2019年トルコ研修旅行記 4月4日 その1
アティオキア


1.アンティオキアについて
2.ハタイ考古学博物館
3.聖ペテロ洞窟教会



歴史探訪から聖書探訪へ

 私たちは、歴史遺跡の濃厚なイスタンブールを離れ、ついに聖書の、使徒の旅を辿ることになります!初めにご紹介したように、この度の最も大きな醍醐味は、「アンティオキアの教会から、小アジアにおけるパウロたちの宣教の旅を辿ることができる」というものです。もう一度、初日にお見せした地図をご覧ください。



 この赤線の部分が、私たちの初めの移動です。イスタンブールのアタトュルク空港からトルコ航空の国内線に乗りましたヨシュアさんとの写真。機内でのサービスは、いつもと変わらず、トルコのパンのおいしいサンドウィッチですが、お昼はアンタキヤのとてもおいしい地元の料理をいただけると聞いていたので、一口、二口だけで控えました。機内乗務員は、私が日本人であることを知って、日本語でサービスをしてくださいました。かつては日本からの観光客が多かったトルコ、また戻ってきてほしいですね。

 イスタンブールからアンタキヤ(アンティオキアの今の町の名前です)に向かう気分は、イスラエルでいうならば、ちょうど、エルサレムから北上して、地中海のカイサリア、そしてガリラヤ地方に行く感じでしょうか。いわゆる、地方に行きますし、また保守的、伝統的なところからもっと多文化的なところに行きます。比較的、気温が低いところから温暖な所に行くというのも似ています。イスタンブールは歴史の重厚感に圧倒されますが、アンタキアは多くの歴史はなくとも、宣教的に要になったということにおいても、エルサレムからカイサリア、そしてガリラヤに向かうというのも似ています。降り立ったハタイ空港は、本当に小さな空港で、降り立った時の気候がとても温暖で、心も緩みました。

 アンタキヤは、見ての通り、南はレバノンで、東には目の前にシリアがあります。ローマ時代はシリアの属州であり、近代もフランス委任統治時代はシリアの一部として編入されていました。そして、シリア難民のキャンプもあるところです。2019年4月に旅をしたわけですが、2018年10月にシリアに長いこと拘束されていたジャーナリスト、安田純平さんが解放され越境したトルコの町は、ここアンタキヤです。日本の外務省の安全情報でも、シリアの近くということで、レベル2の注意喚起が出ていましたが、ディレクさんはいたって平穏な町だと言っていましたし、行ってみたら、ほんとそうでした!とても穏やかで、我々、観光客に道端の人たちが挨拶をかけ、とても友好的です。ディレクさんの説明によると、トルコの中で、平和と共生で有名な町で、ユダヤ人、キリスト教徒、イスラム教徒が平和に暮らしてくるそうです。古代有数の、多文化、多民族の国際都市、そしてユダヤ人と異邦人が共生する教会を生み出したアンティオキアの霊的遺産を受け継いでいるのかもしれません。(動画


1.アンティオキアについて
(古代アンティオキアの探索するブログAntiochepedia

ハタイ空港から、アンタキヤ市内のレストラン"Konak"まで(グーグル地図

 上のグーグル地図をクリックして、広範囲を見るためにズームアウトしてみてください。すると、右側、シリアは黄褐色になっていて、アンティオキアのところから緑の渓谷が広がっているのがお分かりになると思います。シリアのほうから流れるオロンテス川が町中を北から南に流れています。アンタキヤの東は色濃い緑色になっていますがシルビウス山といいまして、アンティオキアは、この山腹からオロンテス川一帯に広がる町で、現代のアンタキヤも同じところにあります。(ローマ時代の考古学的地図)そのため、あいにく、古代遺跡の発掘が町全体の真下にあるため不可能な状態で、考古学的遺跡がほとんど見られない状態です。その代わりではないですが、ハタイ考古学博物館には、この付近で発掘された、世界有数のモザイク画が展示されています。


参考:現在のアンタキヤを数多く撮影した写真集

 それでも、そのわずかに残る遺跡を辿っているブログ「アンティオケペディア」があり、そこからいろいろな発見をすることができそうです。

トルコ全土と全史から、アンティオキアをズームアップ!

