2018年トルコ・ギリシア旅行記 4月13日その②

1.エフェソスの概要
2.アルテミス神殿
3.エフェソス市内の遺跡
4.その後の時間


1.と2.は、その①にあります。

3.エフェソス市内の遺跡
(訪問記その1その2

 アルテミス神殿跡から、エフェソスの遺跡に行くにはバスに残ってさらに7分ぐらいかかります。ぜひこのグーグル地図を拡大・縮小したり、右に動かしたりして、エフェソスの町がどうなっているかを眺めてみてください。南にある駐車場から遺跡に入って行きますが、二つの山の間にあることがお分かりになるでしょう、北がパナユル山で南がブルブル山です。そして左に茶色の部分がありますが、それがかつての港です。縮小すれば、いかに堆積によって海岸が西にずれていってしまったかを確かめることができます。

 右の図をクリックして拡大させれば、日本語の地図を見ることができます。

 南から入りますと、これから歩くのは、オデオン、市公会堂、ニケのレリーフの道を歩きます。ここまでが行政や政治の区域で、ニケのレリーフを右に曲がると、下り坂になっているクレテス通りを歩きます。ここからは商業中心地区です。そして、古代の公衆トイレを眺めてから、「丘の上の住宅」に入り、そしてエフェソスの遺跡での象徴的存在「ケルススの図書館」に入ります。そして「下のアゴラ」を左に眺めながら、マーブル通りを歩き、「大劇場」に到着です。ここが、アルテミスの銀細工人が抗議して、騒動が起こった大劇場になります。そして、北チケット売り場のほうに歩いて終わりました。もっともっと、見ることのできる遺跡が満載ですね。

 当時の上空から見た想像復元図です。

 この図ですと、南が右になり、そこから左の方へ移動していくことになります。

オデオン付近

 初めに、オデオンへ向かって歩くと手前に、「バリウスの風呂」があります。公会堂であるオデオンに人々が集まった後にお風呂に入りにきたでしょうし、それからエフェソスの出入り口の門「マグネシアの門」から入ってすぐにあったので、長旅の後、エフェソスの町に入る時に一息つくことができたでしょう。(説明



 オデオンは、上エフェソスにあり、ローマによって建てられ1400人を収容できたそうです。音楽や議会のために使われて、下水溝がないので、おそらく屋根があったのではないかと言われています。エロス神の大理石の頭が発掘されたそうです。二階建ての舞台楽屋があります。そこに、サルディスの競技場にあったような、像を置く壁龕(ニッチ)があり、エペソ人の寄贈者の像を置かれていたそうです(説明)。中に入った時の写真をたくさん取りましたので、よければ閲覧ください。→ 右からの入口中に入って左側を撮影右側中央舞台(背後にローマ通「バシリカ」と上のアゴラが見えます)左側への出口(背後にさらにアゴラが見えます)

 下は上空からのオデオンとアゴラの写真と、その復元想像図です。




 今、背後に見えた「上のアゴラ」ですが、こちらの説明の写真を見ると、もっと分かり易いでしょう。後で「下のアゴラ」を見に行きますが、そちらは市場の機能を果たしていましたが、こちらは政治の話題を議論する広場でありました。公に開かれていたようで、女や奴隷も参加可能だったのこと。この中に、イシスの宮と祭壇が建てられていたそうです。後にローマのフォルムに改装されて、イシスの宮も、皇帝アウグストを祭る宮に変えられたとのこと。(ギリシアやエジプトの神々が皇帝礼拝の宮に変えられるというのは、確か、ラオディキアでも起こっていました。

プリタニオンでのクリスチャン迫害



 そしてオデオンを右折すると、数本の列柱が残っています。ここは「市公会堂(プリタニオン)」でした。かつてはここに聖火が灯されて、女神ヘスティアーに捧げられていたそうです。火が消えることはなかったそうです。(説明)。ディレクさんによると、ここは宗教を司る行政の長となるところ。バチカンのような存在なのだそうです。決められた時間に、祭司たちがいけにえを捧げるので、その礼拝の時に欠席している人は、ほぼ全員がキリスト者で、プリタニオンのブラック・リストの中に載せられてしまうのだそうです。そして、プリタニオンの左には、右側に十字架が掘ってある石板が置かれていましたが、ここはビザンチン時代のバシリカの跡です。ローマ時代には、偶像礼拝を強要される圧迫を受け、けれども公認後は教会堂をそのそばに持っていた、ということで時代の流れを感じます。

ニーケのレリーフ

 街路は下り坂になっていて、右折するとクレテス通りに入りますが、その入口の手前に碑や門の跡があります。右手には「メミウスの碑」がありますが、ポントュスらエフェソスを奪還したローマの独裁官スッラの孫、ということです。(復元想像図

