2018年トルコ・ギリシア旅行記 4月19日 その1

1.コリントス地峡(イストモス)
2.古代コリントス遺跡
3.ケンクレア
4.市内観光
5.アテネ国際空港へ

(3.から5.は、「その2」へ)

 私たちにとって、この日が最後の日程となります。というのは、アテネからトルコ航空で出発する便がこの日の夜に出るからです。けれども、長い一日になりました。

1.コリントス地峡(イストモス)

ホテルから、コリントス運河まで(グーグル地図

 午前は、コリントへの旅行となります。アテネの中心にあるホテルから一時間ちょっと西に行きますと、エーゲ海のサロニコス湾と、アドリア海のコリントス湾に挟まれたイストモスというところに着きます。これは後に、英語で「地峡(isthumus)」という一般名詞になるほどであり、コリントの町が栄えた最も大きな理由になります。

 ぜひ、このグーグル地図を眺めてください。コリントス運河に向かっている地図を縮小したものです。ギリシャは主に、北の欧州大陸の部分と、南のペロソネソス半島によって成り立っています。ペロソネソス半島は島のようになっていますが、実はわずかにつながっており、それがこの地峡であり、わずか6㌔しかありません。当時は、イタリアにあるローマが帝国の首都であり、ローマと東方をつなぐ貿易は死活的なものですが、そこで、エーゲ海とアドリア海をつなぐ、この地峡は非常に重要なものになりました。もしこの地峡を通らなければ、船はペロポネソス半島を約400㌔迂回せねばならず、かつ航行は特に冬は海が荒れるため危険でした。そこで、6㌔という地続きになっているのですが、陸揚げして台車や小船で運搬したほうが、ずっと効率が良いのです。その時に、水夫などは自分の運んでいる荷物が向こう岸に到着するには時間がかかるため、コリントの町で過ごすことになります。そこでお金を落とすのです。そうやって、コリントには莫大な富が集まるようになりました。

 「コリント教会の問題」というサイトがありますが、ぜひこちらをお薦めします。そこに、ローマ時代の陸海交通図がありますし、コリント周辺の地図もあります。コリント周辺の地図を見ますと、右上にコリント運河があるのがわかります。運河の上、北にはコリントス湾があり、南、下には、サロニコス湾があります。そして、運河のところに線路のような線がありますが、「ディオルコス」と書いてありますね。これが、その舗装路で、陸上で舟を移動できるものでした。ウィキペディアによると、喜劇作家が、「コリント人くらい早い」という言葉を言ったそうで、迅速性に定評があったそうです。

 ローマ時代に、ここを運河にする試みがなされましたが、結局、その工事は中断してしまいました。けれども、ギリシャが19世紀に12年間の工事を経て完成しました。それが今、見る、コリントス運河です。こちらに上空からの写真があるので、これで位置関係が良く分かると思います。

 コリントス運河に近づくと、それぞれの湾が見えてきます。一度、バスから降りて、運河を見ましたが、ちょうど船がその間を通過してました。

 見ての通り、非常に幅が狭いです。25㍍ほどしかないようです。そして橋から水面までが50㍍以上あります。(この運河について、建築の専門家の方の詳しい説明がこちらにあります。)

 そして、ここイストモスでは、「イストミア大祭」が古代に行われていたようです。開催は2年に一度、古代オリンピックの前後の年に行われていました。今でこそオリンピックが有名になっていますが、当時はオリンピックと同じぐらい盛大に行われていたそうです。


 上の写真は、イストミアの遺跡にある、イストミア大祭での競走のスタート地点です。木の棒が選手の前にあって、それが紐で引かれて落ちて走り出します。ここには、選手たちが、規定に従って競技することを誓う宣誓の台も残っており、パウロがこの大祭のことを思いながら、以下の言葉を言ったと言われています。「Ⅰコリ9章24 競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。27 むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。

2.古代コリントス遺跡

 コリントス運河から、古代コリントス遺跡(グーグル地図

 ついに、古代コリントスの遺跡に到着です。近づくにつれて、コリントスの町の前にそびえる「アクロコリントス」が見えます。遺跡の入口に入ると、アポロン神殿が見えますが、その前でジェイさんがコリント訪問にさいして、コリント人への手紙第一と第二をぜひ読んでみてくださいとすすめます。

