2016年イスラエル・ヨルダン旅行記 2月17日

1.死海パノラマ
2.マカエラス
3.アルノン川(ワディ・ムジブ)
4.カラク
5.ゼレデ川(ワディ・ハサ)
6.ダーナ自然保護区
7.ショーバック城

8.ペトラのホテルへ

 私たちの旅行は、毎朝、デボーションで始めました。大体、6時過ぎに明石のルームに集合、賛美を二曲ほどして、それから御言葉を分かち合う時を持ちました。参加自由にしましたが、多くの方がいらっしゃいました。そして、御言葉の分かち合いは私と、星野さん、それから中村さんが持ち回りで取り次がせていただきました。Dead Sea SPAのホテルの二日目の朝は、私が担当しました。



1.死海パノラマ
ホテルからマカエラスまで(Google Map)

 私は旅行社に、死海のホテルからヘシュボンを訪問、それから王の道を南下する旅を希望していました。途中、マカエラスにも立ち寄りたいけれども遠望でよいと伝えていました。けれどもヘシュボンに行くとマカエラスに行くのは大きく遠回りになってしまいます(Google Map)。南下していくのは、そのままマカエラスに行くほうがよいとのことでした。実際に、ペトラまでの南下する旅なので時間的に無理があることも感じていたので、そうしましょうと答えていました。しかし私が知らなかったのは、現地旅行社の言っていたのは、本当にマカエラスに直接行ける道があるということでした。上にもリンクしたこのGoogle Mapをご覧ください。65号線を南下して、途中、東に曲がる道があります。「エバソン マ’イン ホット スプリング ホテル」というのがありますね、その辺りを拡大してみてください。実は、そこから南に右折して、マカエラスまで行く道があるのです。Google Mapではマダバまで行ってからマカエラスに行くというものすごい迂回の道を教えていますが、実際はこの、マインの温泉ホテルのそばを横切る南北の道を走ればよいのです。(それぞれの写真をクリックすれば拡大できます)

   
 マインのホテル辺りまで  マインのホテル辺りからマカエラス(Machaerus)まで

 ネットで調べると、ヨルダンで最も向斜の激しい道路だということで、ここの道路からの近道を話していたのでした。個人的には私にも、そしてグループ全体にも、大きなプレゼントとなりました。死海からの道は、死海とその向こうのユダの荒野の山地を眺める、最高のパノラマの風景が続いていたからです。そして、「ハママート・マイン」の近くを通るマカエラスまでの道も、非常に急な渓谷を渡るので、とてもきれいでした。

 死海のホテルから、死海パノラマまでの車内でのガイドの説明はこちらで聞けます。そして動画もあります(ホテルから65号線を南下 ・ 左折して上り坂)。

 ヨルダンの南北縦断道路は四つあるそうで、一番西にあるのはこの65号線、「死海道」です。そして、マカエラスが終わった後に通っていく「キングズ・ハイウェイ(王の道)」があります。上ったり下がったり、そして数多くの集落の中を通り、二つの大きな渓谷を通るので時間がかかりますが、聖書にも出てくる古代の道であり、多彩な景色が楽しめる見所です。そしてさらに内陸に「デザート・ハイウェイ」があります(空港からマダバに行く時に少しだけ使用しました)。アンマンからアカバまでひたすら沙漠の中を一直線に走ります。そしてさらに内陸、東にも道がありアズラック湿地帯から南に伸びている5号線のことだと思います。大型トラックのような車しか利用していないだろうとのことです。

 そして死海そのものについてですが、東西が12キロ、南北60キロです。しかし25年前は南北の110キロだったそうです(東西が15キロでした)。死海の水量が減っているからです。南側がなくなっていっています。死海は二つの湖に構成されていて、南のが浅いからです。北の部分は水深300メートルあります。

 そして上に書きました、内陸に上がっていく道についての説明ですが、日本政府のODAであるJICAが作った道路です(JICAによるYoutube動画)。)・・JICAのサイトに行きますと、確かにヨルダンには多大な経済・技術援助をしているようで、ヨルダン(国王)の優れた外交力と、日本国の、経済・技術における中東へのコミットメントの凄さを思わされます。そしてどんどん今、その道路を上がっているその山地があり、そして死海の向こう側、イスラエル側のユダの荒野の山地がありますが、このヨルダン渓谷がシリア・アフリカ大地溝帯の中にあることを説明してくれました。ヨルダン渓谷は560キロですが、大地溝帯は6000キロでトルコからシリア、そしてヨルダン渓谷、紅海、そしてアフリカ大陸のモザンビークまで及びます。そして、向こう側はアフリカ・プレートでこちら側はアラビア・プレートで、かつて一つのプレートが二つに分かれ、アラビア・プレートは少しずつ北に動いているとのこと。したがって、ヨルダンはいつかヨーロッパに到着するだろう、そうしたらアラブやめてEUだと冗談を言っていました。そして今、海抜マイナス420メートルから海抜800メートルまで一気に上っています。

 そして、その死海全景の見える場所で停車しました。カメラとビデオを撮っている兄弟だけ向こう端まで行ってもらい、しっかりと撮影をしてもらいました。


 そして、バスに乗った後で、ラエルさんはマカエラスについての説明をしますが、こちらがその音声です。けれども、説明をして間もなくして、ものすごい羊の群れに遭遇しました。



 そしてJICAによって作られたDead Sea Panoramic Museumという施設の前を通りました(Google地図)。そこからのパノラマ写真をこちらのサイトから見られます。

2.マカエラス(ムカウィール)
2010年の旅行

ハママート・マイン(Hamamat Ma'in)

 そしてマカエラスの説明を続けますが、マカエラスは次のハスモン朝のアレクサンドロス・ヤンナイオスによって紀元前90年頃に建てられました。その地形は非常に防御に適していて、また、東方からの攻撃が手に取るように分かります。また後にヘロデの砦となるハスモン朝の要塞が見えやすく、何が起こっているのか見ることができました。しかし、ローマのポンペイウスの総督によっ破壊され、その後、ヘロデ大王によって再建されます。ここは「ペレヤ」であり、東方からの外敵から守る要塞でありました。南には、ナバタイ王国がありますが、明日訪問するペトラは、その首府です。ヘロデ大王はナバタイ王国と良好な関係を結びました。ナバタイ王国は香辛料などを交易し、ヘロデも交易に興味がありました。それで、ナバタイ王国はヘロデにマカエラスの山に要塞を建てることを許可したのです。(注:とのガイドの説明でしたが、ヨセフスによるとアラビア人からの防衛のためにこの要塞を建てたことが書かれています。)特に彼が皮膚病があったので、療養のためにマカエラスの下にある温泉地も与えたそうです。それが「マイン」の温泉です。下の動画が、マイン渓谷へ向かっている途中です。



 温泉リゾートになっているそうです、最高温度が65度とのこと。黒い山が火山だそうで、そこから温泉が出ています。ホテルの向かいから、熱い温泉の滝が落ちているのも見えます。(けれども、上から落ちているのではなく、崖にある穴から噴き出ているそうです。)修行のように滝を浴びることができます。はるか向こうにうっすらと死海が見えています。


 そして渓谷を越えます。道路は、マヘルさんのご指摘のように「ここら辺から、JICAではなくヨルダンが作ったものでしょう」とのこと。中央分離線が右に左に寄って、一定でなくなっています。