 そして曲がり角の左側には、ドミティアヌス神殿」の跡があります。これは、町の中心部に建てられた宮の中で最大のものでした。50㍍×100㍍もあったそうです。三階建てになっていて、エフェソ博物館にはドミティアヌスの巨大な頭と左手が展示されているそうです。その下、二階に兵士と女祭司の姿が刻まれています。この宮の前に祭壇がありました。ドミティアヌスは悪王として知られており、教会が迫害を受け、ヨハネがパトモス島に流刑にされた黙示録の啓示の背景になっているのは、ドミティアヌスです。皮肉なことに、この宮が建てられる前に、家臣が王を暗殺しました。それで、新しい皇帝も祭られたものとなりました。そして、後世にキリスト者たちが宮の土台を破壊したとのことです。(説明

 クレテス通りの入口に、ヘラクレスの彫刻を施した「ヘラクレス門」があります。この門によって、上エフェソと下エフェソに分かれていました。この門にアーチとして飾られていたのがニーケのレリーフです。そう、靴のブランドNikeはここから来ています。勝利の女神であり、オリンピア山から月桂樹の冠を、戦勝した将軍や運動選手、王にもたらすとされていました。キリスト教の時代には、彼女は御使いの象徴とされていて、それで聖書とは異なる、女性の御使いのイメージが広まってしまったということでしょう。Nikeの靴のマークは、ニーケの翼の部分を表しています。ジェイさんは、ここから私たちが勝利者として冠を受けることを話してくださいました。以前の旅の動画を紹介します。


 以下はクレテス通りの様子と、その復元想像図です。




キリスト者の存在の痕跡

 クレテス通りには、乗り物が通過できる大理石の中央部分があり、その両側に同じく大理石でできた歩道があり、そしてその両脇に店がならんでいました。上エフェソスから下エフェソスをつなぐこの通りには、上からトラヤヌスの泉、スコラスティカの浴場、その奥にある公衆トイレ、そしてハドリアヌス神殿があります。さらに向かいには「丘の上の邸宅」があり、終点はケルスス図書館になります。そのような荘厳な建物が並んでいるところに、道路の片隅に、キリスト者が、しかもキリスト教公認前のキリスト者の痕跡があります。それが、「イクトュス(ギリシア語で「魚」の意)」というキリスト教の象徴です。(ウィキペディア


 非合法の中で生きていますから、彼らは信仰を公にすることはできませんでした。それで隠れシンボルとして右の円形の落書きの中に、ΙΧΘΥΣという魚を意味する言葉を入れていました。これは、ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ (ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救世主)の頭文字をを取ったものです。


 上の写真はディレクさんが、どこに文字が隠されているかなぞっているものですが、(先に話したように動画ファイルを消失してしまったために動画がありませんので)ユーチューブで他のトルコ人ガイドがなぞっている動画がありますので、そちらでぜひ確認してみてください。

エペソの手紙の中身が立体的に見えてきた

 この通りを歩いている中で、だんだんパウロがエペソ人への手紙を書いていた背景が見えてきました。一つは、とてつもなく栄えていた富に満ちた町であったこと。パウロは、自身がローマで軟禁状態であったところからエペソの教会に手紙を書き、彼ら自身も迫害下で富んでいたとはとても思えませんし、パウロ自身が人間的には「惨めな」状況にいたのですが、彼らを励ますために、キリストにある天にあるあらゆる霊的祝福で祝福されているという言葉から始めて、霊的に彼らがいかに富んでいるかを手紙全体で教えています。「富んでいる」「満ちている」という言葉が数多くあります。

 そして、ギリシア神話やローマ神話、そして国民宗教である皇帝礼拝に満ちていたところで、キリスト者は、コロサイ人への手紙と似たような背景があったのではないか?と思われます。ジェイさんが、コロサイ訪問の時に話した内容を思い出してください。地震が起こると、それによって神々に祟られたとコロサイ人は思っていました。ですから、パウロが牢屋に入っているなど、そういった苦しみがあれば、「神は呪っている」と思われるような状況です。しかし、パウロは、世の基が置かれる前から、神がキリストにあって私たちを選ばれたということから、どんな異教の神々にまさる、それらの神々を虚無に服させるほどの、永遠性と超越性、また主権を持っているキリストの姿を描いています。旧約聖書にも、イザヤが40章以降でそのような神の姿を描き、バビロンの神々と対比(対峙)し、詩篇にも、「お前の神はどこにいるのか?」と嘲りを受けている中で、「我らの神は天におられ、ご自分の望まれることをことごとく行われる。」とし、目に見える神々が見ることも、聞くことも、話すこともできないとなじっている箇所があります。

 それから、性的不道徳も満ちています。後で出てきますが、ケルスス図書館の向かいは遊郭になっています。そしてアルテミス神殿における儀式で見たように、上記の偶像礼拝には泥酔や性的倒錯が付きまとっていました。それでパウロは、異邦人の慣わしからあなた方は救い出されて、新しい人を身につけなさいという勧めを行っている箇所があります。さらには、使徒の働きを見れば、魔術が盛んでありました。パウロによって、驚異的な神の御業が示されましたが、エペソの手紙6章には霊の戦いを詳しく話しています。