 そしてパウロがコリントを訪問した使徒の働き18章1-11節を読みました。イエス様が夜に幻で現れましたが、パウロが思い悩んでいたからに他なりません。御言葉を語る勇気もありませんでしたが、主は励まし、語り続けなさい、黙っていてはならない。わたしがともにいる。この町には、わたしの民が大勢いる、と言われたのです。

 まず、コリントの歴史をご紹介します。紀元前三世紀にアカイア同盟を結束してローマに反抗しましたが、前146年、将軍ムンミウス率いるローマ軍に破壊されて廃墟となってしまいました。しかし、前44年、ユリウス・カイサルが再興、彼は暗殺されますが、その後、ローマの植民都市として急速に繁栄します。前27年に、アウグストュスが、ローマのアカイア属州の首府とします。それで、経済のみならず政治の中心地にもなりました。ギリシア人、ローマ市民が住み、またユダヤ人なども移住して、人口60万人を数えたと言われます。(デーナさんによる解説

 ジェイさんが言われるように、コリントの遺跡や歴史を知れば、コリント人への手紙の背景が鮮やかに分かります。先に紹介した、「コリント教会の問題」もありますし、以下の牧師さんの紹介はとても分かりやすい、勉強になりました。


 遺跡の前(北側)には、アクロコリントスがそびえているのですが、他の多くの古代の要塞がそうであるように、コリントスの町もアクロポリスがありました。私たちがサルディスやペルガモンの町を訪問した時に、それを見ましたね。戦争やその他の難があれば、街の人々がここに登ってきて避難することができます。それと同時に、数々の偶像の宮があり参拝の中心地にもなっています。


 ここに登る時間はなかったのですが、上の動画または、こちらのブログ記事を見ますと詳しい様子を眺められます。三つの門がありますが、そうやって敵から自分たちを守っていました。なんと19世紀まで使われいたとのこと。そして、城壁の外に出る秘密の地下道もあり、外界と行き来もできました。そして、頂上の近くにはペイレネの泉と呼ばれる貯水槽があり、5000人の飲料を支えることのできる量があるとのことです。

 そして、頂上にはアフロディテ神殿があります。ここが、コリントスを訪問する人々には代表的な存在でした。なぜなら、ここで神殿娼婦や男娼がおり、淫行にふけることができるからです。1000人もいたという記録があります。そして夜になると、コリントスの町に下り、そこで売春を行い、神殿への収入になっていったのです。これが、コリント人への手紙第一にある淫行の問題、また偶像礼拝の問題なのです。「あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。・・・淫らな行いを避けなさい。(6:16,18)

 古代コリントスの遺跡の地図は以下のとおりです(「地球の歩き方」から)。


 入口のところにはグラウケの泉があり、もっと行くと、先ほどのジェイさんの動画の背景になっていた、ギリシア時代のアポロン神殿があります。イスラエルでも、トルコでも、またギリシアもそうですが、ローマ時代の遺跡が数多くある中で、アテナイのパルテノン神殿や、アゴラの神殿がそうであったように、ギリシア時代のものも遺っています。このアポロン神殿はその中でも最古のもので、前550年頃に建てられたものです。ドーリア式の柱が特徴で、一つの石で作られてます。現在は7本残っていますが、当時は38本ありました。



 そして少し歩くと、かなり大きな広場が目の前に広がります(写真)。これがアゴラです。そして、その左側(南側)の写真には、屋根が残っている商店の跡(右上)があります(左上がアポロン神殿)。


 こういったところで、パウロは天幕作りをしていたのかもしれません。「 使18:2-3 そこで、ポントス生まれでアキラという名のユダヤ人と、彼の妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたので、最近イタリアから来ていたのである。パウロは二人のところに行き、自分も同業者であったので、その家に住んで一緒に仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。

