2019年トルコ研修旅行記 4月9日 その② エペソ&スミルナ
1.古代エペソ遺跡
2.聖ヨハネ聖堂
3.トルコ絨毯店
4.スミルナのアゴラ
エペソ遺跡の出口から聖ヨハネ聖堂まで(Google地図)
2.聖ヨハネ聖堂
(Renaissance(日本語)、Wikipedia, The Maritime Explorer, Ephesus Travel Guide)
エペソの北の出入り口から出て、車で10分ぐらいですか、3.8㌔離れたところに、ここ聖ヨハネ聖堂に到着しました。2018年の旅では行っておらず、アルテミス神殿跡から遠くに仰ぎ見る感じで見ましたが、現場に来たのは初めてです。
上の写真は、2018年のアルテミス神殿跡で撮ったものですが、背後に柱がありますね。そのすぐ左にある建物が聖ヨハネ聖堂です。(アップした写真)アヤスルク丘という丘の斜面にあります。
ユーチューブには、聖堂の動画が多く上がっていますが、例えばこちら。見ての通り、とても保存状態がよく、復元もしっかりされています。復元図がこちらです。
現在の上空からの写真
復元模型だと左にあるアプスの部分が、この上空写真では下になっていて、全体が十字架の形になっているのが分かるでしょう。
内部の復元図
ハギア・ソフィアを思い出させるような造りですが、それもそのはず、ハギア・ソフィアを建造した、ビザンチン帝国の皇帝ユスティアヌスが6世紀に建てたものだからです。ハギア・ソフィアに次ぐ、第二の大きさを誇っていた、今は無き聖使徒教会に模して建てたとのこと。コンスタンティノープルを攻略したオスマン軍が破壊して、そこにモスクを建てたために無くなったそうです。
言い伝えによると、ヨハネ伝19章にあるように、イエス様が十字架上で、ヨハネにご自身の母マリアを引き取ってほしいという遺言を語られたので、ヨハネは引き取り、38-47年にエペソに渡って、エペソに住んで行ったとのこと。そして、ドミティアヌス帝によって90年代、パトモス島に流刑になりましたが、皇帝の死後エペソに戻りました。そして黙示録を書き留め、また福音書も手紙も書いています。
6世紀のプロコピウス(Procopius)という歴史家が著書「秘密の歴史」の中で、ユスティニアウス帝の統治における建造物を記している中で、この聖堂の建築についての経緯が残っているそうです。それによると、後世、信者たちはヨハネのことを「神学者ヨハネ」と命名したそうです。ヨハネを葬った墓のところに教会を建てていたが、それが六世紀には荒廃していて、ユスティニアヌスが、その残りを全て取り壊し、地ならしして、この聖堂を建てたそうです。聖堂の内部の復元図を見てのとおり、アプスのところにヨハネの墓が四つの柱に囲まれてあります。
それでは、私が撮った動画です。
建物に入る前に、アルテミス神殿の跡を見ることのできるところに行き、撮影できました。(写真)そして、入口のところでディレクさんが、聖堂の建てられた経緯を説明しています(2:00辺りから)。復元図を見せながら、墓のあったところにキリスト教公認の後に教会を建てたけれども、上で説明したように廃墟になっていたので、6世紀に再建しました。入口にある両側の柱ですが、右側なのは新しい大理石で復元ですが、左は元々の大理石の柱です。
3:30辺りで、建物の真ん中あたりに来た時に、両側にある巨大な柱をelephant leg(象の足)を表現していますね。フィラデルフィアにあった聖ヨハネ教会の巨大な柱と似ていますね。これは、二階のための支柱です。そして、先に内部の復元図で見た、アプスにつながる通路の跡があります。穴の開いている大理石が一列に並んでいますが、これはパラペットです。ここで司祭たちが、聖体機密(聖餐式)を執り行います。
そして4:52のところで、大理石の平面の台がありますが、それがヨハネの墓です。その奥にはアプスのところにベンチがあります。ここでかつては、教義につて議論していました。その周りにはモザイクがありますね。サルディスのシナゴーグのように、当時の流行でした。
そして、7:30辺りから、洗礼堂(bapsterium)に入ります。ここも、ヒエラポリスのピリピ殉教廟と同じように、八角形になっています。マルティリウムと言いますが、七が完全数で神を示していて、その次の八が永遠のいのちを表しているというものです。キリストの復活を示しています。洗礼堂が八角形になっているのは、実によく合った象徴になっています。ここの壁はすべて大理石で覆われていました。そして、洗礼槽の大きいのは大人用で、その横にある小さいのが幼児洗礼用、さらに小さいのは塗油やその他のことに使っていたのではないか?と考えられます。
