2019年トルコ研修旅行記 4月8日 その②
ヒエラポリス・ラオディキア・フィラデルフィア・サルディス
1.ヒエラポリス-パムッカレ
2.ラオディキア
3.フィラデルフィア
4.サルディス
(その①からの続き)
3.フィラデルフィア
(2018年の旅)
レストランからアラシェヒルの聖ヨハネ教会へ(Google地図)
お昼を食べたら、次はアラシェヒルと今は呼ばれる、フィラデルフィアに向かいました。
上の地図を見ると分かりますが、北西に向かって低地になっているのが分かります。これはヘルムス渓谷といいます。イズミールの北にあるヘルムスにまで、途中で西に折れる形で渓谷になっています。それで肥沃な土地になっていて、フィラデルフィアの周囲は、今もぶどう園があります。それで、ギリシア神話のぶどうの神、デオニュソスを守り本尊としました。「小アテネ」とも呼ばれるほど宗教の本拠地だったようです。それに加えて、多くのユダヤ人が住んでいます。このことが、イエス様がここの教会に語られた背景になっています。
フィラデルフィアは、「友愛」という意味です。ここは紀元前二世紀、ペルガモン王国のエウメネス二世が建てた町で、自分の弟で自分に忠誠を尽くしたアッタロス二世への友愛のために、彼の別名「ピラデルポス」から名付けたとのことです。そして、アッタロス三世の時にローマに王国を寄贈してから、ローマの属州の中に入っています。
それから、この町は、いくつかの大事な通商路の分岐点になっていまして、それでこの町が「東方への門口」と呼ばれていました。リュディアとフリュギアに対してヘレニズムを拡げる拠点とされていたそうです。これもまた、イエス様が語られた「光られた門を開いておく。」という言葉の背景になっているかもしれません。
フィラデルフィアの遺跡は、ラオディキアの時に話しましたが、「現代の町の下に眠っている」ために、ほとんど発掘されていません。見ることのできるものは、ビザンチン時代に造られた、かなり大きな教会堂の跡、「聖ヨハネ教会」です。紀元6世紀のものです。
巨大な柱がありますが、これは一部で、目の前にあるアパートにも柱が埋まっているはずで、相当大きく、コンスタンティノープルのハギア・ソフィアほどではないでしょうが、かなり匹敵する大きさだったと言われているそうです。ジェイさんは、黙示録3章7-13節を見ていきます。
「ダビデの鍵」とありますが、鍵を持っている者は権限が与えられていますから、神ご自身の権限をイエス様が持っておられるということです。使徒ヨハネは、教会の牧者たちを監督していたのですが、パトモス島にいてそれをできないのですが、主ご自身が監督しておられて、御国のことを決める権限が与えられています。そして、「彼が開くと、だれも閉じることがない」と言われていますが、ここでのメッセージは大抵、伝道のための戸が開かれていると教えていたかもしれませんが、文脈とは違います。歴史的背景があります。
黙示録の書かれてた時期が紀元後70年辺りだという人たちがいます。けれども、ここの箇所がそうではなく、後記(90年代)であることを示しています。フィラデルフィアからサルディスにかけて、ユダヤ主義らがいました。キリスト教は、当時、ユダヤ教の一派でした。それで、ユダヤ主義者らは、割礼を受けることなく入って来る異邦人たちを拒まないといけないと考えたのです。
ユダヤ教は、どのラビについているのかが大事にされていましたが、この地域のユダヤ主義者らは、「ギリシア化されたエッセネ派」でした。ヘレニズムの影響を受けたエッセネ派というのです。ユダヤ教を周囲の異教との折衷を行っていたのです。この地域の人たちの異教は酷いものでした。アフロディテの祭司になるためには、いろいろな儀式もありますが、アヘンのようなものを食べて、錯乱状態になってから、人前で去勢するのです。このユダヤ主義者らは、「ああ、去勢しなくていいんだよ。割礼しておけば。」としたのです。(ガラテヤ書5章で、パウロが、「いっそのこと切除してしまえばよいのです」と言いましたが、まさにこの問題ですね。律法を守らせるために、異教の儀式と律法をむしろ近づけていったのです。)これが大きな問題です。「ユダヤ人と自称しているが、サタンの会衆に属している」ということです。しかし、フィラデルフィアの信者たちは、イエスの御名を固持しました。
紀元70年に神殿が崩壊して、ユダヤ人たちは拠点をベート・シェアリムに移しました。けれども、会議はヤムニアで行いました。フィラデルフィアのユダヤ主義者が、自分たちのところにいる者たちをどうすればよいかやってきました。そこで、彼らをユダヤ教から追放しました。戸を閉じるというのは、ただ建物に入れないのではなく、排除されたのです。教会の人々は混乱し、落胆していました。そこで、イエス様は、ご自身に権威があり、御国に入れることができるのだということです。
そして、「神殿の柱」についてイエス様が言われていますが、カペナウムのシナゴーグの柱に、良いことをした人々の名前を柱に書き入れます。これが、「神殿の柱とする」ということで、それで「わたしの新しい名を書き記す」と言われているのです。
これまでのフィラデルフィアの教会に対する、イエス様の言葉の意味合いとかなり変わってきますね!