 こうした遺跡群の中を歩くと、なんとまあ、日本、殊に東京のような大都市の中で生きているキリスト者に生活が似ている事か!と思いました。この時に、「日本のキリスト者は、欧米のキリスト教ばかりを教えられてきた。公認前のキリスト教は、まさに私たちと親和性がある。」と気づいたのです。ここで、「トルコ旅行を近い将来、企画したい」と思い立ちました。

エフェソス市内に届いた水

 トラヤヌスの泉は、三角形のペディメントがその印です。


 二世紀の初めに建てられたもので、9.5㍍の高さで三階だったそうです。トラヤヌス帝に捧げられたものでした。エフェソスには、39㌔の長さの導水路によって水が供給されていましたが、このトラヤヌスの泉に到着します。皇帝の像が直立していた中央の貯水池に水が入って来たそうです。(説明)想像復元図です。



ギリシア神話やローマ神話の神々と忌まわしい不品行

 そして、エフェソ博物館には、トラヤヌスの泉で発見された、ディオニソスサチュロスアフロディーテの像があるそうです。この三つのギリシア神話の神々が、いかに人々の欲情に関わっているかは、リンク先のウィキペディアの説明を読まれるとよいと思います。ディオニソスは酩酊の神です。強い麻薬を混ぜたぶどう酒によって、恍惚状態に陥り、性的乱交や狂乱状態の中で神と交流できるとしていました。サチュロスは男根の神であり、言わずもがなです。アフロディーテは愛の神であり、コリントにおけるアフロディーテの神殿にいた神殿娼婦たちが何千人も一杯になっていたことは有名です。後日、ギリシア旅行において、さらにギリシア神話や神殿の事は出てきますが、これがパウロが手紙を書いていた異教の背景であることは知っておくべきですね。その中で、キリスト者が如何に聖なる神への献身を求められていたかは知れません。(参考文献:「現代の教会へ −コリントからの教え 前編」「現代の教会へ −コリントからの教え 後編

 明日、訪問するペルガモンが、ありとあらゆる神々の神殿があり、そこで詳しく見て行くことになります。

エルサレムをローマ化したハドリアヌス

 さらに進むと、「ハドリアヌス神殿」の跡があります。二世紀に、ハドリアヌス帝を敬い建てたものです。


 こちらが復元想像図です。


 アーチのフリーズ(帯状装飾)には、運命の女神テュケーが彫られています。また、メデューサ、アマゾネス、アンドロクロス、そして皇帝の家族もいます。手前には四つの土台があり、そこにローマ皇帝の像が立っていたそうです。(写真説明)ここは、四世紀にはキリスト教の教会に変えられたそうです。

 ハドリアヌスと言えば、エルサレムやユダヤ人の歴史では、「パレスチナ」の呼び名をイスラエルの地に与えた皇帝として有名です。ユダヤ人による第二の反乱(バル・コクバの乱)によって、ハドリアヌスは、このような不安定さをもたらしているのはユダヤ教とその文化にあるとして、その根絶を図りました。エルサレムの名は、アエリア・カピトリナ、そしてユダヤ属州の名は、ユダヤ人の敵ペリシテ人に由来する「シリア・パレスティナ」としました。エルサレムの神殿の上にには、ローマの神ユピテルの神殿を建てました。エルサレムへのユダヤ人の立ち入りの一切を禁じました。

ローマの公衆便所は、日々のニュース報道

 そして、ハドリアヌスの神殿の跡の手前に、スコラスティカの浴場があります。これは、四世紀の地震の後に、裕福なキリスト教徒の女性、スコラスティカが改築したそうです。他のローマ公衆浴場と同じように、脱衣室、フリギダリウム(冷浴室)、テピダリウム(微温浴室)、カルダリウム(高温浴室)の跡が、それぞれあります。(説明

 その浴場の奥に行きますと、ローマの公衆便所があります。


 サルディスの遺跡にもありましたね、これはローマ時代のもの、男性用しかありませんでした。見ての通り、用を足す人々の間に仕切りはありません。排泄物は水道で流れていきます。そして手前ですが、これはお尻拭き用の海綿を洗う水路です。仕切りがないというのは、実は大事で、ここで貴族階級の人たちは、町で起こっていることや商用について議論を交わし、今で言うと「日々のニュース報道」の役割を果たしていたとのことです。

 日本でもとても軽いノリですが、漫画、そして映画化された「テルマエ・ロマエ」のウォシュレットの場面です(動画)。ここの39秒のところに、見事にその時にどのようにしてこの便所を使っていたのか、映像になっています。穴が手前まで空いているのは、海綿を付けた棒を前からお尻のほうに持って行けるようにするためです。

