2019年トルコ研修旅行記 4月2日 その2
イスタンブール①

1.テオドシウスの城壁
2.カーリエ博物館
3.アヤソフィア
4.ミリオン(道路元標)
5.古代東方博物館
6.考古学博物館
7.ボスポラス海峡クルーズ


(1.から3.は「その1」へ)


4.ミリオン(道路元標)

 アヤソフィアを出た後、徒歩でほんの1分のところ、目と鼻の先に、一本の石柱が立っていました(地図)。ここでジェイさんがお話しをするというので、ちょっとわくわくしていました。

 ウィキペディアで調べると、「ミリオン」は、ローマ帝国における道路元標の役割を果たしていました。石柱は、これ一本で成り立っていたのではなく、こちらの復元図にあるように、四面のアーチの上にドームが載っていた記念碑のようになっていて、残されてるのはその柱のごく一部です。

 私も、ヨルダン旅行に行って旅行記を書いている時に、マイルストーンという存在を知りました。起点である道路元標からどれだけの距離があるか記しています。都ローマからはるかに遠い地域でも、ローマ街道によって、ヨルダンやイスラエルにまで道をつなげていて、まさに「すべての道はローマに通じる」と言われた所以です。主要な街道には、起点からの距離を、1ローマ・マイル(1000歩)毎にマイルストーンを設置しました。本当にローマ帝国は、ローマを中心にした世界をしっかりと線で結びたいと強く願っていたことを感じています。

 ローマにある黄金の里程標が全てのローマ街道の起点とされていました。コンスタンティヌス帝がここに都を再建する時に、改めて起点を定めて、それがミリオンであり、コンスタンティノープルからの距離を測る基準となったのです。では、ジェイさんがどのような解説をしているかを聞いてみたいと思います。



 ローマ帝国は東西に分裂して、西ローマは衰退していきました。ローマの東西の分け目になるのは「言語」です。西がラテン語なのに対して東がギリシア語です。キリスト教も西はカトリック、東はギリシャ正教会です。ミリオンからローマへの街道が敷かれ、テサロニケまでつながり、それがアッピア街道に海路でつながり、ローマに通じます。先ほど見た、ハギア・ソフィアが象徴的な世界の中心であれば、ミリオンは文字通りの世界の中心となりました。西ローマが滅んでからは、これが唯一の中心です。

 そしてこれが、「預言の成就」なのです!ダニエル書2章、ネブカドネツツァルの見た夢、人の像、金の頭(バビロン)、銀の両腕と胸(メディア・ペルシア)、青銅の腹と太もも(ギリシア)、そして鉄の二本の脚です。そう、東西に分かれたローマの姿です。

 古代ギリシアの植民地ビザンティオン(後のコンスタンティノープル)の、ボスポラス海峡を挟んだところに、さらに古い植民地カルケドンがあります。後にそこで教会の公会議が開かれたところです。ここは、地理的に非常に戦略的なところです。金角湾があり、マルマラ海があり、険しい半島の先端部分になります。マルマラ海からはエーゲ海に行けますし、ボスポラス海峡を北上すれば中央アジアにも行けます。しかし同時に、その地理は脆弱でもあります。しかし、巨大なテオドシウスの城壁を設けました。掘があり、20㍍の空地があり、そして外壁があり、また空地と掘り堀があり、そして内壁があります。火砲が導入されるまでは無敵の壁でした。(CGによる復元動画

 ということで、当時の世界の中心地点に立ったこと、それからこれが、ダニエルの解き明かした夢の、鉄の二本の脚の成就であることをジェイさんは解説してくれました。格好いいですね!キリスト教の歴史やローマの歴史の遺構だけのイスタンブールだと思っているところに、聖書預言の成就を見ました。


アダマル・ホテルの昼食

 お昼ご飯の時間になりました。このミリオンからまっすぐに260㍍歩くと、到着です(地図)。見ての通り、窓からは、今、ジェイさんが説明したとおりの、戦略的な地理を仰ぎ見ることのできる、金角湾、ボスポラス海峡を窓から見渡せるレストランでした。(写真)食後、屋上に上がり、全貌を見渡しました。(初めに見える海をボスポラス海峡と解説していますが、おそらく金角湾の間違いだと思います。)




