2019年トルコ研修旅行記 4月9日 その① エペソ
1.古代エペソ遺跡
2.聖ヨハネ聖堂
3.トルコ絨毯店
4.スミルナのアゴラ
この日は、エペソを訪ねる一日となります。そして、その後でトルコの絨毯のお店に立ち寄り、それからイズミール市内に戻って、スミルナのアゴラの遺跡を外から眺めることになります。
ホテルからエペソ遺跡まで(グーグル地図)
エペソについての説明も、2018年旅行記に詳細に書かせていただいているので、ぜひ、そちらをご覧ください。ホテルのあるイズミールから、エフェソスまでは約一時間の間に、ディレクさんがエペソについての説明をしたので、ここでは、それを紹介します。
エペソは、第一に、ローマのアジア属州の首府であり、25万人がいました。
第二に、前6世紀に建てられたアルテミス神殿は、小アジアにおける主女神を祭っているものでした。当時、最大の規模のものです。現在は、一本の柱しか残っていません。世界中から参拝者がおり、それゆえ金銭も莫大に集まりました。アルテミスの像ですが、これはギリシアの女神ですが、ギリシア本土のものとは格好が違います。ちょっと異様な姿をしています。腹の部分に多くの乳房を抱えており、首飾りを多くしています。収穫物の首飾りなので、多産の女神のみならず、豊穣の女神であることがわかります。スカートには獣が描かれており、狩猟犬が両脇にいます。ゆえに、狩猟の女神でもあります。また占星の女神でもあり、占星術の徴が首の周りにあります。この像は、後にキリスト教徒たちによって破壊されました。
アルテミス神殿の祭司たちは、去勢をした者たちでした。儀式で阿片を嚙みながらエクスタシーに入り、女神を回って踊って、自ら去勢をします。血が流れて地面に落ちたら、男性を捨てて犠牲にし、この地母神に肥しを与えたことになります。しかしパウロが福音をここに伝えた時に、去勢どころか、割礼をする必要もない、心の割礼こそが大事なのだと宣べ伝えたのです。そして、これら宦官となった祭司は、女性の衣を身にまといます。
最古の地母神の像は、コンヤ付近で発掘されたものであることは、既に話しました(「チュタルヒュユクの遺跡」)。前9000年のものです。大きな乳房、大きな腹を持っていますが、妊娠しています。そして両手では愛玩動物を撫でています。多産の女神、狩猟の女神であることがわかります。この小アジアの地母神は、後の時代に、いろいろな名で呼ばれ、ギリシア時代にはアルテミス、ローマ時代にはディアーナ、ヒッタイト時代にはクババ(Kubaba)、フリュギアではキュベレーです。
アルテミス神殿の(女)祭司たちは、永遠の処女でなければいけません。女祭司は貴族の娘だったりします。もし処女性を失ったら死刑です。春の祭りの時に、前ローマから巡礼に来ますが、これら祭司たちは白い衣で着飾り、東の門から入り、行列を組んでいます。神殿は自然の神をあがめているので、市内にはなく、そこから行進して、町に入り、人々は外に出て来て歓声を挙げます。そして3万人を収容する大劇場に到着します。人々は高揚し、祈りがあり、劇など、ローマ地方総督による娯楽の時となります。物売りもあるので、商売にもなっています。そして、売春をする女祭司たちもおり、若い女性でした。顔は覆いで隠されていて、若い男たちに生殖行為に誘います。性の快楽のために、もっと年老いた人たちも行きます。
しかし、パウロたちは、神はこれら女の神々にあるのではなく、神の御子キリストなのだと伝えたのです。彼はアジア出身の人だから、これらのことを知っていましたが、ペテロやヨハネ、ピリポなど、かなりの衝撃だったことでしょう。福音を伝えることは、大きな挑戦だったに違いありません。
そして、黙示録の時にキリスト者を迫害していたのは、ドミティアヌス帝です。アルテミス神殿の次に大きいのは、ドミティアヌス神殿です。そこに巨大なドミティアヌスの頭があり、右腕の一部のみが見つかっています。他は木製だったので、それしか見つかっていないのではないかと言われています。モンゴロイド系の人であり、精神不安定であり、残虐な人でした。
ローマ社会では、これらの神々への礼拝は上流階級のもので、ローマの三分の二を占めていた奴隷には無縁のことでした。そして、「献げることで、これだけ福がある」としていたのに対して、神の恵みによって救われることを説いた福音は、奴隷たちにも拡がっていったと考えられます。神殿はお金が集まるところでもあり、両替もしていますから、手数料で儲けていました。腐敗もはびこっていました。
1.古代エペソ遺跡
(2018年旅行記、Ephesus)