 そして、この「海綿のついた棒」で話が盛り上がりました。そう、イエス様が十字架に付けられていた時に、「海綿を酢で浸し、葦につけて飲ませた」という記述があります。詩篇にも、「渇くわたしに酢を飲ませようとする」という言葉もあります。当時の人たちにとって、その海綿はまさにお尻拭きのスポンジと、それを付ける棒に見えたことでしょう。そうやってローマの十字架の磔刑は、肉体的な激し苦痛のみならず、人々を辱めるためのものであったということです。(参考記事:「古代ローマ・トイレの落とし穴、その2」)そこでジェイさんは、熱を込めて、「我々西洋人には、聖書の世界は分からないようなことがある。けれども、アジアからのあなた方は、そのまま読んで理解できるものが多いのでは?」と問いかけてくださいました。ローマは西洋なのですが、古代ローマはある意味、そういったアジア的なものが十分にまだあった、と言えるでしょう。

丘の上の住宅(Terrace House)

 そしてジェイさんが、楽しみにしていた「丘の上の住宅」を訪問します。外界や雨風から守られるために、全体を覆っています。ここはさらに、中に入るのに入場料金を必要としていますが、支払うだけの価値ある、とてつもない考古学の発掘だと思います。これまで、ローマについてイスラエルにおける建造物しか見たことがありましたが、エフェソスにあるこの高級集合住宅を見た時、どんなにユダヤ地方がローマに取って辺境にあるのか!と思いました。こんな大きくて高級なものは見たことがありませんでした。


 お分かりのように、エフェソスの市街地の中心部、ブルブル山の麓の丘に建てられています(写真)。図書館の前で、アゴラにも近く、言うならば六本木ヒルズの最上階に数階分が、全部、何世帯かの私邸になっている感じでしょうか。しかも、内装がフレスコ画やモザイクで艶やかに装飾されており、それぞれが何十億の価値であったかもしれません。一世紀に建てられたもので、4平方㌔の面積があります。二つの邸宅に別れていて、テラス1と2がありますが、「テラス2」と呼ばれる部分が保存状態が非常によく、発掘されています。三階の高さがあります。内装がとてつもなくきれいです。

 内部は、リンク先の写真で色分けされているように、いくつかの部分に区分されて、それぞれが一所帯が住んでいたと考えればよいでしょう。丘の斜面に建てられているので、それぞれ違う構造をしていて、部屋が「積み重ねられた」感じになっています。時の裕福なローマ人の高級住宅と変らず、ペリスタイルになっています。中央にアトリウム(ローマ建築の中庭)になっており、天空につながるその庭の周りに部屋が、その中庭を取り囲む大理石の回廊に接しています。部屋には窓がないのでアナトリウムからの光が差し込むようになっています。雨に対しては、それを受け取る井戸の穴もあります。それぞれの階に、居間、寝室、トイレ、台所、収納室があます。多くが床下暖房の設備があります。そして温水も冷水も各私邸が所有していました、これが驚く設備を持っていたということです。下水管も階段の下にあり、クレテス通りの下水管につながっています。壁にはギリシアやローマの神々、神話上のものが描かれているフレスコ画です。(説明

 そして、それぞれの私邸にだいたい南側に大きな客間があり、食事を出すためのところです。北側には宴会のための部屋があり、そこもきれいな装飾が施されています。これらの空間は、その所有者の社会、政治、経済的地位を表していているだけでなく、文化的センスも示していました。上の階も似たような仕様ですが、装飾は中心部分よりは少なくなっています。(説明


 動画をたくさん撮影したのですが、これもまた消失、他のユーチューブに上がっていた動画をこちらに埋め込みます。


 こちらは復元想像図です、すごいですね。


 この遺跡は1960年から80年までの間に発掘されましたが、1983年以降はオーストリアの考古学会が責任を持って保存しているため、その保存状態が極めて良好です。その考古学会からの講師による、丘の上の邸宅の詳細の発表をこちらで見ることができます。

 2014年のトルコ旅行で、この中から先ほど話しました、食事のための客室(Katalumae)を前にして、イエス様が最後の晩餐をした時は、このような豪華なものではなかったもの、同じようなトリクリニウムの大広間で食事をされたということを説明しています。



 2018年の私たちの旅では、三階にまで上がったところから、エペソ人への手紙を読み、「互いに愛する」ことについて話してくださいました。


 黙示録2章を読んでいます。「1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる──。2 わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪者たちに我慢がならず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いたことも知っている。3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。」再び、エペソ書全体を読むことを勧めています。それからパウロが、ミレトスに長老たちを集め、あなた方の中から狼が出てくることを警告しました。そして、その警告に応えて、しっかり耐え忍びました。そして黙示録の書かれた当時の皇帝による迫害は酷かったです。よく耐え忍びました。しかし、「4 けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。5 だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。

