2019年トルコ研修旅行記 4月5日 タルソ

1.キリキア
2.タルソ(タルスス)
3.キリキア峡谷



1.キリキア

アンタキヤのホテルからタルソまで(グーグル地図

 私たちの旅は、今日は一気に、アンティオケから、パウロの故郷、タルソを経て、トルコ中腹部のカッパドキアに行きます。全行程470㌔の長旅です。多くの時間をバスの中で過ごしますが、しかし、そのバスの旅こそがとても大切な部分になります。パウロなど、使徒たちの旅とほぼ同じところを通るからです。アンティオキアからタルソ、そしてキリキア峡谷を経て、カッパドキアまでは、第二次、第三次宣教旅行の道筋です。それから、バルナバがタルソまで行き、パウロをアンティオキアに連れてくる時にも使われた道です。

それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き」(11:25)
「(パウロとシラスは)シリアおよびキリキアを通り、諸教会を力づけた。」(15:41)
パウロはアンティオキアにしばらく滞在した後、また出発して、ガラテヤの地方とフリュギアを次々に巡って、すべての弟子たちを力づけた。」(18:23)

 私たちは使徒の働きの記述の中で、それぞれ一節しか書いていないところ、ある地名から他の地名に動くところを、いとも簡単に読み流してしまうのですが、相当の距離と険しさであることが分かります。

 そしてペテロは、ガラテヤ人への手紙からアンティオキアにいて、さらにペテロ第一の手紙からガラテヤにも行った形跡がありますから、ペテロも辿った道であります。

 以下の動画は、アンティオキアからタルソ直前までの行程を、断片的に撮影したものをつなぎ合わせたものです。



 前日のアンティオキアと同じように、今回もグーグル地図を駆使してご覧になるとよいでしょう。上の動画は、アンティオキアを出発、タルソの手前までを撮影したものです。初めに出て来る場面は、アンティオキア郊外です。地図で見ると、アンティオキアは、オロンテス川が北から南に流れていて、その周囲が広い渓谷になっていることが分かるでしょう。東のシリアは高地にあります。西にはアマヌス山脈があります。グーグル画像北から一気に地中海のところまで南に走っているのがお分かりになると思います。

 これをズームアウトして、広範囲を見てみてください。すると、アダナ(Adana)を中心にする平野、キリキア地方を取り囲むように山脈が弧を描いて連なっているのがお分かりになるでしょう。グーグル画像さらにズームアウトして広範囲にして、もっと西に動かすと、Antalya辺りから地中海沿いに這いつくばるように山脈が連なっているのがお分かりになると思います。これがトルコの中央部と南部を切り分ける巨大な山脈群であるトロス(タウロス)山脈です。トルコの地形、また使徒の宣教の旅を考える時に、トロス山脈の存在を忘れないことはとても大切になります。

 このトロス山脈の群れの東端の南北に走る山脈が、アマヌス山脈です。まずここの峠を通らないと小アジアに行けません。アマヌス山脈が、東部のシリアと小アジアのキリキアを分ける実質的な境になっています。動画2:20辺り、また下の写真は、アマヌスの山をバスが上がっているところから、東に広がるアンティオキアのある渓谷を見下ろしている景色です。グーグル画像



 この、小アジアと南西アジアとの境目、いわば東西の世界の境目のアマヌス山脈の峠にシリアの峡門があります。動画では2:30辺りから、風が強いので風力発電の風車がありますね。ここら辺が峠です。グーグル画像かなり険しい峠を、徒歩でパウロたちが行き来していたことに想いを馳せませました。


イッソスの戦い:世界のヘレニズム化の始まり

 動画の4:30辺りは既に向こう側に渡り、平地を北上しています。そこでディレクさんが、この辺りで「イッソスの戦い」について語られます。(グーグル地図イッソスの戦いは、歴史的にも、聖書的にも、非常に大きな戦いです。西方のギリシアが東方のペルシアに打ち勝ち、勝利する戦いです。ダニエル書には、詳しく預言として取り扱われています。「8:6-7 この雄やぎは、川岸に立っているのを私が見た、あの二本の角を持つ雄羊に向かって、激しい勢いで突進した。7 見ていると、この雄やぎは雄羊に近づき、怒り狂って雄羊を打ち倒して、その二本の角をへし折ったが、雄羊にはこれに立ち向かう力がなかった。雄やぎは雄羊を地に投げ倒して踏みつけた。雄羊をこの雄やぎから救い出す者はいなかった。」アレクサンドロス大王が、小アジア東部にまで達し、そこで当時の世界帝国であるペルシアのダリヨス三世とぶつかり、これによって形勢が変わります。



