イスラエル・ヨルダン旅行記 6月8日 - ヨルダン北部
1.王の道
2.ネボ山
3.マダバ(メデバ)
4.マカエラス(ムカウィル)
5.アルノン川(ワディ・ムジブ)
6.カラク(キル・モアブ)
7.ゼレデ川(ワディ・ハサ)
8.ダーナ自然保護区
9.ペトラに到着
ヨルダン旅行二日目は、アンマンからペトラまでのヨルダン中部を南下する旅でした。現在は同じ国の中の移動ですが、かつては四つの国にまたがっています。アンマンはアモン人の国の首都「ラモテ・アモン(ラバ)」であり、それからエモリ人の地(後に、ガド族、ルベン族の割り当て地になります)、そして死海中部から南端までがモアブ、そしてその南がエドムです。その中心部を南北に貫いているのが「王の道(The
King's Highway)」であり、私たちはこの道(35号線)を南下しながら各名所を巡りました。
1.王の道
イスラエルとその周辺地域を知るには、「道」が非常に重要になります。南はエジプト、北東にはメソポタミアがあり、その間にサンドウィッチのように挟まれている地域がイスラエルです。ここに国際幹線道路が南北に走っており、西の「海沿いの道(ヴィア・マリス)」と、東の「王の道」があります。前者はエジプトから地中海沿いに走り、メギドから内陸に入って、イズレエル平原を横断し、ガリラヤ湖沿いに向かってそれからダマスコへ北上します。後者は、今のアカバからダマスコに北上し、エモリ山脈の西麓を走っています。この二つの幹線道路の間を東西に道路が走っており、これで二つの文明間の世界交易が行なわれていたのです。ゆえに、その要所を取るべく、世界に台頭し、衰退した大国は戦いをこの地域で繰り広げ、占領後、町を建てていったのでした。前日見た、デカポリスもギリシヤ・ローマの支配の一貫です。
左の衛星写真はNETから借用したものです。北が左向きになっています。NETでは普通「海沿いの道」と考えられている部分をGreat Trunk Roadと呼んでいますので、それが海沿いの道と考えてください。そして、ダマスコ(Damascus)から、エツィヨン・ゲベル(Ezion Geber)までのKing's Highwayが王の道です。その間を東西に道路が走っていることが分かるでしょう。そして、今、私たちはアンモン(R.Ammon)からヘシュボン(Heshbon)、マダバ(Madaba)、ディボン(Dibon)、キル・モアブ(Kir of Moab)、そしてペトラ(Petra)まで向かっているのです。
聖書では創世記14章1‐6節に、ソドムにいたロトをさらった五人の王たちが、この道路を南下してエル・パラン(今のアカバ)まで下っていることを見ることができます。そしてモーセが、カデシュから北上する時に、まずエドム人に(民数20:14‐21)、そしてエモリ人の王シホン(民数21:21‐23)にこの道を通過させてくれるよう頼んでいます。申命記2章によると、主は、エドム人とは戦うなと命じられたのに対し、シオンに対しては「戦って、根絶やしにせよ。」と命じられました。それで、そこの北部がガド人、南部がルベン人の割り当てとなりました。
モアブ
民数記21章25-31節によると、アルノン川からヤボク川までのシホンの地は、以前はモアブのものであったことが分かります。モアブに対する預言には、この地域を含めた町々が登場します。
「モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅びうせた。ああ、一夜のうちにキル・モアブは荒らされ、滅びうせた。モアブは宮に、ディボンは高き所に、泣くために上る。ネボとメデバのことで、モアブは泣きわめく。頭をみなそり落とし、ひげもみな切り取って。そのちまたでは、荒布を腰にまとい、その屋上や広場では、みな涙を流して泣きわめく。ヘシュボンとエルアレは叫び、その叫び声がヤハツまで聞こえる。それで、モアブの武装した者たちはわめく。そのたましいはわななく。(イザヤ書15:1-4)」
太字にした町は、この王の道沿いあるいは近辺にある町々であり、私たちが目にしたり、訪れていく所です。ぜひイザヤ書15-16節、エレミヤ書47-48章を読んでください。モアブに対する神の宣告ですが、前者はアッシリヤの南下侵略を主に預言し、後者はバビロンの南下侵略を預言しています。どちらにも徹底的に町々の名前が列挙されていることに気づくでしょう。「モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、かおりも変わらなかった。(エレミヤ48:11)」とあるとおり、豊かで安定した暮らしをしていたことが伺えます。ユダの地が飢饉であるとき、ナオミの家族がモアブに移住したのも、うなずけます。
