2016年イスラエル・ヨルダン旅行記 2月18日


1.ペトラ
a)バーブ・アッシーク
b)ダムとシーク
c)エル・ハズネ(宝物殿)
d)ファサード通り、ローマ円形劇場
e)王家の墓
f)柱廊通り
g)大神殿
h)凱旋門、カルス・アル・ビント
i)エド・ディル(修道院)
j)有翼ライオンの神殿、ペトラ教会
k)犠牲祭壇


2.ヨルダン・イスラエル国境へ



  ヨルダンの旅が、ついに三日目を迎えます。この国の最大の遺跡、世界遺産に連ねられている「ペトラ」です。私たちは、午前7時に出発するために、いつもよりも早いデボーション、朝食を取りました。デボーションは、長野からいらしたNさんが、主を信頼することについてイザヤ26章から話してくださいました。「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。(3節)」これから行くペトラの遺跡は、堅固な岩に取り囲まれた安全な所ですが、まことの安全は、主への信頼の内にありますね。

1.ペトラ

聖書的背景は2010年の旅行記で

 ペトラについて、その聖書的背景について、ここで敢えて繰り返す必要はないと思います。2010年のイスラエル・ヨルダンの旅における説明で、かなり綿密に、詳細に行ないました。a)とb)の部分をぜひ、読んでみてください。

イスラエル・ヨルダン旅行記6月9日

 第一に、ここは聖書では「ボツラ」と呼ばれるところで、「終わりの日、主の再臨の所」であると考えられる所です。そして第二に、ナバタイ王国について、この王国と聖書との関わりを述べています。ここはかつてエドムの首都であり、さらに新約時代と同期であり、パウロの記述や、ヘロデ家との関わりを述べています。そして、ナバタイ人はアラビア人でありながら、実は偶像礼拝者であり、そのことも聖書の記述通りであることにも触れています。

遺跡群の説明は、地球の歩き方で

 そして遺跡群については、「地球の歩き方(E04)」がこれ以上にない程の詳しい説明を行なっていています。こちらのリンク先(PDF)に、その一部を紹介させていただいています。こちらをご覧になりながら、これからの旅行記を追ってみると有益です。

 さらに、ヨルダン政府のペトラ遺跡のサイトとそのフェイスブックユーチューブが充実しています。そして、ユーチューブのサイトにおいては、数多く高精度の映像を見られます。

例:




a)バーブ・アッシーク

 Petra Guest Houseはペトラ入口に隣接しているので、そのまま入場しました。そして今日から、ビデオ中心の撮影をしていきました。映像と共にラエルさんの説明を聞くことができます。以下は、入口においての説明です。


 ペトラは、砂岩に入っている鉱物によって、その岩の色彩がまさに"七色変化"します。ラエルさんは、石灰岩から砂岩に岩質が変わっていく説明をしています。さらに、ワディ・ムーサからワディ・アラバまでの渓谷にペトラが位置するので、ここからこれから降っていく説明もしています。「980㍍から3キロを歩きから300㍍ぐらいまで下降します。」とのことです。ゆえに、水もアイン・ムーサからこの町に流れ込むことができる仕組みです。

 そして、少し歩くと、「アロンの墓(Jabal Haroun)」が見えます。


 位置的には、ペトラから東、ワディ・アラバの方角です(Google Map)。聖書では「ホル山」であり、民数記20章22‐29節に記録されています。アロンも、モーセと同じようにメリバの水のことで約束の地に入れないと神の宣言を受け、息子エルアザルを連れてモーセと共に行きました。そこで大祭司の祭服を彼に着せて、祭司職の後継も行ないました。今は、ムスリムにとっての聖地でもあり、墓はベドウィンによって管理されています。そこへはペトラの遺跡から出発できるそうですが、麓までロバで2-3時間、さらに山頂までの3時間の登山だそうです。

 しばらく歩くと、「ジン・ブロックス」があり、そこを通りすぎ、「バーブ・アッシーク・トリクリニウム」と「オベリスクの墓」の前のところでラエルさんが立ち止まりました。