 この後、アレクサンドロスは南下して、ツロと戦い(エゼ26:12-14)、ガザと戦い(ゼカ9:1-8)(どちらも聖書預言に出てきます)、エジプトまで行きます。エジプトの地中海の町、アレキサンドリアを建てるのもこの時です。アレキサンドリアは、その後、ギリシア的な文明と学問を発展させてきたところであり、ローマ帝国の第二の都市、ユダヤ人の離散の地でもあり、そしてキリスト教神学が発達したところであります。アラビア科学も後世、発達したそうです。したがって、この戦いは、世界のヘレニズム化が一気に進んだ重要な出来事だったと言えます。

キリキア:アジアと小アジアの緩衝の地

 しばらく、動画では6:00辺り以後、平野の部分をバスは走ります。ここがキリキアです。小アジアの東南部に位置し、ここから東方シリアにつながるところであり、多くが、周りが山地に囲まれている平野であるため、東西を結ぶ交通・貿易・戦略の要衝となりました。その中でも平地の部分だけを区別するため、「山地のキリキア」と「平地のキリキア」と分けて考えたそうです。


(新改訳2017から)

 歴史的には、ヒッタイト、アッシリアが入って来て、それからペルシアのキュロス王がここを前6世紀に征服し、前334年から始まるアレクサンドロス大王による東方遠征による征服まで、ペルシア領でした。そして先ほど話したイッソスの戦いがあり、ギリシアはインドまでのとてつもない広範囲を数年のうちに征服します。彼が若年で夭折すると、その後継をめぐって争いがあり、その末にセレウコス朝の支配域になったのは、アンティオキアの歴史と同じです。その後、ダニエル書11章にあるように、北のシリア・セレウコス朝と南のエジプト・プトレマイオス朝の長年に渡るシリア戦争の舞台の一部となりました。一時、アルメニアによって制圧されたそうですが、しかしローマが進軍、そしてローマの属州になります。そして、パウロの出身地タルソが、州都になります。

 そして、動画の6:00ぐらいから、トルコの第四の都市アダナを通過しますグーグル地図。キルキアは、今もトルコの中で数少ない平野なので小麦などが栽培されており、アダナは他の産業も盛んだとのこと。ちなみに、ディレクさんも触れましたが、このアダナの東にNATOの空軍基地があり、トルコ空軍と米空軍が主体だとのこと。今でこそ、エルドアン政権のトルコで欧米諸国との関係の悪化した言われていますが、そもそもNATOのメンバーであり、トルコの世俗政権は親米でしたね、基本。


2.タルソ(タルスス) (旅行社テマサのブログ

 タルソ(現代の市名は、タルススです)に到着しました。

 タルソは、先ほど説明したキリキアの歴史、ヒッタイトからアッシリア、ペルシア、そしてアレクサンドロス大王が通過する歴史を持っており、紀元前67年に、ポンペイウスがタルソを制圧して、ローマのキリキア属州の州都になります。

 興味深いのは、私たちは訪れませんでしたが、タルソの入口とも言われているのが、「クレオパトラの門」です。紀元前41年にタルソにやってきた、ローマ将軍アントニウスが、エジプトのプトレマイオス朝の女王クレオパトラを呼び、この町で会って、恋に落ちたと言われています。ローマ時代の城壁のこの門が、クレオパトラがタルソに入る時に入った門だと言われて、そう名付けられたそうです。パウロの時代もあったので、彼が幾度となくこの門をくぐったであろうと思われます。

 そして、タルソは学問の町でもあったそうです。学府が置かれ、アテネ、アレキサンドリアに並ぶものであったと言われています。パウロが、生粋のヘブル人で、ガマリエルの下で律法を学んだ厳格なパリサイ派でありながら、ギリシア人やギリシア系ユダヤ人に福音を語ることのできたのは、その言語と思想、文化をわきまえていたからであって、タルソ出身であったというのと深く関わっていたことでしょう。

 そして、タルソは、キリキアが西の小アジアと東方のシリアを結ぶ重要な交通の路にあったので、貿易で非常に栄えたそうです。また、肥沃な平野にあるので、綿花の栽培地、羊毛の産地としても知られていました。山羊の毛を使った天幕もあります。パウロの職業は、天幕作りでしたが、幼少の時から見慣れていた、故郷で培った技術だったのかもしれません。

パウロに与えられた、「母の胎の時からの神の恵み」
 そこでパウロの背景と、そこにある恵みを思うことができます。「母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもってめしてくださった神が・・(ガラ1:15)」回心する前から、恵みの福音を異邦人に伝えるユダヤ人宣教者としての備えが、実に生まれる前から与えられてました。

 タルソは、非常にギリシア的(ヘレニズムな町です。

 ヘレニズムとは、アレクサンドロス大王が、ギリシアの文化を東方遠征によって古代オリエントにまでもたらした、ギリシア風の文化のことを言います。その影響力は、ローマ帝国の時代になっても、彼らにはラテン語があったのに、それでも一般の住民はみなギリシア語を使っていたところからも、よく分かります。