実際、今回の旅行でも、ギルアデ地方を通った時は、豊かでありつつも山々という感じでしたが、中部のモアブ地方に入ったら、二つの渓谷(アルノンとゼレデ)に挟まれた、平坦で豊かな大地という感じでした。
アンマンを出て、十数分したら見えてくるのがヘシュボンの遺跡です。(右写真。色が上部が変色していますが、バス車内から撮ったためです。)手前の道路が、今、バスが走っている現在の王の道です。ここは、シホン王の首都であったところ(民数21:26)で、ガド族とルベン族の割り当て地の境になりました(ヨシュア13:26‐27)。雅歌7章4節によると魚の池で有名だったようで、イザヤ書16章によるとぶどうなど畑でも有名だったところのようです。
ここはアッシリヤのサルゴン二世によって、ユダヤ人が捕囚の民となった所であり、その後、モアブ人が再移住、そしてエルサレム破壊の二年前、紀元前588年にバビロンがここを攻めています。その後、ハスモン朝、ヘロデ大王、ローマ、ビザンチン、イスラムと変遷しています。現在は、アンドリュー大学の考古学隊による発掘が進んでいるようです。また、こちらにGoogleのサイトにあった遺跡からの写真がありました。
2.ネボ山
私たちはマダバの町に着きましたが、ここは後に見学して、その前にネボ山に行きました。ここはもちろん、モーセが約束の地を見渡して、その中に入ることはできず、そして主によって葬られた所です。
「この同じ日に、主はモーセに告げて仰せられた。『エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現わさなかったからである。
あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へはいって行くことはできない。』(申命32:48-52)」
これまで死海の西、エリコの方面からネボ山を眺めていましたが、今回、この山に実際に来ることができて感無量でした。ところが一つ、驚いたことがありました。アンマンからマダバに向かい、それからネボ“山”に行く時に急な勾配を登っていくのだろうと思っていたところ、全然そうではなかったことです。そのまま平坦な道を走っていくとそこがネボ山だった、という感じです。
それもそのはず、ネボ山は標高がたったの817メートルだからです。なぜイスラエル全土をそこから眺めることができるのかと言いますと、ヨルダン渓谷が水面下400メートルになっており、それで標高差約1200メートルの山となっているからです。これで、なぜエルサレムのシオン山ホテル(Mt.Zion Hotel)のロビーから見える風景(日の出の直前)に、死海とヨルダンの山地があった訳です。次の日、ペトラの旅で詳しく説明しますが、イエス様が弟子たちに、終わりの日に荒らす憎むべき者が聖所に立つのを見たらならば、「ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。(マタイ24:16)」と言われたとき、他でもないヨルダンにある山を指していたことを認めることができます。
そしてモーセが眺めていたイスラエルの地は申命記34章1-4節にあります。「モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。そして主は彼に仰せられた。『わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。』」
NETのサイトにある衛星地図によると、霞がいっさいかかっていない状態で見ることのできる視界があります。かろうじてナフタリの向こうにあるダン(ライシュ)が見えず、エフライムとユダの山地が南北に走っているため、それより西は見えません。けれども上の聖句によると見えたそうです。私が考えるに、その死角になっている部分は、主がモーセに幻の中で見えるようにしてくださったのではないかと思います。彼は後に出てくる預言者より偉大な人物ですから(申命34:10)、そのくらいの幻は与えられても全然おかしくないと思います。
そして下は、ネボ山の博物館にあったネボ山の衛星写真です。赤色の文字なので見づらいと思いますが、写真の中央が死海の北端で、その右上がMOUNT
NEBOと書いてあります。ですから死海の北端のちょうど東に位置します。そしてエリコは中央から左にあるJERICHOです。
そして下がネボ山をもっと近距離で撮った航空写真です。
では、実際の景色を紹介しましょう。私が撮ったのは、以下の三つです。一枚目は左側(南)、死海方面です。