 そしてマカエラスの説明を続けます。ヘロデ大王の死後、マカエラスはその息子ヘロデ・アンティパスのものとなりました。その時は軍事要塞だけでなく宮廷の色彩が強くなります。ヘロデ・アンティパスは、ナバタイ王国のアレタス四世の娘と結婚していました。しかし、異母兄弟のヘロデ・ピリポと結婚していたヘロデヤと恋仲になり、ヘロデ・アンティパスはヘロデヤを自分の妻としました。しかし、ヘロデヤは女なので自分で離縁できません、しかもサロメという娘も与えられています。したがって、ヘロデヤはピリポと婚姻関係にありながら、アンティパスの妻になったということになります。ここからはよくご存知のバプテスマのヨハネの話になります。「実は、このヘロデが、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、――ヘロデはこの女を妻としていた――人をやってヨハネを捕らえ、牢につないだのであった。 これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です」と言い張ったからである。(マルコ6:7-18)」そして、あの有名な出来事が起こります。ヘロデヤの娘サロメ(ヘロデ・ピリポとの間に生まれた娘)が、宮廷で踊った時のことです。

ところが、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた。それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。ところが、良い機会が訪れた。ヘロデがその誕生日に、重臣や、千人隊長や、ガリラヤのおもだった人などを招いて、祝宴を設けたとき、ヘロデヤの娘が入って来て、踊りを踊ったので、ヘロデも列席の人々も喜んだ。そこで王は、この少女に、「何でもほしい物を言いなさい。与えよう」と言った。また、「おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう」と言って、誓った。そこで少女は出て行って、「何を願いましょうか」とその母親に言った。すると母親は、「バプテスマのヨハネの首」と言った。そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで王は、すぐに護衛兵をやって、ヨハネの首を持って来るように命令した。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女は、それを母親に渡した。ヨハネの弟子たちは、このことを聞いたので、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めたのであった。 (6:19-29)

 ナバタイ国王の娘も、ヨハネの言っていることに同調したので、牢に入れられていたそうです。ヨハネは殺されましたが、彼女は脱獄に成功しました。そしてペトラにいる父のところに戻ります。父アレタス四世は怒り、ヘロデ・アンティパスに戦いを挑み、エルサレムの城壁まで追い詰め、講和を約束させます。そしてマカエラスの話を進めると、アンティパスは後に流刑になり、ヘロデ・アグリッパ一世に受け継がれ、彼の死後、ローマの支配に入ります。しかし、66年のユダヤ人反乱によって、死海西側のマサダと同じように、マカエラスに篭城します。ローマ軍は包囲し、傾斜路を作って入り込み、残党に出ていくように命じます(自害したマサダとは違いますね)。そして、要塞を破壊し、基盤だけを残しました。(間もなく到着する動画



 遺跡に到着しました。バスが駐車場に停まり、ここから円錐形の高い丘を上らないといけません。ラエルさんは休憩、マヘルさんが同行してくださいます。


 当時の姿がどうなっていたかを見ないといけないでしょう。

 ユダヤ戦記(ヨセフス著)7.6.165以降から抜粋:「実際、その要塞の地形はそこを守る者には身の安全を確信させたし、攻撃する者には逡巡と不安を覚えさせるものだった。防壁をめぐらされた所は岩山で非常に高く、それだけでも攻略を困難にしていた。そのゆえ、その場所の地形が要塞への接近を難しくしていた。目の眩むような深い渓谷の至る所に壕が掘られ、その横断は容易ではなく、まして埋め立てなどは不可能だった。西側から要塞を囲む渓谷は60スタディオン(1スタディオンは約185メートル)伸びてアスファルティティス湖(死海を指す)に達している。この方面のあらゆる地点で、マカイロスの屹立した頂がもっともと高くなっている。北側と南側の渓谷は、規模の点では前述の渓谷に及ばなかったが、攻撃を同じく困難にしていた。東側の渓谷は深さ100ペークス(1ペークスは約45センチ)にも達し、マカイロスと向き合う山まで伸びていた。・・・ヘロデは、王になると、そこが何よりアラビア人の土地と近接しているために、最高の警戒を要し強固な防備施設をつくるに値すると考えた。実際そこはアラビア人の土地を望み得る便利な所にあった。そこで彼はその広大な場所を防壁と何基もの塔で囲み、その中に町をつくり、そこから尾根自体に通じる上りの道をつけた。ヘロデがしたのはこれだけでなく、頂きの周囲に防壁をまぐらし、その隅にそれぞれ高さ60ペークスの塔を建て、囲みの中央には大きな美しい部屋がいくつもある豪壮な宮殿をつくった。彼はまた雨水を受け、潤沢に供給するために適切な場所にそれを受ける施設を沢山つくった。あたかも彼は、自然と張り合い、これらの造営物で自然が授けてくれた難攻不落の土地を征服しようとしているかのようだった。」

 頂にある宮殿の復元図です(Bible History Dailyから)。クリックすれば拡大し、詳細な様子を眺めることができます。


 上の復元図を、下の遺跡で確かめてください。(Courtyard=中庭、Triclinium=トリクリニウム、Bathhouse=風呂場、Corridor=回廊、Storage rooms=保管部屋)


 ヘロデは確かに、豪壮な宮殿を建てました。真ん中にうん香(ルカ11:42参照)を育てる中庭、ローマ式風呂、食事を取るトリクリニウム、そして列柱郭(列柱のある中庭)を作りました。以下は列柱郭の復元図です、クリックして拡大してください(Bible History Dailyから)。


 この赤い石などは、発掘現場から見つかったのだそうです(Bible History Dailyから)。


 私たちは、トリクリニウムから入り、この列柱郭に行きました。


 この列柱郭こそが、サロメがヘロデの前で踊ったところです。マヘルさんが説明してくださいました。


 最後に見た、奥深い穴は貯水槽のようです。ここから私が話させていただきました。



 福音書にバプテスマのヨハネが斬首された所は書き記されていないけれども、なぜマカエラスであるのか?これは、ヨセフスの「古代誌」に書き記されているからです。

洗礼者ヨハネについての証言―ヨセフス『ユダヤ古代誌』18:116-119

しかしユダヤのある人びとには、ヘロデ✽1 の軍隊の敗戦は神の復讐であるように思われたが、確かにそれは「洗礼者 ✽2」と呼ばれたヨハネになされた仕業に対する正義の復讐であった。というのはヨハネは立派な人 ✽3であり、ユダヤ人に正しい生活 ✽4をおくり、同胞に対する公正を、 神に対する敬虔を実行し、洗礼✽5に加わるよう 教え勧めたのに、ヘロデは彼を死刑に処したからであった。ユダヤ人たちが洗礼 ✽6を受ければ神に嘉納されるであろうが、それは彼らが犯した何らかの罪の赦しを 得るためではなく、肉体の浄化のためであった✽7。 霊魂は正しい行いによってその前に浄められていたからである。さてその他の人びと ✽8も彼の言葉を聴いて大いに奮起 ✽9させられて彼のもとに集まったとき、ヘロデはヨハネの民衆に対する大きな影響が 騒乱をひき起こしはしないかと恐れた。彼らはヨハネが勧めることなら何でもしようという気持ちになっていたからである。 そこでヘロデは実際に騒乱が起こって窮地に陥り、そのとき後悔するよりも、彼によってひき起こされるかも知れない反乱に先手をうって、 彼を殺すほうが上策であると考えた。そこでヘロデの疑念のためにヨハネは前述した砦のマカイルス ✽10に送られ、そこで処刑された。
イエス伝 資料編」より