4.サルディス
(2018年の旅行記)
聖ヨハネ教会からサルディス遺跡へ(Google地図)
フィラデルフィアから西北西に約50㌔走ると、サルディスの遺跡があります。 この町についても、2018年の旅行記をぜひご覧ください。こちらでは、概観をお話しします。
サルディスは、イエス様がヨハネに語られた時に、ローマのアジア属州の大きな町でしたが、ここでの特徴は、古代、アナトリアの西半分を征服した、強大なリュディア王国の首都だったということです。
トルコの歴史で見ましたように、アナトリア(トルコの半島)の古代史は、東方のヒッタイト王国が起こり、その後でペルシア帝国が進出してきますが、ヒッタイト王国とペルシア帝国の間に、ギリシア人による植民がエーゲ海沿岸に少しずつありました。しかし、ここで一気に西半分を、紀元前7世紀に、リュディア王国が制覇します。
その王ギュゲスについての話しは、2018年の旅行記を見てください。伝説的人物になっていますが、このギュゲスが、エゼキエル38章の「ゴグ」の由来になっています。ギュゲスのような人間が、イスラエルを征服しにくるということで、主がエゼキエルに語られたのでしょう。
そしてリュディア王国は、ギュゲスから五代目のクロイソス王の時に最盛期を迎え、世界最古の硬貨が彼の治世の時に製造されました。ところが、ペルシア帝国の、イザヤの預言で「メシア」とまで呼ばれる、バビロンを倒し、ユダヤ人を解放、エルサレム帰還命令を出した、あのキュロスが遠征にやって来て、紀元前547年、サルディスを包囲します。(参照:「サルディス包囲戦」ウィキペディア)
難攻不落であったリュディアのアクロポリスは、あっけなく占領してしまったのです!このことが、こともあろうに歴史が繰り返されたのです。サルディスがペルシアの支配下に入り、今度はギリシアが台頭しました。アンティオコス大王がここを包囲して、同じようにあっけなく、倒してしまったのです。
これが、イエス様がサルディスの教会の人々に語られた背景で、「目を覚ましなさい。」という呼びかけになっています。黙示録3章で語られるイエス様の言葉は、彼らには、すぐに、明瞭に、分かるものでした。
ローマ時代の遺跡
サルディスには、主に三つの見るところがあります。ローマ時代のサルディスの町の遺跡、アルテミス神殿の跡、そしてリュディア時代のアクロポリスです。
アクロポリスは、トロモス山脈の端にあり、難攻不落の自然要塞になっていました。けれども今は、かなり侵食しており、ほとんど遺跡が残っていません。ローマのサルディス遺跡からは見ることはできませんが、アルテミス遺跡に行くと眺めることができます。
私たちはまず、ローマ時代の遺跡に行きます。ローマといっても、キリスト教公認前のローマだけでなく、公認後の東ローマ時代、すなわちビザンチン時代の遺跡も多く残っています。
ディレクさんは、サルディスの歴史を紹介しています。上で説明したとおりです。その他、面白い逸話を紹介してくれています。リュディア人はスタイリッシュで香料が好き、男まで化粧をしていました。女っぽいとギリシア人は酷評しました。リュディア人はギリシア人を、むさい(? 男っぽい)と見下げたようです。そして、リュディアの後は、ギリシアの支配下、そしてローマの支配下に入りました。そして、ユダヤ人が多くいました。後で、大きなシナゴーグを見ます。
6:00頃から始まる遺跡は、ローマ式の公衆トイレです。6:30辺りからローマ時代の商店街です。洗い場に十字架の跡がありますが、キリスト教公認の後であることは確かです。紫に染色するお店です。ピリピにいた、ティアティラの商人も、紫布の商人だったことを思い出してください。
そして10:00辺りから、とても大切な説明があります。まず、背後、車の走っている道路の背後には、リュディア王国のアクロポリスが見えます。一般の民は、普段は麓に暮らしていますが、戦時などは、ここに登って難を逃れます。そして、目の前にある石畳の跡ですが、これが「王の道」です。下の写真です。
上は復元図です。(ウィキペディア「王の道」)。ペルシア帝国がここまで遠征に来ていることは、キュロス王がクロイソスに戦ったことで分かるかと思います。そして、エズラ気5-6章に出てくる、エルサレムでの宮の工事を許可し、支援したダリヨス二世によって、ペルシアの首都スサから、ここサルディスまでの道を整備したのです。その長さはなんと、約2700㌔!日本列島がすっぽり入る長さですね。
(「世界史の窓」から)