 空港からお昼ご飯を食べるレストランに向かう途中で、ディレクさんがすばらしい講義を、バスの中でしてくださいました。まさに、「トルコ全土と全史から、アンティオキアを見る」というすごわざです。2018年のトルコ・ギリシア旅行でもしてくださったように、バスの正面の上にトルコ地図を掲げて説明してくださいました。



 トルコのほとんどはアジアで、歴史には「小アジア」とも呼ばれ、また、「アナトリア(日出る地)」とも呼ばれます。イスタンブールの以西のごくわずかなバルカン半島の南東端がヨーロッパで、ブルガリアとギリシアと国境を接しています。トルコの地の北は黒海、南は地中海、西はエーゲ海です。これは、まるで島のよう、半島のように見えますね。そのため、東西南北を行き交う貿易路になっています。それで東西では、アジアと欧州の架け橋、南北ではロシアと北アフリカの架け橋になっています。それで、何世紀にも渡って、数多くの文明が発展しました。

 東方の故郷を見ますと、世界で物義をかもしている国とも接しており、トルコが地政学的に挑戦的な所にいることが分かります。北東はジョージア、次、アララト山のあるところではアルメニアと接しています。この二国との問題はありませんが、次にイランとの国境が長く続いているのです。1979年以降のホメイニ体制のイランと隣国であるのは容易なことではありません、イスラム原理主義を持ち込もうとするからです。そして南に、長くイラクとの国境があります。そして、シリアとの国境も長く続き、アンタキヤのところまで伸びているのです。シリアもまた世界で困難を極めている国として知られており、イラク北部も多くの問題があります。イスラム革命の前も、イラン・イラク戦争がありました。イラクも、フセイン政権が倒れて不安定になりました。そして、難民の問題が、アンタキヤのところにも存在します。8-9年に、5百万人のシリア難民を受け入れました。アンタキヤ郊外にも難民キャンプもあります。そこで泊まるところ、勉強など生活を限らせていますが、たまに現地人との摩擦もあります。経済は不況続きなので、この負担は大きいです。

 そして、アンタキヤの地理的位置ですが、見ての通り、シリアの一部であったことがよくわかります。ローマのシリア属州であり「シリアのアンティオキア」または、「オロンテスのアンティオキア」と呼ばれます。

アンティオキアの東には、創世記からの人類歴史がてんこ盛り

 アンタキヤから北東に300㌔ぐらいのところに、「ウルファ」という、シリア国境に近い町があります。ムスリムの人たちは、ここがアブラハムの生まれ故郷「ウル」であるとしています。けれども、ウルはイラク南部、ユーフラテス川沿いにある遺跡だと言われています。けれども、その南に集落「ハラン」があります。ここがまさに、アブラハムが父テラを引き連れて、滞在していた町です。

 そして、ウルファから東20㌔にある遺跡、「キョベクリ・テベ」が、人類史上、これまでの定説を覆す遺跡として、比較的最近、世界遺産化しました。紀元前1万年前のものとされています。定説では、狩猟採集をしていた石器時代です。これまでは、文明の出発点は農耕にあり、狩猟採集では安定した生活が営めないので、農耕によって人々がようやく定住し、それから社会ができ、経済が発展して、文明が誕生するというものです。ところが、その時代のはるか前に、高度な建造物、しかも宗教施設を造り上げているのです。つまり、「最初から神の存在があった」ということ。それで初めに神殿が造られて、集団生活を営むために農耕や畜産が必要になった、ということ。つまり、「本当に、神が世界を創造した」ということになるのです!ジェイさんによると、ここには偶像礼拝の痕跡がない、創造主をあがめていたしるしがあるとのこと。これ、めちゃくちゃすごいことです。

 ここら辺は、創世記の記述そのものなのです。さらに、このウルファ周辺の全域、トルコ南東部は「ユーフラテス川とティグリス川の間」つまり、メソポタミア地方であり、ここ辺りにエデンの園がこの辺りにあったのではないか?とも言われています。(イラクにも、そう言われている地域がありますが。)さらに、アブラハムの一時滞在したところでもあり、その時は月の神が拝まれてましたから、初めの創造主信仰から、バベルの塔の影響で偶像を拝むようになったという筋書きも成り立ちます。そして、古代文明に生きていた、シュメール人、アッカド人、アッシリア人、バビロニア人なが、このメソポタミアの人々です。このうち、アッシリア(アシュル)とバビロニア(バベル)が、創世記に出てきます。その後に、次々と帝国があり、そして、ギリシア帝国、ローマ帝国と続き、中世近代はトルコのオスマン帝国へと続きました。

