが、聖書には厳然と書かれています。神だけが無欠であり、すべての人が神に罪を犯しました。ゆえに、どんな人も自分で罪を償うことはできず、だから代償による罪の赦し、つまりキリストの十字架が必要なのです。」

 今回は、とても友好ムードで、ムスリムからイスラム教のことを聞き、また私たちが自分の信じているキリストへの信仰をお話しできたのは、とても有意義でした。

おまけ:民数記の分かり易い説明ビデオ
 初めの旅行記三日間は、民数記の後半20章から36章までを網羅しています。そして四日目19日は、イスラエル側で民数記13-19章の「パランの荒野」の出来事に触れます。Bible Projectというところから、各巻を分かり易くアニメで説明していくビデオの民数記をこちらでご紹介しましょう。(「言語」の選択で、日本語もあります!)


3.ヨルダンの向こう岸ベタニヤ(Bethany Beyond the Jordan)
2013年の旅行(イスラエル側)
ヨルダン政府のサイト

ネボ山とベタニヤ(Google Map)
(ネボ山から出ている道路から40号線、そして65号線に右折して、どこかで左折して向かったのだと思います。)



 ビデオで見るようにモアブ高原へ下っています。ベタニヤの辺りは海抜マイナス350メートル、アンマンは900-1000メートルで、150メートル毎に気温が一度変化しています。したがって9-10度の違いがあります。地中海性の気候なので、パパイヤとかバナナ、マンゴが育ちます。冬にも野菜を育てて、湾岸諸国などに輸出しているそうです。気圧もかなり違うので、ネボ山から持ってきているペットボトルがへこんでいました!事実、ヨルダン政府は紅海で潜水した人には、同日にアンマンに戻らず、一日置いてからきなさいと勧めているそうです、気圧の変化で体調を崩すからだそうです。

考古学発見の豊富なヨルダン側

 ベタニヤは1996年から開かれました。イスラエルとの軍事境界地域であったため立ち入り禁止であったところ、オスロ合意によって開かれて考古学者の発掘が進みました。アラビア語ではここを「マグタスAl-Maghtas」というらしく、「潜る」とか「沈む」という意味があるとのことです。つまり、バプテスマ(浸す)を意味している言葉を使用しています。これからの訪問と説明で分かってきますが、2013年にイスラエル側から訪れたのとは大きく様相が異なります。イスラエル側は、実際にバプテスマを受ける人々が訪れる場所の色彩が強いですが、こちらは遺跡が豊富に出てきたところ、キリスト教の様々な教派が教会堂を立て、主ご自身のバプテスマを記念する所であることが分かります。

「ヨルダン川の東岸からバプテスマを受けられた」主張の根拠

この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。(ヨハネ1章28節)」

 主イエスが、バプテスマをヨルダン川の東側から入られて、ヨハネからバプテスマを受けられたとする根拠は、聖書から、また考古学の発見から見いだされると言われます。大事なのは、旧約時代からのつながりです。

 第一に、神の約束の中に入るという象徴が、ヨシュアたちが東からヨルダン川を渡り、約束の地に入ったということが挙げられます。第二に、預言者エリヤはヨルダン川の東にある町、ティシュベ出身であり、彼が天に引き上げられる時に、ヨルダン川の西から東に渡り、そして引き上げられました。霊の二倍の分け前を下さいと要請した、後継者でありエリシャは、そこから再び、ヨルダン川をエリヤの外套を打つことで分けて、そして約束の地に戻りました。(2列王2章)第三に、新約時代の幕開けであるバプテスマのヨハネの登場は、「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし(ルカ1:17)」と予告されています。第四に、エリヤからエリシャに受け継がれた預言の働きは、ヨハネからイエス様に宣教の働きが受け継がれる型になっていたということです。エリヤが神の裁きとその火が預言の特徴であったのに対して、エリシャは苦い水を甘くしたり、命と慰めを与える預言が中心でありました。第五に、ヨハネはエリヤと同じように、そして上に引用したヨハネ1章28節の言葉のように、ユダの荒野のみならず、ヨルダン川の東岸での預言活動に活発でした。そして第六に、イエス様は、ヨハネからバプテスマを受けられます。

さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3章13‐17節)」

 ここで、イエス様がガリラヤからヨルダンにお着きになったと書かれている所で、ガリラヤから来られる時に、ヨルダン川の東岸のペレヤにほうに舟で渡って、それからユダの荒野の方面に再度渡河して、エリコからの都上りをしたのではないか、と言われています。ですから、イエス様が東側から川に入られたという可能性が大きいのです。さらに、「イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていたところに行かれ(ヨハネ10:40)」た、とあります。それまではエルサレムにおられたので、やはりヨハネのバプテスマの場所は、東側から行なっていたと考えられるのです。

 これが聖書からの根拠ですが、初代教会以降のビザンチン朝時代の教会の跡がどんどん見つかったことから(イスラエルからも見つかっているけれども、こちらのほうがずっと多い)、こちら側で行われていたと信じられていたことが分かります。観光に力を入れているヨルダン政府は、キリスト教徒に聖地としてアピールするため、この地の宣伝を大体的に行なっています。こちらのサイトをご覧ください。

The Authentic Baptismal Site

この中で見物は、ユーチューブ動画にあるドキュメント映画です。

The Documentary

 福音派の神学校の教授の説明、様々な教派の指導者、考古学者、国王、皇太子までが出る、かなり力の入った探求をしています。

ヨルダン川までの歩行

 敷地の入口に来ました。ここは、まだイスラエルとの国境近くで軍事的理由から、別のバスに乗り、ガイドもここ専門の人が付くそうですが、たまたまいなかったのでしょうか、そのままラエルさんと一緒に行けるようになりました。その途中で、右に見えたのが以下の遺跡です。「エリヤの丘」と呼ばれます。エリヤが火の戦車に乗って天に昇ったことを記念して建てられた教会跡です。修道院、導水橋、井戸もあり、洗礼場もあります。

 ほぼ全ての教派がここが実際、主がバプテスマを受けられた場所であるとみなしており、数々の教会堂を立てています。そしてしばらく行って、バスから降りました。そして、しっかりと水蒔きのされている植物に囲まれ、屋根までついている遊歩道を歩きながら、進んでいきます。外は確かに、10度近く気温が上がっているでしょう、日本でいうなら梅雨直前、五月の汗ばむ季節、あるいは初夏に近い暑さでした。


 下の動画を見てください。洗礼を記念する遺跡に向かう途中に、早速ヨルダン川が見えました。これだけ細くなっており、蛇行しています。向こう側はイスラエル領ですが、正面に見える教会堂はヨルダン領内のものです。


 道を歩いている途中、マヘルさんに昔の巡礼者はどうなっていたのか、と尋ねたところ、「十字軍時代にもいたけれども、恐れた地元民に殺された人もいる」そうです。そして、オスマントルコ時代の後は戦争状態の中、立ち入ることができなくなったとのことです。

 そして上のビデオでも確認できるように、ヨルダン川の左右は森林地帯になっています。こういったヨルダン川周辺をアラビア語でZor(ゾル)と呼び、川の氾濫によってできた平らな地域です。180メートルから1キロの幅を持つと言われています。古代から濃い茂みになっているそうです。野生動物が棲息するところとなり、19世紀の探検家によると、ライオン、虎、熊、ハイエナ、ジャッカルなどを目撃したそうです。旧約聖書に、預言者を殺した獅子やエリシャの呪いによって現れた熊などが出てきますが、やはりいたんですね。聖書ではここを、「ヨルダンの密林」と呼んでいます。「見よ。獅子がヨルダンの密林から水の絶えず流れる牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう。わたしは、選ばれた人をそこに置く。(エレミヤ49:19)」

