2016年イスラエル・ヨルダン旅行記 2月24-25日
1.ベツサイダ
2.テル・ハダル
3.クルシ
4.ギルボア山
5.イズレエル
6.ハロデの泉
7.ベテ・シャン
8.ヨルダン越境
最後の旅程:ガリラヤ湖東部と下ガリラヤ東部
ついに、私たちの旅は最終日を迎えました。私たちのイスラエル旅行は、ヨルダンの最南端からイスラエルの最南端へ越境し、それから一気にエルサレムへ北上、そして地中海のカイサリア経由でガリラヤに入りました。そして前日、ガリラヤ湖畔の北西部分にある、イエス様の宣教の中心地を見ました。この日、24日は、まずガリラヤ湖畔の東の部分、ベツサイダ、テル・ハダル、そしてクルシを見ます。そして一気に、ヨルダン渓谷に南北に走る国道90号線を南下、下ガリラヤの東部を見てまわります。サウルが倒れたギルボア山に行き、それから北イスラエルの冬の宮殿であったイズレエル、そしてギデオンの300人の軍が選ばれたハロデの泉、最後はデカポリスの遺跡ベテ・シャン(スクトポリス)です。
そしてヨルダンに再び戻ります。イスラエルとヨルダンの越境は、主に三つの箇所、北と中央と南があります。南は、アカバ/エイラットがあります。中部には、私たちのヨルダン旅行の初日に訪ねたヨルダン川のバプテスマの場所、死海のすぐ北のところに、アレンビー/フセイン国王橋というのがあります。ここはイスラエル人とヨルダン人は使えませんが、外国籍の人は使えます。そしてもう一つが北部の、ベテ・シャン/イルビドです。そこから、アンマンへと一気に南下し、そこで夕食を取って、空港に向かいます。飛行機は次の日25日の02:05ということで、24日は朝から晩まで十分に観光を楽しむことができるというわけです。それで、欲張って、ベテ・シェアンの越境のところまで見ることのできる場所を、盛りだくさんいれました。
ホテルからベツサイダまで(グーグル地図)
1.ベツサイダ
(2013年旅行、2010年旅行、Biblewalks.com)
私たちのホテルは、ガリラヤ湖の南西にあるティベリアにありますが、そこからずっと、時計回りで北東に向います。ベツサイダの遺跡et-Tellは湖の北に流れ込むヨルダン川を越えて、すぐ、ピリポ・カイサリア方面に北上する888号線に左折して、すぐのところにあります。グーグル地図で眺めると休戦ラインが走っているのが分かりますが、独立戦争でここをシリアが占領していたところが、67年の六日戦争でイスラエルが奪還したのですが、その後に、発掘できるようになりました。1987年に発掘が始まり、私が初めてここを訪ねた2010年にも、盛んに発掘が行われていました。そして、ネブラスカ大学の考古学チームが、ここがベツサイダであると特定したのです。
旧約時代に栄えた町
ベツサイダと言えば、福音書の中に数多く出て来る町として知られていますが、旧約聖書時代には別名で出て来るところであり、遺跡としてはむしろ旧約時代のものが主に出てきています。ヨシュアたちが約束の地を得て、ナフタリ族の割り当て地にあった町「ツェル」(ヨシュア19:35)であったと言われています。そして、ダビデの時代、そこはゲシェルという国の領地でした。ダビデの妻の一人マアカは、ゲシェルの王タルマイの娘で、その息子がアブサロムであると書かれています(2サムエル3:3)。そして、アブサロムが、異母兄弟のアムノンを殺した後に、自分の母方に当たるタルマイのところに逃げて行ったとあります(13:38)。この時は、かなり大きな要塞があったようですが、アッシリアが紀元前732年にこの地域を攻めてきた時に滅びました。「イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテ・マアカ、ヤノアハ、ケデシュ、ハツォル、ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリアへ捕え移した。(2列王15:29)」
時は飛んで、紀元前3世紀のギリシア時代に、この町が再建しました。ヨセフスによると、ローマ時代初期、ベツサイダがヘロデ・ピリポに紀元30年に与えられ、その名をカエサルの娘の名にちなんで、ユリアスと名づけました。このヘロデ自身もベツサイダで葬られたそうです。
福音書に出て来るベツサイダ
聖書では、ベツサイダは、ピリポとアンデレとペテロの故郷です(ヨハネ1:44)。ペテロとアンデレは、姑の家のあるカペナウムに引っ越したようですが、ピリポはそこに居続けたようです。そして、イエス様が、コラジン、カペナウムの他に、福音を受け入れない町として裁きが降る町として挙げられていました。それだけ、宣教が活発に行われていたところです。