ヘロドトスは、「この公道を利用したペルシアの旅行以上に速い旅は、世界のなかでも他にはない」と称賛しています。この間には111の郵便局があったそうです。伝達馬が交替して、9日間で運べるそうです。聖書では、エステル記が直接、関係します!ハマスによる、ユダヤ民族絶滅の布告をあれだけ急いで伝えることができたのは、この郵便制度があったからです。
シナゴーグ
商店街を通った後で、私たちはシナゴーグに入ります。まず、上空からの写真をご覧になると良いでしょう。
synagogueというのがシナゴーグです。私たちは、写真では左上からシナゴーグの左にある商店街を右下に向かって歩き、そして、シナゴーグの手前、柱廊の見える部分にまず、入ります。
250-350年の建物です。ユダヤ人がいかに社会的地位を持っているかをうかがい知る、大きく、荘厳な会堂です。まず手前の中庭に、洗盤がありますが復元です。本堂に入って、ディレクさんは壁に寄り、復元作業の説明をします。下の基の部分は元原初のものです。そして、花崗岩の石がありますが、これはここで倒れて落ちていたものを使っています。それから、その上のレンガの部分は復元です。大理石の部分も、下の基のところは原初からあるものですね。その上の、タイルのモザイクのあるのは復元ですね。それから、名前が刻まれています。これも、地面に落ちていたものを取り上げて、壁に貼り付けています。どうして、初めの姿を分かりえるのか?という質問に対して、イスラエルにある同じ大きさのシナゴーグの遺跡がイスラエルにあるので、それを手本にしているそうです。
当時のギリシア・ローマ世界の、バシリカ式の建物が特徴的で、このシナゴーグも同じだそうです。なるほど、ビザンチン時代の教会堂がこれを模しているのですが、ユダヤ教の会堂も影響を受けているんですね。このシナゴーグを建てる前は、バシリカ式の商業施設だった可能性があります。これをユダヤ人が購入したのですから、かなりの財力があったと考えられます。
そして、長方形の四隅となった四つの柱の跡があります。これが説教壇の跡です。これまた、ビザンチン時代のバシリカ式教会堂と似ていますね。その奥に祭壇があります。ここに、トーラ(律法)の巻物を置いたんですね。教会堂であればアプス(至聖所)の部分です。両側のローマを象徴する鷹が彫刻してあります。両側には、獅子の彫刻もあります。
ここで、祭壇の後ろにある半円形の座席(おそらく、長老たちが座したところ)に座り、ジェイさんの話を聞きました。
キュロス王がサルディスを包囲したのは、紀元前465年のことです。2018年と同じ、ヒロイアデスの話と、後世のアンティオコス大王の攻略の話をしています。
そしてサルディスの教会の問題は、富に安住している姿であるとして、イスラエルがソドムと同じようになっているという預言を紹介しています。「16:49 だが、あなたの妹ソドムの咎はこのようだった。彼女とその娘たちは高慢で、飽食で、安逸を貪り、乏しい人や貧しい人に援助をしなかった。」イエス様は、仕える中にいのちを与えておられます。義とは、教会のことだけで終わっているのではないのです。キリストのからだは、それぞれの部分が仕え合うことによって成り立っています。
そして、2018年の旅では見ましたが、ビンテペというところにリュディア王の墳丘墓があります。その中に、ギュゲスの墓があります。聖書の時代の人々は「ゴグ」として知られていました。1970年代に考古学発掘されました。(ウィキペディア)
ということで、サルディスの教会の危機は、富のゆえに、「仕えるのではなく、仕えられること。自分たちの必要を満たすこと。」に心が向いている問題だったということが分かります。
ギュムナシオンへ
そして、シナゴーグの隣にある、ギョムナシオンに行きました。これは、古代ギリシアの公共の、競技選手が訓練するところです。そこ中で練習場をパライストラと呼びます。ギリシア語でギュムノスは「裸」を意味します。彼らは、男性の肉体の美しさを鑑賞する意味もあり、全裸で訓練していたのです。
けれども、隣にはシナゴーグがあります。それでディレクさんは、この間に壁があったことが分かる跡があることを説明しています。いや~、映画「300」でも、やたら筋肉隆々の戦士たちが裸のままで戦っていますが、ギリシアは人間を賛美する文化だなとつくづく思いますね。
そして、この公共の場に、「帝国ホール」と呼ばれる建物があり、二階に皇帝の像が安置されていました。このような、首都ローマから遠いところでも、皇帝の支配にいることを教えているのです。