 バーブ・アッシークとは、入口からシークまでの場所のところです。実は、まだペトラに入っていません。ペトラは、ナバタイ人自身は「レキム(削った岩)」と呼んでいて、ギリシヤ人によって「ペトラ(岩)」と変えられ、二世紀にローマが支配した時は「メトロポリス」と変えようとしましたが、広まりませんでした。交易の分岐点にしたかったらです。

 今私たちの見ているものは、墓です。ペトラ遺跡は、岩を刻むものと建物の二つの部類がありますが、刻むものは9割が墓とのこと。墓は、個人用と家族用のものがあり、社会的・経済的地位を見ることができるとのこと。貧しい人は穴を掘っただけですが、上級階級の人が、ジン・ブロックスのようなモニュメントのようなものを造ります。ジン・ブロックはその上の部分に穴を開けて埋葬していたとのことです。集団埋葬の場合は、穴の中に入ると広い部屋があります。外側に装飾がないのは、おそらく中流階級なのではないかと思われます。さらに階級があがると、外側に装飾を作ります。

 ナバタイ人の言葉が刻んであります。そしてギリシヤ語もあります。「息子のために、私は子の墓を掘っている」という内容で、王のものです。そして、オベリスクの墓について、上の穴のところが墓と考えられています。そして下が「トリクリニウム」です。亡くなった個人のために祈ったり、人々が集まる集会所のようなものです。そしてこのエリアは公共のものなので、ここの家族のためだけでなく、ここ一帯の人々のためにも祈ったとのこと。その他、先のPDFファイルにはナバタイ人信仰にある霊的意味を詳しく説明してあるので、参照してみてください。

ホテルからペトラ中心部までのグーグルマップ(クリックすると拡大できます)


b)ダムとシーク

 そしてついに、シークの入口に来ました。

 シークであり、ナバタイ人は石畳の舗装をしました。しかしここは大きな峡谷であり、鉄砲水が危険で、町に入ってくる惧れがあります。そこでその流れを迂回させ、逃がしていきました。他の峡谷へとつながっています。そして石垣があるけれども、これはダムの役割を果たしています。また橋も作っています。ナバタイ人は水源の発見、水の保持、排水など水利技術に優れていましたが、それが彼らの繁栄を支えていました。

 また、外交にも優れていました。孤立する地域にいるので、この地域の通商を支配することによって生き残っていきました。あらゆる人々と取引をし、古代エジプトやギリシヤ人と良い条約を結んで、租税を払って防衛を頼んだなどの工夫を行ったようです。(地球の歩き方「ペトラ遺跡とヨルダン'14-'15」には、ナバタイ王国の歴史を詳しく説明している欄があります。→ PDF)。

 そして入口には、門とアーチの跡があります。

 灯火を置く所もあり、また神像を安置する壁龕もあります。ナバタイ人の信仰は多神教です。最高神は、ドュシャーラと言います。山の神でもあります。左側には、水路があります。7キロ先にある水源から配水をしています。

 そして私たちを見ながら、後ろ向きでシーク内をラエルさんは歩いて、説明していきます。

 地殻変動で自然にできた峡谷です。。もっと狭かったのですが、水で広がりました。全長は1.8㌔で高さは高いところで90㍍です。

 次はシーク内にあるダムの跡です。

 二つの目的があり、シーク内への浸水の防止と、夏に貯水することでした。

 そしてシーク内で最も狭いところに入ってきます。

 本当に狭いですね、これゆえ小さな車両でさえ入れないので、諸国の軍隊から守られるという要塞を成していました。終わりの日に残りのイスラエルの民がここに逃れてくれば、一時期守られる理由が分かります。

 シークも半分以上を歩きました。そこに石板があります。

 これはニッチ(壁龕へきがん)と呼ばれるもので、宗教的な壁龕です。ナバタイ人は、これをベト・エル(神の家)と呼んでいたとのこと(まるで、ヘブル語の「ベテル(神の家)」と同じではないですか!。)ここが、神々との接点のところです。中にある聖石はドュシャーラと妻、女神ウッザーです。そして横の壁には小さな祠があり、その聖所に行くための上り階段もあります。そしてその祠の左横の丸い部分が聖所に入るための手洗いの清めの場所だそうです。