 そしてイエス様の心を考えました。ヨハネが先駆者となって、「神の国が近づいた。悔い改めなさい。」と言った後にイエス様の同じ御国を宣べ伝えらえました。そのためにヨハネは、斬首にあいました。イエス様はその知らせを聞いて、人里離れたところに行かれましたが、ご自身も同じ定めにあることを思われたのでしょう。悔い改めないで神の国を受け入れない世が、ご自身をも拒むことを思われたのでしょう。

 ヘロデは、イエスの行なわれる奇蹟やその教えに非常に興味を持ち、恐れていました。ヘロデヤが殺そうと願っても、彼が牢屋に入れて、殺さないように保護していたぐらいです。しかし、聞くことによって救われません。悪霊でさえも、神が唯一であると知っていて、恐れ震えています。ついにヘロデは、単なる興味へと変わり、イエスを殺したいとも思うようになり、またエルサレムにおいては、奇蹟を行なってくれるかと待っていたのに黙っておられたので、嘲笑して総督ピラトに付き返しました。使徒パウロも同じように、総督ペリクスに対して神の審判と節制を教えましたがが、彼も興味がありながらなおのこと退きます。信仰はただ聞くだけではなく、悔い改めと従順が必要です。

3.アルノン川(ワディ・ムジブ)
2010年の旅行

 私たちは丘から急いで降りて、駐車場に戻りました。バスの運転手さん、ラエルさん、警官の人、それからこの遺跡の管理者がテントの中でコーヒーを飲みながら談笑していました。バスに戻り、これから東に走って王の道に入って南下、アルノン川のほうに行きます。

マカエラスからアルノン川(Google Map)



 放牧に適した高地に入っていきます。キングズ・ハイウェイ(王の道)へ右折します。ラエルさんが再び車中で説明します(音声)。創世記のロトがさらわれる五人の王の戦いの時に使われたからということでその名が付いている古代街道です。民数記にモーセがこの名を使っています(21:22)。三つの国、アモン、モアブ、エドムがつながれていました。アモンの首府(今のアンマン)から、ヘシュボン(シホンの王の首府)、ディボン(今のディーバン)、アルノン、さらに南に、ラッバ、カラク(キル・モアブ、キル・ハセレテ)、ゼレデの谷、タフィーラ、ペトラ、そしてアカバ(アイラ)で紅海に到着します。そこからさらに南下、サウジアラビアの北西でこの道は終わります。この王の道について、現地の雰囲気を醸し出している紹介ページがありました。→ 「ヨルダンの道路事情 キングスハイウェイ

 そしてローマ時代に飛びますと、トラヤヌス帝が王の道を使って補修工事をして石畳にして、「全ての道はローマに通じる」とあるようにここを街道にしました。そして「マイルストーン」(Fransciscan Archaeology Society)を追加しました。上の「道路事情」にも説明がありまね、引用します。「ワディ・ムジブのダムから再び坂を登っているところに、写真の石柱が立っています。これはローマ時代のもの。ローマ帝国のトラヤヌス帝(治世98-117年)は、106年にペトラのナバタイ王が死んだのを機にこれを帝国に併合し、107年にアラビア属州を設立すると、旧ナバタイ国の二大都市ボストラとペトラを結び、すでに帝国下だったエジプトへ繋ぐべくアカバまでの道路を整備しました。ボストラとは現在のボスラのこと。そこから砂漠地帯をアンマンヘ突っ切り、あとはキングスハイウェイを整備してトラヤヌス街道Via Nova Traianaとしたのです。この石柱は起点からの距離を示す、いわばマイルストーン。ここがトラヤヌス街道であったことの証です。写真の場所以外にも、同じような石柱がありますので、キングスハイウェイを通る際は車窓にご注意を。」私もこれは見逃していました。マヘルさんが所々で、「今、あったかもしれない。」と言っていたのですが、よく知らなかったので注意していませんでした。(-_-;)


ヘシュボンとディボン

 そして私たちは、ディボン(ディーバン)を通過します。遺跡に連れて行ってくれるのかな?と思ったら時間がないようです、素通りしました。


 現在のキングズ・ハイウェイはこのように、小さな町々が断続的に出てきます。そして渓谷が数多くあるので、私たちのような観光目的の人たちは絶対こちらなのですが、南北を急いで行き来する人々はさらに内陸に入った、デザート・ハイウェイを使用するようです。このように高原が続き、のどかな風景があり、特にアルノン川とゼレデ川に挟まれたモアブの国は、その地形が彼らを敵から守っていました。翌日はペトラ遺跡ですが、そこも似たような問題があり、高い岩に囲まれて高慢になっているエドムの姿が、オバデヤ書に描かれています。

 今回は時間がなくて行けなかった二つの遺跡の紹介をします。一つは、アンマンのすぐ南にあるヘシュボンの遺丘発掘現場です(HISBAN Part of Madaba Plain)。

北から見るヘシュボン遺丘(Bibleplaces.com)


ヘシュボンの砦(Bibleplaces.com)


 ヘシュボンは、シホンが古代のモアブからアルノン川以北を取った後で首都としたところです(民数21:26)。しかしイスラエルが占領、ガドとルベン族の割り当て地の境となります(ヨシュア13:26-27)。雅歌には「魚の池(7:4)」と表現されているので、当時、池があったのでしょう。そして、この地は豊かな耕地で「ぶどう畑(イザヤ16章)」と呼ばれます。そして、アッシリヤのサルゴン二世によって、ヨルダン川東岸地域に住むこれらイスラエル人は、捕囚の民となります。その後、モアブが再移住します。けれどもエルサレムの破壊の二年前、紀元前588年にバビロンにモアブ人も捕え移されました。

 そして、もう一つの遺跡は、動画に出ていた通過していた町「ディボン」にある遺跡であります(Dhiban Excavation and Development Project)。ヨルダン観光局にあるディボン遺跡の説明を掲載しましょう。


 イザヤ書16章にも出てきた、そして上の説明にも出てきたモアブの神ケモシュの宮が、その土台が発掘されています。(Bibleplaces.com)



メシャ碑文
参照サイト:「聖書考古学資料館」「ウィキペディア

 このディボンからメシャ碑文が発掘されました。列王記第二3章に出てくるモアブ王メシャと、その碑文の比較をしてみるとよいです。イスラエルの王アハブが死んでヨラムが王になった時、モアブの王メシャが反抗したため、ヨラムがユダの王ヨシャパテに応戦を頼み、またエドムも参戦して、メシャと戦ったときのことです。エリシャがいやいやながら、この戦いについて預言しそれで勝利に終わりましたが、包囲されたメシャが何と、自分の長男を城壁の上で全焼のいけにえとして捧げました。これを見たイスラエル人はその残虐さに耐えられなくて撤退したという話です。その後、メシャが独立を勝ち取ったことを誇っている文がこの碑文にかかれています。「オムリはイスラエルの王であり、彼は長年に渡ってモアブを虐げていたが、このためにケモシュは憤っていた-彼の地に対して。そして彼の息子が彼の地位に君臨し、彼は同じく語った。「私はモアブを虐げるであろう!」。私の日々に彼はそう語った。しかし私は彼と彼の家を見下ろし、そしてイスラエルは敗北した。それは永久に敗北した!そしてオムリはメデバの地を奪い、彼はそこに居住した