 そして東ローマ帝国が、ギリシア語を中心にした文化を保ちながら、キリスト教を国教としたため、元来、一神教、聖書の啓示、律法、終末というヘブル的な思想のところに、理性、論理、知識の追求というギリシア的な思想が入って来て、ヘレニズムはキリスト教の世界にも深く浸透しました。

 そして、ユダヤ人の世界にもヘレニズムは浸透します。時代を戻しますと、アレクサンドロス大王から、ギリシアのプトレマイオス朝エジプトの滅亡までを「ヘレニズム時代」と言いますが、その時に、イスラエルではギリシアのセレウコス朝シリアの支配下でした。その中でギリシア化が進みます。ダニエル書の後半に中心的に描かれている、「荒らす憎むべき者」は、セレウコス朝の王アンティオコス・エピファネスです。彼が、徹底的な迫害をユダヤ人に加え、ギリシア化させようとしました。割礼を施した男子は殺され、エルサレムの神殿に豚を献げさせ、ゼウス神を立像させました。それに迎合するギリシア化されたユダヤ人たちも多くいたのです。

 それに反旗を翻したのは、マカバイ家のユダヤ人たちでした。ダニエル書8章の預言にある歴史で、外典「マカバイ記」に克明に描かれています。主に熱心になり、律法に従順であろうとする人々です。その戦いで、奇跡的な勝利を収め、宮清めを行うことができ、それをハヌカ―の祭りとして今も祝っています。(イエス様も祝っておられました、ヨハネ10章に出てきます。)

 パリサイ派は、そのようなヘレニズムの中に生きるユダヤ人が、律法に忠実になるために、異教やギリシアの影響から自らを守るために分離的な行動を起こしていったのが始まりです。そのために、パリサイ派は律法を守るための外枠を設けるのに熱心になり、それでイエス様がこの世に現れた時には、律法主義に堕していたということになります。ヘレニズムに対抗していたはずのパリサイ派が、ヘレニズムにかえって呑み込まれていた面もあります。(参考記事)口伝律法は、理性的に律法を説明しようと試みたものであるし、その後のタルムードは、ギリシア化したユダヤ人によって書かれたものです。元来のヘブル的なものから離れているという指摘もあります。

 パウロは、そうしたパリサイ派として生きながら、かつタルソのギリシア的な文化や思想を知っていた人でした。そして、さらに、彼は「生まれながらのローマ市民」でもありました。

 タルソの町は、ギリシア的で、また偶像礼拝も盛んなところでしたが、同時に、大きなユダヤ人の共同体があり、その中で生まれ育ちます。当時の小アジアにはユダヤ人が一割もいたという、かなりの多数派になっており、社会的な地位もある程度、あったわけです。それで、パウロの両親は誇り高きイスラエル人のベニヤミン族出身ですが、タルソの町で、何らかの形でローマ市民権を得ていたと考えられます。それでパウロは、生まれながらのローマ市民という特権を持っていました。

 ちなみに、当時のギリシア語を話すユダヤ人は、ヘブル語の名前とギリシア語あるいはラテン語の名前を持っていました。「サウロ」は、ベニヤミン出身のイスラエルの王サウルから、そして「パウロ(「小さい」の意)」はラテン語から来ています。

 そして、彼は若い時、おそらく12歳の頃にエルサレムに行っており、著名な、パリサイ派のラビ、ガマリエルの下で教育を受けます。律法に対する知識と熱心さについては、他に引けを取らないものがありました。それでその熱心さから、ステパノが石打された時に、サンヘドリン(ユダヤ人議会)で賛成の票を投じたほどです。

 彼は、極めて強いユダヤ性を持ち、律法に精通していました。そして、ギリシアの文化や思想も肌感覚で分かります。それでもって、ローマ市民権を持っていたため、世界宣教の危機的な場面において、市民権を行使して守られていたことがあります。まさに、「イスラエルのメシア・イエスを、ギリシア人にも、ローマ世界に伝える福音宣教の器」として選ばれていたのです。

パウロの井戸



 パウロについて、今のタルススで見ることのできる遺跡は、ありません。けれども伝承はあり、「パウロの井戸」があります。ここがパウロの生家だと言われており、しばらく井戸だけが住宅地の中にポツリとったのですが、その周辺を発掘したら、ローマ時代の住居が見つかり、遺跡として整備されたそうです。


「ヘレニズム化された私たち 対 聖書背景のヘブル的な素朴な人々」

 ジェイさんは、Biblical Dinners(聖書的食卓)という働きをしており、新約聖書時代のユダヤ人の食事を再現して、当時の人々の世界観を紹介しています。



 そこで彼が気づいたのは、聖書を背景とする人々が、私たちが考える以上に素朴であり、神の下さった言葉をそのまま受け入れていたか、であります。今の合理的に体系化されたキリスト教の教えが、いかにアレクサンドロス大王が世界に持ち込び、当時のユダヤ人にまで影響を与えたヘレニズムに、どれほど影響されてしまったかを、何度となく語っています。そのための本格的なセミナーも開いています。