 「愛」とは何でしょうか?パウロが定義していて、聖霊ご自身が定義しておられました。エペソ3章です、「17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 その愛は、ロマンチックな情愛ではなく、この邸宅で数多くの僕が足洗いをしていたと思いますが、洗足をするような愛です。ヨハネ13章にて、ペテロの足をイエス様が洗った時に、それは最も低い身分のすることでしたが、「互いに足を洗いなさい」と命じられましたが、ここに愛があります。この、富に満ちていたエペソの町で、足を洗うような仕える愛を忘れていた聖徒たちがいたのでしょう。この町には宗教がたっぷりありましたが、宗教的になるのではなく、言葉だけでなく、行いで愛していたかどうか?であります。

 「5 そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。」ニコライ派は、「支配者」という意味合いがあるので階級制を指していると言う人たちもいいますが、そうかもしれません。けれども、ティアティラのイゼベルのように、異教やや忌まわしいことをやってもいいと妥協した教えではなかったかと思います。

 「7 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。」アルテミスの神殿は木の茂みの中にあって、そこが神聖なところで、祭司たちだけが入ることができると言われていたのですが、それをエペソの人々は思い出したことでしょう。22章にある、命の木の実を食べることになるということです。

マーブル通りを眺める

 邸宅の出口は、ちょうど正面にマーブル通りが見える景色になっています。

 右手に見える丘がパナユル山の麓です。その下にある遺跡が、先に話したスコラスティカの浴場です。そしてマーブル通りの左に見える遺跡は、アゴラで、さらに左、かつ奥の茂みに、アルカディアン通りとその周囲にある遺跡があります。こちらがそこの部分を撮影した写真です。中央左に見える建物が、港の入口であり、つまりその左は港湾になっていたということです。そこにも浴場があったそうです。ですからそこからエペソに入り、そしてそのまま浴場に行くことができた、という説明を、ディレクさんがしてくださいました。

遊郭(ケルスス図書館の向かい

 ここから長い下り階段を降りて行きました。降りると左前方に、エフェソスの最も有名な建造物の跡、「ケルスス図書館」があります。


 けれども、その向かい、上の写真の右側には遊郭の跡があるそうで、ケルスス図書館側から撮影すると、下のように遊郭の跡になります。まずそこを説明したいと思います。


 遊郭は、クレテス通りとマーブル通りの角にあり、先に見た浴場や公衆便所と同じ時期の、と一世紀に建てられたのではないかと言われています。なぜ遊郭と呼ばれるようになったかと言いますと、巨大なファルスプリアポスの像が、発掘されたからだそうです。それは取り除かれて、エフェソ博物館に展示されています。今は一階部分しか残っていません。一階は社交場になっていて、二階は西側に受付の部屋があり、冬と秋を示すモザイクがあるそうです。その隣に小さな浴室があり、遊郭に必要な清潔にするためのところだったそうです。(説明)ローマで三大図書館の一つと誇るところ、つまり国会図書館のようなところの真向かいに、歌舞伎町のど真ん中にあるような風俗店があったようなもので、知的な文化と道徳的な退廃が混じり合っていたことがよく分かります。この角から、Joe Stowellさんが、ケルスス図書館、その右のマゼウスとミトリダテス門、そして遊郭、さらに、その門の向こうにあるアゴラの説明をしています。


ケルスス図書館参照サイト

 ケルスス図書館については、参照サイトにしっかりと説明されているので、それをお読みになると良いでしょう。

 「ケルスス図書館:2万もの蔵書が失われ遺構だけが残る

 古代ローマの世界で、アレキサンドリア大図書館、そして翌日訪問するペルガモン図書館に次ぐ、第三の大きさを誇る図書館でした。ケルススというのは、ローマ地方総督であったティベリウス・ユリウス・ケルススの死後、その息子が敬意を表して、114‐117年に建設したものだということです。図書館の堂々としたファサード(建築物の正面のこと)には、ニッチ(壁龕)に、知恵、知識、知性、美徳の擬人化像が造られて、二階は建物の端を周回するバルコニーで構成されているそうです。その側面に沿って、多くの巻物を収納するための窪みがあったそうです。そしてかつては入れたそうですが、この地下に、ケルススの棺桶もあるとのこと。(説明)1万2千ものまきものを収蔵していたと言われていますが、262年の地震、あるいは同年のゴート人の襲撃で燃やされて破壊されたとのこと。建築様式は、ハドリアヌス帝の統治に建設された建築美術の特徴となったそうです。

 復元想像図はこちらです。(全体の説明と、当時の復元想像図を説明している動画もあります)


 ここら辺から動画ファイルが戻ってきています!ファサードに近づきましたら、下から見るとその部分にも精巧な装飾が彫られていることには、驚きました。


 ファサードを通りすぎますと、内部ですが、本当に小さいです。ここによくも、1‐2万の巻物を収めることができたものだな、と思いました。こちらの動画でお確かめください。