2018年の旅の時と同じように、南東にあるチケット売り場から入場し、北西のチケット売り場のほうに向かって歩いて行きます。こちらの地図をじっくり見ながら、以下の動画を辿って行かれると良いと思います。
初めに見ているのは、ヴァリウス浴場です(0:20)。港のそばに浴場、そして中央にあり、三つあります。カウントリークラブのような存在で、帰宅する前に奴隷を連れてやってきます。ローマの公衆浴場は、冷水風呂(フリギダリウム)、微温風呂(テピダリウム)、高温風呂(カルダリウム)の三つがあり、食堂もありました。
そしてオデオン(音楽堂、議会場)です(2:28)。ローマの町には、浴場の他の娯楽施設として音楽堂があります。ここは劇場ではありません。観客席の手前の白い部分は、当時の大理石のものであり、その上は復元されたものです。そして基壇(ポディウム)のところには、ムーサやアポローンの彫刻がありました。そして日差しを避けるために木製の屋根がありました。そして観客席の上に、入口がありますが、ヴォミタリウムといいます。英語のvomit(嘔吐する)は、この言葉から来ています。
娯楽施設としてローマで大事だったのは、他に劇場と競技場があります。競技場では、戦車の競技や闘技などが行われましたが、エペソではキリスト者たちが破壊しました。そこでキリスト者たちが迫害されたからです。パウロが、コリント第二1章で、死ぬような思いをしたと言っていますし、第一15章では、獣と戦ったとありますが、それは、このような迫害のことです。文字通り、キリスト者が獣が放たれて、生きたまま食い殺されました。(ジェイさんが、イスラエルのベテ・シャンにある競技場の跡で、迫害の歴史について説明しています。それから、こちらのサイトに、競技場の説明がありますが、確かにキリスト者たちによって破壊されたという記述があります。今残っているのは、写真にあるように、ほんのわずかなようです。)
そして、遠くに港があったところで立ち止まりました(7:20)。薄茶色のところまでエーゲ海が迫っていました。エペソの町がもう人がここには住まなくなった後で、また別の丘で、聖ヨセフ教会堂のほうで住み始めました。
そして、市公会堂の跡があります(8:40)。エペソ市内で最も高いところにある、行政と宗教を司る建物です。「プリタニオン」と呼ばれます。ここではギリシア・ローマの神々の神官が、正しい時に、エペソの人々がきちんと儀式に参加しているか監視していました。皇帝礼拝では、「カイサルは主である」と唱えます。もし行わなければ、このプリタニオンにおいてブラック・リストの中に入れられるのです。キリスト者ならば、これはかなり強い圧迫となっていたはずです。
砂利が敷き詰められていますが(10:15)、これは、この下にモザイクの歩道があり、雨風から守るために砂利を敷いています。そして商店も並んでいました。紀元2世紀から紀元後4世紀まで存在していました。真ん中の通りは、歩道ではなく、車道(馬と戦車などが通る)でした。
ニーケのレリーフ(浮彫の彫刻)のところまで来ました(11:55)。商売の神ヘルメス(ローマはメルクリウス)とケリュケイオン(蛇の杖)が白い傘を持っている人の辺りにありますが(関連ページ)、これは、ドミティアヌス神殿から出てきたものです。アルテミス神殿の他に、こちらの神殿に来て、群衆は「カイサルは主です」と唱えたのですが、キリスト者がこうやって迫害されました。そして、目の前のニーケを見ていますが、左手に月桂樹を持っています。オリンポス山から降りて来て、凱旋する将軍に冠を授けます。スミルナに対する「いのちの冠」を、イエス様は約束されましたが、殉教しても復活する、永遠のいのちの約束があります。今は、「ナイキ」の象徴になっていますね。
そして、クレテス通りを下ります(14:45)。この通りに、キリスト者の落書きがあります(15:48)。ピシディアのアンティオキアでも見ました。クレテスは、アルテミス神殿の女祭司の名から来ています。横には商店がありますが、今、私たちが立っているところは車道で、ディレクさんが立っているところが歩道で、その上には煉瓦の屋根があり、日よけになっていました。
そして、向かいに見える建物(19:10)は、トラヤヌスの泉です。2世紀に建てられました、ローマの黄金期です。トラヤヌスと息子ハドリアヌスの治世に、このような建物が多くあります。20:10から、ケルスス図書館が見えます。ローマの第三の図書館です、第一がアレクサンドリア図書館、第二はペルガモン図書館です。ケルススは、ローマの地方総督でした。