 「オムリ」はアハブの父であり、アハブがモアブを虐げていたが、彼が死んだ後にメシャは歯向かいました。長男をいけにえにしたことによってイスラエル人が撤退したのですから、これを「イスラエルは敗北した」と受け止めてもおかしくありません。そしてモアブ人はモアブ人なりに、彼らの神ケモシュを信仰して戦っていたこともうかがい知ることができます。さらに、「メデバ」を始め、アルノン以北のミショルの町々が登場します。

 ディボンとアロエルを訪問した、考古学者Steve Collinsの聖地旅行でのビデオをこちらに紹介しておきます。


 団長として、時間があれば、このように、車中からでも遺跡を見るようにしたかったので、ここに書き残しておきました!そして、上のビデオではディボンの後、アロエルを見ていますがそこから、「アルノン渓谷(ワディ・ムジブ)」を眺めています。私たちは、この渓谷を降りて、下にあるムジブ・ダムを渡ることになります。

 そしてラエルさんの車中ガイドに戻ります(音声)。ディボンの町を通りすぎようとする時に、おそらくここら辺りをイスラエル人が荒野の旅で通ったのではないかと推測しつつ、話しています。イスラエルは、モアブの領土を通ることを、主によって禁じられています。「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫(注:モアブ人のこと)にアルを所有地として与えたからである。(申命2:9)」イスラエル人は、エドム人の領土も通ってはいけないとも命じられていたので、モアブとエドムの境になっていたゼレデ川沿いに歩き、さらに内陸は沙漠なのでそんな遠くに行かずに北上して、そしてアルノン川沿いを歩いたのはないかと思われます。モーセはエドム王に通過の許可を得ようとしようとしたけれども、入国を拒否しました(民数20:14‐21)。王国にとってこれだけ多くの人数、難民のような人々は受け入れられませんでした。

 そしてディボンの説明をしていますが、今の名前はディバーンと言いますが、モアブの首都はディボンから始まったと考えられています。大事な玄武岩の石柱が、モアブの神から王が力を受けるものがここで見つかったからだということです。そして、遷都が行われ、キル・モアブ(キル・ハセレテ)になりました。「キル」とは「都」という意味です。今は「カラク」です。

 そして「ワジ・ムジブ」に入っていきました!ダムが左手に見えていますが、そこまで降りて、それから右手の向こう側に見える道を上っていくことになります。


パノラマ写真(クリックすれば拡大されます)


 ラエルさんのアルノン川の説明(音声)を聞きました。「アルノンはヨルダンで最大の渓谷で、東西50㌔あります。いろいろな渓谷があって、それが合流して死海へと流れます。先ほど少し前に、小さな渓谷「イダン」があったのですが、このムジブに合流します。ここの深さは500㍍あります。ここから向こう側は直線で500㍍しかないのですが、車で走行すると9㌔あります。左の下に見えるのがムジブ・ダムで、15年前に造られ、320万km³です。地元では、「ヨルダンのグランド・キャニオン」と呼ばれています。そして下流には、ムジブ自然保護区があります。アイベックス(野鹿)などの野生動物が棲息しています。」

モアブの北の国境

 このようなはっきりとした渓谷によって、基本的にモアブの北の国境はアルノン川になります。「さらにそこから旅立って、エモリ人の国境から広がっている荒野にあるアルノン川の向こう側に宿営した。アルノン川がモアブとエモリ人との間の、モアブの国境であるためである。(民数記21:13)」 しかし、アルノン川以北のミショル(メデバの地)もモアブだったときがあるという記述もあり、ミショルについては行ったり来たりしているので混乱すると思います。モアブの国の変遷をまとめると次のようになると思います。

モアブの変遷
①レファイム人がバシャン、ギルアデ、アモン、モアブの先住民。(申命2:10‐11)
②ディボンを首府として始まる。
③エモリ人シホンによって占領される(民数21:26-30)
④キル・ハセレテへ遷都。
⑤イスラエル、シホンよりアルノン以北を占領。
⑥空白ができたのでモアブの王バラクが入ってきて、宿営のイスラエルを見る。
⑦アルノン以北は、ガドとルベン族の割り当て地。
⑧士師時代、モアブ人エグロン、ヨルダン川西のエリコまで占領(士師3:13)。
⑨ナオミの家族、モアブに住む。
⑩サウル、モアブ、アモン、エドムなどを制圧(1サムエル14:47)
⑪ダビデ、モアブの王に両親を託す(1サムエル22:4)
⑫ダビデ、モアブを制圧(2サムエル8:2)
⑬ソロモン、モアブ人の妻を取り、ケモシュの宮を建てる(1列王11:7)。
⑭モアブ王メシャが、紀元前852年アハブの死後、イスラエルに背く(2列王3:5)。
⑮アラムの王ハザエルが、ガドとルベンの地をアルノン川まで攻め取る。(2列王10:33-34)
⑯メシャ碑文によると、ミショルがモアブの支配下に入った。
⑰紀元前733年に、モアブがアッシリヤに攻められる(イザヤ15-16章)。
 「モアブの娘たちはアルノンの渡し場で、逃げまどう鳥、投げ出された巣のようになる。(16:2)
⑱アッシリヤに屈服するも、バビロンがアッシリヤを倒す。
⑲再びモアブの支配に。
⑳バビロンへの反乱に加担、紀元前582年バビロンに攻められる(エレミヤ48章)。

 その後、民族としては存在していたようです(エズラ9:1、ネヘミヤ13:23)。しかし、約500年後、ナバタイ王国の支配下に入ります。そしてローマ、ビザンチン朝、と続きます。そしてここで御言葉を分かち合いました。



 分かち合った箇所は、民数記21章10-15節です。「イスラエル人は旅立って、オボテで宿営した。彼らはオボテから旅立って、日の上る方、モアブに面した荒野にあるイエ・ハアバリムに宿営した。そこから旅立って、ゼレデの谷に宿営し、さらにそこから旅立って、エモリ人の国境から広がっている荒野にあるアルノン川の向こう側に宿営した。アルノン川がモアブとエモリ人との間の、モアブの国境であるためである。それで、「主の戦いの書」にこう言われている。「スパのワヘブとアルノンの谷川とともに、谷川の支流は、アルの定住地に達し、モアブの領土をささえている。」

 この箇所は、二つの出来事に挟まれています。エドムの地を迂回せねばならず、荒野の中で水がなく不平を鳴らしたイスラエル人に、燃える蛇が送られ、彼らが悔い改めた時に主が青銅の蛇を与え、癒されたこと。それからゼレデ川沿いを歩き、そしてこのアルノンの谷川の向こう側にまで来ました。そして、主がベエルという所に導かれ、そこで井戸からの水を与えられます。すなわち、荒野にいて彼らが罪の悔い改めと、青銅の蛇による罪の赦しと癒しを経験して、それで彼らは生きる水にあずかりました。そして、エモリ人の王シホンと戦います。私たちの霊的生活も同じです。明確な、罪の悔い改めと神の赦し(青銅の蛇は、キリストの十字架を示していました)があって、そして御霊による生ける水と、敵への勝利の生活があるということです。

マダバ県からカラク県へ(現代ヨルダン国の説明)