 そして内部の想像復元図です


 そしてファサードに戻りますが、驚きました。メノラの落書きの跡があるのです。先ほどはキリスト者の暗号の落書きを見ましたが、こちらはユダヤ人が確かに住んでいたことを証明するものです。こちらも動画が消失したのですが、他の人が撮影したものですが、動画を見てください。


 そして15分ほどしてから、ケルスス図書館の右のマゼウスとミトリダテス門に集合し、そこでディレクさんからケルスス図書館の説明を受けました。

 今、見ているのは、修復のためのものです。ここに瓦礫となって倒れていたものを使って、高度な技術によって修復して、耐震設計にしているとのこと。(発掘された時の様子の写真がこちらにあります)

マゼウスとミトリダテス門と、獣の刻印!

 図書館の右にある門は、その先がアゴラ(広場)になっていて、その左にマーブル通りが始まっています。


 ローマ皇帝の皇族の奴隷であり、建築家であったメゼウスとミトリダテスが、二千年前に皇帝アウグストに敬意を表し、建てたものです。上の部分に碑文が書かれていますが、その一部はこう書かれているそうです。「神の子、最も偉大な祭司、12回執政官、20回トリブヌスであった皇帝カエサル・アウグストから、また、妻アウグスト・リヴィア、ルーカスの息子、三回執政官、皇帝、また六回トリブヌスであったマルク・アグリッパ、またユリオ・カエサル・アウグストの娘、マゼウストミトリダテスから、彼らの主人と民に対して」(説明)ここにも、ローマ皇帝がいかに「神の子」としてあがめられていたのかが、分かります。ですから、イエスが「神の子」というのが、ローマ人にとっては大きなインパクトを持ったことでしょう。

 この門には、アーチの下の部分に、壁龕(ニッチ)があり、そこには皇帝の像が立っていました。そして向こう側にはアゴラがあります。そこでジェイさんが、とても大事なことを話してくださいました。黙示録13章の「獣の刻印」についてです。


 このアゴラで、物の売り買いなど数多くの活動が行われ、パウロは間違いなくここで伝道をしていました。シナゴーグもどこかにありましたが、分からず、そしてパウロが論じたティラノの講堂もどこだが分かりません。ユダヤ人がいたのですが、先のケルスス図書館に刻まれたミノラのみがユダヤ人のいた跡です。ここは市場なので、生活のためには必ずここに来ます。物を売るのもそうですし、食べ物、着る物を買うのもここです。

 問題は皇帝崇拝です。黙示録が書かれた時、ドミティアヌスが皇帝でした。彼は誇大妄想癖があり、最悪の皇帝でした。彼は神性を主張しただけでなく、主自身であり、神自身であると宣言しました。そして先に説明したように、彼の巨大な頭の像が立てられて、港からも見えるものでした。そしてここにある壁龕の皇帝の像のどれかは、ドミティアヌスでした。そして祭司がここに座っていて、この門から市場に入る時に、人々が香を焚かなければいけません。それが絶えず燃えているように見守っていました。入場する人は香を祭司からもらい、それで焼香台に置き、煙が出るようにしていました。そして、「皇帝の幸運があなたと共にありますように」と言わなければいけません。そしてローマでは一年に一度、「カエサルは主です」と告白する儀式が義務付けられていましたが、キリスト者はこれもしませんでした。

 そしてヨハネはエペソに住んでいました。パトモス島にいた時以外は、彼はここに住み、活動し、ここで死にました。

 キリスト者は、ここで焼香を焚くことをせず、そのまま通過します。祭司が、「なぜ、焼香を焚かなかったのか?」と問い詰めます。キリスト者は、「わたしはキリストをあがめています。」と答えると、その祭司は市場の中に入り、彼に付きまといます。キリスト者はここで売ったり、買ったりするのですが、祭司は「この人は、皇帝をあがめていない。」と叫ぶのです。そこで、誰もキリスト者から買わないし、売りもしなかったのです。これを「獣の刻印」と呼ぶのです。

 エゼキエル9章で、六人の御使いがいましたが、もう一人、筆記がいました。エルサレムの惨状のことで嘆き悲しんでいる人たちの額に、印をつけるように主が彼に命じておられます。エルサレムはその時に偶像礼拝にはまっていました。その刻印は、ヘブル語のタブתであり、当時は十字架の形をしていました。彼らもバビロンに捕え移されますが、害を受けないことが約束されます。黙示録では、神の印を受けた十四万四千人がいます。彼らは童貞のイスラエル十二部族であり、大患難を通りますが、害を受けません。エゼキエルは、将来のことの型となることを予告していたのでした。