そして、クレテス通りの左側にきれいなモザイク通りが見えます(23:10)。そして左側の丘に、邸宅がありますね。その後ろの屋根で囲まれた邸宅にはあとで行きます。そして右側のほうに、イオニア式の柱がありますが、そこが先に話した、エペソ中心にあるローマ浴場です。しかし邸宅の中にも、小さな風呂がありました。
そして、ハドリアヌス神殿があります(24:55)。奥にある装飾の真ん中にいる人物は、ミアンダと言っています。髪の毛がくるくるしているのは、川から出てきたばかりだからです。他の誰かが、メドューサのなのではないか?と質問しています(くるくる髪はメデゥーサは蛇です)。ディレクさんは、ミアンダの擬人化であるとしています。内部に、ハドリアヌスの小さな彫刻があります。
そして、27:05辺りで右に曲がり、公衆便所に行きました。サルディスの公衆便所よりも、よく原型をとどめています。大理石が一部残っています。溝がありますが、きれいな水がここに流れます。棒に海綿がついていて、このきれいな水に海綿を浸して、主人が使用した後は、真ん中のため池で洗浄し、次回に使います。冬は寒いので、奴隷が前もってここに座り、主人のために温めます。そして、ジェイさんは、十字架につけられたキリストが、酸いぶどう酒のついた海綿を飲まれましたが、それだけの辱めだったということです。
大邸宅
そして先ほど目にした、屋根に覆われていた遺跡の中に入ります。ここに入るのはさらに入場料が必要になりますが、その価値が大いにある、すごいところです。
45-50年の発掘によって、七つの邸宅が公開されました。初めに入ったところの居間でディレクさんが説明をしています。
アジア属州の地方総督の名が、中央の中庭に印されていました。そこに青空天井でした。寝台、厨房、ローマ小浴場などがありました。壁には大理石などが貼られていました。それの断片をつなぎあわせる作業をしています。横になって食べる、トリクリニウムでした。神々を壁龕のところに安置していました。小さな水槽がありますが、足を洗ったり、装飾のためだったかもしれません。こういったところで、有力な商人と会い、アゴラで食料を入手して、ここで食事を出すようなことをしていたのでしょう。
トリクリニウムを採用した過越の祭り
ジェイさんによると、ギリシア語で「カタルマkataluma」は「部屋」という意味ですが(「宿屋がなかった」というクリスマスの話のギリシア語が、katalumaです)。当時のユダヤ人は、ローマの習慣を取り入れ、富んだ人のように年に一回、過越の食事で食べたのです。左側を下にして横たわり、右手をつかって食べます。イエス様と弟子の場合は、床に寝そべっていたに違いありません。もちろん、このような豪華さを持って食べたわけではないでしょう、小作人スタイルだったけれども、富んだ人のように食べるという考えがあります。解放された後で自由を享受しており、またローマに従属していないことを示すためにも行われました。(参照:ローマのトリクリニウム、漫画付き)
そして、左側の前から二番目に主人が寝そべり、右側に最も小さき者が座ります。ヨハネ13章に出てくる場面を見れば、ヨハネがイエス様の前に寝そべって、ペテロが右側の最も小さき者のところに座っていたのが分かります。この人が、人々の足を洗わなければいけなかったのですが、やらなかったのがペテロです。イエス様が行われました。ペテロは恥ずかしかった以上に、怖くなったことでしょう。
ジェイさんは、ガリラヤ地方の婚礼や、最後の晩餐を再現する教育的働きをしています。以下がその一例ですが、これがトリクリニウム式の過越の食事を示したものです。
この後、2階に上がりました。同じ地方総督の家の続きです。そして、前の動画の15:20辺りから、また別の人の家を上から眺めています。なぜ他の人のものであるか?列柱郭の真ん中に中庭があるからです。フレスコ画のある三つの寝台が右側にあります。中庭の真ん中に、大理石のテーブルと円状のものがありますが、後者は神々に供え物をするところです。それから手前に水道管があります。そして壁龕に、ティベリウス帝と母リウィアが描かれており、皇帝とのつながりのある高官であることがわかります。ジェイさんは、付け足しでエルサレム旧市街のヘロデ地区にある裕福な祭司の家が、このようなものであり、ペテロとヨハネがアンナスの家にいましたが、このような感じであった、と言っています。
19:15辺りから、ガラス越しに美しいモザイク画があります。これは、海の馬から逃げているトリトンの姿です。(こちらに写真)
