イスラエル・ヨルダン旅行記 6月10-11日 - ヨルダン・イスラエル出国

1.アカバ
2.ネゲブとシェフェラ
3.猛スピードの帰国準備



アカバ

 次の日、ライアンと私は朝早く、ホテルを発ちました。私の当初の目的は、「とにかく紅海を見る」でした。私にとって、99年の初めの旅で訪れたエイラット、そして08年で訪れたエジプトのターバとエイラットが間近にあります。そして、ターバ・エイラット国境で見た紅海の美しさはいつまでも忘れられません。残りのアカバでの三時間ぐらいを、紅海を見て過ごしたほうがいい、とライアンに勧めました。

 ところが、結局のところ、二つのアカバの名所旧跡を見る恵みにあずかりました。一つは、イスラム時代のアカバの遺跡である「アイラ遺跡」と、もう一つは、現代ヨルダン王国を造った「アカバの戦い」において有名な「アカバ要塞」です。

 右の地図をご覧ください(「地球の歩き方 ヨルダン・シリア・レバノン編」より)。紅海はもちろん、シナイ半島によって左右に別れ、西側はエジプトのスエズ湾、そして東側がアカバ湾と呼ばれます。このアカバ湾の最北の先端に、東からエジプト、イスラエル、ヨルダン、そしてサウジアラビアが所狭しと寄り集まっています。エジプトとサウジアラビアは海岸がたくさんありますから、ここまで迫ってこなくてもよさそうなものですが、イスラエルとヨルダンにとってはこの港町が、国の生き残りに必要です。特にヨルダンにとっては、ここだけが唯一の接している海であり死活的です。

 次の、東京大学関連の研究所の人が書いたブログが上の歴史名所を簡単に説明しているので、ぜひ読んでみてください。そこに面白い一言があるのですが、こう書いてあります。「しかたがないのでアカバ湾クルーズの船に乗り、海上からイスラエルを眺めることにする。エジプト、ヨルダンに比べて格段に生活が豊かなことが、夜景の美しさから見て取れる(「電気」の量が段違いなのである……)。」

 私はエイラットを二度訪れているので、ターバとエイラット、そしてアカバとエイラットを比べることができます。生活の豊かさからすれば断然イスラエルです。それでも発展国として見れば、今回の旅行でヨルダンに好印象を持ちました。もちろん、道ではビニールの袋が飛んでくるは、誰の土地か分からないのに適当に畑にして耕すは、食堂で出てくる食事の衛生度を気をつけていなければいけないなど、いろいろあります。「あれだけ『イスラエルが我々の土地を奪った』と叫ぶアラブ人、あるいはイスラム教徒は、アッラーが与えた(?)土地をどれだけ大切にしているのか?」という問いもできます。けれども、それでもエジプトに比べればヨルダンはやや豊かで、穏やかでした。(ちなみにエジプトのターバは、ホテルが立ち並んでいるリゾート開発区です。)

 こんなことをライアンと一緒に歩きながら、話しました。彼はアメリカ人で、先進国以外の国を見るのは初めてなので、ごみを拾うために雇われた人の姿を見て、「初めから捨てなければいいのに・・・。」と話していました。発展国で、人々の意識が経済に追いついていないというのは他の国でも同じです。

 私たちのホテルは、上部のロータリーの左にある通りにあります。そこからどうやって海辺に行けばいいか悩みながら、とにかくなるべく直線で行こうとしているうちに、何か遺跡らしきものが出てきました。そうです、「イーラ(あるいはアイラ)遺跡」でした。これが聖書時代後のイスラム支配時のアカバの町であったところです。

「エツヨン・ゲベル」と「エラテ」

 アイラ遺跡を話す前に、聖書時代のこの町について話したいと思います。聖書には二つの名前「エツヨン・ゲベル」と「エラテ」が出てきます。「それで私たちは、セイルに住むエサウの子孫である私たちの同族から離れ、アラバへの道から離れ、エラテからも、またエツヨン・ゲベルからも離れて進んで行った。そして、私たちはモアブの荒野への道を進んで行った。(申命記2:8)」これはモーセが、モアブの草原で、荒野の旅程を回想しているところですが、「エラテ」と「エツヨン・ゲベル」が異なる場所であることは確かですが、非常に近いところにあったことも事実です。

 そして周囲の国々を影響下においたソロモン時代において、ここを港町にしています。「それから、ソロモンはエドムの地の海岸にあるエツヨン・ゲベルとエラテへ行った。フラムはそのしもべたちを通して、何隻かの船と海に詳しいしもべたちを彼のもとに送り届けた。彼らはソロモンのしもべたちといっしょにオフィルへ行き、そこから、金四百五十タラントを取って、これをソロモン王のもとに持って来た。(2歴代誌8:17-18)」その後、この町はエドム人の手に落ちたようです。ユダの王ヨシャパテが、この金を再び得ようとして船団を作りましたが、船がこの港辺りで難破しています(1列王22:47-48)。けれども、ウジヤ王がここを再建してユダに復帰させています(2列王14:22、2歴代26:2)。ウジヤの孫アハズが王の時、シリヤの王レツィンがここをユダから取り、その後エドム人が住み着きました(2列王16:6)。ここまでが聖書の記述です。

 この遺跡がどこにあるか、いろいろな議論があります。「エラテ」は、おそらくイスラエルとヨルダンの国境の上、中立区域にあるケレイフェ(Keleifeh)という丘状遺跡にあるだろうと言われています。そして「エツヨン・ゲベル」は、アカバ側のいくつかの地点が候補として挙げられています。こちらのリンクを開いてください、地図上で確認できます。