次に、正面(西側)です。中央の木のてっぺんの左側の部分がエリコの町です。
それから右側(北)の部分です。
こちらに映像もリンクしますが、ご覧のとおり霞んでいてよく見えませんね。こちらの日本語のサイト、またこちらのサイトにも、もっときれいに撮れた写真が掲載されています。
ちなみにネボ山を語る時に主は「ピスガの頂」と言われましたが、この山には北側のピスガの頂と、南側のネボの頂があるためです。
そしてこの頂上には四世紀に建てられた「モーセ記念教会」とその後付設されたビザンチン時代の教会の跡があります。現在のはこの跡に新しい教会を建てたものです。下の写真はその中にあるものです。(私たちが行った時は、この教会自体が改築中だったのか、入れなかったのだと思います。Lion Tracks Photo QnAから借用しました。)
この敷地は現在フランシスコ修道会が管轄しており、同会の考古学団体がネボ山の発掘を進めてきたようです。
そしてアーノルドのリクエストだったのでしょう、ネボ山の中にいるとネボ山自体を見ることができないので、バスに乗って少し離れたところで停車しました。そこから写真を撮りました。
モザイク工場
そしてこの後、このモザイク工場を訪れました。その作製を直で見ることができました。
けれども、ここは旅行に付き物のモザイク製品売り場でした。この日の最後の講義でアーノルドは、ガイドがこのようなところに連れてきてお店からお金をもらうと言っていました。私は、持って帰ったら壊れるかもしれないし、何しろ値段がべらぼうに高いので、何一つ買いませんでした。
3.マダバ(メデバ)
そして私たちはマダバの町に行きました。ここはアラブ人キリスト教徒の住む町であり、ビザンチン時代の「マダバ地図」のある所として大変有名ですが、その前に、モアブ時代の「メデバ」について説明したいと思います。先ほど話しましたように、メデバは王の道沿いにある町であり、イスラエルがエモリ人の王シホンから取った町です(民数21:30、ヨシュア13:9,16)。ダビデの時代には、アモン人がダビデと戦うためにここに陣を敷いています(1歴代19:7)。そして先ほどのイザヤ書の預言にあったように、モアブ人の町になりました。
そして聖書の歴史を越えて、ハスモン朝、ナバテア人の町、そしてローマとビザンチン時代に繁栄しました。その時に、ここに多くの教会を建てました。マダバ地図は六世紀に作られたものです。そして614年のペルシヤ人の侵略、八世紀のイスラムの征服と大地震によってこの町は滅びました。そして現在のマダバの町は、1880年から始まります。後で訪れる「カラク」という十字軍の城のある町から、二千人キリスト教徒がここに移り住みました。後年に他のキリスト教徒とイスラム教徒が加わり、今の町を形成しています。「マダバ地図」を始めとするここの教会群にあるモザイクが19世紀後半に発見されて、マダバは「モザイクの町」という別称を持つようになりました。
町を歩きましたが、こじんまりとした静かな観光の町、という感じでした。私たちは、昼食を取るレストランの駐車場にバスを停めたところからレストランを横切って、「マダバ地図」を見に、聖ジョージ教会に行きました(右写真)。マダバの地図は、まさに礼拝堂の中、奥の祭壇に近いところにあります。カラクからのアラブ人キリスト教徒が、過去の教会の瓦礫を用いて新しく教会堂を建設している途中、偶然に見つかったそうです。(こちらに、この教会の様子と他の教会のモザイクの写真があります。)
マダバ地図
マダバ地図については、私たちは既に5月27日の旅でその複製を見ています。エルサレムのユダヤ人地区に、当時のローマが作ったカルドの跡があります。そこに複製が掲げられていますが、その理由は、ここマダバで見つかった地図に基づいてここを発掘した結果、出てきた遺跡だからです。マダバ地図の重要性は、第一に、これが当時のこの地域(レバノンからエジプトまで)を知る最古の地図であること、第二に、エルサレムを中心に描いているので、当時のエルサレムを知ることができることです。
この地図の大きさは、横21メートル、縦7メートルなので、到底、一枚の写真に収めることはできません。まずこの教会の前にある、全体の写真をお見せします。(写真をクリックすれば、高精度の写真を見られます。)
そして実際のモザイクですが、下は左側です。中央やや左にエルサレムの町があります。上部には死海とヨルダン川があります。方角は上が東です。(古代のこの地域の地図は、このように地中海から東を向いているように描きます。)
次に中央です。
そして左側です。
そして左側にあったエルサレムの町を、アップして写しました。
