イスラエル旅行記 2月23日 - ガリラヤから死海へ
1.ヨルダン川沿い南下
2.カスル・エル・ヤフドで浸礼式
3.エリコ
4.クムラン
5.エン・ゲディ
6.死海でミーティング
1.ヨルダン川沿い南下
ホテルからカスル・エル・ヤフドまでの行路(Google) (注:ホテルから時計回りではなく、反時計回りでガリラヤ湖畔を南下しました)
ヨルダン川沿い地域の説明(2010年旅行)
ついに私たちは、ガリラヤ湖から離れ、死海方面に向かいます。この日は一気に南下し、時間がかかるので7:30にホテルを出発しました。時間節約のため、いや、小雨が降ってきたのでバスの中で、ヨシュアさんがデボーションを導きます。ルカによる福音書の冒頭から、イエス様を正確に知ることの必要性と、それをこの旅行で果たせる意義をお話しになりました。
私たちは何と恵まれているのだろう、と思いました。私たちがガリラヤを旅行している時は雨が降らなかったのに、出発するときに雨が降り出しました。これから南下するので雨に降られることはまずありません。そしてすごいのは、この日から三日間沙漠地域にいるのですが、その間にエルサレム地域に雨が降っていたそうです。私たちが行く所を晴れにしてくださる神の御手を感じました。
ホテルから湖畔西側の道路を南下し、ティベリアを通過します。ティベリアの街中は、安息日なので当然ながら閑散としていました。そして南端に来ました。イスラエルに地に初めて興されたキブツ「デガニア」の前を通りました。恭仁子さんは、キブツはイスラエル国よりも二倍の長さの歴史を持っていると強調されていましたが、ここは1910年に始まったそうです。そして次に、ガリラヤ湖からヨルダン川が始まる所を通りました。2010年の時の様子はこちらにあります。その時は、ポンプでガリラヤ湖からヨルダン川に水を流していましたが、たしか湖水面が上昇したので、上の部分でもつながっていたような気がします。そして右折して南下です。
ここから、二時間ほどずっと90号線を走ります。ここは、基本的にヨルダン川沿いにありますので、左手にはヨルダン川が流れており、バスは停車しませんでしたが、聖書的には実に長く、濃厚な歴史を持っています。冊子の一部を紹介しましょう。
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神が、ヨシュアによってヨルダン川を渡る、ということが起点となり、約束の地の境であり、約束の地を入ることの象徴的意味を持ちました。ゆえに、エリヤやエリシャの預言活動がこの地域で盛んに行なわれたのです。また、ヨハネと主ご自身も、今度はエリヤとエリシャの預言の成就として、ここで活動しました。そして川はもちろん自然の境になりますから、この川の東西で戦いが繰り広げられました。
しばらくして、ヤムルク川がヨルダン川に合流する地点が右手に見えました。そこに遠くにヨルダンの国旗や国王の肖像の見えるところがあります。ここは2010年に訪問していました。
本当はギルアデ山の麓にあるハロデ(2010年旅行)を訪問したかったのですが、浸礼式またエリコに訪問するという旅程のため、ここは時間的に行けませんでした。そして、ヨルダン川の西にある唯一のデカポリスの町ベテ・シェアン(2010年、2008年)も行けません。恭仁子さんによると、そこに入場するのにまた別の乗り物に乗らなければならなくなって(?)、それで訪問客がひどく減ってしまい、ガイドたちが抗議しているとか。
そして、私は見えてくる名所を少しずつ説明していきましたが、ヨルダン川越しにはギルアデの地が見える・・はずでした。けれども靄がかかっていて見えなく、残念でした。ギルアデも聖書には数多く出てくる大切な地域です。
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そして、ベテ・シェアンの街中を走りぬけ、右横にギルボア山が見えました。それからさらに行くと右手に「アベル・メホラ」という、エリシャ出身の町がありました。南下するに連れて、緑が少なくなっていきます。なつめやしの木もちらちら見え始めてきました。そして90号線の回りの畑はがらっと代わります。ユダヤ人ではなくパレスチナ人による農場になっているからです。