 ビデオカメラで撮っただけでも分かりますが、赤色になったり、黒ずんだ色に変わったり、太陽光線の反射によってこのようにどんどん変わっていきます。

 そして隊商の像があります。

 ラクダとそれを御する人の像ですね。そしてもうちょっと進んだところに、さらにラクダが二頭いました。

 そしてさらに進んで、ダムが両側にあり、地面には水路のための小さな橋があります。

 ペトラは、三度の地震でダムも崩壊し、洪水も入ってきて、堆積物によって埋まってしまいました。なので、実際の道はもっと地下に入ってきます。

 ここでゲームをしました。一度来たことのある私は、何をしようとしているか分かっていましたが、黙っていました。ここがペトラの醍醐味のトップですから!まず右側に寄ってもらいそれから左側に移動するのですが、その時は後ろを見てもらい、「薔薇色に染まる都市ペトラ」と言われる所以の岩の輝きを見せます(ラエルさん上手!)。鉄分の酸化によってこの薔薇色ができます。でも後ろを振り向かせると、そう、エル・ハズネ(宝物殿)が見えるのです!



c)エル・ハズネ(宝物殿)


 ペトラの最も美しく飾られるファサード(建物の正面)です。映像で背後に見えるらくだの座っているよりも、元々の高さはそこから5㍍下にあります。つまりこの宝物殿はもっと高く見えたはずです。

 元々、これは何のために使われているか?墓ですが王家所有の墓です。エジプト、メソポタミア、中国までのシルクロード、アラビア半島東部の港からインドからの商品も取引していました。そしてギリシヤ文明との関係もありました。ナバタイの王アレタスは、それらの文明に魅了されており、特に一階はギリシヤ美術に魅了されていました。そして、中央にはイシスのエジプトの神、アッシリヤの獅子も有り、混合の美術になっています。


 実際に部屋があるのは一階部分のみです。一階の両端の彫刻、ポルックス(左)とカストール(右)は、ゼウス神の息子であり、死んだ魂をあの世に連れていくので、馬が描かれています。そして両端の柱の上に獅子がおり、真ん中にはナバテア人の象徴である鷹です。そして二階は、アマゾネスが左右におり、町の守護神です。脚を交差かせて、スカートを広げ斧を降っています。右にトュケーで幸運をもたらします。その左二―ケーがいます。真ん中はエジプトのイシス、豊穣の女神です。そして円形の部分はナバテアの王冠です。一番上に壺、象徴的な骨壺があります。これが墓であることを表しています。その左右に鷲です。

 これらを彫るのに上から行ないました。岩を削ったのみで、失敗は許されません。中は大広間が真ん中にあり、さらに左右に部屋があります。両側で遺体を洗い、真ん中で遺体を安置するとのことです。(2010年の旅の時は、中に入ることができました。正面地下

 そしてここで私のほうでメッセージをしました。なんと、このエル・ハズネを背景にして説教とは、考えていませんでした。人がその時だけ少なかったのが助かりました。

ペトラ(ボツラ):オバデヤ書

1A 逃れの場(ミカ2:12; イザヤ16:3‐5; 26:20-21) - 終末の姿
   1B 地形(ダニエル11:41、黙示12:16)
   2B 神の復讐の場(イザヤ34:5‐8)
2A エドムに対する神の復讐 - 「岩の裂け目に住み」(3節)
   1B 高ぶり(1‐5節)
      1C 自分自身の奢り(レンズ豆と引き換え)「アドム」
      2C セイル(赤色)への住みつき(創世36章)
         1D ヤコブは太ももの関節が外される
         2D エドムはいつまでも、自分の痛みを負わない。
      3C 平和に対する仇
         1D 兄弟に対して害を与えない(申命2章、アモン人、モアブ人にも)
         2D 敵対するエドム
            1E サウル、ダビデ、ソロモン
              (サム14:47、2サム8:13-14、1列王1:6-22)