 そして、「バプテスマのヨハネ教会」の跡を見ます。

 ラエルさんがここでじっくりと説明します。「ヨハネがここでいた理由の一つが、ここが交易路であったからだ。ここから西はユダヤ、エルサレム。ガリラヤは北にある。その間はサマリヤですが、ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪かったので、迂回していて、そしてその旅の道がここであった。そしてもう一つの理由は、ローマ当局に逮捕される危険があったから。彼は指名手配されているような状況であった。それでこちら側にいた。そして先に説明したように、川は細いは川床は広い。当時は、多くの山が多くあるので水が流れ込み、氾濫があった。水のある場所もそれゆえ動いていった。イエスがヨハネからバプテスマを受けられた場所が、ここである。冬、雨季はヨルダン川は濁流で入るのは危険だ、バプテスマを授けるには難しい。だから、泉のある清流にあるところ、安全なところを選んだ、それがここである。夏季は川そのものに行って、バプテスマを授けた。そして、ビザンチンの教会堂は普通東にアプス(至聖所)があるが、西側になっている。なぜなら、ここはイエスがバプテスマを受けられた所が東側にあり、西側から階段があり降りて行くようになっているためだ。手前の小さなチャペルはイエスが衣をを脱がれた。すでに四回は氾濫で壊れていると考えられる。」

 そして、ここから、階段のある洞窟が見えました。ヨハネが寝泊まりしていたところという伝承があるそうです。巡礼者が使っていました。


 そしてさきほど向こう側に見えた教会堂(バシリカ)のほうに歩きます。

 興味深いのは、この小さな遺跡においても、低いところから発掘されたものと、高いところから発掘されたものには時代の差があるということです。

 そしてついにイスラエルに面するヨルダン川に着きました。

 見てのように、川幅が5メートルもないのではないでしょうか。向こう側から、韓国語で賛美する声が聞こえます。2013年には、私たちがそこでバプテスマ式を行いました。写真のを見てください、手前にある水溜は、定期的に取り替えている、ヨルダン川の泥水を濾した水だそうです。幼児洗礼など、浸礼ではない方法で洗礼を授ける時に使われるようです。ここで、バプテスマを受けたい人がいるか尋ねましたが誰もいませんでした。それで私がここからメッセージをします。


 マタイ3章13‐17節「ガリラヤからヨルダンにお着きになり(13節)」

1A 御霊による働きの約束
1.約束の地の手前(モアブの草原 民数22:1、25:1;ヨシュア2:1「シティム」)
  主からの約束を受けて中に入っていった。
  ヨルダン川の渡河は、肉は死に、御霊によって生きる。
2.エリヤからエリシャへの預言の働き(2列王3章)
  エリヤは、ヨルダンの側で生まれ、育った(1列王17:1)。
  エリヤとエリシャは、ヨルダン川を東側に渡り、そこでエリヤが昇天する。
  そこからエリシャがヨルダン川を分けて、約束の地に入る。
→ エリヤが火による神の裁きを示したが、エリシャは命を与える働きを行なった。
  苦い水を甘くする、パンを与える、落ちた斧を持ちあげる、など。
3.バプテスマのヨハネとイエス
  ガブリエルが父ザカリヤに、「エリヤの霊と力で主の前ぶれ(ルカ1:17)」をする働きをすることを語った。
  そしてヨハネは、使徒ヨハネの福音書1章28節、10章40節にあるように、ヨルダン川の東でバプテスマを授けていた。(西のほうでも、もちろん活動していた。ヨハ3:23。)
  そしてヨハネが斬首されたのも、マカリエスでヨルダンのほうだ。
  ユダの荒野でも活動していたが、東側にいることは彼にとってもっと普通だった。
  バプテスマのヨハネは、神の怒りを宣べ伝えたが、イエスは命の働きをされた。
→ エリヤとエリシャは、バプテスマのヨハネとイエスの型であった。
  そして、イエスご自身も聖霊を受けて、聖霊に満たされた命の働きをされた。
→ 人として生き、聖霊に満たされて、人々に寄り添う宣教を行なわれている。