 地球の歩き方で、このウルファという町を見ますと、これは行きたーーい!っとなってしまいました。この人類史上最後の遺跡から、アブラハムの族長時代、それからヒッタイト人など、聖書にも出て来る人々の歴史、そしてギリシア・ローマ時代には「エデッサ」と呼ばれる都市になり、そこからもっとすごいのは、アンティオキアから異邦人の教会が始まるのですが、ここエデッサでは古くて二世紀からキリスト教が発展したところでもあるとのこと。「シャンルウルファ博物館」は、実はトルコ最大の考古学博物館で、この人類の聖書的通史をいっきに眺められてしまうというスゴ物。東部にはアララト山があるし、いつか、「トルコ中東部の旅」みたいなものをやってみたらいいですね。(例:日本の旅行社が企画したモデル・コース

ギリシアから始まり、ローマで繁栄するアンティオキア

 アンティオキアに戻りますと、先史の遺跡も見つかっており、アダムとエバから始まる古来の歴史はすでにあったとあります。また、ヒッタイト王国もありますから、紀元前二千年から紀元前九世紀の遺跡もあります。それで昼食後に訪れるハタイ考古学博物館は、後期ヒッタイト王国の王、シュッピルリウマの彫像があります。ヒッタイトは海の民によって滅び、古代ギリシア人の植民がアナトリアに始まるまです。トロイから地中海沿岸に定住します。そして紀元前330年に、ギリシアにアレクサンドロス大王が出てきます。トロイから上陸、ペルシア帝国の頸木からギリシア人の植民地の町々を再征服し、パレスチナ、メソポタミア、ついにインドまで征服しますが、若年で夭折します。

 そして、残された帝国は、四人の総督によって分割されます(地図)。ここら辺は、ダニエルの預言(四つの頭のある豹)ですね。トルコ北西部をリュシマコスが支配しますが、ペルガモン王国を築きます。そしてトルコ南西部はセレウコス一世が支配して、セレウコス王国が始まります。それからエジプトにはプトレマイオス王国が始まります。それからカッサンドロスによる、ギリシアのマケドニア王国です。アンティオキアは、セレウコス一世が父アンティオコスに因んで付けた名です。(彼は、ピシディアにも同じように父の名に因んで名前を付け、後日、「ピシディアのアンティオキア」を訪問します。)セレウコス一世が死ぬと、ここはセレウコス朝の首府となり、ヘレニズム時代の典型的な都市になりました。

 ところで、後でジェイさんが解説しますが、ここにはユダヤ人が多数居住していました。前二世紀にユダヤの地でマカバイの反乱が起こりましたが、セレウコス朝のアンティオコス・エピファネスによる大迫害、徹底的なユダヤ人のヘレニズム化が起こったのですが、ここにいるユダヤ人もセレウコス朝の支配下にあったため、大変な難にあったと言われます。


こちらのサイトには他にもいろいろな再現図があります。)

 そしてローマが、ギリシアを倒すと、アンティオキアはさらに繁栄します。ローマのシリア属州の首府になりました。ヘレニズム都市からギリシア・ローマ都市として変貌し、ローマ、アレクサンドリアに次ぐローマ帝国の三大都市の一つとなりました。人口は50万はあったと言われます。ローマでは3分の2は奴隷でしたが、キリスト教が広がったのは、キリストにあって一つであるという教えがあったのもその一つです。ギリシア・ローマ社会における宗教は富裕層のもので、自分たちは蚊帳の外にあったのですが、使徒たちがやって来て、「あなたがたも、キリストの御名で救われる。あなたがたの功徳によるのではない。」という使信を持って来たのですから、受け入れていきました。ギリシア・ローマの神々は、「あなたがたがこれこれを行えば、祝福が来る」と教えていたのに対して、恵みの福音でした。