            2E 歴代の王(2列王3章、2歴代20章、2列王8:20-22;14:7)
   2B 裏切り(5‐7節)
      1C 高ぶっている者の仲間は真の仲間ではない。
      2C 7節の「同盟者」はナバテヤ人!
   3B 知恵に頼る(8‐10節)
   4B 人の弱みに付け込む(10‐14節)
      バビロン捕囚の時に、エルサレムまでやって来た。(エゼ35章の「血」)
   5B 主の日に、頭上に下る。(15‐18節)
      エドムはイドマヤ人となり、ユダヤ教に強制改宗、ユダヤ人反乱に加担、
      歴史から姿を消す。
3A 終わりの日にあるシオン山(19‐21節)
   だれが勝利者か?を考えよう。
   自分が砕かれる、仕返しをしない。


d)ファサード通りローマ円形劇場

 そして私たちはファサード通りをざっと歩いていきます。

 岩窟墓のオンパレードです。ファサードに長方形の入口、急な階段状の装飾が施されているものが多く出てきますが、死者の魂がその階段を上がって天に上がると信じられました。

 そしてローマ円形劇場に到着します。

 文化的な劇場で、コロシアムのような闘技ではなく音楽や演劇が行なわれました。これらは生きている人間のものですから、つまり町の中心部に近づいていることを示しています。3000人を収容できますが、1‐3世紀には人口は3万から3.5万人とのこと。大きな壁があって、劇場の舞台部屋があり、左右に入口がありました。白い大理石があり、イタリアから輸入されていました。したがって、非常に裕福な町でした。

 ナバタイ人自身は洞窟に住んでいたのではなく、家々を建てていましたが、その残骸がもう少し行ったところで見ることができます。しかし、この劇場は岩を掘ってできたものです。そして劇場の道を挟んだ反対側に、劇場管理施設があり、チケット売り場もあったわけです。指定席となっており、オストラカという陶器の破片をチケットとして使っていました。人口の10㌫しか収容できないので、裕福な人々が高価なチケットを購入していたと考えられます。外部からの人たちを招いていたかもしれず、寝泊りする場所が必要で、遠征に来てくれた人々の宿泊所の跡があるそうです。そしてナバタイ人はしっかりとした法整備と体制がありました。

e)王家の墓
 少し歩くと、右側にジャバル・フブサの西側の壁面にずらりと連なる岩窟建築群が広がっています、「王家の墓」です。


 王家の墓であるというのは、町の中心部を眺望する位置にあるからです。ナバタイ人の墓ですが、紀元後一世紀のことです。「壺の墓」ですが、大きな部屋があります。教会になりえます、五世紀に教会に改造しました(下のアーチ部分はビザンチン時代に増設したもの)。ということは、ペトラがキリスト教化されたことを意味します。2百段の階段があります。そして、白いテントで守られた遺跡は、六世紀のペトラ聖堂です(2010年の旅行記参照)。床は大理石でモザイク画あります。右側の四つの柱も「青い教会」と呼ばれる教会跡です。(ペトラにおける教会群跡

 王家の墓が正面、ローマ円形劇場やファサード通りを眺めた写真


 一つ一つの王家の墓の説明は、地球の歩き方をご覧になると良いでしょう。それぞれの写真を紹介します。右から「壺の墓」「「シルクの墓」「コリント式の墓」「宮殿の墓」「セクスティウス・フロレンティヌスの墓

 そして私たちは立っている所がまさに、住宅街の跡です。まだ発掘されていない状態なのですが、今回の旅で初めて知りました。墓ばかりだと思っていたのですが、住居区が中心街との間にあったんですね。(真正面が住宅跡、右が町の中心街)


 そしてこの反対側には、現代のベドウィンの住居地があります。

 ペトラの敷地内には数多くのベドウィンがいます。物売りをしたり、ろばやらくだに載せたりしていますが、ペトラが世界遺産に指定されてからは、その規定により敷地内に居住することはいけないので、ヨルダン政府が無償で彼らのための住居を建てたとのことです。強制移住と言ったら、その通りです。そしてマヘルさんが興味深いことを話していました。ナバタイ人は、その王国が無くなってから民族としてどこに言ったのか知られていないが、この付近の遊牧民にはその血が受け継がれているかもしれない、とのことです。なるほど、と思いました。元々、ナバタイ人は古代アラビア民族なので、他のアラブ人との混血があっても大した差はありませんが、有り得ることだと思いました。

f)柱廊通り

 そしてついに、ペトラの中心部である「柱廊通り」に入ります。地球の歩き方にある上空からの写真と地図で、位置を確かめながら見ると良いでしょう。




 初めに出てくるのは、ギリシヤ・ローマ式の町には必ず入口にある「ニンファエウム」です。生命の源である水を讃える噴水施設とのこと。ワディ・ムーサとワディ・ナサラから流れてきた水がここに合流し、さらに柱廊通りに沿って流れていきました。