最後にこちらの映像もご覧ください。地図の全体を撮影しています。
この地図を、徹底的に説明しているサイトがあります。まず、イスラエルのサイトで「エルサレム立体図」を見せてくれます。次に、ネボ山発掘のフランシスコ修道会の運営する"The Madaba Mosaic Map"が、数あるマダバ地図の説明の中で圧巻です。地図を区分けして、詳細にその町々の位置を示しているだけでなく、その町をクリックすると、現在のイスラエルの地に該当する写真と説明が出てきます。
なぜこの地図を作成したかについては、主に二つの説があります。一つは、当時のキリスト教徒の巡礼の為というものです。そして、エルサレムが非常に詳しく描かれているのは、その霊的重要性を知っていたからだ、という説明です。ガイドさんも、「地理的な正確性よりも神学的な意味を持つ。」と言っていました。確かにこういう地図は、今でも巡礼者向けにイスラエルでは売られています。そしてもう一つの説は、ネボ山に近いことから、モーセが見たイスラエルの姿を描いたというものです。私はどちらの説明も甲乙付けがたく、なるほどなあと思いました。
レストランでヨルダン料理
これが終わって先ほど通過した、レストランに戻りお昼を取りました。「今日は、おいしいヨルダン料理をいただくことになります。」とアーノルドもガイドさんもおっしゃっていたので、皆楽しみにしていました。
下の写真を見ての通り、さっぱり系のサラダが出て、それから鶏の肉をグリルしたものです。
4.マカエラス(ムカウィル)
私たちはマダバを出発し、王の道をさらに南下しました。けれども途中で、右折して死海方面に向かいました。ヨルダン側から死海を眺めることの他に、ヘロデの建てた要塞「マカエラス」を見るためです。
走っていくと、ちょうどイスラエル側の死海沿岸と同じように砂漠の丘陵になっていきました。そして死海に流れていくワジ(涸川)に挟まれるように、鞍のような形の要塞が現れました。右の写真をクリックすれば、映像が始まります。また、題名のリンク先にこの要塞の造りの詳しい説明があります。
ここは、これまでのギリシヤ・ローマの町と同じような歴史を辿っていますが、初めにハスモン朝のヤンナイオスがここを建設し、ローマがここを攻撃し、それからヘロデ大王の手に渡ります。彼は、ヘロデオンやマサダと同じように、ここを要塞化し、上に宮殿を建てました。
そしてそのまま、ガリラヤの他にペレヤ地方の国主になったヘロデ・アンティパスに引き継がれました。ヨセフスの「ユダヤ古代誌」によれば、ここであの、「バプテスマのヨハネの斬首」が行なわれたとのことです。
「実は、このヘロデが、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、・・ヘロデはこの女を妻としていた。・・人をやってヨハネを捕え、牢につないだのであった。これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。」と言い張ったからである。ところが、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた。それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。
ところが、良い機会が訪れた。ヘロデがその誕生日に、重臣や、千人隊長や、ガリラヤのおもだった人などを招いて、祝宴を設けたとき、ヘロデヤの娘がはいって来て、踊りを踊ったので、ヘロデも列席の人々も喜んだ。そこで王は、この少女に、「何でもほしい物を言いなさい。与えよう。」と言った。また、「おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。」と言って、誓った。そこで少女は出て行って、「何を願いましょうか。」とその母親に言った。すると母親は、「バプテスマのヨハネの首。」と言った。そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで王は、すぐに護衛兵をやって、ヨハネの首を持って来るように命令した。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女は、それを母親に渡した。ヨハネの弟子たちは、このことを聞いたので、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めたのであった。(6:17-29)」