アイラ遺跡

 そしてこの町はローマ時代、軍が駐屯していましたが、メッカでイスラム教が始まってからは、サウジアラビアにあるメッカと、アフリカ、地中海、シリアのダマスコなどを結ぶ巡礼者らの中継地となり、非常に重要になりました。7-10世紀が最盛期です。この遺跡には、住居やモスクが発見されています。(右写真はアイラ遺跡)

公共ビーチへ

 ここから公共ビーチへ行こうとしましたが、遺跡の周囲は柵で囲まれており、また入ってきた所に戻りました。そして少し南に歩いて、ようやくビーチにたどり着くことができました。私は地球の歩き方で、「外国人女性が水着姿で現われようものなら、痛いくらいの視線を浴びることだろう。(99頁)」と書いてあったので、だいたいの想像はついていました。エイラットでは、目のやり場に困るぐらいのビキニ姿の女性がわんさといますが、ヨルダンはさすがイスラムの国、女性は泳いでいないだろうと想像していました。案の定、左の写真のように海岸に来て「泳ぐ」のではなく、「憩う」と言ったほうがいいですね。外国人用のプライベートビーチは、サウジアラビアの国境近くに行かないとないようです。

 そしてこの写真の奥には、エイラットの町が見えます。写真の中に見える桟橋からこの辺りの映像を撮りました。写真をクリックしてください、始まります。

 ここでライアンが、「そういえば、イスラエルの宣教師さんが、アカバの名所はヨルダンの大きな国旗のところにあると言っていたが。」ということでした。確かに、地図で見るとこの公共ビーチをさらに南に下るとあるようです。

アカバ要塞

 相当、目に節穴が出来ていたのでしょう、もうずっと前から、とてつもなく大きいヨルダンの国旗が正面に揺らいでいたではありませんか!歩き進むと、そこは、私の大好きな映画「アラビアのロレンス」に出てくる、まさに一場面そのものでした。「アカバ要塞」です。

 先ほどのアカバの歴史の続きですが、この町も他のイスラエル・ヨルダンの地域と同じ歴史を辿っており、イスラムの支配の後に、十字軍が攻めてきています。1116年ボードワン一世が、40人の騎士をもってこの町を制圧しました。そして要塞を建てたのがここで、後にマムルクがそれを使って立て直して今の城砦があります。

 十字軍は、ここを占拠することにより、イスラム教徒のメッカからカイロへの道、またダマスコへの道を分断することができました。巡礼者らに通行税を貸す課すことができました。けれども、1170年にサラディンが奪還します。

 そしてエジプトのイスラム勢力であるマムルクのスルタン(国主)ナサルが1320年に城砦を建て、1505年に別のスルタンが改築しています。

 オスマン・トルコの時代は、ほとんど廃墟となっていました。けれども、ここを有名にしたのは、オスマン・トルコ軍に対して反旗を翻したアラブ人の叛乱です。時は第一次世界大戦、トルコはドイツ帝国と同盟を結び、中東戦に参加していました。トルコの支配に嫌気が差していたアラブ人は、ドイツと戦う英国と連合しました。そこで出てきたのが、ちょっと風変わりな。博学で孤高の人ロレンスでした。彼の説得により、アラブ軍は英国の対トルコ戦に参戦するのです。

 英国にとって、カイロに拠点を置いていたエジプト軍がパレスチナ地方を攻略する際、アカバをトルコ軍が占拠しているのは、側面攻撃を受ける恐れがありました。それでロレンスが、内陸の砂漠からの攻撃を考え、ベドウィン族と共同作戦を練り、あの映画にあるような攻撃を起こったのです(事実は多少異なるそうです)。

 このアラブ反乱を率いたのが、イシュマエルの末裔またモハメッドの末裔でもある、ハシミテ家で、メッカの太守フサイン・イブン・アリーです。この反乱の結果、当初の目的であったシリアからヨルダンまでの統一王国は達成できませんでしたが(シリアがフランスの委任統治下に入ったため)、その息子のアブドラ一世が、英国によりトランスヨルダンを譲り受けました(英国委任統治領として1920年から、完全独立が1946年5月25日)。

 私は、映画の中で、この城塞で略奪品を捜すベドウィンのアウダ・イブ・ターイーの姿が目に浮かんできました。

 ここは、考古学博物館の役目も果たしています。この地域で発掘された出土品が展示されていました。

 そして、ここでイスラエルの宣教師さんがいました!独りでここに来たみたいです。三人でここを見て廻って、それからホテルに戻りました。

 道が分からないので、私の地球の歩き方の本を見ながら歩きました。なかなか見つかりません。けれども途中で、たくさんピーナッツ店を見ました。ガイドさんがアカバの名品がピーナッツだということで、たくさん買いました。後日食べましたが、香ばしくておいしいです。

 ホテルに無事に戻りました。それから問題が発生しました。パスポートとお金を保管していた金庫が開きません!ここではイスラエルではなくヨルダンだから、こういうことも起こるかもしれないと思って、昨日、何度かちゃんと機能するか試して、その時は大丈夫だったのですが。一階ではデボーションの時間が始まっています。ロンとライアンは祈りながら、下に降りていきました。修理の人に来てもらいましたが、彼もかなりてこずっていました。けれども私がちょっと目を離した瞬間に、開きました!三人は後で主に感謝の祈りを捧げました。

 けれども、本当の信仰の試練はじわじわと徐々にやって来ます。11時にバスが出発です。ここまでは良いのですが、なんとヨルダン側でお昼と取るというのです。「なぜ、すぐにイスラエルに越境しないのか?」という疑問が頭をもたげました。越境は手続きに時間がかかるはずだし、エイラットからエルサレムまでは優に五時間はかかります。それに、せっかくネゲブ砂漠を縦断するのです。アーノルドの解説も入れて、各地の説明も聞きたいと思っていました。けれども、これが団体旅行の宿命でしょうか、ヨルダンの旅行社の立てる計画については団長のアーノルド自身もとやかく言えないようです。なるべくヨルダン側でお金を落としてほしいみたいです。