 今、その現場、東方遠征の通過点であったタルソ、そしてギリシア人への宣教の道を切り開いたパウロの生誕地で、「我々アメリカ人こそが、ヘレニズムが沁みついている」として、ジェイ節が炸裂するメッセージを、35分もかけて語りまくりました。当時、トルコにいた離散のユダヤ人たちはギリシア化されたユダヤ人の住む所でしたから、彼はこの場で、「聖書は、聞いている人々がそのまま受け取れるように啓示されている」という持論を、アンティオキアからエペソに至るまで、小アジアの東から西に至るまで、一つの流れとして語っていきます。

 そして、このメッセージを語る前に、ジェイさんと僕が食事で同席でした。私が、前回と今回のトルコでの旅で、「自分たち(日本人)の持っているような非西欧的世界観が、実は聖書に近いことを、あなたからずっと聞いて来た。変な、不思議な気分になった。」ということを話しました。彼は、「あなたのことを例にとって話していいか?」と聞かれて、了承したので、日本人の私のことに言及してもいます。



 初めに、タロスの歴史や地理について話していますが、先に説明したとおりです。

ヘレニズムに対抗したパリサイ派

 そしてパウロについて説明します(2:05)。タルソで生まれ育ちましたが、おそらく12歳にエルサレムで、当時、最も尊敬された賢者、ユダヤ教のラビであるガマリエルの下で教育を受けました。

 そして、彼はパリサイ派でした(2:45)。パリサイ派は、マカバイ家の反乱、ハスモン王朝の時に生まれました。それは、ユダヤ教をヘレニズムから守るためです。この守りが制限なく行われて、極度の律法主義に、伝統主義に陥り、人々を縛り付けるものとなりました。神の恵みが忘れられましたが、様々な宗派、教派でも起こったことであり、私たちも気をつけないといけません。

ヘレニストのユダヤ人と論じるパウロ

 では、ヘレニズムとは何でしょうか?(3:50)そこで使徒の働き9章、パウロの回心の後の出来事を読みます。

 「23 かなりの日数がたち、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、24 彼らの陰謀はサウロの知るところとなった。彼らはサウロを殺そうと、昼も夜も町の門を見張っていた。25 そこで、彼の弟子たちは夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁伝いにつり降ろした。」これは、ダマスコでの出来事です。聖書には、あまりにも出来事が凝縮されていて、それがかなりの期間が経っていたことは、他の聖書の箇所を見ないと分からない部分があります。全く同じ出来事が別に起こっていたと想定しない限り、ここ25節の出来事がもっと詳しく書かれている箇所があり、「アレタ王の代官」とあります(Ⅱコリ11:32)。アレタス四世、宝物殿と呼ばれる、ナバタイ王国の、彼の墓がペトラにありますね(参照:「2016年ヨルダン旅行記」)。もし、そうであれば、パウロは、2-3年、アラビアにいたと言っています(ガラ1:17)。アラビアといっても大まかな地域の名称ですから、「アメリカ」といってもアメリカ大陸を指すこともあるわけで、サウジアラビアとは限りません、ナバタイ王国を指すこともあるわけです。パウロは、都市型の人間ですから(タルソやエルサレムにいた)、その都ペトラにいたことは十分に考えられます。アレタス四世の統治は、偶像礼拝を混淆させた宗教をもっていましたから、回心したパウロが、ダマスコに戻ってから、アレタス四世の逆鱗に触れて、パウロの弟子たちが籠に乗せて、城壁伝いに釣り降ろした、という話だったのかもしれません。

 そしてエルサレムに行って使徒たちに話しました。(6:45)「26 エルサレムに着いて、サウロは弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みな、彼が弟子であるとは信じず、彼を恐れていた。27 しかし、バルナバはサウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に語られたこと、また彼がダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子を彼らに説明した。28 サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の御名によって大胆に語った。29 また、ギリシア語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていたが、彼らはサウロを殺そうと狙っていた。」ギリシア語を使うユダヤ人とは、ギリシア化した(=ヘレニストの)ユダヤ人ということです。パウロは、イエスを知っており、顔と顔を合わせて出会っており、彼、サウロは、ユダヤ人のギリシア化に対抗した人でありました。その彼が、ヘレニスト化したユダヤ人に語っているのです。一体、何のことを話しているのか?分からないかもしれません。けれども、世界のこの一帯で起こっていたことは、聖書を教える牧師としてしっかり押さえておく必要があります。

ギリシア的思考の西洋人

 ヘレニストのユダヤ人は、ギリシア人のように考えるユダヤ人のことです。(8:20)ギリシア人のように論じ、ギリシア的思考を持っています。それってどのようなものなの?と思っているならば、それは「あなた」を見ればいいです!西洋人はそのように考えます。教育がそうであるし、元々、そのように考えます。この場所でヘレニズムが始まり、私たちのところまで及びました。東洋人は違う思考回路を持っています。日本人の兄弟(録画している私のこと)は、同じ思考回路なのです。けれども、聖書に関していうならば、西洋人に教えられて、西洋人のように考え、西洋化されているのです。