ところで、上の地図にあるように、イエス様の後期の宣教旅行では、イエス様は危険を察知してか、また将来の異邦人への宣教の前触れか、ガリラヤ地方を越えて異邦人の地域に行かれるようになりました。マルコ7章31節から8章を読んでみてください。ツロに行き、そこにいるカナン人の女の娘から悪霊を追い出されました。そしてデカポリスのゲルゲサの辺り、次に行くテル・ハダルの辺りで、四千人への給食を行なわれました。そして一度、舟に乗り、マグダラのほう、向こう岸へと行きますが、また戻って来て、8章22節に、盲人の目を開ける奇蹟を行なわれます。「彼らはベツサイダに着いた。すると人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってくださいとイエスに懇願した。・・・(マルコ8:22)」そして、そこから北上して、ピリピ・カイサリアに行かれて、「人々はわたしをだれだと言っていますか。」と尋ねられます(8:27以降)。
(北西から撮った、ベツサイダの平野。Bibleplaces.comから)
その他、ルカ9章10節には、「それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた」とあり、そこは「寂しいところ(マタイ14:13)」ともあります。ベツサイダの町そのものではなく、その周囲が人の住んでいない場所が広がっていたのでしょう。こちらヨルダン川の東のほうは、今も農地は広がっていますが、人の住んでいない所となっています。
実際の遺跡へ
Biblewalks.comにある地図を見ると、これから見る遺跡が分かり易いと思います。私たちは、まず北のほうから右側(東側)の外を南下して、あるき、Gate(門)と書いてあるところに向っています。青字の部分は鉄器時代の、先ほど話したゲシュルの国があった時のものが遺っています。
見てのとおり、ビデオカメラを下に向けたまま話てしまっています。ここの写真をこちらでご紹介します。
ここは外門です。上の写真は、2013年の旅で撮ったものです。左右に石碑が立っています。そして不思議なことに、ゲシュルの時代の角のある雄牛の像が2016年の上のビデオや写真には撮影されていません。石板のようなものが立てかけてあるのが見えましたが、同一のものなのでしょうか?
これは複製であり、現物は五つの部分に砕かれていたそうです。アッシリアがゲシュルのこの町を破壊したことがよく分かるそうです。この像の真下には、石盤があります。その下に、階段のある祭壇(バマ)があります。これは、いわゆる偶像を祭るところであり、エゼキエル20章29節では、「それで、わたしは彼らに言った。『あなたがたが通う高き所とは何なのか?』と。今日でもその名はバマと呼ばれている。」とあります。
そして中に入ると、当時の門にあるような、いくつもの部屋の跡があります。上空からはこちらになります。部屋の跡を通過していきました。そして内門に来ますと、同じように左右に石碑が立っていますが、右(南)側には、犠牲の祭壇の跡があります。
写真では、こちらです。そして、この祭壇の下に穴があり、食物規定の清い動物の骨があったそうです。次の映像は、これらの遺跡から想像できる模型を紹介しているものです。
そして私たちはずっと北に上がりました。ここはローマ時代初期の遺跡で、ぶどうの家の跡があります。
そしてそのすぐ南に、漁師の家の跡があります。案内の石碑には、マルコ1章16‐17節が紹介されていました、つまりシモンとアンデレが、漁師として暮らしていた所、イエス様が呼ばれて、ついて行ったという箇所です。ここでよい質問が出てきました。ガリラヤ湖はどこにあるのか?と。そうなんです、漁師の家の跡があり、マルコ1章の該当箇所はイエス様が湖のほとりを通っていて、湖で彼らが網を打っているのをご覧になったとあるからです。けれども、岸辺から1.5㌔のところにこの遺跡があります。このことについては、後でご説明します。
そしてさらに南に行って、左側(西)に行きますと、ベツサイダの中では新しい発掘現場に出ます(2010年の時はまだ発掘途中でした)。さらに西に行くと、ガリラヤ湖を遠くに展望できる場所に来ます。ここで、マルコ8章22‐26節からメッセージをしました。
この展望台には、どの方向に何があるかを示す標識がありました。
そして恭仁子さんは、「瞑想の場所」ということで、連れて行ってくださったのですが、2013年の旅の時も連れて行かれてようとして、結局、柵があるか何かで中に入れませんでしたが、今回もそうでした。(写真)
二つのベツサイダ:考古学発見による変遷
ベツサイダについて、このet-Tell自体が、比較的新しい発掘で聖書のベツレヘムであるという特定がされたのですが、しかし、もっと岸辺のところあるel Arajではないかという意見もあります。まず次の動画を観てみてください、英語が分からなくとも、et Tellとel Arajの位置関係を見ることができます。
理由として、et Tellが岸辺から2㌔近く離れているのに対して、こちらはまさに岸辺にあります。しかし、離れているのは、古代と今ではガリラヤ湖畔の地形も変わったからという説明ができ、el
Arajのところは水面下だったはずという反論があるのですが、1‐3世紀のローマの陶片が見つかり、皇帝ネロの銘のある硬貨が見つかり、ローマ時代の壁、またモザイクも見つかったそうです。。つまり、人が住んでいた証拠であり、水面下ではなかったとのことです。