19:50辺りで、もう一つの中庭があり、その周りに、上質のフレスコ画が壁にある寝室が並んでいます。それから、モザイク画ですが、シリアのアンティオキアの博物館でのモザイクにあったように、壁にかけることはなく、このように床にモザイク画があります。22:20辺りに、小さなアーチが右にありますが、これは便所です。
聖書のエペソ
いろいろなことが起こりました!エペソの手紙があり、使徒の働き19章が起こり、そこで、パウロの奇跡、魔術の焚書、テモテとエラストが、第二次宣教旅行でパウロといました。騒動が起こりましたが、同業の者たち(使徒19:25)とありますが、これがティアティラの町のギルドと同じです。そして、使徒20章では、エペソからの長老がパウロに会いにミレトスまで行きました。コリント人第一の手紙を、ここで書きました。テモテに対する最後の言葉(Ⅱテモテ)は、テモテがエペソにいる時に書いたものです。
ヨハネがここに住み始めて、もしかしたらマリアを共に連れてきたかもしれません(マリアは、かなり若い時にイエス様を産んでいます)。ヨハネの福音書は、ここにいる人々に書かれた可能性があります。そして、ヨハネはここで捕らえられてパトモス島に行き、ここで死にました。そして、第三回教会公会議は、ここで431年に行われ、ニケア信条を追認しました。それから、11時から4時まで、シエスタの時間にパウロは、港につながる列柱通りにあったティラノ講堂で、その時間は使用されていなかったので、そこで毎日、二年間教えていました。
そして黙示録2章1-11節を読みました。「初めの愛から離れてしまった」という言葉ですが、失ってしまったのと違います。自分たちのためにやっていることで、いつの間にか初めの使命、互いに愛するを置き去りにしてしまいます。けれども、ここの意味が広すぎて、一体何を指しているのか分かりません。ここで、再びジェイさんが、「アメリカ人と、中東や東洋の人の違い」を話し始めました。アメリカ人は、短期的な歴史しかみません。24時間より前は考えていないです。けれども、欧州は歴史を川の流れのように見ています。フランス革命も今にどのように影響を与えるかを考えています。そして非西欧人は、何千年もの歴史を一度に考えています。ここの箇所「初めの愛」も、そこだけを見つめるのではなく、全体の中で考える必要があります。
エペソ3章14-19節を呼んでいます。キリストの愛に、その高さ、長さ、広さ、深さを知るように、というものです。
ケルスス図書館
そして、邸宅から出てその脇を降りていくと、ケルスス図書館の前に出てきます。前回も今回も、案内されなかったのですが、私自身が気になっているのは、その向かいに遊郭があることです。そして、ケルスス図書館の中を録りました。建物の中を含めてじっくり録画しました。
知の高峰のところに売春宿があるという、この姿は、エペソの手紙で、パウロが、異邦人のようにむなしい心で歩まないようにと勧めた背景になっていると思います。
「獣の刻印」とは?
黙示録13章14-18節の獣の刻印について、まず、エゼキエル書9章で、罪を悲しんでいる人々の額にしるしを付けて、彼らが滅びるのを免れるようにしていますが、ここではその代替であり、獣の刻印が額にない時、殺されます。皇帝礼拝はアウグストスから始まっている、神々の間にいて、それで神がかった者としてあがめられるようになりました。多神教の中で地域ごとに神が変わったけれども、カイサルが諸地域を統合する神だったのです。「カイサルは主です」と言えば、かけた陶片とかに証明書のようにしていたのです。彼らは、神々に良く使えないと災いが来ると信じていました。キリスト者は、ユダヤ教の一つだと考えていましたが、この「カイサルは主」を拒んでいるのを見て、怒りました。災いが来ると、キリスト者のせいだとしました。彼らが焼香をたかなかったので、ローマへの裏切りとして、ここから市場(アゴラ)に行きますが、「こいつはカイサルに不敬を働いた」として、レッテル貼りされます。それで、売り買いができないのです。ここの壁龕に、ローマ皇帝の像があったのです。当時、この刻印のことは、「だれを礼拝するのか?」というメッセージだったのです。
そして、アゴラに少し入って、マーブル通りに戻ります。
ディレクさんは、この時に遊郭のことを少し紹介しました!これがローマの生活だったと言っています。それから、マーブル通りを歩きます。そして、2:30辺りで、遊郭への広告の落書きがあります。右が女性、真ん中の足は方角、そして左はハートマークです。
そして使徒19章に出てくる大劇場に来ました。そして、港に至るアルカディアン通りを歩きます。
ちょっと戻って、大劇場で使徒19章の大騒動のみことばを朗読していますが、その時に大雨です!
(2.以降は「その2」へ)