 私(ジェイさん)は、一か月前にナザレにいました。(9:05)私は、ナザレにあるナザレンの教会で話しました。(笑 ナザレンとはナザレ人という意味ですが、プロテスタントの一派で、西欧から生まれた教派です。それが元祖ナザレまで来て、教会を建てたのです。)彼らはみな、アラブ人のキリスト者であり、そのキリスト教の家系は千年にも及びます。彼らは東洋の考え方、私たちと全く違った思考回路を持っているのです。けれども、聖書は西洋のやり方で教えられています。彼らが、イエスやその弟子が教えておられたことが、自分たちが教えられ生きていた西洋式とは違うことを知り、驚いていました。考えてもいなかったのです、「まさか、聖書が私たちが考えていたように考えていたとは!」と。

 聖書の考え方は、広範囲の地域に存在していました。(10:30)もちろんユダヤ人の聖書ですが、ユダヤ人を越えていて、メシアのことをヘブル的な考え方で、創世記から黙示録まで書かれているのです。言語がヘブル語だけでなく、アラム語、ギリシア語で書かれていても、書いた人々は、我々西洋人が考えているのと異なる思考回路を持っていました。けれども、誤解しないでください、私は「ヘブル的ルーツの運動」を支持しません。タルムードは、ギリシア化されたユダヤ人によって書かれ、聖書というよりも、ギリシア哲学者のように考えていたからです。

同時に同じ場所にある、相反する考え

 アレクサンドロス大王がこの地域に来た時(11:25)、彼の目標は世界を征服することだけではなく、世界をヘレニズム化すること、全員をギリシア人のようにすることでした。ギリシアの詩、ギリシアの神々、偉大な哲学がありました。その哲学の基底には、「無矛盾の論理(non-contradictory logic)」というものがあります。つまり、「同じ場所に、同時に、二つの物が同居できない」ということです。この論理に照らすと、聖書には、一見、矛盾したような記述があります。

 その代表的なのが、カルビン主義とアルミニウス主義です。(12:15)この論争による分裂は、カルヴァンが死んで間もなくしてから今日に至るまで存在します。人々はこのことで言い争っているのですが、聖書は神は絶対的な主権者です。神は選ばれ、予め定められ、予めすべてをお決めになっています。そうすると、論理的には、人には選択がないということになります。でも選択が人間にあるなら、神は主権者でなくなります。この論争があって、チャック・スミスが、「カルビン主義とアルミニウス主義」の小冊子を書きました。これは純粋なヘレニズム的論理なのです。どちらかの側しか正しくないと、この「無矛盾の論理」ではなってしまいます。

 ヘブル人はそのように考えませんでした。(13:40)名称もあり「古代弁証法論理方式(ancient dialectical form of logic)」と言います。これは、「二つの物が、事実、同じ場所に、同時に存在しえる」というものです。同時に相反する考えが存在するというのは、間違っているとします。けれども、一世紀のヘブル的なユダヤ教ラビがここにいれば、我々の論争を聞いていたら、怒りに満ちたことでしょう。「神は、我々に現してくださったのだ。聖書は、隠された謎ではなく啓示なのだ。神は、ご自身を主権者と示してくださった。神が、人に選択があると啓示された。神が予め定められたと示されたし、人は決断しなければならないことを示された。神は、ご自分が選ぶと示されたし、人が選ばないといけないと示された。」すべてを啓示されたのであり、その間にあるつながりは、神は教えておられないのです。そして神は、この二つの物を結びつけるようなことを求めておられません。

 もし、ここで「ちょっと、その話はひどいね。」と思ったら、それは私たちがヘレニズム化しているからです。(15:30)私に対して、怒りを示した牧師たちがいましたが、仕方がないのです、私もそうです、生まれた時からそう教えられていますから。けれども、日本人の兄弟姉妹は完全のこの論理を会得しています。あなたがたは西洋化されてはいるのですが、この論理はわきまえており、その論理で聖書を見ると、まるで違う書物が見えてきます。

ご自分を啓示する神 vs. 神を数量化したいヘレニスト

 神がこの書物を下さったのは、私たちが神を知ってほしいと願われたからです。(16:15)混乱させたり、事を隠したりするために下さったのではありません。そう考えるのは、グノーシス主義者です。これは異端ですよ、これは「私はあなたよりも、聖書についてよく知っているんですよ。」という知識の階級、格付けです。ヘレニズムが、キリスト教の教理に付着してしまいました。「神が人となられた」というので、「どうやって神が人となられたのか」ということを詮索して、「私たち人間は神のダミー(模倣)だ」とか、論理的帰結がそうなってしまうのです。