 バスは、まずサウジアラビアの国境近くまで南下しました。プライベートビーチのある地域まで行き、その途中で貿易港も見ました。それからお店で食事です。仲間も少しずつ気づいてきました。「ヨルダン側で時間を使いすぎだ」と。まあ、食事の時は楽しく写真を撮り合っていましたが。
  

 そして、「ワディ・アラバ国境」に向かいます。ここがイスラエルとヨルダンの最南端の国境検問所です。ここでガイドさんとお別れです。

.ネゲブとシェフェラ

 ワディ・アラバ国境では、ヨルダン側を越えると、再びイスラエルの雰囲気が漂ってきました。冷房設備も整っているし、そして何よりもイスラエルの国旗と、若い女性の検査官たちが待っています。イスラエルの宣教師さんは、「霊的にも、ただ国境を越えるだけで変わってしまう。早くイスラエル側に動きたい。」とこぼしていましたが、私も同感でした。もうヨルダンは十分です、という気持ちが出てきました。けれども、やはり08年にエジプトからイスラエルに入る時、そしてイスラエルからエジプトに戻って、カイロから出国した時のあの圧迫されたような雰囲気よりは、緩やかでした。

 ところで、この国境検問所は、故ラビン首相と故フセイン国王が、イスラエル・ヨルダン平和条約を結んだ後に、新たに開いた国境入出口みたいで、たくさんその時の写真が飾ってありました。

 このときで既に2時過ぎです。イスラエル側の観光バスに乗り、バスは徐々にスピードを上げていきました。

ネゲブ砂漠縦断

 私はネゲブ砂漠が大好きで、三回のイスラエル旅行で全て訪れています。湿度の高い日本に生まれ育った者としては、砂漠そのものに新奇なものを感じるのかもしれません。アラビアのロレンスも、映画の中で砂漠の魅力を「清潔だから」と答えていました。何もなく荒涼としている分、人や動物による汚染がありません。けれども、どのイスラエル旅行の時も、包括的な学びをすることができていないのが残念です。砂漠と言えどもその地形の多様さには驚くばかりで、必ず秩序や体系があるはずです。今回も、猛スピードのバスの中だけれども、じっくりと外を眺め、地図と照らし合わせながら、数多くの写真と映像を撮りました。

 
 (ネゲブからアラバ方面を撮った写真)


 「ネゲブ」とは「乾いている」という意味で、聖書の中にも数多く出てくる地名です。イスラエル全土をしばしば「ダンからベエル・シェバまで」と聖書は読んでいますが、ベエル・シェバの町からシナイ半島までの地域をネゲブと呼びます。現代のイスラエル国では、13万平方キロメートルの面積を持ち、全国土の55%を占めていますが、人口は10%しか住んでいません。

 ベエル・シェバから南に行くと極端に降水量が減ります。ベエル・シェバでは年間良い年で350ミリ降りますが、その南は20ミリしか降りません。そして地中海沿岸から離れているゆえに湿気の伴う空気も来る事がなく、極端に乾燥しています。西ネゲブは、埃っぽい平坦な砂地になっていて、その平地にワジ(涸れ川)が刻み込まれているそうです。東ネゲブは山地になっています。岩石の種類は、火打石、石灰岩、白亜、苦灰石、そして花崗岩です。そしてさらに東に行くと、6月8日の旅で説明したように「アラバ」になります。

 聖書の中では、まずアブラハムがここを何度も行き来し(創世12:9,31:1)、また滞在もしています(20:1)。そして、イシュマエルが母ハガルによってこの地域に連れて来られ、住み着いています(創世21:14,21)。そしてイサクもここに滞在しました(24:62)。

 そしてモーセの率いるイスラエルの民は、荒野の旅でネゲブまで来ています(民数10:12,12:16,13:3,26)。12人を偵察に遣わしたのもここからです(13:17,22,29)。彼がネボ山のピスガの頂で、主が示された約束の地にネゲブが含まれています(申命記34:3)。ヨシュアがこの地を占領し(ヨシュア11:16)、ユダ族が取り(士師1:9)、ユダ族とシメオン族が定住しました(1:16)。ダビデがサウルから逃げて、ペリシテ人の所に隠れたとき、「ツィケラグ」というネゲブの町に拠点を置いています(1サムエル27:6)。そして王アキシュに対しては、ユダのネゲブの町々を襲っていると偽っていました(10節)。ダビデが王となり、その後年、人口調査を部下に命じましたが、ここも「ユダのネゲブ」として対象となっていました(2サムエル24:7)。

 そして時代は飛んで、預言者エリヤはイゼベルから逃げるために、この地域をひたすら走っています(1列王19:3‐7)。再び時代を飛ばすと、ユダ王アハズの時に主がついに、このユダの地をペリシテ人の手に渡されています(2歴代28:18)。

 詩篇には、「主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。(126:4)」という興味深い御言葉があります。帰還の民を、ネゲブの涸れ川に年に一・二度だけ鉄砲水が流れるように、速やかに一斉に起こしてくださいという祈りです。そして預言書には、数多くの言及があります。エレミヤ書(17:26,32:44,33:13)、エゼキエル書(20:46,47,21:4)、オバデヤ書(1:19)、そしてゼカリヤ書(7:7)です。

 そしてその後、文明も発達しました。ナバテア人、ローマ、そしてビザンチン朝の教会の跡がありますが、何と言ってもナバテア人の町々の遺跡が有名です。ペトラから地中海沿岸のガザにまでいたる「香の道」が走っています。「香」とは、彼らの主要な貿易商品であった香辛料や乳香のことです。