 そして私たちは、ムジブ・ダムのとこまで下がっていきます。ここでも車内で、ラエルさんの説明を聞きます(音声1音声2音声3)。このワディ・ムジブを越えると、マダバ県からカラク県に移ります。県は12あります。そして、今のヨルダンの国についての説明しています。正式名は「ヨルダン・ハシミテ王国」です。ハシミテ王家による立憲君主です。人口は950万なのですが、大量の難民が流入しているので1110万人ぐらいと推計されます。通貨はJD(ヨルダン・ディナール)です。国王はアブドラ二世(53歳)、王妃はラニアです。世襲制(長子が受け継ぐ)となっています。1946年に英国から独立、アブドラ一世でした。経済は貧しく、なぜなら石油が出ないからです。鉱物採掘が主要な産業です。第二は農産物輸出で、第三は軽工業、第四は観光業です、第五は貿易です。最近の中東の不安定化もあり、ヨルダンの経済は逼迫しています。借金によって成り立っており、アメリカを始め援助も受けています。公用語はアラビア語で第二言語は英語です。小学校一年生から英語を学びます。宗教は大半がイスラム教(スンニ派)で、キリスト教(東方正教とカトリック)です。基本的には信教の自由は認められています。(注:確かにヨルダンは穏健イスラム教の国ですが、宣教は非常に慎重に行なわれています。)イスラム教徒とキリスト教徒は基本的に共存しており、道を向かいにして教会とモスクがあることも全然珍しいことではないとのこと。姓や家系も同じなのに、キリスト教徒とイスラム教徒のどちらもいます。そして、自由貿易を標榜しており、私的企業や外貨投資も可能です。

 私がハシミテ王家のヨルダン国民の評価について尋ねました。非常に尊敬されており、ヨルダンのみならず中東でも高貴な家系とされているとのこと。ムハンマドの前からの商人の家であったそうであり、ムハンマドもそこから出てきました。国王はとても謙遜で、勤勉に働き、一般人の中に溶け込むこともあります。先代のフセイン国王から数多くの国々を回り、良い関係を結んでいます。貧しい国なので、外交がとても大切です。貧しいのに、インフラや水道や電気などの公共サービスは行き届いており、学校も全員の子が行けています。貧しい人々への家屋もあります。だから、サウジアラビアよりも良い生活をしているという気持ちにもなっているとのこと。そして王家については、役人になったり、企業人になることはできません。国民と競争相手になりません。慈善行為があり、誰でも王宮に行き、必要を訴えることができます。ヨルダン人は、「国王に直接会える」という思いがあります。フセイン国王もアブドラ国王も、タクシー運転手になってみたり、病院に患者のふりをして、実際の状況を見ようとします。また、王家は七つの部族にに支えられていると言われ、よく訪問し、安全保障について話すこともあるとのこと。ちなみに、アブドラ二世は実は英語のほうがアラビア語より得意とのこと。本当は違う人が王になるはずだったのが、フセイン国王がアブドラにしたこと。なので即位式の時にアラビア語がそれほどきちんとできなかったとのこと。今の関心は教育だそうで、これがきちんとできないとイスラム国など変なところに行ってしまう、など。

参考資料(ウィキペディア):ヨルダンアブドラ二世

 私がこの質問をしたのは、ヨルダンという国が聖地の一部だけでなく、いろいろな意味で思い入れがあるからです。一つは、アラブ反乱を描いた「アラビアのロレンス」が大好きなこと。2010年の旅行で、アカバにあるその発祥地を見学しました。次に、これまで何冊か中東戦争関連の本を読みましたが、ヨルダンは本当はイスラエルと戦いたくなかったこと。西側諸国の協力を得ながら現実路線を歩む王家によって成り立っており、ユダヤ人に対して親和的である面があります。そして三つ目に、ジョエル・ローゼンバーグ氏がアブドラ二世国王を称賛していることです。Inside the Revolution(革命の内部)にてアブドラ二世が穏健派として登場すること、そしてヨルダン政府によるキリスト教遺跡への情熱(昨日見た通りです)、また彼自身の自伝Our Last Best Chanceを読んだこと、それから、ヨルダンが親日であること(日本による圧倒的な技術・経済援助と日本皇室との緊密な関係)そして最後に、イスラム国と対峙する最前線の国であり日本も後藤健二さんの人質ビデオでヨルダンの役割がお茶の間にまで入ってきました(ジョエル・・ローゼンバーグの記事と邦訳もされた「第三の標的」)。

アル(アレオポリス)

 バスの中で説明をしている時に、右にローマの遺跡が出てきました。ここの町の名前は「エル・ラバ(er-Rabbah)」と言い、モアブのラバから取ったものです。カラクから来たに2キロでした。モアブのかつての「アル」であります(上のモアブの地図参照)。先ほど引用した民数記21章15節にも「谷川の支流は、アルの定住地に達し、モアブの領土をささえている。」とあります。ローマ・ビザンチン時代には、アレオポリス(Areopolis)と呼ばれ、その意味は「マルス神の町」という意味です。この宮は、元々ナバタイ人の宮であったところを改造してローマの宮にし、ディオクレティアヌス帝に捧げられたものだそうです。(紹介サイト


ルツの故郷

 そしてもう一つ、信仰者として思いを馳せるべきことはモアブ人ルツの物語です。


 上の写真のように、モアブの高原はとてものどかで、平らで、住みやすく、放牧に実に適している地です。ヨルダン観光局によるディボンによる説明にあったように、次の通りです。「聖書には、メシャ王について「モアブの王メシャは羊を飼育しており、十万匹の小羊と雄羊十万匹分の羊毛とを貢ぎ物としてイスラエルの王に納めていた」と記述されています(列王記下 3:4)。これは、ルツ記(ルツ記 1:1-5)にあるモアブの農業生産力の話と関連しています。」

さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。(1-4節)」右の地図のように、ベツレヘムからモアブまでは、エリコへの下り道、王の道へ、アルノン川を渡って、それでモアブに行ったのでしょう。

4.カラク
2010年の旅ウィキペディアヨルダン観光局

ムジブ・ダムからカラクへ(Google Map)

 そして私たちは、カラクに近づきます。次の見る所はカラク城ですが、その前に昼食を取ります(Al Mujib Hotelのレストラン)。


ようやく分かった、約束の地への旅ルート

 ちょっと混乱が現地旅行社とガイドとの間であったようで、私たちが到着してもまだ食事ができていませんでした。20分ほどここで待っている間に、ラエルさんはヨルダン地図を開いて、イスラエルの約束の地への旅程を説明してくださいました。これがものすごく良かった!新改訳聖書の後ろにある、出エジプトの経路の地図がなぜそうなっているのか、ようやく理解できました。まずこちらのリンク先を開いて、それで説明を読んでみてください。

 主は、イスラエルの民がかつて約束の地に入ろうと思っていたツィンの荒野のカデシュに再び宿営しました(民数20:1)。ミリヤムが死にました。そこでメリバの水事件が起こります(モーセが怒って、岩を二度叩く)。そこからそのままエドムを通って、モアブを通って、それからモアブの平原で宿営し、ヨルダン川を渡るという予定だったのでしょう。ところがエドム通過を拒みます(20:14-21)。それで迂回しなければなりませんが、途中、ホル山でアロンが死ぬことが神に宣言されました(20:22-29)。ホル山は、次の日、ペトラに入るところで見えたアロンの墓がある、Jabel Harunと言われていて、ワジ・アラバ(アラバ渓谷))の東端にあります(Google地図)。

