2019年トルコ研修旅行記 4月4日 その2
アティオキア


1.アンティオキアについて
2.ハタイ考古学博物館
3.ペテロの洞窟教会


(1.は「その1」へ)

2.ハタイ考古学博物館

コナク・レストランからハタイ考古学博物館まで(グーグル地図

 レストランからまた徒歩で中心街に戻り(写真)、バスに乗り込みます。そこから、シルビウス山沿いを北上して道をまっすぐ進みますと、10分も経たないで、ハタイ考古学博物館に到着です。



 ほんと、アンタキヤについては、何も知らなかったと思いました。先にアンティオキアが、ギリシア・ローマ時代に非常に繁栄した都市であったことを説明しましたが、ここのハタイ考古学博物館は、その時代のモザイク画において世界有数の展示をしているということです。ここアンタキアや近郊のタブネで発掘されたものを持って来ているとのこと。ここ、ハタイの地域の全歴史の考古学的発見を取り扱っていますが、古代の展示物を見ていた時に、ディレクさんに、「急いだほうがいいわよ、こちらが見どころだから」と言われて行きました。そう、半分以上がこちら、ギリシア・ローマ時代のモザイク画が中心だったのです。

 初めに、ハタイの歴史についての3D映像を見ました(写真)。

 旧石器時代からの展示が時系列的にありますが(写真)、この博物館のマスコット的(?)展示物は、何といっても、ヒッタイト帝国の王シュッピルリウマ1世です。いや~、冗談かと思うぐらい、目が大きくて、きのこみたいな頭をしていて、漫画チックな王様ですね!というか、ヒッタイト時代の彫刻って、こんな感じで、今の漫画やアニメの原画を描かせたら、成功するんじゃないか?と思ってしまうぐらいです。



 イスタンブール博物館で説明しましたように、アナトリアに繁栄した紀元前14世紀頃のこのヒッタイト帝国ですが、イスラエルの聖書の歴史の中にも、以前は「ヘテ人」と訳されていた人々がいたように、イスラエルの地域にまで人々がやって来ていたほど大きな領土と影響力を持っていました。(ダビデの忠臣の一人、バテシェバの夫ウリヤもヒッタイト人でした。)その礎を築いたのが、シュッピルリウマ王です。

 その後のギリシア・ローマ時代を含めて、全体の姿を動画で撮りましたので、ご覧ください。



 すごいのは、どうやって、床や壁のモザイク画をこちらに移動させることができたのか?ということです。ディレクさんが少し説明していますが、深く掘り出して持って来ているようです。神話的な人物、狩りの姿、ギリシアの神々が多いですね。幾何学的な模様もあります。(ユーチューブには、いろいろな動画が挙がっていますが、こちらがスライドショー的に流れるので、見やすいです。)

ブッフェ・モザイク


ペルセウスアンドロメダ


 こちらは、酔いしれたディオニュソス(ぶどう酒の神)


 この地域に特徴的な、ヤクト(Yakto)モザイクというのがあり、「メガロサキア(魂の偉大さ)」とも呼ばれるモザイクで、その中に当時のアンティオキアの様子、生活や通りを伺わせるものが多く描かれているそうです。(写真を撮ったのですがぶれているので、ネットにあったものをシェアします。)




 そして、サルコファガスという石棺もあり、すごい装飾でした。


 こちらのサイトに、展示物の写真がたくさん、まとまって掲載されています。

 そして展示館をでてきたら、博物館内のお店の前に、なぜか巨大な椅子が。座って、気持ち良かった。




3.聖ペテロ洞窟教会

ハタイ考古学博物館から聖ペテロ洞窟教会まで(グーグル地図

 博物館から次の目的地の聖ペテロ教会は、再び市の中心街に戻ること数分でした。そしてシルビウス山の麓にそれがあります。見ての通り、崖を掘ったところ、というよりも、洞窟を教会にしており「聖ペテロ洞窟教会」とも呼ばれます。



 世界には、いわゆる「最古の教会」というものがありますが、ここは本当に最古のものと言えるかもしれません。ファサード(前面の装飾)などがありますが、当時、ローマがキリスト教を公認する前、迫害下にある教会が洞窟で密かに集まっていたところを、公認後に教会として公に使用し、後になって内装や外装をしていったと考えられるからです。



 ディレクさんによれば、ペテロ、パウロ、バルナバはここで祈っていただろうが、千年後、1098年にアンティオケを攻め取った十字軍が、ここに入口のファサード装飾を施しました。このファサードも、原型のものではなく復元したものです。世界で最古と言えるのは、エルサレムで教会が誕生して、それからアンティオキアで教会が建てられましたが、その教会の一つであると考えられるからです。(注)