 しかし、乗っ取る奴が来ます、反キリストです。強制的に刻印を受けさせます。その刻印が何か?体内マイクロチップなどかどうか、それ自体が大事なのではありません。ヨハネが言いたかったのは、「あなたは何をあがめているか?」ということなのです。誰に礼拝しているか、捧げているのか?ということです。エゼキエル9章の嘆いていた人たち、14万4千人も神に捧げていました。しかしここで、獣を拝まない者は殺されます、しかし殺される前に、「だれも彼から買わず、売らない」ということが起こるのです。この黙示録のメッセージを聞いた時、エペソの人たちはすぐに理解できました。毎日、経験していたことだからです。そしてエペソだけでなく、ローマ世界のどの市場でもこのようでありました。

 その他の刻印は、新しいエルサレムの住民です(22:3)。

 額への刻印は、自分が何に捧げているのか?ということを表しています。では、なぜ右の手に刻印なのか?イスラエルがエジプトで奴隷だった時に、手に刻印が押されていたので、主は律法で入れ墨を入れてはいけないと命じられました。つまり、手に刻印とは反キリストの奴隷になることを意味していたのです。それをしたら、霊的な自殺行為です。結果はどれほど恐ろしいものかは、14章以降に書かれています。地獄の火で苦しむことになります。

 そして、ジェイさんは、この門の「アグリッパ」が、ヘロデ・アグリッパ二世のことであることを示唆しています。

 ・・・黙示録13章の背景が、あまりにも鮮やかに見えたので驚きです。アゴラの中は、歩いて回る時間はもらえませんでした。ここは11000平方㍍の大きさで、四辺に店が並んでいました。ギリシア時代に建てられて、ローマ時代に拡張されました。当時、最大の買い物広場だったそうです。パウロや、アクラとプリスキラは、コリントでそうであったように、ここで天幕づくりをしていたことでしょう。ギリシア時代は周囲に一度だけ、開いていたそうですが、ローマ時代は毎日開いていました。そして港へつながる、アルカディアン通りへの連絡路があったそうです。四辺には柱廊があり、床はモザイクだったそうです。アゴラの中央部が発掘された時には、大理石の平板が見つかりました。アゴラの北部にセラピスの神殿があり、ギリシア化されたエジプトの神です。(説明動画

遊郭の広告

 そして私たちは、マーブル(大理石)通りを歩きます(写真)。左側にアゴラがあり、ずっと前には右側に、大劇場があります(高台からの写真)。そして、そのずっと先にはアルテミス神殿があります。大劇場から左には、アルカディアン通りがあり港湾に行くことができます。街道の中央に大理石の部分が、戦車のために舗装されている部分があるそうです。右には歩行者のための、店に隣接する大理石の柱廊があったそうです。左には、皇帝ネロからエフェソスに寄贈された、表彰台の上の歩道があるそうです。

 その左側に、興味深い落書きが歩道の上に彫られています。それをディレクさんが説明します。


 左にはハートのマークが、その下に左足、右には女性、その下に四角があります。ビデオは、大劇場とは反対の方向ですから、右にはケルスス図書館、左に遊郭がありますね。そう、これは遊郭の広告です。左足は、「左手に女の人がいます」という印です。これは、まだ地味な広告なのだそうです。ローマやポンペイに行けば、男根を描いたものもあり、もっとグロテスクなのだそうです。ローマの日常だったと言っています。道理で・・と思いました。だんたん、ローマ人への手紙の1章後半にある描写、エペソ5章にある下品なことへの言及、そういったことの背景には、こうした、不道徳な慣習がありふれていたことがわかります。

 日本語のトルコ人ガイドによる説明の動画が見つかりましたし、またこの広告のあるところから、マーブル通りを眺めている動画もあり、ここら辺の様子がもっとよく分かるのではないかと思います。

大騒擾が起こった大劇場

 マーブル通りにあり、港に通じるアルカディアン通りとの交差するところに大劇場があります。これはギリシア時代に造られましたが、ローマ時代に何度も改築されます。2400席もあり、1000人の立見席も造り、2500人の収容できる小アジアで最大の劇場になりました。客席は直径154㍍、高さ38㍍の半円形です。60年も建築にかかったそうです。(こちらの上空からの写真でその大きさを感じ取ることができるでしょう。)演劇の上演や全市民参加の民会の会場にもなりましたが、後に、剣士と猛獣の戦いも行われ、客席とオルケストラ席を仕切る手すりが、危険防止のための壁に変えられました。


 古代ギリシアの劇場は、半円形の部分をテアトロン(観覧席)と呼び、中心の円形部分をオルケストラ(円形舞踊場)と呼びます。そしてプロスケニオン(ローマ時代はプルピタム)と呼ばれる舞台がありましたが、衣装替えなどのためのスケネ(楽屋)がありました。

 ここの大劇場は、ギリシア時代は二階のスケネでしたが、ローマ時代は三階になりました。ここに装飾が施され、列柱や石像を飾る壁龕(ニッチ)を持つようになります。テアトロンに上がると、スケネの向こうにアルカディアン通りが見ます。そこの先にはかつて港がありました。そしてテアトロンは、ローマ時代はカウェアとも呼ばれました。(ウィキペディア「ローマ劇場」