それに対してet Tellは旧約時代の遺跡は多くでるが、ギリシア時代とローマ時代の初期のものしか遺跡がないと言います。さらに、ヨセフスの記述によれば、ベツサイダ(ユリアス)のことを、町(ポリス)と呼んでおり、ローマの都市形態を取っていなければならないのだけれども、et Tellにはその遺跡が見つかっていないということです。
そしてel Arajには、ビザンチン時代の修道院の一部の跡が発掘されました。つまり、ここで巡礼者が集まっていたという証拠になっていて、ということはこちらがベツサイダである可能性が出てきたのです。けれども、町(ポリス)であったという証明がありません。ところが、ローマの風呂の跡が2017年に見つかりました。先のローマの壁やモザイクも含め、ポリスであった証拠だと言います。(関連記事 関連動画)。
ところが、2016年でBibleplaces.comでは、これだけではまだ根拠に乏しい、el Arajをベツサイダと断定するのはまだ早いとしています。そこで、旧約時代からローマ時代初期までのベツサイダが一方であり、ベツサイダ・ユリアスは他方にあるという、二つのベツサイダ説もあるようです。2017年に、ローマ風呂の跡が見つかるとか、どんどん発見によって意見が変わってきます。次回、イスラエル旅行に行く時には、こちらel
Arajも見せてみようかな?と、ふと、思いました。
ベツサイダからテル・ハダル(グーグル地図)
2.テル・ハダル
(Biblewalks.com)
ベツサイダからの地図をご覧になると分かりますが、テル・ハダルは目と鼻の先ぐらいの近さです。イエス様が、ツロの地方から戻り、湖の東岸で四千人への給食の奇跡を行なわれたのではないか?と思われます。私にとっても初めての場所でした。次の目的地のクルシのすぐ北にあり、現代はイスラエルの海水浴場の敷地内にあります。恭仁子さんの説明を聞きましょう。
このように、ユダヤ人集落があったということは、住みやすさがあったということで、その下にも層があるということです。遺丘は草ぼうぼうですが、ウォーターパークの一部になっているので、定期的に草の刈込が行なわれるとのこと。Biblewalks.comによりますと、1980年代の考古学チームによる調査が行われ、初めは、ダビデ時代以降のイスラエル人が建てて(鉄器時代)、アッシリアによる侵略(紀元前八世紀)まで続いていたそうです。その遺跡を、そのサイトで見ることができます。
そしてローマ時代は、ここはデカポリス地方に入っていました。近くにはガダルやヒッポスがデカポリスの町として遺跡が残っています。そこにユダヤ人の集落があったということは、相当の緊張があったことでしょう。それで、しかっりとした外壁と内壁で囲まれていたのでしょうか?あるいは、かなり妥協して律法を守らないユダヤ人が住んでいたのでしょうか?デカポリスというと異邦人だけ、と思いがちですが、ユダヤ人は意外にいたというのは、あまり知りませんでした。そして、ここは交通の要所で、北へはゴラン高原を通って、ダマスカス(これもデカポリスの一つ)まで行けるそうです。では、ここでマルコ8章1‐10節までから、御言葉を語りました。
テル・ハダルからクルシまで(グーグル地図)
3.クルシ
(2013年の旅、2010年の旅、Biblewalks.com)
テル・ハダルから、ほんの少し南下するとクルシ国立公園があります。湖の東岸、ゴラン高原の麓になっていて、その湖のちょうど向こうには、昨日みたミグダルがあります。ここも、ベツサイダの遺跡と同じく、六日戦争によってシリアから奪還したところで、その後に発掘されています。キブツの人がここを土地整備していたら、ブルドーザーが遺跡を削っているのではないか?ということが分かり、すぐに止めさせて、イスラエル考古学庁に連絡、それでビザンチン時代の修道院が発掘されました。教会が存在していたというとと、チャペル(小聖堂)が険しい崖に立っているということから、ここが、レギオンとの対決で、イエス様が豚に悪霊どもが入るのを許され、崖から湖になだれ込んだ奇蹟が起こった所ではないか?と言われています。クルシの名前はアラビア語で、「座」という意味です。
こちらの上空からの写真をご覧になれば、よいかと思います。ガリラヤ湖が右上に見えます。公園の入口は右下にあるので、そこから木々が生い茂っている右側部分を歩き、教会堂の横(上)の道を通って、左上にあるチャペルへと上って行きます。Biblewalks.comにも、この崖の上のチャペルの写真が掲載されています。こちらが、教会堂の遺跡の横を歩いている動画です。
そしてチャペルに到着しました(写真はこちら)。小さなモザイクも残っています(写真)。恭仁子さんが説明してくださいました。
ここからメッセージをしました。マルコ5章1‐20節です。
そしてチャペルから降りて、ビザンチン時代の修道院の教会堂に入ります。会堂もあるし、洗礼漕、碾き臼も残っていています。壁でしっかり囲んでいるのは、当時もユダヤ人の集落も、異邦人の集落もしっかり壁で囲んでいたとのことです。そうしないと、大変な確執で争いが起こってしまうからということです。