ヨハネがここにまで連れて来られて、つながれていたとは・・と初め思ったのですが、よく考えてみれば、ちょっと北に行けば死海の北端であり、その少し上のヨルダン川でバプテスマを授けていたのですから全然遠い所ではありません。この箇所から、ヘロデ家の中で起こった人物たちの中にある、どす黒い思惑と、真に正しく生きたヨハネの衝突を思います。イエス様もこのアンティパスを「狐(ルカ13:31)」と呼ばれ、十字架につけられる前は彼の質問に一言もお話になりませんでした(ルカ23:9)。
メシャ碑文
そして私たちは再び王の道に戻り、南下を続けました。アルノン渓谷に至る直前に、モアブ人の町「ディボン」の丘状遺跡があります。先に引用したイザヤ書やエレミヤ書に出てきたものです。民数記21章の、王シオンがモアブ人から取った町の一つとしても出てきます(30節)。考古学隊のサイトがこちらにあります。
ここで有名なのが「メシャ碑文」です。イスラエルの王アハブが死んでヨラムが王になった時、モアブの王メシャが反抗したため、ヨラムがユダの王ヨシャパテに応戦を頼み、またエドムも参戦して、メシャと戦ったときのことです。列王記第二3章にあります。エリシャがいやいやながら、この戦いについて預言しそれで勝利に終わりましたが、包囲されたメシャが何と、自分の長男を城壁の上で全焼のいけにえとして捧げました。これを見たイスラエル人はその残虐さに耐えられなくて撤退したという話です。
この話をメシャ本人の立場からモアブ語で書いた碑文が、1868年、ドイツ人宣教師によって発見されたそうです。日本語のウィキペディアから日本語訳の一部を引用します。
「オムリはイスラエルの王であり、彼は長年に渡ってモアブを虐げていたが、このためにケモシュは憤っていた-彼の地に対して。そして彼の息子が彼の地位に君臨し、彼は同じく語った。「私はモアブを虐げるであろう!」。私の日々に彼はそう語った。しかし私は彼と彼の家を見下ろし、そしてイスラエルは敗北した。それは永久に敗北した!。そしてオムリはメデバの地を奪い、彼はそこに居住した」
聖書の記述と非常に酷似しています。「オムリ」はアハブの父であり、アハブがモアブを虐げていたが、彼が死んだ後にメシャは戦争を行ないました。長男をいけにえにしたことによってイスラエル人が撤退したのですから、これを「イスラエルは敗北した」と受け止めても全然おかしくありません。そしてモアブ人はモアブ人なりに、彼らの神ケモシュを信仰して戦っていたこともうかがい知ることができます。さらに、先ほど訪れた「メデバ」も出てきますし、続けて読むと聖書に出てくるモアブの町々がたくさん出てきます。聖書の記述が歴史的に確認できる、ということです。
このメシャ碑文については、題名のリンク先の「聖書考古学資料館」のサイトとウィキペディアがあります。どちらも日本語です。
5.アルノン川(ワディ・ムジブ)
モアブの国境
そして私たちは、アルノン渓谷に来ました。ここは、基本的に、モアブの国の北境になっていた所です。死海の真ん中あたりに流れ込む川ですが、対岸にはエン・ゲディがあります。ヨルダンにある、ヨルダン川や死海に流れている川をもう一度整理してみましょう。その間にある地名も記します。(右の地図は、新改訳聖書第二版「出エジプトの経路」より)
バシャン(今のゴラン高原)
ヤムルク川
ギルアデ
ヤボク川
エモリ人の王シホン
アルノン川
モアブ
ゼレデ川
エドム
ただ、近現代のように、はっきりと国境線を引いていたわけではないこと、また、戦争などでその境が上下に動いていたので、例えばモアブは、死海の北端辺りまでの地域を指すこともあるし、またギルアデはヤボク川より南の部分も含める場合もあります。
モーセ時代
「さらにそこから旅立って、エモリ人の国境から広がっている荒野にあるアルノン川の向こう側に宿営した。アルノン川がモアブとエモリ人との間の、モアブの国境であるためである。(民数記21:13)」
「立ち上がれ。出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ(申命記2:24)」
「バラクはバラムが来たことを聞いて、彼を迎えに、国境の端にあるアルノンの国境のイル・モアブまで出て来た。(民数記22:36)」
「ルベン人とガド人には、ギルアデからアルノン川の、国境にあたる川の真中まで、またアモン人の国境ヤボク川までを与えた。(申命記3:16)」
南北王朝時代
「そのころ、主はイスラエルを少しずつ削り始めておられた。ハザエルがイスラエルの全領土を打ち破ったのである。すなわち、ヨルダン川の東側、ガド人、ルベン人、マナセ人のギルアデ全土、つまり、アルノン川のほとりにあるアロエルからギルアデ、バシャンの地方を打ち破った。(2列王記10:32-33)」