 それと同時に、こういった市場で偶像の宮に献げられた肉が売られていました。それを自由の名の下で食べている者たちがいましたが、パウロは、信仰の弱い人々のために食べないと言いました(Ⅰコリント8章)。そして、市場で売られている肉については、良心の問題を問うことをせず食べなさいとも勧めています(10:25)。性的淫行だけでなく、このような食生活にも異教が深く関わっていただけに、パウロは、それぞれの状況に応じて、信仰による対応を指導したんですね。

 そして、アゴラの右奥(北西)には、石で造られた台があります。それが、ビーマです。これまで、ピリピの町などで見ましたね。アゴラに隣接して、そこで裁判官が判決を下すところであります。こちらの案内図に復元がありました、ビーマと商店街です。


 ここで、ジェイさんが熱く語りました。「キリストの御座(ビーマ)」についてです。

 「使18:12-17 ところが、ガリオがアカイアの地方総督であったとき、ユダヤ人たちは一斉にパウロに反抗して立ち上がり、彼を法廷に引いて行って、13 「この人は、律法に反するやり方で神を拝むよう、人々をそそのかしています」と言った。14 パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人の諸君。不正な行為や悪質な犯罪のことであれば、私は当然あなたがたの訴えを取り上げるが、15 ことばや名称やあなたがたの律法に関する問題であれば、自分たちで解決するがよい。私はそのようなことの裁判官になりたくはない。」16 そうして彼らを法廷から追い出した。17そこで皆は会堂司ソステネを捕らえ、法廷の前で打ちたたいた。ガリオは、そのようなことは少しも気にしなかった。

 ガリオが彼らを追い出した、というその法廷は、まさにここです。会堂司ソステネが打ち叩かれましたが、パウロたちがピリピで打ち叩かれたのと同じようだったのかもしれません。ピリピとは状況は逆で、ローマの地方総督は宗教には関わらなかったのです。(ちなみに、ガリオはコリントス湾の北ニアルデルフィ遺跡から、ガリオがアカイア地方総督であった任期を記した碑文が出土していて、51-52年でした。この正確な年代によって前後の出来事がいつであったのかを推測でき、使徒の働きにおける年代測定も可能になりました。)

 そして、コリント第二5章です。「5:8-11 私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。9 そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。11 そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかしそれが、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。」コリントの人たちは、この座(ビーマ)はよく知っていました。イエス様も、ピラトの座ったビーマで十字架刑に処せられました。

 キリストのビーマは、天国と地獄の分かれ目ではありません。信者たちが、イエス様の前で裁かれます。それは畏れ多きことで、パウロは、御前で自分のしたことが取り除かれるようなことをしたくないという、神への恐れがあったのです。イエス様は弟子たちに、「実が残るように」と言われました。年中、実が結ばれているぶどうの木のように、神ご自身がその実を楽しむようなものです。コリント第一でパウロは、御座の前で火で試されることを語りました(3:10-15)。タラントの喩えでは、主人がしもべたちに投資を任せましたが、倍にした者たちには「良い忠実なしもべだ」と喜び、地に隠していたしもべには主人は怒りました。各人に、御霊の賜物を与えておられ、自分のためではなく、他者を祝福のために用いるように命じられています。

 あなたの忍耐に対して、信仰の競走を全うすることに対して、主は報いられます。テルモピュレの戦いでも、耐え忍ぶこと尊ばれていますね。イエス様は、「天における報いは大きい。迫害される時は幸いだ。」と言われました。そして、報いは忠実に対して与えられます。時に疑いも出て来るでしょう、でも最後まで信じるのです。パリサイ人や律法学者は、人に見せるために善行をしていたので、報いがありませんでした。

 ピリピ3章12-14節「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」映画ベン・ハーで、彼が戦車の競走で勝利し、ローマ総督ピラトのところに階段を上がり、彼からユーカリの冠を置きます、ベン・ハーは頭を垂れます。これが、「上に召してくださるという、その賞」であります!