 では復元想像図を見てみましょう。


 ディレクさんが、以上のようなことも含めた説明をしてくださいます。


 舞台の真ん中にある穴は、演者が楽屋に行くための入口であり、またここから猛獣が出てきていました。その証拠に、先に説明しましたように、円形舞踊場と客席の間に壁が出来ています。鉄格子が最前列にはあったそうです。そして獣は赤い帽子を被った人々が出て行っているところから出て行き、そこに収容されていたそうです。(ローマ劇場では、側面の出口はアデタム・マクシムスと呼ばれるようです。)

 そしてここから伸びている、港につながるアルカディアン通りに、そこのどこかにティラノの講堂があったとのことです。パウロが伝道の拠点をしたところです。11時から4時までのシエスタ(お昼寝)の時間に、彼はそこを使って伝道しました。港に近いですから、人の行き来が多く、みことばは広範囲に広がって行ったということです。

 そしてジェイさんが、ここから使徒19章23節以降に出て来る、大騒動のところを読みます。臨場感あふれていました。


 ティアティラの教会の時もあった、商売のギルド(組合)の話しです。銀細工人が引き起こしたものです。35節にある「書記官」ですが、先に訪問したプリタニオン(市公会堂)から来た人であると考えられます。そこは宗教の中央局でもあり、宗教的指導者でもあったのです。先のスクネの出入り口から出てきたものと思われます。

 真理のために命をかけたパウロの事を話しています。これは主観的ではなく、命を犠牲をしてよいものです。

出口へ

 これで見物は終わりますが、まだまだ見るところはあります。アルカディアン通りそのものがあるでしょう(大劇場からの写真)。港から大劇場までの大理石の道路で、幅11㍍、長さ500㍍の道路沿いには商店が並び、街灯も灯されていたそうです。港通りとも呼ばれますが、アルカディウス帝が改築したのでそう呼ばれています。入口に浴場がありました。この通りの真ん中に巨大な門があり、そこに四人の使徒を記念する柱があるのだそうです。(説明)そして、そこに劇場体育館があります(写真)。ここは云わば、エフェソスの中高だったところです。

 そして、アルカディアン通りから劇場体育館のところで右折して、しばらく歩くと出口です。物売りのお店が並んでいます、本当は買いたいと思って、買いそびれたのが、イクサスのTシャツでした。


4.その後の時間

トルコ家庭料理店Bizim Ev Hanimeli Restaurant
グーグル地図

 エフェソスには、遺跡の他に博物館もありますが、そこには立ち寄りませんでした。お昼の時間なので、エフェソの隣町セルチュクにある有名な家庭料理店に向いました。ここは、普通の市井の主婦である、カンス・メルカン・タッカーさんが、経済的な必要に迫られ自家製の料理をもって始めた所、大人気になって、自著まで出したという方のお店です。名前がそのままMy Mother's Kitchen: Homemade Turkish Cookingです。

 トルコ料理は、本当においしくて、やみつきになりそうですが、家庭料理はさらに輪をかけて美味しかったです。

絨毯店Turkmen Carpet Weaving Centerグーグル地図

 次はショッピングの時間です。トルコは絨毯で有名、とのこと。

 まず、織物をしている現場を見せてもらいました(動画)。相当な手間と時間なので、そりゃあ高価な絨毯になるなと思いました。そして、次に蚕から糸を取り出す実演を見せていただきます(動画)。どうやって絹が生まれ出ているのか、結構、勉強になりました。

 そして次に、裸足になって別の部屋に入ります。ここで、一人一人に飲み物を提供されるので、私は絶対、トルコ・コーヒーを頼みました。次々と絨毯が、手際よく出されてきます。その上を歩いて構いません、裸足であるくととても肌触りがよく、気持ちよかったです。(妻は寝そべっています。)みんな本物で、良質・高質であることは間違いないのですが、なんせ高いし、家の中で敷くスペースがありません。

 実際に購入している人は何人かいましたが、私たちは早々と外に出て、とても暖かい気候の中で、猫ちゃんといっしょに御昼寝モードに入りつつありました。けれども、旅行仲間の人たちとゆったりと交わって、いろんな話をしました。楽しかったです。

ホテルでゆったり(グーグル地図

 まだ明るいうちに、カリスマ・デラックス・ホテルに戻ってきました。


 ホテルの部屋からのきれいなエーゲ海の眺めを満喫し、ホテル内のプールに入ろうとしたと思いますが、なんと水泳キャップがなければ絶対だめとのことで戻ってきました。トルコ旅行に行く時は、水着と共に水泳キャップが必要です!それで、再びミグロスに買い物に行きました。

 明日は、エフェソスを離れて北上、ペルガモンに向います!