ここでジェイさんが、情熱をもって、水に浸かることについて語ります。
当時の人々の考え方を学びます。第一に、バプテスマはユダヤ人にとってミクバがあります。南壁考古学公園には、ミクバの跡が数多くあります。雨水を使います。誓い、婚礼、シナゴーグや神殿に行く時などで使います。意味はシンプルで、シナイ山の前で自分を水で洗いなさいと命じられたことがあります。洗礼槽は、キリスト教式のミクバと言えるでしょう。ミクバは、裸で階段を下り、水の中に入り、方向を変えて階段を上ります。ユダヤ人たちは、アダムからの罪の性質をもって生まれたと信じています。これは、母胎の羊水とみなし、そこに入り、それで新しく生まれると信じていました。ニコデモへのイエス様の言葉は、こうした背景があります。
もう一つの意味は、ヨルダン人の福音的信仰を持っている兄弟の言葉から学びます。誰かがバスの中で、「ヨルダンの中で伝道をしますか?」と尋ねました。ヨルダンはイスラム教の国なので。「伝道をするのは合法だけれども、タブーになっています。ムスリムやキリスト者は隣人であり、平和に共存している。この地域では、「何を信じているか」ではなく、「そのままのあなた(it's
just as who you are)」なのです、と答えました。もしムスリムを回心させるということは、彼の有様全てを変えるということになるのです。
洗礼とは、あなたそのものが水の中で死に、新たに生まれ、他の違うもの、違う人になる、という意味になります。だから、ユダヤ教の人々は、家族にキリスト者になる者が出てきたら、その人の葬儀を執り行うのです。信じることを変える以上に、自分というものが変わります。形が8ですが、6が人間の数字で、7が完全数で、8が新たな始まりです。ビザンチンの人たちはかなりヘレニズム化していましたが、まだ残っていました。
そして方向も、西から入り、東に出ます。日の出に向かって上がるので、新たな始まりを示しています。
トルコ家庭料理店Bizim Ev Hanimeli Restaurantへ(グーグル地図)
この後、お昼の時間です。2018年と同じ、エフェソの隣町セルチュクにある有名な家庭料理店に行きました。ここは、普通の市井の主婦である、ハティジェさんが、経済的な必要に迫られ自家製の料理をもって始めた所、大人気になったというお店です。ディレクさんが、バスの中でこのことを説明してくれました。そして3:40から、ハティジェさん自身が説明しています。
3.トルコ絨毯店
家庭料理店からTrukmen Weaving Centerへ(グーグル地図)
こちらも2018年に行ったところです。トルコの伝統的な絨毯を、国が、その作成と販売を支援しています。トルコにとって絨毯は、日本にとっての着物みたいなもの。トルコ人の心にあるものです。けれども、手間がものすごくかかっているだけあって、あまりにも値段が高い!けれども、アメリカ人の人たちには買う人たちがいました。
4.スミルナのアゴラ
絨毯のお店からスミルナのアゴラ遺跡へ(グーグル地図)
ジェイさんによる、牧者たちへ聖地旅行企画の勧め
これからイズミールに戻ります。スミルナのアゴラの遺跡に向かう途中、バスの中でジェイさんが、この旅の目的を、はっきりと語りました。それは、牧者たちがトルコに聖地旅行を企画する強い勧めです。(動画)この研修旅行は、牧者や教会の働き人のみが参加対象で、旅費もかなり低く抑えられています。それは、今後、参加者が自分で旅行を企画してほしいと願っているからです。
ジェイさんは、牧者チャック・スミスによるクルーズ船による、トルコ・ギリシアの旅で、エペソ郊外にあるリゾート地、クシャダスに降り立ったのがトルコの初めての体験です。そして、新約聖書の舞台や手紙の宛先の数多くが、ここトルコ、小アジアにあります。ここに来れば、自分が教える時にそれが変わるし、書かれていることに色付けされます。信仰の一歩を踏んでほしい、と言っています。そして、アメリカ側の旅行社の代表が今回の旅に共に参加しています。けれども、なかなかトルコの魅力や大切さをアメリカ人の人たちには分かってもらえないという話をしています。ギリシアはアテネなど、行きたいと思いますが、トルコはなかなかそうではないです。