 ヘレニズム的な考えでは、神を数量化したいのです。(17:05)ヘレニストにとって、神は研究(探り出す)対象です。人の存在が解剖される、切断されるのです。私たちの思考にまで、神を引き下げるのです。ヘブル人にとって、神は全宇宙の対象です。この方は、この方にあるのです。ご自身を啓示される方です、聖書を通して。預言者を通して、御子を通してそうであります。「わたしを見た者は、父を見たのです。」御霊を通して、「わたしのことを語ります」とイエス様が言われた通り、示されます。そして、我々牧者は、啓示された事柄を、人々に示す、現すのです。

 パウロは、ギリシア化されたユダヤ人と話しました。ギリシア語を話すユダヤ人です。(17:55)改宗者もいたでしょうか、殆どはユダヤ人です。彼らは、ここの地域(今いる小アジア)出身の者です。古代ユダヤに、ヘレニズムは浸透していたのです!イスラエル旅行に行かれた方は、例えば、ベテ・シャンがあります(参照「2016年イスラエル旅行記」)。スキトポリスとも呼ばれますが、ローマの異教に満ちた町ですがイスラエルのど真ん中にあります。そして、ツィポリがあります(参照「たけさんの旅行記」)。ナザレの北にある町ですが、イエス様と父ヨセフは、大工としてそこで働いたことでしょう。ヘロデ・アンティパスによってこの町が再建されました。かなりヘレニズム化した町です。ヘレニズム化したユダヤ人、ギリシア人、ローマ人、みながヘレニズムから影響を受けており、「無矛盾の論理」を持って考えていました。


(たけさんの旅行記から。「ガリラヤのモナリザ」と呼ばれるツィポリのモザイク画。)

 ユダヤ人がヘレニズム化すると、コーシャ(食物規定)をそれほど守らなくなります。(19:20)ユダヤ教の律法も、ちょっとごまかしていきます。慣習もごまかしていきます。ユダヤ色がなくなります。使徒の働き6章において、そうしたギリシア化したユダヤ人のやもめが、ヘブル的なユダヤ人のやめもよりも、なおざりにされていると感じて、使徒たちに訴えました。それで七人の執事を選びました。その七人全員が、ヘレニズム化していました。つまり、彼らは拒絶されていたわけではありません。違った考え方をしているということだけで、排除されていません。

 ですからヘレニズム化すること自体が間違っていないのですが、間違ってしまう可能性はあるのです。けれども、極度に分析を施す傾向があり、私たちもそうなのです。神のみこころはとても単純で、神は神であられ、この方の命じられることを守り、礼拝するのです。私たちの知性がこれに耐えられず、分析し、神を数量化したいと願います。けれども、古代のヘブル人の論理はそうではないのです。

無数に「自分は把握した」と言っている諸教派

 それで29節に戻りますが(20:46)、「29 また、ギリシア語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていたが、彼らはサウロを殺そうと狙っていた。9:30 それを知った兄弟たちは、彼をカイサリアに連れて下り、タルソへ送り出した。31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。」このずっと後に、バルナバが、アンティオキアからパウロを連れてくる時にタルソの名が出て、それ以降はでてきません。この時まで10年経っていますが、聖書の書き方なのです。一節、一段落違うだけで、その間が数十年、ということもあります。

 ところで、ガラテヤ人への手紙から、「ユダヤ主義者」と呼ばれる者たちがいたことを知っていますね。(21:50)ユダヤ人は、どの宗派にも属していないということはなく、何らかの派に属していました。フィラデルフィアに行った時に、そうしたユダヤ教の一派をご紹介します。ユダヤ主義者らは、教会の人たちと同じユダヤ教会堂を使っていました。当時は、キリスト者らはローマから、ユダヤ教の一派とみなされていました。ユダヤ主義者らが怒ったのは、教会が異邦人を、ユダヤ教に改宗しないままで受け入れていたことです。割礼、安息日、食物規定も守らなくていいのです。使徒の働き15章のエルサレム会議で、その問題の決着が付きました。

 しかし、これら異邦人を中に入れたことが、ヘレニストのユダヤ人でさえ怒らせて、それで同胞のユダヤ人の兄弟たちを迫害し始めました。ユダヤから始まったこの教えは、ヘレニストのユダヤ人からもたらされたけれども、それでも同じヘレニストのユダヤ人は迫害しました。その使信は、ヘレニズム化されたものではなかったのです。「神は偉大な。この方を、分析してはいけない。神を礼拝しなさい。御子をこの方は遣わされた。信じなさい。」と言っていたのですから。どうやって?聖書を読むのです、これは啓示です。

 ところが、分析し、数量化することによって、いろいろ異なるものが出て来たのです。(24:10)その結果、何が出てきましたか?第一に、グノーシス主義です。第二に、神秘主義です。神からのもの、神秘を論理化したものですから。その後で、西方のカトリック、東方の正教会。聖画や聖像、いろいろな通過儀礼。そして今、私たちは、「我々はカルバリーチャペルだ」、「我々はバプテストだ」とか、言っているんです。今日の教会は、2万以上の教派や群れがあって、それぞれが、「我々は、分かった。隣の教派よりも優れている。」と言っているのです。ヘレニズムの結実なのです。