 そして正面を見ると、柱廊通りがあります。復元すると右のような図の通り。全長225㍍の大きな大理石を敷き詰めた通り(カルド・マクシムス)で、ナバタイ人はここに柱廊を立て、商店などを構えていました。それが、最後の神殿カスル・アル・ビントにまで続きます。これは云わばモダンな通りであり、これを造れば、近代を証ししているとのこと。

 柱廊通りを歩きます。市場の跡を左手に見ます。


g)大神殿 (考古学チームのサイト

 そして次に横目で見たのが、大神殿です。


 紀元前1世紀にナバタイ人の主要な神殿として建造されたそうで、地震後の修復でビザンチン時代まで使われたとのこと。建造物としてはペトラで最大のものです。建物は二階に層別れていて、一階部分は六角形の床石が敷き詰められてテメノスになっており、二階部分に小規模な劇場型テアトロンがあります。居住区跡やビザンチン時代の浴場跡もあるそうです。左が全体の復元図で、下が二階層にある神殿部分の復元図です。


 後でオプションで、「エド・ディル」に行くのとそうでない人たちに分かれましたが、他の人々の撮った写真を見ると、この遺跡を訪ねたようです。ちょうど上の復元図の手前の階段に座っています。


 詳しく中身を撮影したユーチューブの動画もあります(映像CG)し、こちらはウィキペディアの写真集。

h)凱旋門カルス・アル・ビント

 そして凱旋門をくぐります。


 ここはテメノスと呼ばれる聖域の入口であり、元々三つのアーチを持っていた門です(復元図)。そして注型の枠には花模様と半身像が掘られています。半身像は神々だそうで、ギリシヤ神話の神々と、ナバタイ人の神々だそうです。

 そして、聖域であるテメノスを通り、左側にカスル・アル・ビント(Qasr al Bintがあります。


 ここはナバタイ人の最高神ドュシャーラを祭る最重要な神殿です。「ファラオの娘の宮殿」という意味があるそうですが、それは、技術者二人に先に宮殿に水を引っ張ってきた者を自分の夫にすると言ったそうです。言い伝えですが、実際に傍に水路が見つかっているそうです。紀元前30年、オボダス三世により建てられたものです。手前にいけにえが捧げられた祭壇があり、神殿の高さは23㍍で、入口へは19の階段があります。四本のコリント式の円柱を抜けて入口です。その中は当時、祭司しか入ることのできない区域で、セラと呼ばれる神聖なホールがあります。さらに奥に部屋が三つあり、アディトンという至聖所です。神像が置かれたであろう部屋です。煉瓦の間に、地震による被害を防ぐためのクッション代わりの木の板があります。こちらが復元図です。


 中身の動画です。


 CGもあります。

i)エド・ディル(修道院)

 ここからオプショナルになります。2010年の旅の時には、まだ見ていない付近にある遺跡をじっくりと見て、それからエル・ハズネの方に向かうと、「犠牲祭壇」へ上る道があります。けれども、さらに奥にはエド・ディルがあります。これは、さらに800段の階段を上らないといけなく、相当早く歩かないと昼食も入れて、指定時間にホテルに戻ることはできません。次回はぜひ行きたいと思っていたところでした。ここでの醍醐味は、その建造がエル・ハズネよりも大きなモニュメントということだけでなく、それ以上に、イスラエルの境となるワディ・アラバを見ることができるということです。

 以下は王家の家から、カスル・アル・ビント(Temple of Dashres)、エド・ディル(Monastery)までの衛星写真です。ペトラ博物館から北上して歩いていきました。ワディ・アラバは左側に広がります。



 (こちらは、ろばに乗っている人が歩いている私たちを撮影した映像

 とにかく歩くことに集中していました。ゆっくり、疲れを覚えながら歩いていたら挫折してしまうであろうことは分かっていたので、ろばに乗っている人々とほぼ同じスピードで歩いていきました。その途中の姿は他の日本語のサイトが参考になるでしょう。→「ペトラ(6) エド・ディルへの山道