そして、こちらクルシでも、ここでレギオンをイエス様が追い出された奇跡について、そうではないと強く主張している人々がいます。初代教父のオリゲネスの判断が問題だったのだということがその根拠として主に上がっているのですが、私にはあまり分かりませんでした。けれども、こちらの記事は結論を出さずに、オリゲネスがそのように推論した根拠を紹介しているものでした。この地域が、「ガダラ」「ゲラサ」そして「ゲルゲサ」とまで出て来ます。しかしガダラは、今のはヨルダン領の最北に近いところにあるウンム・カイスというところであり、デカポリスの一つでありますが、ガリラヤ湖からはかなり遠いです。そして、ゲラサはヨルダン中部にある、ジェラシュという遺跡群がありますが、もっともっと遠いです。2010年の旅でどちらも行きましたので、その遠い距離感覚は知っています。→ ガダラ、ゲラサ
ヨルダン渓谷へ
クルシからレストラン「ダグ・ダガン」まで(グーグル地図)
クルシを見終わって、これでついにガリラヤ湖からお別れです。私たちは、ガリラヤ湖から死海、そして紅海にまでつながっている国道90号線に乗りました。これから進行方向から左側には、ヨルダン領が見えます。ヨルダン川そのものは車中から見えませんが、その向こうに農地が広がっているのが良く分かります。ヨルダン旅行の時に、ヨルダンの農産業の貴重な場であるという説明を受けていました。ガリラヤ湖から離れて、すぐに、ゴラン高原とヨルダン領の間に流れているヤムルク川があり、2010年の旅でヤムルク川がヨルダン川に合流するところまで行きました。(2010年の旅)ここは、ヨルダンとイスラエルの国境でもあるので、橋には仲良く二つの国旗が並んでいます。そしてそこから、二人のヨルダン国王(フセインとアブドラ二世)の肖像のある門が見えましたが、それが次のビデオでも確認できます。
この地域については、2010年の旅「下ガリラヤ(東部)」の初めの部分をご覧になるとよいでしょう。今回も動画に撮りましたが、ベルボアールという十字軍の城跡がイスラエル側にあります。そこにヨルダン渓谷を眺める見晴台があり、また渓谷の地形、またシリア・アフリカ大地溝の説明など、詳しく知ることができます。
そして私たちは、最後の訪問地ベト・シャンの近くを通り、その辺りは養殖業が盛んなのですが、お魚を売りにたキブツのレストラン、DAG DAGANに入りました。何でもない農業の家みたいな敷地に、家庭的なレストランがあります。これが最後のイスラエルでの食事です。
昨日のお昼も、たしか聖ペテロの魚だったような・・。前もって言われていたメニューと違かったのですが、ガイドに聞いてみたら、「日本人のお客ということで、お魚がよいだろう」と判断したとのこと。う~ん、買ってに決めちゃだめでしょう、と言いたい所ですが、「これこそイスラエル人だ!」と受け入れ、喜ばないといけませんね。イスラエルの人は、勝手に、無邪気に日本のことが好きな人が多いそうです。それはそれで、嬉しいことだし、魚の養殖のキブツですから、お魚を食べた方がいいですからね。
レストランからギルボア山へ(グーグル地図)
4.ギルボア山
(2010年の旅行、Biblewalks.com)
レストランはまさに、南東から北西に伸びているギルボア山のふもとにいました。ギルボア山に入り、左手にはヨルダン渓谷が見えます。
その山腹沿いに北西に走りました。以前も2010年に少しだけ走りましたが、上のほうまで来て、しっかり走ったのは初めてです。標高は502㍍です。Biblewalks.comの中で示すような、「サウルの肩」と呼ばれる展望地点があります。駐車場もあり、ピクニックができるようになっています。ギルボアの戦いで、サウルがペリシテ人の前で倒れたことを記念しています。ここからの眺めは、イズレエル平原、特にイズレエル遺丘、モレ山、手前のハロデの泉、向こうのシュネム、それからタボル山と、聖書の出来事がいろいろなことが起こっている地点を多数、見ることができます。サムエル記第一29章、31章、2サムエル記1章を読んでみてください。そして、ダビデの哀悼の歌を思い出します。「ギルボアのの山よ、高原の野よ。おまえたちの上に、露は降りるな。雨も降るな。そこでは勇士たちの盾が汚され、サウルの盾に油も塗られなかったからだ。(1:21)」ギルボア山の、ところどころで剥げている部分がありますが、1999年のか2008年の旅ではガイドが、敢えて一部植林をしていない、このダビデの呪いの言葉を守るためだと説明していました。
まず、ここからの眺めを取った映像を見てください。
こちらのBiblewalks.comの同じところからの動画は、場所の説明付きで楽しめます。そしてこちらの写真にも、説明があります。この写真と、下の地図を比べれば一目瞭然でしょう。
ここから、サウルの死と、ダビデの哀しみについてお話ししました。
ギルアデ山からイズレエルへ(グーグル地図)
5.イズレエル
(2010年の旅、Biblewalks.com)