 そして、岩の山地がごろごろしているネゲブの地の真ん中に、三つの巨大な「マクテシュ」という隕石孔のような窪みがあります。世界でイスラエルにしかない珍しいもので、それで科学用語としてもこのヘブル語を使用するそうです。これが何によって出来たのか、後でその一つを通過するときに説明したいと思います。

 そしてネゲブ地方は、長年の間ベドウィンの住む地であり、そしてベン・グリオンの掲げた理想の地であります。独立戦争後の領土交渉において、彼は砂漠だけのネゲブをユダヤ人の地として決して譲らなかったそうです。彼が政治活動を終えた後、ネゲブにあるキブツの一員になり、生涯を終えました。塩分の多いこの岩地に農地を開拓するという彼の夢は、今、車を走らせると突然現れる緑の畑地によって実現しています。その風景は、終わりの日の回復のイスラエルを彷彿させます。「わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、桧も共に植える。(イザヤ41:18-19)

 それでは、バスが走った道を辿っていきましょう。私たちは「ワディ・アラバ国境」を過ぎると、エイラットから死海に走る90号線に乗りました(Google地図)。お馴染みのワディ・アラバです。昨日見てきた、エドムの山を右手に見ながら北上します(左写真、クリックすれば映像が流れます)6月8日の旅行記で説明したように、この岩は太陽の反射によって色彩を変え、朝は薄青色で、夕方にかけてピンク、赤、紫色に変化します。

 そして、左手にティムナ国立公園の入口がありました。ワディ・ラムの知恵の七柱に似ている、「ソロモンの柱」で有名な所です。99年、08年の旅行でそこにある幕屋の模型に行きました。

 そしてしばらくいくと、08年においしいアイスクリームを食べた「ヨテバタ」を通過します。これはモーセの一行が荒野の旅をしたときに通った所です(民数33:33)。写真のような砂漠の中で、ここのキブツはイスラエルで最大量の牛乳を産出しています。

 そして、40番線に左折します(Google地図)。40番線はネゲブの中心部をベエル・シェバまで北上する動脈的な道路です。すぐに急勾配になりました。なぜなら、アラバ渓谷から抜け出しているためです。右写真を押せばここから見るアラバの映像が出ます。そして先に掲載したネゲブからアラバ方面を撮った写真は、ここで撮ったものです。







 しばらく走っていると、軍事基地らしきものが見えてきました。兵舎らしきものとイスラエル兵が歩いているのを撮影することができました(写真を押せば映像も見られます)

 そして、再び90号線に戻る、東西に走る13号線が右に見えました。私たちはもちろん40号線に乗ったまま走っています(Google地図)。







 そして岩の間を通っていると思いきや、突然、視界が一気に広がりました。「ナハル・パラン」と呼ばれる涸れ川です。今私たちは、パランの荒野にいます。ここで有名な話は、成長した13歳のイシュマエルとその母ハガルが、アブラハムの家から追放された後に住み着いた所です。「神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。(創世21:20-21)

 そして、モーセの一行による荒野の旅の一地域です(民数12:16)。ここにあるカデシュ・バルネアから12人の族長を遣わして、約束の地を探索させました(同13:3)。そして後に、ダビデがサウルの手に陥らないよう逃げている時、この地域に来ています(2サムエル25:1)。

 右上の写真をクリックしてください、一気に視野が開ける映像を見ることができます。

 そして、40号線は、平たい涸れ川の部分を走って、しばらくすると勾配が始まりました。そしてまた下り坂になって、大きな涸れ川による平地が始まります。そして正面には、先の勾配よりも遥かに高い、急な崖が右から左へと延々と走っています。40号線は、どんどんこの崖を上っていきました。

 ここが「マクテシュ・ラモン」です。「ラモン渓谷」と訳すこともできますが、英語ではヘブル語のマクテシュを訳した「クレーター」、つまり隕石孔のように訳されています。Google地図にある写真を見ると、その巨大さが実感できるかと思います。急勾配の崖、閉ざされた渓谷、その下にワジ(涸れ川)が流れているのが特徴です。

 マクテシュ・ラモンは長さ40キロ、幅8キロ、深さが500メートルもあります。そしてワジが二つ流れていて、アルドン山など山に囲まれています。地質学上の不思議な現象をたくさん見学できるそうです。アンモナイトの化石もあれば、色とりどりの石が見つかっています。

 これらを用いた「色のついた石の公園」まであります。色ごとに石の砂が積みあがっており、自分自身で綺麗な砂の瓶を作ることができます。

 この広大な光景を写真に収めようにもできませんでしたが、まずWikipediaにある写真をご覧になるのが良いでしょう。そして、バスの中から映像を撮影しました。クリックしてご覧ください。
その1 - 最初の崖)
その2 - 峠を降りた後)
その3 - もう一つの崖が正面に見える)
その4 - 崖に近づく)
 そして右の写真が、崖から撮った渓谷の写真です。

 マクテシュはラモン渓谷の他に代表的なのが二つあります。「マクテシュ・カタン(小さなクレーター)」と「マクテシュ・ガドル(大きなクレーター)」です。

 マクテシュに関する一般の説明は、何億年という長期間の侵食作用によるものである、というものです。こちらに日本語による、ネゲブ訪問のサイトがあります。そこにこの浸食作用の過程が図で説明されています。

 けれども、いつも思うことなのですが、このような極めて特殊な地形を説明する時、長い期間をかけて徐々に形成されたと見る方法と、天変地異的な現象や地形の急変動によるものと見る方法があるということです。私は前者の方法にいつも不自然さを感じます。そして聖書は、しばしば後者の出来事を記録しています。