 途中で、一人、ろばから落ちてしまいましたが、幸い怪我も痛みもありませんでした。そして自分の脇に入れておいたペットボトルが落ちたので、私が急いで拾いに行くなどハプニングもありましたが、無事に到着!と思いきや、なんとこれからさらに歩かないといけません!一人の姉妹はさらに5ドルを支払って、エド・ディルの現場まで乗らなければいけませんでした。(ちなみに、片道20ドルということなのですが、エド・ディルで出会った旅行客は「往復で20ドルだわよ。」と言うではありませんか、そのリーダーに出会ったので文句を言ったら、「それは驢馬と騾馬の違いだ」などと、はぐらかされました。・・仕方がないですね、ぼったくられるのは付き物です、トホホ。)

 エド・ディルは大きかったです。一番下に立っている仲間の一人を見てくだされば、どれだけ大きいか分かるかと思います。(写真をクリックすれば拡大できます。)

 エル・ハズネは高さ40㍍、幅28㍍のに対して、エド・ディルは高さ45㍍、幅50㍍とのこと。装飾はご覧のとおり、エル・ハズネより簡素です。内部は以前は入れたようですが、今は立ち入り禁止の看板がありました。だだっ広い一間があり、正面に階段の付いた祭壇のようなものがあるらしいです。そして、壁に十字架が掘られているので、ここがビザンチン時代に教会として使われていたことが分かり、それで別名「修道院」となっています。

 元々は、この周辺で見つかった碑文から「神オボダスのシンポジウムである」と書かれていて、最後のナバタイ人の王が神として崇められていたオボダスを祭りために建設したものだと言われているそうです。そしてエド・ディル前は大きな広場になっていますが、列柱に囲まれて、多くの人がオボダスを讃えるために集まったとのことです。その後に、ビザンチン時代に教会として利用され、修道僧が住むようになったとのこと。四世紀の修道士の記録によると、エド・ディルでは、処女から生まれたナバタイの主神ドュシャーラ―の生誕を祝う儀式が毎年1月6日に行われていたのことです。(まるで、イエス様の聖誕をパロディーしているような・・汗。)

 そしてここから、さらにワディ・アラバの見晴台へと向かいます。


 この丘もかなり大きくて、急な上り坂をあがらないといけません。途中に、偶像礼拝の穴(中央の部分)を通り、テントのあるところまで行くと、こういう絶景が広がります!


 写真ではこんな感じ(クリックして拡大)。右側が広大に広がるワディ・アラバです。前方わずかにアロンの墓の見えます。


 そしてエド・ディルのほうはこうなっています。


 そして、こちらのグーグルマップでも確かめてください。右端にエド・ディル(Monastery)が、左端にイスラエルとヨルダンの国境が見えますね。この辺り一帯がアラバで、モーセ率いるイスラエルの民が渡り歩いた所です。明日は、向こう側を北上します!

 そして私たちは下って、下ります。下の写真は、はるか向こうに王家の墓が見える風景です。


 そして元のところに戻りました。確か正午辺りだったのではないかと思います。そして、私たちはペトラ博物館のそばにあるBasin Restaurantでお食事でした。ネットでの評判は「そこそこ」というものでしたが、いえいえ、クラウン・プラザの直営だけあって、良質な料理でした。


j)有翼ライオンの神殿ペトラ教会

 そしてこの他にも、中心部にはいろいろな遺跡があります。大神殿の向かい、通りを挟んであるのに「有翼ライオンの神殿」があります。

 有翼のライオンが掘られた円柱が見つかったことからそう呼ばれており、これはナバタイ人の女神ウッザーを祀るものだと考えられているそうです。設立は紀元27年、アレタス四世の時(折しも、イエス様の公生涯の開始と同じ頃)。規模で言えば大神殿と変わらないとのこと。構造は長方形の敷地にポルチコ(柱廊式広間)と神殿本体。神殿には金属、大理石などのワークショップなどが付属していて、神殿の活動を支えていたということ。出土品の中に、碑文の書かれた女性像、エジプトの小像、ナバタイ神のブロックなどが見つかったそうですが、これからの修復作業を待っているそうです。この復元作業チームのサイトフェイスブックがあり、同じチーム作成の復元作業を撮影したビデオもあります。