2A 人と一体になられた方
1B キリストとの一体
バプテスマというのは、キリストに私たちが結び合わされたことを示すものだ(ローマ6章)。キリストの死とよみがえりに、私たちがあずかる。
2B 人々への宣教
しかし、イエスがバプテスマを受けられた時は、「神と人と一つになる」働きへのバプテスマであった。私たちの弱さ、愚かさ、頑なさに付き合う働きである。ゆえに、私たちは慰めを受け、力を受ける。

 私は見えていませんでしたが、嬉しいですね、後ろでバプテスマを受けている方々がいる中で、バプテスマの意味を話していたんですね。ちなみに、ヨルダン側からバプテスマを受ける人は少ないそうです。イスラエル側には、シャワー室なども完備されていますが、こちらは教会堂を建てるほうに力を入れていて、あまりバプテスマ後のことを考えていない感じです。

4.死海ホテルへ
Dead Sea SPA Hotel

ベタニヤから、Dead Sea SPAホテルへ(Google Map)

 そして私たちは急いで、バス停留している所に戻りました。予定を変更して今日、日没前に死海遊泳をしようということになりました。バスは、65号線をまっすぐ南下します。まさにそこは、ヨシュアたちがヨルダン川を渡る手前に宿営した、先ほど説明しました「モアブの草原」です。その間、ラエルさんが死海の説明をしてくださいました。その塩分濃度は海水の十倍あると言われています。「舐めてください」と勧めていましたが、私は「いや~、気をつけてください。」と思わず口を挟んでしまいました!ミネラルの数は26種類あります。皮膚病には死海の水は良く、その泥も良いです。気持ちは浮遊に向いていますが、死海の聖書背景をここで説明しておきましょう。

・シリア-アフリカ大地溝によって、ガリラヤ湖、ヨルダン渓谷、死海、アラバ、紅海は低くなっており、死海は海面下420メートルという、世界の陸地で最も低い地点。
・ヨルダン川などから水が流入するが流出するのは水の蒸発のみ。したがって塩分やその他の鉱物が残り、塩濃度30パーセント。
・聖書での呼称:「塩の海」(創世14:3,申命3:17)、東の海(ヨエル2:20,エゼキエル47:18、ゼカリヤ14:8)、アラバの海(申命記3:17,2列王14:25)
・五人の王と四人の王の戦い(創世14:1-12)
・イスラエル部族の境界(民数34:3,ヨシュア15:2,5,18:9)
・御国において死海は癒え、魚も棲む(エゼキエル47:6-12)

 ホテルに到着して、ホテルの部屋に荷物を入れてすぐに水着の用意をします。日没が近かったためです。急いで行ったところ、なんとなんと、死海のところまでの距離が長いです。これはイスラエル側のホテルでも起こっている現象であり、死海の水位がどんどん下がっているためであり、元々作っていたビーチよりも低くなってしまったためです。


 水は、さすがに冷たかった!日没が近いし、気温の上昇はここ二日ぐらいの間でのことだからでしょう。泥パック用のバケツもありました。泥を塗りたくって、また入りました。兄弟といっしょに浮かび、イスラエル側まで行ってみようかと冗談を言いながら、結構な時間を過ごしました。上がってみると、なんと水が出ると思っていたシャワーがでない、プールサイドのシャワーまでさらに上っていきました。サービスとしては、やはりイスラエル側のほうがいいですね。


 夕食の時、睡魔が襲ってきました。ご夫婦二組と話している間に、目が閉じていきました。部屋に戻って寝ようと思いましたが、いや、明日のデボーションとメッセージの準備があります。次第に目が覚めてきて、準備を済ませた後、寝床に付きました。