そして、アダムのあったところまで来ました。ヨルダン川の向こうには、ヤボク川があります。ギルアデは山地になっているので、渓谷を使ってヨルダン川にまで降下しますので、父祖アブラハムがここで渡り、そして西にあるシェケムに向かったと考えられます。ヤコブも同じく、ヤコブ川沿いのペヌエルで御使いと格闘し、エサウに会い、そしてここを渡って、シェケムに行きました。ここにシェケム行きの看板もありました(パレスチナ自治区に入っていきます)。そしてこのアダムは、イスラエルの民がヨルダン川を渡るときに、ここに水の堰ができたところです。ギルガルのあったところから40キロはあるでしょうか、その乾いたところをイスラエル人が一気に渡ったのですから、エリコの住民もさぞかし恐ろしかったに違いありません。
ここら辺でパレスチナの子たちが羊を飼っている群れに遭遇しました。
両側には、パレスチナ人のお店が並んでいて、またバス停留所で待っているアラブ人(ムスリム)女性の姿も見受けるようになりました。到着まで間もなくです。
2.カスル・エル・ヤフドで浸礼式
カスル・エル・ヤフドの説明(Bibilewalks.com, Travelujar)
エリコを右手に見ながら、左に曲がります。どんどん、ヨルダン川に向かっていきます。回りは完全な荒野で、何もありません。そう、これからキリスト教会が、イエスがバプテスマを受けられたところとして記念している「カスル・エル・ヤフド(Qasr
Al Yahud)」に行きます。私は以前、二度、ガリラヤ湖南端、ヨルダン川が始まったところにあるヤーデニット(2008年の旅)に行きましたが、そちらはもしかしたら、ナアマンが七回浸かったところに近いかもしれませんが、イエス様が受けられたのはずっと南、こちらのユダの荒野に近いヨルダン川においてです。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。(マタイ3:13)」私たちが通ってきたほぼ同じ道を、主も通られてここまで来られました。
ところで、「洗礼」という言葉はよく知られていますが、それはキリスト教の伝統で「適礼(数滴の水を頭に振りかける)」時に使われてきたものであり、聖書的には「浸礼」であります。ギリシヤ語の「バプテスマ」の元々の意味は、「浸かりきる」という意味であり、旧約時代におけるユダヤ人の水の洗いも、また新約におけるバプテスマもみな全身浸かるものでした。なので題名を敢えて「浸礼式」と書きました。
ここの近くには、教会の跡がいくつかありますが、六日戦争後にイスラエルの主権下に入りました。けれどもイスラエル軍の完全な管轄下にあり、一般の人は出入りできませんでした。2000年にヨハネ・パウロ二世の訪問を契機に一般の人にも開放されました。イスラエル軍の兵士は数人見かけましたが、様子はいたった平穏です。到着したら、ヨルダン側の浸礼場が真向かいに、目と鼻の先にあります。私は感慨深くなりました。「そうか、こういう濁った川に主もお入りになったのだろう。」ということです。ヤーデニットにおけるヨルダン川の水は透き通っていますが、こちらは荒野の砂を運んでいるので濁流になっています。
今回、バプテスマを受けるのは昨夜、救いの証しをしてくださった野島さんと、ヨシュアさんです。「あれ?ヨシュアさんはもうバプテスマを以前に受けたんじゃないの?」という疑問を持たれた方は、以下の動画をご覧ください!聖書から説明しています。
外気は荒野にいますので暑いぐらいですが、ヨルダン川はそのまま二月の冷水でした。とても冷たかったです。それから、川底がふにゃふにゃ泥だったので、中にきちんと入ることができませんでした。けれども、主はすばらしい!無事にバプテスマを受けることができました。この後、バプテスマを受けたばかりの野島さんにも手伝ってもらって、ヨシュアさんにバプテスマを授けました。その後、ヨシュアさんはこれから牧会の働きのための備え、御霊の満たしのための祈りを皆で捧げました。そして我々水に浸かった三人は、シャワー室&着脱所で着替えて、そのままバスに乗り、エリコに向かいます。