カルメル山からこちらヨルダン渓谷までの大きな一帯を、イズレエル平原と呼んでいますが、イズレエルという町があったので、そう呼ばれています。ギルボア山の北西に伸びる丘陵がなくなり、平野になったところにちょうど、その遺丘があります。車ではものの10分ぐらいのところです。こちらもまた、2010年に僅かに外から見ただけで、きちんと中に入って見たことがありませんでした。
イズレエルは、ヨシュアたちが約束の地に入り、イッサカル族の割り当て地の町となりました(ヨシュア19:18)。そして、先ほど話しましたように、対ペリシテ人の戦争でイスラエルの陣営の一部になったところです。ダビデの嫁アヒノアムの出身地(1サムエル25:43)であり、ソロモン王による第五の行政地区でもありました(1列王4:12)。
何と言っても、ここは「アハブの冬の宮殿」(1列王21:1)で有名なところです。サマリアに王宮はありましたが、冬はこちらに別荘を持っていました。アハブとエリヤが、カルメル山での対決の後にここで会いました、イゼベルの脅しを聞いたのもここです(1列王18:45‐46、19:1‐3)。そしてナボテのぶどう園もここにあり、ナボデ殺人事件もここで起こりました(1列王21:1‐29)。そして、主はこのことを覚えておられて、ついに主がエフーを起こし、アハブ家、というよりもバアル崇拝者を根絶やしにするべく激しく怒り狂って戦ったところであります(2列王10:14‐36、ホセア1:3‐5,11)。
おそらくここが、最もモレ山を間近に見ることができるところでしょう。私たちは、テル・ハダルと同じように、遺丘そのものの上は行きませんでした。Bibliewalks.comにその写真が載っています。見晴らしができるところに、みなが座って、私がモレ山を背景に、エフーのお話をさせていただきました。一昨日言ったカルメル山で、バアルの預言者とエリヤが対決しましたが、預言者エリシャの時に、ようやくバアル信者の根絶をエフーを通して行うことができました。
やはり、イズレエル平原を今回はかなり網羅したので、どのようにエフーが動いて行ったのかを、鮮明に辿ることができました。
イズレエルからハロデの泉まで(グーグル地図)
※地図では、なぜか、ギルボア山の麓沿いを走っている675号線を指しません。イズレエル遺丘から、車でまっすぐ、10分かかるかどうか、というぐらい近いところです。
6.ハロデの泉
(2010年の旅、公式ウェブサイト)
ここは、「ナアヤン・ハロデ国立公園」というところにあり、プールやテニスコートなどがある公園ですが、ギルボア山の麓にある洞窟から湧き出ている泉があります。サマリヤやナブルス(シェケム)でためられている地下水脈がギルボア山の下にまで来て、それが放出しているらしいです。そこが、「ハロデの泉」と呼ばれるもので、有名な、ギデオンの三百人の勇士たちが選定されたところです。ところが!です。なんと、公園を大きく改築工事をしていて、ハロデの泉は出てきていませんでした。そこから小川となっていて、そこがまさに、三百人が選定されたところなので、しばしば実演しながら説明できるのですが、それができません。非座間づいている人、犬のように口を付けて飲む人は除外されて、手で水をすくって、ひざまずかない者だけが選ばれました。それを次の動画で、確認してみましょう。
まずは、2010年の旅の時にとった泉から、こんな感じです。
そして、膝をついて犬のように水を飲んだ場合と、ひざまずいたばあいと、水を手で掬って、ひざまずかなかった場合とを演出した動画がこちらです。泉の前の小川で演出しています。
そして、この小川の先にはプールがあり、そのプールのところからギルボア山の麓を見ると、次のような写真の風景になります。
麓のところにある白く見える建物は、ハンキンの家と呼ばれ、そこが良い見晴台となっています。私たちは、泉の前を通って、そのまま見晴台まで上って行きました。
この戦いの様子は下の地図で確認できます。ハロデの泉はモレ山の手前(下)にあります。そして、ミディアン人はモレ山の向こう側に陣営を張っていました。なので、三百人はモレ山を回って戦ったのです。
ところで、この小川は、ハロデ川に流れて行きます。そのハロデ川はハロデの谷を通って、ヨルダン川に流れて行きます。下はハロデ川の動画で、次に行くベテ・シャンの横を通っていきます。
そして、イズレエルの谷があり、そこにはキション川が流れていて、地中海の達するということです。キション川については、カルメル山から眺め降ろすことができましたね。
ハロデの泉からベテ・シャンまで(グーグル地図)
7.ベテ・シャン
(2010年の旅、2008年の旅、たけさんのイスラエル紀行①、たけさんのイスラエル紀行②)
ついに、イスラエルの最後の訪問地、ベテ・シャン(ベテ・シェアン)に来ました。1999年の初めての旅から、ずっとここは訪れていたのですが、前回の2013年の旅ではスキップしていました。今回、ベテ・シャンからヨルダンに再越境するので、ここは絶対に旅行仲間には見せたいと思っていました。けれども、旅程が欲張り過ぎました、ガリラヤ湖畔では、ベツサイダとクルシに加えて、新しくテル・ハダルを入れ、こちら下ガリラヤの東部では、多くの旅行グループは、ハロデの泉は訪れるけれども、ギルアデ山やイズレエル遺丘はほとんど訪れません。盛りだくさんの旅程だったので、ここは駆け足で見たという感じになってしまいました。