異邦人宣教の始まり

 こうやって解説をディレクさんがしながら、アンタキヤ市内に入ってきました。その前に、アンティオキアの教会の意味を改めて記したいと思います。神の救いのご計画の中で、イスラエルとトルコの二つ、正確には三つ、分岐点となる町があります。一つは、イスラエルのカイサリア。ローマのユダヤ属州の首府です。次に、ここシリア属州のアンティオキア、そして2018年4月に夫婦で訪れた、トロイの近くにあるトロアスです。「異邦人への宣教」の御心が明らかにされた分岐点でした。

 カイサリアにおいて、使徒ペテロが百人隊長のコルネリウスの一家が、異邦人であり、割礼も受けていないのに、ただ福音を聞いて信じで聖霊のバプテスマを受けました。しかし、それで異邦人伝道への道が開いたわけではありません。エルサレムにいる兄弟たちは依然として、救いはイスラエルに与えられており、異邦人はユダヤ教に改宗してこそ初めて救われるという従来の考えを持っていました。しかし、ペテロが順序だてて説明して、少しずつ異邦人に対する神の恵みを知るようになります。

 エルサレムで、ギリシア系ユダヤ人七人が執事として選ばれ、その一人、ステパノが殉教します。その時に初めて、彼らは否応なしにエルサレムを出て行かなければなりませんでした。イエス様が昇天前に弟子たちに命じられていた、「エルサレムとユダヤ、サマリア、そして地の果てまで、わたしの証人となる。」という御言葉があっても、エルサレム止まりだったんです。しかし、大事な箇所があります。「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。(9:4)」これで福音宣教の広がりが起こったのです。

 その間に、ステパノの殺害に同意し、キリスト者への迫害に燃え上っていたサウロ(後にパウロ)が、ダマスコの途上で、復活のイエスに会います。しかし、エルサレムでは彼を恐れて受け入れるような雰囲気がありませんした。そこに、キプロス出身の、ギリシア系ユダヤ人のバルナバが、パウロの回心について説明し、ようやく受け入れられます。それでも、パウロはイエス様から、ここから逃げなさい、異邦人に遣わすと命じられていたのです。それで、彼は故郷である、キリキア州のタルソに戻ります。(4月5日、次の日に訪問します。)

 そうこうしているうちに、「ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア(今のレバノン)、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった。(11:19)」とあります。けれども、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。(11:20)」ここです、キプロスやクレネ出身のユダヤ人が、同じくギリシア語を話す異邦人にも福音を宣べ伝え始めたのです。そこで、大勢の人が信じて、主に立ち返ったのです。

 エルサレムには、キプロス出身のギリシア系ユダヤ人であるバルナバが、教会によって遣わされてアンティオキアに来て、神の恵みを見て喜びました。そして彼は、タルソにいるパウロを呼び寄せ、彼にも、ここの教会で教える働きを手助けしてもらったのです。そして、アンティオケの教会いおいて、周囲の人々が彼らのことを「キリスト者」と呼ぶようになります。これは、日本語で言うならば「耶蘇」と呼んでいるようなもので、蔑称なのですが、彼らはむしろ、キリストに従っている者として誇りに思っていました。

 
アンタキヤ市中を南北に流れるオロンテス川


 この教会は、都市の国際的な環境を反映していました、いろいろな出身の人々が集まる教会となりました。「バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。(13:1)」その時に聖霊が語りかけ、バルナバとサウロを聖別して、福音宣教の働きに遣わしたのです。このようにして、アンティオキア以西の世界に福音を伝える拠点となる教会となりました。ここから、使徒の働きには、三度の宣教の旅が記されており、パウロは囚人としてローマにまでたどり着くところで終わっています。

 同時に、アンティオキア教会は、エルサレムの教会とバルナバを通して直接つながりのある教会ともなり、飢饉が起こった時は、パウロとバルナバは救援物資をエルサレムにいる貧しい兄弟のために持っていきます(11:27-30)。