3.エリコ
エリコの説明(Bibleplaces.com, NET, SED, 和田幹男神父のページ(ただし年代設定に意見相違あり)、ウィキペディア)
冊子からの抜粋
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カスル・エル・ヤフドからエリコまでのの行程ですが、Googleではどうしても実際の道路を指してくれません(こちら)。おそらくパレスチナ自治区内にあるからでしょう。確か、90号線を再び少しだけ北上して左折(右折すると、ヨルダンとの国境アレンビー橋につながります)、まっすぐエリコ中心街に向かったと記憶しています。
エリコは1999年の旅行で一度、行ったきりです。まだ第二次インティファーダの起こる前で、自治区とイスラエルの検問がもっとも緩く、イスラエル人とパレスチナ人の往来もかなり自由だった時のことでした。2010年にもアーノルドは行くのを控えていたので安全に対する懸念があるのだろうと思っていましたが、ホーリーランド・ツーリストの石田さんによりますと、かなり自由に行き来できるようになった、とのことでした。そこで、上の冊子の抜粋にあるように、聖書的に、また考古学的にも極めて重要なこの町にはぜひ行かせたいと思って、旅程に組んだ次第です。
自由になったと言えども、まだイスラエル人は自由に入ることができない状態です。恭仁子さんはイスラエル国籍を持っているため、ここで旦那さんのヤコブさんと下車して、パレスチナ人ガイドに代わらなければいけません。2008年の時にも立ち寄った90号線沿いにある休憩所で、待ち合わせをしました。
そして本来なら、イスラエルのバスも自治区に入ることができません。けれども、運転手のタイシルさんは、アラブ系イスラエル人で、かつムスリムの方です。なのでそのまま入ることができる、という得点がありました!ここから、パレスチナ人ガイド、アハメドさんが恭仁子さんの最前列の席に座り、その向かいに私の妻、多栄子がその英語を通訳します。バスは、一直線のところを走っていきました。途中からイスラエルの道路がなくなり、自治区の道路に変わっていきました。予測はしていましたが、風景もがらっと変わります。同じアラブ人の町でもナザレとも大きく違い、やはり経済格差の違いを感じさせる風景へと変わっていきました。検問所は極めて簡単、停車することもなくそのまま進みます。
アハメドさんの説明は、まずエリコが三つの町があることから始まりました。旧約時代のエリコ、新約時代のエリコ、そして今のアラブ人の町のエリコです。道路は中心部に進んでいきますが、そこはもちろん今のエリコの町です。そして、観るべきところとして、「ザアカイの木」、エリシャが水を清めた「エリシャの泉」、旧約のエリコの遺跡「テル・アッスルターン」、主が受けられた「誘惑の山」そして、美しいモザイクのあるイスラム王朝の作った「ヒシャーム宮殿」だそうです。
中心街を通ると、2010年のナブルス(シェケム)への旅を思い出す光景が出てきました。自治区の首都ラマッラよりはずっと小さい町という印象です。う〜ん、こういう雑多な風景はいいな!と思いました。けれども、後でどんどん喉が痛くなってきました。おそらく乗り物の排気ガスで空気が汚れているのでしょう。
地球の歩き方の地図
初めに、「ザアカイの木」に連れて行ってくださいました。ここはもちろん、ザアカイがイエス様を見るために、よじのぼったいちじく桑の木のことを指しています(ルカ19:1-10)。ネットで調べてみると、エリコに残る最古の木の一つだそうです。新しいエリコ、エルサレムへの道、ザカリヤの家と思われるところから出てきた遺物などを説明してくださいました。