 マクテシュ・カタン、マクテシュ・ガドル、そしてマクテシュ・ラモンの位置を見ますと、死海の南端から一直線に南西に向かって並んでいます。ちょうどてんぷらの具を熱した油の中に落としたら、油が跳ねて飛び散ったかのような模様になっています。そこで思い出すのが、「ソドムとゴモラ」です。「そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。(創世19:24-26)」もしかしたら、これらマクテシュは死海から飛び散ったものによって出来上がったのではないかと見ることができます。

 そして私たちは、この崖を上りきった所にあるミツペ・ラモン一時停車して、アイス・トイレ休憩を取りました。これが、ホテルに行くまでの唯一の休憩でした。

 そして40号線をさらに北上しますと、有名な箇所が連続して三つ出てきます。「アブダト」「シンの荒野」そして「スデ・ボケル」です。


 上の写真が、「アブダト」遺跡です(Wikipediaから借用)。こちらのリンク先にあるナバテア王国の地図をご覧ください。ペトラ(地図ではRekim)、そしてエイラット(地図ではAila)からそれぞれこの町に、ナバデア人隊商の交易路としてつながっており、さらにこの町から地中海沿岸のガザにまでつながっています。これを「香の道」と呼び、アブダットは、シンの荒野にあるナバテア人の大きな町でした。

 イスラエルには、ナバデア人の町の遺跡がこの他に、ハルザマムシトシヴタなどがありますが、特徴的なのは、ナバテア人の後にローマ、そしてビザンチンが町を再利用していることです。ペトラも同じでしたね。アブダトにも、ローマ、そしてビザンチンの教会の跡があります。先ほど引用した日本語のサイトに写真とともに詳しい説明がありますし、まだNETのサイトにもあります。アブダットの名前の由来は、ナバデア王国の王オボダス三世からのものだそうで、彼は霊廟の中で祭られました。またアレタ四世の名前も見つかった文字の中で見つかっているそうです。

 私たちはここをただ通り過ぎて、バスの中で遠くに見える上の丘を見たただけですが、参照サイトだけ見て印象的だったのは、非常に優れた潅漑施設と、農業を営む技術が備わっていたことです。こんな砂漠なのに水に困らなかったというのは驚きです。このような遺跡を見るたびに思うのは、古代の技術は今の先端技術に匹敵する、いやそれを上回る事が多かったのではないかということです。

 そして私たちは、シンの荒野を通りました(映像その1その2)。聖書の中では、パランの荒野から約束の地を偵察に遣わされた12人が、シンの荒野から偵察したこと(民数13:21)が書いてあります。

 そして38年後、ミリヤムがここで死に(同20:1)、そしてモーセが約束の地に入ることができなくしたメリバの水の事件がここで起こっています(2‐13節)。それから、モーセたちはここから死海の南、そして死海の東側に廻り、北上したい、つまりエドムの地を通ろうとしましたが、エドム人がそれを阻止します(14-21節)。

 このシンの荒野が、イスラエルにとって相続地の南の境界線になります。「あなたがたがカナンの地にはいるとき、あなたがたの相続地となる国、カナンの地の境界は次のとおりである。あなたがたの南側は、エドムに接するツィンの荒野に始まる。南の境界線は、東のほうの塩の海の端に始まる。その境界線は、アクラビムの坂の南から回ってツィンのほうに進み、その終わりはカデシュ・バルネアの南である。(民数34:1-4)

 今のイスラエルはエイラットまであり、またユダ王国が繁栄した時は、要塞として紅海まで影響力を及ぼしていましたが、実際の土地はこの荒野から始まります。事実、リンク先として引用したBibleplaces.comの写真を見ると、涸れ川が深い渓谷となっていることが分かります。自然の境界線としてふさわしい地形です。また、「シンの泉」と呼ばれる、泉も40号線の近くで湧き出ているようです。

 そしてすぐに、「スデ・ボケル(Sde Boker)」が出てきました。涸れ川のすぐ北からキブツが始まっています。ここには、99年のイスラエル旅行の時に訪れましたが、退役軍人によって始められたキブツに、イスラエル初代首相ベングリオンが、政治生活を終えた後、移り住んできた所です。彼はネゲブを好み、ここに花を咲かせる夢を持っていましたが、今、非常に豊かなキブツを見ることができます。(写真をクリック、映像が始まります。)

 99年には、彼の住んでいた家とその隣に展示館があり見学することができましたが、彼の言葉にある夢の力は、イスラエル人ではない私にも非常に感銘を受けるものばかりでした。と同時に、彼の家に残されていた仏教関係の書籍の数々と仏像には驚きました。聖書知識には旺盛であったと同時に、東洋思想にも心を惹かれていたそうです。確か、日本語の書籍も見たと思います。


 そしてすぐに、北東にあるディモナ(ヨシュア15:22)方面に行く204号線との分かれ道が出てきました(Google地図)。そしてさらに北上すると、南東にある「マクテシュ・ガドル」を通過する224号線との分かれ道が出てきました(Google地図)。私たちは、そのまま40号線に乗っています。この辺りは、地図で見ると西方のネゲブは砂地になっており、これまで通ってきたのと岩地と異なっています。

 私たちはネゲブの北端であり、「イスラエルの地」の南端でもある「ベエル・シェバ」に向かっています。これまでの荒涼とした岩地とは異なり、少しずつ緑が見えてきました。そして驚いたのは、この辺りから一時間ぐらいも延々と、ベドウィンの居住地が続いていることです。ユダの荒野の旅で見たのよりはるかに規模が大きいです。(写真をクリック、映像が始まります。)