興味深いのは、モーセの時代とイスラエル・ユダの王国分裂時代の間にあった士師時代の頃です。アモン人の王と士師エフタとの間で領土問題のやり取りを読むことができます(士師記11章)。アモン人の王は、「イスラエルがエジプトから上って来たとき、アルノン川からヤボク川、それにヨルダン川に至るまでの私の国を取ったからだ。だから、今、これらの地を穏やかに返してくれ。(13節)」と言っています。けれども、歴史を見たらお分かりのとおり、①初めはモアブの地であった、②エモリ人のシホンが攻め取った。③シホンと戦ってイスラエルはガド族とルベン族の割り当て地にした、というのが事実です。このことをエフタは順を追って、整理して主張しています(14-27節)。それでもアモン人が言うことを聞かなかったので戦争になり、エフタはアモン人を打ち負かしました。
近現代のイスラエル・パレスチナ紛争もこれと同じです。元々パレスチナ人固有の地も国も存在しなかったのに、それが以前からあったかのように主張していることを思います。①オスマン・トルコの地であった、②英国委任統治、③国連の分割決議案による「アラブ人・パレスチナ国」を自ら拒否、④エジプトとヨルダンに併合、⑤イスラエル軍占拠、⑥自治区、であり、イスラエル側があえて大幅に譲歩して自治権が与えられているものの、一度たりとも自分たちの土地と国は存在しなかったのです。彼らの民族郷土意識は、あくまでも「ユダヤ人の存在とその主権に対する反発」によって出来上がっている、極めて非生産的なものです。(オバデヤ書、エゼキエル書35章の学び参照)
ヨルダンのグランド・キャニオン
アルノン川がなぜ、国境になっていたのか、一目瞭然でした。そこは単なる川ではなく、渓谷あるいは峡谷だったからです。アルノン渓谷は、次のゼレデ渓谷と並んで「ヨルダンのグランド・キャニオン」と呼ばれているそうです。私は、その雄大さで感動でいっぱいになりました。
アルノン川は下にあるように、ダム「ムジブ湖」があります。王の道はこのダムの堰の上を走ることによって、川を横断します。
ダムを渡り終わった後の写真です。
6.カラク(キル・モアブ)
そして私たちは、かつてのモアブ人の町「アル(民数21:28、申命記2:9)」という遺跡を通り越しました。Bibleplace.comには、そこにある遺跡の写真を掲載しています。ギリシヤ人によって「ラバ(Rabbah)」と呼ばれ、ローマ人によって「アレオポリス(「マールス神の町」の意)」と呼ばれたそうです。遺跡は、当時のローマ皇帝に捧げられたこの神殿の跡だそうです。
さらに南に下ると、かつてモアブの首都であった「キル・モアブ」が出てきます。エレミヤ書48章には「キル・ヘレス(31,36節)」、イザヤ書16章には「キル・ハセレテ(7,11節)」という名前でも出てきます。先に言及したモアブの王メシャがイスラエルに反抗した時の戦いでも、この都市の名が出てきます(2列王3:25)。さらに、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルがユダのアハズ王の願いに応じてシリヤを攻め、ダマスコの住民をキルまで捕らえ移したことも列王記第二16章9節に出てきます。
けれども現在の「カラク」は、遥か後の時代、十字軍の時の城跡で有名な所となっています。リンク先の日本語のウィキペディアに詳しい説明がありますが、ここでも少し説明しましょう。
十字軍にとって、カラクはダマスコとエジプト、そしてメッカを結ぶ王の道に位置していたため、交易の隊商に税を課し、メッカ巡礼のため行き来するイスラム教徒の力を削ぐことができました。トランスヨルダンの領主であったペイヤンによって建てられたカラク城は、その後の領主によって増築され、今見る城壁に至っています。私たちは、遠くからしか見る時間がありませんでしたが、「地球の歩き方」の城内地図や現代のカラク市の地図を見ると、かなり見ごたえのありそうな大きな遺跡です。
6月3日のベルボアール城、また4日の「ハッティンの角」で説明しましたが、十字軍がサラディン率いるイスラム勢力の手に落ちました。映画「キングダム・オブ・ヘブン」に出てきた悪人、エルサレム国王ギー・ド・リュジャニャンそして領主ルノー・ド・シャティヨンが、十字軍を敗北せしめた元凶ですが、後者ルノーが、このカラク城の城主になっていました。彼はサラディンとの休戦協定を無視して、交易隊商を殺します。彼のイスラム教徒に対する虐殺がサラディンの怒りを引き起こし、ハッティンの戦いで彼を処刑せしめます。ですから、このカラク城から、ハッティンの戦い、そしてエルサレム陥落への道を、この「キリストの象」という別名を持った領主が引き起こしたと言っても過言ではありません。