みながここで写真を撮った後で、アハメドさんに「では、ここは新約のエリコなのか?」と質問しました。彼は、「はい」と答えました。ただ上の地図にあるように、ヘロデの冬の宮殿の遺跡が西に2キロ程離れたところにあります。新エリコと旧エリコ、今のアラブの町の位置関係の、細かい部分を知りたかったですね。
次に、「テル・アッスルターン」に向かいます。バスは、観光案内所の建物の横の駐車場に停まりました。そして横断歩道を渡って、遺跡に入ります。
アハメドさんの説明ですと、考古学者キャスリーン・ケニオンによるとエリコには23の文明があり、中青銅器時代(1500年辺り)の遺跡を発見、世界最古の町1万5千年前の町を発見した、とのこと。けれども、「中青銅器時代」というのは考古学者の間で大きな論争があることは、よく知られています。ヨシュアがエリコを陥落させたのは、聖書記述に従えば、後青銅器時代の1405-7年辺りでなければいけません。初めにここを発掘した、ジョン・ガースタングはその時代であるとしました。けれども、キャスリーン・ケニヨンがこれを1500年のほうに動かしたのです。そして、ヨシュアがここに来た1400年辺りにはエリコの町はなかった、という結論を出しました。それが考古学者の一般見解になっていたのですが、1990年にブライアント・ウッドという考古学者が自らの発見を発表、ケニヨン女史の見解を覆し、ガースタング氏と同じ結論に至ったのです。それが論争の火種となりました(参照:Ancient Puzzle)。ブライアント・ウッド氏の講演の動画がありますし、Wikipediaもあります。
そして興味深い動画をユーチューブで見つけましたが、聖書記述との整合を分かりやすく説明していました(こちら)。これからアハメドさんの説明する遺跡と同じものがたくさん出てきます。大事なのは、1)土塁が擁壁の外側に落ちている、壁が崩れ落ちたことの証拠。2)火によって焼かれた穀物などが発掘された層がある、ということです。ヨシュア6章24節に、「彼らは町とその中のすべてのものを火で焼いた。ただ銀、金、および青銅の器、鉄の器は、主の宮の宝物倉に納めた。」とあるとおりです。遺跡を見る前に、私のほうからエリコの聖書的意義を説明しました。(動画は音声が悪いので、こちらに音声だけ録ったものがあります。)
ウェブ上に、遺跡の地図がありました。
まず見たのは、紀元前3千年(?)の時の住居です(地図の6)。ヨルダン川の東を向いているので、ラハブの家はこの辺りにあったのではないか、とのことです(ヨシュア2:15)。
次に見たのはキャスリーン・ケニオンが発掘した、塔です(地図の1)。
町を守る塔です。中青銅器時代のもので8メートルの高さがあり、中に22段の階段があります。向こう側に町の二つ目の門があり、墓地があります。23の文明があったことが知られています。1メートルが1文明で、最古がナトュフ期のもので1万5千年前のものです。他の遺跡は中青銅器時代のものだそうです。(ネットで調べる限り、塔そのものは紀元前八千年ぐらいのもの、という説明がありました。)
そして二つの写真を見てください。
上の写真のところが城壁(地図の11)で、その手前(右側)に下の写真の遺跡があります。
ここは城壁の正門だったところです。泥で出来ていました。その内側にこのように家屋の生活の跡が残っています(地図の10)。部屋と台所が見えます。旧エリコはどんどん拡がっていきました。城壁は最初は泥でしたが、後で石で作り始めました。人々は、洞窟で住んでいました。一キロぐらいの洞窟が、誘惑の山のところにあります。洞窟の住居から円形の住居へ、そしてこのような四角形の住居に移りました。
下のところに行って、初青銅期の擁壁を見ます。その途中で、下のようにロープウェイが誘惑の山に上って行っている姿を見ました。今回は誘惑の山には行きません。
次の写真は、外側から見た初青銅期の擁壁の姿です。
初青銅期では泥の壁(地図の11)だったのが、中青銅期では石の擁壁でした(地図の12と14)。この壁の後ろに部屋がいくつかあります。そして階段状に城壁を作っていたとのことです。ここからエリコが非常に強大な町であったことがわかります。ガイドの説明にはありませんでしたが、泥の部分の壁は石の擁壁から倒れた跡が残っているとどのサイトにも書いてありました。つまり、城壁の崩れ落ちた跡と考えられています。