新約聖書の舞台「ローマ」時代
私にとって、ベテ・シャンは聖地旅行において、強い印象を受けている場所になっています。それは、ローマ帝国時代の都市の遺跡に、意識的に触れた初めての経験だったからです。神殿の丘やその城壁も、まさにローマ時代の遺跡なのですが、あまりにも数多くの他の要素があり、ユダヤ的要素が濃厚なため、ローマだけを見ることができません。マサダやカイサリアも同じく、かなりローマ色は強いのですが、それでもユダヤ教改宗者であるヘロデの建てたものです。しかし、ベテ・シャンは旧約時代のベテ・シャンの大きな遺丘はあるのですが、その手前にローマ時代のデカポリスの町の遺跡がくっきりと残っています。そして、このようなローマの都市は、2010年のヨルダン旅行で、デカポリスであるガダラとゲルサを見ましたし、ゲルサはベテ・シャンを三倍にしたかのような大きさです。
そして、2018年4月のトルコ・ギリシア旅行では、トルコにあるエペソを始めとする都市の跡は、それはそれはベテ・シャンの四倍ぐらいの規模があるでしょう!いかにイスラエルでは、ユダヤ人が多神教、異教のローマとの確執があり、ローマがローマ色をなかなかユダヤ人の住む地域では出せなかったということが、よく分かります。そして、逆に離散の地のユダヤ人、またキリスト者もそうですが、そうした異教の環境の中で少数派として、いかに信仰を保つかという大きな課題があることを知りました。ようやく一定の信教の自由をローマから確保していたユダヤ人は、もう一つの一神教、ナザレ人イエスを信じる者たちのせいで自分たちにも迫害の手が伸びるのではないか?と恐れて、煙たくて煙たくて、それで迫害しているという構図も理解できました。・・まあ、こういったことは、2018年のトルコ・ギリシア旅行記でお話ししたいと思います。
旧約時代のベテ・シャン
ベテ・シャンは、ちょうどイズレエル平原がヨルダン渓谷とぶつかるところにあり、ハロデの泉から来るハロデ川が流れ、かつヨルダン川の東、ギルアデ、東方からの通商が行ないやすい場所として、非常に古くから栄えていた町です。かつての文明が東方、メソポタミアであったことを思い出してください。かなり高い丘になっている、旧約時代の遺丘にはメギドでトトメス三世がカナン人の王と戦って勝ってから、こちらにまで勢力を伸ばした時の遺跡の跡が残っていますが、なんと紀元前四千五百年頃からの遺跡が20層にも積み重なっています。入口は二世紀のローマの町から入り、行ける人だけ大急ぎで、その向こうにある遺丘に上がりましたが、まず、そちらから説明してみましょう・・というか、たけさんのイスラエル紀行が、実に詳細に、正確に遺跡の説明をしています。
それでも、少し、まとめてみたいと思います。イスラエルの民が約束の地に入った時に、マナセの地に割り当てられたけれども、占領することができませんでした(ヨシュア17:11‐12)。士師の時代も同様です(1:27‐28)。サウルが王になった時に、先にギルボアの戦いで彼が死に、ここで死体がさらされたように、ペリシテ人が牛耳っていましたが、ダビデがペリシテ人を屈服し、そしてソロモンが要塞を築きました。けれども、紀元前732年に他のガリラヤ東部地域と同様、アッシリヤによって滅ぼされ、捕え移されます(2列王15:29)。そして、紀元前3世紀にギリシアの試合で再建されるまで、そのままにされていました。
ここでは、サウル王がギルボアで死に、ペリシテ人がその死体をさらした場所として出てきます。「翌日、ペリシテ人がその殺した者たちからはぎ取ろうとしてやって来たとき、サウルとその三人の息子がギルボア山で倒れているのを見つけた。彼らはサウルの首を切り、その武具をはぎ取った。そして、ペリシテ人の地にあまねく人を送って、彼らの偶像の宮と民とに告げ知らせた。彼らはサウルの武具をアシュタロテの宮に奉納し、彼の死体をベテ・シャンの城壁にさらした。
(1サムエル 31:8-10)」
そして、ヨルダン川の向こう側にあるヤベシュ・ギルアデの住民が、その死体を取り下げて、ヤベシュに帰って来て、そこで丁重に葬りました(31:11‐13)。それは、士師樹の最後によると、ベニヤミン族が内戦でほとんど絶滅しかけて、その処女の娘たちがベニヤミンに無理やり嫁がせられたからです。つまり、サウルはここの住民と血のつながりがあります。そのことをダビデは、丁重な埋葬を後で知り、主をほめたたえ、彼らを祝福します(2サムエル2:5‐7)。ダビデが、サウルの味方を自分の味方にしていき、柔和さと平和に基づいて、後に統一王国を確立します。
そしてここから、ハロデ川が見えて、ヨルダン渓谷とその向こうのギルアデの山々を見ることができます。
ギリシア・ローマ、それ以後のベテ・シャン
この旧約時代の遺丘のから、眺めた映像をまずご覧ください。
そして、同じように遺丘から撮った写真が、日本語の説明付きで見ることができます。こちらの見学も、徹底的に詳しく紹介している、たけさんのイスラエル紀行がよいでしょう。