5.古代東方博物館

アダマル・ホテルからイスタンブール博物館群まで(グーグル地図

 地図で見るように、ホテルから徒歩でも行ける距離に、アヤソフィアの裏手に、イスタンブール博物館群があります。三つの博物館が一つの敷地の中にありますが、「考古学博物館」が本館で、「古代オリエント博物館」もあります。私たちが初めに行ったのは、こちら古代オリエント(東方)博物館です。これまではキリスト教の歴史中心でしたが、ここからはたっぷりと、聖書の世界に突入します!

 入口(写真)を入っても、しばらく上り坂を歩いて、到着しました。猫ちゃんみたいな古代の石の彫像が出迎えてくれました(後記:ヒッタイト王国のライオンでした!)。そしてこの前で、マイルズさんと奥様キャサリンさんと写真を撮っています!


 話を聞くと、マイルズさんはユダヤ人の兄弟。ご夫婦で、メシアニックの働きをしておられることを知り、びっくり!かなり精力的にご奉仕されています。 ⇒ Myles & Katharine Weiss - House of Peace

 この古代東方博物館、心がしびれました!!だって、いきなり、バビロン帝国のイシュタル門にあるレリーフ(浮き彫り細工)の現物が展示されているのですから!(ライオンの写真オーロックスの写真)これは、聖書辞典であれば掲載しているお馴染みのレリーフなのです。




神の都エルサレムに対抗する世の都、バビロン

 なぜ、イスタンブール博物館に、古代バビロンの遺物があるのか??オスマン帝国の後期、18世紀には古代オリエントと古代ギリシア・ローマの探索に興味を持ち、すでに近代化が始まっていたとのことです。その胎動が、1923年のトルコ共和国の成立につながります。

 バビロンは聖書全体のテーマです。創世記、ニムロデの建てたバベルから始まり、黙示録17-18章の大淫婦バビロンで終結を迎えるという、世の制度を象徴した存在です。新バビロニア帝国とも呼ばれる、ネブカドネツァルによって始まった世界帝国が、エルサレムとその神殿を破壊し、約束の地からユダヤ人を引き抜いて、捕え移しました。そのため、イザヤやエレミヤを始め、数多くの預言者が、その歴史にあるバビロンについて預言し、また終わりの日のバビロンの幻を預言しました。

 そしてこのバビロンに住んだことがあるユダヤ人が、ダニエルとその友人三人です。ジェイさんは、「牧者のみなさんは、ダニエルたちがこれらのレリーフに取り囲まれながら生活していたことを想像しながら、教えていくのです。」という、想像と共感を聖書を教える時に大事にしなさいという勧めをしました。

 ぜひ次の、ブログ記事に入ってみてください。当時のバビロンの復元をCG化した動画を紹介しています。

女王バビロン

 それからディレクさんは、とても興味深いことを教えてくださいました。バビロン捕囚によってユダヤ人が紀元前六世紀に離散しましたが、同じ時期にユダヤ人たちが第一波として、小アジア、つまりトルコにも離散してきたとのこと。なるほど!これが使徒の働きで、どこにいってもユダヤ人がそこに住んでいた背景です。明後日、アンティオキアに行きますが、そこで相当のユダヤ人が住んでいたという話を、ジェイさんが行います。

ヒッタイト文明

 次に見たのが、ヒッタイト王国の遺物です。こちらも、もろ聖書に出て来る人々。かつての聖書では「ヘテ人」と訳されていた人々で、ダビデが姦淫の罪を犯したバテシェバの夫ウリヤが、ヒッタイト人です。

 古代、北アフリカにはエジプト王国があり、メソポタミアにはバビロン王国がありましたが、ここトルコ、アナトリアにはヒッタイト王国がありました。ちなみに古代ギリシャでは、ホメロスなどがいたミケーネ文明がありましたが、これらに競合していたアナトリアの王国が、ヒッタイトでした。