毎年、発掘が行なわれていますが、八ヶ月前に新しく発見されたものは公園の外から見ることが出来(地図10の手前)、エリシャの泉にまで至ります。ですからこの泉は当時の町の中にありました。
下はエリシャの泉です。
かつては塩分が大きく、農業用水にもなりませんでした。エリシャが泉に奇蹟を行ないました。塩を投げたところ、泉が飲むことができるようになりました(2列王2章19-22節)。この水が飲める証拠に、石についている黒色の点々として生き物であります。この泉は灌漑に使われ、また黒いパイプは家庭飲料水に使われます。ここに泉があるので、エリコはオアシスだと言われています。そして写真を見ていただければ分かりますように、兄弟たちが水を飲んでみました。「飲める!」と言っていました。
駐車場に戻り、そこでアイス休憩、そしてお土産を少し買いました。
4.クムラン
エリコからクムランへの行程(Google 注:エリコは中心部からの元来た道を戻りました)
恭仁子さんとヤコブさんと合流しました。彼女から、「ガイドはいかがでしたか?」と聞かれて、私はちょっと言葉に詰まりました。恭仁子さんのすばらしい説明と比べてしまったからです。英語を介して、ということがあったのはそうなんですが、以前、ベツレヘムでのパレスチナ人ガイドのことを思って、かなり大雑把な説明してしかしてくれなかったという不満が残りました。裏返すと、恭仁子さんのすばらしい説明には本当に感謝しました。
90号線を南下し、1号線にぶつかりました。この1号線はエルサレム、そしてテルアビブにまで延びるイスラエルの中央線であり、エリコからエルサレムまでの道、その渓谷はガリラヤからユダヤ地方に来るユダヤ人が、往来していた上り坂(下り坂)でありました。ここをアドミムの坂と呼びます(2010年の旅「ユダの荒野」)。あの良きサマリヤ人の設定は、この坂で起こりました。あまりにも高低の差が大きく、環境の変化が激しく、大変な行路だったことでしょう。今回はここの道路を走れないのは残念ですが、次回は通っていきたいと思います。
ここ一帯は、「ユダの荒野」です。冊子の説明をここに抜粋します。
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恭仁子さんの説明によると、地中海からの水分を含んだ空気が、ユダ山地にぶつかったところで全て雨となって降ってしまい、乾燥した空気だけが死海方面に流れてくるので形成された荒野であり、地形的にはツィンの荒野やパランの荒野と分類が異なるそうです。
かなり靄がかかっていて死海がよく見えません。けれども、死海の北西に位置するクムランに到着しました。恭仁子さんが再びすばやく、レストランの場所を変えて、クムランの公園内のところで食べることが出来ました。これで次の目的地エン・ゲディに、閉門前に入ることができます。クムランの説明は、2008年の旅行、2010年の旅行があります(どちらもまとまって、詳しく説明していますのでお読みください)。そして冊子の抜粋を紹介します。
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次は恭仁子さんの説明です。「これから見る遺跡は、共同生活の場である。食事をして、沐浴で身を清め、共に学び写本をしていった。寝泊りは、あちこちにある洞穴や、空き地に仮の庵を立てていたか、であった。二世紀ぐらい、都が陥落する二年ほど早く68年にローマに焼き払われた。そういうことが将来起こることを予想して、大切な巻き物をあちこちの洞穴に隠した。今の私たちには想像できないような、書物、文化的水準の高さ、その巻き物が命よりも大切だったことがある。それが思いがけないことから、二千年後に見つかった。
エルサレムには、主なものだけでも21の宗派があり、パリサイ派やサドカイ派もその中に含まれる。それ以外に、イエス様やバプテスマのヨハネのように、個人的に数人を引き連れて、町から町へ巡り歩き、人々を教えていた革新的な人々も大勢いた時代である。多くの人たちが、もう一度自分の宗教生活に立ち返り始めた時代である。