 つまり、エドムの山々の縁に位置しており、そこから一歩戻って、北上してゼレデ川のほうに向かいます。死海西方にあるアラデの王が危険を察知し、戦いを挑みますが、イスラエルが打ち勝ちます(21:1-3)。ネゲブそれで、エドム山地沿いのアラバにある「葦の海(紅海)の道(21:4)」を通りました。そこで我慢できなくなり、不平を鳴らしたので青銅の蛇の出来事が起こります(21:4-9)。北上を続け、「ゼレデの谷」(21:12)に宿営します。ゼレデの谷は、エドムとモアブの境にあり、そこを通る分には、エドム領もモアブ領の中を通ることがなく進むことができます。そしてモアブ領沿いを周るようにして北上しています。なぜなら、それ以上内陸に入ったら沙漠になるので、難しいだろうということです。そして今度はアルノン川沿いの北側を西に向かいました。こうやってモアブの地も真ん中を通過せずにやってきたと言えます(21:13)。

 エドムを迂回し、またモアブも通ることなく北上する方法として、その境であり、また渓谷として歩きやすい所を通り、かつ内陸の沙漠はなるべく避けたということから、聖書にある地図にあるような行程になっているのではないかと思われるのです。

 食事が出来上がりました。地元では人気のある「マンサフ」です(写真の右側)。「マンサフ(Mansaf、アラビア語: منسف‎)は、伝統的なヨルダン料理のひとつ。発酵させた乾燥ヨーグルトのソースで羊肉を調理した肉料理で、米かブルグァ(火にあぶり乾燥させた麦を砕いたもの)と一緒に供する。マンサフはヨルダンの国民食。」とのこと。

 ちょっとだけ臭みがありましたが、全然気になりませんでした。が、マヘルさんは結構苦手だそうです。昔のおっさんたちが食べているところで、この臭いが充満している所を思い出してしまい、また昔はもっと臭いがきつかったらしいです。

カラク城

 バスは道路の路肩に停まるだけなので、数分しかいられませんでした。なぜなら、そこがカラク全体を眺めることのできる位置だからです。そのためラエルさんは、車中からカラクの説明を始めました(音声)。

モアブの首都、キリスト教徒の多い町

 カラクはヨルダンの中で最古の町で、高校が18世紀からのものがあるとか。歴史は、聖書時代のモアブの首都「キル・モアブ」あるいは「キル・ハセレテ」「キル・ヘレス」から始まります。今、カラクの町が建てられているこの丘(海抜950㍍、死海からは1340㍍)は、その台地が死海とユダの荒野を眺めることができ(写真)、三角形をしており、三方を深い谷間に囲まれ、東から外敵も遠くから見付けることのでき、かつ王の道に位置するという、軍事戦略上、極めて有利な自然の砦でありました。

 しかし、モアブ王メシャは、この都で自分の長男を全焼のいけにえとしてケモシュに捧げます。「さらに、彼らは町々を破壊し、すべての良い畑にひとりずつ石を投げ捨てて石だらけにし、すべての水の源をふさぎ、すべての良い木を切り倒した。ただキル・ハレセテにある石だけが残ったが、そこも、石を投げる者たちが取り囲み、これを打ち破った。モアブの王は、戦いが自分に不利になっていくのを見て、剣を使う者七百人を引き連れ、エドムの王のところに突き入ろうとしたが、果たさなかった。そこで、彼は自分に代わって王となる長男をとり、その子を城壁の上で全焼のいけにえとしてささげた。このため、イスラエル人に対する大きな怒りが起こった。それでイスラエル人は、そこから引き揚げて、自分の国へ帰って行った。(2列王3:25-27)」モアブの都の遺跡については、この町の下に今でも埋まっていることでしょう。

 そして、ギリシヤ時代にも、ナバタイ王国時代も、ローマ時代も町がありました。そしてビザンチン時代に、カラクに主教が置かれ、教会も多く建てられました。イスラム時代になっても、キリスト教徒が主にいました。そして、今でも人口の四割はキリスト教徒というヨルダンでもキリスト教徒の割合の多い町となっています。

十字軍の大きな歴史舞台

 ここを一躍有名にしたのは、十字軍によってであります。12世紀前半、ヨルダン側に進出した十字軍によって城塞都市の建設が始まりました。イスラム勢力にとってはは、十字軍の進出は不意打ちだったそうです。フランク(フランスのこと)がやって来たという認識しかなく、一致団結することがなく、瞬く間にエルサレムが攻略されたとのこと。そして、中東の町々は平地に城壁を囲んで、比較的ゆったりと暮らしていたのに対して、十字軍のそれは、武力勢力を駆逐する目的の、最前線の防衛ラインだったのこと。ゆえに「山城」と呈しているそうです。私が2010年の時の旅では、カラク城の正面のところで停車したのでこれだけがカラク城だったと思っていましたが、実は城塞の町としては、今のカラクの町全体がそうであったということです。確かに南端のカラク城のみならず、三角形に広がっているその町の周りに城壁が見えます。

 バスから出た私たちは続けてラエルさんの説明を聞きました(音声)。十字軍のエルサレム王国は防衛線として、北シリアのクラック・デ・シュヴァリエを築き、そこから南に向かっていくつもの山城を築きます。ヨルダンには四つの城塞しか残っておらず、ここと、ショーバック城(カラクの半分の大きさ)、それからペトラに二つあるそうです。



 そして十字軍について、後でマヘルさんがムスリムの見た歴史を話してくださいました(音声)。面白いので聞いてみてください。後でクリスチャンとしての立場を聞かれたのですが、私は、「全然、私たちの信仰とは相いれない存在です。武力で信仰を広めようとしている考えが、聖書に書いていないこと。むしろムスリムの人々には申し訳なく思う。」と返答しました。といっても、私も十字軍の成り立ちを勉強した訳でないので、勉強しないといけないなあと思います。この頃の、イスラム国による勢力の拡大と、欧米諸国に広がる反イスラムの団結を見ていますと、イスラム教とキリスト教の勢力圏争いのような様相を見せているからです。

 十字軍はいくつもの遠征がありましたが、エルサレム王国がイスラム勢力に取り返されたのは、第三回十字軍の時代においてです。カラク城での戦いがそれに絡んでいます。ここはシリアとメッカまたエジプトの間にあるため、隊商から通行税を徴収し、巡礼に対して圧力をかけることもできました。歴代領主の中で最も有名なのは、悪名高きルノー・ド・シャティヨンです。ルノーは、交易路を通る隊商を何度も襲い、メッカへの巡礼者までをも襲いました。それは、エルサレム王国のボードュアン四世とイスラム勢力のサラディンが和平を結んだにも関わらず、です。それでサラディンはカラク城を包囲しました。その報復として、サラディンが城を包囲、エルサレム王国のボードュアン四世がらい病を患っていたけれども自ら救援軍を送り、辛うじて守りました。(左は映画「キングダム・オブ・ヘブンから、カラクにてボードュアン四世とサラディンが休戦に合意。)

 その後、1187年にルノーはイスラム教徒の隊商への攻撃を開始し、捕虜にして、サラディンが返還を求めるも拒否しました。それで同年、サラディンはジハード(聖戦)を宣告します。しかしこの時、高貴な十字軍の勇士とも言われるボードュアン四世は病死し、美男子というだけで他に何の取り柄もなかったギー・ド・リュジニャンが王国の全権を持ちました。ルノーは、ギーのサラディンとの戦いに合流し、7月4日のヒッティンの戦いに参戦します。(2月22日の旅で訪問します。)ここで、十字軍とイスラム勢力とのいわば「関ケ原の戦い」の戦場となり、十字軍が大敗。それがイスラムのエルサレム奪還へとつながります。そしてサラディンは、捕虜に対しては生き残らせ、解放していましたが、このカラクの城主ルノーに対しては度重なる休戦協定を破っていたので怒り心頭しており、自ら斬首したと言われています。