 ここが興奮することですが、しばらくの間、ヒッタイト人の存在は、聖書に出て来る「ヘテ人」としか知られておらず、フェニキアやカナン地方に小さな部族ぐらいにしか考えられていなかったのですが、20世紀初頭、ドイツの考古学者によって、トルコの首都アンカラの東に、わんさと遺跡が発掘されました。首都は「ハットュシャ」と呼ばれ、世界遺産となっています。粘土板は実に3万枚だとのこと!それで、エジプト、バビロン、ギリシアに競合する超大国であったということです。

 2018年の旅行記の始めに、トルコの歴史を概観しましたが、これを機にぜひ読んでみてください。なぜ、私がトルコに魅せられているか、ご理解いただけるかと思います。これまでの定説をぶっ壊すような考古学的発見、世界遺産となる所が出てきて、それが、聖書に書かれていることに近づいているからです。「オリエント」の項目で、ヒッタイト文明の紹介をしています。

 そして、ディレクさんによると、ヒッタイト人の起源は、ロシア辺りではないか?ということ。そして、ヒッタイト語は、最古のインド・ヨーロッパ語だということ!これも驚きですね、英語やその他の欧州の言語のルーツ的存在です。古代ギリシア語ではなかったのですね。そして、展示物の説明をしてくださっていますが、とても豪快ですね。背後の大きな男性と右の男性が向かい合っている彫刻(写真)は、大きな男性が濃厚のヒッタイト神で、それをヒッタイト王が仰いでいる姿のようです。思わず頭をなでたくなったのは、玄武岩でできた二匹のスフィンクスです。

 そして、前1286年に「カデシュの戦い」というのが行われたようで、古代エジプトとヒッタイトがシリアのオロンテス川一帯で繰り広げたようです。これが公式な軍事記録に残された戦争であり、その後、両者が結ぶ平和条約は、人類史上初なのだそうです。そして、その粘土板も、この古代東方博物館に展示されていて、ディレクさんが案内してくださいました。実はレプリカが国連本部ビルにも掲げられているとのこと。こんなに重要なのに、ほんとに知られていない歴史でしたね。

 この案内の後、少しの間、自分で見物する時間がありましたが、こちらWikipedia Commonsの「古代東方博物館」で検索したものを見ていただくと、いろいろ見られます。


6.考古学博物館(ウィキペディア

 私たちは、同じ敷地内にあり、本館である考古学博物館に移動しました(グーグル地図)。上の考古学博物館紹介のサイトを見れば分かりますように、ともかく膨大な展示物があります。かなり大きいです。時間も迫っていて、本当に見せたいところだけを見せていく感じでしたが、これがもう、すごいお宝物でした!

 まずは、コンスタンティノープル陥落の歴史で話題とされる、金角湾の入口に張ってあった鎖の展示です。(参考記事



 先のテオドシウスの城壁で説明した時、メフメト二世がコンスタンティヌス11世に仕掛ける戦いで、この鎖があるので自分たちの船が金角湾に入れませんでした。そこでメフメトは奇策を考えます。ボスポラス海峡側からなんと陸路で船を移動させたのです!(参考記事映画の一場面

シロアム碑文

 こんなところで出会えるとは思えなかった、とてつもないお宝を見てしまいました。私が、ため息をついて驚いている声も聞き取れると思います。



 エルサレムに行くと、元祖エルサレムである「ダビデの町」があります。そこには、当時の遺跡がてんこ盛りで、聖書の記述の正確性がいかに優れているか、確認できるところです。ダビデの宮殿、ギホンの泉などなど。その一つが、「ヒゼキヤの水道」と呼ばれるもので、ギホンの泉からシロアムの池にまでつながっている人口の地下水道です。アッシリアに包囲されている時に、ヒゼキヤ王が水の確保のため、城壁の外をでて行かなくてもよいように掘った水道です(Ⅱ列王20:20)。これが見つかったというだけでなく、今でもギホンの泉からシロアムの池まで水が流れていて、その中を歩くことができるのです。私は、過去三回行きました。自分が率いたイスラエル旅行では、2月ということもがあって、とても水量が多く冷たいので断念しています。