ここに移り住んだ人々は、都で何不自由ない生活をしていたが、ここから都まで30キロぐらい、歩いて一日かかるところまで来て、何もないところに男子だけの共同生活をする覚悟を決めたのは相当なものであっただろう。社会的エリートではなく、霊的エリートになろうとした。非常にユダヤ教の戒律を守るのに熱心であり、この沙漠に沐浴で身を清める習慣を身につけており、それほど広い敷地に、階段の付いている沐浴の装置がある。水の中に入る階段と出て行く階段は異なり、それは身を清められた状態を保つためである。昼間は、羊を飼ったり、植物を育てたりして肉体労働にいそしんでいたが、夜になるとオリーブ油で芯を灯した燭台によってひたすら聖書の写本をしていた。
この写真が発見される前は、一番古い写本は今から千年前のものであった。イエス様の死後千年も経ったもので、文書に対する疑義も出てくるが、イエス様がこの世に登場される前後に書き記されたものと、千年前のものとが全く変わりがなかったというのが、大変画期的な発見であった。最初の七本の巻き物は、国立公園の外にある洞窟で見つかり、羊飼いが見つけた。」
私が、「彼らはエッセネ派ですよね?」と尋ねると、「今はクムラン教団がエッセネ派ではないという人までいて、喧々諤々になっている。」との答えでした。へえー!であります。
そして次の写真は、「運河を引いては、共同生活の真ん中に水をもってきたもの。奥深い貯水槽は、イスラエル王国時代からあったものを改造したものだ。ちょっとした一年に200ミリ程の降雨量でも、一気に川となって流れ、その水を一滴も漏らさずに溜めるというのが、マサダもそうであるが当時の方法であった。
向こうにあるのは、階段のない貯水槽で、手前がミクバ(身を清める沐浴場)である。身を清める習慣は、今に至るまで延々と続いている。今の戒律を守る人々は、当時の彼らと着ているものが違うぐらいで、ほとんど同じである。
男子だけの共同体なので、カトリックの修道層を思い浮かぶが、禁欲生活である。跡継ぎについてだが、当時平均年齢が低かったので、親のいない子が多かったが、そういう子たちを集めて養って、教育を施していた。二百年続いていた。
そして次はワジ(涸れ川)である。緑が道のように並んでいるところが川が流れたことがあるところだ。ひとたび雨が降るか、あるいは隣町に雨が降っただけでも、ここが青空でも急に水が流れてくる。興味深いことに、ユダの荒野の死因の一位は溺死である。旅人は川底を歩いて旅をするのだが、あっという間に水かさが上がるので、逃げ切れない、ということである。
下は作業場であるが、十万個のナツメヤシの炭化したものが出てきた。エルサレムの死海写本館に展示してある。
「ここ死海地域は酸素が一割濃くなっている。それで私はくたびれたときに、家からここまで車で30分で来れるので、ここに来ると疲労の回復が早いような気がする。なぜなら、死海は低いところだからだ。」とのこと。お二人はアラッド(明日訪問)にお住まいです。
「そして次が、有名な第四洞窟で、どうやってあそこに出入りができたのだろうかと思う。昨日のアルベル山の断崖絶壁の洞穴に家族連れで住んでいたのだから、この位は何ともないのだろう。
破片であるが最も巻物が出てきたところである。共同生活の場に最も近いところであるし、大きな図書館になっていたのではないかと考えられる。旧約聖書のあちこちから、エステル記、ネヘミヤ記以外の書物がすべて断片的に出てきている。一番画期的だったのが、イザヤ書が最初から最後まで見つかったとのこと。それでも欠けているものでも、他の断片で補うことができた。
イザヤ書は、キリスト教の中では非常に大切な書物であり、イエス様の摩訶不思議な生涯をすべて預言している。それまでは今から千年前の写本だったので、「それでは、キリスト教徒が後で付け足したのだろう」と言われていたが、イエスがこの世に登場する前に住んでいた者たちが書き記したものと全く変わっていなかった。