話の続きになりますが、紀元前3世紀になって、ギリシアの支配下でこの町が再建され、スキトポリスと名づけられます。先ほどの遺丘の上に神殿が建てられるものの、紀元前100年にユダヤ人のハスモン朝によって破壊されます。しかし、紀元前一世紀になると、ローマがここをデカポリス(10の都市連合)の行政中心都市として整え、上に見るような遺丘の麓に計画的に整備された大都市を造ったのです。
デカポリスとは、「デカ」の部分が十で、「ポリス」は都市を意味していますが、ギリシアの十の植民地の総称でした。それが、北からダマスコ、カナタ、ディオン、ヒッポス、ラファナ、ガダラ、スキトポリス、ペラ、ゲラサ、フィラデルフィア(今のアンマン)とあります。私が2010年の旅行で、ヨルダンにあるペラ、ガダラ、そしてゲラサ(ジェラシュ)に行ったことがあります。しかし、ベテ・シャンであるスキトポリスだけが、ヨルダン川の西側にある唯一のデカポリスです。ギリシアの植民都市として栄えていたのですが、一時、ハスモン朝によって抑えられたものの、紀元前63年にポンペイウス率いるローマ軍が攻めて、それでローマ支配下に入りました。そのまま自由通商のための都市同盟を結ぶままにさせ、免税の特権も与え、シリア総督の支配下に置きました。なので、デカポリスはギリシアの都市でありながら、実質的に栄えたのがローマの行政下に置かれた都市ということであります。
したがって、福音書では、イエス様がデカポリス地方に行かれる時は、異邦人主体のところに行かれたということで、ユダヤ人として行くのは、かなり緊張感を伴った所だったと考えられます。悪霊解放された男には、唯一、行って広めなさいと、他の「言ってはならない」という命令とは正反対の命令をされたのは、イエス様がイスラエルの滅びた羊のために来られたという使命から離れているところだからです。
そして聖霊がエルサレムにいる弟子たちの祈りのところに臨まれ、教会が始まり、この二世紀に栄えたローマの町にも、キリスト者は多くいました。ユダヤ人もいました。この遺跡からちょっと離れたところに、競技場の跡があります。競馬などが行なわれていましたが、グラディエーター(剣闘士)、野獣との戦いなどの、惨たらしい戦いをエンタテで見ていました。66‐70年の時にユダヤ人反乱において、ここで何と3万5千人が殺されました。そしてローマがキリスト教を公認するまでの間、2万4千人のキリスト者が殉教しました。私たちが、こういった人々の信仰を継承しているからこそ、今、キリスト者であるのだということを覚えたいです。(参考動画)こちらに、現場からキリスト者が信仰のゆえに耐え忍び、苦しみを受けたことを話している動画があります。
そして、公認されてからビザンチンの時代に入りますが、市街にはビザンチン朝の時のキリスト者の存在を示す跡も残っています。そして、アラブ勢力によって紀元7世紀に制服されて、それから衰退に向かいます。そして749年に大地震が起こり、それで今日に至るまでの廃墟となりました。その跡が、同じ方向にいくつもの柱が同じ方向に倒れているのを見て、その生々しさを今でも思い起こせます。
たけさんのイスラエル紀行ををじっくりご覧になってみてください、ローマの生活がどんなものであったのか、まるでタイムスリップしたような気分になることでしょう。そして私たちのここを歩いたビデオを最後にご紹介します。
入口から入っていきます。左手にローマ風呂、右手に劇場が、そして正面が列柱の並んでいる、中央のパラディウス通りです。
パラディウス通りを歩いています。右側は、ビザンチン時代のビザンチン時代の広場です。
そしてプラディウス通りの左にあり、シグマ(半円形広場)を見ます。
正面はT字になっていますが、左が北の大通り、右がシルバヌス通りです。右に曲がって、この通りを歩き、左には谷の通りがありました。そこを左折して、谷の通りを外側に回って、それから遺丘への入口に入りました。下は、シルバヌス通りで列柱が見え、左に谷の通りが見えるところの写真です。
8.ヨルダン越境
ベテ・シャンからヨルダン川検問所まで(グーグル地図)
(2010年の旅)
写真も動画も、もうすでに日が暮れていることがお分かりになるかと思います。夕食は、ヨルダンのアンマンで食べることになりますから、急いで越境しなければいけません。私たちはバスに戻り、ここで一人の兄弟と(上の写真の緑のTシャツを着た人)とお別れです。一気に、ヨルダン川のほうに走っていきます。さすがみんな、写真を撮る余裕がなかったのでしょう、けれども、グーグルの写真検索を見ると、こんな感じだったのを思い出します。イスラエルの出国手続きのとこまでは、恭仁子さんが来てくださいました。そこで、免税手続きもここで済ませます。それから、ヨルダンへ越境するバスに乗り換えます。ここで、恭仁子さんと運転手のヤイールさんとお別れです。そして、ヨルダン側に来ましたら、バスから荷物を降ろして、そのまま入国手続きの部屋に入ります。そして荷物を持って移動、そこに、久しぶりに(?)ラエルさんと会えました!