ヘブル的な目で見る時の聖書

 そこで、これからの旅で、七つの教会などを見て、全く異なる聖書が出現してきます。(25:30)教理は変わりません、もつれた糸が自分の目の前で解かれて、はっきり見えてくるのです。靄が消えていくのです。脳を再び配線し直す必要がありますから、ずっと学んでいかないといけないでしょう。これは難しいことです。新しい言語を習うようなものではなく、「新たに生まれる」ようなものです。

 ヘレニズムの視点とヘブライズムの視点は、どう作用していくのでしょうか。(26:20)これから、黙示録の地に向かうので、一例を差し上げます。ヨハネが、西トルコの沖合にあるパトモス島で、とてつもない主の幻を見、書き記すように命じられました。ヨハネは、24人の長老の座を、神の御座の周りに見ました。この長老たちは誰なのでしょうか?意味は?「これは、12と12で、イスラエル十二部族の族長と十二使徒だ」「旧約聖書と新約聖書だ」とかいう意味づけをしますね。12は神の数で、10は人の数で、十の足の指は十の国の連合体だとか。「これは、どんな意味か?」これがヘレニズム化なのです。

 ヘブライ的な人であれば、こう問うのです、「彼らは何のためにいるのか?」次に幻で出て来るのは、七つの封印のある巻物が出てきますね。ここ小アジアにみなさんが住んでいたら、即座に、巻物は土地権利書であることを理解します。封印があって、文字が裏表に書かれているのは、土地権利書の説明です。だれも、封印を解くのにふさわしい人がいませんでした。そこが子羊います。そして、長老たちなどが「あなたは、封印を解くのにふさわしい方です。」と言いました。ルツ記で、ボアズがルツを妻に得るために、土地の買い戻しをしたいと思いました。そのために、ボアズは門のところに行きました。そこに長老たちを招いているのです。法的文書を認証するためです。黙示録では、土地権利書は全地です。では、長老たちは誰か?誰かというよりも、何をしているのか、何のためにいるのか?なのです。全土の土地権利書が認証されるためです。

 「聞いたことがない」と言われるのは、ヘレニズム化しているからです。ここで誰なのか?という問いではなく、何をしているのか、何のためにいるのか?が大事だよと、ヘブル的な人は言うでしょう。章や節が邪魔をしています、とてつもない大きな流れが聖書全体にあります。章ごとに教えているので、メッセージも分割してしまうのです。この長老たちは、土地権利書の認証、法的効力証人になっているのです。

 この地域はヘレニズムの中心であり、ユダヤ人もみなヘレニズム化しています。(33:00)けれども、パウロは、ここの出身なのでヘレニストでありながら、パリサイ派であったので、両者の間をまたがることができました。ヘレニストと議論することができました。ローマ人への手紙は、ヘブル的、ヘレニズム的なものを行き来しています。ペテロはここに来ましたが、ヘブル的です。ヘブル人の漁師です。そしてヨハネもここにいましたが、非ヘレニスト的なユダヤ人として書いています。なので、子どもにも分かるように書いています。


お勧めの本「私たちの父アブラハム」

 ・・・ということですが、ジェイさんの熱い講義によって、わたしの心に、信仰に、整理がつきました。これまで、「異教と言われてきた日本のほうが、聖書の世界により近いのではないか?」という感覚が正しかったということです。ロゴス・ミニストリーのブログで、「ヘブライ的思考」について多くを取り上げました。ジェイさん力説した、「古代弁証法論理方式」を、もっとシンプルに「ブロック論法」ということで説明している本があります。ブログ「距離を置きたいような神学論議」で、このことを説明しています。つまり、「神は選ばれた」「人が選んだ」という相矛盾する真理を、単に、まるでブロックを横に並べたり積み重ねたりするだけで、神は語って行かれるということです。つまり、一線につなげようとするのが、ヘレニズム的な考えです。そして、ヘブル的思考のほうが実は、日本人や非西欧人になじみがあるのです。ブログ記事「日本宣教と「ヘブライ的思考」」に掲載している対照表をぜひ見てみてください。