後で見るが、第一洞窟では、山羊を探している羊飼いがやっとそこまで辿りついて、見つからないので石を投げてみたら、素焼きの壷に当たる音がした。中に入ってみると、七つの壷があった。蓋をそっと開けてみるといかにも古そうな巻物が入っていた。専門家でないから良く分からないから、ベツレヘムの骨董屋に持っていった。二束三文で買い取られてしまった。それを伝え聞いたエルサレムのスクニク教授が買い付けにいったら、法外な値段になっていた。それで大もうけした骨董屋は今は大きなお土産屋になっている。恥ずかしいのではなく自慢げに、先代の経営者の写真を掲げている。そしてその教授は、持っている財を工面して三本買い取った。残りの四本も家を抵当に出しても買おうとした。1947年11月、国連がイスラエル独立の決議を出す直前で非常に不安な雰囲気の中で、それも忘れてエルサレムとベツレヘムの間九キロを行き来した。そういうものにお金を貸すイスラエルの銀行も無く、そうこうしているうちにアメリカのある神父といっしょに流れていった。その先生は、イスラエルは世紀のの遺産を失ったと嘆きながら世を去ったが、1950年代に、イガエル・ヤディン教授、世界的に名を馳せた有名な考古学者が、− 彼はスクニク教授のご子息である − アメリカに客員教授に招かれていた時に、四本の巻物を売る新聞広告に目が留まった。行ってみると、父がくやしんで世を去ったその巻物だった、とのこと。非合法に持ち出されていたので、思ったよりは安かった。それでも二千万円ぐらいである。当時お金のないイスラエルは工面して買い付けた。最後は大富豪が全部それを出してくれた。それを入れておく、エルサレムの死海写本館も建ててくれたそうだ。
七本の巻物が揃った時点で大体的な発掘が始まった。イスラエル側は研究に留まり、ここは当時ヨルダン領であった。それでヨルダンのアンマンに、その王立博物館にわずかに死海写本が展示されているが、フランスの考古学者がヨルダン王国の支援の下に発掘した。1967年に、イスラエルのユダヤ人が絶対に行けないと思っていたこの場所が六日戦争の後にイスラエル領となり、その後、ここの石が一つだに動かされるものはなかったと言われるほど、発掘が進んだ。論文も一万冊ぐらい出てきて、その後意見も分かれて、今に至るまで、「いやエッセネ派でなかった」「エッセネ派にしては豊か過ぎる」「エッセネ派に近い貧しい集落がもう少し南のほうに見つかった」とか、研究が進めば進むほど、議論の的が増えてきた。今はインターネットでも、写本を閲覧できる。イスラエル博物館では、傷むのを心配して三ヶ月ごとに展示するものを変えている。」(こちらのサイトで、死海写本発掘の興味深い歴史を再読できます。)
そしてこの遺跡の復元をバーチャルに再現したサイトを見つけました。⇒ The Orion Virtual Qumran Tour, VirtualQumran.com
2010年の旅で行ったネボ山ですが、霞がかって、ネボ山どころか他のヨルダン山地も見ることができませんね、とおっしゃっていました。ここから、見通しの良いときは山頂の白い教会も見られるそうです。
そして出口に戻っていきましたが、歩きつつ、また説明をしてくださいました。「紀元前31年に大地震があり、全部壊れてしまったが、その時は仕方がないのでみなエルサレムに避難したが、その後また戻ってきて、再建して修行生活を続けた。紀元後68年まで住み続けた。」「イエス様は、バプテスマを受けたところでヨルダン川を越えて、エリコを通り、エルサレムに行かれた。イエスはしょっちゅうこの辺りを通られ、バプテスマのヨハネは短い生涯、ユダの荒野で修行した人なので、はたしてこの共同体の人たちとの接触があったのかどうか、何かそのようなことをほのめかしたものがないかどうか、大変な興味の的で、記したものは何も出てきていないが、接触があったことは可能性はある。」そして私が、死海文書を現代へブル語を読む人が読めるのか尋ねたところ、「手書きなので読みづらいが、読めることになっている。小学生の習うヘブライ語とその時のヘブライ語は同じだ。離散後、70年後には死語になり聖書だけの言葉となったが、独立するときに復活させた。」とのことです。