ローマ風呂
この裏には、ローマ風呂があります。競技選手が汗を流した後に、そのままお風呂に行けますね。他のところでも、ギュムナシオンの隣にローマ風呂があったようです。ローマ風呂は、日本では、「テルマエ・ロマエ」で有名になりましたね。聖地旅行では、いろいろなところでこの遺跡を見ます。すでにヒエラポリスにも大きいのがありましたし、エペソにもあります。そして、イスラエルではデカポリスの一つ、ベテ・シェアンにもありますし、有名なのは、マサダにおけるヘロデの浴場です。
ローマ風呂は、アナトリウムという、お風呂の前のちょっとした運動場があります。それから、脱衣室があります。そして浴室は、フリギダリウム(冷浴室)、テピダリウム(微温浴室)、そしてカルダリウム(高温浴室)があります。我々日本人は、お風呂文化があるので、健康ランドにおける浴室の使い分けは感覚で分かりますね。こちらの写真が、ホールの裏にある遺跡で、フルギダリウムです。
2018年の旅でも貼り付けましたが、上空からのドローン映像で、これまで通って来たところを改めて眺めることができます。
アルテミス神殿
ローマ時代の遺跡から、アルテミス神殿まで(グーグル地図)
バスに一度乗り、アルテミス神殿の跡に移動します。アルテミス神殿と言いますと、エペソにあるのがアジア全体、いや地中海の世界全体で有名だったと思いますが、サルディスにも同じアルテミス神殿がありました。そして、遺跡としてはこちらのほうが、きちんと遺跡として残っています。
こちらに来ると、目の前にアクロポリスがあります。
アルテミス神殿だと聞くと、ヨシュアさんが喜んでいます。使徒の働きに出てくる名前ですからね。
1:30辺りで、ジェイさんが、「柱に名前が刻まれている」例として見せています。本当に、名を書き記すという言葉が、黙示録や聖書のいろいろな箇所で数多くありますが、こういうことだったんですね。
その他の2018年の旅で詳しく詳しく説明してありますので割愛します。その他に、神殿の中に貴重品の献品を保管する、オピストドモス(Opisthodomos)と呼ばれる部屋に入れ、またお金もここに預かってもらいます。エルサレムの神殿の敷地でも、両替台があったり、お金が集まっていましたが、異教の神殿の考えの影響が入ってきたのかもしれませんね。そうしているうちに、オピストドモスの中にいました。
それから、この神殿は完成されませんでしたが、柱は完成しており、イオニア式ですね。ギリシア建築には、コリント式、ドーリア式、そしてイオニア式の三つの様式がありますね。
そしてこの横に、ビザンチン時代の教会堂があるのです。これはなぜか?ということですか、当時、異教の宮が教会堂に変えていくことはよくありました。ハギア・ソフィアにも、エペソのアルテミス神殿の柱が使われていましたね。また、宣教師たちがここにアルテミスを礼拝する異教徒たちに宣教していた可能性もあります。
そして、この神殿跡と、リュディア王国のアクロポリスのドローン映像もあります。アクロポリスが、いかに難攻不落だったのかがよく分りますね。
イズミールへ
(2018年の旅)
数多くの遺跡を見ました、ヒエラポリスから始まり、ラオディキア、次はフィラデルフィア、そしてサルディスです。私たちは、イズミールのホテルで二泊することになります。聖書時代のスミルナです。西へ92㌔です。
サルディスからMövenpick Hotel Izmirへ(グーグル地図)
ディレクさんが、イズミール市内に入って、スミルナについての説明をしています。
聖ポリュカルポスの説明をしています。使徒教父の中でも、プリュカルポスは使徒ヨハネに直接あった人として、本当に最初の人です。2018年の旅では、彼を記念したカトリックの教会を訪問しました。そして、エーゲ海を見て、反対側には丘がありますが、かつてそこにスミルナの町が建てられていました。現代の町イズミールは、400万人の、トルコの第三の都市です。トルコにおいては、開かれた都市です。少数派ですが、キリスト教会がわずかにあり、七つの教会の中では、この教会だけが今も生き残っています。
ホテルは、2018年の旅でも泊まったモーベンピック・ホテル・イズミールです。イズミールの第一印象は、このホテルとその周辺を歩いたことで私たち二人には決定的なものになりました。ディレクさんの言われているように、とても開放的で、気分が落ち着きました。