 このビーマに上がったりして、その後、正面にある、プロピュライア(前門跡)のほうに行きます。ここが主要な、古代コリントスのアゴラへの入口になります。デーナさんがここで解説をします。


 横に、ピレーネの泉があります。そして、この門の先はレカイオン通りで、レカイオン港につながっています。コリントスは、レカイオン港とケンクレア港の間にあり、レカイオン港が西のコリントス湾に面しています。そして通り沿いには商店が並んでいます。そして先ほど見た、屋根の残っている商店の跡があり、伝説ではそこが、アキラとプリスキラの家とお店だったのではないかということです。(古代コリントスの遺跡について、再現した絵と共に解説している動画があったので、どうぞ。レカイオン通りも相当、華やかなものだったのが分かります。)

 そして、このプロピュライア、柱廊玄関の辺りから、「ヘブル人の会堂」という文字の刻まれた石が、メノラーの石と共にが発見されていて、それは、会堂入口のまぐさ石だそうです。それが、「古代コリントス博物館」に展示されているそうです。つまり、ここら辺にシナゴーグがあったと考えられます。「使18:4-8 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人を説得しようとした。シラスとテモテがマケドニアから下って来ると、パウロはみことばを語ることに専念し、イエスがキリストであることをユダヤ人たちに証しした。しかし、彼らが反抗して口汚くののしったので、パウロは衣のちりを振り払って言った。「あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のところに行く。」そして、そこを去って、ティティオ・ユストという名の、神を敬う人の家に行った。その家は会堂の隣にあった。会堂司クリスポは、家族全員とともに主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。」この出来事は、このあたりで起こったと考えられますね。

 少しだけ自由時間が与えられ、足早に、できるかぎり遺跡を見ていきました。南東にある、ユリウスのバシリカのほうにいきましたが、そこは幼稚園に隣接しているようで、現地の子たちが手を振ってくれました(動画)。そして、ビーマに上がってそこからアゴラなどを撮影しました。


 先に、北のレカイオン港に向かうレカイオン通りを見ましたが、南のほうにはケンクレア港に向かう道があるはずです。私は見つけられませんでしたが、こちらのブログ記事に掲載されていました(ケンクレアイへの道)。オクタヴィア神殿もよく残されたローマの遺跡ですが、考古学発物館の裏(南西)にありますが、見損ねました・・・商店街の様子を改めて撮影しました(動画)。初めに南側、それから北側、そして入ってきたところに戻ります。

 これで終わりではありません!道路を挟むと、北にはまだまだ遺跡があります!柵で囲まれている遺跡は中心部のごく一部で、当時の町は広大に広がっていました。道路を挟んで初めに出て来るのが、音楽堂(オディオン)です。そしてさらに向こうに古代劇場があります。そして、その奥にある地面にある石の板を見ました、碑文です。

 パウロは、コリントでローマ人への手紙を書きましたが、「市の会計係エラストも兄弟クアルトもよろしくと言っています。(16:23)」とあります。この碑文の「エラスト」が同一人物である可能性が大なのです!彼はおそらく、劇場の出資に貢献した人として名が残されたと思われます。こういった聖書の箇所の歴史性が証明されています、すごいです!

 ところで、これより先に行くと医学の神アスクレピオンの神殿があります。そこで発掘されたものが考古学博物館に展示されていますが、なんと、自分の痛んでいる身体の部分を象り造ったものを奉納することを行なっていたようです。先の牧師さんの動画の説明によると、コリント第一12章のキリストの体と各部分の説明は、コリントの人たちにとって、あまりにもありふれた分かりやすい説明だったのこと!

 最後に、このコリントの町を復元したCG動画がありますので、ぜひご覧ください。

 レカイオン港からレカイオン通りにつながるコリントの城壁を見せ、北にはアクロコリントスがそびえています。それから、東周りに城内を見せ、中央部分、アゴラを見せています。音楽堂や劇場も見えていますね。それから、レカイオン通りをアップしてアゴラに入る映像を見せています、プロピュライアを入ると、そこはアゴラ、真ん中に像が立っていますね。ビーマもあります。そして、劇場の北には競技場もあったようです。後半から、アクロコリントスから見下げる町を概観し、そして北へと移り、コリントス港へ向かっています。相当大きい町であることがよく分かります、人口60万を有しているのですから巨大です。