バスに乗って、先ほど説明のあった、羊飼いが初めに巻物を見つけた第一洞窟を見ました。
5.エン・ゲディ
クムランからエン・ゲディまでの行程(Google)
エン・ゲディの説明(2008年の旅、 2010年の旅)
冊子からの抜粋
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そして私たちは、さらにエン・ゲディに向かって南下します。国立公園は冬季は四時に閉まるので、三時には入っていなければいけません。少し前に到着することができました。けれども、公園の管理人の人は、「もうダビデの滝(三番目の、一番奥の滝)に行く時間はない」と言っていたそうです。それで入口を少し入った木陰で、手早く御言葉の奨励をしました。詩篇42篇「谷川の鹿」のことを少し話し、サムエル記第一24章の、ダビデがサウルを洞窟で見たときのことを話しました。
そして、私たちは急いで歩いていきました。ところが20分程歩いたら、何とダビデの滝まで到着してしまいました。私たちはなんと早く歩くのかと、改めて驚いてしまいました!私は、第二の滝のところに留まっている仲間を呼び寄せて、ダビデの滝は近くにあることを知らせました。
ここで長く時間を過ごして、降りていきます。正面には、下のようにきれいな死海が見えます。先にある見晴台の木は、主の幕屋の材料にもなったアカシヤです。
そして、ふもとに着いたら、すごいすごい、岩だぬき君たち(箴言30:26)がぞろぞろ出てくるではありませんか。アイベック(鹿の一種)もいっしょです。
恭仁子さんによりますと、閉門時間を冬季に早くさせる理由が、日没に近づくと活動を始める動物たちと人間の接触を減らすためだということです。なるほど、自然保護に注意を払っているのだなと思いました。
6.死海でミーティング
エン・ゲディからエン・ボケクまでの行路(Google)
さらに南下し、死海の南にあるホテル群がエン・ボケク(Ein Bokek)にあります。そこにHod Hamidbarというホテルがあります。おそらく今回の旅行でもっとも豪華なホテルであったでしょう。プライベートの死海ビーチはもちろんのこと、死海を使った室内プールやSPAもあり、お食事も格段上です。恭仁子さんとヤコブさんは、ホテルに泊まらず、ご自宅に帰られました。そして私たちは、問題が発生しました。ホテル側が、“安息日”だということで部屋をまだ掃除できていないということ、です。これも、ホテル側の言い訳だろう、というのが大方の見方でした。でも、イスラエルに行ったらこんなことは良くあるのは知っていたので、そんなものです。
荷物の置き場をすでに掃除の終わった部屋に集中させ、ビーチサイドでミーティングをしました。私が、死海東にようやく見えてきたヨルダンの山々を指し、そこがモアブの地であったことを教えていたのだと思います。
そして他の多くの人が期待していたのは、SPAでした。私はあまり期待していなかったのですが、いっしょに行ったらすごかった。死海のプールは浮かびました。そこに運転手のタイシルさんもいらっしゃいました。本当に彼のバスは安全運転で楽でしたが、恭仁子さんは彼を指定する理由の大きな一つが、「不品行をしない」とのことでした。しばらく家から離れていても、家族を大切にし、決してそんなことをしないのだということです。私も彼のことが気に入りました。
そして夕食の時間は、参加者の武田さんご夫婦と同じテーブルで、いろいろたくさん話すことができました。インターネットで私たちの旅を知って、今回始めて顔を合わせたのですが、本当にお会いできてよかったと思います。ご夫婦は一ヶ月のイスラエルの旅を組み、その真ん中で私たちの旅行を入れられました。かなり綿密な準備をされていて、私の紹介した場所を中心にすでに前もって各地を回っておられ、また旅行後も復習も兼ねて、尋ねた所も含めて回られたようです。
明日は日曜日、礼拝から活動が始まります!