こちらに、カラク城を写した日本語による写真集があります。
7.ゼレデ川(ワディ・ハサ)
そして私たちは、死海の南端に流れ込んでいるゼレデ川を通りました。ここもアルノン川と同じく広大な渓谷になっており、さらに荒涼としています。ゼレデ川は、モアブとエドムの国境でありました。
「・・今、立ってゼレデ川を渡れ。』そこで私たちはゼレデ川を渡った。カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営のうちから絶えてしまった。主が彼らについて誓われたとおりであった。(申命2:13-14)」
下の写真、手前がモアブですが、向こうの南側がエドム領になります。山の色がこげ茶になっているのが特徴です。写真をクリックすれば映像が始まります。
そして上の写真の下の部分に、天幕が二つ張ってあるのが分かるでしょうか?ベドウィンの住まいです。イスラエルでは近代化された町の直ぐそばで、衛星放送の皿を付けているところもあるような、聖書時代と現代が接している不思議な光景を見ることができましたが、ここでは、実に荒涼とした何にもないと思われる所に突然、このような光景をいくつもの地点で発見したのが面白かったです。左下の写真の左の中央を見てください。ズームアップしたのが右下の写真です。羊や山羊の群れを羊飼いが引き連れているのが分かります。
明日のペトラ遺跡観光では、遺跡群のど真ん中を観光客も完全に無視してこうした群れが通過します。西部劇のカウボーイも顔負けです。そして下の写真は、川底で取ったものです。ほとんど涸れてしまっているものの、やはり流れている時が多いのでしょう、緑を見ることができました。
アルノンもゼレデもその渓谷を渡りきるのに、一時間位かかったと思います。その間、この風景をずっと見ることができ本当に感動しました。ヨルダン中部の大地の写真を集めた日本語のサイトもありますので、よかったらご覧ください。
エドムの地
ゼレデを越えるとエドムの地なので、ここでエドムの地について説明しなければならないでしょう。前回の二回のイスラエル旅行で、死海の脇を通っている道路を南に走り、死海を越えると真っ白な岩地が続きました。ここは「塩の谷」と呼ばれます。ダビデの部下がエドムを屈服させた時(1歴代18:12)、またユダの王アマツヤが一万人のエドム人を打ち殺した時に出てきます「アマツヤは奮い立って、その民を率いて塩の谷に行き、セイルの者たち一万人を打った。ユダ族は一万人を生けどりにして、彼らを岩の頂上に連れて行き、その岩の頂上から、彼らを投げ落とした。彼らはひとり残らず砕かれてしまった。(2歴代25:11-12)」
そして、しばらくすると、右側はネゲブの黄褐色の地が見えますが、左側、つまり東側には、ヨルダン川の向こう側に、先に見たこげ茶色の山地が続きました。それが「エドムの山(オバデヤ8節)」です。これは、太陽の反射によって色彩を変えるそうで、朝は薄青色で、夕方にかけてピンク、赤、紫色に変化するそうです。しばしば「セイル」という名前でも出てきます。ヨルダン渓谷を含めて、紅海の町アカバ(聖書名は「エラテ」また「エツヨン・ゲベル」)から始まる南北に細長く続く低地を「アラバ」と呼びます(申命記1:1)。ここが、シリア‐アフリカ地溝であることを思い出してください。今も死海と紅海の間にある部分を「ワディ・アラバ」と呼びます。
この地名が、荒野の旅をするイスラエルの民が、エドムの地を避けた時の旅程に登場します。「それで私たちは、セイルに住むエサウの子孫である私たちの同族から離れ、アラバへの道から離れ、エラテからも、またエツヨン・ゲベルからも離れて進んで行った。そして、私たちはモアブの荒野への道を進んで行った。(申命記2:8)」
エドムの地を表す「セイル」は「ごつごつした」という意味で、もう一つのこの地の町は「セラ」は「岩」という意味です。実際、ゼレデ川を渡ってからペトラにに近づくにしたがって、岩々の奥地の中に入っていくような気分になりました。私の実家は東北地方にありますがそこは「みちのく」という言葉のとおり、東北自動車道を北上すると現実離れした“こもった”空間の中に入っていく気分になります。それと似たように、岩の中にこもっていくような不思議な気分になりました。
この空間に安住していたのがエドム人であり、オバデヤがこう預言したのです。「あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩(セラ)の裂け目に住み、高い所を住まいとし、「だれが私を地に引きずり降ろせようか。」と心のうちに言っている。(3節)」
ブセイラ=ボツラ?