 イスラエル外務省のサイトとウィキペディアの情報を読みましたが、「時間が止まった空間」に生きているような彼らを、近代国家の市民の中に取り組むことは、相当の苦労があるようです。近代国家は、あくまでも定住という前提で市民の権利を定めていますから、彼らにも他の市民と等しく生活基盤の社会福祉を提供するには、彼らを定住させなければいけません。けれども、アーノルドが説明していましたが、例えば政府が水道も使用できる二階建ての住まいを彼らに提供します。けれども、ベドウィンにその住まいをどう使うのか教育するのを忘れていました。彼らは、自分自身は天幕に住み、家畜をその住まいに住ませて水を与えるようになってしまったのです。
 そして、40号線は、現代のベエル・シェバ市)を右に迂回するような形で走ります(Google地図)。遠くにある中心街に高いビルが立ち並んでいるのが見えますが、郊外である40号線付近には密集したベドウィンの居住区でした(映像)。そしてさらに進むと、右のはるか向こうに、丘状遺跡を認めることができました。そこが、オリジナルの「ベエル・シェバ」の町です。Bibleplaces.comにある上空からの写真をここに貼り付けます。

 べエル・シェバが聖書的にいかに重要な町であるかは、全イスラエルを示す次の表現「ダンからベエル・シェバ」にあります(士師20:1,1サムエル3:20,2サムエル3:10,17:11,24:2,15,1列王4:24‐25,1歴代21:2,2歴代30:5)。引照聖書箇所から、この地域はヨシュアによる相続地の割り当て地が定まってからしばらくしてからの士師時代と、ダビデ・ソロモン統一王朝、そして分裂後はヒゼキヤ時代までの、イスラエルの地を示す重要な範囲であったと考えられます。相続地はベエル・シェバより南のシンの荒野にまで及んでいたのですが、降水量がこの町以南は極端に減るため、実質的な町としてはここが南端だったのでしょう。

 地形的にこの丘状遺跡は、ベエル・シェバ川、ヘブロン川、ベソル川、そしてゲラル川の、四つの涸れ川が集まっているところに位置しています。上空から見ると、ベエル・シェバ川とヘブロン川の川床に挟まれているのが分かります。涸れ川の川床は、イスラエルの地の中心を南北に走る山地を東西に渡るための数少ない道となり、ベエル・シェバも西は「海沿いの道」、東は「王の道」をつなげる間にあり、非常に戦略的な場所にあります。王の道へは、死海の南西にあるもう一つの重要な町「アラデ(民数21:1‐4等)」が中間にあり、ここからエツヨン・ゲベル(エイラット)、またボツラまでつながっており、人の住む行政都市であったと同時に要塞でもあったことが遺跡から分かっています。

 
 (入口にある井戸と柳 Bibleplaces.comより)


 この町の聖書的始まりは、もちろん父祖アブラハムです。アブラハムがゲラルの王アビメレクと平和協定を結ぶ時に、次の行為を取りました。「アブラハムは羊の群れから、七頭の雌の子羊をより分けた。するとアビメレクは、「今あなたがより分けたこの七頭の雌の子羊は、いったいどういうわけですか。」とアブラハムに尋ねた。アブラハムは、「私がこの井戸を掘ったという証拠となるために、七頭の雌の子羊を私の手から受け取ってください。」と答えた。それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。その所で彼らふたりが誓ったからである。(創世21:28-31)」ベエル(井戸)・シェバ(誓い)です。またシェバは「七」からも由来しています。この遺跡の入口、城壁のすぐ外に左のように井戸と柳があります。「アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。(33節)

 イサクはおそらくこの町で生まれました(創世21:1‐4)。この子の乳離れの日に、イシュマエルとハガルがここからパランの荒野に行っています(同14節)。イサクを全焼のいけにえとしてモリヤ山で捧げようとした後、ずっとここに住み着きました(22:19)。そして後年、イサクはペリシテ人が再びアブラハムの井戸を自分のものだと主張して、それでも井戸を掘り続けてついに争いがなくなったとき、このベエル・シェバで主が現れてくださり、彼がここで祭壇を築いています(26:23‐25)。ヤコブも、伯父のラバンのところに旅しに行く時にここが故郷であったことが記録されています(28:10)。そしてヤコブは、ヨセフの招請でエジプトに下る時、父イサクのことを考えてここで祭壇を築いています(46:1)。したがって、信仰の父祖たちが住み、神が現われてくださった町として、ヘブロンに続いて霊的に非常に重要な町です。

 
 (王国時代の民家 二つの城壁の間に家があり、
城塞の役割を果たしていた。Bibleplaces.comより)

 そして、士師の時代以降、先に話したようにイスラエルの南端の町として知られます。サムエルの息子はここで人々をさばいていました(1サムエル8:2)。そしてダビデとソロモンによってイスラエル国の町として建てられました。ダビデはこの町まで人口調査をさせています(2サムエル24:7)。現代の丘状遺跡で見ることのできるものは、この王朝時代のもの、特にヒゼキヤと同時代のものだそうです。

 興味深いことに、エリシャはイザベルから逃げている時、ベエル・シェバまで来て、そこから荒野の旅を始めた時、喉が渇いて自殺願望が出てきました。そして天使に力づけられてシナイ山まで四十日かけて行っています(1列王19:3‐8)。これまで来たネゲブの砂漠を歩いていったのですね。彼はモーセの後追いをするように、かつての荒野の旅程を逆行しました。

 
 Bibleplaces.comより)

 そして特筆すべきは、この町が宗教改革の対象となった町であったことです。「ヨシャパテはエルサレムに住んだ。それから、彼はもう一度ベエル・シェバからエフライムの山地に至る民の中へ出て行き、彼らをその父祖の神、主に立ち返らせた。(2歴代19:4)」ここに偶像や、その宮の跡、また角のついた祭壇も見つかっています。アモスも、ベエル・シェバの偶像を咎めました。「サマリヤの罪過にかけて誓い、『ダンよ。あなたの神は生きている。』と言い、『ベエル・シェバの道は生きている。』と言う者は、倒れて、二度と起き上がれない。(8:14)」そしてこの警告の二年後に、ウジヤの時代に大地震が起こっています。神殿の基盤の跡や、ちょうどその時代の丘状遺跡で破壊されている跡が見つかっていますが、その地震が原因ではないかと考えられます。