(注:私の考えとしては、ディレクさんの説明はちょっと違うかな?と思いました。洞窟で礼拝を守るのは、後にキリスト者に対する組織的な迫害をローマが加えるネロ皇帝の時代以降で、パウロ、バルナバ、ペテロがここに来た時には、外の使徒の働きの箇所にあるように、まだ迫害の手はそこまでひどくなかったと考えられるからです。

ネットで調べますと、アゴラ(Agora)の南にある、パルテノンの建物に近い、シンゴン(Singon, Siagon)街でパウロは説教をしていただろうと考えられるそうです(記事現在のアンタキヤとの位置関係)。ダフネ門(Daphne Gate)があり、その手前にケルビム門(Cherubims)がありますが、その辺りはユダヤ人が多く住むところで、おそらくに教会があったのではないか?とこちらのサイトでは説明しています。)

 洞窟の中で説明をディレクさんが続けています。教会堂を、パウロ、バルナバ、ペテロはできるわけがなく、迫害下にいるキリスト者は、公の集会を開くことはできなく、このような洞窟、またカッパドキアの地下都市のように地下で礼拝を献げていました。したがって、洞窟内にある装飾、床のモザイクなどはすべて四世紀以後ものです。1863年に大地震が起こり破壊されたけれども、1930年代に復元が行われ、祭壇やニッチ(壁龕)にペテロ像も備えました。そして、奥にある穴は、逃げ道でした。これは元々存在していたもので、この山の裏側につながっていた。ローマ兵が来た時に逃避することができるようにするためです。そして、水が集められているところは、水を飲むほかに洗礼を授けるためのものでした。

 そしてディレクさんは、なぜアンティオキアにキリスト者たちが来たのかを説明します。彼らがエルサレムに起こった迫害によって逃げたけれども、地の果てまで福音を伝える使命を果たすためでもありました。地の果てとしては、東方よりも、当時のギリシア・ローマ世界で動きました。そして、田舎で語るよりも、人々が集まる大都市に来ることによって、福音を多く広がるからです。そして、十二使徒たちのうちで、パウロがここにいたし、ペテロも一時滞在し、ピリポはヒエラポリスで殉教し、ヨハネは後年、エペソを拠点に活動していました。ですから、四人の使徒たちは少なくともトルコにいたということです。

 そして、洞窟の外に出て、町全体を見渡すことができました。アンティオキアの中部の山麓に位置していますから、右が北側、左が南側です(動画)。



 ここを背後に見ながら、ジェイさんが、コンスタンティノープルをでた後に、心にためていた思い、すなわち、新約聖書時代のユダヤ人の世界と教会の状況を語り始めます。



 ジェイさんが指さした方向、アンティオキア南部ですが、とても大切になります。聖書箇所はまず、使徒の働き13章から。ここで初めて、彼らはキリスト者と呼ばれるのですから、言うならば「最初のキリスト者の教会」と言えるでしょう。キリスト者は蔑称でした。ユダヤ人は、メシアを信じる派を嫌がるようになりました。異邦人を受け入れるようになったからです。それでユダヤ教の一派ではなく、「小さなキリスト」つまりキリスト者と区別するようになりました。「1 さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。3 そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。」第一に指摘することは、ここから最初の宣教旅行が始まったということです。

 ジェイさんは、ここが確かの教会の場所だったかもしれないとしながらも、南方に広がる市街地を指し示します。南北に列柱通りがあり、南のほうはユダヤ人居住区だったのです。ダフネ門がそこにありますが、その辺りです。ここがローマ帝国の第三の都市でありました。そして、知らないといけないのは、当時の小アジアは10%がユダヤ人でした。まずは、バビロンがエルサレムを攻めて来て、その時にユダヤ人は逃げて、ここにたどり着きました。そしてアレクサンドロス大王のもたらしたヘレニズムの世界で、ユダヤ人は自治が認められました。ギリシア人を守るために勇敢に戦ったユダヤ人たちもいたのです。時のプトレマイオス朝は、ユダヤ人戦士たちに給与を倍増し、免税までしました。さらにユダヤ人の存在が大きくなった理由があって、次の訪問地タルソや、フィラデルフィアに行った時にも話しますが、その南の地域で彼らが宣教の働きに選び別たれます。

 そして、ここでまた別のことが起こりましたが、アナトリア中部、ガラテヤの地域にパウロが書いた手紙にあります。ガラテヤは、ピシディアのアンティオキアやイコニウムもそこに含まれるかもしれません。ガラテヤには、他の小アジアと同じように異邦人とユダヤ人のどちらもいます。ユダヤ人の存在があるので、福音がその共同体から広がっていきます。そこには、ギリシア人だけでなくガリア人もいたのです。つまりケルト人が紀元前二世紀頃にこの地域に来ました。赤毛でトルコ色の目をして、かなり白人っぽい人々です。西欧から来ていますから。ディレクさんが、ペルガモンの遺跡のところで、ガリア人の話をしてくださいます。