私たちは、タフィラ(Tafila, 聖書名「トフェル」申命1:1)という、王の道の中にある比較的大きな町を通過します。、「ブセイラ(Buseirah)」という町を通りかかりました。写真に撮ったのですが写りが悪いので、Bibleplaces.comから借用したのを右に掲載しています。この現代名は聖書の「ボツラ」から来たものであり、ボツラはエドム人の首都であったところでした。
多くの人がここが「ボツラ」であると考えていますが、アーノルドは「ペトラ」がボツラであると考えます。アラブ語の名前"Butzeira"がペトラのすぐ隣に残っているからだそうです。いずれにしても「ボツラ」は、再臨の主イエス・キリストが、世界の軍隊と戦うために戻って来られる町として、非常に重要な位置を聖書預言の中で占めています。明日の旅で、ペトラについて話すとき、詳しく説明したいと思います。
8.ダーナ自然保護区
ダーナ自然保護区に到着しました。ガイドさんが、「バスから出たら、とても涼しい風に当たることができます。」と言っていましたが、果たしてそうでした。標高1500メートルの渓谷が、上で説明した低地ワディ・アラバまで一気に下っているそうです。風は、この渓谷から吹いてくるものです。310平方キロメートルの、ヨルダン最大の自然保護区です。数々の動植物にも恵まれているとのこと。題名のリンク先は、自然保護王室協会によるものですが、そこに360度のパノラマをダウンロードすることができます。私が撮った写真を下に掲載します。
左側
中央
右側
そして、こちらの映像もご覧ください。
9.ペトラに到着
そしてバスに乗って20分ぐらいすると、このエドムの山がさらに険しくなり、開放感がなくなり、こもってきて、現実感を失わせました。そこに突然、小さな村落、いや宿街が出てきます。それがペトラ観光に行くための町です。私たちは、そこをも通り過ぎて、入口まで徒歩で歩けるほどの近い所まで来ました。Petra Palaceというホテルです。
こんな岩の奥地によく町を建てたものだと感心しましたが、そんなので感動していては、紀元前後、ナバテア人がここに栄華輝く大都市を築いたのを見たら、びっくり仰天してしまうかもしれません。ホテルはなかなかの出来(?)でしたが、ルームメイトのアメリカ人二人は、はしゃいでいました。部屋の目の前にはプールがあるのですが、誰も入りそうもない侘しさを感じます。そして窓の鍵が壊れています。私たちはソファを押し付けて開けられないようにしました。小さな冷蔵庫はあるのですが、わずかに涼しいだけで、水を冷やすことはできません。トイレの便器は詰まっていて、「小」は流れるのですがどうしても「大」が残ってしまいます。そして冷房が送風でした!唯一、私が寒い思いをせずに快適に眠れた夜と言えるでしょう。
そして夜に、一室を借りて講義を受けましたが、その部屋も天井の扇風機がかろうじて回っています。電気がなかなか点きません。私がスイッチをいじくっていると、アーノルドに「せっかく点いているものまでが消えてしまうではないか!」と言われて怒られてしまいました。これぞ、先進国では経験できない貴重な体験です!エジプトでも似たような経験をしたし、私たちの第二の宣教地でも日常茶飯事でした。こうした不便をかえって喜ぶことのできる心を与えてくださった神様に、今は感謝しています。
明日は朝早くからペトラ観光で、午後はワディ・ラムに向かいます。