 そしてその近くにあるのが、先にラエルさんが遠くから説明した「ペトラ教会」です。2010年の旅行で訪ねて、そのグレコ・ローマン様式のモザイクはとても素晴らしいものでした。ナバタイ人の建築だったものをビザンチン時代の530年頃に教会に造り替えたものです。建築後火事に遭い、その後に大地震が起こってしまい地中にずっと埋もれていましたが、1990年にアメリカの考古学者によって発掘されたとのこと。入口には井戸型の貯水槽があり、左奥に洗礼のための部屋があります。右側が本殿でその左右に列柱が並び、その外側にモザイクが残されています。(ウィキペディアの写真集
 

 では、私たちの帰り道に戻ります。帰りは妻と共に歩きました。柱廊通り、王家の墓、ローマ円形劇場、ファサード通り、シークが映っています。


 ローマ劇場の近くにあるカフェで一息つきました。実はこれを楽しみにしていました、2010年の旅でも同じカフェを使ったと思いますが、ペトラ遺跡の中でトルコ・コーヒーを飲む至福(?)にあずかりました。


k)犠牲祭壇

 そしてもう一つ、ファサード通りの横が入口になっている、「犠牲祭壇」への30分以上のトレッキングがあります。これも実は見逃せない所です。2010年に行きましたが、何が良いかと言いますと、聖書に出てくる「高き所」というものが一体何なのか、バラム等も高き所でいけにえを捧げ、下にいるイスラエル人を呪おうとしましたが、偶像礼拝者が行うその姿を遺跡で確認できること。それから、ペトラ中心部辺りの景色を上から眺めることができるその絶景です。

 頂上にいく途中に、2本のオベリスクがあります。

 高さが6㍍もあり、ドュッシャラーと女神ウッザー、あるいは女神の豊穣の角を表しているとされているらしいです。私たちの考える偶像というと、人間や動物に型どるものが多いですが、これまで見てきたとおり石版やオベリスクに加工したものとなっています。そして驚くべきことに、エル・ハズネや他の多くの岩窟墓と同じく、切り出した岩をここに建てているのではなく、周りの岩を削り、この二つの塔を削り出しているということ。そしてこの頂上に平らな祭壇がありますが、それらも岩全体を削ってできたものです。こちらの写真が岩を削ってできたことがもっと分かる遠巻きに見たものです。

 そして祭壇部分の写真が次です。

 入口は向こう側で、そこに長方形の穴があり、雨水を溜めるもので、生贄の儀式儀式のための身の清め場。一番手前は三段の階段状になっていて、トリクリニウム。「アレタス四世とその妻フルドュに捧げる」という碑文が残っているとのこと。そして、真ん中のでっぱりは、神官が説教をする場所であり、血抜きのされた生贄が置かれた所。そして右手にあるのが祭壇です。


 上から見るとこちらの写真のようになっており、偶像の石板を立てる溝が残っています。そして、左の台には円形のくぼみがこのようにあります。そこで動物を屠るのですが、モアブの王が長男を屠った記録が聖書にあるように、人身犠牲も行なわれた可能性があります。(その他のウィキペディアの写真

 そしてこの周りは絶景です。「王家の墓」「王家の墓のアップ」「アロンの墓」「カスル・アル・ビントが中央に」。

 そしてこの犠牲祭壇からさらに、裏手にある遺跡を見るトレッキング・コースがあります。「ワディ・ファラサ」を通ります。「ライオンのモニュメント」「庭の墓」「カラード・トリクリウム」「ローマ兵士の墓」「ルネッサンスの墓」そして、ペトラ中心部に向かうと、「アッザントュール(ナバタイ人住居跡)」を見ることができます。そして、トレッキングの映像はこちら。


2.ヨルダン・イスラエル国境へ

ペトラから国境まで(Googleマップ)

 私たちは、確か午後2時近くにホテルからバスで出発しました。これから一気に、ヨルダンとイスラエルの国境越えである、アラバ/エイラットに向かいます。ワディ・ムーサの町を出て、王の道をさらに南下します。35号線を下りますが、すぐに険しい山ではなく、平らな何もない沙漠になっていきました。そしてしばらく走って、休憩とヨルダン最後のお土産を買うために、以下のお店に立ち寄りました。