 そして、角のついた祭壇の複製(左上写真)がこの遺跡にありますが、これがヒゼキヤの時代のところから、ばらばらになって発見されたそうです。そして、そこには蛇を刻んだ跡も見つかったとか。これは驚くべき、ヒゼキヤによる宗教改革の証拠であります。「彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。(2列王18:1-4)

 以上ですが、私はこの遺跡をヘブロンの次に見たいと思っていた族長の町けれども、三回も見逃している想いの詰まった所です。それで長々と説明しました。

シェフェラへ

 ベエル・シェバの遺跡を、ずっと20分ぐらい眺めることができました。なぜなら、40号線が渋滞になってしまったからです。時間はちょうど夕方で、ベエル・シェバは大きな都市ですからラッシュにはまってしまったのです。まだイスラエル三度目のど素人の私でも、この位のことは予想していました。だから午後2時に国境を越えたのはあまりにも遅すぎたのです。

 ところが、もっとびっくりすることが起こりました。エルサレムへの最短の道路は、ここから60号線に乗ることです(Google地図)。ヘブロン近郊を廻り、そしてベツレヘムの郊外を通過し、そのまま南からエルサレムに入ることができます。ところが、「ヘブロンは危険だから」ということで、何とそのまま、テルアビブ方面へ走る40号線に乗っているのです!私は、5月23日にエルサレムからエゲッド・バスに乗り、きちんと舗装されたイスラエル人用の道路があることを知っているので、「えっ、嘘、あんなに平穏で安全そうだったのに・・・。」という叫びを心の中でしていました。

 でも、じっと我慢の子です。アーノルドは、どんどんテンションが上がって、長時間、連発してブラック・ジョークの話をしています。ここが半分イスラエル人になっているの彼の、度胸が座った姿と呼ぶべきか、私の不信仰と彼の神への深い信頼の違いなのか、よく分かりませんでした。私は続けて、バスからの眺めを楽しむことに決めました。

 40号線は、ベエル・シェバ市を迂回しているので、ちょうど北西を向いて走っている部分があります(Google地図)。それで正面に、ペリシテ人の平野を見ることができました。ちょうどガザ地区からアシュケロンにかけての地域です(映像)。そして北上します。もう既に砂漠の面影は完全になくなっていました。私たちは次第に、5月31日に訪れたシェフェラの地域に入っています。

 そして新しく出来た6号線に乗り換えました(Google地図)。右上写真のように、豊かな牧草地が続いています(クリックすれば映像開始)。そして方向的に、正面に見えるのがヘブロンの町です。

 そして35号線に右折します(Google地図)。ここは既に、5月31日に来た道です。一度通った道ですが、ラキシュを通り過ぎました。夕日に照らされたここの農耕地は実にきれいでした(右写真をクリックすれば映像開始)。私は、そのまま35号線に乗り東に行って、それからヘブロン-ベツレヘム‐エルサレムをつなぐ60号線に行ってくれないか、と思いました。テルアビブとエルサレムを結ぶ1号線は必ず込んでいると見たからです。けれども残念ながら、38号線に左折して北上しました(Google地図)。

 そしてバスは猛スピードで走っています。日本の高速道路での速度より速かったのではないかと思います。パレスチナ人からの安全もさることながら、交通安全はどうなっているのだろう?と頭をかしげつつも、こんくらい速くないと全然間に合わないので理解しました。

 そして1号線に乗りました(Google地図)。アーノルドのブラック・ジョークはますますエスカレートします。そして他の仲間も立ち上がって、歌合戦ならずジョーク合戦を始めマイクを持ち始めました。私にはアーノルドのにも、他の仲間のにも問題を感じました。前者は彼の英語が聞き取れず、後者は・・・面白くありませんでした!

 1号線はものすごく込んでいます。隣車線のアラブ系バスの乗客の顔を、ずっと見ているので覚えてしまったほどです。そしてエルサレムについに入りました。そしたら何と、もっと込んでいます!今日は木曜日の晩、エルサレムが一番にぎやかな時です。思い出してください、イスラエルでは土曜日が休日ですから、すべての人々の動きが私たちのより一日早くなっています。私たちにとっての金曜日の夜が、ここでは木曜日の夜なのです。アーノルドもジョークが尽きてきて、"This is Jerusalem. Question?"と言いました。この旅程で"Question?(質問は?)"という彼の言葉を何度聞いたことでしょうか?私が一番笑ったジョークです。

.猛スピードの帰国準備

 そしてアーノルドが、バス出発前に言っていた、6-7時予定の到着は結局、8時近くになりました。シオン山ホテルに着いたら私は血相を変えて(?)、帰国の準備をしました。1)アーノルドの部屋から預けている自分の荷物を取る、2)夕食を取る、3)シャワーを浴びる、4)荷物を講義室まで運ぶ、これを9時までに終わらせなければいけません。おまけに、ホテルの人が、もうすぐに私たちが出て行かなければいけないのに、途中でホテルの部屋を変えさえるなど、本当に大変でした。

 講義室で、私はアーノルドに「お願いだから、講義をするのではなくすぐに出発させて。」と頭を下げて頼みました。次の日の午前0時半に出発する大韓航空958便に乗るには、通常3時間前の午後9時半にに着かなければいけません。アーノルドは「2時間前でも大丈夫」というのですが、かなり怪しいです。ちょうど成田空港の国際線で一時間前に搭乗手続きをすれば大丈夫と言っているに等しいです。私は、とにかく懇願しました。