 このように、カラク城は、ガリラヤ湖の西にあるヒッティンの丘の戦いに直結しており、そしてエルサレムが十字軍時代からイスラム時代に戻ったきっかけとなりました。ちなみに、この第三回十字軍遠征は、長編映画「キングダム・オブ・ヘブン」によって映画化されています。

 そして車中で、モアブに対する神の宣告を読みます。

イザヤ書15‐16章「モアブへの宣告」

モアブに対する預言ですが、そこに王の道沿いの町々が登場します。
モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅びうせた。ああ、一夜のうちにキル・モアブは荒らされ、滅びうせた。モアブは宮に、ディボンは高き所に、泣くために上る。ネボとメデバのことで、モアブは泣きわめく。頭をみなそり落とし、ひげもみな切り取って。そのちまたでは、荒布を腰にまとい、その屋上や広場では、みな涙を流して泣きわめく。ヘシュボンとエルアレは叫び、その叫び声がヤハツまで聞こえる。それで、モアブの武装した者たちはわめく。そのたましいはわななく。(15:1-4)

節の「アル」は、アルノン川の南、キル・モアブの北にありますが、後にローマの遺跡の町「アレオポリス」があるこの町を通過します。そして、「キル・モアブ」はアルノンとゼレデの真ん中にあり、モアブの首都で現在のカラクです。ここも途中停車し、十字軍のカラク城を眺めます。節の「ディボン」は、アルノン川のすぐ北、メシャの碑文が出た所(2列王3章)です。そしてディボンの遺跡には、「高き所」すなわち、モアブの神に捧げられた宮の土台が見つかります。 「ネボ」「メデバ」は、昨日、どちらも訪れた所です。そして節は、戦士たちのみならず、屋上や広場で一般の人々の生活においても、嘆き悲しむ姿が出てきます。 そして4節:「ヘシュボン」は、ラバ(アンマン)の南にあり、シホン王の首都(民数2126節)でした。ここにも大きな遺跡があります。「ヤハツ」ヘシュボンの南にありました。

この嘆きは何の出来事を指しているでしょうか?1614節を見ると「三年のうちに」と言っているので、アッシリヤのセナケリブによる侵攻だったのでしょう、701年に起こったので、704年に預言されたと考えられます。その時は既に、ダマスコ(732年)もサマリヤ(722年)も陥落していました。このように迫りくるアッシリヤの脅威がありましたが、彼らはまさか自分のところに来るとは思っていなかったようです。

なぜ、滅ぼされたのか、神の見た理由が16章6節以降にあります。高慢のため(イザヤ16:611節)です。その高慢とは、いつも安定していて、安心できている状態の時に培われていきます。何も起こっていないことによってもたらされるもの(エレミヤ48:1113)です。モアブは、この高原地帯によって、地形的にイスラエルよりも守られて、加えてぶどうが取れ、羊を放牧するのに適しています。しかし、それがかえって彼らの仇となりました。彼らは快楽の神「ケモシュ」を国民的な神としていましたが、安住する時に、私たちは必ず偶像を造っていきます。まことの神ではなく、何か便利なもの、楽しませてくれるものを求めるのです。  



5.ゼレデ川(ワディ・ハサ)

カラクからゼレデ川へ(Google Map)

 私たちは、カラクの町(キル・モアブ)からゼレデ川へ向かいます。ここからさらにゼレデ川へと向かいます。ゼレデ川は、モアブとエドムの国境になっていた渓谷で、その川は死海の南端に入り込みます。ラエルさんによると長さは71キロです。アラビア語では、「ワディ・ハサ(Wadi a Hasa)」と言います。「ゼレデ」は「鎖」という意味だそうで、この川の流れが鎖のような形をしていたからで、そして「ハサ」は「洪水の音」という意味です。イスラエルの荒野の旅は、右の地図のようにゼレデ川沿いを歩き、そしてモアブ領の東を北上したものと思われます。(音声)そして、そしてイザヤ書15章のモアブへの宣告を思い出してください、彼らがアッシリヤの南進に逃げまどう姿が書かれていますが、「それゆえ彼らは、残していた物や、たくわえていた物を、アラビム川を越えて運んでいく。(7節)」とあります。アラビム川はゼレデ川のことではないかと言われています。ここではモアブ人がアッシリヤの手を逃れようとして、エドム領のほうに逃げている姿です。



 アルノン川の時のように、渓谷を渡る前に見晴台で停まると思っていましたが、そうではなく、最も低い川床のところで停車してくださいました。



 ここでバスから出て、御言葉を語らせていただきました。

 「今、立ってゼレデ川を渡れ。』そこで私たちはゼレデ川を渡った。カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営のうちから絶えてしまった。主が彼らについて誓われたとおりであった。(申命記2:13-14)

 イスラエルの民が、カデシュ・バルネアで約束の地に入れないことを宣言されて、それからこのゼレデ川を渡るまでが38年間でした。この時までに古い世代が全て死に絶えました。ゼレデ川を渡れば、モーセ、ヨシュア、カレブを除けば皆、新しい世代です。そして荒野の旅が40年ということですが、なぜ38年かというと、エジプトを出てヨルダン川を渡るまでが40年間であり、エジプトを出てからカデシュ・バルネアまでの期間は、約一年間(民数10:11、申命1:2)であり、それからゼレデ川からヨルダン川に渡るまでの期間を除いているからです。

 この38年間がとても大事な期間で、同じ数字が出てくるのがヨハネ5章5節、ベツスダの池の足なえの男が、38年間病気にかかっていました。ベテスダとは「神の慈しみ」の意味があり、そこの五つの回廊はモーセ五書つまり律法を示していました。神の律法の中に慈しみがあるはずなのですが、この男はいまだ足なえだったというところには、イスラエルの民が約束が与えられているのに、なおのこと荒野で放浪していたその姿と重なります。これはヨハネが、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(1:17)」ということを示したかったからです。イエスが行なわれていたのは、律法では実現できなかったことを、その恵みとまことによって実現させるということだったのです。

 私たちが約束が与えていながら、それを経験していないというのは、ちょうど古い世代のイスラエル人がカデシュ・バルネアで約束を信じられなかったこと、ベテスダの池の男が約束が与えられていながら足が直らなかったということを意味しているのではないでしょうか?私たちに必要なのは、約束を、それが見えなくても信じるということです。

 そしてバスに乗り、走っていくと上り坂になってきて、右手のダムを見下ろすことができました。それは、「アト・タヌール(at Tannūr)」ダムと言うそうです。そして上の川床からの写真の左上部にも見えますが、ダムの上にある黒山は、地殻変動で出てきたもので、「ジャバル・アト・タヌール」です(ジャバル(Jabal)は、アラビア語で「山」のこと。)



 そしてこちらのリンク先の動画を見てください。上の動画の続きですが、ジャバル・アト・タヌールのすぐ左、ダムの上にある小高い丘が見えます。おそらくここが、キルベト・アト・タヌール(Khirbet Et-Tannur)であると思われます。これはナバタイ人の宮で、巡礼の場所であったと言われるところです。宮や列柱の後があり、占術や神々の遺物も出てきたとのことです。

エドムの地

 ナバタイ人と言えば、既に私たちがエドムの地に入ったことが分かります。エドムの国にナバタイ人が入ってきて、それでエドム人は次第にユダヤ地方に追いやられて、イドマヤ人と呼ばれるようになるからです。