 そのガラテヤの人々に、パウロが非常に大切なことを伝えます。「2:11 ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。12 ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動(=「偽善」)に引き込まれてしまいました。」ディレクさんが教えてくださいましたが、「エルサレムが教会の誕生の地であれば、トルコは揺り籠である。」つまり、アンティオキアの教会からアナトリアの西方へ向かって、幼児となった教会が進んでいきました。

 パウロたちが、宣教旅行からアンティオキアに戻ってきたら、一悶着がありました。「キリスト者になりたければ、まず改宗ユダヤ人にならないといけない。割礼を受け、安息日を守り、食物規定も、数々の掟を守って、ユダヤ教の一派にならないといけない。」と教えている人々がいたのです。ペテロが、割礼派の人たちが来たら、揺れ動いてしまい、バルナバまでが引き込まれました。パウロがペテロに面と向かって非難しました。これが、教会史において最も大切な一里塚となったのです。パウロは、偽りの行動を非難したのですが、その偽善は、元々の意味は「仮面」ですが、道化師という意味合いがあります。かなり厳しい批判の言葉であります。そして14節以降も、パウロの非難が続きます。

 この出来事があってから、使徒の働き15章があるのです。ここで大きな論争が起こりました。パリサイ派は、メシアを信じる一派ですが、メシアを信じる者になるにはユダヤ教に改宗しないといけないと信じていました。パリサイ派は、ユダヤ人の世界をヘレニズム化から守る役割を果たしていました。タルソで、この意味をお話しします。そして、パリサイ派は非常に律法主義的でした。パウロもパリサイ派でしたが、律法主義的にはならず、異邦人にこれらの規則を守らなくとも受け入れていきました。それでアンティオケで大きな論争になりましたが、「では、エルサレムで決着をつけよう」ということになり、エルサレムに向かいます。

 エルサレムの教会に使徒たちがおり、そこで決着をつけます。イエス様の肉の弟であるヤコブが教会の監督となっていました。ここで異邦人のそのままの救いを擁護したのが誰でしたでしょうか?ペテロですね!パウロの側につき、律法を異邦人に課すのは間違っており、恵みの福音に反する。ペテロは、パウロの非難を受け入れていたのです。ペテロは、学者ではない、教育のない者です、いろいろ揺れ動きました。けれども、パウロが正しいと思い直したのです。これほど強く非難されたのに、ペテロはエルサレムでパウロの最初の擁護者になったのです。

 エルサレムは教会の本拠地でしたが、アンティオキアが宣教の本拠地となりました。ここは、東方と西方の十字路だったからです。国際幹線道路は、シルク・ロードもあれば、サルディスに向かう「王の道」もあります。エステル記の背景にもなる道です。ここアンティオキアの教会の人たちがいわば、門衛となりました(交通や通信を監視、管理する人のことを比喩的に指します)。田舎ではなく、大都市だからこそできることです。なので、宣教者らはここに戻ってきました。ルカもここから出ています。

 こうして、これからの旅で、今の話に戻って来て、鋭く斬り込んでいきます!以上ですが、いや~、すごかったです!!次の日、タルソでは、ジェイさんのメッセージは倍増し、炸裂しますので、お楽しみに。

セレウキアという港

 今回、私たちの旅では行けませんでしたが、パウロとバルナバが宣教旅行に旅立つセレウキアの港の跡もあります。「二人は聖霊によって送り出され、セレウキアに下り、そこからキプロスに向けて船出し、・・(使徒13:4)」アンティオキアから南西に30㌔ぐらいのところですね。(グーグル地図



オスマン宮殿ホテル(Ottoman Palace Hotel)

聖ペテロ洞窟教会からホテルまで(グーグル地図

 先の動画を見てもらってお分かりでしょうが、もう日没が近づいていました。ペテロ教会から宿泊ホテルまでは、20分ぐらい。アンタキヤは小さな町で、町から少し離れるとそこは、だだっぴろい平地になりました。ぽつり、ぽつりと建物がある中で、大きな建物、オスマン宮殿ホテルに到着します。その名の通り、めちゃくちゃ、トプカプ宮殿を思い出すような、王宮仕込みに装飾したホテルでした。(写真集)部屋の中はこんな感じ。



 ダイニングもとても広く、テーブルがたくさん並んでいて、小さなショー(音楽など)が行われていました。でも、男ばっかりで、なんかイスラム教の国なんだな、保守的だと思いました。そして、我々、日本人の男たちが楽しみにしていたのは、温泉スパとプールです。熱いお風呂に入りたいですね。そして、我々が童心に戻ってしまったのは、こちらの屋内プール。



 上から、螺旋のパイプになっている滑り台がありました。ホテルの人に、「水を流して!」とお願いしたら出て来て、何度も何度も滑っては楽しみました。もう一人、仲間の牧師さんもやってきて、いっしょに和気あいあいと楽しみましたね。良い思い出です。