 中はかなり広く、こぎれいでした。誰かいるのかな?と思いきや、しばらくすると店員さんが出てきます。スナックとコーヒーの休憩所もあり、ラエルさんやバス運転手さんを始め、何人かはゆっくりとしていました。いろいろな商品が売っていて、充実していました。

 車中では、マヘルさんとじっくり、たくさん話しました。はっきり覚えているのは、ものすごくキリスト教について質問してくださったことです。その中で、「キリスト教は、他宗教についてどう思っているのですか?」と、他宗教で救われるのかどうかという単刀直入な質問です。そこで私は数秒間を置いて、「イエス・キリストの御名以外に救いはない、と信じています。」と話、罪について、十字架について、そして復活について話しました。福音をそのまま説明しなければ、私たちが何者たちが分かりませんからね。こんなに、興味をもってキリスト教について質問してくださったことには、本当に感謝しています。

ワディ・ラム2010年の旅

 35号線から15号線、すなわちデザートハイウェイに入ります。その辺りから、バスの左、すなわち東側に、焦げ茶色の山々が連なっています。マヘルさんが説明してくださいます。


 そう、アラビアのロレンスのロケ地だった、ワディ・ラムですヨルダン観光局サイト。実際は15号線から東にさらに走ったところにあるので、その端だけを見ていることになります。ぜひ2010年の旅をご覧になって満喫してください。とても素晴らしいところです、下のビデオも貼りつけておきます。


アカバ

 そして私たちは、アカバに入っていきます。どんどん山々も、イスラエルのアラバ地域で見るような、焦げ茶色のものに囲まれていくような感じで入ってきます。アカバはヨルダンで経済特区となっており、関税が免税になっているところです。2010年の旅で行きましたから、ぜひそちらもご覧ください。

ヨルダン出国・イスラエル入国

 そして私たちは、ヨルダン側の「ワディ・アラバ国境検問所」に到着しました。ここでしばしの間、ラエルさんとマヘルさんとお別れです。


 荷物を受け取った私たちは、100㍍ぐらいでしょうか、それを引っ張ってイスラエル側に動きます。以前もそうでしたが、ヨルダンはとっても良いところですし、とても好きになりました、どこかでイスラエル側に行くことを恋い慕っていました。何か自分のところに行くような、そんな感じがします。やはり、信仰者として約束の地というものを感じ取っているのかもしれません。

 そして次に、「イツハク・ラビン国境検問所」へと動き、イスラエル入国です。


 ちなみに、なぜ「イツハク・ラビン国境検問所」と言うのかと言いますと、イスラエルとヨルダンが1994年に平和条約を結んだ時、イスラエルの首相はイツハク・ラビン氏であったからです。この付近で平和条約の式典を行ないました(Wikipedia)。荷物のセキュリティーを通る所では、その式典の時の写真が多くかけられています。

 私は列の一番後ろにいましたが、機械に荷物を通した時に確か、無線受信機を調べられました。他のご夫妻といっしょに時間がかかってしまいました。けれども向こう側に見えました、見えました!恭仁子さんがニコニコしながらこちらを見ています。そして、彼女は何か用事でバスの方に戻りましたが、荷物のセキュリティーが終わってから旅券にスタンプを押してもらい、それで無事通過です。

イツハク・ラビン国境検問所からカエザル・プレミア・エイラット・ホテルへ(Googleマップ

 国境検問所からCaesar Premir Eilat Hotelまでは目と鼻の先です。前回と同じく、恭仁子さんは左側の最前列、私は右側の最前列に座り、早速彼女の案内がバスの中で始まりました。ホテルに到着後、イスラエルではお客さんにジュース等を振る舞ってくれます。写真の方は、新しいバス運転手であるYael(ヤイール)さんです。いつもは、前回の旅のタイシールさんを雇っておられるそうですが、エイラットは最南端の町でたまたまヤイールさんが、比較的近くにいたとのこと。今回、私個人は、彼との時間が多く、たくさんお話しすることができました。


 そしてお食事です。ああ、イスラエルに来た!と思わせる、バラエティーに富む夕食でした。下の写真、真ん中が恭仁子さんです。


 そして私たち男数人で、企みを持っていました。エイラットに来た限りは、やらなければいけない大事なことを!それは次の日の旅行記で明かします!