検問所からレストラン"Tawahein Al Hawa"まで(グーグル地図)
ヨルダンは、北部にあるイルビドというところです。ここからは、地図を見ていただければ分かりますが、一気に、ヨルダン渓谷のヨルダン側のほうを南下します。左手のはずっと山々が続きます。聖書的にはギルアデと呼ばれる所です。ヤボク川からヤムルク川の間の山地です。その町並みは、いわゆる発展途上国っぽい、田舎という感じでしょうか。私の奥さんが、かつて住んでいた宣教地のことが懐かしいと言い続けていました。(動画 ・ 写真)
途中で、ヤコブが御使いと格闘したヤボク川を通り過ぎたのですが、その時はすでに日が暮れていて、見えませんでした。そこから間もなくすると、30号線にV字に左折する所が出てきて、これから一気に高地へと急な上り坂です。くねくね道をずっと走っていきました。そしてアンマンに向って進んでいきます。そして、初日にさえ行かなかったアンマン市内へとはいって行きます。さすが首都、夜ですがネオンが輝いていて栄えています。そして、レストランに到着です。Tawahein Al Hawaと言います。
This photo of Tawaheen al-Hawa is courtesy of TripAdvisor
非常に不思議な気分になりました。いわゆるこれが中東の雰囲気なのでしょう、私たち日本人にとってはとてもエキゾチックすぎて、異色な感じがしました。水タバコを加えている人、そして女性も結構いますが、家族で来ている感じです。同じように水タバコを吸っている人もいました。これは、アンマンでは普通なのでしょうか、それともお金持ちが来るようなところなのでしょうか、たぶん普通の、ちょっときちんとしたレストランだと思います。でも雰囲気は、高級志向の人々が来ているような雰囲気です。やはり大きな違いは、男性中心だということです、接客はすべてタキシードを来た男性というのが、独特の雰囲気を出しているのでしょう。食べものの中身は、ヨルダンで最初の三日で食べたものと似ていますが、最も高級で、量も多かったです。こんな感じ。
This photo of Tawaheen al-Hawa is courtesy of TripAdvisor
そして嬉しかったのは、通訳のマヘルさんが、なんと日本人の奥様といっしょに来てくださったことです!ヨルダンで知り合ってご結婚されたとのこと。(写真)日本人女性がヨルダン社会で生きてこられた話を伺って、とても参考になりました。
食事が終わり、ついに空港へ。25日の02:05にエミレーツ航空906便はアンマンを出発し、06:05にドバイに到着です。アメリカから来た兄弟姉妹は、02:50発のユナイテッド9151便で、ここでお別れです。私は、出発便を待っている時にとてつもなく睡魔が襲って来たのですが、仲間がちゃっかり写真を撮っていました。
機内で食事が出たんですが、私は全く食べず寝ることに専念。そして、早朝にドバイに到着。朝日がまぶしかったです。ここで兄弟お二人で参加されたかたが、乗り換え時間を一日引き伸ばし、ドバイで一日観光でお別れです。残る者たちが、08:25発の312便に乗り、無事、同日の22:45に、羽田空港に到着しました。往きは成田発でしたが、帰りは羽田着にしました。
最後に:書き終わるのが遅すぎた旅行記
今、この旅行記を書いているのは、2018年5月です。いつもは一年以内と思いつつ、なんと二年以上かかってしまいました!一日分を書くのに、ものすごい時間がかかります。それは、調べているうちに新たな発見をしたいという欲張りが出てしまうからでしょう。また分かったつもりでいても、まだ分かっていないところを気づかされたり・・・。
今回は、前回にもましてビデオカメラを活用しました。やはりガイドの方の声だけでなく、その話ておられる背景が分かれば、一発で話している内容を思い出せます。なのでこれだけ時間が経っているのに、十分、二年以上前のことを今日訪ねたように、思い起こすことができました。それから、兄弟が私のメッセージをビデオに収めてくれたのも助かります。そして写真や動画は、グーグル・フォトに保管共有、仲間の写真や動画を共有するのに、大変役に立ちました。無料だし、2013年の時とは全然違います。
正直、イスラエルへは五回、次にどのような企画にするか、エネルギーが出てきませんでした。けれども、それとは別に、一年半前ほどから、「トルコ・ギリシア旅行」に行きたいと思っていました。そして2018年4月にそれが実現しました!イスラエル旅行記を3月までに終わらせたいと思った所が、ずれこんでしまいました。トルコ・ギリシア旅行はあまりもの感動で、特にトルコは「教会を知るのはここ!」と思いました。次回は「七つの教会(トルコ)とイスラエル」というテーマで、企画してもいいかな?と思います。興味のある方は、ぜひメールでご連絡ください。企画が定まった時に連絡させていただきます。