 実際に入った時の旅行記:「2010年イスラエル旅行記
 迂回したけれども、ダビデの町について詳しく説明している旅行記:「2016年イスラエル旅行記

 長さは533㍍なのですが、水が流れているし、狭いので、歩くと30分ぐらいかかると思います。その途中で見つかったのが、当時の人々が書いた碑文です。それぞれ両側から掘って行ったのですが、出会うことができた地点に碑文を残しました。ヒゼキヤの時代ですから、紀元前8世紀のもので「シロアム碑文」と呼びます。

 右の写真は、2008年の旅の時に、ヒゼキヤ水道の中で撮影したものです。複製がここに埋め込まれています(写真)。以下のように読めるそうです。

…… そのトンネル …… そしてこれがそのトンネルの話 ……
斧は向かいあわせで、3キュビットが残されたときに……男の声が……
反対側から呼んだ。岩にZADAがあり、左に……そしてその日
トンネル(が完成し)、反対側から来た石工たちが互いに叩きあい、斧と斧を打ちあわせた。そして
水は水源から池まで1200キュビットにわたって流れた。そして(100?)
キュビットが石工の頭の上の高さであった……

 つまり、両端から掘って行った者たちが出会うことができたのを記念する文章です。ジェイさんは、奥様のキャサリンサンと一緒に、水道の渡った動画を撮っていました。



 ところがこの碑文、1838年と、エルサレムが当時、オスマン帝国の支配にあった時に発見されたもので、それでトルコの所有物となったということ。その現物が、ここイスタンブールに来て、ようやく見られる!ということです。

神殿入場警告の碑

 シロアムの碑のすぐそばに、これまた、びっくりたまげるお宝があります。神殿の丘で、異邦人の庭(外庭)からイスラエル人のみが入れる敷地の手すり子に掲げられていた碑です。



 こちらは1871年に、英国の聖書考古学探検隊である「パレスチナ探検基金」に発表されましたが、オスマン当局が取り上げたので、ここの博物館にあります。なんて書いてあるかと言うと、

ΜΗΘΕΝΑΑΛΛΟΓΕΝΗΕΙΣΠΟ
ΡΕΥΕΣΘΑΙΕΝΤΟΣΤΟΥΠΕ
ΡΙΤΟΙΕΡΟΝΤΡΥΦΑΚΤΟΥΚΑΙ
ΠΕΡΙΒΟΛΟΥΟΣΔΑΝΛΗ
ΦΘΗΕΑΥΤΩΙΑΙΤΙΟΣΕΣ
ΤΑΙΔΙΑΤΟΕΞΑΚΟΛΟΥ
ΘΕΙΝΘΑΝΑΤΟΝ
(外国人はだれも、神殿を取り巻くこの柵より内に入ってはならない。
 捕らえられた者は誰でも、その後、死の責任を取ることになる。)

 このように、神殿には厳しく異邦人が入ることを禁じられていたのです。その他、ユダヤ人に律法が与えられているゆえ、異邦人との間には隔ての壁がありました。それでパウロが書いたエペソ書の言葉があるのです。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。(2:14-15a)」

 この碑については、牧師たちが説教の中でしばしば言及するのですが、その現物を見たわけですから興奮がやみませんでした。


7.ボスポラス海峡クルーズ

考古学博物館からボスポラス海峡クルーズ乗り場へ(グーグル地図

 この日の最後は、イスタンブール観光で定番のボスポラス海峡クルーズです。

 ボスポラス海峡については、ダーダネルス海峡と共に「欧州とアジアの間に位置し、黒海と地中海をつなぐ」海峡と言ったら、その地理的意義が大きいことを知るでしょう。(地図)ロシアが黒海にある港から地中海に出て世界に向かうのはここを必ず使う要所となっています。オスマン帝国は、コンスタンティノープルを陥落させた時、制海権の掌握を痛感し、以後、1936年までロシア軍艦の通行を許しませんでしたし、欧米列強も警戒しました。しかし36年の条約によって、商船の自由航行と軍艦の航行が認められます。