 エドムは「赤い」というヘブル語から派生した言葉で、それはエサウの欲したレンズ豆のスープだけでなく、「血」など、他の意味でその名前の意味が援用されています。エドムの地の岩の色が反射によってはバラ色にも輝きます。以下に、「新聖書ハンドブック」(ヘンリー・H・ハーレー著)の「オバデヤ書」にある、エドムの説明を引用します(457頁から)。

 エドムは死海南の岩石の多い山地の中にあり、南北約160キロ、東西約32キロに及び、水が豊かで牧草に富んでいた。首都はセラ(エス・セラ。ペトラという名のほうが知られている)で、山岳峡谷の奥深くにある絶壁面で掘り込まれて、高くも設けられて、すばらしく美しい峡谷を見下ろしていた。エドム人は外へ出て襲撃に遠征し、それからその岩の多い峡谷にそびえ立つ難攻不落の要塞に退くのを常とした。
 エドム人はエサウの子孫であったが、ユダヤ人の宿敵であり、エサウとヤコブの間に争いを永続させていた(創25:23,27:41)。彼らはモーセの通貨を拒み(民20:14-21)、常に攻撃軍を助けようと備えていた。


 エドムを知るのは、二つのキーワードが「岩」そして「復讐」です。岩に隠れて高ぶっていたこと、そしてヤコブの子孫に対する執拗な復讐心が特徴であり、アモンとモアブはロトの子孫であり確かにイスラエルに敵対していましたが、エドムはその恨みの度合いはとてつもなく深いものです。そういった視点からエドムの活動やエドムに対する預言を読むと、そこにある神の声が聞こえてくるでしょう。


6.ダーナ自然保護区
ヨルダン観光局

ゼレデ川からダーナ自然保護区まで(Google Map)

 今のヨルダンでは、ワディ・ハサを渡るとカラク県からタフィラ県に入ります。その県都「タフィラ」を通りました。確かここら辺は保守的な田舎町で、イスラム教が非常に強く自由がないとマヘルさんが言っていたと思います。そしてしばらく行くと、ヨルダンにある自然保護区の一つ「ダーナ」に到着しました。



 上で、ラエルさんが詳しく説明してくださっていますが、「地球の歩き方」から引用してみましょう。(173頁)

キングズ・ハイウェイを下り、カラクとペトラのちょうど中間地点に、標高1500㍍の山地からマイナス50㍍のワディ・アラバまで15㌔を一気に下るワディ・ダーナがある。その周りに広がる面積320km²のこの国最大規模の自然保護区には、アイベックスやヒョウ、オオカミといった希少動物を含め45種類ほどの動物と、600種に及ぶ植物が確認されており、渡り鳥などの野鳥が200種も見られる。また、キャンプサイトのフェイナンの近くには、旧約聖書にも記されている6000年前の銅鉱山の跡が残っている。・・
 保護区のキングズ・ハイウェイ側に位置するダーナ村は、オスマン帝国時代に開かれたが、その後多くの住民が村を離れて、今では打ち棄てられてしまった廃村。ワディ・アラバまで見渡せる景色は絶景だ。・・

 ところで、Bibleplaces.comによると、このダーナの谷は「フェイナン(Feinan)」とも呼ばれる「ワディ・プノン(Wadi Punon)」の東側の部分だということです。「プノン」(民数33:42‐43)は先のエドムの地図にも出てくるように、イスラエルの民が当初、ここからエドム領を通って王の道へ行きたかったところではないかと言われているそうです(民数20:14‐21)。エドムが激しく拒んだため、彼らは迂回せざるを得ず、それで我慢ができなくなって不平を鳴らしたところ、主が燃える蛇を送り、罪の赦しと癒しのための「青銅の蛇」の出来事が起こります(21:4‐9)。私たちが翌々日(19日)、イスラエル側のワディ・アラバ、その話されている現場に行きます。

7.ショーバック城
(Wikipedia)

ダーナからショーバック城まで(Google Map)

 ダーナからショーバック城に行くまで、ラエルさんはアラブ人の民族衣装について説明してくださいました。

 いや、このカフィーヤ、すごい汎用性があるんですね。ちなみに、これはムスリムの衣装ではないとのことです、宗教ではなくあくまでもアラブ民族衣装だとのこと。

 そしてショーバック城に着きました。キングズ・ハイウェイを少しだけ離れたところにあります。こちらのサイトから説明を引用します。

ショーバック城はペトラから車で北に1時間足らずのところに位置します。この人里離れた遺跡は、 かつては「モントリオール」と呼ばれ、その起源はカラックの戦いの時代にまで遡ります。城は山腹にあり、下方には果樹園が広がり、 敵の侵入を防ぐ城壁には、継承者による銘刻を見ることができます。ショーバック城は、当時十字軍が使用ししていましたが、現在では、外壁を除いてはほとんど原形をとどめおらず、修復している箇所が多々あります。

歴史
元々は十字軍の指導者の1人でもあったエルサレムの王がエジプトからシリアへの道を守るために1115年頃に建築されました。シリアとエジプト間の交通の要所として栄えた時期がありましたが、アラビア人によって改築された後、商業や産業の中心が離れていったため、この砦は完成後わずか75年でサラディンの手に落ちてしまいました。現在は、人家の絶えた、砂漠の只中に、完全に朽ちた姿を残しています。

見どころ
ショーバック城の城跡は高台に位置するため、周囲には何もなく、見渡すかぎり荒涼といった壮大な風景に感銘をうけることでしょう。城内にはトンネルが存在し、何10メートルも下り外へと通じる深く長いトンネルを通り抜けることができます。城壁には、継承者による銘刻を見ることができ、また、現在この地は人家が絶え、城跡の他に何もなく、砂漠のど真ん中に昏々と存在する様にもまた繁栄した歴史と変わり果てた現在の差を切実に感じることでしょう。




8.ペトラのホテルへ
Petra Guest House Hotel

ショーバック城からペトラのホテルまで(Google Map)

 ダーナ自然保護区から少し南下すると、マアーン県へと入ります。そして上のショーバック城のあるショーバック地区があります。実は、カメラマンのN兄弟は、「ヨルダン滞在中に、必ず現地ヨルダン人の生きた写真を取らせていただきたい。」という願いを出していました。それで、結構、絵になりそうな村落もキングズ・ハイウェイに会ったのですが、通りすぎます。私も少し、「大丈夫かな?」と思い始めました。ここを過ぎればペトラで、ペトラの後は基本的に沙漠なので人の住んでいるような所はないはずです。日没も近づいたころ、このショーバックの町で、僅かに店が立ち並んでいるところでバスが止まりました。そして、ラエルさん、マヘルさんが兄弟といっしょに付いていき、お店の人に声をかけて、無事に撮影をすることができました。(右はショーバックのお役所、ここで撮影をしたのではありません。)

 そして「ワディ・ムーサ(モーセの意味)」の町に入ります。これは、ペトラの遺跡観光のための町です。もうこの時は日が暮れてしまったので、景色は分かりませんでした。けれども、小さなお店がたくさん並んでいる感じです。途中に、「アイン・ムーサ(モーセの泉)」と呼ばれるモスクがあり、そこでモーセが岩を杖でついたとされています。そしてホテルに到着しました。ここは、「ペトラ・ゲストハウス・ホテル」といい、ペトラ遺跡に最も近い、隣接したホテルです。


 疲れて、シャワーも浴びていませんでしたが、私たち夫婦はすぐにレストランに行きました。ペトラのいう山奥ですからホテルは期待していなかったのですが、とっても良いところでした。こぎれいだし、何より食事がしっかりしていました。