西洋の思考 ヘブライ的思考
正確な分類化をして生活する 全ては全てに重なり、曖昧である
自然と超自然は明確に分けられる 超自然が全てに影響を与える
直線で考える論理 「固まり」で考える論理
荒々しい個人主義 仲間の一部であることの大切さ
人の平等性 位置や地位にある価値
自由志向 安全志向
競争の美徳 競争は悪(協力のほうが良い)
人間中心の世界観 神/部族/家族中心の世界観
金、物、力が人の尊厳の基 家族関係から尊厳が出ている
生物学的な生命が神聖 社会生活が最も大切
偶然や因果関係で、物事が起こる 神がご自分の宇宙で全てを起こしている
科学の自然法則を理解・適用して、人間が自然を支配する 神が全てを支配しているので、神との関係が物事を決定する
他者への力は、仕事、政治、人間の組織で成し遂げられる 他者への力は、神の定めた社会的な枠組みによる
全て存在しているのは物質だ 宇宙は力ある霊的存在に満ちている
時間は直線的で、きちんと時系列にまとめられる。全てのことは新しく起こったこと。 循環また螺旋的な時間、似たような出来事は絶えず繰り返し起こっている。
歴史は客観的に、時系列的に事実を記録したものだ。 歴史は、詳細が客観的なものかどうかに関わらず、重要な真実を意味のある、記憶できるものに保持すること
近未来を志向 歴史の教訓を志向
変化は良い=進歩している 変化は悪い=伝統の破壊
宇宙が偶然で進化している 宇宙は神に創造された
科学技術によって宇宙は支配されている 神が人に地上の被造物を管理させた。神に説明責任がある。
物は、人間の達成を量るものさし 物は、神の祝福のものさし
信仰は盲目的 信仰は知識に基づく
時間は直線(この時点において・・) 時間は内容で決定する(この日に主がこれをなさった・・)


 英語のできる方は、次の講義もためになるでしょう。端的に分かりやすく説明しています。




ローマ街道の跡



 タルソは、初めのクレオパトラの門、次にパウロの井戸の後は、カルドの跡が見る所でしょう。パウロの井戸から、歩いて3分のところです。1993年にスーパーを建設する予定だったところ古代の街道が見つかってしまい、急遽、予定地を変更し、跡地を保存しているとのことです。街路沿いには下水溝もあり、また商店が並んでいた跡もあるそうで、中心街であったことが分かるそうです。パウロも何度となく歩いたことでしょう。




3.キリキア峡谷(ギュレク峠)

タルソからホテル"Kapadokya Lodge Hotel"まで(グーグル地図

 この後の予定は、昼食でした(写真)。そして、ひたすらホテルへ向かう北上への旅です。上のグーグルの衛星地図を見てください、平野にあるタルソから、一気にトロス山脈の峠越えをします。その山脈のところに「ギュレク峠」がありますね、これがかの有名な「キリキア峡谷」です。



 動画では、初めに(0:25まで)、キリキア峡谷に近づいた時のトロス山脈が見えます。ものすごい高嶺が連なっています。



 その中で、唯一、小アジアとシリア間、つまり西方と東方を往来するのは、キリキア峡谷しかないのです。



 トルコの現地の人たちが、この峡谷を上空からドローン撮影している景色が圧巻です。



 峠は今でこそ道整備されていますが、おそらく、下の、そのそばを走っている昔の道のほうが、当時の面影を残していると思われます。



 このようなところを、パウロとシラスが第二次宣教旅行、また第三次宣教旅行で、徒歩で行きました。「そしてシリアおよびキリキアを通り、諸教会を力づけた。それからパウロはデルベに、そしてリステラに行った。(注:デルベ、リステラはガラテヤ地方になります。)(使徒15:41,16:1)」どれだけの苦労があったかと思わされます。実に、キリキア平野から、ガラテヤ地方のアナトリア高原への道は、実に110㌔もあり、古代では5日間の道のりだったそうです。コリント第二11章には、「何度も旅をし、川の難、盗賊の難・・」にあったことを書いていますが(26節)、こういったところで受けた難でしょう。

 この道を、歴史を通じて、遠征の時に数々の勢力が通過しました。ヒッタイト人、アレクサンドロス大王(イッソスの戦いへの途上で)、ローマ、ビザンチンとペルシア、モンゴル、十字軍、みながこの峠を遠征の時に通過したそうです。アレクサンドロス大王は、峠に「われ、ここを通れり」の言葉を残し、その石碑が立っているそうです。

 そして、先の私がバスから撮影した動画に戻りますと(1:00以降)、アナトリア高原の平たい道をひたすら進みます。ガラテヤ地方はこの高原地帯にあり、次の目的地、カッパドキアは、この高原の火山によって出来た大地です。

カッパドキア・ロッジ・ホテル(kapadokya Lodge Hotel)

 バスの中では、すでに次の日の予定を決めていました。カッパドキアで、早朝に気球に乗るのが大きな観光になっているからです。ただ、これに乗るには一人につき2万円弱、払わないといけなかったと思います。私たち明石も、勝さん、ヨシュアさんも断念しました。

 ホテルに到着しました。高原にあるホテルとして、とても暖かみのある雰囲気がありました。いくつものソファのあるロビーでくつろぎ(写真)、夕食は、同じテーブルに、旅行仲間の中では比較的若い、カルバリーチャペルの牧師さんとそのスタッフといっしょになり、写真を撮りました。



 明日は、カッパドキアを満喫します。このホテルには二泊します。