 ここに、異邦人への神の救いについて、最終的な決着を付けるきっけかになったのもアンティオキアです。ある人々がユダヤから来て、「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。(15:1)」としました。それでパウロとバルナバは、エルサレムに行き、この問題の決着を、エルサレムに指導者たちと共にはかりました。ペテロは、カイサリアでのコルネリウスの回心を上げ、ヤコブは、アモス書から、異邦人への救いを確認しています。これで、エルサレムにおいてもアンティオキアにおいても、神のご計画が確認されたのです。

 それでも、ユダヤ人にある慣習は根強くあり、ユダヤ主義と呼ばれる異端が、パウロの異邦人宣教には付いて回りました。二日後に行く、カッパドキアはガラテヤ地方にあります。ここアンティオキアから、ガラテヤにいる兄弟たちにパウロは手紙を書き、異邦人なのに、割礼を始め、各種のユダヤ人の掟や慣習を守っていた者たちに、それでは恵みから外れてしまうと警告を与えました。ここで、ペテロやバルナバが、異邦人との食事の席を、エルサレムから来た者たちの前で離れて行ったのを、公然と責めているパウロの姿がガラテヤ2章にあります。

 アンティオキアの現場、ペテロ洞窟教会やハタイ考古学博物館などから、この教会の魅力を伝えているとてもきれいな動画がありました。

 そして、トロアスでは2018年の旅で説明しましたように、そのパウロとて、アジアから離れた宣教を想定していなかったところ、ギリシアとローマへの宣教の道が開かれたのは、トロアスで、マケドニア人の助けを夢で見たというところから始まります。このことで、私たち非ユダヤ人、異邦人が、イエス・キリストの福音にあずかった恵みがあるのです。


古代教会の発展

 アンティオキアは、使徒たちの時代の後も教会の中心的存在であり続けました。十二使徒を直接しっている指導者、一、二世紀の教会指導者たちを「使徒教父」と呼びますが、その中の一人が「アンティオキアのイグナティオス」です。日本語でも、「使徒教父文書」によって読むことができますが、イグナティオスはアンティオキアからローマに連行されて、そこで殉教しますが、教会に向けて七つの手紙を送っています。後に、キリスト教会の指導者(総主教)が置かれる五大総主教座の一つになります。

 ここら辺の歴史を知るには、第一日目の旅行記でご紹介した、「キリスト教の"はじまり" 古代教会史入門」がよいでしょう。ローマによる公認前の教会の姿は、非公認ですから、遺跡として、遺物として残っていることが非常に少なく、想像するしかない部分が大きいですが、アンティオキアは、相当な人口を有して、市内は過密状態だったようです。100年には47万㎡に7万5千人が住んでいたとのこと。("Biblical Turkey" by Mark Wilson)首都ローマでは、インスラと呼ばれる集合住宅に住み、下水道施設が整えられていなかったので、上階の人たちが排泄物をそのまま道路に投げるという不衛生の状態だったようです。「家の教会」といっても、そんな多くの人が入れない所だったに違いありません。または、エルサレムのマルコの家のように、裕福な人の家で礼拝を守っていたかもしれません。またユダヤ人共同体が大きかったので、会堂も使われていたことでしょう。

 アンティオキアは、偶像礼拝や道徳的退廃もすごかったようです。ローマの詩人、ユウェナリスは、アンティオキア人のローマへの流入を「シリアのオロンテス川の下水が、ローマのテヴェレ川に流れ込んだ。」と言ったそうです(記事)。その中で、愛の共同体意識が非常に強く、階層的社会の中で特異であり、磁石のように人々を引き付けた、とも書いてあります。


レストラン「コナク(Konak)」へ

 私たちはバスを、市のほぼ中央部分に位置するロータリーのところで降車して、エキゾチックな古風な建物の間の小道を歩いて、レストランに行きました。



 レストランの中は、中庭のところ(写真)、出て来たトルコ料理は、アンタキヤ独特の、シリアや他の料理も加味されたトルコ料理だとのことで、下の写真では中東の名物フムスもありますね。ケバブも有名らしいです(写真)。



 旅行仲間の写真もありますので、こちらを見てください。(写真1写真2写真3)

 こちらに、アンタキアの紹介「五つの見どころ」として紹介していますが、5つ目が、アンタキアの食べ物、そしてここコナク・レストランの様子が出ています!


(2.と3.は「その2」へ)