 他のアメリカ人の帰国仲間もかばんを降ろしてきました。大勢のオーストラリア人の仲間は、ここで一泊して次の日の早朝、同じバスで空港に向かうそうです。アーノルドと孫娘のシャシャーナは、もっと後でアメリカに戻るそうです。短い時間だけれども、残っている仲間と抱きしめあって別れの挨拶を交わしました。

 アーノルドのワゴン車に七名の仲間が乗りました。荷物が入るか心配でしたが、妻が旅行前、私に「荷物は極力小さくしないと。他のアメリカ人のが絶対大きいから。」と言っていた言葉が、この時ほど生かされた時はありませんでした。本当にぎりぎりで詰め込むことができました。パットは私の旅行かばんを見て、信じられないという顔をしていました。ホテル出発時間は9時10分でした。

 私たちは車内で、互いに慰労しながら楽しく会話しました。乗っているのは、ロン、ライアン、パット、そしてノバックさんとそのご両親です。ようやく混雑したエルサレムを抜け出して、1号線に入りました。この時間にはすでに道路は空いています。アーノルドも、猛スピードで運転してくれました。

 到着したのは10時20分です。次の日午前1時にエル・アル便で発つ彼らと、ここで別れの挨拶をしました。私は大韓航空のカウンターの近くにあるセキュリティーの列に並びました。この時点で、数人しか並んでいませんでした。とにかく、ぎりぎりセーフです。日本人、韓国人、アメリカ人、中国人などいましたが、みな個人客なので、一人ひとり厳しい検査を受けました。

 列に並んでいるとき、検査官が私に、99年の旅を髣髴させる、さまざまな質問をぶつけてきました。「なんでイスラエルに来たのか?」「旅行はなぜしたのか?」「研修(Study)?何の勉強か?」「アーノルドって誰?」・・・私は、前もって、アリエル・ミニストリーからもらった旅程に、さらに自分で飛行機の出発便等を書き加えた用紙を手に持っていました。前々回の旅で得た教訓にしたがって。これをさっと彼女に見せたら、効き目がありました!そして便名を話したとき、行き先を「セオルか?」と聞かれ、非常に不可解でしたが、何のことない"Seoul"でした。「それは『ソウル』と言うの!」と教えてあげたら、「イスラエルではそう呼ぶのよ。」と嘯いていました。(それとも、ヘブル語でそう発音する?)

 検査台は以前と違って、かなりハイテク化されていました。コの字になっている台の中央にコンピューター画面があります。検査官が、液体虫除けのスポンジに似たような、スポンジのついた棒で怪しいと思った物の全てを触っていきます。ちょっと付ければ、どこかを通過するときに判別できるんでしょうね。私はなぜか、アハバの死海クリームが怪しまれました。若いお兄さんが、「これ、イスラエルで購入したのか?」と聞いてきて、「もちろん!・・・ベン・イェフダー通りでだよ。」と答えました。でも、既にどこかに立ち去っています。そして若い女性の検査官が、文字通りかばんにある“全て”をスポンジのついている棒で調べ始めました。洗濯していない自分の下着を調べられた時は、さすがに恥ずかしかったです。他の検査官が、残っている私たちのパスポートを取って、私たちに代わって搭乗手続きを済ませに行きました。いくら検査が厳しくても、そのせいで乗り遅れるようにはさせないみたいです。

 そして、スポンジ棒の検査官にエスコートされて、無事に中に入らせてもらえました。私は途中で、ティベリヤで受け取った支援金のシェケルを銀行で両替しました。細かい日本円の現金がなかったようで、それでドルに交換してもらいました。そして無事、搭乗です。

 ところが、離陸後しばらくしてもう一つの試練を迎えました。急性の胃痛です。頭痛もします。汗も吹き出てきました。ステュワーデスさんに症状を訴えて、薬をいただきました。下痢止めの薬とのこと。少しは和らぎましたが、断続的に痛みが襲います。12時間半という長時間の飛行時間は、痛みをこらえるのと睡眠であっという間に過ぎてしまいました。おそらく、これまでイスラエル・ヨルダン料理をばくばく食べたことと、そして何よりも緊張とストレスが解けて具合悪くなったのでしょう。仁川国際空港でも薬局で薬を買って、二時間後に成田空港行きの便に乗り換えました。そして同じ日の午後11時頃、無事に自宅に到着です。ここまで守ってくださった主に、感謝です。

最後に

 ここまで、膨大な情報量の旅行記に付き合ってくださって、ありがとうございます。今、書き上げたのが11月です。優に五ヶ月かけて完成させることができました。これも神の恵みです。今からすでに、次回のイスラエル旅行を祈り始めています。今度は、興味のある人々を連れていきたいと考えています。急ぐこともなく、遅れすぎることもなく、主の与えられる時宜を見失うことなく出発できるようにしたいです。

 旅行の後の聖書の読み方も、一段と変わりました。アーノルドが強調していた「地形」と「歴史」に、デボーションをする時も、聖書説教の準備をする時も目が留まります。このことも主に感謝です。

 皆さんもぜひ、イスラエル旅行のために祈ってみてください。旅費は高いですが、それだけの価値があります。ヨルダン、そしてエジプト旅行も聖書理解に大いに役に立ちます。おそらく小アジヤ、トルコも役に立つことでしょう。この三国はイスラエルと国交を結んでいるので、同じ旅券を使っても大丈夫です。問題は、他の周辺地域、例えばシリアやレバノンは、イスラエルの出入国印があると入国できません。けれども、そのために日本の旅券法では旅券の二重発給を認めています。私も他のアラブ諸国に行くようなことがあれば検討してみようと思っています。