 ここで日本との関係も出てきます。近代では何といっても、「日露戦争(1904年)」です。対馬沖で起こった日本海海戦で、バルト海から出港したバルチック艦隊と連合艦隊が戦ったのですが、ロシアは黒海艦隊があります。この出動も考えられていましたが、当時、英国またトルコがロシアの艦隊を許しませんでした。ところが、偽装義艦隊が航行してきたのです。それを、山田寅次郎という、日本とトルコの架け橋となった英雄がこれを発見し、日本に伝えられます。このことが、日本の連合艦隊にどれだけ有利に働いたか知れません。(参考記事:「ボスポラス海峡と日本」「日露戦争におけるトルコと日本」)そして現代では、ここにかかっている橋の一つが、ODAにより日本企業が参加しています。また、初めての海底トンネルも日本企業のものです。(CM動画。安倍首相も、開通式で祝辞に行きました。)

 そして、クルーズは1時間半のものですが、そこには、オスマン帝国時代からの歴史的建造物が立ち並ぶコースであり、私たちはこの建造物を主に楽しみながら過ごしました。



 こちらのサイトから拝借したショートツアーのコースは次の通りです。


 そしてこちらの、クルーズの紹介サイトに、見えてくる建造物の説明が写真付きで載っています。ヨーロッパ側で始めに見えてくるのが、前日に行った、ガラタ塔です。そして次に、ドルマバフチェ宮殿が見えてきます。オスマン朝の宮殿ですが、アタトュルクが執務室にも使ったところ。前日にタクシーに乗っていた時にその裏側を見ていました。次に、「チェラーンパレス」ですね。オスマン時代のスルタン(王)の私邸でしたが、現代はホテルとして稼働。そして、前日に訪れた「オルタキョイ」が見えます。そしてすぐにボスポラス大橋がありますね。それから、中世のお城のようなもの「ルメリ・ヒサル」が見えてきました。これが、あのコンスタンティノープル攻略のための第一手であり、1452年にわずか4か月で造らせたそうです。黒海からの船を、アジア側にあるアナドル・ヒサルと共に挟み撃ちにすることができたそうです。

 そして第二ボスポラス大橋が出てきました。これが、日本のODAによって造られた橋です。ここで、Uターンをします。そして、今度は、アジア側を見ていきます。始めに見えてくるのが、白い建物で「クレル軍高等学校」です。オスマン時代から、神学校、病院、学校と移り変わって、軍高等学校として運営されてきたようです。そして、スルタンの離宮として使われていた、「ベイレルベイ宮殿」が見えます。

確か(?)ケバブの夕食

 この後、確か乗船したところと違う、カバタシュと呼ばれる、フェリーターミナルで下船したと思います。タイタニック・シティ・タクシムのホテルはここからそれほど遠くありません。夕食はホテルではなく、バスに乗って、おしゃれなお店が並んでいる地区に動いたことを記憶しています。(写真を一切撮っていなかった!)バスを降りたのが、何か見覚えのあるところ、そう、前日、迷子になってしまって、ここら辺からタクシーを拾ったのでした!(ストリートビュー)そして、そのショッピング街をなんだか、どんどん歩かせられた気がします。レストランはすぐ近くにあったようなのですが、わざわざこういったところを見てほしいということだったようです。(汗)この時には結構、疲れていました。

 どこのレストランに入ったか記録していませんでしたが、今、ストリートビューを適当に見ていたら、おお、見つかりました!すごい、ここだ。ケバブ、おいしかったのを覚えています。でもお昼も盛りだくさんだったので、食べすぎた感がありました。Develi Nişantaşı(デベリ?)という高級ケバブ店だったようです。写真のお店の様子と料理を見ると、はい、ここです!こんなところで、前日の迷子が用いられるとは・・、神さますごいと思いました。(笑)

 明日は、イスタンブール旧市街でまだ網羅していない、重要な箇所を回り、最後にグランドバザールの買い物に行きます。