スミルナのアゴラ遺跡
(2018年の旅)
七つの教会の第二の町であるスミルナですが、日が暮れてきているので、そのままホテルに帰りたい人たちと、閉門時間が過ぎてしまったけれども、外からアゴラ遺跡を見たい人たちに分れました。初めに確か、ホテルに行き、それから遺跡を見に来たと記憶しています。
私はずっと、この遺跡を見たいと飢え渇いていました。なぜならば、2018年の旅では、イズミールにて、聖ポリュカルポス教会というカトリック教会に訪問して、アゴラの遺跡は見ていなかったからです。けれども、その時にスミルナのことや、アゴラのこと、そしてどこで数多くの人たちの殉教が起こったかについて自分なりに調べたことを書き記しています。ぜひ、2018年の旅の、「町の歴史とイエス様の言葉」そして、「今回は訪れなかった、スミルナの町の遺跡」を読んでみてください。エペソまでいかないですが、かなり大きな町だったのですが、今のイズミールの町があるので、大半がその下に埋もれています。それでもアゴラ部分だけ見ても、壮観でした。
下は復元図です。上の写真は、おそらくは下のアゴラの左の部分(海側)の列柱廊になると思います。
もっと遠くからスミルナの町を眺めると、リンク先のようになります。手前に円形劇場がありますね。
ディレクさんが、アゴラの外から解説してくれています。
町は港まで広がり、また後ろに家々が建っている丘がありますが、それが当時はアクロポリスです。エペソのような大きな町でした。左側の列柱廊(東側)には商店が並んでいましたが、二階建てでした。地下は、下がアーチによって支えられていて、商店が並んでいました。そして真ん中にアゴラがあります。エペソでも見たようなものですね。ここでは売り買いがなされて、それから、裁判も行われました。そして、発掘は多く終わっており、今は復元作業が続いています。ジェイさんが解説を続けていますが、丘のところを指して殉教が起こりました。
そしてバスに乗り込んだ時には、3:00の辺りですが、もう日が暮れていますね。続けてスミルナの解説を続けます。アゴラの真ん中では、果物や香料など日常のものが売られていました。ギリシア・ローマの世界ではアゴラにビーマがありました。ピリピの町でもパウロとシラスが鞭うたれましたが、あれはアゴラの前でありました。ビーマは半円形でありました。
そしてパウロが天幕作りであったことも説明してくれています。革の天幕だったろうと思われます。それをアゴラの真ん中で売っていたでしょう。それは人々と接する機会でもありました。それから、商売相手としては、ピリピは植民都市だったので、退役軍人が住んでいますから、兵士たちの使っている天幕や革製品を扱っていたのではないかと考えられます。
スミルナについてのジェイさんのメッセージ
ジェイさんは、この遺跡のところでメッセージを語りたかったのだと思いますが、時間がありませんでした。それで、ペルガモン遺跡のところで、いっしょに語っています。
スミルナは皇帝礼拝が強烈にあったところで、ポルカリュポスの殉教が起こりました。彼についての殉教の伝説があります。彼は、ヨハネの弟子でした。多くの迫害がありました。黙示録2章8-11節ですが、「死んでよみがえられた方」と主は言われていますが、それが彼らにも起こります。そして「貧しさ」とありますが、彼らは売り買いができませんでした。そして、「ユダヤ人だと自称しているが、サタンの会衆」とは、ユダヤ教の指導者らで、異邦人がそのまま教会に入って来るので、いっしょにされたくないので、彼らを中傷しました。イエス様は「恐れてはならない」と言われています。10日というのは、迫害は一時的だということです。スミルナの硬貨には、月桂樹の冠が掘られていますが、「いのちの冠」を約束されています。競走で勝利したことを示しています。第二の死、つまり最後の審判を免れるということです。
こうして、イズミールのホテルに戻ってきました。夕食に行くと、一人、ユダヤ人の兄弟マイルズさんがレストランにいました。(イスタンブールにいた時に、ご紹介した夫婦です。)あれっ?行かなかったの?と、「ああ、何度も行ったことがあって、そこで収録したこともあるんだ」と言っていました。
明日は、一気に北上します!まず、ティアティラとペルガモンを訪れ、それで七つの教会をすべて網羅します。そして、さらに北上して、トロアス→トロイ→チャナッカレと進みます。